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解決構成

Q
 解決構成は目標の一致を考える際に大切だと思うんですが、もうひとつわかりません。最近先生がアドラーネットにアップされていた「コミュニケーションの心理学」を読むけれど見えないのです。何か良い学習法を教えてください。

A
 ない!なぜないかというと、新しすぎて英文の雑誌論文誌かない。だから諦めてください。もう10年くらいすると本が出る。解決構成…、今、解決構成をめぐってゴテてるんですよ。中島理事とか梅崎会長がわけのわからんことを言うから。「そらぁチャウで」言うてごててます。もうふた月み月ゴテまくりますから、ちょっと見えるかもしれん。

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言葉を選ぶ

Q 
 自分の考えや思いをキャッチして自分の体験に馴染んだ言葉を選んで話したいと思うのですが、どんな訓練をすればいいですか?(ようわからんな)。またそれが相手に伝わる言葉であるためにはどんなことに気をつければいいですか?(ようわからへん。何を意味しているのか)。

A
 言葉について、人にわかる言葉をしゃべるというのは凄い大事だけど、日本語って具合が悪いんですよ。日本語でものを書くと、凄い困るんです。こんなのはどういうふうに言ったらいいのかって。ものすごく困るときには、僕だったらまず英語で書くんです。そしたらわかるんです。英語って凄いわかりやすい構造になっていて、一番最初に「私は考えるthat」と言うんです。で、「なんとかかんとか」って言うんです。きちっと物事が大事なことの順に出てくるというか、枝分かれ式に文に書けるように作られているんだけど、日本語はそういうふうな構造がはっきりしないから、うだうだうだうだ言えるんです。うだうだうだうだ言うのも悪くないけど、人にものを伝えるにはきっちりした明確な構文で言わないといけない。今のところ日本語はそんな構造をしてないので、ひとつ英語でも勉強してはどうですか?英語でなくてもヨーロッパ語。ヨーロッパ人っていうのは、そういうように思って考えてそうしてきたんだと思う。というのは、ラテン語とかいうのはそんなに明快じゃない。今から2000年くらい前。ギリシャ語もたぶんそう。ギリシャ語は岸見先生に聞かないとよくわからない。ラテン語は大学で1年ほど勉強する機会がさぼりさぼりではありますがありましたので、一応知っていますが、うじゃうじゃうじゃうじゃしているんです。日本語と同じように連綿体で。それが、今のイタリア語とか英語とかができてくるのが大体紀元前1000年とか1200年くらいのころからそういう文章が残っているんですけど、その時代になると今と同じ構造に変わるんです。なんで変わるかわからないけど、想像としては、キリスト教がヨーロッパへ入ってきて、キリスト教の考え方というのはいつも言うんですけど、神様は言葉なんです。言葉が神様で神様の本質は言葉なんです。聖書に「はじめに言葉があった。言葉は神であった」と書いてあるから。人間は魂を神様からもらったんです。体は動物からもらったんですけど、魂って何かというと言葉なんです。言葉をしゃべるというのがわれわれが猫とか猿とかと違うところで、人間に魂(=言葉)があるからです。言葉というものが人間の一番人間らしい部分だと、ヨーロッパ人は思った。だから言葉というものをわかりやすく明快に使いたいと思った。というのは、ギリシャ語なんかでは言葉のことをロゴスと言います。これは「言語」という意味もあるし「理性」という意味もあるし「論理」という意味もあって、筋の通った言葉遣いをするとか筋の通った考え方をできる心とかいうような意味もあって、筋の通った言い方というのを凄い大事にしたと思う。その結果、何千年、1000年とか2000年とかかけて、大変筋の通った言い方のできる言語にイタリア語やフランス語や英語がなってきたんだと思う。ロシア語はダメなんですって。ロシア語はグジャグジャなんですって。筋が通らないんですって。ロシア人がわけがわからないのは、あれはロシア人の頭が悪いんじゃなくて、ロシア語はアカンのですって。なんでかというと、それはルネサンスがなかったからだと言うんです。ルネサンスという人間の力をもう1回信じて人間の力でもう1回やってみようという運動があった時代に、西洋の言葉は論理的になったけど、ロシア語はダメなんだって。そういうことは日本にはなかったでしょう。日本人は、心は言葉だと思ってないし、神は言葉だと思ってないし、ルネサンスもなかったし、なんか万葉集や源氏物語の時代そのままに今も余韻纏綿情緒纏綿にしゃべっているから、わけがわからないんです。学校で英語を学ぶ最大の目的は何かと聞かれたら、日本語がちゃんと書けるようになることだと、僕は言ってます。かつての時代に日本語は、漢文の影響で論理的になりました。「古事記」や「万葉集」の日本語に比べたら、例えば「平家物語」とかの日本語はずっと論理的です。それは漢文訳で、漢文の書き下しの書き方で日本語をしゃべったから。それは明治時代、夏目漱石とか森鴎外のころまでその影響は大変強く残っていて、明治の人って、今から考えるとずいぶん論理的だと思う。福沢諭吉さんにせよ西周(にしあまね)さんにせよ誰にせよね。あれは漢文のおかげであの人たちはちょっと日本人の本来の考え方よりは論理的にしゃべれたんだと思うけれど、漢文の力が衰えてきてアカンようになってきたから、まあ夏目漱石とか森鴎外とかは西洋の力も凄く借りていて、別に在来語でしゃべらないけど、彼らの文章をよく見ると英語やドイツ語の翻訳そのままの書き方をしますからね。僕たちは文章を書くときに外国語の力を借りるということは、何も今始まったことじゃないから、いっぺん勉強してみられたらどうですか。中学高校程度の英作文ができるように。

