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 「あなたが決めることよ」をイヤがる娘

Q
 小学3年生、女の子の母です。……
A
 途中ですが、自分のことを「小学3年生の女の子の母」なんて紹介しないほうがいいですよ。例えば、「自分は37歳の主婦です」くらいから始められたほうがいいです。ご主人の肩書き、「○○会社の課長の妻」とかいうふうに自分を定義していると、自分じゃなくなるかもしれない。外のもので自分を決めているからね。特に女の人は、子どもや配偶者に自分の地位や立場を決めてもらうのでなくて、「私は私」というトレーニングをしておいたほうが楽しく暮らせそうですよ……。ごめんね、変なところを揚げ足取って……。
Q
 アドラー心理学を学んで3年です。「アドラー心理学はスポーツです」と言われたことを深く納得しています。頭と口先だけの私を、子どもは時に見抜いているようです。責任を学んでほしい、自分のことは自分で決めてほしいと思って、「あなたが決めることよ!」と言ってきましたが、ある日のこと、「お母さんの『あなたが~よ!』というのがとてもイヤなんよ!」と激しく言われて驚きました。「選択権はあなたにあるのよ」と言われ、冷たく突き放されたような、また押さえつけられた感じを、彼女は受けていたんだと気づきました。きっと、責任を学ばせようと思っている私があるからなんでしょうね。
A
 「あなたが決めることよ」と、私はあまり言いません。私は、うちの子どもとつきあうときも、自分の生徒さんとつきあうときも、何か向こうが決めるべきことをこっちに相談してきたら、「お好きなように」とか「私は知らん」とか言っています。とても無責任でしょう。「あなたが決めることよ!」という“あなたメッセージ”をやると、嫌われます。「私は知らん」と言うと、冷たいけれど、“私メッセージ”だから、あまり嫌われないんです。だって、私は知らんもん。みんな、いろんなことで相談に来ます。「高校を替わろうと思うんだけど、伯父さんどう思う?」。「俺は知らんよ、そんなこと。あなたの思うようにしたら?」でしょう。だから、「私は知らない」「私はそれに関与できない」「私の仕事じゃない」というふうに言っています。
 アドラー心理学を学んで、ときどきこうやって子どもからパーンとパンチを喰らって、それでまた賢くなるんです。考えて考え直して、ちょっと言い方を工夫して……。完璧な“アドラー・ママ”なんてこの世に存在しないので、いつもどこかおかしな抜けたことをやっていて、それで誰かに言われて、「あっ、そうか」と出直して、そしたらまた別のところが抜けていて、そうやって一生暮らすんです。それってすごく素敵じゃない。一生仕事があって。(回答・野田俊作先生)

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学校を休みがちな高2娘、親の手助けは?

Q 
 野田先生のお話を聞いていて、自分は“楽観主義”でなくて“楽天主義”だったのかと思ったりしたのですが……。
 さて、高2の娘のことです。3学期より学校を休みがちになり、授業にあまり出ていなくて、担任の先生より「進級がどうなるか…?」と連絡を受けました。本人は努力しているようですが、帰宅が9時ごろになります。あまり勉強もしていない様子です。ここでなければと期待して入学した学校なのに、まわりのせいにしてこうまで変わるのかと思います。「友だちの悩みを聞いていると帰宅が遅くなる」と、理由を言います。父親とは喧嘩状態で口をききません。単位をもらおうと努力しているようですが……。
 親の手助けの仕方について、何か良いお話がありましたらお願いします。

A
 さてね……。
 うちの子どもたちは大人になって話のネタがなくなったと思ったら、ちょうど姪っ子が問題を起こしてくれました。弟の娘です。
 この4月から3回目の高校1年生です。素敵でしょう。最初、大阪の学区で一番優秀な高校へ進学しました。けれど高校へ入ってから、「雰囲気が気に入らない」と言うんです。「どうするの?」と聞くと、「別の学校へ替わる」。だけど、公立高校は転校できないんです。それで、去年春に1年生を受け直して、2番目に優秀な高校(私の母の母校ですが)へ替わりました。それで、行くかなと思っていたら、だんだん息切れしてきて、留年になりました。どうするかなと思ったら、「来年もう1回1年生やるわ」と明るく言う。「まあ、ずいぶん丁寧に勉強するんだね」と言ったんだけど…。
 弟の奥さんが、心配して相談に来ました。「お兄さんは専門家でしょう。うちの娘と会ってやってください」と言うから、「そりゃ、会ってあげます。小さいときからおなじみですから」と言って会いました。
 彼女が言うには、「周囲で応援して『勉強しなさい』とか、『学校へ行ったほうがいいよ』と言うと、余計に行きたくなくなる」んですって。年ごろから見ても、それもそうかなと思います。だから、「何も言わないで、見ていてほしい」と言う。「将来心配じゃない?」と聞くと、「何も心配ないよ。ゆっくり高校出るから」と言っているから、まあそんな考え方もあるからいいんじゃないかと思っています。本人が「放っておいてくれ」と言うから、「じゃあ放っとくよ。お母さんを説得して、放っておくようにするからね」ということになりました。
 うちの家族はみんなわりと仲が良くて、「あの子どうしよう?」と相談したら、「それじゃあ、もう何も言わないで見ていよう」と、親・きょうだい・伯父さん・伯母さんは決めました。「本人のするようにさせよう」と。
 ところが、学校が聞いてくれません。学校から親に電話してきたときに、親が「本人のするように任せますわ」などと言うもんだから、担任の先生もスクールカウンセラーもえらい心配しまして、「伯父さんは確かアドラーの先生…でした?」と言って、私のところへ電話がかかってきました。「もしもし、お宅の姪御さんのことですけど、このままでは心配です」と言うので、私は「心配しているのはあなただけです」と言いました。「親も子どもも、伯父も伯母も誰も心配しておりません。ここで子どもを信じきれるか信じきれないかが、子どもの将来を決めていくんだと思います。みんなで心配して、「大丈夫?」と言えば、大丈夫でなくなるだろうと思うから、われわれはとにかく信じてみようと思います」と返事をしました。なんで彼女を信じることができるかというと、それはやっぱり彼女と話をしたからなんです。
 だからこの場合も、一度話してみるといいと思います。「あなたのことを信頼して、心配せずに見ていていいのか」「それともわれわれに何かできることがあるのか」「してほしいことがあったら、言ってくれればするし…」。
 「何もないから、安心して見ていて。もう1年留年して頑張ってやるわ!」なんて明るく言われたら、それを信じて、もう1年留年して頑張って明るくやってもらうことだと思う。
 楽天的というのは、何もしないで「どうにかなるわ」と思うことです。楽観的というのは、「やることは一応全部きっちりやろう。それできっと道が開けるだろう」と思うことです。それじゃあ、今やれることは何なのか?私の仕事は何なのか?親なら親が今しなけりゃいけないことは何なのかを考えないといけない。すると、まずそれは、子どもの人生のことだから、子どもに相談しないで動いちゃいけないことがわかります。だから、まず子どもと相談してみよう。相談するというのは、要するに子どもから注文を取ることです。「何かしてほしいことがありますか?」。あるいは、こっちとしてもぜひ売りつけたい商品があれば、「こんなこともできるけど、どうだろうね?」と聞いてみる。断わられたら、それまでです。引き受けてもらえれば、それをやる。だから、まず相談すること。そして、してほしいことがあるかどうかと、こちらにやりたいことがあったら、それをしてもよいかどうかをたずねること。何もなかったらお茶でも入れてくつろいで暮らすことです。(回答・野田俊作先生)

