Q
親がハッピーで自分に問題なければ、子どもを過保護してもいいですか?
A
駄目です。まず、過保護というのが何のことか説明しましょう。過保護というは、「子どものためにこうしてあげたほうがいい、こうしてあげたら駄目」という考え方のことを言うんです。あるいは、「子どもを苦労させないでおこう」という考え方も過保護と言います。将来苦労させないために、今苦労させようというのも過保護。だから、いわゆるスパルタも過保護です。スパルタというのは、この子が将来苦労しないですむように、今うんと苦労させようという考え方ですからね。
アドラー心理学の育児の方針というのは、「責任ある大人」に育てていくことなんです。自分の人生について責任を取れる人間になってもらおうということ。つまり自立というのはそういうことなんです。「私のすることは私の責任であり、私のしたことの後始末は私がします」という人になってもらいたいんです。人のせいにしないで、“悪いあなた、かわいそうな私”と言わないで、いつも「私にできることは何かしら」と考える、そういう人になってもらいたいんです。
だから、僕たちが最初にお母さん方に言うことは、多くの場合、「まず子どもから手を引きなさい」ということなんです。「この子のためにこうしてやったほうがいいんでしょうか、ああしてやったほうがいいんでしょうか、しないほうがいいんでしょうか」とよく聞かれます。ああしても、こうしても、そうしても、どうしても、みんな悪い。なんで悪いかというと、「この子のために」と言っているから。「塾に行かせたほうがいいんでしょうか、行かせないほうがいいんでしょうか」……。これだと塾にやっても悪いし、やらないでも悪い。「この子のために」というところから出てきた答えは全部悪い。これがアドラー心理学の1つの考え方なんです。
ですから、すべてを子どもに選んでもらおう。それがすごくこの子にとって悪そうでも、子どもが選んだことならやってもらおう。それで、あとで起こった結末を全部体験してもらおう。そうすると、「こうやるとこうなる」という具合に、この子は自分の行動について学んでいくだろう。
例えば、私のわがままで、この子にケーキを買ってあげたいと思ったとします。そのときに、「ケーキを食べさせてあげるのがこの子のためになるかならないか」とはあまり考えないですね。ただ、買ってあげたいんですよ。これは過保護ではない。遊園地に行きたいと思って、「今度遊園地に行かない?」と言うのも過保護じゃないんです。最近の遊園地はテーマパークだとかいって、そこへ行くとお勉強ができたりする。これをネタにして、少し勉強させようとか思っていると過保護です。
ある意味子どもを友だちだと思うこと。子どもは友だちだから、こっちが遊んでほしいと思うときに、「ねえ、遊んで」と言うのはかまわないし、向こうが、「遊んでほしい」と言って遊んであげるのもかまわないけれど、「ちょっと学んでもらおう」という下心を持っていると、過保護なんです。
だから、子どもと仲良くするのはすごくいいことです。子どもとはぜひ仲良くしてほしいし、たくさん遊んだらいいと思いますが、「こうしてあげるのがこの子のためにいいだろう」とか、「こうしてあげると駄目だろう」とかいう発想からも抜け出ることができると、本当に仲良くすることもできるでしょう。「この子のためにこうしてあげよう」という発想がある限りは、その下心はちゃんと子どもに見抜かれていて、そのうち、「お母さんと一緒に遊びに行くのはイヤだ」とか「映画を観に行っても、お利口そうなものしか行かないんだもん」なんて言われるんです。“小さな親切、大きな下心”。
