Q
繰り返し本を読んで、アドラー心理学を納得してはいるのですが、現実には、実践することは大変難しく思います。なぜ変われないのでしょうか?
A
変わりたくないからですよ(笑)。この答えじゃ愛想がないかな。
一度に何もかもしようとするから難しいんです。“一点突破”です。人間は、一度にたくさんのことができない。だから、とりあえず今週の目標を決める。「1日に1回、家族を勇気づけよう」と決めると、とにかく勇気づけることしか考えない。子どもでも夫でも誰でもいいから、とにかく1日1回でいいから、「勇気づけの言葉を出してやるぞ」「出してやるぞ」「出してやるぞ」と思って暮らして、子どもが帰ってきたときに、「今日、元気そうね」と言ってみる。それなのに子どもに、「元気じゃない。頭が痛い」と言われて、裏切られたりするかもしれないけれど、「頭が痛いの?でも正直に『頭が痛い』と言ってくれてありがとう」と言ったら、「そんなの正直も何もあるか!」と言われたりして、失敗しながらも、とにかく“勇気づけ”というものを身につけていくんです。
あまりこだわらなくても、わりと自由にできるようになったと思ったら、次は例えば、“お願い”です。それまで命令してしまっていたところを、何とか“お願い”というのをやってみよう。1日に1回は“お願い口調”を使うと決める。「ちょっと、こっちに来てもらえないかな」と言ってみるとか、あるいは、「子ども話をよく聞く」と決めたら、何でもいいから、「子どもの話を最後までしっかりと聞いてみる」という練習をする。
そうやってその都度その都度、自分が問題だなと思っていることを1つだけ、1週間2週間3週間4週間お稽古して、そうやって、心に染み込ませていくというか、醸(かも)し出していくというか……、そういうプロセスがないと、アドラー心理学は上手にならないんです。
アドラー心理学が上達するコツについて、「3つの方法を同時にしなければならない」と、アドラー自身が言っています。
1つは、本を読んだり講演を聞いたりして理屈をちゃんと学ぶこと。
1つは、学んだことを1つ1つ丁寧に、生活の中で実践していくこと。
1つは、実践の結果について、他の人たちと意見交換をしていくこと。
その3つともないと絶対に学べないと言っていますし、私もそう思います。ですから、一度に全部しようと思わないでください。(回答・野田俊作先生)
Q
“お金”についての相談です。私は、未成年の子どもがむやみに多額のお金を持つことは、好ましくないと思っています。
A なぜでしょうか?
Q 当たり前ですが、子どもはお金があればあるほど良いと思っているようです。
A 私(野田)も思っています。
Q 小遣いについて子どもと話し合ってもなかなか折り合いがつきません。兄弟がいるので、例えば中学生と小学生の差額があれば、それもまったく納得がいかないようです。子どもの小遣いを認めないわけではないのですが、“お金”について、子どもに納得のいく説明ができません。日々悩まされています。何かアドバイスがあればお願いします。
A
私は別に多額の小遣いがいけないとは思わないです。子どもが自分で管理して、使う力をつけていくことが大事だと思います。子どもが百万円持っていてもかまわない。そのことで子どもと権力争いしようとは思いません。
私のところではどうしていたかというと、一応お小遣いをあげていました。それプラス、労働に応じた正当な報酬というのがありまして、働くと1時間あたり400円くらいの給料を、いろんな作業について出していました。だから、子どもがお金を稼ぐ気になれば簡単に稼げました。高校も最初からではないんですが、ある程度の年齢になると、学校に隠れてアルバイトをするのを許容しました。アルバイトで結構稼いで、高校を出たとたんにアルバイト的に完全に自立をしまして、あんまりお金を出さなくてよくなりました。
うちの子どもたちは、みんな浪費家です。よく使います。その代わり、よく使うからよく稼ぎます。大人になったときに、ケチケチ貯めて貯金したって、銀行の利子がいくらだと思います?そんなことしてるより、パアッと使って、パアッと稼ぐほうがいいんじゃないですか。私は何となくそう思っているので、うちの子どもたちは、全員浪費家に育ちました。そして、全員とても働き者に育ちました。そんなんでもいいんじゃないですか。
だから、労働でお金が稼げるシステムを小さいときから作っておいて、「お金がいるなら働いてね」と言って働いてもらう。たくさんお金を持つのはいいことだと思います。(回答・野田俊作先生)
Q
小さいころ、身体的な部分で劣っていることを親戚の人に言われ、いまだにコンプレックスになっています。どうしたらこれを、コンプレックスと感じないようにできるでしょうか?
