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目標追求

Q 
 目標追求するということは、車輪の下でくるくる回っているリスのようだと私は思います(ああ、そうかね)。馬鹿げているとわかっているのに、人はなぜそれをやめないのでしょうか?時には目標追求をやめるということをなぜ自由にできないのでしょうか?

A
 不思議なことを考えるな。僕そんなふうに思ったことないけど。ご飯食べたでしょう。食べたエネルギーは目標追求に使われなければ、ただ熱となって発散されるだけじゃないですか。人間のエネルギーなんですよ。エネルギーの使い道なんですよ。
 理屈の話をしよう。一番根本には生物としての生存(自己保存)だとか種族保存だとかいうような目標があって、その目標を達成するには人間の場合には所属しているということがどうしても必要で、所属するということを達成するために、今はABCDとタイプを書いたけど、その中にまた細々として個人個人の目標があると思う。究極的にはわれわれの生命のエネルギーそのものなんです。僕たちが生きているというのは目標追求しているということだし、目標追求しているのは生きているということで、もし目標追求をやめたら体は生きているが心は死ぬと思う。何にもしないんだから。生きていることの良いことも悪いことも何もかも実は目標追求ですから、やめるということはつまり死ぬということですから、死にゃあやめられる。

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アダルトチルドレン

Q
 以前、先生が「AC=アダルトチルドレンは存在しない」とおっしゃった記憶がありますが、ほんとにACは存在しないと思っていらっしゃいますか?AC、機能不全とかについて先生の見解を教えていただきたい。アドラー心理学と関係ありますか?大人の定義をどのように見られていますか?

A
 ACは存在しない。アドラー心理学と関係ない。ある病気・病名というものについて考えないほうがいい。アドラー心理学は、人間が健康に正常に動くことのできない唯一の理由は、大きすぎる劣等感だと思っている。大きすぎる劣等感というのは何かというと、不可能に高い願いを持っているか、必要以上に低い自分の評価か他人の評価を持っているかから起こるはずでしょう。劣等感というのは理想と現実の差ですから、理想が高すぎるか現実が低すぎるかです。ですから不可能に高すぎる自分には絶対にできそうにないことを自分自身に望んでいると、何かずるいことをしたくなるんです。それから自分を十分好きであって能力があると思ってなくて、人は信頼できないとかみんな仲間じゃないと思っていると、やっぱり変なことをするんです。それがありとあらゆる精神疾患の唯一の原因です。そこをそれ以上細かく区別するのは、単に差別のためしか目的はない。あるいは口実づくり。私はこれこれ病なんだからと、あの人はこれこれ病なんだからという口実づくりのためしか目的はない。そんなものに関わっているのは差別主義者で反治療的で、アドラー心理学の研究者の風上にも置けない。
 依存症も関係ないしACも関係ないし、学習障害も関係ないしADHDも関係ないしアスペルガーも関係ない。関係あるのは、子どもたちが必要以上の劣等感を持たないように、子どもたちと接することなんです。現実的な目標、その子の現実に即した目標を立てるように、その現実的な目標に向かって現実的な手段、目標があったって手段がなかったらダメですよ。私は例えば42キロ走るという目標は、私にとって現実的か現実的でないか?現実的であろうと思います。42キロ走れるべし。今すぐ走れるかというとダメよ。1年後に走ると言ったら、体重減らして毎日毎日トレーニングしたらきっと走れると思う。それは多分妄想的じゃないと思う。42キロを2時間半で走れと言ったら非現実的で絶対無理。どんなことをしても無理。ちょっと休憩入れて5時間欲しい。これだと自分にとって現実的だと思う。でも42キロ走れるようになるそのことを目ざして努力するのは悪いことじゃないでしょう。そういう意味でいつも自分に現実的な目標は立てようと思う。私は論文を書くんですけど、年間3つ論文を書こうと思っていて、年間10と言ったらこれは初めからウソ。