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気分がコロコロ変わるのですが……

Q 
 気分がよくコロコロ変わってしまいます。今日は気分がいいなあと思ったら、すぐ落ち込んでしまったり。毎日幸せに楽しい気分で暮らせるコツというのはありませんか?

A
 いいときもあれば悪いときもあるでしょう、そりゃ人間だからね。そんなにずっとずっと幸せに暮らしたら、ただ馬鹿なだけじゃないかな。
 ずっと、ただ幸せでいたいというというのは、目標自体が非現実的です。体がずっと痛みがなくて健康で快適で気持ち良くありたいというのは、非現実的でしょう。風邪を引くときもあるだろうし、食べ過ぎてお腹が痛くなるときもあるし、怪我をするときもありますよね。それと同じように、心もずっと快適で幸せというのは非現実的なんです。
 『日々是好日』という言葉がある。この言葉には由来がありましてね。師匠が、「今月の朔日(ついたち)から今日までどんな日だったか言ってごらん」と、お弟子さんたちに聞いた。誰も答えることができない。そしたら、師匠が『日々是好日』、つまり「みんないい日だったね」と言ったんです。すると、弟子たちが、「そんなことはないですよ。雨が降った日もありましたし、風が吹いた日もありました」「うん、だからみんないい日だった」。
 いい日だというのは、すごくハッピーでラッキーでいいことがいっぱいあったからいい日だというのではなくて、毎日毎日変化があって、その中で生きていかれるからいい日なんです。ずっと気持ちがいいのが続いたら、それは死んでいる。人間として、生き物として生きてない。上がったり下がったりするから人生であり、上がったり下がったりするから生命なんです。
 「今日は調子が悪いじゃないか、何とか調子良くしよう」というのがおかしいの。「今日は天気が悪い。何とかお天気にしよう」というのと同じようなもの。お天気な日もあるし、悪い日もある。対人関係がうまくいっている日もあるし、すごく気まずいことが起きる日もある。それを全部トータルに見て、これが生きているということで、僕たちの幸せなんです。
 対人関係で気まずいことが起こったときに、僕たち自身のパートは変えられるけど、相手のパートは変えられないですよね。イヤな人がイヤなことを言うこともあるでしょう。イヤな人がイヤなことを言ったのも、それは僕らの人生のある日の出来事の1つであって、そしてそれはきっといいことなんだ。すごくイヤなんだけど、きっといいことなんだ。なぜならば……。その先は皆さんが考えてください。
 昔話ですが、僕(野田)の友だちが京都大学に行こうと思って、一生懸命勉強をしていた。ところが落ちちゃったの。それで、昔の二期校の大学に入った。本人にすればすごく不本意だったんです。だから、ずっと不幸そうに暮らしていた。ところが、その大学で恋人ができた。そして、その恋人と結婚しちゃった。その二期校の大学を出たのちに京都大学の大学院を受けたら、これは通った。だから、彼は二期校で4年間ほど寄り道をしたために、人生の伴侶を見つけた。もしも、そこに寄り道をしなかったら今の奥さんと結婚できなかった。彼は今、奥さんのことをすごく愛していて、だから4年間の彼の雨降った日々が、結果的にはメチャメチャいいことだったんです。そんなことは、僕らの人生でふり返ってみれば、誰にでもいつでもあることでしょう?
 あるときに不本意なことが起こったおかげで、あとですごくいいことが起こったということは、絶えずあることです。その不本意なことが起こったそのときは、不本意なんです。それがあとでいいことになるなんてわからないから。でも、ひょっとしたらいいことかもしれない。たぶんいいことなんです。しかも、これは自分で決められるんです。自分でいいことにすることができるんです。「今日はすごくイヤなことがあった。あの人にムチャクチャに言われた。これはきっとすごくいいことなんだろう」と考えれば、いいことにすることができますよね。(回答・野田俊作先生)

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いい嫁と思われたくて……

Q
 86歳になる主人の母と同居しているんですが、私はいい嫁、いい母とかでなくてはいけないと思って頑張ってきたんですが、ここ5,6年は自分自身であまり無理をしたくなくなってきて、私自身がやりたいようにやろうと思いました。主人や子どもにはそれがかえって良かったのですが、母は戸惑っているかもしれないと思うんです。まだ自分でできるので、母から頼まれないことはこちらからはしないようにしているんですが、もしかしたら冷たい嫁と思われているんじゃないかなどと思います。
 私が年を取ったときに余計なことと思えるようなことはしたくないと思うのですが、それを明治生まれの母にしていることに少し罪悪感を感じるのです。

