Q
人から愛されているかが気になって、私が愛することができないような気がします。好きな人、例えばあまり会ったり話したりできない人を愛するとはどんなことなのでしょう。夫とか側にいる人ならわかるような気がするのですが。
A
「愛されているかが気になって、愛することができないような気がします」とは厚かましい話だなあ。だって、人にものをあげるのは嫌いですがもらうのは好きですというお話でしょう、つまり。ちょっと厚かましいと思います。あげるお稽古をしないともらえないと思います。「あまり会ったり話したりできない人を愛するとはどんなことなのか?」。だから、そういうのは「愛している」とは言わないんでしょう、ほんとは。「愛」っていう言葉をアドラーは嫌いで、なんで嫌いだったかというと、何のことかわからないからなんですよ。きちっと定義できないからで、だから「愛」って言葉を使わないでいろんなことを説明したいんです。彼はだから「協力する」とか「尊敬する」とか、僕は例えば「援助する」とか言うのは、「愛する」と言う代わりに言っているわけ。「子どもを愛する」と言いながら、愛しながら殴ることはできるんですよ。「子どもを援助する」と言うと、援助しながら殴ることはちょっと難しいんじゃないですか。「子どもを尊敬する」とか言いながら殴ることは難しいんじゃないかと思うから、言葉を曖昧じゃなくするために、普通世の中で「愛」って呼ばれているものをバラバラに分解して、できるだけ細かい言葉で言おうとアドラーは思いました。私もそう思います。あんまり会ったり話しない人に、例えば憧れることはできるけど、愛することはできないんじゃないかしらん。違うものに同じ名前をいっぱいつけているだけだろうと思うから、無理と思う。で、「愛する」というのは何かわからんけど、「協力する」とか「分かち合う」とか「尊敬し合う」とか「援助し合う」とかいう意味であれば、例えば一緒に暮らしている人とかしょっちゅう出会う人とかでないとダメだろうし、それからアドラーの言う「愛のタスク」というのは「運命をともにする人たちのこと」を愛のタスクと言うんです。だから、中身は憎しみ合っていてもいいんです。嫁姑が一生憎しみ合って暮らしていても、2人は愛のタスクの中にいたわけです。世の中で言う愛とはちょっと違うところで「愛」を捉えているので、遠距離恋愛というはほんとはないんちゃうかと思います。
Q
先日のオープン(カウンセリング)のとき、先生は「後悔するほうを選んで」とおっしゃいました。若いうちは。私は今自分の周囲を見回してみると、どれをどう選んでも後悔する選択ばかりです(素晴らしい。)私は35歳ですが、そろそろ人生のやり直しは難しいのですが、老後に向けて準備するために、後悔の少ないほうを選びたいといろいろ考えてしまいます。
A
うーん。35歳、そんなに年取っているかなあ。僕35歳のときにシカゴから帰ってきたんです。何かまだ山のものとも海のものともつかなくて、そのあと脱サラをしてこんな商売をして暮らすか、このままずっと公務員で頑張るかだいぶ考えまして、「きっと商売をしたほうがあとで後悔するだろう」と思って商売をしました。今40歳ですから、まだ5年くらいはいけますよ、後悔する側を選んでも。迷っているから後悔するほうを選ぶんです。迷わなくなって、「これでいかんとしょうがないな」と思ったらそれでいくというのではどうでしょうか?
Q
アドラー心理学会と関連領域のある学会があれば教えてください。
A
ないと思うなあ。私はいくつかの学会の会員さんなんですが、心理臨床学会とか日本心身学会とか精神神経学会とかの会員さんなんですが、全然アドラーと関係ないです。もう少しその人間性心理学会とかカウンセリング学会とかあるけど、あれもアドラーと関係ない。僕の入ってないものでもね。だからなさそうに思います、はい。
Q
何年も好きな人がいるのですが、そろそろ諦めて別の人を好きになりたいのですがうまくいきません。どうすればいいでしょうか?
A
これ今日言ってたやつね。別れて別の人を好きになりたい心と、実際には今の人とずっとつきあい続ける体とがあって、どっちがホンネかというと、つきあい続ける「体」がホンネなんです。だからそんなときは割り切って今の人とつきあうという手もある。もう1つは、割り切って別の人のほうへ体を向けるという手もある。どっちにしても、心の側の問題じゃないと思う。だいたい恋愛というのはこれも冒涜的なことを言うけど、大変生物学的な動物的な出来事でしょう。魂のレベルの出来事というよりは体のレベルの出来事で、昔僕そう思ってなかったんです。恋愛というものは清く尊い素晴らしいものだと、一応高校生くらいのころには国語の先生あたりがそんなことを言うじゃない。笠女郎(かさのいらつめ)が大伴家持(やかもち)に恋をして「君に恋ひいたもすべなみ奈良山の小松が下に立ち嘆くかも」と言うと、「この女発情している」なんて教えないじゃないですか。美しいことを言うんですよ。そうかいねと思っていたんですけど、大学へ入ったころに、渡辺一夫先生という昔の東大のフランス語の教授で、大江健三郎のお師匠さんだった人ですけど、その人のフランス文学の本をちょっと読んだんです。僕は渡辺一夫先生好きなんですよ。全集を持っているんですけど。そしたらね、「恋愛とは結局粘膜の問題だ」と書いてあったんですよ。凄いなあと思って感動してしまった。粘膜の問題を粘膜の問題と言わないで、いかにも美しく言うのが文学の文学たる値打ちで、ほんとは粘膜の問題だと書いてあるんです。僕そのとき深い悟りに達したんですけど、今も基本的にはそう思っていて、恋愛というのは生物学的なレベルのことですし、まあ動物的なことだろう。ただそれを人間はあからさまに「動物的なことだ」と言わないで、それを文学とか音楽とかで包むところが人間の人間らしさだと思う。包んでいるけどやっぱり包装紙は包装紙で、中身は包装紙とは別にあるわけで、頭で考えて「あの人好きになろう」とか「嫌いになろう」とかいうのはできないので、体が好きになるか好きにならないかなんです、結局のところね。つまり、肌触りとか体臭のレベルの問題なんです、究極的には。ということは、今の男をやめて別の男を好きになろうというのは、別の男を触ってみたりクンクン嗅いでみたりしないとダメだということではないですか、極端な言い方をすれば。そうすればすぐ他に好きな男を見つけられるかもしれない。考えていてもダメだと思う。
Q
前回お話しされていたABCDの4つの分類について見分け方等があれば教えていただきたいのですが。
A
これをねえ教えると鎌田さんに怒られるんですよ。あれは「プラサード」というワークショップでやりますので、こんなところで簡単に教えると、向こうの参加者ががっかりするから。まあちょっとだけ内緒です。ごめんなさい。