こっちにそうした下心がなくなると、子どもと仲良くなれます。そうしたら、向こうからちゃんと頼んでくれるようになります。頼んでくれたことについては協力してあげよう。 僕たちが学んでほしいことは『責任』と、もう1つは『協力』なんです。自分で責任を取りきれないときもあります。自分の力だけでは人間は生きられない。人に頼らないでいろんなことをすべきだろうけれど、どうしても人に助けてもらわなければならないときもたくさんあるんです。セックスについてなんかもそうで、相手に助けてもらってお互い同士が助け合わないと絶対できないですよね。そのときに協力ということが必要になってきます。だから、協力というのを学ばなくてはいけない。『責任』と『協力』というのは、アドラー心理学の2大テーマなんです。
それで、人に協力を頼めるのは、責任を取って生きている人だけなんです。自分の行為に責任を取れる生き方をしている人だけ、人に協力を頼める権利があるんです。全然自分のやっていることに責任を取らないのに、「協力しろ!」と言うのはいけない。例えば、子どもがまったく無責任で、何もしなくて、宿題が出たので、「お母さん、手伝って」と頼んできたらどうするか。本当はやってあげたくないですね。第一、宿題なんて本人の課題ですから。「あなた、自分でやったら」と本当は言いたい。でも、それまでの育児が間違っていた分の罪滅ぼしで、最初はやってあげてもいいでしょう。それまでの育児とはまったく違う育児をするわけですから、極端に一度ストンと反対側に戻してあげないと、子どもたちが学ばないんですが、初めは、頼まれたら何でもやってあげてください。そのうち子どものほうが、だんだんと責任ということを学んできたら、自分でできることは自分でして、頼んでこなくなるでしょう。最終的には、自分の人生について、できる限りの責任を取って、どうしても駄目なことについてはちゃんと丁寧に頼んで、人の協力を取りつけることができるような子どもになれば万々歳です。
ここで言っている過保護というのが、どんなことなのかはわからないけれど、「この子のため」ということなら、それは駄目です。どんなに母親がハッピーでも駄目です。母親のわがままで子どもと遊びたいと思い、子どもに喜んでもらいたいと思ってやるのはOKです。どこかに一緒に行くのも、何も下心がなく、ただの遊びで、友だちだから一緒にいたいというのだったらすごくいいことです。とても簡単ね。(回答・野田俊作先生)
23.アドラーによれば、子供のライフスタイルの発達に影響を与えるのは、
正解:a.子供が自分の扱いが暖かく愛情深いものであると感じた場合。
24.アドラーは、心を乱された患者と協力することに加えて、
正解:子供たちのメンタルヘルスも取り組みました
途中堕落
28.アドラーによると、精神的に健康な人は( )がよく発達しています。神経症の人はそうでない。
正解:a.社会的な関心(共同体感覚)
次の問題
29.アドラーによると、次のうち、各個人に個人の自由を与えるものはどれですか?
a.社会的関心(共同体感覚)
b.ライフスタイル
c.権力への意志
d.創造的自己
e.男性的な抗議
30.アドラーによれば、身体的劣等性を持つ人が社会的に有用になるかどうかは、主に
a.選択の問題である
b.早期の経験
c.カウンセリング
d.遺伝学
31.アドラーはフロイトの理論を( )の創造物と見なした
a.神経症
b.甘やかされた子供
c.職業カウンセリング
d.遺伝学
Q
主人は生活していくお金を入れてくれず、人のためのボランティアみたいなことをしている。私が仕事をしているので、私をアテにしているのだと思う。また、イヤらしい本やビデオを買ってきたりして、主人のことが不潔に思え、口もききたくないし、顔も合わせたくない。どうすればいいのでしょうか?