A
 この人はもう一度「いい嫁」をすることができるんでしょうか、できないんでしょうか。できないんだったら、しょうがないよね。
 僕が病院に勤めていたときは、当然おじいちゃんやおばあちゃんたちも診ますわね。特に入院していて少しボケがあるおじいちゃんおばあちゃんたちに、面倒見てあげるとどんどん駄目になっていくんです。おじいちゃんおばあちゃんが、少しご機嫌が悪いくらいが元気で長生きなさるから、少しご機嫌を悪くするくらいの嫁は、いい嫁だったりするんです。自分が年を取ったときにされたくないことはしないとか、自分が年を取ったときにしてほしいと思うであろうことはするというのは、いい判断の基準だろうと思います。「私は年を取ったときにこうしてほしいけど、あのおばあちゃんにしてあげるのはイヤ」というのは、フェアじゃないと思うのね。おばあちゃんの本当の気持ちというのは、結局わからないですよ。僕たちがどんなことしても、それでおばあちゃんが満足なさるかなさらないかは、僕たちが想像するだけでしょう。だとしたら、自分はどうかで判断するよりないですよね。
 お年寄りの自立というのはどういうことかというと、頼みたいことがあったら僕らに頼んでほしいということ。黙って期待しないでほしいということ。僕たちも年を取ったらそうなりたい。例えば、人に頼れないお年寄りというのは困るんです。老人病院とか、老人ホームの介護者とか、あるいは医者とかにとって、一番困る老人というのはどんな人かというと、何でもかんでもべったり頼ってくる老人ではなくて、世話をさせてくれない老人です。できないのに絶対自分ですると決めて、絶対頼まないで全部失敗するお年寄りね。これは困るんですよ。だから、自分でできないことをはっきり認めてほしいんです。そして、それを僕らに気軽に頼んでくれるタイプの老人というのが、自立したお年寄りだと思う。
 やがて僕らも寝たっきりになったりして、シモの世話も人にしてもらわなくてはならないかもしれない。そのときには、観念して世話をしてもらおうと、今から決めておいたほうがいいと思う。イヤだけど仕方ないね。でも、そう決めてるほうが自立しているんですよ。「自分でできる間は全部自分でしよう、そしてできなくなったらあっさりそれを認めよう」と決める。そのときに、「私はこんなに駄目なんだから、当然あなた方が面倒見てくれていいでしょう」とは思わないでおこう。ちゃんとそれは感謝すべきですからね。(回答・野田俊作先生)

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アドラー心理学テスト

2.Adamがいて、+12歳の Bill(28歳)がいる。Bill について推測してください。

解答
2.ビルは、アダムとビルの間に多くのスペースがあるため、家族の中で一人っ子である可能性があります。
 ビルはアダムを親のような人だと感じているかもしれません。
 アダムはビルが学齢期になったときに家を出たので、ビルは両親と二人きりで暮らすかもしれません。


次の問題
3.子供の頃なりたかったもの:消防士
子供の頃怖かったこと:溺死
 このクライアントがあなたに何を言っているのかを推測してください。

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中3の息子が「高校に行かない」と言う

Q 
 中3の男の子なんですが、「高校に行かない」って言うんです。本人は本当は行きたいんだと思うんですが、友だちが行かないから自分もつきあって行かないと言っている部分もあるようなんです。

A
 私の友だちのお母さんの話なんですが、母子家庭でね、その息子さんが中3のときにちょっとグレました。グレるといっても大したことはなくて、犯罪行為もないし、ちょっとした校則違反くらいで、髪の毛を染めたくらいです。彼は結局全日制の高校へ行かなくて、定時制に行きました。しばらく会わなかったんですが、この前たまたま会いまして、「どうですか?」と聞いたら、息子さんは鳶職になったと言うんです。いろんな仕事をやっていたけれど、結局鳶職になって、そこの社長さんがまた中学しか出ていない人で、やっぱり一時突っ張っていた人で、大変可愛がってもらっていて、頑張っているらしい。だいたい月に20万円くらい貰うんだそうです。「こんなにいらないから」と言って、半分以上家に入れるんだって。すごいと思いませんか。お母さんとしては大満足ね。ただね、芦屋に住んでいるの。芦屋というのは関西で高級住宅街なんです。高級住宅街に住んでいるお坊ちゃまが、朝、「鳶(とび)」の格好をして出て行くのがちょっと変な気がしますが、それ以外は何も問題がない。
 全部の子が高校へ行かなくていいし、それから高校へ行くことが人生の幸せにつながるという保証は何もないです。高校に行って不幸になった子だっていっぱいいるんだし、中学校を出ただけで働き始めたほうがずっといい人生を送れるタイプの子もたくさんいます。まず、そのことを考えておかないといけない。みんな、中学だけで世の中に出たら破滅するに決まっていると思い込んでいる。だから、あんまり「高校、高校……」と考えなくてもいいと思う。結局は本人が決めることなんですから。そんなに親が焦らないほうがいい。
 それから、その年ごろの子どもに一生の方針を全部決めてしまえというのも、これは無理です。1年2年いろんなことをやって、「やっぱり俺はちゃんと勉強しよう」と思ったら、それから高校に行き直すということがあってもかまわないし、今何もかも全部決めてしまう必要はないです。だって、15歳の春になって、中学校を出る時点で、全員が「僕の人生はこうやっていくんだ」と決まっていると思いますか?全然決められない子もたくさんいると思わないですか?というか、大部分が決められない子だと思わない?大部分の子は、友だちがあの学校に行くから僕も行こうということぐらいのことだと思いませんか?あの学校だったら友だちに、「僕はナントカ高校」だぞって言えてカッコいいから行こうとか、あそこはちょっと恥ずかしいからやめようとか、制服がカッコいいから行こうとか、あそこの女の子は可愛いから行こうとか、まぁその程度のことです。それでよろしい。それで一生は決まらないから。(回答・野田俊作先生)

