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あと一歩という気がする

Q 
 以前に比べると親子関係はずいぶん良くなりました。アドラーの勉強のおかげだと思いますが…。
A
 いやいや、あなたの努力です。
Q
 でも、あと一歩という気もする最近です……
A
 そうですね。一生あと一歩という気がする。その時がいいのかもしれない。人間というのは目標を追いかけて生きているんです。目標というのは、シャルマン先生曰く、「あれは地平線だ」。追いかけて地平線の位置まで行ったら、向こうにまた地平線が見えるでしょう。だから、そこに到達すると考えないほうがいいんだ。いつもいつも、ずっと遠い先に目標があって、それに向かって生きていくんだなぁと思っていたほうがいい。あと一歩だという気がするというのは、これは正しい状態なんです。
Q それで、息子のことで気になるのは、『根気がない』、『少々しんどくても頑張ろうということがない』ということです……
A
 これはどういうことかというと、母親の頭の中に理想の子どもがいるわけだ。これがまだ根強くいるので、現実の子を見るとどうしても引き算をしてしまう。で、マイナスの部分が目についてしょうがない。「えっ、96点なの?残りの4点はどこへ落としてきちゃったの?」と思っている。でも、最悪の子どもというのもいる。“0点の子ども”というのが。最悪の極めつけは、たぶん死んでいる子どもでしょう。それに比べれば、まず元気に息をしているというのはすごくいいことです。五体は満足に動いているし、ご飯も食べるし、大きな病気もせず、学校もちゃんと行けている。こんなありがたいことはないじゃないですか。特別支援学校に行かなくてはいけない子の親のことを考えてごらんなさい。普通の学校に行っている子どもを持ってどんなに楽か。そのことに感謝しないで、「あれが足りない、これが足りない」と言うのは、ちょっと厚かましい。
 『根気がない』、『少々しんどくても頑張ろうということがない』と言いますが、だからその子は駄目ということではないんです。そういう生き方で、この社会に対して共同体に対して、建設的に生きることもできるんです。根気良く悪事をすることもできるでしょう。
 エジプトのピラミッドは、だいたいが墓泥棒によって荒らされています。だから、中に入ってもほとんど何も残っていない。どうやって泥棒するか。地下にトンネルを掘って泥棒する。でも、1世代では掘り終わらなくて、おじいさんが掘り始めて、お父さんがあとを継いで、孫の世代にやっとピラミッドの下あたりまでつながる。すると、隣村のヤツが先に掘っていて、何もなかったりする。3世代の苦労もパアですわ。そういう根気強さもあるわけで、こんなのはあまりほめられた根気強さじゃないですから、あんまり根気強いのがいいと思わないでください。
Q
 それで、少々熱っぽければ学校を休むという具合で、自分で駄目だと思えば力が出ないようです。私としてはもう少し努力するとか根気があってもいいと思うのですが……
A
 思わないほうがいいね。 あのね、ギブアップすることもいいことなんです。メチャクチャ努力して体を壊してしまうのもどうかと思うしね。必要以上に頑張ろうというのも無理でしょう。そう思っておくと、とても楽ですね。そう思ってると、そこよりも少しでも頑張ると嬉しいから。「もっと頑張らねば」と思うと、足りない部分しか見えないから。だから、「この子はこんな子だ」と、まず思おう。マイペースで自分の好みや興味に素直な子なんです。それでいいと思う。こちらが、頑張らない子は駄目なんだと、まず決めてかかったら、実際に駄目な子になってしまうよ。だいたい、ちょっと駄目になったら、自分を大事にして少し休んでみるというのも、一方では大事なことだと思いませんか。内科のお医者さんは、ときどき頑張りすぎる患者が来て困るそうです。「ちょっと休んで休憩してください」と言っても、「いや、これくらいの病気では休めません。大丈夫です」と言って、どんどん病気が重くなって死んじゃう。だから、ちゃんと自分で自分の管理ができることは必要です。
 それから、やる気がない子どもというのは、目的があってやる気がないんです。すべての行動には目的があるわけで、やる気がないという行動にも目的があるんです。何だと思いますか?勉強しないとか、やる気がなくてボーッとしているとかというのはどういう目的かというと、頑張って一生懸命やって駄目だったら、自分に能力がないということが自分にも他人にもわかってしまうのがイヤなんです。頑張らなくてグズグズやっていて駄目だったら、本当は頑張ればできるんだと思えるでしょう。つまり、なんでそんなことを考えなくてはいけないかというと、この子は結果を気にしているんです。結果が良いか悪いか。なんでこの子が結果を気にしているかというと、親が結果を気にしているからです。途中がどうかではなくて、最終的にはやっぱり試験の成績が悪いと駄目だと思っている。親が思っていると子どもも思う。そういう中で、一生懸命頑張って良い点を取れなかったら大変です。勉強しなくて良い点を取れないのは大丈夫なんです。だから勉強しない。
