Q
小学5年生の息子の担任のことです。学級の運営が空回りしています。先生の対処が感情的であったり先入観であったりするので、子どもと先生の距離はどんどん遠くなり、子どもは先生を好きになれず、先生は一部の子を手強い子で憂鬱だと思っています。息子は自発性に優れ、学ばなくてもアドラー的生き方をしています。ここで野田先生は「ほんならええやないですか」と言われると思っているので、これで終わらないで、息子の担任だから母親にやれることを教えてください。私は、空回りしていることを早く先生に気づかせたい。子どもに「上靴が汚い。給食エプロンが汚い。着替えが早くできない」など、そんな細かいことを言わないでほしいです。40代男性。どんなタイプの子どもでもよく話を聞いてやってほしい。話さない子を増やさないでほしい。子どもたちが先生に話を持って行くと、そのことを「チクリ」と言って非難します。それを気づいてほしい。ちょっと欲張りですがお願いします。私は担任が嫌いですが助けてあげたい
A
これが余計なお世話です。2つ言います。すぐ1つとか2つとか言うところが賢い。自分で言っているくらいですから(笑)。親と教師と子どもと三角関係があって、今相談者はこの親です。教師と子どもの関係はこのお母さんにはさわれない。このお母さんは自分と子どもが仲良くなることはできます。自分と教師が仲良くなることもできます。でも、教師と子どもが仲良くなるのは、原則としてできない。担任の課題ですから。これが一番。じゃあ絶対できないかというと、ある条件の下ではできます。それは先生が困って、「ねえお母さん、僕はクラスの子どもたちと何とか仲良くなれないでしょうか?ひとつ相談に乗ってくれませんか」「じゃあ相談に乗ってあげましょう」ということになれば手伝える。僕の仕事がそうです。学校の先生が来られて、「うちのクラスでうまくいってないんですけどなんとかならないでしょうか?」「こんなふうにしてみてはどうですか?」とわれわれがアドバイスできるのは、向こうが頼んでくるから。私と先生との間に契約ができて、私がコンサルタントだと向こうが認めてくれるからでしょ。この先生はお母さんをコンサルタントだと認めてくれそうに思わない。思わないのでどんなことをしてもこの先生は変わらないと思う。アドラー心理学のカウンセリングはすごく強力だと思う。受けられるとたぶん利益があるでしょう。当たり前みたいに思われるかもしれませんが、そうでもないんですよ。よそへ行くといくとどんなにスカみたいかわかりますから。うちですとカウンターパンチみたいなのを顔面にパーンと入れられたりして痛い目に遭いますが、とにかくカラダが何をしていけばいいかがわかります。例えば、僕のところで、「子どもを愛してあげなさい」言われることはないんです。「あなたは愛が足りないからもっと子どもを受け入れてあげなさい、愛してあげなさい」と言われても、愛してあげたいとは思うけどどうしていいかわからない。具体的に。僕のところではそんなふうに言わないで、例えば、ご飯をちゃんと食べてくれたら、「ちゃんと食べてくれて嬉しいと言いなさい」とか、お手伝いしてくれたら「お手伝いしてくれて助かった」と言いなさいとか、具体的にカラダが何をすればいいかを教えます。しかも、心はともなわなくていいとよく言います。“心こもらぬ言葉から”すべてが始まるので、心はあとから追っかけてくるから、口先アドラーをまずやりなさいと。それをやっている間に、だんだんこっちも本気になるから、向こうも本気になるから。それは実行可能です。すごく強力なカウンセリングだと思いますが、望まない人、例えばうちへ来ているお母さんが、息子さんなり娘さんなりを無理やり引っぱってきて、「カウンセリングはイヤや」と言うているのに、「そんなこと言わないで野田先生に会いや」と言ってもこれはダメなんです。向こうにニードがないと。あちら側が自分が変わりたいと願っていればアドラーのカウンセリングは強力ですが、全然願ってない人には何を言っても聞こえませんからダメ。この先生はたぶん願ってないかもしれない。「こんなもんだ」と思っているかもしれない。もし願っていても自分の生徒の親に相談しようとは思わないと思う。だからダメ。諦めてください。だから、このお母さんにできることは、まず子どもとの関係を良くすることにもっとエネルギーを使ったらどうか。この先生と仲良くするのにエネルギーを使ったらどうか。先生を改造しようとする計画はお捨てになったほうがいいんじゃないでしょうか。(回答・野田俊作先生)
Q
実母91歳。4年前呼び寄せました。手すりを使ってベッドからトイレまで歩けます。母は汚れた手もわからずあちこち付けながら移動しているので、きれい好きな夫に気を遣って、母には家事をやらせておりません。自分の衣類の着脱、着やすいようにボタンはマジック、ズボン・シャツ等は改造して前開きにしてあります。普段の食事はスプーンで食べることができます。夜、面倒だと、私にやらせようとちっとも着替えをしようとせず、いらいらする私。朝、デイサービスとショートステイに出かけるときも同じように、早く起こしても起きようとせず、「もう遅刻よ」と言ったらやっと起きる始末。私が手を出せば何もしようとせず、お人形のようにずっと突っ立っています。手伝えば5分で済むこと。そのほうが私のストレスも生ぜず、夜は手伝ってしまいます。近年、私も対応がわかってきて、こんな日々ですが、ストレスはやはり溜まり、1か月に1回、1週間から10日くらいショートステイに預けます。年に2,3回、ものすごく若返った感じになり健常者に戻ります。こんなエネルギーがあるなら、日常の中でほんの少しでも自分のやりたいことをやったらいいのにとこちらは思いますが、まったく寝てばかりです。こんな老人は、世話をしているこっちが鬱になってしまいそうですが、気持ちだけでも元気になればと、本人の希望の喫茶店に、週に2,3回連れ出しますが、他に元気になる良い方法はないでしょうか?
