Q
最近のくだらないテレビ番組、幼児期からの塾通い、小中高等学校の非行など、またいろんな場所での講話を聞いても、この先日本は、日本人はどうなるのだろうか?と思います。野田先生は、今どきの日本の人々(若い親や子どもたち)をご覧になり、この先の日本をどうお考えになりますか?自分さえしっかりしていればいいとも思うのですが……。
A
結論としては、私も自分さえしっかりしていればいいと思います。日本国はこのままでは、どう考えてもたぶん駄目です。
このごろ、ちょっと経済学をお勉強しています。いろいろ考えているうちに、「一番根底的な部分は、結局、経済構造にあるんだ」と思うようになったので、お勉強したんです。大したことはないんですが、本を2~3冊読みました。
わかってきたのは、1950年ぐらいから、経済学の考え方が変わったということ。それまでは、必要なものを売って必要なものを買っていたのが、今は欲しいものを売って欲しいものを買っている。
どういうことかというと、例えば、私は釣りが好きです。うちに小さい物置がありますが、そこを開けるとなんと釣り竿が30本くらいあります。「なぜこんなにあるんだろう」と自分で不思議に思います。その30本あるうちの実際に使うのは2~3本です。残りはどうしてあるのかというと、広告に釣られたとか、店の人の口車に乗ったとか、何か買った由来があります。買ったそのときは幸せだったんです。「買って良かった」と思うんですが、しばらくの間幸せなだけなんです。で、しまい込みます。しかも、買うときに安いものを買いません。できるだけ高いものを買います。そのほうが幸せが大きいんです。千円の竿より1万円の竿、1万円の竿よりも10万円の竿(10万円の竿は持ってないけど、もしあったとすればね)。持っていると、何かすごく幸せなんです。
お宅のご主人がゴルフをやっていると、クラブを欲しがりませんか?今のでもちゃんとできるのに、「ブラックシャフトがどうの」とか言って、また欲しがりませんか?若い人は車を欲しがりませんか?ちゃんと走っているのに、ニューモデルが出たら、「あれが欲しい」と思う。なぜそう思うか。テレビなんかにデザインと広告で欲しくさせる構造があるからです。それを見ていると、ついうかうかと乗っかる。乗っかって買ったとき、すごく幸せ。高級品を持っていると感じられて。
でも例えば、80万円の車と800万円の車で、乗って何か違うか。本当はそんなに違わない。外の形が違うだけで、裸にしたら中は一緒です。千円の釣り竿と10万円の釣り竿とどっちがよく魚が釣れるかというと、関係なくて、どっちでも同じです。ゴルフもそうで、いいクラブを買ったってちっともスコアは伸びない。でも買うと幸せなんです。だから必要によって買うんじゃない。メーカーも必要なものを売ってるんじゃない。不必要なものを欲しがらせて買わせる。われわれは不必要なものを買って、一時だけすごく幸せになる。そうやって売り買いの構造が、売る人と買う人とがどんどん売ってどんどん買い換えて、それで日本国は戦争しないですんだんです。それまでの時代の経済というのは、必要なものを売って必要なものを買って、そのうち売れない時代が来て、大恐慌が起こって、どうにもいかなくなって失業率が増え、それで戦争をした。戦争すると軍隊のために、ものすごくたくさんのものを生産して、ものすごくたくさんのものを消費しないといけない。それでみんな就職できて働けて良かったんです。しかし、第2次世界大戦をした結果、そんなやり方だと世界が破滅することがわかった。そこで戦争をやめるために、今度は無駄なものの売り買いをする方針にして、これは今のところうまくいっています。われわれは戦争をしないです。先進国はもう戦争なんかしません。無駄なもの、欲しいものを売り買いしているところじゃなくて、必要なものを売り買いしている社会が、今もまだ戦争をやっています。