そんなに書けるはずはない。大昔年間13書いたことがある。あれなんて中身はない。数を増やしているだけ。ほんとに中身のなるものなら、まあ年間3つかな。年間3つって結構めんどくさいんです。ずっと研究しないといけないから。目標立ててもそれに向かって段階的に努力しないといけない。段階的に努力していけば到達できる目標を立てよう。そのとき「僕ってできないから」とか「能力がないから」というのは口実だと知っている。自分が劣等感に負けて、建設的に現実に向かって進歩しないための口実に、「僕ってダメだもん馬鹿だから」とか「みんながわかってくれないから、手伝ってくれないから」と言い訳をしているにすぎないことは、ちょっと冷静に考えたらわかるじゃないですか。要は「私がするかしないかだけでものが決まる」ので、賢いか賢くないかで決まるわけじゃないです。やればやったとこまでできますし、やらなければどんな理由であっても何もできません。コツコツと努力していくしかしょうがない。お釈迦様も亡くなられるときに、「すべてのものは移りゆく。怠らず努めなさい」とおっしゃいましたから、怠らず努めていれば前へは進むでしょう。そう考えると、いわゆる世間の病名分類というのは、さまざま思うところあって、まあいわば政治的にある動きをするために動こうと思って作られています。一番典型的なのが統合失調症で、統合失調症というのは完全に政治的病名だと思う。その人たちをいわゆるキチガイ扱いをして、社会からある種の差別的な待遇をして、例えば本人の意志に反して精神病院に収容してみたり、薬物投与してみたり、就職差別してみたりするときに、まったく正当な社会的口実になるじゃない。前半言いましたけど、統合失調症の人たちはああやって隔離収容されて暮らさなきゃいけないことは全然ない。確かに一時混乱状態があります。精神的に敏感な人たちですから、ある状態になると混乱されて少し錯乱状態になったりして、確かにそのときは彼らを保護するためにその人たちの精神と肉体を保護するために、入院していただかなきゃならないことはあるかもしれないけど、今はお薬もあるし、そこから治れば十分社会内で処遇できる。できるんですけど家族がイヤがるんです。統合失調症の人が1人家にいると、まあ世間体が悪い。妄想のある人が家に住んでいると世間体が悪い。その人に若干手がかかるということもある。あまりかからないですけど、ほんとはね。おとなしく暮らしていらっしゃいますから。ほんとはかからないけどかかる気がするんです。いつ何があるかわからない。パニックになったら困ると思う。で、家族がイヤがるんです。「先生、できるだけ長いこと入院させておいてくさい」と言うわけです。医療経済としては長いこと入院させるのは大いに結構なことで、精神病院としては急性期の患者さんをたくさん抱え込むよりは、慢性期の患者さんをたくさん抱え込むほうが、まあご飯だけ食べていれば機嫌良くいられるわけですから、診察もそんなにいらないし、良心的な精神病院では主治医1人あたり100人くらいの患者さんを持っているし、ちょっと田舎のほうへ行くと、手が足りなくて主治医1人200か300人持っているというのがざらにある。僕昔、鑑定医をやっていて、入院中の患者さんの精神鑑定で遺産相続なんかして財産管理能力があるかどうかで鑑定しないといけない。田舎の精神病院へ行って、「患者さんに会わせてもらえますか?」「はあはあ、どうぞ」。看護師さんが会わせてくれる。「主治医の意見も一応聞きたい」「主治医ねえ…」としみじみおっしゃる。「お会いできませんか?」「うーん…」院長となら」「院長とで結構です。主治医ダメですか?」「主治医ねえ…」。実は主治医はいないんです。主治医は名義だけいるんです。こんなんあまりよそで言ったらいかんのですけど、法律上精神病院の医者に定員があって、病棟数あたり何人かの医者がいる。でも現実にそれだけの医者をまかなえない。経済的な理由だけでなくて、精神科医の人たちそのものが不足しているから、それでお年寄りでもう働けなくなったような先生の免許証をお貸しするんです。僕も年取ったらあれやろうかなと思う。でいくらかの謝礼を月々雇っていることにして支払いをして、その先生はいっぺんも病院へ登院なさらないんです。けれども名義上の主治医なんです。