A
このおばあちゃんがやっているのは、子どもがやっているのとまったく同じですから、元気になる方法はいくらでもあります。老人とつきあうときの先入観なんですが、子どもについては、母親が変われば子どもが変わると、みんなそうだろうと思う。老人だってわれわれが変われば老人が変わるんですが、でもこのおばあちゃんボケてるとか、老人だからとか、頑固だからとか、わからずやだからとか甘えているからだとか、おばあちゃんが悪いことにしてしまうんです。子どものときには、この子は頑固だからとかわがままだからとか初めしているんですが、「そんなことを言っていると子どもはいつまでたっても変わりませんよ」と言うと、「それはいけませんねえ」とやっぱり母が変われば子が変わると思うけど、老人のときはなかなか思ってくれない。看護者が変われば老人は変わりますから、「パセージ」の課題シートをしっかりつけて、このおばあちゃんをうまく勇気づける方法を工夫してください。(回答・野田俊作先生)
Q
ある状況を客観的にとらえるのに効果的な方法はどのようなものでしょうか?
A
難しい質問ですね。まあとにかく落ち着いてみる。自分は今感情的でないかなと思う。もしも感情的だと思ったら、落ち着くための操作をする。これを「アクティブ・タイムアウト(あるいはポジティブ・タイムアウト)」と言います。「その場を離れて何をすれば自分が落ち着くか」をあらかじめ調べておく。例えば、音楽を聴いたら落ち着くとか、コーヒー入れて飲んだら落ち着くとか、近所を散歩したら落ち着くとか、自分が落ち着くのに効果的な方法を見つけておく。それで「やばい」と思ったときには、「タイムアウトでちょっと落ち着いてくるから」と言って、時間をとって落ち着く。それでもう1回考えてみる。考えるというのは、「言葉にする」という意味です。私が考えるというときには、人にしゃべるか字に書くかどっちかです。頭の中で黙って考えるというのは、たいてい堂々巡りです。心理学者はよく知っていますが、自由連想といって、頭に浮かんだ“よしなしごと”をそのまましゃべってもらうと、ほとんど意味のない連想のつながりです。他人にわかるように説明しようとすると、そこに脈絡ができてくる。そのお稽古として「ジャーナル」を書くのをお勧めしています。ジャーナルというのはただのノートなんですけど、日記みたいなものなんですけど、3つの条項に気をつけて書いてください、1つは、他人に読んでもらえる文章で書くこと。箇条書きとかメモ書きとかでなくて、それを他の人が読んで「ああそうね」ってわかる、名文でなくていいから意味の通じた文章で書くこと。それから目的を意識して書くこと。手段だから。目的は「自己成長」です。自己成長というのは、「もうちょっと大人になること」です。僕らは子どもなんですよ。われわれは10歳くらいでライフスタイルの発達をやめてしまっているので、だいたい10歳くらいの子どもなんです。それをもうちょっと大人になりたい。だからジャーナルを書きます。そうすると、自分の子どもらしさがわかるし、どうやったら大人らしく考えができるかがわかると思う。それかネガティブなことを書いてもいいです。人の悪口とか自分の悪口とかを書いてもいいですが、必ずポジティブなことも書いてほしい。クラスにこんなイヤな子がいて乱暴ばっかりしますと書いてもいいけど、でもこの子にはこんないいところがありますと、絶対書いてほしい。必ずポジティブなことも書く。それを毎日でなくてもいいからしばらくやります。ジャーナルは多分人に見せません。多分誰にも見せなくて、そのうち溜まります。自分でも滅多に読み返さないから、一応1冊だけは置いておきます。私も最近書いたのは本棚にあります。もう1つ前はシュレッダー。今書いているのが書き上がったらそれは残して、残っているのはシュレッダー。1冊だけ残していますが、読んだことはありません。何となく未練はあるので残しているだけです。それで十分効果はあると思います。そうやって「大人らしく」世界を自分を見る方法を学びたい。人と話をしたいけど、なかなかこの話をつきあってくれる人がいない。本質的な話、人生にとってほんとに関わりのある話というのは、みんな聞きたくないんです。だって、そこについてはみんなおのおの意見があって、絶対に喧嘩になるから。