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目標追求

Q 
 目標追求するということは、車輪の下でくるくる回っているリスのようだと私は思います(ああ、そうかね)。馬鹿げているとわかっているのに、人はなぜそれをやめないのでしょうか?時には目標追求をやめるということをなぜ自由にできないのでしょうか?

A
 不思議なことを考えるな。僕そんなふうに思ったことないけど。ご飯食べたでしょう。食べたエネルギーは目標追求に使われなければ、ただ熱となって発散されるだけじゃないですか。人間のエネルギーなんですよ。エネルギーの使い道なんですよ。
 理屈の話をしよう。一番根本には生物としての生存(自己保存)だとか種族保存だとかいうような目標があって、その目標を達成するには人間の場合には所属しているということがどうしても必要で、所属するということを達成するために、今はABCDとタイプを書いたけど、その中にまた細々として個人個人の目標があると思う。究極的にはわれわれの生命のエネルギーそのものなんです。僕たちが生きているというのは目標追求しているということだし、目標追求しているのは生きているということで、もし目標追求をやめたら体は生きているが心は死ぬと思う。何にもしないんだから。生きていることの良いことも悪いことも何もかも実は目標追求ですから、やめるということはつまり死ぬということですから、死にゃあやめられる。

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アダルトチルドレン

Q
 以前、先生が「AC=アダルトチルドレンは存在しない」とおっしゃった記憶がありますが、ほんとにACは存在しないと思っていらっしゃいますか?AC、機能不全とかについて先生の見解を教えていただきたい。アドラー心理学と関係ありますか?大人の定義をどのように見られていますか?