この構造は、幸せじゃないところがいくつかあります。1つは物質的なことです。というのは、ものすごい量の資源を使って、ものすごい量のゴミを出すこと。経済は需要と供給でぐるぐる回っているけど、これは一方では資源を使って生産して、もう一方ではゴミを吐き出している。今は資源の問題よりゴミ問題のほうがずっと深刻です。以前、大阪がオリンピック候補地になりました。大阪オリンピックはゴミ問題と深い関係があります。大阪は大阪湾へゴミを捨て、その上を埋め立てて、たくさんのゴミで埋め立て地がいっぱいできました。けれど景気が悪いからそこへ工場が何も建たなくて、ただの空き地です。大阪市としては体裁が悪い。でも、環境保護団体が怒っています。「大阪は全部埋め立てて、淡路島まで歩いて行けるようにするつもりか!」と。大阪市としては、そこへオリンピックを乗せると体裁がつく。だからぜひともオリンピックを埋め立て地の上でやりたい。しかもひどいことに大阪は、分別収集をほとんどやっていない。大阪市内はまだで、ようやく周辺都市で、燃えるものと燃えないものとを分別しだしたばかりで、ものすごい原始的な段階です。そんなゴミを海へどんどん埋め立てています。余談ですが、東京はもっと状況が悪い。東京は人口が多いし、東京湾は大阪湾より狭いから、とうとう埋め立てられなくなりました。埋め立て可能なところは全部埋め立ててしまったので、今度はゴミを「青森県へ捨てよう」と言ったら、青森県が怒りました。「うちへ捨てないでくれ」「じゃあ、インドネシアへ捨てよう」。恐ろしいことを考えています。
ゴミ問題と環境汚染。われわれは家をどんどん建て替えていますが、新建材はあとで燃やすとダイオキシンが出てきます。ベトナムで奇形児が産まれる原因になった薬ですが、それが産業廃棄物から海へ溶け出して、広島の牡蠣にもいます。アナゴにもいます。瀬戸内海はダイオキシン汚染が魚や貝にだんだん進行してきています。それをわれわれは食べるわけです。それしか食べるものがないから。そのダイオキシンが体の中に入って、例えばアトピーのように体質を悪くするし、子どもたちの奇形率もやがて増えていくでしょう。これもゴミ問題です。
家なんてのは、われわれの3代から4代前までは田舎の家は茅葺き屋根で、だいたい一度建てたら200年は保った。それを大事に大事に使っていました。今の家はだいたい20年から30年しか保たないように最初から造ってあります。しかも住宅金融公庫から融資を受けると、住宅金融公庫は材木の指定をしていて、「ここのこんな材木しか使っちゃいけない」という規制があります。その材木は輸入材で、その輸入材には防腐剤(虫除けの薬)が大量にしみ込ませてあり、これが毒なんです。その家に住んでいると、そいつが空気の中にフワフワと出てきます。それを毎日吸って暮らすうち、やがて体がやられます。住宅金融公庫からはお金を借りないようにね。田舎に家があるなら、それを大切にあと200年ぐらい使うようにしましょう。もちろん資源の枯渇のこともあります。石油はもうすぐなくなりますし、原子力も廃棄物で困っています。
もう1つは精神的なこと。こうやって欲望に任せて買っていると、物を買えなくなると不幸になります。何かを買うということが幸せの条件、物を買えるのが人間の幸福だと、われわれはあまり思わないけれど、子どもたちは思います。「タマゴッチ欲しい」と言ったら、何がなんでも欲しい。あんなものどうせ買っても、私の釣り竿と一緒でしばらくしたら飽きます。でも、私の釣り竿はわりと善用しています。飽きたら、大阪のアドレリアンで釣り好きの人にあげます。そうすると、ちょっと恩に着てもらえるかもしれないから。「あのとき釣り竿あげたろ」なんてこと言えるかもしれない。タマゴッチなんかみんなが飽きたら、ただのゴミですよ。でも子どもたちはどうしても欲しい。ものを買えることが幸せ、あるものを手に入れていることが幸せだと子どもたちは誤解している。