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夫婦喧嘩

Q
 今日、夫婦喧嘩をしたまま講演会に出席しました。原因はたわいもないことです。でも、そのせいで昨日の夕方から今日の昼までずっと不機嫌でした。原因は奥さんに鼻の穴に指を突っ込まれたこと。つまらんことで怒ったと今は思っています。何かアドバイスをください。

A
□夫婦喧嘩の目的
 これはとても面白い話題ですね。お話の中にちょっと変だと思えるところがあります。というのは、夫婦喧嘩をしたままこの会に出席するために家を出なくてもよかったことを、この人は知っているんです。「ゴメンね」と言ってから出てもよかったんです。でもそうできなかった。つまり、そのときそうしたくなかった。
 どうしてそうしたくなかったかというと、そうすると負けたことになるから。どうしてそれをすると負けたことになるかというと、権力闘争をしているからです。どうして権力闘争したかというと、奥さんと「縦の関係」があるから。奥さんと「横の関係」にまだ入りきれてない。だから、課題は奥さんとどうやったら勝ち負けじゃなくて、本当に協力的な対等の人間関係を築けるかというところにあります。そうすれば、そもそも夫婦喧嘩をしないかもしれない。してもすぐ終わる。
 原因はたわいもないことだと言われてますが、でもこの方は原因を覚えていましたから大したもんです。多くの夫婦は覚えていないから。
 華やかに喧嘩する夫婦ほど、「初めは何だったの?」と聞いても、全然覚えていない。途中経過は覚えています。向こうが投げたお皿のこととか、こちらが投げたエビフライとか。喧嘩の最初の原因というのは、どっちみちたわいのないことです。大事なのは喧嘩の結果です。
 アドラー心理学は目的論の心理学です。すべての行動には目的があると言います。だから、喧嘩にも目的があります。アドラーに喧嘩の話をしたらきっと、「で、結局どうなったの?」と聞かれる。結局どうにもならなかった。何も生まれはしなかったし、何も決着しなかったという場合には、アドラーは、「つまり君たちは喧嘩をしたかったんだ」と答えたでしょう。
 喧嘩というのは、エキサイティングなゲームです。だから好きな人が多い。あまりいい趣味ではないですが。この夫婦もこの可能性がある。喧嘩を通して「つながっているな」「僕たちは夫婦なんだ」ということを確認している。というのは、そういう形でしか確認できない部分があるから。もっと仲良しで確認できませんか?

□やっぱり喧嘩は破壊的
 昨日の夕方から今日の昼までというのは、ずいぶん長いこと不機嫌なんですね。その不機嫌というのは、何か良い成果を生んだんだろうか。この不機嫌の結果、彼は何か素晴らしい幸せを手にしたのだろうか。奥さんは明るい未来を手に入れることができたのだろうかというと、そうでもないですね。この感情は、結局、破壊的な感情です。確かに仲良しの1つの形態として喧嘩をしてるんだけど、この積み重ねは明るい方向へは行かないです。今は仲良しの一形態として喧嘩をやっていても、将来他のことで、例えば浮気したりして、そんなので本気で喧嘩したときに、このときの喧嘩は悪いほうの証拠として記憶の中から引っ張り出されます。「あのときだって、私がちょっと鼻の穴に指を突っ込んだだけで、あなたは1日中怒っていた。私に謝るチャンスも与えないで講演会へ行ってしまった」てなことを奥さんはきっと言う。特に女性の記憶はそういうふうにできていますから。女性の多くは、「悪いあの人、かわいそうな私」というのがすごく好きです。好きというより、喧嘩の武器にそれを使う癖がある。男性はもっと直接攻撃的になりますが、女性は自分は被害者だということを証明することで、相手を攻撃するという戦略をとることが多いので、こういう出来事は将来ものすごくマイナスな評価として奥さんの記憶から湧き上がってくる可能性はある。だから、ないほうがいい。
 「夫婦喧嘩するのは仲良しの証拠だから、大いにすればいいじゃないですか」と言う人はいますが、しないですませられるならそれにこしたことはない。だから、しないですむ方法を考えましょう。

□夫婦喧嘩のコツ
 原因は、奥さんに鼻の穴に指を突っ込まれたことですね。さて、このときにどう言えば喧嘩にならないですんだのか(対処行動の代替案)を考えてみる。これが反省です。
 正しい夫婦喧嘩のコツが3つあります。言っていいことが2つと言ってはいけないことが3つがあります。それを知っていると、うまくできます。
 言っていいことは、「あなたのしたことで私は傷ついた。鼻の穴に指を突っ込まれるのはイヤだ」。それから、「だからやめてほしい」とか、「鼻の穴に指を突っ込まれるのは不愉快なんで、それをしないようにしてほしい」とかというようなこと。自分が感じたことと、これこれこうしてほしいという要求はOKです。
 言っていけないことは、まず、相手を罵ること。「馬鹿」「スケベ」とか、そんなことは言わない。それから「相手の考えていることを当てようとすること」。「あんたほんとは私のことを嫌いなんでしょう」とかです。当たっていてもはずれていても駄目。そもそも相手の心を読むというのは、喧嘩のテクニックとしたら、ものすごく汚い。絶対にこじれる。人の気持ちがわかるふりをしてはいけない。ほんとはわかんないから。相手の心を読まないこと。それから第3番目に、相手のコミュニケーションのやり方に口を挟まないこと。言葉尻ね。「その言い方は何よっ」とか。最後の“よ”と言った後ろに、“っ”の小さいのがついていて、「“よっ”て何よっ」とか。そういうことでムカッとしたりするんですが、それを言わないこと。その3つをやめます。
 そうすると、言えることはさっき言った2つだけ。「鼻の穴に指を突っ込まれるのは嫌いなんでやめてください」と言うと、まあ普通の奥さんだったら「そう」と言います。「これ気持ちいいでしょう」とは言わないです。それですむと思います。
 奥さんがちょっかいを出してくるのはいいチャンスです。そのときには、「それは私には不愉快だからやめてほしい」と言うことに決めておくんです。一度言えたらあとは簡単に言えます。最初の1回だけちょっとしんどい。でも何か悔しい。それだけ言ってやめるのは。
 それから、「こじれているときのコミュニケーションは最小限にする」というのがコツです。こじれているとき、コミュニケーションをしないのはまずい。何も言わないでいると、永久にこじれた状態が続くかもしれない。最低限言わなきゃいけないことは言わなきゃいけないけど、最低限にすること。でも、こじれているときに限って、たくさん話したくなるんですね。