 ですから、こういう子とつきあうときには、結果を気にしないこと。最終的な結果はどうでもいいと思おう。もし、ちょっとでも努力してたら、努力しているところを好きになろう。でも「努力してるから、きっと次の試験の成績は良いでしょうね」と言わないこと。試験の成績は良くなくても、「努力しているのが好きなんだ」ということを伝えてください。
 努力と結果とは関係ない。たーくさん努力して結果が悪いときもあります。かと思えば、全然努力しないのに結果が良いときもあります。試験なんてのは半分くらいが運ですから。人生というのも、ひょっとしたら半分くらいが運ですから、コツコツと努力したアリさんは木の下敷きになって死んで、遊んでばかりいたキリギリスさんは長生きするかもしれない。そうでしょう。努力は必ずしも報われるかどうかなんてわからない。努力が楽しいという人は努力すればいい。楽しく努力ができるということはいいことですから。楽しく努力できる子になってくれればいいけれど、努力が報われることとは別なんです。
 私の友だちに不幸な人がいます。大学の研究室にいて5年がかりで、ものすごい壮大な研究をして、英語で論文を書いて、アメリカの学術雑誌に送ったら、ひと月前にまったく同じ研究したものが出ちゃって、全然意味がなくなっちゃった。5年の苦労が水の泡です。彼の苦労は報われなかった。でも、彼はがっかりしなかった。彼は実験することが楽しかったんです。名誉だとかお金だとかいう、そうした最後の結果を欲しがっていると、結局そこで投げ出しちゃうんです。もう努力してもしょうがないと思ってしまうから。
 きっと、努力をイヤがる子というのは、そのタイプなんです。努力して駄目だったらもうやめようと思っている子です。努力そのものを面白がっていない。大人も、努力するのを苦しいことだと思っている。勉強することや、忍耐することというのは、とても苦しいもので、その苦しさに耐える力を身につけさせようと僕たちが考えると、それは間違いです。苦しさに耐える力なんて、人間にはないよ。自分のことを考えてみてください。苦しいことなんて、まっぴらごめんでしょう。楽して生きたいでしょう。忍耐や辛抱はイヤでしょう。
 忍耐や辛抱をしているのは下心がある。これをやっているとあとでもっと良いことがある。あるいは良いことではないかもしれないけれど、「忍耐し辛抱している私って素敵だ」と自分で思えるとか、人から「あなたって忍耐強いね」と言われて気持ちが良いとか、ちゃんと収支決算が合う。だから忍耐できるんです。それがなかったら努力なんてできない。 人間は本来怠け者なんです。努力という取引をすることはある。努力するふりをして、自分とか他人からほめ言葉をもらおうとすることはあるけれど、努力そのものは嫌いなんです。忍耐は嫌いなんです。だから、子どもも忍耐は嫌いなんです。
 勉強が楽しくなるようにすることはできます。初めから、苦しいので辛抱するというのではできません。親や教師が「勉強は苦しくてつらいものだ。それに耐えるのだ」と説教すれば、子どもはイヤになります。「これは楽しくてしょうがない」と設定すれば、子どもは乗ってきます。
 このお母さんは、「努力忍耐というのは苦しいけれど、それを耐えて頑張るのだ」という発想をしているから、子どもはまっぴらごめんと逃げている。勉強したり、学校へ行ったりするということは楽しいもので、もし楽しくなかったとしたら、どうしたら楽しくなるか工夫をする。遊びなんです。勉強なんて遊びですよ。国語も算数も理科も社会も英語もみんな一種のパズルと同じで、ゲーム感覚で遊び半分でやっていると、とても楽しい。これに私の人生がかかっているなんて思うと、ちっとも面白くない。第一、かかってないしね、本当は。(回答・野田俊作先生)

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双子に学力差があるが……

Q 
 子どもは小学校2年生の双子の男の子です。学力に差があります。

A
 そりゃあるでしょうね。双子だったら余計に差が出るんです。きょうだいというのは、競争して育っていきます。例えば、男ばかりの3人のきょうだいがいるとしましょう。どんなことになるでしょうか?