A
身体的な部分って何かわからないけど、誰でもみんなどこか劣っているんです。すべての点で問題のない体を持っている人って、世の中に1人もいないんです。鼻筋が少し曲がっているだの、少し出っ歯だの、おっぱいが小さいだの、肩が張ってるだの、撫で肩だの、何かあるんですよ。誰でもみんなそれを気に病むんです。誰も気にしてないのに、本人だけはそれを気に病みます。気に病むから、「だからどうしよう、こうしよう」と思う。
人間には劣等感があって、その劣等感を補償しようと思う。その補償の仕方は、大きく分けると3つあります。
1つは、劣っている部分を何とか矯正しようと思う。できるものとできないものとがありますが、できるものとしては、例えば、痩せていて貧相な体だと思うから、スポーツして筋肉モリモリになったとすると、劣っている部分をそのまま補償したんです。私も、もう少し激しい器官劣等性が子ども時代にありました。今もありますけど、それは、赤緑色盲です。橙色と黄緑の区別がちょっとつきにくいんです。水色とピンクもちょっと危ない。これは大変不便でした。スケッチするのに不便で、隣の子に聞かないといけない。「これは橙?それとも緑?」と。聞くのはかなりイヤなんですが、しょうがないからずっと聞きました。で、結局、目に関すること、特に色彩に関することは避けて通るという側を選んだんです。つまり、そこは鍛えませんでした。鍛えても無駄だなと思ったし、眼科のお医者さんに「訓練したら治りますか?」と聞いたら、「治りません」とはっきり言われました。それじゃあ、もう目は駄目。代わりにどんな補償をしたかというと、耳です。聴覚的な力をうんと伸ばしたんです。例えば、聞いたことはわりと覚えています。記憶力がいいと言われるんですが、私は“しつこい”んだと思う。“執念深い”のね。どっちでも同じことです。それに音楽好きですし、耳で聞いてものを理解するのが好きです。だから、私は、自分の“劣っているんじゃないところ”で補償する人です。体がすごく弱いからお勉強をしっかりして頭が良くなったとか、あるいは、頭がすごく弱いから体を鍛えて運動が上手になったとか、そういう感じのことです。
3番目には、諦めて、自分では駄目だから人に頼るとか、人のせいにするとかして、自分で努力しなくなる。これはやっぱりまずいですね。なるべくそうしないで、鍛えられるものならそれを鍛えるし、鍛えられないものなら、違う自分の能力を伸ばしていくほうが建設的だろうと思います。
みんな誰も、自分の体で悩んでいるんです。このごろ私は、“お腹”について悩んでいます。下を見るたびに、「たくさんお肉があるなあ」と思う。悩んでないで、何か実行したほうがいいんだけど、実行するほどの気にもならない。(回答・野田俊作先生)
Q
次男の登校拒否、軽い非行、高校中退。苦悩のまっただ中にいるとき、アドラー心理学を教えてくれた友人がいました。とにかく、少しでも明るい雰囲気に持っていくことに努力して、今では私は落ち着いていますが、20歳になった次男は今は閉じこもりです。
しかし、おかげで小さなことに喜びを発見できるようになりました。もっと若いときにアドラー心理学を勉強できたらと思います。ありがとうございました。
A
ありがとうございます。閉じこもりになっていても大丈夫です。ちょっとでも非行をした子はエネルギーがあるからね。だから、この世の中で面白いことさえ見つかれば、立ち直れると思います。このごろ、ポイントはそこだなあと思うんです。