□恋人時代に帰ろう
 親子とか夫婦とかは、調子がいいときはあまり話題がないんです、あんまり。だからお互いが退屈している。喧嘩をし始めると無限に想像力が働く。結婚以来のすべての疑惑・因縁がズズズッと芋づる式に湧いてくる。
 建設的な会話、夫婦が良い感じでできる話のレパートリーを作らないといけないと言われますが、本当はあるんですよ。婚約時代、あるいは新婚時代。どんな夫婦だって、婚約時代や新婚時代には、つまんないことをペチャクチャ毎日おしゃべりしていたでしょう。恋人たちを観察していると、「こいつら、よくこんなアホなことを1日中しゃべってて飽きんな」と感心します。本人たちはすごく楽しいんです。そのころに話題だったことを思い出してほしい。やっぱり夫婦がうまくやっていこうと思ったときに、繰り返し繰り返し思い出さないといけない。婚約時代に何をして遊んだか。これは夫婦の基本的なテーマです。だから、例えば婚約時代に2人でよく映画に行ったんだったら、また2人で映画に行ったらよろしい。婚約時代によく旅行に行ったんなら、旅行に行ったらよろしい。旅行まで行かんでも町内散歩でもよろしい。2人でパチンコに行ったんならパチンコに行ったらよろしい。
 そういう夫婦の基本的な遊びのテーマに戻ること。おしゃべりもその時代にどんな話をしたかを思い出して、その話をしたらよろしい。そういうプラスの話題があんまりないというのが、こういうようなマイナスのコミュニケーションをやらなければならない理由です。

□決死の覚悟で
 夫婦は何もしないで無為自然にしていると、だいたい退屈します。イヤになります。夫婦というのは、ちょいと努力しないと、維持できない仕掛けになっている。「そんなの水臭い」と言う人がいる。水臭いったって、水臭くて仲が良いのと、水臭くないけど喧嘩ばかりしているのとどっちがいいですか?ちょっと努力して、仲が良いほうが私は良いと思います。お互い同士をやっぱり大事にしたいと思います。
 この奥さんは最初に鼻の穴に指を突っ込んで、注目関心を引こうとしたわけです。ということは、この旦那さんも、奥さんの注目・関心を引きたいという基本的な動きがあった。きっとそうですね。対人関係の構造が「注目関心構造」で、この夫婦は「注目関心性格」です。それがときどき「権力闘争性格」に変わります。またしばらくしたら「注目関心」までは戻るけど、そこよりもっと前へ戻るかどうかが気になります。もっとポジティブな方向に向けよう。「注目関心の構造」があるときに、もっとポジティブな構造へ帰ることを考える。もしそれがあれば、滅多に注目や関心をこんな方法で引くということは起こらない。だから、「君と一緒に暮らせて嬉しい」とか、一度決死の覚悟で言ってみます。あとはわりとスラスラ言えますから。「どうも条件反射で言ってるな」とわかっても、奥さんのほうは嬉しい。そして、「あなたと一緒に暮らせて嬉しいし、結婚できて良かった」と言っていたら、そう思えてくる。そして本当にそうなってくる。関係全体が「いかにわれわれが結婚できて良かったか。いかにわれわれが一緒に暮らせて嬉しいか」ということを証明しようと動き始めるから。いつもプラスの側に思い込んじゃうこと。そしたらそっちへ少しずつ変わっていきます。

□“ベキ”の迷い道
 もう1つ、マイナスの感情に気がついたときに、反省したり落ち込まないためのコツがあります。怒っているとか、あるいは復讐心に燃えているとか、何かイライラしていると気がついたときに、なぜわれわれは落ち込むかというと、「怒ってはいけない」とか、「復讐心に燃えてはいけない」とかと思っているから。つまり、「心はいつも穏やかであるべきだ」と思っているから。いつも優しく愛に満ちて暮らしているべきだと思っているから。これは違うんです。「べき」じゃない、「怒ってはいけない」とは私は言ってない。「怒らないでいることができるよ」と言ってるんです。「復讐心を持ってはいけない」ではなくて、「復讐以外のやり方もあるよ」ということ。その違いをわかってほしいんです。「べき」「べきでない」という考え方は、人間を不自然にします。
 アドラー心理学が目指す生き方というのは、聖人君子の言う「ベキベキ」が全部実現できるタイプの理想じゃない。「自然に生きられる」ということ。われわれが自然に生きられないのはなぜかというと、いっぱい「べき」があるからです。「べき」も、合理的じゃない「べき」があるんです。だいたい、「べき」とか「目標」とか、こうなろうという「理想」というのは、そんなに合理的じゃないです。小さいときに決めたものですから。われわれの理想というのは、最近決めたんじゃない。昔決めたんです。子ども時代に。大して経験もないころに、大して知識もないころに、親が教師が言ったことを鵜呑みにして決めたんです。「あなた、腹ばっかり立てちゃ駄目よ」とか、「穏やかな円満な人になるのよ」と言われて、「そうだ、円満な人になろう」と思った。ところが、その親は、穏やかな円満な人でもないんです、全然。円満じゃないんだけど、親はそう言う。子どもは素直だからすっかり信じちゃう。で、「怒ってはいけない。復讐してはいけない。穏やかであるべきだ」と思い込んだ。そんな目標があると、道に迷います。私はどこへ旅行に行っても、道に迷いません。広島も岡山もウロウロしましたが、一度も迷わなかった。なぜかというと、どこへ行くか決めてないから。歩いていれば全部正解です。旅行ってそういうものだと思う。私は旅行に行くと、1日に20キロか30キロくらい歩きます。しかもきれいな名所旧跡めぐりとか山歩きじゃなくて、街歩きをします。広島も岡山もどこでも案内できるくらい、歩き回りました。そうやって歩いている途中にプロセスがある。ちょっとしたお店があったり、おそば屋さんがあったり、面白い造りの家があったりする。
 目標さえなければ、人生に迷うことはない。どこにいても正解です。反省したり落ち込むというのは目標があるから。マイナスの感情を持たないでおこうという目標があるので、それからそれると、「あ、道に迷った。えらいこっちゃ」とパニックに陥ってしまう。

