Q
「悩むという仕事」をしている自分に気がつきます。どうしたらあれこれ悩むことをやめられるでしょうか?
A
やめればいい(笑)。私たちは悩むのが好きですね。「悩む」代わりに「困り」ましょう。悩まないで、「ああこれは困った」と思う。違いがわかりますか?
解決法を考えるときには、感情的にならないことです。いくつぐらい方法があるか冷静に理性的に考えてみる。1つも解決策がないとしても、それは感情的になっても解決しないです。
孔子聖人があるとき旅行をしていて、野原の真ん中でとうとう食べ物もなく、泊まる家もなく困ってしまった。すると弟子が、「君子(くんし)でも困りますか?」と聞いた。孔子は、「君子は初めから困っている」と答えた。君子はいつも追いつめられて困っている。ただ、悩まないです。クヨクヨしない。感情的にならない。「小人(しょうじん=徳の乏しい人)はみんな乱れる」と孔子はおっしゃる。「乱れる」仕事にエネルギーをつぎ込んで、「困る」ということをしっかりやらない。
だから、悩むのをやめて困ることです。困った結果、道がないときには、困るのもやめる。困ったって一緒だから。そのときは、天に任せます。
悩んでいるときには何を困っているかがわからない。どんな解決策があるか見えなくなる。でも、実は全部あるんです。どんな場合にも解決策は必ずあるんです。例えば、死ぬということ。死ぬとき、われわれはどうすればいいか?死ぬときは死ぬ。(浩→良寛様みたい)。でも、そのときでもまだわれわれは選べるんです。「イヤだイヤだ」と言いながら死ぬか、喜びながら死ぬかどっちかを選べる。どっちを選んでもOK。「イヤだ、死ぬのはイヤだ」と言って死んでみようと決めると、度胸が座る。そう思いませんか?それから、「死ぬというのはいったいどんなものなんだろう。初めての体験だから楽しみだ」と胸をワクワクさせて死ぬのも、やっぱりハッピーです。
だから、「選べるんだ」ということがわかっていて、自分で選べば問題は解決するんです。私たちは、感情的に動揺していると問題が解決するような迷信を持っているんです。怒っていたり、後悔していたり、焦っていたり、不安になっていたりすると、きっと何とかなるんじゃないかと思っている。だからすぐ悩んじゃう。
それから、相手が感情的になっていると、どうしたらいいと思いますか?まず、その人と「つきあうかつきあわないか」が選べます。つきあわないことも選べます。どうしてもつきあわなければいけない人もいます。そのときは、イヤイヤつきあうか喜んでつきあうかが選べます。徹底的にあからさまに、イヤな顔をしてつきあうことだってできます。自分で選べばね。だって、それは相手にイヤな顔をさせられているんじゃなくて、私がイヤな顔をしているんですから。このことさえわかっていれば、人間は悩まなくてもすむんです。相手が感情を使うのは相手の勝手で、こっちはどうすることもできない。本当は「自分がどうしたいか」だけなんです。でも、僕たちは被害者だと思うのが好きなんです。相手にさせられていると思うのが好きなんです。自分の責任でなくなるからね。(回答・野田俊作先生)
Q
私は今、障害児学級の担任をしているんですが、できるだけ健常児に近づこうという発想で行動療法的なやり方をするのが一般的で、どうかすると訓練することになり、調教師が動物に芸を仕込むような感じになります。私は何か間違っているような感じがするのです。彼らもある時期が来て彼らの発達段階が来たらおのずとできるようになることを、無理に今しなくてもいいような気がするんです。
A
それはノーです。それは間違っています。あるトレーニングをしたらできるようになるということがわかっていて、それをしないで自然の発達に任せようというのは犯罪です。それは健常の子でもそうなんです。あることを教えてあげればできるようになるのに、みすみすそれがわかっていて教えてあげないというのは、教育の責任を果たしていないんです。