幸せはそんなとこにはない。物を持っているとか買えるとかというところには、人間の幸福はない。幸せはどこにあるか。アドラーは、2つのことが人間の幸福の条件だと言います。1つは、「この世の中で役に立っている」ということ。自分は誰かの役に立っているという感じがあることが大事。それから、「人と良いコミュニケーションが持てている」ということ。みんなから見捨てられてひとりぼっちでいるんじゃなくて、話し合ったり遊んだりできるということ。それがあればいいと思うけれど、今はみんなそんなふうに考えられなくなっています。それは子どもたちの精神をむしばんでいるし、やがてこの日本国だけでなく、いわゆる先進諸国を駄目にしていくでしょう。それも人類の運命であれば、その方向に動いていくんでしょう。だから、さしあたって私とか私の周囲の人とか、私の家族とかはどうするかをみんなで考えたいんです。そして最終的にわれわれが違う世界、今みたいにこんなに毎日贅沢三昧で暮らすんじゃない世界になったときも、幸せに暮らせる用意だけはしておきたいと思います。(回答・野田俊作先生)
Q
自由と放任をはき違えて、アナーキーになっているクラスをどのように援助したらいいでしょうか?担任は、問題だとは考えていないようです。
A
担任が問題だと考えていないから、どうしようもないな。こんなのが多いです。『クラスはよみがえる』という本を書いて、激しく後悔しているのはこの部分で、アナーキーな教師が読むと、アナーキーの無政府主義的なやり方の口実にアドラー心理学を使ってくれます。それで結局、子どもたちに対する教育力や指導力がないのを、「実はこれが本当の教育だ」と言うんです。さっきの先生は、子どもが授業中に教室の中を歩いたりすることを悩んでいましたね。全然悩まない教師もいます。子どもが教室の後ろに集まって、ブラブラ歩いているのに。「あれでは授業になってないよ」と言うと、「あの子たちは誰にも迷惑をかけていないからいい」と言うんです。そんなのは授業と違う。かなり前に某県で、「これがアドラー心理学だ」と、そんな状態のクラスをテレビ局に公開して、放映した教師がいました。あれにはまいりました。
ファシズムで、すごく強引に指導して、時に罰を使って、体罰まで使うかもしれなくて、それで子どもをまとめて、わりとちゃんとクラスがまとまっているというかまとめている教師と、アナーキズムでクラスがバラバラなのと、どっちが悪いかというと、アナーキズムのほうがずっと悪いです。それって、何も子どもに教えていないもん。ファシズムのほうは、何はともあれ何か教えている。ほんとはどっちも悪いんですがね。
アドラー心理学は、そのどっちでもない第3の方法を教えようとしています。しかし、この第3の方法というのは、われわれのまだ知らない方法なんです。われわれが自分の子ども時代に学校の先生が教えてくれた方法は、たいていファシズムでした。今の学校でみんなが見る方法は、たいていがアナーキズムです。そうじゃない第三の本当に民主的な方法というのは、われわれはモデルを見たことがない。だから手加減がよくわからない。やりながら学んでいかないとしょうがない。
親もそうです。親が子どもを育てるときも、最初はたいていの親がファシズムなんですけど、アドラー心理学式の育児をやると、初めアナーキズムになるんです。私はよく、「とにかく子どもに任せなさい」と言います。するとアナーキズムになって、そこで止まってしまうお母さんがたくさんいます。止まってはいけない。その次のことをやらないといけない。「子どもを勇気づける」ということを。子どもに「ちゃんと責任を取ってもらう」ということを教えないといけないんだけど、この段階になると、誰も知らない。
今は、日本にアドラー心理学が根づいてかなりになりますので、うまく動ける人が増えました。その人たちに相談すれば、多少のアドバイスはもらえるけれど、でも、その人たちの家庭でやっていることをそのまま自分の家に持ち込んでも、うまくいくとは限らない。自分も違うし、子どもも違うから。だから、自分の家で創意工夫して、民主的な育児、アドラー心理学式の育児を自分でこしらえていかないと仕方ない。これがやがて世間の常識になって、学校もアドラー心理学式の民主主義で動いている、家庭も動いている、みんながそうなっているんだったらわれわれは楽で、そんなに創意工夫しなくても誰かの真似をすればいいですけれど、今のところはそうはいかない。学校もそうです。それはすごく大変です。学べないから。教えてもらえないから。自分で作らないとしょうがないから。でもそうしないことには、どうしようもないんです。