□人を操作する癖
 どうして悪いマイナスの感情を持ってしまうかというと、相手に何かをさせるためです。感情にも目的があります。その目的は、相手に何かをさせること。怒りの感情の目的は、だいたい相手に今やっていることをやめさせたり、やってないことをやらせたりすることですね。まずそれに気づくことが大事です。
 「私はいったいこの感情で、例えば復讐心とかイライラする感じ、落ち込んだ感じ、あるいは鬱状態、あるいは不安、あるいは怒りとかでもって、誰に何をさせようとしているのか」。そんなふうに考えたことはないでしょう。憂鬱で、「あ~ぁ」とため息をつきながら、「かわいそうな私・悪いあの人」あるいは、「イヤな性格さん」と言いながら、私は誰に何をさせようとしているのかを考えてみる。
 例えば、奥さんが落ち込んで、がっかりしている。そのときに、「あの人は冷たい。こんなときぐらい会社から早く帰ってくればいいのに」と思っているとすれば、つまりご主人に早く帰ってきてほしいんです。これがわかれば、そう言えばいい。「すみませんが、今夜は早く帰ってきてもらえませんか」と言えばいいだけのこと。何も落ち込んで病気にならなくていい。子どものころ、われわれの親は、僕らが落ち込むと言うことを聞いてくれたんです。子ども時代には、「お父さん、お願いだから今夜早く帰ってきてくれない?」と言ったら、「お父さんだって忙しいんだから」と聞いてくれなかった。でも、僕らが病気になると、早引きしてでも早く帰ってきてくれた。だから、小さいころから感情とか病気とかを使って、人を操作する癖がついているんです。
 アドラーの育児では、「子どもの感情に反応して動いてはいけない」と言います。「子どもがソブリで示しているときに動かないで、ちゃんと頼んでくれたときに動いてください」と。それはその子どもたちが大人になったときに、感情で人を操作する癖をつけないように、ちゃんと言葉で人にお願いできるようになってもらいたいからです。
 感情的に怒りや落ち込みや不安の強い人は、まずその感情の使われ方・目的を意識していないし、それから目的をたとえ意識していても、それをうまく言葉で相手に伝える技術がないんです。だから、どうやったらこれを相手に伝えられるか、冷静な言葉で考えてみてほしい。もしも口で言えないんだったら、書いてでもいいから、相手に示せるようにする。

□ただ尊敬する
 それから、イヤだなあと思う人に対して、好きになるためにその人のことを「かわいそうな人なんだ」と思うのはまずいです。無理に良いところを見つけようとするのはどんなもんかな。かわいそうな人だというふうに相手のことを思うのは、縦の関係です。つまり、同情するということでしょう。
 心理学用語に「共感」というのがあります。「同情」というのもある。よく似ていますが全然違う。「かわいそうに」と思ったら同情です。「あっ、この人はこんなふうに感じてるんだな」と思ったら共感です。共感というのには価値判断がない。相手が良いか悪いか、かわいそうかかわいそうでないかという判断がない。相手がいい状態だと思ったり、悪い状態だと思ったり、そしてこっちの感情がそこへくっついちゃうと同情です。
 「あの人はかわいそうだ」と思うのは、相手を尊敬していない。尊敬している人のことをかわいそうだとは思わない。アドラー心理学が教える最も基礎にある考え方は、「他人を尊敬しよう」ということです。「あの人は私の尊敬する人だ」とまず思ってみる。
 どうして尊敬するのか。無理に良いところを見つけようとするのはどうかという話と関係があるんですが、なんであの人を尊敬するかというと、理由はないんです。人間だからです。ただそれだけ。いいことをしたから、「あの人こんないいところがあるから尊敬する」とかいうんではない。別に長所見つけをやって悪くはないですけど、やんなくったっていい。ただ尊敬する。あの人をただ尊敬しようと思って、自分が一番尊敬する人とつきあうようにつきあってみようと決心する。教師だったら生徒に対して、自分が最も尊敬する人とつきあうように一度つきあってみよう。そして、その結果何が起こるか実験してみよう。夫は、妻が自分の最も尊敬する人であると思って声をかけてみよう。そしたら何が起こるか。
 「そうしなさい」と言っているんではありません。いつもアドラー心理学は、「こうしなさい、こうすべきだ、こうでなければならない」と言っているんではなくて、「こういう実験をしてみませんか」と提案しているだけです。こういうふうにするとうまくいくとか、それはこうすべきだとか、こうしたら私が良くなる、相手が良くなると思っていたりすると、うまくいかない。自分が一番尊敬する人とつきあうようにつきあってみて、何が起こるか見てみようというくらいの好奇心でやると、欲がないから、無欲は強い。

□茶坊主の話
 司馬遼太郎だったか、池波正太郎だったかの話で、あるお殿様が茶坊主をすごくかわいがっていた。参勤交代で江戸へ行くとき、その茶坊主を連れていこうと思った。ところが、茶坊主を連れていっては駄目なんです。武士しか駄目なんです。茶坊主は武士じゃない。そこで、その茶坊主に武士の格好をさせて、参勤交代に連れていった。
 江戸屋敷にいた茶坊主さんが、あるときお使いを頼まれた。ところがお使いに行く途中、刀の鞘(さや)が通りすがりの侍の鞘にパシッと触れた。これはえらいことです。“鞘当て”と言って、向こうのお侍がひどく怒りまして、「武士の魂を汚された」と、決闘を迫られた。それで、「決闘を受けますが、私は主人持ちの身ですから、主人の用事をすませてそのあとで相手をします。夕方の○○どきに××へ来てください。武士に二言はございません」と言った。
 それから、剣で有名な千葉周作先生の所へ飛び込んだ。千葉先生はちょうど風邪を引いて寝ていた。「ぜひ千葉先生にお会いしたい」「病気だから会わない」「それではほんのちょっとでいいから、ひと言アドバイスしてほしんです。私は今から決闘して死にます。でも私は茶坊主で俄(にわか)武士ですから剣術をしたことがない。だから斬られて死にますが、主人持ちの身であるから、ぶざまな斬られ方をするわけにはいかない。侍として立派に斬られる方法をひとことご教示願いたい」と必死に頼んだ。
 千葉周作先生は、「それは面白い。今まで斬り方を聞きに来たやつは多いけど、斬られ方を聞きに来たやつはおらん。じゃあ、会おう」。で、千葉先生は何と教授したか。簡単です。「まず、刀を抜きなさい。そして目をつむって刀を上段にふりかぶる。そしてじっと待ちなさい。そのうち相手に斬られたと感じ、ヒヤッと冷たい感じが体のどっかにあるから、それがあったらとにかく大上段にふりかぶった刀を振り降ろしなさい。それは相手に当たるか当たらないかわからないけれど、ただ斬られたことにはならない。武士としても面目が立ち、尋常に勝負して斬られたことになる」。
 それで茶坊主さんは、その時刻に約束の場所に行ってただ刀を持って構えた。決闘だというので、見物人もいっぱい集まってきた。千葉先生に言われたように、目をつむって刀を振り上げて待っていた。で、相手の侍が、もう来るかもう来るかとと思っても全然来ない。いつまで待っても。まわりがあんまりザワザワするから、パッと目を開けた。そしたら、侍が泣いて平伏している。「参りました。私は今までかなり剣が強いと思っていたけど、あなたぐらいの剣豪には会ったことがない」と。「実はそうではない。私は茶坊主あがりで、剣術は全然やったことがない。さっき用事をすませたらすぐ千葉先生のところへ飛び込んで、死に方を教えてもらってそのとおりにやっただけなのです」と正直に話した。相手のお侍は、「それはすごい話だ」と言って、一緒に千葉先生にお礼に行こうということになった。千葉先生も大いに喜ばれて、めでたしめでたしというお話です。