現実には院長先生が全部の面倒を見ているので、院長先生とお会いして、「○○の患者さんのお話を伺いたい」「あああの患者さんねえ…ああ…」「カルテ見せて」「カルテですかあ?カルテねえ…」。カルテを見たら記載がない。ずーっとめくっていったら、ハンコだけ押してある。週に1回回診したかのように。1行何か書いてあったけど、その患者さんは回診されないんです。それはそうです。回診しなくても何も問題ないんです。その患者さんはその病院で普通に暮らされているわけで、お薬は決まったのを飲まれていて、ご飯食べて作業療法して暮らされていて、医者の世話になる必要はない。別に回診しなくてもいい。保険証の監査があるからハンコだけ押してある。看護記録もハンコをポコッと押してあって、所見なし、便通良、睡眠良と○打ってあるだけです。そんな状態の患者さんは山ほどいる。なんでそんな患者さんがいるかというと、家族が引き取らないからです。家族がなんで引き取らないかというと統合失調症だからです。「あそこの娘さん、統合失調症とかで病院入りはったんやて」と近所で噂になっても誰も不思議がらない。「じゃあもう帰ってきはらへんわね。気の毒にねえ」とか言うんです。帰ってきたら、「帰ってきはった。こわいねえ。あんな人退院させてええんやろか」と言って近所中言う。で、患者さんは居心地が悪くなってまた入院する。だから統合失調症という病名はほとんど政治的病名なんです。と同じようにACも学習障害も政治的病名です。統合失調症ほどひどくないけど、ある人たちがあることの口実のために、「自分の責任じゃないよっ」て「私のせいじゃないよ」って、「これは病気のためだよ、あるいは自分の出身家庭のためだよ、父母のおかげだ遺伝のせいだよ」と、何かのせいにするために、責任逃れのために使っているだけです。医者、医学者のほうはもちろんそんなつもりで病名を作ったのではない。診断をきちんとして治療方針を決めるために病名を作ったけど、こと精神医学に関しては残念ながらその病名はいつも政治的理由のために利用されている。だからアドラー心理学としては一切病名に関わらない。この病気はどうだって解説をしない。アドラー心理学との関係はどうだって考えない。だから「統合失調症者に対するカウンセリングは?とか不登校児に対するカウンセリングは?」というそういう考え方自体が間違っている。われわれのカウンセリングというのは、山田太郎さんに対するカウンセリングとか、中村花子さんに対するカウンセリングなんです。個人が私のところへお見えになるんです。その個人が抱えている生活上の問題のカウンセリングするので、統合失調症を治すとか不登校を治すとかが問題じゃない。そこへ目が行っているということ自体がそれはもうアドラー心理学じゃなくなっているということだと思います。
 大人の定義です。大人というのは「責任を持って生きること」です。極めて単純。

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横の関係(3)

 子どもたち1人1人が最低限みんなが学ばなきゃならないミニマムレクワイアメントっていったい何なのかを、ホントにちょっと利害関係を離れて考えたい。子どもたちが本当に学ばなければならないものは?何を振り落とせるのか?それからどんなことを子どもたちに早くから教えてやっていいのか?学びたい子に早くから英才教育をしてあげてもいいじゃないか。中国は今徹底的に英才教育をしている。中国の英才教育の成果は、今や日本のコンピューター業界を完全に喰ってしまいました。日本人はもう中国人のソフトエンジニアには絶対勝てない。「ボク、ソフトウエア好き」と言ったらソフトウエアだけで食えるようにした。中国人はあれは得意で、上海雑技団かなんかで小さいときから曲芸させていた民族ですから、同じようにコンピューターの教育を早くから始めますから、ハタチくらいになったら日本のプラグラマーなんかが足下にも及ばない専門家になっている。国際競争の中で、日本の教養主義というのは完全に立ち遅れている。しかも、本当に才能のある人たちをいっぱい潰している。エヴァリスト・ガロアのという天才数学者がいます。「群論」を書いた人。この子は非行少年で凄い変な子だったみたい。今で言うアスペルガーかな?