Q
小さいころ、身体的な部分で劣っていることを親戚の人に言われ、いまだにコンプレックスになっています。どうしたらこれを、コンプレックスと感じないようにできるでしょうか?
A
身体的な部分って何かわからないけど、誰でもみんなどこか劣っているんです。すべての点で問題のない体を持っている人って、世の中に1人もいないんです。鼻筋が少し曲がっているだの、少し出っ歯だの、おっぱいが小さいだの、肩が張ってるだの、撫で肩だの、何かあるんですよ。誰でもみんなそれを気に病むんです。誰も気にしてないのに、本人だけはそれを気に病みます。気に病むから、「だからどうしよう、こうしよう」と思う。
人間には劣等感があって、その劣等感を補償しようと思う。その補償の仕方は、大きく分けると3つあります。
1つは、劣っている部分を何とか矯正しようと思う。できるものとできないものとがありますが、できるものとしては、例えば、痩せていて貧相な体だと思うから、スポーツして筋肉モリモリになったとすると、劣っている部分をそのまま補償したんです。私も、もう少し激しい器官劣等性が子ども時代にありました。今もありますけど、それは、赤緑色盲です。橙色と黄緑の区別がちょっとつきにくいんです。水色とピンクもちょっと危ない。これは大変不便でした。スケッチするのに不便で、隣の子に聞かないといけない。「これは橙?それとも緑?」と。聞くのはかなりイヤなんですが、しょうがないからずっと聞きました。で、結局、目に関すること、特に色彩に関することは避けて通るという側を選んだんです。つまり、そこは鍛えませんでした。鍛えても無駄だなと思ったし、眼科のお医者さんに「訓練したら治りますか?」と聞いたら、「治りません」とはっきり言われました。それじゃあ、もう目は駄目。代わりにどんな補償をしたかというと、耳です。聴覚的な力をうんと伸ばしたんです。例えば、聞いたことはわりと覚えています。記憶力がいいと言われるんですが、私は“しつこい”んだと思う。“執念深い”のね。どっちでも同じことです。それに音楽好きですし、耳で聞いてものを理解するのが好きです。だから、私は、自分の“劣っているんじゃないところ”で補償する人です。体がすごく弱いからお勉強をしっかりして頭が良くなったとか、あるいは、頭がすごく弱いから体を鍛えて運動が上手になったとか、そういう感じのことです。
3番目には、諦めて、自分では駄目だから人に頼るとか、人のせいにするとかして、自分で努力しなくなる。これはやっぱりまずいですね。なるべくそうしないで、鍛えられるものならそれを鍛えるし、鍛えられないものなら、違う自分の能力を伸ばしていくほうが建設的だろうと思います。
みんな誰も、自分の体で悩んでいるんです。このごろ私は、“お腹”について悩んでいます。下を見るたびに、「たくさんお肉があるなあ」と思う。悩んでないで、何か実行したほうがいいんだけど、実行するほどの気にもならない。(回答・野田俊作先生)
Q
次男の登校拒否、軽い非行、高校中退。苦悩のまっただ中にいるとき、アドラー心理学を教えてくれた友人がいました。とにかく、少しでも明るい雰囲気に持っていくことに努力して、今では私は落ち着いていますが、20歳になった次男は今は閉じこもりです。
しかし、おかげで小さなことに喜びを発見できるようになりました。もっと若いときにアドラー心理学を勉強できたらと思います。ありがとうございました。
A
ありがとうございます。閉じこもりになっていても大丈夫です。ちょっとでも非行をした子はエネルギーがあるからね。だから、この世の中で面白いことさえ見つかれば、立ち直れると思います。このごろ、ポイントはそこだなあと思うんです。
今の子どもたちはわれわれのころと違って、すごくつらいんです。われわれのころは、「大学へ行ってヘルメットをかぶって教授を殴る」という明るい未来がありました(笑)。髪の毛を腰まで伸ばして、オランダあたりでマリファナを吸って、ヒッピーになるという明るい未来があったんです。みんな何とかかんとか大人になったら、面白く暮らせそうだと思っていたんだけど、今の子どもたちってそういう遊びがなくなった。
