Q
小学校3年生の不登校気味の子のお母さんのカウンセリングをしています。私は説明しすぎではないかと思っています。「タクト(叙述語)/マンド(要求語)」を伝える場合、「要求したりお説教したりする言葉をやめてみませんか?」と、ひと言ふた言言えば相手に伝わると思いますが、私は、相手に聞かれなくても、「学校に行かなかったら立派な大人にならないよ」とか、「お母さんと話をするといつもお説教じみた話になると、子どもはお母さんと会話したくなくなるでしょう」などと自分の知っていることをつい親切心で言ってしまうんですが、これはやめたほうがいいでしょうか?沈黙の状態では私は落ち着かないんです。
A
カウンセリングの中でお客さんはどれくらい覚えているかを調べた研究があります。「最後に言った言葉」は覚えているんです。ですから、まず最後に何を言うか考える。私(野田)はよく最後にまとめをします。「今日のカウンセリングは3点にまとめられて、第1点○○、第2点○○……」。そこまでは何を言っててもいい。どうせ忘れるから。
タクトとマンド。要求する言葉と要求しない言葉とありましたね。「勉強しないとロクな人間にならないよ」「そんな友だちとつきあうと悪い子になるからやめたほうがいい」「お風呂ちゃんと入ろう、入らないと膀胱炎になるよ」。これらは要求する言葉ですね。「あのテレビ面白いね。新聞読んでるとあのダム建設中止になったんだって。嬉しいな」。これは要求しない言葉。ベラベラしゃべっている。カウンセリングの中でいろいろしゃべっても、どうせ聞いてない。聞いてもすぐ忘れる。人間の記憶力はそんなに良くないから。たくさんしゃべって、これも世間話のうちと思ってしゃべります。
最後に「さあ今日のお話ですけど、要求する言葉をなるべく減らして要求しない世間話みたいな言葉を増やすということでしたよね。それについて何かわからないことありますか?」「わかりました」と、うちへ帰る。でも、たいていわかってない。
その次に来たとき、「あれからどんなこと話しましたか?」「世間話しました」「どうでした?」「それがね、子どもが怒るんですよ」「どんな世間話をしましたか?」「ほら新聞見たら生首事件なんかあるでしょう。こんなん危ないね。外へ出るとき気をつけようね」。「ほら要求してるでしょう」と言って、そこで修正できる。
1回のカウンセリングでみんな伝わらない。最後にまとめをしてあげると、今回出した宿題を次回チェックしてあげることを最低すれば、途中はたいていのことをやっていても大丈夫。カウンセリングについてあんまり神経質になると身動きが取れないから、もっと大らかになってください。(回答・野田俊作先生)
Q
抗鬱剤を飲んでいる人がいます。瞑想すると危険だと言いますがどうしてですか?そういう人でも瞑想していいでしょうか?
A
瞑想やめたほうがいいです。瞑想すると、考え、イメージがいっぱい出てくる。妄想になる。鬱で瞑想すると鬱のイメージが出る。「死んだほうがマシ」「この世はロクなところではない」……と流れるので、ついそこへ乗っかっちゃうでしょう。そんなのするより、日常の世界で暮らしているほうがいい。こういうときの内心にはロクなものがないから。また調子が良くなったら瞑想してください。
お釈迦様のお弟子でも瞑想していて自さつした人がわりといる。そんな話が古いお経に出てくる。あの時代にも鬱の人がいたんだなあ。鬱の状態で瞑想してたんだなあ。今でも鬱状態で瞑想するとどっちかというと余計に暗くなるから、おやめになったほうがいいです。(回答・野田俊作先生)
Q
公務員と自営業(医者)について。開業すると、検査や薬を出して儲けようとする邪(よこしま)な心が育つ可能性がありますが、公務員だと患者のメリットを考えて共同体感覚に徹することができるように思うんですが……。
A
甘い!