今の学校にいたら絶対、情緒障害学級かなんかにやられて、「教育委員会へ相談に行きなさい」と言われて、スクールカウンセラーの世話になったタイプの子です。それを中学の先生が、その子が凄い数学が好きなのを見つけたんです。中学の数学の教科書を退屈して全然読まない。それで大学の当時の解析学の教科書を彼にあげて、「自分の授業の間授業を聞かなくていいからそれをやってていい」と言ったんです。それでガロアは大学の解析学の教科書を凄い楽しんで読んでいました。15歳くらいのときに論文を1つ書きました。その論文があんまり高度すぎてよくわからないから、当時の代数学者たちに送ったんです。「こんなのをうちの生徒が書きました」って。フーリエとか当時の代数学者が読んでよくわからなくて、「よーわからんな」と言っていたら、そのうちガロアは女の子をめぐって決闘して、その傷がもとで死んじゃったんです。凄いです。死に方もなかなか非行少年らしくて。死んじゃってしばらくしたら、その「論文」の意味がわかったんです、何を書いてあるか。それはほんとに世紀の大発見でした。数学の一番根本になること、僕らが普通数学と言っているもひとつ向こう側にあること、メタ数学についての世界最初の論文で、抽象代数論の世界最初の論文で、そこから僕たちが凄い世話になっているんですけど、15歳の中学生に。でも、その子が論文を書けて、人類に利益を与えることができたのは、担任の先生がその子に勉強をさせなかったからなんです。当時の中学の必要科目を免除して、「できることをやりなさい。それがあなたが一番この世に役に立つことだから」と、その子にできることをやらせた。やっていること自体は先生は理解できなかった。何か凄いことをやってるなということしかわからなかった。それは今はやりにくいと思う。今は19世紀初めころ、フランス革命のころのフランスほど大らかな社会ではないですから。やりにくい社会のほうが間違っていると思う。子どもの個性をもう1回再評価しないといけないし、全部の子どもに同じことをさせるという考え方をやめないといけないし、進んでいる子は進んでいる子なりに、遅れている子は遅れている子なりに個別にカリキュラムを考えてあげないといけないし、そのために教員がもう1回再トレーニングを受けて、一斉授業で同時進行というやり方から脱却していかないといけない。それがアドラー心理学が謂うところの「横の関係」の大きな意味です。
 「縦の関係」「横の関係」で質問があったけど、質問者がもとの言葉の意味を全然理解してないものだから、言葉の意味の理解に帰ってお話をいたしました。

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横の関係(2)

 もう1つは、その中で1人1人の個性は徹底的に尊重しないといけない。全員が同じことをしたら差別です。不平等です。国語をうんとたくさん勉強したい人は国語をうんとたくさん勉強すればいい。その分だけ他のことはちょっと手を抜きます。それはそれでよろしいやろ。社会的に必要なだけの、その人間がこの世で生きていく上で必要な教養というものがあるだろうと思う。僕は新聞を読めなきゃいけないとはあまり思わない。うち、新聞取ってないので、新聞というものが必修科目だとは思わない。が、テレビのニュースがわかる程度の日本語力があったほうがいい。公用文を会社に勤めたら書かないといけない。「新緑の候となりましたが、皆様ますますお元気のこととお慶び申し上げます…」。それくらいのものを書いたり読んだり理解できる国語力がいるんではないかしら。それくらいできれば、別に芥川龍之介を鑑賞できなくていいです。今の子どもはもはや芥川龍之介を読めません。もちろん夏目漱石も森鴎外も全然一言も歯が立ちません。構わないです。一生、夏目漱石も森鴎外も読まないでも人間やっていけます。夏目漱石も森鴎外も文豪で素敵なことを書きましたが、彼らが持っている問題意識は明治末期~大正初期の問題意識です。あの問題意識を今の子どもたちは持ってないし共有してないですから、わざわざ読まないといけないことはないです。僕、開高健が好きで、開高健の文章を今の子どもたちは絶対読めないです。相当な美文ですからね。でも読めなくていいです。