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小学4年女子、不登校。クラス替えを学校へ頼みに行ってもよいか?

Q 
 この春に小学校4年生になる女の子のことですが、去年より登校拒否をしていまして、3年から4年になるときは普通だったらクラス替えがないんですけど、親が頼みに行ったらクラス替えをしてくださるという話なんです。頼みに行くべきかどうか悩んでいるんですが。

A
 それは、私に相談するより本人に相談するのが一番いいと思う。親が子どもに相談しないで、「この子にとってどちらがいいだろうか、どうすればいいだろうか」と動くということが一番反教育的です。
 というのは、この子はそのことによって何を学ぶかというと、「私が困っていればみんながきっと何とかしてくれるでしょう」ということを学ぶ。これが自立から一番遠い姿勢です。育児というものの究極的な目標は、子どもが人に頼らないで生きていけるようになるということでしょう。そして、どうしても自分の力ではできないときには他の人にはっきりと頼むことができるということでしょう。こうして自立していくんです。人間が自立している状態というのは、人に頼まないで、一切何もかも自分でするということではないですね。そんなものは無理です。人間というのは他の人に助けてもらわなければ絶対に生きていけない仕掛けになっているからね。
 それで、人に頼むときには「仁義」というものがあるわけよ。私の友だちのあるアドレリアン(アドラー心理学を学ぶ仲間)が、洋服屋さんの重役だったんですが、もうすぐ定年退職になるので、新聞屋さんに転身することになりました。この新聞は世間の新聞とは全然違うところが一か所ありまして、これはいいニュースしか載せないんです。悪い話は全然載っていないという新聞を出すんだそうです。それでインタビューを受けまして、夫婦関係で男と女のトークについて連載することになったんです。それで、夫婦が円満に話をするために最初にわかっておかなければならないことは、「頼みごとがあれば頼め」ということです。普通は、頼みごとがあっても頼まないんですね。ムスッとしてたりね。つまり(素振りで)わかってくれると思うわけ。様子や表情で気持ちを察してくれることを期待する。それは駄目なんです。頼むべきところではちゃんと頼まないといけない。「どうしてあなたは、そうやっていつも家に帰ってきたら寝てばかりなのっ!」と言うのは、ものを頼んだ言い方ではない。「すみませんが、お皿洗っていただけませんか?」と言える奥さんが、自立した奥さんです。頭が痛いふりをして、それとなくお皿を洗わせようとするとか、「どうしてあなたは寝てばっかりいるのっ!」と攻撃すると動くようになると思っている奥さんは、自立していない奥さんです。これが、人間として自立していることと自立してないことの分かれ目です。頼むことがあれば頼めるということ。
 子どもたちを教育していく中で、すごく大事なのはこのことです。「頼むことがあれば頼んでください」というメッセージを絶えず送っていること。だから、「学校のクラスを替わったほうがいい」と彼女が思うんだったら、頼むべきなんです。ほんとはこちらからたずねてあげなくていいんです。向こうから言ってくるべきなんですが、今までそういう「頼むべきことは頼む」という習慣を学んでいない子どもたちは、仕方がないからこちらから聞いてあげるしかない。「学校のクラスを替えてもらったほうがいいかな、どうかな?」と聞いて、彼女が答えたことで動けばいい。(回答・野田俊作先生)

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