ファシズムもアナーキズムも次の時代を作っていけないと思います。子どもたちをちゃんとした大人にする力がないと思います。だから、この先生にどう言えばいいかと言われても、言えることはありません。少なくとも一度は“自分のクラスで、本当に民主主義的なクラスのモデルをきっちり作って見せてあげること”が第一点。
それから第二点は、“目標を一致させる”ということ。これは、アドラー心理学のカウンセリングの中でよく言うことで、養成講座の生徒さんたちが最初に一番悩むのがそれです。「お客さんとの目標を一致させなさい」。結局何を解決しようとしているのか、解決で「どうなろうとしているのか」をはっきりさせないとカウンセリングが始まらない。何となく話しているうちに、何となくわかるだろうとは思ってないです。
例えば、登校拒否の子どもの親が来るとします。そうしたら、私が最初に目標を一致させたいのは、「親がその子どもと冷静に対応ができるようになってもらうこと」です。それが第一段階。そうでないと次の仕事ができない。さしあたって、子どもと感情的にならないで、普通に対話ができて、登校拒否なら登校拒否の問題について、お互いが冷静に話し合えるという地盤を作るというのが、第一の段階です。
それができたら、次は「子どもが学校へ行けるようにどう援助するか」を学んでもらうこと。これが第二の目標になると思います。もしも、「親が子どもと冷静に話し合えるのが第一の目標です」と言って、「そんなのイヤです。子どもとは絶対冷静になれません。私はずっと子どもを怒り続けるし、あの子と話なんかしたくない。けれどあの子を学校へやりたい」と言われたら、それは無理です。子どもが学校へ行くことを援助する方法は、そんな道からは絶対に生まれないから、カウンセリングを断ります。
目標が一致できない場合には、援助できないです。例えば、このアナーキズムの先生が、とても上手に民主的に動いているクラスを見て、「先生のところは何か子どもたちが生き生きとよく勉強して、よく言うことを聞いて、クラスがまとまっているけど、いったいどうしているの?」と聞きに来たら教えてあげられる。目標が一致したから。でも聞きに来なかったら、これでいいんだと思っていたら、教えてあげられない。その間は申し訳ないけれど、ちょっと放っておいて、自分のほうをしっかり充実させるしか方法がないんじゃないでしょうか。(回答・野田俊作先生)
Q
小学3年生、女の子の母です。……
A
途中ですが、自分のことを「小学3年生の女の子の母」なんて紹介しないほうがいいですよ。例えば、「自分は37歳の主婦です」くらいから始められたほうがいいです。ご主人の肩書き、「○○会社の課長の妻」とかいうふうに自分を定義していると、自分じゃなくなるかもしれない。外のもので自分を決めているからね。特に女の人は、子どもや配偶者に自分の地位や立場を決めてもらうのでなくて、「私は私」というトレーニングをしておいたほうが楽しく暮らせそうですよ……。ごめんね、変なところを揚げ足取って……。
Q
アドラー心理学を学んで3年です。「アドラー心理学はスポーツです」と言われたことを深く納得しています。頭と口先だけの私を、子どもは時に見抜いているようです。責任を学んでほしい、自分のことは自分で決めてほしいと思って、「あなたが決めることよ!」と言ってきましたが、ある日のこと、「お母さんの『あなたが~よ!』というのがとてもイヤなんよ!」と激しく言われて驚きました。「選択権はあなたにあるのよ」と言われ、冷たく突き放されたような、また押さえつけられた感じを、彼女は受けていたんだと気づきました。きっと、責任を学ばせようと思っている私があるからなんでしょうね。
A
「あなたが決めることよ」と、私はあまり言いません。私は、うちの子どもとつきあうときも、自分の生徒さんとつきあうときも、何か向こうが決めるべきことをこっちに相談してきたら、「お好きなように」とか「私は知らん」とか言っています。とても無責任でしょう。「あなたが決めることよ!」という“あなたメッセージ”をやると、嫌われます。「私は知らん」と言うと、冷たいけれど、“私メッセージ”だから、あまり嫌われないんです。だって、私は知らんもん。みんな、いろんなことで相談に来ます。「高校を替わろうと思うんだけど、伯父さんどう思う?」。「俺は知らんよ、そんなこと。あなたの思うようにしたら?」でしょう。だから、「私は知らない」「私はそれに関与できない」「私の仕事じゃない」というふうに言っています。