彼はベトナム戦争という時期を僕らの先輩たちと一緒に生きて、ベトナム戦争の中へ凄く奇妙な形で食い込んだ朝日新聞の特派員でしたから、日本人としての立場で物事を書いていました。それは僕たちには問題意識の共有があって読めたけど、今の子どもたちはベトナム戦争も何もわからないし、彼の抱えたさまざまな問題を抱えてないから読まなくていいです。でも現代の小説家たちが現代の問題について書く文章はたぶん読めたほうがいいです。そういうミニマムなことは、文化の伝承として子どもたちに与えてあげたいけど、それ以上のたくさん勉強してもらわなくてもいいと思う。その分、他のことへ回したほうがいいと思いませんか。僕、理科系人間ですから高校3年生のときかに──、ここの角度がrでこの距離がθで、ここの円弧の長さがrθなんです。それじゃあ円の面積はどうなるかというと、ここを△で近似しますと、ここの面積が1/2r×rθですから、1/2r二乗θですね。その△をずーっと一周積み重ねて積分すればいい。0から2πまでrθを積分すれば、2πr二乗ですね。半径の二乗×円周率ですね。──というのを習ったときに、「なんでこれを僕に小学校5,6年生のときに教えてくれへんかったんやろ」って。それまで中学校で四苦八苦しためんどくさい問題たちが全然問題なく全部解けるんです。インチキよ、そんなん。と、理系人間は思う。理系の子たちは、角座標を教えてもらったり積分や微分を教えたもらったとききに、それまで小学校では円の面積は「半径の二乗×円周率・3,14」というのが何の意味もなく子どもたちに教えられたのが凄い苦痛だったんです。「なんでそんなんあんた勝手に言うねん。ほんまに計ったんか」と、「円周率3,14てどうやって計ったんや」と先生に質問したら、先生は「覚えなさい」と言うんです。ところであれどうやった計るか知ってますか?円周率。いろいろあるんですけどね。普通多くの人がやるのは、半径rの円に内接する多角形を作って、それから外接する多角形を作って、これ三角ですからこの長さは簡単に計算できます。計算しておいて多角形の角の数をどんどん増やしていく。で、外側から内側を引いて、辛抱できなくなるくらいに小さくなったところを円周率にします。七万角形とか十六万角形とかいうのを作って、その外接と内接の差がいくらになっているから円周率はこれからこれの間だとわかる。これが一番正確な方法。遊びとしてはもっと面白い方法がある。円を描いてそれの外接四角形を描きます。ここへランダムに点点を打つんです。外へ落ちた点と内へ落ちた点の数を数える。20万個くらい点を打って3,1なんです。無茶苦茶能率が悪い。今のコンピューターは性能が良くなりましたから、3日か4日働かせ続ければ結構良い線が出るのでは?そんなことをして計るしかしょうがないもんで、それを3と言おうが3,14と言おうが、教師には何の根拠もないんだから、そんなんただπと言っておけばいい。数字知らんけど。弧があって弧を一周くるっと回ったら、πrになるし、2πrになるし、そこの面積を測ったらπr二乗になるじゃないですか。これでよろしいやろと僕らは思います、理系は。でも文系の人は思わない。「そんなん許せん」と。「それで何がわかったん?」「それは頭の構造が違うんやからしゃあない」と理系人間が言うのは、とにかくこういうふうにものを考えるように初めからできているわけで、人類の何パーセントとかがなるべくサイン・コサイン・タンジェントとか指数とかで世界が見えるほうがいいと思っているんですよ。世界は全部、微分と積分だと思っているんですよ。高校3年生になってやっと微積を習うんです。大学へ入ってやっと本格的に解析物理といって、こういう微分積分を使って世界を見る方法を教えてくれるんですけど、そこまで欺され続けている。欺してないで小学校6年生くらいから教えてくれると、ずっと人生楽だったんですよ。だからクラスの中にこんな子用のちょっとした「村」を作って、「島」を作って、これをやってくれれば、僕は凄く楽に中学高校を過ごせたんです。でも今これダメです。例えば大学のセンター試験である問題を解くときに、高校で教えていない解法で解いたらダメなんです。でも高校で教えている解法は大体全部インチキなんです。大学の解法から見ると。そういう試験の仕方って何か意味があるんでしょうか?