 一番上のお兄さんは、最初ひとりっ子だったわけです。ある日、お母さんが赤ちゃんを連れて帰ってきて、「これはあなたの弟よ。かわいいでしょう。あなたとは一切差別しないで平等に扱うから、かわいがってあげてね」と言う。でも、これは嘘です。だって、お母さんは徹底的に手のかかる下の子ばかりにかまいます。この人が何かグズグズ言うと、「あなたはお兄ちゃんでしょう。我慢しなさい」と言われます。このお兄ちゃんはきっと怒ります。怒ったお兄ちゃんはどう考えるか。「弟に奪われた母親を取り返さないといけない…」。母親は「平等に」と言うけど、平等でも50パーセントです。もともと100パーセント独占していた母親を50パーセントにされただけでも頭にくるのに、実際は90パーセントを弟に奪われて自分は10パーセントくらいしか残っていないから、カンカンに頭にくるので、まあ100パーセント取り返そうとは言わないものの、できるだけたくさん取り返そうと思います。
 さて、どうやったら取り返せるか。2種類のやり方があります。うんと良い子になるか、うんと悪い子になるか、どっちかにすればいい。うんと良い子になって、何でもできるお兄ちゃんになると、「偉いわね。さすがお兄ちゃんだわ。何でもできるね」と、母親の愛情がたくさんこっちに来ます。メチャメチャ悪い子になって、ずっと母親に叱られ続けると愛情は来ませんが、少なくとも注目は来ます。
 人間というものは、特に子どもは、かまってもらえないのに比べれば叱られるほうがまだ好きです。一番好きなのがほめられること。次が叱られること。かまってもらえないのが一番嫌い。かまってもらえないと思うとせめて叱られようと思いますから、うんと悪い子になる可能性もあります。
 真ん中の弟の立場は、生まれたときからお兄ちゃんがいます。しばらくすると下の子が来ます。ですから、この子は一度も親を独占した体験のない子です。お兄ちゃんには普通何をやっても負けます。お兄ちゃんがうんと悪いほうを選択してくれていればまだ楽ですが、うんと良い子のほうを選択して、お勉強もできるし、友だちづきあいもうまいし、喧嘩も強いといったスーパーお兄ちゃんだと、弟としては取れるものがあまり残っていない。それに、競争をしても年齢差がありますから、負けます。
 では、弟はどんなことをするかと。2つあります。1つはメチャメチャ親孝行の子になるか、もう1つは、親を見限って外へ遊びに行く方法です。ですから、中間の子というのは、親に大変密着して、肩を揉んだりゴマをすったりするのが上手な子か、全然親を気にしないでずっと外で遊んでいるような子かの、どっちかになる可能性が高いです。
 さて、こういうふうに優秀でバリバリ勉強をしているようなお兄ちゃんと、それから外へ遊びに行っちゃっているようなお兄ちゃんを2人持った末っ子はどんな位置でしょうか。まず、母親の態度が上2人とは全然違う。一番上のお兄ちゃんが小学校に入ると、「今日から君は大きいんだからね、全部自分でやるのよ」と言います。一番下の弟は、小学校に入っても中学校に入っても、お母さんは、「あなたはまだ小さいんだから気をつけるのよ」と言います。ずっと赤ちゃん扱いです。では、この子は何を学ぶかというと、「僕はお兄ちゃんみたいにバリバリできたり、何でも自分でする子になったら駄目なんだ。なるべく赤ちゃんをしていたらお母さんはこっちを向く」ということを学びます。だから、この子は、わりと赤ちゃんぽい子どもになる可能性が強いです。