それよりファッションの話題とか政治の話題とかスポーツの話題とか、当たり障りのない話題でもってつきあいたいんですよ(いわゆる世間話です)。私は大学の研究室にいたときに、すごい共産主義者のお医者さんがいたんです。パリパリ共産党員で、実際に党費を払っている方でした。それから自民党新派で、文部科学省べったりのお医者さんもいました。こんなのと毎日顔を合わせていたら喧嘩すると思いません?ところが全然しない。なんでしないかというと、だいたい野球の話をしています。その2人は。喧嘩するのを知っているもの。人間ってそんなもので、その人に人生の本質と関わりのあることは人と話したくないので、私たちが自己成長するために深いところの話をすると誰も聞いてくれませんから、そんなうっとおしいことはやめて、もっと楽しいことをしゃべる。それはしょうがないから、だからジャーナルに書きます。そうすると少し客観性が養えると、まあ思います。(回答・野田俊作先生)
Q
4月に開設した託児所でこの春から勤務しています。新しい環境で、子どもたちには戸惑いや不安があると思いますが、それを取り除くにはどんな方法が良いでしょうか?また、集団の中に入っていけない子どもに、どんな問いかけをするとよいでしょうか?
A
託児所っていうのが何歳かわからないんです。その発達上の問題があって、ここでお話したようなやり方は、一応5歳児以上だと思っています。僕たちが問いかけをすることで、「あなたには何ができるかな?」と言って、子どもが「こうしようかな」と言ってくれる力ができるには、因果関係というものが理解できないといけない。「私がこうすると結果はこうなるだろう」とわからないといけない。因果関係はいつから理解できるかというと、発達心理学の先生によると、5歳なんです。しかも、5~10歳は、僕たちがそのことについて問いかけをしないと自分であまり因果的に考えない。だいたい10歳くらいから、問いかけをしなくても、自分の力で「こうやると結局こうやるとこうなるな」って因果的に考えるようになる。5歳児以上は今日ご説明したやり方で動く。それより年下の子は動かない。「あなたには何ができる?」と言えば「あー?」と言われるだけで、全然変なことを言ったりする。一生懸命考えてくれたらいいと思うのに、「それはないでしょう」というようなことを言ったりする。何か童話的な世界に生きているから、僕たちの日常的な因果関係とは違う感じのことを答えるかもしれない。年齢によってできることが違うと思います。かつ、就学時のレベルで集団に適応できないのはあまり心配しなくていいと思う。発達によって解決できる課題が結構多いから。私自身は幼稚園に2年行きました。1年目は全然不適応で、全然クラスに行きたくなかったし、馴染めなかった。2年目になると、自然に馴染めた。何でかというと、ただ発達したからです。集団生活できるところまで精神発達してなかっただけだと思う。年齢的なことを考えると、クラスに溶け込めないということをそんなに重大視しないでください。そのうちできるだろうと思っていたほうがいい。そのために特別な働きかけをいっぱいとると、特別な対応が欲しいためにいつまでも溶け込まないという作戦を取るかもしれない。
発達によって解決できる問題を大急ぎで解決しないほうがいいといつも思います。学校教育の1つの問題点が、教科の話ですが、同じ年齢の子に同じことを教えるというのが、ときどき大失敗するんです。私もそうだったんですが、中学の1年の終わりか2年の初めかに数学で因数分解というのを習ったんです。あれがわからなくて、なんでこんなことをするのか、黒板に意味不明の文字が並んでいるだけなんですよ。半年すると完全にわかりました。半年間大変だったんです。因数分解わからないから二次方程式がわからなくて、二次方程式がわからないからあれわからないこれわからないと数学の成績は最悪で、具合が悪かったんですが、6か月しないくらい、2年生の秋学期くらいになると、「あーそうか」とわかった。なんでわかったかというと、脳が発達したからです。「形式的操作」と心理学者が言うんですが、抽象的なものを抽象的なままで扱う力は脳の発達でできるんです。脳がそこまで発達しないと、ただ記号をあっちへやったりこっちへやったりする意味が全然わからない。