今の子どもたちはわれわれのころと違って、すごくつらいんです。われわれのころは、「大学へ行ってヘルメットをかぶって教授を殴る」という明るい未来がありました(笑)。髪の毛を腰まで伸ばして、オランダあたりでマリファナを吸って、ヒッピーになるという明るい未来があったんです。みんな何とかかんとか大人になったら、面白く暮らせそうだと思っていたんだけど、今の子どもたちってそういう遊びがなくなった。
コンピューター・ゲームなんか、ヘルメットかぶってデモするのに比べると、あれはやっぱり面白くない。だからそんなんでなくて、何か燃えられること、面白いこと、オートバイに乗って走り回るでもいいし、山に登るでもいいし、海に潜るでもいいし、サーフィンするでもいいし、そんなのが1つ見つかると、すぐ人生は開けると思います。サーフィンボード1枚買うためにも、バイトせんといかんでしょう。そいつを海まで運ぶためには、車がいるでしょう。免許もいるし、相当働かないといけない。
だいたい、人間というのは遊ぶために働くんですよ。われわれの親の世代は、遊ぶというのは罪悪で、ただ働くために働いたんですが、ああいう人たちが第二次世界大戦を起こしました。遊ばない大人って良くないと思う。若い人たちにはもっとたくさん遊んでほしい。われわれの世代に比べれば、あの人たちは遊ばないと思います。だから、子どもに遊ぶように言ってください。「何でも面白いこと、やってちょうだい」と。(回答・野田俊作先生)
Q
「自主的に動く」と「主体的に動く」の違いは?
A
わりとみんなこんな質問をしますねえ……。
「自主的」とか「主体的」とかいうのは、「クジラ」とか「オットセイ」と一緒で、引き出しのラベルなんです。例えば辞書、広辞苑とかその他の辞書を読むと、いろいろ書いてありますが、中身はあんまりアテにならない。辞書というものは、まあ一般的な日本語で書いてあるわけで、辞書に書いてあるのは、ある学者がある論文の中で、ある文脈で使った言葉ではないんです。こういう「主体的」とか「自主的」とかいうのは、まあ哲学的というか科学的な言葉で、そんなのはある学者がある論文なり本の中で、ある文脈で使うから、そのひと言はみんな違います。だからその人の元の文章を読まないとわかりません。
私には私自身の使い方があって、「自主的」という言葉は使いません。論文の中で学術用語としては使いません。使った覚えはありません。「主体的」は使ったことがありますが、辞書と違う、ものすごく変わった定義で使っています。
アドラー心理学の基本前提に「個人の主体性」というのがありますが、「自主的」と「主体的」の違いは、私の中では比較できません。なぜなら、「自主的」という言葉を使わないから。そして、私の使っている「主体的」は簡単に説明できないから。何ページも論文を書かないといけないことだから。それは、広辞苑なんかに書いてある意味とは違います。いつも科学的に使われている言葉というのはそうなんです。
例えば、「サクラ」はバラ科の植物です。でも「サクラ」は「バラ」とは違います。バラ科というのは、「バラ」のことではない。「バラ」と共通のある特徴を持った花の咲く植物の一群を「バラ科」と学者たちが言ったんです。それは「バラ」ではない。「キャベツ」はアブラナ科ですけど、「キャベツ」は「アブラナ」ではない。そんなふうに学術的に使われている単語というのは、たまたま世の中で辞書に載っている単語と一緒であっても、いつも意味は違います。だから、「自主的」とか、「主体的」とかいうのも、使う学者によって全部意味が違います。あまりそんなところにこだわらないほうがいいと思います。ある学者の書いた本とか、論文とかを読んで、そこで使ってあるとおりに使ってあるんです。(回答・野田俊作先生)