コンピューター・ゲームなんか、ヘルメットかぶってデモするのに比べると、あれはやっぱり面白くない。だからそんなんでなくて、何か燃えられること、面白いこと、オートバイに乗って走り回るでもいいし、山に登るでもいいし、海に潜るでもいいし、サーフィンするでもいいし、そんなのが1つ見つかると、すぐ人生は開けると思います。サーフィンボード1枚買うためにも、バイトせんといかんでしょう。そいつを海まで運ぶためには、車がいるでしょう。免許もいるし、相当働かないといけない。
だいたい、人間というのは遊ぶために働くんですよ。われわれの親の世代は、遊ぶというのは罪悪で、ただ働くために働いたんですが、ああいう人たちが第二次世界大戦を起こしました。遊ばない大人って良くないと思う。若い人たちにはもっとたくさん遊んでほしい。われわれの世代に比べれば、あの人たちは遊ばないと思います。だから、子どもに遊ぶように言ってください。「何でも面白いこと、やってちょうだい」と。(回答・野田俊作先生)
Q
「自主的に動く」と「主体的に動く」の違いは?
A
わりとみんなこんな質問をしますねえ……。
「自主的」とか「主体的」とかいうのは、「クジラ」とか「オットセイ」と一緒で、引き出しのラベルなんです。例えば辞書、広辞苑とかその他の辞書を読むと、いろいろ書いてありますが、中身はあんまりアテにならない。辞書というものは、まあ一般的な日本語で書いてあるわけで、辞書に書いてあるのは、ある学者がある論文の中で、ある文脈で使った言葉ではないんです。こういう「主体的」とか「自主的」とかいうのは、まあ哲学的というか科学的な言葉で、そんなのはある学者がある論文なり本の中で、ある文脈で使うから、そのひと言はみんな違います。だからその人の元の文章を読まないとわかりません。
私には私自身の使い方があって、「自主的」という言葉は使いません。論文の中で学術用語としては使いません。使った覚えはありません。「主体的」は使ったことがありますが、辞書と違う、ものすごく変わった定義で使っています。
アドラー心理学の基本前提に「個人の主体性」というのがありますが、「自主的」と「主体的」の違いは、私の中では比較できません。なぜなら、「自主的」という言葉を使わないから。そして、私の使っている「主体的」は簡単に説明できないから。何ページも論文を書かないといけないことだから。それは、広辞苑なんかに書いてある意味とは違います。いつも科学的に使われている言葉というのはそうなんです。
例えば、「サクラ」はバラ科の植物です。でも「サクラ」は「バラ」とは違います。バラ科というのは、「バラ」のことではない。「バラ」と共通のある特徴を持った花の咲く植物の一群を「バラ科」と学者たちが言ったんです。それは「バラ」ではない。「キャベツ」はアブラナ科ですけど、「キャベツ」は「アブラナ」ではない。そんなふうに学術的に使われている単語というのは、たまたま世の中で辞書に載っている単語と一緒であっても、いつも意味は違います。だから、「自主的」とか、「主体的」とかいうのも、使う学者によって全部意味が違います。あまりそんなところにこだわらないほうがいいと思います。ある学者の書いた本とか、論文とかを読んで、そこで使ってあるとおりに使ってあるんです。(回答・野田俊作先生)
Q
幼稚園へ来る5歳(年長)の女の子が、「友だちがいないので、さびしい」と言ったり、家では言うこと聞かず、怒られることばかりしています。友だちと遊ぶ姿を見ていると、友だちのイヤがることをしたり、わがままを言ったりしています。この子が悪いのだろうとは思うのですが……。
1歳4か月で両親が離婚して、父親と祖母が育てています。父親の弟も同居していて、大人の中で育っているといった感じです。どうすればお友だちができて、もっと素直な子になるのでしょうか?何かさびしいのでしょうか? 性格は思いやりのある子で、とても世話好きです。