 もちろん、きょうだいの位置でこんなことが全部決まるわけではない。けれども、生まれる位置によって選べる範囲というのはかなり決まってきます。うんと良い子かうんと悪い子とか、母親に密着する子か離れる子かとか、あるいは、可愛くて人に愛される赤ちゃんタイプの子か、ムチャクチャ世話がかかって何もできない子になるとか。こういうように、選ぶ範囲はかなり決まってきます。
 それで、なぜこういうふうになるかというと、親という賞品をめぐってきょうだいがレースをするからです。親からの愛情、愛情でなくてもせめて注目が少しでも自分のところへ来るように、きょうだいがレースをするからです。どんな親であるかよりも、きょうだいがどんなきょうだいであるかのほうが、僕たちの性格を作る上で大きな影響を与えます。このきょうだいレースは、年齢差が近ければ近いほど激しくなるはずです。
 すると、双子というのは一番激しい。競争が激しいと、きょうだい間の性格はすごく対照的なものになります。例えば、勉強という点で兄が良くできていると、弟はきっと勉強を選ばなくて、あんまりできない子になります。お兄さんが人づきあいがあんまり上手でないと、弟は人づきあいが上手になります。隣り合うきょうだいはとても対照的な性格になりやすい。双子というのはとても違う性格になりやすい。しかも、年齢の離れたきょうだいに比べて具合が悪いのは、勝ち負けがはっきりしやすい。全部勝つ子と全部負ける子に分かれやすい。年齢が離れていると、ある程度はこれでは勝ち、これでは負けということになるけど、双子だと競争が激しいから、どちらかが徹底的に勝ってしまう可能性があります。どうやらそうなりかけていますね。ですから、学力に差があるだけでなく、喧嘩をしても片方のほうが強いし、友だちも片方のほうが多かったり、いろんな点でどっちかが有利に勝っているんじゃないかと思います。
 なんでこんなことが起こるかというと、それは親が学力が高いことはいいことだと信じているからです。いい成績を取ってくると、親とつながりができると子どもが信じているからです。だから、学力をめぐっての競争が起こる。この学力差をなくそうと思ったら、親が学力というものに関心を失うのが一番です。学力というのは結局は点数のことだから、最終的にどんな点数を取ってくるかということに親が関心がある限り、このきょうだいは今後ともますます学力でもって、「賞品をもらえたとかもらえなかった」と言って離れていくでしょう。
 そんなことしたら、勉強をしなくなるんじゃないか。そんなことはないです。勉強の結果でなくて、努力のほうに親が注目するんです。勝っても負けてもいいから、途中を走っているということ自体を、すごく大事だと親が思ってほしいです。
 それから、いつも言うんですが、子どもを叱ったりほめたりして育てるという発想から抜け出てほしい。そうではなく、勇気づけというやり方に変えてみてください。小学2年生というのは、勇気づけがとてもうまくできやすい年齢です。勇気づけというのは、一番わかりやすく言えば、子どもに向かって「ありがとう」とか「嬉しい」とかと言うチャンスを探すことです。
 子どもが学校で良い成績を取って帰ってきました。さて、何を「ありがとう」と言いましょうか。あまり「ありがとう」と言う材料じゃないです。そう思いませんか?