大事なポイントは、達成できる“過程”を子どもが楽しめばいいんです。そして達成できたことを子どもが喜べるようにしてあげる。工夫はここにあります。僕たちが子どもにあることを教えて、子どもがそれをできるようになって、こっちだけが喜んではいけない。子どもと一緒に喜び合えるような状況を作れば、子どもはそのトレーニングをすることが楽しくなります。良い行動療法家はすごく楽しい治療をします。
大阪にSさんという重度自閉症治療の天才がいますが、彼の治療はとても楽しいんです。行動療法にも下手な行動療法家と上手な行動療法家がいます。いつでもそうです。行動療法がいいとか悪いとかというのではなくて、下手な行動療法は駄目だし、いい行動療法はいいということ。大阪には行動療法の名人が多いです。彼らは見事で、ビデオを見ていても行動療法をやっているという気がしないんです。ほとんど普通の遊びのように思えるんだけど、子どもがどんどん変わっていく。感動しますよ。下手な行動療法家がやると、いかにも行動療法らしく行動療法をします。
障害者の人には、まだ子どもの時代に、僕たちの言うところの“生活力”をできるだけ身につけさせてあげたいですね。自分で着替えができるとか、身の回りの世話がきちんとできるようになるとか、それから友だちとあまり暴力的でなく関係を持てることとかいうのは、とても大事なことです。算数ができるようになることよりも、まず生活力が優先です。身辺自立が優先です。それを曲芸というふうに考えるのではなくて、生活力に結びついたことを教えていると考えたほうがいいですね。(回答・野田俊作先生)
Q
先生からお聞きした「幸福の条件」の1つに、自分が社会に貢献しているという感じを持つことというのがありますが、障害者であればそこの部分が難しいような気がするのですが。
A
だから、障害者の人も、「障害者として人の役に立つ」という工夫を自分でしなければならないんです。われわれ健常者も、健常者として人の役に立つ工夫を自分でしなければならないでしょう。役に立つ盲人とか、役に立つ聾唖者とか、役に立つ身体障害者とかにならなくてはいけないんです。だから、工夫しなければならない。重度の人でもそうなんです。
で、例えば極端な話、植物人間はどうしたらいいか。僕たちは、あまり植物人間の人たちの心配はしてあげなくてもいいんです。冷たいようですが。というのは、彼らは、「どうしたら幸福になれますか?」と聞いていないから。聞かれないことには答えなくてもいいです。もしも、「あの人たちも幸福にならないといけない」と思うとしたら、それは同情しているんです。「重度障害でものすごい発達遅滞(知恵遅れ)とか、植物人間に近い状態とかという人たちが幸福でいてほしい」と思ったりするとすれば、それは僕たちがその人たちに同情しているんです。同情しているということは、こっちが上で向こうが下なんで、縦の関係です。だから、そういう問題は別にしましょう。
盲目の人や、聾唖の人とかが、「どうやったら幸せになるでしょうか?」と、もし僕たちに聞いてきたら、これは答えられます。「あなたのその障害を抱えながら、他の人たちの役に立つ工夫をしてください」と言えます。その人たちが僕らに幸せについて問わないのに、僕らがその人たちの幸せについて考えるのは、とても傲慢だと思います。僕たちが、その人と仲良くつきあうというのは、これは僕たちの側の課題です。僕たちはちゃんと彼らとも仲良くつきあうべきだと思う。でも、彼らを幸せにしてあげようという態度自体はとても傲慢だと思います。(回答・野田俊作先生)
Q
頭を打ったときに、もしかしたら脳内出血をしていたらと不安になります。そんなことはないと思っても体がパニックに陥って、胸がドキドキ気分も悪くなり、自分自身がほとんどわからない状態になってしまうんです。
A