A
離婚したらよろしいがな(笑)。あのね、最後の手段としてそれは考えておいたほうがいい。イスラエルでは、結婚のときに同時に離婚の慰謝料を決めるんです。万が一離婚したらどのくらい支払うかをね。
離婚イコール不幸だとみんな思うけれど、そんなことないです。離婚は、不幸にすればいくらでも不幸になるけれど、不幸でない離婚はたくさんある。どうしても一緒に暮らせなくて、一緒に暮らすことはものすごく不幸だという事態に陥っているときがあります。そのような、離婚したほうがまだマシだというような場合には、離婚をすればいいと思う。
離婚するときに相手を憎む必要は何もないんです。離婚する夫婦は必要以上に相手を憎んで、その憎しみのパワーで離婚しようとする。それはバカげていると思う。それをやりますと、子どもへの影響までが致命的になるんです。5年でも10年でも20年でも、一緒に暮らしてくれたということは嬉しいじゃないですか。どうしても一緒に暮らせなくなるときが来てしまって、そして別れるとしても、それまでの生活というのは決してマイナスばかりではなかったはずです。それはそれでたくさん感謝すべきことだと思うんです。例えば、お母さんが子どもを引き取るとして、子どもに対してわれわれがしてあげなければならないことは単純明快です。「お父さんとお母さんは一緒に暮らせなくなりました。けれど、あなた方のお父さんであることは変わらない。だから、会いたくなったらいつでも会いに行ってかまわない。お母さんはお父さんのことを今では好きでなくなった。だけど、あなた方がお父さんのことを好きでも、それはちっともかまわない」。これだけ教えればいいんです。あとは何もいらない。
もし再婚するんだったら、「今度家に来る男の人は、お母さんがとても好きな人です。だから一緒に暮らしたいと思う。あなた方もその人と友だちになってくれるととても嬉しいけれど、それはあなたたちが選べばいい。それで、その人はあなた方のお父さんではない。あなた方のお父さんは、今は離れて暮らしているあの人しかいません。だから、“おじさん”だと思っていい。お母さんのボーイフレンド。だから、その人は名前で呼んでかまいません」。
そうすると、子どもたちはちゃんと育ちます。多くの人は、自分の憎しみを子どもたちにも一緒に分かち合おうとしてしまうのね。「私はあの人キライ!あなたたちも好きになってはいけません!」。そんなことを言うから不幸な子どもが育つんです。離婚の影響は決して致命的ではありません。むしろ、非常に夫婦仲が悪いところで育っているほうが、よほど悪いです。
それで、夫婦が一緒にやっていけるかどうかというのは、たくさんの判断の基準があります。生理的なレベルとしては、例えば触られてもイヤという状態になっていると、しんどいですね。臭いとか、肌触りだとか、そういう生理的な触覚的な面がイヤな感じになっていると、とても苦しい。それから、同じ経験をしても、まったく違うところを注目している夫婦は難しいです。具体的な話をしますと、ある男の人とある女の人が結婚をしようとしても、なかなか踏み切れないというカップルがいた。両方ともある程度年を取っていて、慎重になっているんです。だいたい結婚というのは、若い無分別なときはすぐできるんだけれど、少し分別ができると恐くてなかなかできなくなるものですね。それで相談に来たんです。僕(野田)は宿題を出しました。まず2人で食事に行ってもらいました。そのあとで、「レストランはどんなふうでしたか?」と聞いた。すると、男の人は、「あのレストランは入り口のドアが面白くて、大きな木のドアで覗き窓がついていた。中へ入ったら、家具が全部黒い木でできていて、しっとりと落ち着いて良かった」と言いました。女の人に聞いたら、「窓がアルミサッシではなく木の窓枠で、柱なんかもしっかりしたもので、とても良かった」。2人ともまったく料理の話はしないけど、同じ体験をして同じところに注目しているでしょう。こういう夫婦はやっていける。相当違うなぁという夫婦でもやっていけるんです。ところが、一方は「ボーイさんが美男子だ」と言い、一方は「椅子が良かった」と言うのは駄目なんです。レストランに行く程度のことだったらいいけど、例えば子どもが非行化したとか、借金を抱え込んだとか、いろいろなトラブルが起こったときに、まったく見ているものが違うというのは、話し合いが成立しないんです。夫婦自身が、自分たちで問題を解決する力を持たなくなったときというのは、難しい。
第3番目に、この人生に期待しているものが違うときです。ご主人のほうは、波瀾万丈・冒険の人生が欲しい、奥さんのほうは安定した生活が欲しいと言うと、難しいです。究極的にどんな人生でありたいかということは、夫婦がやっていけるかどうかの大事なポイントなんです。