A
 ACは存在しない。アドラー心理学と関係ない。ある病気・病名というものについて考えないほうがいい。アドラー心理学は、人間が健康に正常に動くことのできない唯一の理由は、大きすぎる劣等感だと思っている。大きすぎる劣等感というのは何かというと、不可能に高い願いを持っているか、必要以上に低い自分の評価か他人の評価を持っているかから起こるはずでしょう。劣等感というのは理想と現実の差ですから、理想が高すぎるか現実が低すぎるかです。ですから不可能に高すぎる自分には絶対にできそうにないことを自分自身に望んでいると、何かずるいことをしたくなるんです。それから自分を十分好きであって能力があると思ってなくて、人は信頼できないとかみんな仲間じゃないと思っていると、やっぱり変なことをするんです。それがありとあらゆる精神疾患の唯一の原因です。そこをそれ以上細かく区別するのは、単に差別のためしか目的はない。あるいは口実づくり。私はこれこれ病なんだからと、あの人はこれこれ病なんだからという口実づくりのためしか目的はない。そんなものに関わっているのは差別主義者で反治療的で、アドラー心理学の研究者の風上にも置けない。
 依存症も関係ないしACも関係ないし、学習障害も関係ないしADHDも関係ないしアスペルガーも関係ない。関係あるのは、子どもたちが必要以上の劣等感を持たないように、子どもたちと接することなんです。現実的な目標、その子の現実に即した目標を立てるように、その現実的な目標に向かって現実的な手段、目標があったって手段がなかったらダメですよ。私は例えば42キロ走るという目標は、私にとって現実的か現実的でないか?現実的であろうと思います。42キロ走れるべし。今すぐ走れるかというとダメよ。1年後に走ると言ったら、体重減らして毎日毎日トレーニングしたらきっと走れると思う。それは多分妄想的じゃないと思う。42キロを2時間半で走れと言ったら非現実的で絶対無理。どんなことをしても無理。ちょっと休憩入れて5時間欲しい。これだと自分にとって現実的だと思う。でも42キロ走れるようになるそのことを目ざして努力するのは悪いことじゃないでしょう。そういう意味でいつも自分に現実的な目標は立てようと思う。私は論文を書くんですけど、年間3つ論文を書こうと思っていて、年間10と言ったらこれは初めからウソ。そんなに書けるはずはない。大昔年間13書いたことがある。あれなんて中身はない。数を増やしているだけ。ほんとに中身のなるものなら、まあ年間3つかな。年間3つって結構めんどくさいんです。ずっと研究しないといけないから。目標立ててもそれに向かって段階的に努力しないといけない。段階的に努力していけば到達できる目標を立てよう。そのとき「僕ってできないから」とか「能力がないから」というのは口実だと知っている。自分が劣等感に負けて、建設的に現実に向かって進歩しないための口実に、「僕ってダメだもん馬鹿だから」とか「みんながわかってくれないから、手伝ってくれないから」と言い訳をしているにすぎないことは、ちょっと冷静に考えたらわかるじゃないですか。要は「私がするかしないかだけでものが決まる」ので、賢いか賢くないかで決まるわけじゃないです。やればやったとこまでできますし、やらなければどんな理由であっても何もできません。コツコツと努力していくしかしょうがない。お釈迦様も亡くなられるときに、「すべてのものは移りゆく。怠らず努めなさい」とおっしゃいましたから、怠らず努めていれば前へは進むでしょう。そう考えると、いわゆる世間の病名分類というのは、さまざま思うところあって、まあいわば政治的にある動きをするために動こうと思って作られています。一番典型的なのが統合失調症で、統合失調症というのは完全に政治的病名だと思う。その人たちをいわゆるキチガイ扱いをして、社会からある種の差別的な待遇をして、例えば本人の意志に反して精神病院に収容してみたり、薬物投与してみたり、就職差別してみたりするときに、まったく正当な社会的口実になるじゃない。前半言いましたけど、統合失調症の人たちはああやって隔離収容されて暮らさなきゃいけないことは全然ない。確かに一時混乱状態があります。精神的に敏感な人たちですから、ある状態になると混乱されて少し錯乱状態になったりして、確かにそのときは彼らを保護するためにその人たちの精神と肉体を保護するために、入院していただかなきゃならないことはあるかもしれないけど、今はお薬もあるし、そこから治れば十分社会内で処遇できる。できるんですけど家族がイヤがるんです。統合失調症の人が1人家にいると、まあ世間体が悪い。妄想のある人が家に住んでいると世間体が悪い。その人に若干手がかかるということもある。あまりかからないですけど、ほんとはね。