 「良い成績を取ってくれたね。ありがとう」と言うと、ちょっとおかしいです。だから、良い成績を取ってきたというのは、勇気づける材料ではない。勇気づけなくていい。なぜかというと、子どもは良い成績を取ったことでもう勇気づけられているから。追加支援しなくていい。
 子どもが一生懸命努力しているのを見ると嬉しいでしょう。としたら、「あなたが一生懸命お勉強しているのを見ると、お母さんは嬉しい」と言ってもいいです。ただし、ほんとに嬉しかったらね。ほんとはあんまり嬉しくないけど、子どもに勉強させようと思って言っては駄目です。下心はすぐ伝わるから。だから、もう少し自分の内側の感情に敏感になって、「子どもが何をしているとき私は嬉しいか」ということを、まず感じ取ってください。「子どもに何をさせたいか」というほうを忘れてほしい。頭で、これはさせたい、こんな子にしたい、こういうふうな子どもに育ってほしい、ということをやるから、結局こんなことになるんです。それをやるから、きょうだい間の競争が激しくなって、だんだん差がついてきます。特に双子のきょうだいの場合は要注意です。
 子どもと一緒にいることを嬉しく感じ、それに感謝の言葉をあげたいと思う時間がいつもあるか。それを思ったときにその言葉をかける。それだけでいいです。すごく簡単です。そうすると子どもたちは、おのおのの個性を発揮していくでしょう。しばらく勉強にこだわらずに、その子たちと一緒に暮らす中で喜びを見つけてください。自分の中にある感謝の心とか、喜びとかというものを伝え始めてください。それが愛情ある母親です。子どもを自分の好みの人間にしようというのはサーカスの調教師であって、人間の母親ではない。(回答・野田俊作先生)

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小4男子が塾へ行きたいと言うので、親が見つけてきたのですが…

Q 
 子どもは小学4年生の男子です。自分から塾へ行きたいと言い出しましたので…
A
 そういうことはありますね。
Q
 親がいろいろ聞いたりして、ある塾を見つけてきました。…
A
 こりゃやりすぎですな。子どもが何かしたいと言ってきたときに、もともとこちらがそれをさせたいと思っていたかどうかで、親の動きも違うでしょうが、親があんまりお手伝いをしすぎると駄目なんです。「何かできることはありますか?」と聞くこととか、「子どもから頼まれたことはしてあげましょう」と、僕はいつも言っているんだけど、頼まれたこと以上に動くと、それは過剰反応で甘やかしになります。いつも、援助を最小限にしたい。小学校4年生というと、思春期の入り口にいますから、あとできっと背かれますよ。
Q
 今、1か月くらい行きましたが、「宿題が多く、自分の自由な時間がなくなった」と言い出しました。最近では、「お母さんが変な塾なんか見つけてくるからだ」と責めることばかり言います。
A
 ほらね。
Q
 それで、親はどう受け答えしたらいいでしょうか?
A
 結局こんなことになりますね。子どもをむやみに手伝ったらいけないんですよ。
 そう言えば、うちの子どもが小さいときに、学校の先生が私に、「忘れ物が多いから時間割を見てあげてください」と言いました。親は、教師のそんな口車に乗ってはいけないよ。見てやると何が起こるかというと、これと同じことが起こります。次に忘れ物をしたら、「お父さんがちゃんと見てくれなかったからだ」ときっと言うようになる。それは自分の仕事なのに、親の責任にする。
 「塾に行きたいなあ」と言ってきたら、「行きたい塾はあるの?」と聞いて、「ない」と言ったら、「お友だちにでも聞いて、行きたい塾が見つかったら教えてちょうだいね」と言って放っておくんです。われわれは子どもにいろんなことを教えたいと思うんですが、「自分のすることから子どもがどんなことを学ぶか」ということを考えてみないですね。子どもが「塾に行きたいなあ」と言って、「駄目よ、塾なんか」と答えたら、子どもは何を学ぶか。「塾に行きたいの。じゃあ、探してきてあげるわね」と言って、一生懸命に探し回ると、子どもはどんなことを学ぶか。それを考えてみてほしいんです。子どもが「塾に行きたい」と言ってきて、「そんなもん行かなくていいわよ」と言ったら、子どもは何を学ぶと思いますか。「親は口で言っても聞いてくれない」ということを学びます。あるいは、「親は僕の頼みなんかどうでもいいと思っている」ということを学びます。こんなことを学んでほしくないから、これはまず聞くべきですね。聞いてあげるけど、そこでそれ以上に走り回ると、「僕がしなくても必要なことはみんな親がしてくれる」ということを学びます。あるいは、失敗したときには「親が悪いんだ」ということも学びます。自分には責任がないということを学びます。ですから、この次からの教訓としては、動きすぎないということです。できるだけ多く子ども自身にやってもらって、どうしても子どもにできない部分だけ援助することです。これはちょうど子どもが「宿題のここがわからない」と言って、「どれどれ見せてごらん」と全部やってあげて、「はい、できたよ。これを先生に出しなさい」と言ったのと同じです。そして、答えが間違っていて、「お母さんが間違えたから先生に怒られちゃったじゃないか」と言ってるのと同じです。