□遊び心で
 つまり、「ああしよう、こうしよう」という気があると駄目なんです。結局無欲であるしかない。親が子どもを、教師が生徒を何とかしようというところから発想していると駄目です。「そうだ、これをやってみよう。それで何が起こるか見てみよう」という、好奇心というか、遊び心というか、そんな気楽なところで動かないと駄目です。
 イヤな子を好きになるというのも、とにかく一度その子をすごく尊敬して、いい子なんだと思って、そんなふうなペルソナ(仮面)をかぶって、ちょっと数日やってみよう。一生やりなさいと言われたらイヤです、私でも。1週間くらいならやれます。とりあえず1週間やってみる。それで何か起こるか、それから考えてみる。(回答・野田俊作先生)

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性格について

Q
 自分は穏やかな性格で、おとなしい気の弱い子だと思って育った一方で、家庭の中では、短気でわがままで自分のことが嫌いで育った。そして、他の人には腹をあまり立てないものだと思っていたのに、最近どうもずーっと腹を立てている。人を好きになれないという気がしてならない。
 「自分がまず相手を好きになればいい」と言うが、それができない。相手の予想外の面を見つければ、好きになるかもしれないが、アウトラインを1つでも教えてください。

A
□「できない」と「したくない」
 1つだけ嘘がありますね。気がつきましたか?それは、「自分がまず相手を好きになればいいと言うが、それができない」というところです。これは嘘なんです。「できるんですがしたくない」というのが本当です。
 僕たちが、これは私にできないと思うときは、もう一度考えてみよう。「人間にはできないことはない」とアドラーは言いました。人間にはしたくないことはある。「私はあの人を好きになりたくない」と言うのはOKです。「好きになりたくない」と言っているときには、責任は全部自分で取っているから。ところが、「私は好きになりたいんだけど、好きになれない」と言っているときには、誰が責任を取るのか。かわいそうな“性格さん”という人(?)の責任です。「私の性格が、私に、あの人を嫌いにさせているので、悪いのは私ではなくて、私の性格だ」と言っている。こうやって、いつも“性格”が犠牲者にされている。
 僕たちは性格の話をするのがすごく好きです。例えば、血液型性格判断。あれは、ありとあらゆる実験や、また心理学的な綿密な研究で、どれも結論が一致している。それは嘘だと。性格と血液型はまったく関係ない。私の友だちは心理学者ですが、彼は血液型がO型で、みんなから「典型的なO型性格だ」とずっと言われてきた。本人もそう思っていました。大学へ入ってしばらくして、彼は献血をしました。そしたら実はA型だったんです(浩→『華麗なる一族』の主人公とその父親がそうでした)。だから、血液型の性格分類なんて、まったく当たらない。にもかかわらず僕たちは、血液型の話が大好きです。
 血液型よりも、もっとアテにならないはずの星占いの話も大好きです。どうしてかというと、自分の性格のことで、例えば、「あなたは徹底して何でも物事を突き詰めてやるほうだ」などと言われると、何かあったときにそれのせいにできるからね。習慣とか性格とか生い立ちとか、また環境とか遺伝とかというものは、ずっとそうやってわれわれの自分自身の責任でないという言い逃れのための口実として使われてきたんです。

□“思い込み”が私を決める
 だから、アドラー心理学はそういう話をするのが嫌いです。きっと、責任逃れの口実にそれを引っ張り出すに違いないから。
 「できない」とは言わない。できないときに「いったい何が私にそれをさせないか」を考えてみる。それは、私の決断が、私の決心が、私にそうさせないんです。だから、「できない」んじゃなくて、「したくない」んです。まずこのことを最初に知っておく。「自分が相手を好きになればいい」と言うが、「それをしたくない」んです。 
 それで、「外では自分は穏やかな性格でおとなしい気の弱い子だと思って育ってきた」とおっしゃいましたが、「思って育ってきた」というのは、すごく正確な言い方だと思います。「私はこんな人だ」と自分で思うんです(浩→“自己概念”)。で、決めていく。「私はおとなしい子」だとか「私はおしゃべりだ」とか「私は無口だ」とか「私は勉強のよくできる子だ」とか「勉強ができない子だ」とかいうのを決めます。
 初めは、子どもが自分自身を決めるときには、わりといい加減な根拠で決めます。小学校1年生くらいのときに、たまたま学校の先生が、「あなたって上手に絵を描くのね」と言ったんで、「自分には絵の才能がある」と決めつける。決めると、そっちの方向へ動く。「自分は絵が上手なんだ」と思った子は、絵を描くチャンスを増やすでしょう。だから実際に上手になっていく。「自分は算数ができるんだ」と思った子は、算数に投入するエネルギーを増やします。だからできるようになっていく。できるようになった結果、「私は算数ができるんだ」と思います。思った結果、また投入するエネルギーを増やします。そうやって、悪循環の反対の“良循環”になる。
 悪循環もそうです。「私は算数が嫌いだ」と思ったら、どんどん嫌いになって、どんどん苦手になる。最初は、ちょっとしたことです。根拠なんてないんです。
 子どもの生まれつきの素質というのは、まずそんなに変わらない。きょうだいは遺伝的には同じものを持っているから、そんなに変わらないはずですが、実際育っていくとすっかり違う。遺伝が性格を決めるのではない。
 では、環境が決めるのか?まあ、かなり影響しますが、決めるのは「本人の思い込み」(主観)です。「私はこんな人だ」と決める。思い込む。それで方向がどんどん変わる。で、この人は、「私はおとなしい気の弱い、外では穏やかな性格だ」と思った結果、そうなったんです。もし違うことを思ったら違う人になったでしょう。違うことを思えば、違う人になれます。今まで30年なら30年、「自分はおとなしい子だと思ってきた。しかし違うんだ、私ってすごい活発な人なんだ」と何かのチャンスに思い込めば、そうなります。急にはなれないけれど、強く思い込んでしまえば、やがてそうなっていきます。
 マインドコントロールという言葉を聞いたことがありませんか?強く望むとそれは必ず実現する。こと、自分に関しては絶対そうです。「私はこうだ」と強く信じれば絶対そうなります。自分と関係ないことについて信じて駄目ですね。「お日様は西から昇れ」とか強く願っても絶対そうなりません。だから何ができて何ができないはあるけれども、こと自分自身の性格だとか、自分自身の生き方ということに関しては、自分で決めたとおりになるんです。
 「家庭の中では短気でわがままだと思った」というのも、そう思ったんですね。そう言うふうに決めたんです。家族以外の人と2人ペアになるときは、「私は穏やかでおとなしく気が弱い」という役割を演じよう。それから家族という名前のついた人と一緒にいるときは、「私は短気でわがまま」という役割を演じようと決めたんです。