だから半年待ってから教えてくれれば最初から数学の成績良かったのに、発達より早く教えられたもんで、私早生まれ(3月)生まれなのでちょっと早かったものですからしんどい思いをしました。それは多くの子にあることだと思う。発達で解決することを今ギュウギュウと教え込もうとしないほうがいい。少しあとでもいいことならあとにすればいい。今の、集団適応の問題も、もうちょっと様子を見てから考えたほうがいい。それから、託児というのが未就学児であれば、私は未就学児に知的な教育をする必要なない論者なんです。早期教育は無意味だと思っています。例えば、英語なんかの早期教育とか言われていますが、統計結果から見ると、早くから英語を学んだ子と、中学校へ行ってから学んだ子と、ハタチ過ぎてからの英語能力とは全然無関係です。英語を使う運命になった人は英語が上手になるし、英語を使う運命にならない人は英語が上手にならない。それだけなんです。私は一応英語でしゃべる、英語で書く、英語で読む人で、まあアメリカ人ほどとは言わないけど、英語でグループに出て、グループの中でいろんな話をしたり、討論したりするのにそんなにしんどくないんです。英語で論文も書きます。今、英語でブログを書いているんですが、そんなに苦痛じゃない。じゃあどこで勉強したかというと、学校でしかしてない。中学1年で始まって、それまでまったく知らなかった。中学で「へえ?」って思って勉強して、成績はそんなに良くなかった。まあまあ中くらいで、大学行っても、英語の文学の授業は難しかった。どこでしゃべれるようになったかというと、結局研究室へ入って英語の論文を山ほど読まなきゃならなくなって、読まなかったら全然話にならない状況に追い込まれて、そこで3年5年やっていると、イヤでも読めるようになるし、自分で国際学会なんかで発表すると、質問されるんですよ、具合が悪いことに。質問されると何言っているか聞かなきゃいけないし、こっちも答えないといけない。そしたら現場の必要で英語が上手になるだけなので、早期教育は全然関係ない。だから、楽しく遊べる時間を作ればいいと思う。あまり下心を持たないで、みんながくつろいで遊べる時間を持てればいい。それで決してバカにはならないから。(回答・野田俊作先生)
Q
22歳の娘のことですが、高校2年の終わりに、友だちのことや勉強のことで疲れて学校へ行けなくなりました。何とか高校は卒業しましたが、自分のこれからのことについて今も悩んでいるようです。今までいろいろ不適切な行動を繰り返し、大変なこともいろいろありましたが、アドラーの自助グループの皆さんの勇気づけとアドバイスのおかげで何とか乗り越えることができました。今まで支えてくださった方々にほんとに感謝しています。昨日の野田先生のお話を聞いて、私も娘の勇気くじきばかりしてきたなと思いました。今朝、子どもに私がしてきた勇気くじきについて謝りました。これからは娘の良いところと、世のため人のために尽くすにはどうしたらよいかということを一緒に考えていきたいと言うと、私の気持ちも素直に受け取ってくれたようです。今、娘は声優になりたいと言っていますが、肩肘張っているようにも見えます。娘がそのままで良いところを活かしてくれればいいと、やっと思えるようになりました。立ち直るためにもがいている娘に何かアドバイスがありましたらお願いします。
A
悩むのと困るのとは違うんです。だから、「悩み終わったら相談に乗ります」と言ってください。僕は悩まないことにしているんです。困りますけど、いつも。孔子聖人もこうおっしゃいました。孔子聖人が弟子を連れて放浪の旅に出ているときに、食べ物がなくなったかなんかで「困ったなあ」と言ったら、弟子が「聖人でも困りますか?」と弟子が聞いた。孔子は、「君子はいつだって困っているんだけど、君子は困っても乱れないんだ」と言ったんだそうです。「君子は窮すれども乱れず」で、困るのはいいんです。だって、「こうしようかな?ああしようかな?」と計画を立てないと生きていけないもの。でもクヨクヨと感情的になってもしょうがないでしょう。マイナスの感情で問題解決はしないもの。マイナスの感情を持ったときはどうすればいいですか?──止まる。落ち着くこと。それから考える。マイナスの感情を持っても何も解決しない。たくさん困ればいいけど悩まない。(回答・野田俊作先生)