なんでそんなことをするかというと、全員に同じことをさせるため。その子たちの個性を発揮させないために、1人1人の違いを伸ばさないために、みんなが同じように動けるようになるためでしょう。そのことがみんなに凄い負担をかけている。英語を勉強するのが全然苦痛じゃない子がいる。英語だけだと暇でしょうがなくて、ドイツ語もやりますフランス語もやりますラテン語もやりますギリシャ語もやりますという子もいます。ところが高校でギリシャ語の本を読んでいると先生が怒る。「そんなんせんと英語をしなさい」「英語は僕わかります」「英語がわかるからといってギリシャ語を読んでいいといものではない」とわけのわからん理屈を高校の先生はこねる。この子にギリシャ語を読ましてやれよ。子ども1人1人良いほうにも悪いほうにも皆違います。それを学校の科目だけじゃなくて、たくさんのことが起こると思います。僕昔、合唱団に入ってまして、大学出てから宗教音楽だけを歌う合唱団に入っていました。バッハなんか歌っていました。当時フォークソング全盛時代で、合唱団の合宿かなんかでワーッと歌って、休憩時間にフォークソングを歌っていたら、指揮者の恐い先生が「お前らそんな歌になるとなんでそんなええ声出すねん」と怒るんです。「それは先生、違うもん」て。学校で教えていることが得意じゃないからといって、学校で教えないことが得意な子がいっぱいいるんですよ。カラオケ連れて行ったら、無茶苦茶たくさん歌える子がいるんですよ。学校の音楽は全然ダメでですよ。カラオケでいっぱい歌えて学校の音楽アカンて、どっちが正しくてどっちが間違ってる?それは、学校の音楽が間違ってる、この子たちにとってはね。僕は音楽の授業廃止論者ですから、音楽を学校で教えることはない。音楽大学へ行く子たちは、学校で習ったことは音楽大学ではまったく役に立たないです。ほんとにもっと小さいころからちゃんとやってないと。音楽大学行かない子は、学校で習った音楽は全然役に立たないです。なぜならモデラートとか書いた楽譜を読まないから。学校で音楽を教えることはない。音楽がない国はいっぱいある。学校の授業に音楽が存在しない国はあります。日本で伝統的に学校で音楽が存在したのには意味があります。かつての時代に。文部省唱歌というものがあって、それを使って国民に西洋音楽というものを教えたかった。明治政府は、三味線を弾いてやる東洋の音楽からあるいは民謡から西洋音楽に脱却したかった。外国に対する見栄もありますね。日本文化で外国人から一番評判が悪かったのが音楽です。絵とか建築とかには西洋人は驚嘆しまして、浮世絵とか金閣寺に西洋人は凄いと言ったけど、音楽だけは西洋人は辛抱できなかった。なんであんな変なものがついているの?そういえばそうね。あれは西洋音楽の意味で聞くと変なもんです。それで明治の高官たちに西洋人が、「あの音楽だけはやめなさい」とさかんに進言したので、まあそれもそうかいねと思って、西洋音楽を小学校から教えようと思いました。それが1つで、もう1つは国民共通の音楽を作りたかった。明治政府にとっては、日本国家の共通の○○、国旗から始まって日本国民だぞという自覚を持たせるために共通の物語が山ほど要った。それは国語の教科書だってそうだったし、修身の教科書だってそうだったし、歴史の教科書だってそうだったし音楽だってそうなんで、世界中どこにいても同じ歌を知っているということが無茶苦茶大事だった。それは音楽教育の凄い大きな目的です。アメリカ人はこの種の教育を徹底的に受けていますから、だから世界中どこでアメリカ人と会っても、アメリカ人が歌う歌はアメリカの学校で習ったアメリカの文部省唱歌です。それがアメリカ人の統合の象徴なんです。そういう国家主義的な意味で音楽をしなければならない時代がありました。今、学校で教えている歌が日本人統合の象徴として動けるかというと、動けないと思う。子どもたちは僕たちが習った歌を歌いたくないもの。音楽の概念が変わったもの。カラオケあるし、テレビあるし、学校で教えなくてもみんながその時代の歌を歌うんです。僕なんか子どもたちとカラオケに行って歌を歌えない。「お父さん、何?その歌ダサい」と言われるから、「いいよ、僕らだけで行くから」とこう言うわけです。それでいいじゃない。そうなると、モデラートや八分音符だので責め立てて、子どもたちを音楽嫌いにする必要はないわけです。(つづく)