 今回の後始末としては、こうなったら塾をやめていただくしかないと思います。「どうする?イヤだったらやめる?」と聞いてみて、「やめる」と言ったらやめてもらいましょう。要するに子どもは親のせいにしていて、「塾をやめるのは自分が悪いからではなくて、お母さんが間違えたからだ」と言いたい。だから、「やめたい」と言えばやめてもらったらいいと思う。いわゆる、持続力がない移り気な子がいますね。集中力がない子というか、習字を習いに行ったかと思うと、ひと月くらいでやめて、そろばんを習いに行ったかと思うと今度は水泳、バレエ、エレクトーン……。あれはいいことなんです。そういうふうに次々と関心の変わる子は、将来、安全性が高いです。というのは、自分の力で自分に何が合うかを探すだけの積極性を持っているから。その子がそのことをイヤがっているのに、無理やり続けさせようとするのは良くない。あれは戦前のものの考え方です。昔は軍隊があって、イヤでも軍隊生活をしないといけなかったから、イヤなことでも耐えられるトレーニングをしないといけなかった。今は世の中がまったく変わって、自分に合うということ、適性ということを最大限に伸ばしてあげることが大事だと思うんです。子どもがいろんなことに興味を持って、いろいろと実験してみようとすることを、親も手伝ってあげていいと思う。そのことに腹を立てないでください。「すぐやめる」と言ったって、動揺したり腹を立てたりしないで、「この子は思い切りのいい子だ。発想の転換力がある子だ。積極的な子だ。この世の中でいったいどんな仕事をすればいいのか、自分には何が一番合っているのかを探しているんだ」と思ってください。
 親にとって大事なことはたった1つです。いい親というのはどんな親かというと、幸せな親なんです。不幸な親と暮らすと、子どもは絶対に不幸です。不幸というのは伝染性の病気で、家族の中に1人不幸な人がいるとみんな不幸になっていく。幸せというのもやっぱり伝染性の病気?で、家族の中に何があっても幸せに暮らしている人がいると、残りの人もあまり不幸になれない。明るくいつも喜んで感謝して暮らしている、幸福な親になる決心をしてください。
 僕たちが、「子どもを何とかしなくちゃ」と思うときというのは、例えば子どもが泥沼で溺れているようなときです。人生の問題に躓いて少し溺れかかっているときに、僕たちは子どもを助けたいと思います。そんなときに、こっちも不幸で動揺しているということは、一緒に泥沼で溺れているということなんです。2人で溺れながら、向こうを助けようとすると、結局向こうの足を引っ張って、2人でズブズブと沈むだけです。だから、まず子どもを見捨ててこっちが岸に上がる。「しばらくは、あなた1人で不幸でいてください。私が十分幸福になって落ち着いて、助けられるようになったら助けてあげないでもないから、それまではリラックスして浮いててね」。リラックスさえすれば浮くんです。焦ると沈むんです。海を泳いでいて、大きな波に呑まれたり、大きな渦に入ってしまったとき、焦って泳ぐと疲れて沈むんです。でも、どんな大きな鳴門の渦みたいな渦に巻き込まれても、泳ぐのをやめてじっとしているとスポンと吸い込まれて、2,3秒もすればかなり離れたところへポコッと浮かび上がります。
 われわれの人生のいろいろな困難も同じで、われわれが冷静で落ち着いていれば、最低ムチャクチャにならなくてすみます。子どもに、「まあ、しばらくのんびりしてなさいよ。成績がガタガタに落ちたからといって、焦ってすぐ上がるものでもないし、いいじゃないの」などと言っておいて、こっちはこっちで自分の精神の健康を整える。友だちと遊びに行ったり、子どもが嘆いていようが何していようが、全然気にせずに買い物に行ったり、そういう母親のほうが子どもから見たらありがたいと思う。成績が落ちたり、友だちに裏切られたり、失恋したりして暗ーくなっているときに、お母さんにそばでオロオロされたらかなわんでしょう。それよりも、そんなことと関係なしに、「あーあ、あのオバサンは脳天気だなあ」と子どもから思われるようなお母さんでいれば、子どもはそれだけで救済されるんです。(回答・野田俊作先生)

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子どもを信頼したいが落ち着かない

Q 
 子どもを信頼して待とうと思うのですが、心がなかなか落ち着きません。何か良い方法がありますか?