□仮面劇を演じている
 性格は英語では「パーソナリティ」ですね。ラジオでおしゃべりする人のことじゃないです。パーソナリティの語源の、“ペルソナ”というのは仮面のことです。ギリシア劇は、仮面劇です。日本の能も仮面を付けます。仮面を付ければ全然変わるでしょう。男の人が女の人の役もできるし、女の人が男の役もできるし、優しい役も、恐い役もできます。同じ役者さんでも雰囲気がガラッと変わります。性格というのを、西洋ではそういうふうに例えています。パーソナリティ、仮面性。「相手がこの人だから、私は今この役をするんで、この仮面を付けよう」と、自分で付けるのが性格なんです。
 西洋には、もう1つ性格を表す「キャラクター」という言い方があります。これも役割という意味ですが、いつの間にか遺伝的に決まっている性格のことを言うようになって、パーソナリティとはちょっと意味が違います。普通、キャラクターは「性格」と訳し、パーソナリティは「個性」とか「人格」と訳します。だから、キャラクターはパーソナリティみたいに、ポンポンと入れ替える仮面という感じではない。
 西洋の心理学では、パーソナリティというものは固定的でずっと存在するものだとは考えられなかったんです。その場合場合に、ポンポンポンと付け替える仮面にすぎないと思われてきた。この人もそうで、仮面をつけ替えてある役割を演じている。
 で、その役は自分1人でやっているんじゃなくて、相手側の期待もあるんです。この家族の中で、短気でわがままをやっていると、家族が短気でわがままな人だと思ってつきあってくれるでしょう。こっちが、短気でわがままでない穏やかなおとなしい気の弱い人のふるまいをしても信じない。「あなた今日、熱があるんと違う?」と言って、コミュニケーションがうまくいかない。だから短気でわがままをやっているほうが、いつもの手順でしゃべれる。もし恐いお母さんが急に優しくなったら、子どもはパニックを起こす。どうしていいかわからないから。恐いお母さんというのは本当はイヤなんだけど、恐いお母さんなら、こっちがどうすればどうなるか、動きが完全に読める。そのお母さんが「SMILE(PASSAGEの前身)」なんかに参加して、付け焼き刃で急に優しくなったら、子どもとしてはまったく読めなくなる。悪いことでも読めるほうが、まだましです、何も読めないより。だから家族はすごくイヤがって、できるだけ元の形に戻そうとするでしょう。

□アドラー宣言を
 「短気でわがまま」と決めている人は、家族から短気でわがままと扱われて、短気でわがままでないふるまいをしたときに、家族は短気でわがままでいるように期待してくるので、つい短気でわがままという役割をまた引き受けてしまう。だから、結局グルグルとそこに戻って、性格は変わらない。家族と一緒にいるときにはね。外ではすぐ変わります。大事なことですね、この知識は。
 僕たちが子どもとつきあうとき、あるいは夫婦間でつきあっていくときに、最初向こうがびっくりするということを知っておきましょう。アドラー心理学を知って、やり方を変えるときに、今までつきあってきた人たちが驚くだろう。驚きの程度は、こっちの変わり具合によるでしょうが。急にものすごく変わったりすると、離婚することだって起こりえないことではないです。
 だから、最初に宣言しておいてください。「今から変わります」と。「アドラー心理学を勉強して、今までのやり方を変えます。最初のころは、どう変えていいかわからんから、とにかくいろんなことをやります。すごく失敗するかもしれませんが、びっくりしないでしばらく見ていてください。元の私に戻そうとする努力はやめてください。前のほうが良かったと言わないでください。とにかく途中は具合が悪いかもしれないけど、辛抱してください」とちゃんとお願いしておいてください。それくらい言っておいたほうがいい。そうしないと、元に引き戻されますから。

□知らないのは私だけ
 そういうふうにこの人は育ってきたわけです。それで、外では他の人にあまり腹を立てないほうだと思ってきたんです。ところが、最近どうも腹を立てている、好きになれないでいる気がしてならないということですが、「私はみんなに腹を立てないんだぞ」と決めているからといって、腹を立てないわけにはいかないんですね。「私は穏やかな人で、めったに腹を立てないです」と自分で決めていることと、それから実際に腹を立てているということは、あまり関係ない。腹を立てないコミュニケーションの仕方、怒りという感情を使わないで、怒りが達成しようとしている目的を達成する方法、怒りじゃない方法で人とつきあうやり方を学ばない限り、怒りは自然に起こります。
 ですから、自分が腹を立てない人だと思っていて、本当はずっと腹を立てているという人はたくさんいます。「あの人はいつもずっと怒っているわ」とまわりの人はみんな知っているんだけど、本人は、「私ってすごく穏やかな性格だなぁ」と思っている。無意識というのはそういうことです。無意識とは何かというと、まわりの人が全員知っていて、当人だけが知らないことのことです。
 「人を好きになれないでいる気がしてならない」ということに気がついたというのは、偉大な第一歩です。本当の自分自身に気がつき始めた証拠だから、すごくいいことです。このことで落ち込まないこと。「私はみんなに腹を立てていて、ずっと1日中怒っているんだ」ということに気がついて、「なんて馬鹿な私」と思わないでね。それに気がついたら、そこから抜けられるから。