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横の関係(1)

Q
 小学校の事務職員です。縦の関係を脱却するというのは、子どもの横であり担任の横でありもしくは教員・校長の横である位置を探るということなのでしょうか?子どもからも担任からも相手に対する不満を聞かせてもらうことが多く、どう対応したらいいものか試行錯誤しています。

A
 なんやようわからん質問や。あのー、今日質問少ないからたくさんしゃべろう。
 アドラー心理学の用語がたくさんあって、例えば劣等感というと、他人と自分を比較して自分が劣っていることだと思うんです。でも、アドラー心理学では劣等感をその意味ではまったく使わない。アドラー心理学では、自分の理想と比較して自分の現実が劣っていることを劣等感と言う。これが定義です。自分の理想というのは、人間は目標追求をしていて、生命があるということ、生命活動があるということは目標追求をしているということですから、人間には必ず劣等感があるんです。劣等感がない状態というのは、死んだらなくなるんですけど、死なない限り劣等感があるんです。なぜかというと、劣等感というのはまったく内的なものだから。自分の理想と自分の現実との比較だから、そういうふうに定義するから、すべての人に劣等感があると言うとすんなり来るんです。劣等感をなくするのは不可能です。「しね」と言うのと一緒ですから。
 横の関係とか縦の関係とかもアドラー心理学上の定義があります。横の関係というのは、協力して問題を解決するような関係です。縦の関係と言うのは、誰が上で誰が下かを決めようとするような関係です。誰が上で誰が下か決めるのではなくて決まっていたら縦の関係ではない。だから、校長先生がいてヒラ教員がいても縦の関係ではない。総理大臣がいて一般住民がいても縦の関係ではない。誰が総理大臣かをみんなで争っていたら縦の関係です。普通僕たちは社会的な身分制度について争いをしないです。戦国時代の下剋上じゃないから。どんなことで争いをするかというと、誰が成績が良くて誰が劣っているかとか、誰が理解が早くて誰が理解が遅いかとか、誰が駆けっこが上手で誰が駆けっこが下手だとか、誰が正しい考え方をして誰が間違った考え方をしているかとか、誰が美人で誰がブスかとか、誰がカッコいい男の子で誰がカッコよくない男の子かとか、誰が歌が上手で誰が下手だとか、誰の絵が良く描けているかとかで上と下の争いをしているわけです。
 現在僕たちの縦関係というのは、ほとんど学校と関係があります。学校で成績とか評価とかいうことと関係しながら争わせるとか、あるいは正不正、誰が正しくて誰が間違っているかを、学校の先生は決めたがるんです。例えば、牛乳瓶かなんか出してあったら、「誰が出したの?」と聞くんです。「あの子が出したの」「じゃあ呼んでらっしゃい」「あんた自分で出したらちゃんと片づけなさい」「僕出したんと違うもん」「じゃあいったい誰が出したの?」「あいつが出した、こいつが出した」と言い争いをさせている。あれ何してんの?その間、牛乳瓶そこにあるんよ。それよか誰が片づけるか決めたほうが良くない?「誰が出したの?」と聞くより、「誰が片づけてくれますか?」と聞くのよくありませんか。誰が出したかはよろし。「片づけてくれる人はいますか?」と聞けばいいのに、誰が出したかを決めたいんです。なぜ決めたいかというと、誰が悪人かを決めたいから。誰が善で誰が悪かを決めたい。あるいは学校では滅多にやらないけど、誰が美しくて誰が醜いか、美人コンテストをやったりする。善悪真偽美醜、そうであるかとかそうでないかとかをみんなで争って決めようとする関係を縦の関係と言います。
 学校が激しい縦の関係でやってまいりました。昔はのんびりした時代で、そんなことをあまり気にしなくても学校にいられた。お勉強しなくても別にどうってことなかったんですが、だんだんだんだん競争が悪化してきて、どうしてもそういう縦関係の中へ子どもが入らざるをえない状況を作ってしまいました。まあ学校もそうですが塾もあって、塾との相互作用で。それが今度は社会へはみ出していったんです。学校の縦関係が社会へ漏れ出していって、成績評価を社員さんになってもやるわけ。営業成績を評価して、「いくらいくら売れました」「あなたは目標に到達していません」と言われる。そうやって勤務評価されて序列をつけられて、能力給で給与格差がついて、あまりにも能力がないと思われた人は解雇されて、そうでもない人はいわゆる窓際で網走かどこかへ送られて、本社へ残って最後まで生きようと思ったら、学校的評価として上のほうにいないといけないという社会を作ってしまった。これが縦社会です。