第4番目は、これはそれほど大きくないんだけど、揉(も)め始めると結構大きな要素になるのが、実家の生活水準です。わりと質素に暮らしてきたご主人と、「みすぼらしいものは食べてはいけない」と言われて育ったお嬢さんとが暮らすと、初めのうちはいいんですが、トラブルが起こったときにそれがとても大きなことになってしまうことがありますね。古風な言い方ですが、“家の釣り合い”というのも大事なんですね、結局。
それくらいのところでトラブルがあって、トラブルを自分たちの力で修復する力がないと、離婚ということも考えていい。もちろん離婚しなさいと言うのではなくて、離婚ということも一方では考えておいたほうがいいということです。
このケースですと、まずご主人は、自分のお金をボランティア活動なんかにつぎ込むということが、自分の人生の1つの大きな設計なんですね。奥さんは違う。奥さんは、もしかしたらご主人に養ってもらうのが設計なのかな。そこらへんの食い違いが、調整できるものか、できないことなのかによりますね。全然調整できないんだったら、一応離婚ということも考えながら、今後の生活設計してみる。
夫婦って面白いもので、「別れる」と思ったらいろんなことが辛抱できるようになって、いつの間にかしっくりくるようになることもあります。それは、やはり依存心があるわけよ。奥さんは、理想の亭主に対する期待を現実の相手におっかぶせているのね。「もういつでも別れてやるぞ!」と思ったとたんに、現実の亭主の背後にあった理想の亭主が消えるのね。だから全部辛抱できるようになったりする。このポルノビデオの話も、どうもその類のように思えます。ご主人がポルノビデオを見るのは、まぁいいじゃないですか。元気になられて。“坊主憎けりゃ袈裟まで憎い”で、やることなすことみんな憎くなっちゃっている。というのはね、きっと愛情があるから。
うまくいく結婚生活というのは、自分の理想を相手に押しつける度合いが少なければ少ないほどうまくいくんですね。現実の、この気の合わない男と、どうやって仲良く暮らしていくかを、工夫し始めるとうまくいくんです。あの男をうまく改造しようと思っている間はうまくいきませんよ。うまくいかせようと思ったら、この奥さんはまず離婚のことを考えてみる。亭主なしで暮らすことを考えてみる。亭主なしで暮らすことを考えて、今のほうがまだましだと思ったら、一緒にいること。亭主なしのほうがいいと思ったら離婚することです。(回答・野田俊作先生)
Q
横の関係でいれば怒りがないことはわかりました。私は祖父母とのつながりの中で、敬う心で接してきて、うまくいっていると思います。“平等”と“敬う”ということの関係を教えてください。
A
これは同じことなんです。平等ということは尊敬し信頼するということ。だって、自分は人から尊敬されたいでしょう。人から信頼されたいと思うでしょう。軽蔑されたいと思う人がいますか?いないですよね。ということは他人もそうです。だから、良い人間関係にあるということ、対等で協力的で平等な人間関係にあるということは、お互いがお互いを尊敬しているということ、お互いがお互いを信頼しているということです。お互いがお互いを軽蔑し合って対等というのは、あまり良くありませんね。両方が猜疑心と不信感に凝り固まって、それで対等というのはあまり良くないですね。そんなものはちっとも良い人間関係とは言えない。
相手と、例えばお爺さんやお婆さんと私とが、相互尊敬、相互信頼の対等の関係にあるのが望ましいんだと思う。どうやったらそうなると思いますか?
私がお爺さんやお婆さんを尊敬したり、信頼していたら、いつかは向こうもこちらを尊敬したり信頼したりしてくれるかもしれませんね。私がお爺さんやお婆さんを軽蔑し、不信感を持っているのに、向こうがいつかはわれわれを尊敬したり信頼してくれるということはないだろうね。だからお互い同士に尊敬し合おうとしたら、まずこちらが始めないと仕方がないですね。
学校だってそうで、生徒から尊敬されたいし、信頼されたいという先生は、まず生徒を信頼し尊敬しなければいけない。生徒のことを軽蔑していて不信感に凝り固まっていて、「こいつは放っておいたら絶対に悪いことをするぞ」と思っていて、それで教師を尊敬してくれというのは虫が良すぎる。夫婦間でもそうです。奥さんに尊敬されたいと思っている旦那さんは、奥さんを尊敬しなかったら駄目です。
だから、平等というのは、なぁなぁの仲になることや気安い仲になることということではなくて、自分の最も尊敬する人と同じように、すべての人を尊敬するということなんです。皆さんも尊敬する人がいるでしょう。その人と同じように自分の家族にも、お隣のおばちゃんにも、駅の切符を切っているおじさんにも接することなんです。(回答・野田俊作先生)
Q 子どもの権利の一部を学校が預かって、子どもの健全な成長のため強い管理をするという実態についてどう思われますか?
A ↓
http://www2.oninet.ne.jp/kaidaiji/dai1keiji-5-20.html