要するにこの人は不安なんですね。僕はこの人がやっている仕事の意味を知っています。頭の中に「病気のリスト」があるんです。歯を磨いて出血すれば白血病だと思い、足が痛いと骨肉腫だと思い、胃が痛いと胃癌だと思う。ずっと毎日、自分の不幸を頭の中のリストに書いていくんです。「今日はこんな不幸があった。体はこんなにボロボロだ……」。こういうふうに長々と同じ話をしているんです。
この人をカウンセリングしたらどんなふうになるかというと、きっと毎回同じ話を聞かされるんですよ。「どうでしたか?」と聞くと、「先生ねえ、私、脳内出血しているんじゃないかと思うの。20年前に頭を打ったでしょう。あのときから出血し始めたんじゃないかと思うの。それで心配で心配で……」「それは先週聞きました」「でもね、どうしても話を聞いてもらいたいんです」「聞きたくありません」「これを話さないと次へ進めないんです」「その話だけは聞きたくないんです。あなたはもうその話をよく知っているでしょう。毎日毎日繰り返し、同じことを自分に向かって言い続けているでしょう」。
その言い続けている目的は何でしょうか。なぜこの人は自分に向かっても、他人に向かっても、同じ「病気の心配」を言い続けて暮らすのでしょうか。それは、(他の)“ある話”をしたくないということなんです。そのある話とは何かというと、それは本人に聞かなければわからないですが、例えば夫婦関係が悪くて、その夫婦関係をもう少し良くしたいとかということに対して、真剣に取り組もうとしていないということかもしれない。そのことに対して、病気を口実にして、そこから逃げようとしているんです。
だから、神経症的な不安とかこだわりとかを強く持っている人は、自分自身に、一度その話をするのを全面的に禁止してください。頭の中でそのリストを読み上げ始めたら、「それはもう私はよく知っている」と思ってください。「私がこれ以外に本当に心配していることは何なのかしら」と思ってみる。そうしたら見つかります。
それはきっと「対人関係の悩み」なんです。必ず100パーセント。そしてそれは「自分と親しい人との関係」です。例えば夫婦の問題、例えば親子の問題です。そこを本気で解決する気にならなければ、ここから一歩も進むことはありません。
私はこの話を(本気では)聞いてあげませんからね。私はこの話を聞く必要が何もないもの。だって、カウンセリングというのは、その人自身が自分についてまず学ぶことだから。「私はなぜこんなふうなのか」をまず学ぶこと。この話はもうすでにこの人はよく知っているから、今さら繰り返して学ばなくてもいいんです。本当はそうなのに自分がよく気づいていないことを学ばなくてはいけない。だから、「この話は聞きません」と言って、カウンセリングは引き受けます。これ以外の話を聞きたいから。(回答・野田俊作先生)
Q
ここ2,3日、クラスが騒がしい状態で、授業が落ち着いてできません。
A
ああ、これは授業がつまらないんだ(笑)。授業を面白くする工夫をしたほうがいい。学校の先生は、不思議なことに、こういうことについて心理学に頼ろうとする。心理学に頼る前に教育技術を上げたほうがいいです。その技術がかなり上がってきているのに、なお問題が起こっているんだったら、これは心理学の領域です。
結構いい授業をしているはずなのに、何だかザワザワしていることがあります。それは、子どもたちの間に何か問題が起こっているんです。ぜひ、その子たちとよく話してみてください。どんな素敵な話があるのか、どんな素敵な計画があるのか。授業中にでも話さなければならないことが起こっているのかもしれない。このことに関心を持つんです。別に批判したり、アドバイスしたり、やめさせる気はないけれど、担任としては知っておきたい。そう思って、ちょっと情報を流してくれるようにお願いします。そうすると、いろいろわかってくるでしょう。
私たちに聞くよりも子どもに聞くべきです、いつでも。「こんなときにどうしたらいいんでしょうか?」と私(野田)に聞くより、「何が起こっているのでしょうか、私はどうしたらいいでしょうか?」と子どもに聞いたらいいと思います。(回答・野田俊作先生)