A
1つは、「さびしい」という感情が原因で行動するということはない、ということ。
アドラー心理学はいつもそう考えます。感情は行動の原因ではない。感情は目的のために使われる手段だと思う。「さびしい」という感じを出すと、誰かがそれに反応して動くので便利だから、「さびしい」フリをしているんでしょう。だから、子どもがどんな感情を持っているのかは、あまり気にしなくていいんです。
まあ、「さびしい」と言うとか、言うことを聞かないとか、怒られることばかりするとか、そういう形で人とコミュニケーションするやり方しか知らないんです。だから、もっと良い形でたまたまコミュニケーションしているときにこっちが応えてあげれば、良い形でコミュニケーションすることを覚えます。
子どもの不適切な行動にわれわれが反応していると、子どもは不適切な行動でコミュニケーションすることを学びますし、子どもが適切なコミュニケーションしているときにわれわれが反応すると、子どもは適切な行動をすることを学びます。
だからまず、この子が友だちとたまたま遊んでいるときとか、あるいは、大人に向かってたまたまいいことを言ってくれるときとか、たまたまお手伝いしてくれるときとかに、しっかりお礼を言うことです。「今日はちゃんとお友だちと遊べてステキだね」とか、「お手伝いしてくれて、ありがとう」とか言っていると、適切な行動は増えます。「今日も遊べないの?」とか、「まあ、そんなことばっかりして」とか言うと、その悪い行動は増えます。
原理は単純です。「不適切な行動に注目を与えないこと」、「適切な行動に丁寧に意識して注目を与えること」、「感情が原因で、子どもが動くと思わないこと」、「感情だけでなくて、すべてコミュニケーションの手段として、何もかもが使われている、ということがわかること」。(回答・野田俊作先生)
Q0470
小学校教師です。担任ではありませんが、週1回1時間担当クラスの6年男子(1年時から問題を投げ続けている児童だと思います)が、11月中旬くらいから荒れ始めてきました。他の児童に暴力をふるい始め、それを止める方向には成功したのですが、今度は早退という方法を取り始めました。やりとりの失敗から、彼の「顔だけは出す」という早退作戦に苦戦しています。3回ほど続いたので、前回、他の教室にいる彼を戻そうとしたところ、2回ほど蹴られてしまいました。どうもこの件をきっかけにして、担任の教室でも教師への挑発的行動が出てきて、クラスの児童への暴力もエスカレートしてきたようです。学校全体として、今回の教師への暴力について、「捨てておけない!」という考えがあって、これを機に、母親に切り込んでいこうという流れがあります。この母親は大変なパワーの持ち主で、前半やはり今ごろ担任を自さつに追い込み、前前年度は6月に新担任を病欠に追い込みました。今も休暇中です。私は、学校を敵視している母親に挑戦しても何も得られない気がします。付け焼き刃のアドラーで対応していて当然ながら下手に出る私に対して、声が大きいです。まあこれは対教師側の問題なので置いておくとして、彼にクラスに参加してもらうにはどうすべきなのでしょうか?これは彼の課題ですから、これ以上かかわるべきではないのでしょうか?
A0470
答えは簡単なんですけど、実行できないんですよ。生徒に謝ればいい。これは権力争いですね。典型的な権力争いで、「すみませんでした。私のほうが間違っていました」と言えば全部終わるんですけど、学校の先生が一番できないことは謝ることなんです。もしもこの人が謝ったら、学校中の他の先生から非難囂々になります。学校というのは決して間違わない。いつも常に正しいと彼らは信じているから。構造は権力争いで、教師と生徒がどっちがボスか決めようとしていて、今のところ生徒が勝っているんですね。しかもどっちがボスか決めるゲームにお母さんも乗るのが好きみたいで、今までお母さんが勝ってきたんです。徹底的に打ち負かされる前に早く謝ったほうが傷は小さくてすみます。(回答・野田俊作先生)