おとなしく暮らしていらっしゃいますから。ほんとはかからないけどかかる気がするんです。いつ何があるかわからない。パニックになったら困ると思う。で、家族がイヤがるんです。「先生、できるだけ長いこと入院させておいてくさい」と言うわけです。医療経済としては長いこと入院させるのは大いに結構なことで、精神病院としては急性期の患者さんをたくさん抱え込むよりは、慢性期の患者さんをたくさん抱え込むほうが、まあご飯だけ食べていれば機嫌良くいられるわけですから、診察もそんなにいらないし、良心的な精神病院では主治医1人あたり100人くらいの患者さんを持っているし、ちょっと田舎のほうへ行くと、手が足りなくて主治医1人200か300人持っているというのがざらにある。僕昔、鑑定医をやっていて、入院中の患者さんの精神鑑定で遺産相続なんかして財産管理能力があるかどうかで鑑定しないといけない。田舎の精神病院へ行って、「患者さんに会わせてもらえますか?」「はあはあ、どうぞ」。看護師さんが会わせてくれる。「主治医の意見も一応聞きたい」「主治医ねえ…」としみじみおっしゃる。「お会いできませんか?」「うーん…」院長となら」「院長とで結構です。主治医ダメですか?」「主治医ねえ…」。実は主治医はいないんです。主治医は名義だけいるんです。こんなんあまりよそで言ったらいかんのですけど、法律上精神病院の医者に定員があって、病棟数あたり何人かの医者がいる。でも現実にそれだけの医者をまかなえない。経済的な理由だけでなくて、精神科医の人たちそのものが不足しているから、それでお年寄りでもう働けなくなったような先生の免許証をお貸しするんです。僕も年取ったらあれやろうかなと思う。でいくらかの謝礼を月々雇っていることにして支払いをして、その先生はいっぺんも病院へ登院なさらないんです。けれども名義上の主治医なんです。現実には院長先生が全部の面倒を見ているので、院長先生とお会いして、「○○の患者さんのお話を伺いたい」「あああの患者さんねえ…ああ…」「カルテ見せて」「カルテですかあ?カルテねえ…」。カルテを見たら記載がない。ずーっとめくっていったら、ハンコだけ押してある。週に1回回診したかのように。1行何か書いてあったけど、その患者さんは回診されないんです。それはそうです。回診しなくても何も問題ないんです。その患者さんはその病院で普通に暮らされているわけで、お薬は決まったのを飲まれていて、ご飯食べて作業療法して暮らされていて、医者の世話になる必要はない。別に回診しなくてもいい。保険証の監査があるからハンコだけ押してある。看護記録もハンコをポコッと押してあって、所見なし、便通良、睡眠良と○打ってあるだけです。そんな状態の患者さんは山ほどいる。なんでそんな患者さんがいるかというと、家族が引き取らないからです。家族がなんで引き取らないかというと統合失調症だからです。「あそこの娘さん、統合失調症とかで病院入りはったんやて」と近所で噂になっても誰も不思議がらない。「じゃあもう帰ってきはらへんわね。気の毒にねえ」とか言うんです。帰ってきたら、「帰ってきはった。こわいねえ。あんな人退院させてええんやろか」と言って近所中言う。で、患者さんは居心地が悪くなってまた入院する。だから統合失調症という病名はほとんど政治的病名なんです。と同じようにACも学習障害も政治的病名です。統合失調症ほどひどくないけど、ある人たちがあることの口実のために、「自分の責任じゃないよっ」て「私のせいじゃないよ」って、「これは病気のためだよ、あるいは自分の出身家庭のためだよ、父母のおかげだ遺伝のせいだよ」と、何かのせいにするために、責任逃れのために使っているだけです。医者、医学者のほうはもちろんそんなつもりで病名を作ったのではない。診断をきちんとして治療方針を決めるために病名を作ったけど、こと精神医学に関しては残念ながらその病名はいつも政治的理由のために利用されている。だからアドラー心理学としては一切病名に関わらない。この病気はどうだって解説をしない。アドラー心理学との関係はどうだって考えない。だから「統合失調症者に対するカウンセリングは?とか不登校児に対するカウンセリングは?」というそういう考え方自体が間違っている。われわれのカウンセリングというのは、山田太郎さんに対するカウンセリングとか、中村花子さんに対するカウンセリングなんです。個人が私のところへお見えになるんです。その個人が抱えている生活上の問題のカウンセリングするので、統合失調症を治すとか不登校を治すとかが問題じゃない。そこへ目が行っているということ自体がそれはもうアドラー心理学じゃなくなっているということだと思います。
 大人の定義です。大人というのは「責任を持って生きること」です。極めて単純。