 江戸時代の封建社会は縦社会じゃないんです。士農工商の身分はあったけど、あそこでは争いがなかったから。お百姓は将軍になろうとしてもできなかったもの。誰が将軍か誰が殿様か初めから決まっていたもの。あれは縦社会でない。今が縦社会です。上下を争う社会。それが今の学校なんです。それを横社会に変えたいんです。横社会というのは例えば軍隊は横社会なんです。軍隊は将軍がいて上官がいて部下がいますが、内側で誰が上官で誰が部下か争えないもの。みんなで敵をやっつけるということに協力しますから、あれは横社会です。横社会というのは、みんなが役割分担をして協力して問題を共同で解決する社会です。
 ここで2つ重要なアイディアがあって、1つは共同の問題だということ。「PASSAGE」を学んだ人の1つの悪い癖は、何でもかんでも課題の分離をしまくって、「あれは私の課題ではありません。これも私の課題ではありません」と言って、完全の自分の課題ゼロという世界へ入って、完全に無責任に生きて、「これでアドラー心理学できました」と言っている。違うので、アドラー心理学はいろんなことを共同の課題にして暮らしたい。ただ、向こうは手伝ってほしくないことを、お節介して介入したくない。子どもは勉強についてあまり大して親に構ってほしくない。勉強は自分でやりたいと思っているのに、なぜ親が「そんなことダメよ。あなたの勉強は私の課題だから私が手伝う」と言うかというと、それは親の課題があるから。親は勉強のよくできる子どもを持ちたいんです。なんでかというと、例えば学校へ行って先生に怒られなくてすむから、親が。例えば友だちのお母さんに対して鼻が高いから。あるいは公立高校へ行ってくれると体裁もいいけど、経済的にもちょっと得かなと思うから。成績が良いと良い会社に勤めてくれて老後の安心も増えるから。ということは、子どものためと言うけど、よくよく考えると全部自分の利益なんです。自分の利益のために子どもを勉強させたい。子どもを勉強させないでいると、ちゃんと親をやっているのかしらと、私は親としてすべきことをしてないという感じがする。口うるさく言っていると、親としてすべきことはしている。これだけ口を酸っぱくしてすべきことをしているのに勉強しないのは、あの子が悪い。親としてすべきことをしないで勉強しないと、私が悪い人。私が悪い人でなくなるためには、とにかく努力しておくと子どもが悪い人になるから、これで良かったといって、隠れた縦関係がある。誰が良い人で誰が悪い人かを決めるという。だからいっぺんそこを整理してください。
 いったい何が誰の課題かを整理した上で、本当の意味で共同の課題を作りたい。学校でお勉強するというのはクラス共同の課題です。数学なら例えば二次方程式をある一定期間に全員がマスターできるように、「みんなが一丸となって頑張ろうね」というのが本来の姿なんです。競争して「僕はできたぞ。お前なんかできないだろう。バカバカ」と言うのが本来の姿ではない。二次方程式はどっちでもいいと思うんですけど、例えば国語ね。漢字が「新聞に出てくる程度の漢字をクラスのみんなが小学校1年生から中学校を出るまでに読めるようになろうね」と、助け合って暮らすのが本来の学校の姿だと思う。わからない子にわかる子が手助けをして、その代わり、手助けされた子は別のことでわかる子に別の形で手助けをして、みんなが協力して小学校から中学校出るまで暮らせれば、それが一番良い姿でしょう。それが横の関係のクラスです。1つは学業であれ道徳的な生活であれ、あるいは体育であれ、それらは共同の課題なんだと。全員が助け合ってみんなが伸びていくということを、先生が援助しないといけない。これが1つ。(つづく)

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