公務員やっていると、患者さんは少ないほどいいでしょう。給料は一緒だもの。できるだけ愛想悪くする。患者さんが来ないようにする。たくさん来たら困る。本を読んだり仲間とおしゃべりする時間を増やしたいので、医療の質を下げる。いわゆる3分診療に徹する。患者さんが何かそれ以上言ったら、「忙しいから、また次にして!」と、パーンと帰す。大学病院はみんなそうです。
なぜ公立は愛想が悪いか。資本主義の外側にいて、どんな医療していようが同じ給料をもらえるからです。丁寧な医療をしていると手間がかかるだけ。
愛想がいいのは理由はただ1つ。いやに丁寧でしっかりしてくれるのは、解剖したいからです。冒険率というのがあって、その病院の死んだ患者さんの何パーセント解剖したかで、ランクづけが決まる。大阪は60%がデッドライン。死んだ患者の6割解剖しないと、Aランク病院でなくなって、大学の研修指定が取れないとか、大学からいい先生を回してもらえないとか、いろいろデメリットがある。院長や部長が「冒険率上げろ上げろ」と言う。解剖するためには、生前に良い医療をしておかないと遺族が怒るでしょう。しっかり診察して遺族に丁寧に説明しておくと、あとで解剖させてくれる可能性が増える。「そんなんどうせ死にますよ。手術のしようがない」なんて言うと、遺族が怒っているから解剖させてくれない。そういう理由です。死ない患者には愛想が悪い。解剖と関係ないから。(回答・野田俊作先生)
※管理人・大森よりご挨拶申し上げます。先日この掲示板のアクセス数が3万件を超えました。毎日多くの方が読んでくださっているおかげです。どちらのどなたかは存じませんが、心よりお礼を申し上げます。偉大な野田俊作先生が他界されてから3年を過ぎましたが、私は先生が残された音声ファイルのテープ(MD)起こしをしていて、毎日先生のナマのお声に触れることができます。先生は私のまわりで生きていらっしゃいます。これからも投稿を継続してまいります。
Q
以前保留になっていた「コモンセンス」についてお聞きします。
A 今日も保留だな。
Q アドラーを習い始めたころから引っかかっていて、基礎講座などで質問していましたが、そのたびにはぐらかされた。
A はぐらかしません、別に。
Q コモンセンスはどういうもので、どうやったら身につきますか。私の理解では、私的論理の総体か。経験したしないにかかわらない、ちょっといい物語・話のネタになる、社会に対して有益なイメージ。間違っていますか?
A 間違っています。
Q 野田さんはどう理解されますか。
A
こういうものもこだわらないほうがいいです。もっとわかりやすい話題から取りかかるほうがいい。あれはあの時代の純粋な哲学用語です。カントの『実践理性批判』に出てくるんでしたか。そんなものを読んでも救われない。
アドラーはそういう時代の人です。1900年代初めね。今よりも人々が哲学に近かった時代の人です。今はもっと自然科学に近い。生物学なんかのほうが親しみがあるでしょう。遺伝子操作と言うとすぐわかる。コモンセンスはわからない。20世紀初めの人々は、生物学・物理学は遠いところにあって哲学が近いところにあった。哲学の言葉を使ってしゃべったら、みんながよく理解できた。その時代の雰囲気にすぎないから、そんなものを引きずることはない。われわれの時代は、生物学・物理学に近いところで発想してしゃべるほうがよくわかる時代になったから、そんな言葉は忘れたほうがいい。
アドラー言ったから大事なわけではない。アドラーも時代の子です。あの時代の言葉づかいであの時代の雰囲気でしゃべっている。あるものは僕らにも理解できない。例えば、子どもに性教育をしてはいけないと方々に書いた。彼の時代はそうだった。僕らの時代は違う。できるだけ早い時期に性教育を始めたい。状況がまったく変わってきているから。アドラーを絶対視して、聖書みたいにマルクスみたいに持ち上げないほうがいい。こんなのはアドラーの言い癖だから、忘れたほうがいい。こんなことにこだわるのは強迫神経症ですよ。(回答・野田俊作先生)
Q
最近自分の考えがよくわからないことが多くあります。「はてどうしたものか?」と考えているうちに、時期が過ぎたりその場逃れのようになってしまいます。余計なこと、頼まれないことはしないということで、思いやりや心づかいのない自分に気づいて、イヤになってしまいます。何か大きなところで穴が空いたようで困っています。自分の考え、自分の気持ちを整理する方法はないでしょうか?
A
抽象的で(言っていることが)よくわからない。「考え」が人間を動かしているわけではない。心というものは人間を動かさない。「人間」が心を動かす。みんな心が私を動かしていると考えている。そんなことはない。
アドラーのアイディアは、個人という全体がまずあるんです。個人が生き残るために、手や足や舌とか爪とか髪の毛とか心とかを使う。ウニは生き残るためにトゲを使う。鹿は生き残るために角を使う。蝶々は生き残るために羽を使う。人間は生き残るために心を使う。そうしたら、トゲがウニを動かしているか。角が鹿を動かしているか。おかしいでしょう。同じように心が人間を動かさない。人間が心を動かす、使う。これがアドラー心理学の一番根本的な前提です。
人間という全体がまずあって、心はその道具にすぎない。それを誤解して、心が全体を動かしていると思い込んでいる。ですから、心が何を考えているかあんまり気にしないで、自分の全体が何をしているかを気にするようにしましょう。
アドラーが言ったとおりに言うと、「何を言っているかを気にしないで、何をしているかを見よう」。私はいつもいろいろ考えているけど、何かしている。考えと関係があったりなかったり。大事なことは私が何をしているかです。そこを見ていると結構一貫している。分裂なんかしていない。だから、「心で何を考えているかわからん」という悩み方をしないほうがいい。自分の体、全体はどんなことをしてどっちへ向かおうとしているのかを観察されると、あまり心配ないのではありませんか。(回答・野田俊作先生)