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横の関係(3)

 子どもたち1人1人が最低限みんなが学ばなきゃならないミニマムレクワイアメントっていったい何なのかを、ホントにちょっと利害関係を離れて考えたい。子どもたちが本当に学ばなければならないものは?何を振り落とせるのか?それからどんなことを子どもたちに早くから教えてやっていいのか?学びたい子に早くから英才教育をしてあげてもいいじゃないか。中国は今徹底的に英才教育をしている。中国の英才教育の成果は、今や日本のコンピューター業界を完全に喰ってしまいました。日本人はもう中国人のソフトエンジニアには絶対勝てない。「ボク、ソフトウエア好き」と言ったらソフトウエアだけで食えるようにした。中国人はあれは得意で、上海雑技団かなんかで小さいときから曲芸させていた民族ですから、同じようにコンピューターの教育を早くから始めますから、ハタチくらいになったら日本のプラグラマーなんかが足下にも及ばない専門家になっている。国際競争の中で、日本の教養主義というのは完全に立ち遅れている。しかも、本当に才能のある人たちをいっぱい潰している。エヴァリスト・ガロアのという天才数学者がいます。「群論」を書いた人。この子は非行少年で凄い変な子だったみたい。今で言うアスペルガーかな?今の学校にいたら絶対、情緒障害学級かなんかにやられて、「教育委員会へ相談に行きなさい」と言われて、スクールカウンセラーの世話になったタイプの子です。それを中学の先生が、その子が凄い数学が好きなのを見つけたんです。中学の数学の教科書を退屈して全然読まない。それで大学の当時の解析学の教科書を彼にあげて、「自分の授業の間授業を聞かなくていいからそれをやってていい」と言ったんです。それでガロアは大学の解析学の教科書を凄い楽しんで読んでいました。15歳くらいのときに論文を1つ書きました。その論文があんまり高度すぎてよくわからないから、当時の代数学者たちに送ったんです。「こんなのをうちの生徒が書きました」って。フーリエとか当時の代数学者が読んでよくわからなくて、「よーわからんな」と言っていたら、そのうちガロアは女の子をめぐって決闘して、その傷がもとで死んじゃったんです。凄いです。死に方もなかなか非行少年らしくて。死んじゃってしばらくしたら、その「論文」の意味がわかったんです、何を書いてあるか。それはほんとに世紀の大発見でした。数学の一番根本になること、僕らが普通数学と言っているもひとつ向こう側にあること、メタ数学についての世界最初の論文で、抽象代数論の世界最初の論文で、そこから僕たちが凄い世話になっているんですけど、15歳の中学生に。でも、その子が論文を書けて、人類に利益を与えることができたのは、担任の先生がその子に勉強をさせなかったからなんです。当時の中学の必要科目を免除して、「できることをやりなさい。それがあなたが一番この世に役に立つことだから」と、その子にできることをやらせた。やっていること自体は先生は理解できなかった。何か凄いことをやってるなということしかわからなかった。それは今はやりにくいと思う。今は19世紀初めころ、フランス革命のころのフランスほど大らかな社会ではないですから。やりにくい社会のほうが間違っていると思う。子どもの個性をもう1回再評価しないといけないし、全部の子どもに同じことをさせるという考え方をやめないといけないし、進んでいる子は進んでいる子なりに、遅れている子は遅れている子なりに個別にカリキュラムを考えてあげないといけないし、そのために教員がもう1回再トレーニングを受けて、一斉授業で同時進行というやり方から脱却していかないといけない。それがアドラー心理学が謂うところの「横の関係」の大きな意味です。
 「縦の関係」「横の関係」で質問があったけど、質問者がもとの言葉の意味を全然理解してないものだから、言葉の意味の理解に帰ってお話をいたしました。

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