アドラー心理学を学んで、ときどきこうやって子どもからパーンとパンチを喰らって、それでまた賢くなるんです。考えて考え直して、ちょっと言い方を工夫して……。完璧な“アドラー・ママ”なんてこの世に存在しないので、いつもどこかおかしな抜けたことをやっていて、それで誰かに言われて、「あっ、そうか」と出直して、そしたらまた別のところが抜けていて、そうやって一生暮らすんです。それってすごく素敵じゃない。一生仕事があって。(回答・野田俊作先生)
Q
野田先生のお話を聞いていて、自分は“楽観主義”でなくて“楽天主義”だったのかと思ったりしたのですが……。
さて、高2の娘のことです。3学期より学校を休みがちになり、授業にあまり出ていなくて、担任の先生より「進級がどうなるか…?」と連絡を受けました。本人は努力しているようですが、帰宅が9時ごろになります。あまり勉強もしていない様子です。ここでなければと期待して入学した学校なのに、まわりのせいにしてこうまで変わるのかと思います。「友だちの悩みを聞いていると帰宅が遅くなる」と、理由を言います。父親とは喧嘩状態で口をききません。単位をもらおうと努力しているようですが……。
親の手助けの仕方について、何か良いお話がありましたらお願いします。
A
さてね……。
うちの子どもたちは大人になって話のネタがなくなったと思ったら、ちょうど姪っ子が問題を起こしてくれました。弟の娘です。
この4月から3回目の高校1年生です。素敵でしょう。最初、大阪の学区で一番優秀な高校へ進学しました。けれど高校へ入ってから、「雰囲気が気に入らない」と言うんです。「どうするの?」と聞くと、「別の学校へ替わる」。だけど、公立高校は転校できないんです。それで、去年春に1年生を受け直して、2番目に優秀な高校(私の母の母校ですが)へ替わりました。それで、行くかなと思っていたら、だんだん息切れしてきて、留年になりました。どうするかなと思ったら、「来年もう1回1年生やるわ」と明るく言う。「まあ、ずいぶん丁寧に勉強するんだね」と言ったんだけど…。
弟の奥さんが、心配して相談に来ました。「お兄さんは専門家でしょう。うちの娘と会ってやってください」と言うから、「そりゃ、会ってあげます。小さいときからおなじみですから」と言って会いました。
彼女が言うには、「周囲で応援して『勉強しなさい』とか、『学校へ行ったほうがいいよ』と言うと、余計に行きたくなくなる」んですって。年ごろから見ても、それもそうかなと思います。だから、「何も言わないで、見ていてほしい」と言う。「将来心配じゃない?」と聞くと、「何も心配ないよ。ゆっくり高校出るから」と言っているから、まあそんな考え方もあるからいいんじゃないかと思っています。本人が「放っておいてくれ」と言うから、「じゃあ放っとくよ。お母さんを説得して、放っておくようにするからね」ということになりました。
うちの家族はみんなわりと仲が良くて、「あの子どうしよう?」と相談したら、「それじゃあ、もう何も言わないで見ていよう」と、親・きょうだい・伯父さん・伯母さんは決めました。「本人のするようにさせよう」と。
ところが、学校が聞いてくれません。学校から親に電話してきたときに、親が「本人のするように任せますわ」などと言うもんだから、担任の先生もスクールカウンセラーもえらい心配しまして、「伯父さんは確かアドラーの先生…でした?」と言って、私のところへ電話がかかってきました。「もしもし、お宅の姪御さんのことですけど、このままでは心配です」と言うので、私は「心配しているのはあなただけです」と言いました。「親も子どもも、伯父も伯母も誰も心配しておりません。ここで子どもを信じきれるか信じきれないかが、子どもの将来を決めていくんだと思います。みんなで心配して、「大丈夫?」と言えば、大丈夫でなくなるだろうと思うから、われわれはとにかく信じてみようと思います」と返事をしました。なんで彼女を信じることができるかというと、それはやっぱり彼女と話をしたからなんです。