A
 親が不安なんですね。これは心理学の責任が大きいと思う。日本の育児を駄目にしたのは、その責任の半分は心理学者にあると思う。間違ったことをたくさん教えすぎたから。 戦後、発達心理学とか児童心理学とかがどっと入ってきて、間違った知識を広めてしまった。例えば、3歳までにスキンシップをしてあげないと一生駄目になるという知識です。あるいは、子どもの気持ちをわかってあげることが絶対必要で、子どもの気持ちをわかってあげないと子どもは駄目になるという知識です。これらはまったくウソなんです。
 乳児期には母親とのつきあいしかないですね。そのときに不幸なことにお母さんが間違った育児をいっぱいして、その結果、子どもの性格に大きな傷を与えてしまったとします。そうしたらどうなるか。次の幼児期に、お父さんやきょうだいと良い関係が持てたら、母親との傷は全部ご破算です。それも駄目だったとしても、児童期に小学校で良い友だちグループに入って一緒に遊べれば、子どもの過去の傷は治ります。また、児童期にも良い友だちができなくて傷が残ったとしても、思春期になって同性の友だちができて、その友だちとじっくり良い時間が持てれば治ります。それも駄目だったら、やがて異性のパートナーができて良い関係が持てたら治ります。それでも駄目でも、良い精神科医やカウンセラーに出会えれば治ります。
 これはなぜかというと、人間には「正常になる力」があるからです。僕らの体がそうです。どこか怪我をしても自分の力で治っていくでしょう。医学はすごく発達しましたが、実は医学は治してないんです。実は体が自分で治しているんです。外科手術をしても、内科の薬を使って抗生物質でバイ菌をころしますが、バイ菌をころすから治るんじゃない。バイ菌をころしておいたら、体が自分の力で立ち直っていくんです。自然治癒力を最大限に発揮できるように持っていっているだけです。
 人間の精神もそうです。いつも健康になる大きな力があるんです。われわれの育児とか教育というのはときどき間違って、それを邪魔してしまう。邪魔する力をなくすれば、それは必ず正常に自分の力で戻ってきます。すべての対人関係は、それが良い対人関係であれば、人間は正常のほうへ行けます。ですから、3歳までの育児を間違えても、あるいは中学何年生かまでの育児を間違えても、今日からその子が良い関係に入っていけば、必ず良い方向に変わっていきます。
 子どもが小学校1年生から4年生の間であれば、もう親の力というのは、親が悔い改めたとしても、そう大きくはない。40パーセントくらいですか。60パーセントは学校での友だちとの関係、または学校の先生との関係で変わっていく。時間的にもそうでしょう。その子たちが起きていて一緒にいる時間は、親との時間よりも学校の友だちや先生との時間のほうが長いですから。
 中学生くらいになると、親友との関係とか異性との関係とかのほうが、その子たちを癒していく力が大きくなってきます。それを決して邪魔してはいけない。だから、まずその子の正常になる力を強く信じること。これが、親が落ち着く最大の方法です。
 僕たちが普通イメージするいい親というのは、ほんとはメチャメチャ悪い親です。子どもの気持ちが何でもわかって、子どもに対してどんなことでも手伝ってあげる親というのは、ものすごく子どもを駄目にする親です。子どもに向かって、「あなたは大人にならなくていいのよ」と伝えているのと一緒だから。逆に子どものやることにことごとく反対して、全部やる気をくじいてしまう親も悪い親です。
 子どもを援助する力がまったく低い親というのがいます。子どもに何も関心がないし、邪魔者だと思っているような親は、子どもを援助する力は低いです。
 それから、ものすごく子どもに関心があって、子どもを何とかしてやりたい、子どもが心配で心配でしょうがない、かわいくてかわいくてしょうがないという親も、結局子どもを援助する力が低いんです。真ん中へんで何だかそこそこに子どもとつきあっている親というのが、子ども側から見れば一番良い親です。だから、皆さんは心配しなくても、努力さえせずに、心配さえしなかったら、いい母親でいられます。
 人間の母親というのは子どもを育てる力を持っているんです。そうでしょう。われわれは今まで10万年間子どもを育ててきたんです。ですから、僕たちは子どもを育てるように作られています。焦らなくていい。慌てなくていい。
 子どもは叱って育てなければいけないなどという、古い封建時代の名残りのような知識や、一方では新しい時代の間違った知識、スキンシップだけが絶対で、気持ちをわかってあげないと、理解してやらないと駄目だというような知識をまず払いのけて、自然のままでいれば、素直でいれば、心が柔らかくて子どもと一緒に暮らせることを喜べる親であれば、それだけで子どもはちゃんと育つようになっている。だから心配しなくて大丈夫です。(回答・野田俊作先生)

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食事すると吐く19歳

Q
 19歳の子ですが、何か悩みがあり、食事をすると吐きます。徐々に良くなりましたが、今でもときどき吐きます。「自分で解決できるので大丈夫」と言いますが、このまま見守っていてもいいでしょうか?