□まず自分にいたわりを
 「自分がまず相手を好きになればいいというのは、できない。それはしたくないんだ」というのがわかりました。ところで、相手を好きになるためには、自分を好きでないと駄目なんです。「私は自分のことが大嫌いです。でも人は好きです」というのはありえない。僕たちは他人にひどいことを言います。僕なんか口が悪いから、すごくたくさん言います。ですが、距離の遠い人ほどあまり言いません。道で通りすがりのおじさんに、「あんた、ブサイクな顔をしていますね」と言うと、どんな目に遭うかわかりません。でも、例えば自分の子どもとか配偶者だと、それくらいのことは場合によっては言うかもしれない。距離が近くなればなるほど、相手の勇気をくじいて、傷つけるようなことをわりと平気で言っちゃうんです。
 一番ひどいことを言われているのは誰か?それは自分自身です。自分に向かってはムチャクチャな言葉づかいをします。「なんて駄目な男なんだ、俺は!」ぐらいなことは結構頻繁に言っている。「なんて駄目な男なんだ、お前は!」と、他の人に向かっては滅多に言わない。他人に向かっては絶対言わないくらいひどい言葉を、自分に向かっては絶えずかけるので、かけられている自分の側は、本当に勇気がくじかれて駄目になっていく。そうやって自己嫌悪ということになります。
 だから、一度何かショックを受けたときや自分が失敗したときとか、うまくいかなかったときに、自分が自分にかけている言葉をチェックしてください。それを全部、優しいいたわりの言葉に変えるんです。「あっ、なんて駄目な男なんだ、俺は!と思ってるな。これはやめよう」と。「僕はすごく努力した。一生懸命努力したから、まぁ失敗してもいいじゃないか」というふうに思うわけです。こうやって自分に向かってトレーニングをします。
 同じ出来事に対して、できるだけ勇気づけの言葉を使うトレーニングをすると、他の人に向かっても使えるようになります。自分に向かってひどい言葉づかいをしている人は、他人がイヤなことをすると、自分に向かってかけているのと同じ言葉が頭にパッと思い浮かびます。「なんてイヤなやつだ、こいつは」。それを少し和らげて変えて言うだけなんです。そのままでは言えないから。それをやっている限り、基本的には相手が嫌いなんです。

□ボクは天才!
 最初に、一番ひどい言葉づかいを思いつくというところから脱却して、勇気づけのメッセージを考える。そのために自分を相手に稽古する。これは誰にも害を及ぼしませんから。自分を勇気づけるとき、人を勇気づけるときと1つだけ違うポイントがあります。それはほめてもいいということ。メチャクチャほめるんです。「お前はエライ!お前は天才だ!お前のような自分を持てて俺は幸せだ」。自分と自分の間には縦関係ができない。でも、子どもに言っちゃいけない。子どもに、「お前はエライ!お前は頑張った」と言っちゃいけない。それは子どもを支配することになる。でも、自分には言ってもいい。
 自分を勇気づけるのは、だからすごく簡単です。世の中でほめ言葉と言われていることをいっぱい1日中言って暮らす。「なーんて僕は賢いんだろう。天才じゃないだろうか」。2~3週間もやってごらん。すっかり自分が好きになってくるから。
 思い込めばそうなる。自分に向かって「俺は天才だ」と言っているとそうなります。天才までいかなくても、「すごく優しい人間だ」ぐらいのことを思っていると、本当に優しい人間になる。そこへエネルギーを投入し始めるから。1日の中で、「あんないいことをした、こんないいこともした」と思うようになると、それが増えていく。僕たちが意識したものが増えていく。「あんな悪いことをした、あんないけないことをした」というのを意識すれば、それが増えていく。
 反省は僕たちを変えない。われわれが「悪いことをしたなぁ、あれも良くなかった」といくらリストを書いても、実際またそれが起こるでしょう。いくら反省してもやっぱり同じ失敗をしてるでしょう。というのは、反省の仕方がまずいからです。反省するなら、「こうすればあれをしなくてすんだ」ということを反省する。その前に、「あれはうまくいっている」ということを反省する。「今日こんないいことをした、あれもうまくいった、あれもすごく難しかったけど成功した」というふうに、たっぷり反省する。こういうのを反省と言う。リフレックス、「思い出すこと」というのが、反省のもともとの意味です。鏡に映し出すということ。それで悪い部分については、「次はこうしよう」と思うこと。そうすると変わります。そうやって自分が変わるのと同じテクニックが相手に使えます。(回答・野田俊作先生)

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人間関係を良くするために

Q 
 人間関係を良くするアドバイスをしていただけませんか?

A
□人間はお芝居をしている
 アドラー心理学では、夫婦関係にしても親子関係にしても、できるだけ自然な関係を作ろうとしています。アドラー心理学を「テクニック」として勉強するだけでは結局うまくいかないんです。口先で勇気づけの言葉とか、お願い口調とか、たくさん勉強しても、相手を尊敬していなかったら、すぐに見破られますから。
 人間というのは実はお芝居をしているんです。本当はそうではないのに、子ども時代からずっとあるお芝居をして、嘘を言って暮らしている。それをやめたい。子どもに対する愛情とか、あるいは配偶者に対する愛情とかいうものが、よくよく考えると、こっちの都合だったりする。
 子どもが登校拒否して親が心配しているとします。「子どもがこんな状態になって、親が心配するのは当然でしょう」と言うけど、よくよく考えてみると親の体裁が悪いのね。近所の手前とか。あるいは、学校のクラスの生徒の成績が悪かったりすると、先生は生徒を叱って、「勉強しなくちゃいかん」と言うけど、あれは同僚教師や校長に対する見栄かもしれない。そのように、僕らはごまかして生きている。われわれが、これが愛情だと考え、自然にそう感じるんだと思っていることを、一度ちゃんと反省しておいたほうがいいように思う。もう1回本当に人間と人間とが、信頼し合って、尊敬し合って、愛し合うとしたら、どんなふうに相手に言うかを考えてみよう。

□尊敬とは
 アドラー心理学では「愛情」とか「愛」とかいう言葉をまったく使わない。代わりに、「尊敬」と「信頼」と「目標の一致」と言います。なんでそんな言葉を使うかというと、「愛」という言葉はたくさん悪用されているからです。「これはあなたに対する愛情」だと言って、みんな残酷なことをしているから。でも、「尊敬」と言うとわかります。だから、まず自分の子どもを尊敬しているかどうか、自分の配偶者を尊敬しているかどうかチェックしないといけない。尊敬してなくて愛情を持っているわけがないですから。「愛しているわ」と平気で言える人でも、「尊敬していますか?」と聞かれたら、「ちょっとねえ」とごまかしてしまいます。その子が登校拒否をしていようが、非行をしていようが、神経症になっていようが、尊敬すべきだと思う。
 尊敬するとはどういうことかというと、自分の一番尊敬する(大事な)人と、同じような態度で接することです。すごく尊敬する人物に、「あなた、そりゃいけませんよ。そんなことをしていると、ロクな大人になれませんよ」とは言わないでしょう。変だと思うようなことをしていても、それはきっと何か深い考えがあってやっているに違いないと思ったほうがいい。
 これもアドラー心理学の基本的な考え方ですが、人間の行動にはすべて目的があります。無意味な行動というのはない。ある人があるとき神経症をやっているとしたら、その人は神経症をやる意味があるんです。神経症をすること、あるいは登校拒否をしたり、非行をしたり、あるいは大人なら浮気(不倫)をしたりすることが、その人が成長するために必要なんだということを、その人自身あるいは周囲の人が受け入れることができれば、本当に成長できます。それが悪いことだと思うとそこで止まってしまう。だから、この人生で僕ら自身に起こることは、全部成長していくために、生きていくために、必要なことだと思いましょう。きっと、問題を起こしている子どもには、深い深い本人すら意識していないような目的があるに違いないんです。だからそれを大事にしよう。