だからこの場合も、一度話してみるといいと思います。「あなたのことを信頼して、心配せずに見ていていいのか」「それともわれわれに何かできることがあるのか」「してほしいことがあったら、言ってくれればするし…」。
「何もないから、安心して見ていて。もう1年留年して頑張ってやるわ!」なんて明るく言われたら、それを信じて、もう1年留年して頑張って明るくやってもらうことだと思う。
楽天的というのは、何もしないで「どうにかなるわ」と思うことです。楽観的というのは、「やることは一応全部きっちりやろう。それできっと道が開けるだろう」と思うことです。それじゃあ、今やれることは何なのか?私の仕事は何なのか?親なら親が今しなけりゃいけないことは何なのかを考えないといけない。すると、まずそれは、子どもの人生のことだから、子どもに相談しないで動いちゃいけないことがわかります。だから、まず子どもと相談してみよう。相談するというのは、要するに子どもから注文を取ることです。「何かしてほしいことがありますか?」。あるいは、こっちとしてもぜひ売りつけたい商品があれば、「こんなこともできるけど、どうだろうね?」と聞いてみる。断わられたら、それまでです。引き受けてもらえれば、それをやる。だから、まず相談すること。そして、してほしいことがあるかどうかと、こちらにやりたいことがあったら、それをしてもよいかどうかをたずねること。何もなかったらお茶でも入れてくつろいで暮らすことです。(回答・野田俊作先生)
Q
今日、夫婦喧嘩をしたまま講演会に出席しました。原因はたわいもないことです。でも、そのせいで昨日の夕方から今日の昼までずっと不機嫌でした。原因は奥さんに鼻の穴に指を突っ込まれたこと。つまらんことで怒ったと今は思っています。何かアドバイスをください。
A
□夫婦喧嘩の目的
これはとても面白い話題ですね。お話の中にちょっと変だと思えるところがあります。というのは、夫婦喧嘩をしたままこの会に出席するために家を出なくてもよかったことを、この人は知っているんです。「ゴメンね」と言ってから出てもよかったんです。でもそうできなかった。つまり、そのときそうしたくなかった。
どうしてそうしたくなかったかというと、そうすると負けたことになるから。どうしてそれをすると負けたことになるかというと、権力闘争をしているからです。どうして権力闘争したかというと、奥さんと「縦の関係」があるから。奥さんと「横の関係」にまだ入りきれてない。だから、課題は奥さんとどうやったら勝ち負けじゃなくて、本当に協力的な対等の人間関係を築けるかというところにあります。そうすれば、そもそも夫婦喧嘩をしないかもしれない。してもすぐ終わる。
原因はたわいもないことだと言われてますが、でもこの方は原因を覚えていましたから大したもんです。多くの夫婦は覚えていないから。
華やかに喧嘩する夫婦ほど、「初めは何だったの?」と聞いても、全然覚えていない。途中経過は覚えています。向こうが投げたお皿のこととか、こちらが投げたエビフライとか。喧嘩の最初の原因というのは、どっちみちたわいのないことです。大事なのは喧嘩の結果です。
アドラー心理学は目的論の心理学です。すべての行動には目的があると言います。だから、喧嘩にも目的があります。アドラーに喧嘩の話をしたらきっと、「で、結局どうなったの?」と聞かれる。結局どうにもならなかった。何も生まれはしなかったし、何も決着しなかったという場合には、アドラーは、「つまり君たちは喧嘩をしたかったんだ」と答えたでしょう。
喧嘩というのは、エキサイティングなゲームです。だから好きな人が多い。あまりいい趣味ではないですが。この夫婦もこの可能性がある。喧嘩を通して「つながっているな」「僕たちは夫婦なんだ」ということを確認している。というのは、そういう形でしか確認できない部分があるから。もっと仲良しで確認できませんか?