A
 ああ、この子もきっと注目・関心で行動しているんですね。子どもたちの間で、このごろハヤリなんです。食べて吐くというのが。面白いですね。病気にもハヤリスタリがあるんです。思春期痩せ症とか、拒食症とか、食べて吐くヤツとかは、20年くらい前にはわりと珍しかったです。あるにはありましたが、あった場合は、今より重症でした。死ぬことも多かったし、迫力がありました。ところが最近のヤツは、やたらたくさんあるわりには、みんな軽い。どうやらこれは最近のトレンディーな病気みたいです。あんまりびっくりしなくていいです。
 およそすべての精神的な病気というのは、びっくりしなくていいです。びっくりしさえしなければ、一時的なもので終わります。びっくりして、その子の“相方さん”をしますと、長持ちします。
 (精神的な)病気の「原因」というものはないんです。精神的な病気には「目的」がある。その目的は、さっき言った4つのどれかです。その目的は、人からいろんなことをしてもらうことです。親は親に対しての目的の部分だけ触れる。親にできることは、子どもから親に届くメッセージの暗号の意味を正しく読み取って、正しく対処することです。病気は、他人に向けたメッセージです。
 注目・関心を得るという目的で、食べたり吐いたりしている子がいるとすれば、そのことに注目・関心をしないこと。その人は正常でいたり健康でいたら、親は私に注目や関心をくれないと思っている。だから、病気になることで、こちら側に注目や関心を引きつけようとしている。だから、健康でいることに親が注目・関心をするという姿勢を、親が確立しなければいけない。この病気になるまで、このお母さんは、たぶんかなり安心して育てていて、子どもが普通にふるまうことにあまり喜んでいなかったんでしょう。当たり前だと思っていたんでしょう。
 子どもと暮らしていたり、あるいは子どもだけじゃなくて他の人と一緒にいて、毎日毎日繰り返し起こっていることは当たり前のことで「それをして当然」と思っている限り、その対人関係はいつも危ない関係です。さっきの、間違った4つの行動目標にいつ落ち込むかわからない状態です。毎日起こっていることが相手のすごい努力の結果であり、それは嬉しいことだと感じられるようになると、ここへ落ち込まなくてすむんです。
 ですから、拒食症とか過食症状とかの場合でも、食べる食べないなんか気にしなくていいんです。こういう食べたり食べなかったりする子のお母さんは、そういう食べることに関心がある人ですね。そうでなくてもお料理だとか食べることにわりと関心がある人だと思います。自分の食べることには関心を持ってもいいけれど、子どものそういった個人的なことには関心を持たなくていいです。「あの子が食べたり食べなかったりしたら、私が痩せたり太ったりするかしら」といつも考えてください。あの子が食べなかったり食べたりした結果、太ったり痩せたりするのは向こうのほうでしょう。とすれば、たっぷりその結末を体験してもらえばいいと思います。そうすると、その子は、「これはしょうがない」と思って、きっとやめるでしょう。
 生まれてから死ぬまでの一生を、ずっと健康的な暮らし方をしなくてもいいんです。ときどきは病気をやってみるといい。そうすると人間はとても賢くなる。思春期痩せ症だの過食症だのをやってみると、「これはつまんないわ」ということにやがて気がついて、あとは一生やらなくなるでしょうから、あんまり慌てて助けてあげないほうがいい。その、助けてあげようという働きかけが、かえってアダとなり悪循環となって、その病気を悪くしているのだということに気がついてほしいんです。(回答・野田俊作先生)

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