□信頼とは
 それから、信頼というのは決して裏切られることのないものです。それに対して、信用というのはよく裏切られます。こちらが信用していて、相手がそれにうまく応えてくれないと、裏切られたように思ってしまう。信頼しているというのは、相手が何をしていようと、「それはあなたにとって本当に必要だと思ってやっているに違いないんだ」と思うことです。白紙の小切手を渡して、あなただったら馬鹿な使い方はしないだろうと思い、それで若干無茶な使い方をしても、これにはきっと深いわけがあってのことだと思う。そういう意味での信頼ができるようにしたいです。それと同じ感じを他の人にも持ちたいんです。少なくとも自分の家族に対しては持っていたい。「そんなことはできない。あの人は何をするかわからない」と思っていると、本当にそうなります。われわれの思いというのは実現するからね。「うちの亭主はちょっと油断すると、何をするかわからない」と奥さんが思っていると、ご主人はちょっと油断すると、本当に何をするかわからない人になってしまうんです。「うちの亭主は大丈夫」と思っていると、絶対大丈夫な人になります。
 僕たちは、みんなが自分に何を期待しているか、敏感にわかるんです。人間は無意識的に他の人の期待に応えるんです。「うちの子どもは非行化するんじゃないかなあ、悪いことをするんじゃないかなあ」と親が心配していると、子どもは実際に非行化します。だって、「子どもが非行化するんじゃないかなあ」と心配するということは、この子は非行化するに違いないと思っているのと同じことですから。「うちの子はちょっと万引きぐらいするかもしれない。でも、根本的なところでは大丈夫だ」と思っていると、ちょっとぐらいするかもしれないけれど、それでおしまい。だから、白紙小切手が切れるくらいに家族を信頼しよう。

□目標の一致
 目標の一致というのは、尊敬とか信頼とかができてからの話です。家族共同体とか、学校のクラス共同体とか、職場共同体というのは、個人個人が違う目的で生きているけれど、みんな一緒の部分がないと成り立たない。結局われわれは、最終的には、どういうことを成し遂げたいのか、ぜひ話し合う必要があると思います。人間関係がこじれるのは、目標が一致していないときです。必ずそうです。夫婦がこじれるのは、奥さんが描いている人生の目標と、ご主人が描いている人生の目標が違うからです。親子がこじれるのもそうです。だから、結局どうなりたいのかということを、やっぱりイメージする必要があります。
 家族の目標として、私のお勧めは、“毎日平和に暮らせること”。育児の目標は、“子どもが親を見限って家から出て行くこと”。学校教育の目標は、“世の中で(なるべく)ひとりで生きていける力をつけること”。生活指導の先生に取り締まられなくても。そこのところがよくわかっていると、すごく楽です。
 家族全体を考えてみると、はっきり目標がないですね。家族全体がどこにたどり着かなければならないかというと、お墓しかないんです。だから、家族の目標というのは、未来にあるんではないんです。毎日毎日にあるんです。今日1日をどうやって楽しく平和に暮らすかというのが問題なんです。そう考えていくと、育児にしても、親を見限ってひとりで暮らせるようになるためには、未来の遠い先の目標ではなくて、その瞬間瞬間にあるんです。今ここで、この子がひとりでできることはいったい何か。このことが未来にずっと続いていって、やがて本当に人に頼らなくなるんです。今ベタベタに干渉しておいて、きっと将来自立するだろう……そんなことはない。
 学校の教育もまったく同じで、イヤがる子どもに無理やり教えていたら、その子は将来自立できるか?できないでしょうね。
 目標というのは、未来にあるように見えて、実は今日現在にある。「今どうするか」だけが問題です。それが明日につながっていく。未来のことを考えると、「将来こんなふうにしよう」とか、「こんなことが起こったらどうしよう」とか、いろいろ用意をするようになる。すると、きっと今日現在を失うことになります。準備ばかりしていて忙しいから。

□「この子のために」という発想
 子どもが、「ねえ、何かして遊んでよ」とか、うるさく言ってきます。ここで遊んでやったりすると甘やかすことになるとか、要求ばかり聞いていると悪い癖がつくとか、いろいろ考えます。これは「考えが“現在”にない」んです。
 子どもが「遊んでよ」と言ってきて、「考えが現在にある」にはどうすればいいか。「自分は遊びたいか遊びたくないか」を考えるんです。簡単でしょう。今遊びたいか、遊びたくないか。子どものために遊んであげたり、遊んであげなかったりするんじゃなくて、自分が遊びたいか、遊びたくないかで動けば、それは正直です。でも、ここで遊んでやったほうがいいだろうとか、遊んでやらないほうがいいだろうとかというのは、初めから嘘なんです。それで起こることはすべて嘘です。そこには、本当に「生きている心の交流」は起こらないんです。
 気持ちを通じ合わせるとか、気持ちがわかるということを世間でよく言うけれど、アドラー心理学ではあまり言わない。じゃあ、何と言うか。「相手の要求は何か」、「自分の要求は何か」、「その要求が違うときにどうふるまえばいいか」ということを言います。子どもが「遊んでよ」と言っているときに、子どもが「遊んでよ」と言っているのだということをまずはっきりとわかること。遊んでやったほうがいいか、遊んでやらないほうがいいかなどはわからない。とにかく、口ではっきりと「遊んでよ」と言っているんだから遊んでほしいんですよ。何にも言わないんだったら、別に要求がない。だから、素直に言葉に出されているものをまず何よりも信じたいです。そして、自分が本当はどうしたいのか、どうしてあげたいのかを優先的に考えたい。そうして初めて対等な人間関係になるんです。例えば、外出しようと思っているときに、子どもが「外に行かないで」と言うから、「それじゃあこの子のために行かないでおこう」というのは対等ではない。どっちが上か?子どもが上に見えて、実は親が上なんです。子どもが親を支配しているように思えるけれど、「この子は弱い子だから、私が守ってあげなければいけない」と親が思っているわけで、精神的に親が上です。これは、やっぱりまずい。
 「すべてのトラブルは目標の不一致から起こる」と言いましたが、同じことですが角度を変えて言えば、「すべての不一致は人間関係が対等でないことから起こる」んです。0歳児だって、僕らとまったく対等な人間、仲間だと思ってください。もちろん、中学生・高校生だと当然そうです。そんなふうに考えたら、トラブルはいつも最小限度ですむ。横の人間関係ですから、すごくナチュラルでシンプルです。
 だから、みなさんが日常やっていることのほうがよっぽど複雑怪奇です。「この子のために」という発想を、心の壁から取り外しさえすれば、とても楽に生きられるようになります。(回答・野田俊作先生)

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