□やっぱり喧嘩は破壊的
昨日の夕方から今日の昼までというのは、ずいぶん長いこと不機嫌なんですね。その不機嫌というのは、何か良い成果を生んだんだろうか。この不機嫌の結果、彼は何か素晴らしい幸せを手にしたのだろうか。奥さんは明るい未来を手に入れることができたのだろうかというと、そうでもないですね。この感情は、結局、破壊的な感情です。確かに仲良しの1つの形態として喧嘩をしてるんだけど、この積み重ねは明るい方向へは行かないです。今は仲良しの一形態として喧嘩をやっていても、将来他のことで、例えば浮気したりして、そんなので本気で喧嘩したときに、このときの喧嘩は悪いほうの証拠として記憶の中から引っ張り出されます。「あのときだって、私がちょっと鼻の穴に指を突っ込んだだけで、あなたは1日中怒っていた。私に謝るチャンスも与えないで講演会へ行ってしまった」てなことを奥さんはきっと言う。特に女性の記憶はそういうふうにできていますから。女性の多くは、「悪いあの人、かわいそうな私」というのがすごく好きです。好きというより、喧嘩の武器にそれを使う癖がある。男性はもっと直接攻撃的になりますが、女性は自分は被害者だということを証明することで、相手を攻撃するという戦略をとることが多いので、こういう出来事は将来ものすごくマイナスな評価として奥さんの記憶から湧き上がってくる可能性はある。だから、ないほうがいい。
「夫婦喧嘩するのは仲良しの証拠だから、大いにすればいいじゃないですか」と言う人はいますが、しないですませられるならそれにこしたことはない。だから、しないですむ方法を考えましょう。
□夫婦喧嘩のコツ
原因は、奥さんに鼻の穴に指を突っ込まれたことですね。さて、このときにどう言えば喧嘩にならないですんだのか(対処行動の代替案)を考えてみる。これが反省です。
正しい夫婦喧嘩のコツが3つあります。言っていいことが2つと言ってはいけないことが3つがあります。それを知っていると、うまくできます。
言っていいことは、「あなたのしたことで私は傷ついた。鼻の穴に指を突っ込まれるのはイヤだ」。それから、「だからやめてほしい」とか、「鼻の穴に指を突っ込まれるのは不愉快なんで、それをしないようにしてほしい」とかというようなこと。自分が感じたことと、これこれこうしてほしいという要求はOKです。
言っていけないことは、まず、相手を罵ること。「馬鹿」「スケベ」とか、そんなことは言わない。それから「相手の考えていることを当てようとすること」。「あんたほんとは私のことを嫌いなんでしょう」とかです。当たっていてもはずれていても駄目。そもそも相手の心を読むというのは、喧嘩のテクニックとしたら、ものすごく汚い。絶対にこじれる。人の気持ちがわかるふりをしてはいけない。ほんとはわかんないから。相手の心を読まないこと。それから第3番目に、相手のコミュニケーションのやり方に口を挟まないこと。言葉尻ね。「その言い方は何よっ」とか。最後の“よ”と言った後ろに、“っ”の小さいのがついていて、「“よっ”て何よっ」とか。そういうことでムカッとしたりするんですが、それを言わないこと。その3つをやめます。
そうすると、言えることはさっき言った2つだけ。「鼻の穴に指を突っ込まれるのは嫌いなんでやめてください」と言うと、まあ普通の奥さんだったら「そう」と言います。「これ気持ちいいでしょう」とは言わないです。それですむと思います。
奥さんがちょっかいを出してくるのはいいチャンスです。そのときには、「それは私には不愉快だからやめてほしい」と言うことに決めておくんです。一度言えたらあとは簡単に言えます。最初の1回だけちょっとしんどい。でも何か悔しい。それだけ言ってやめるのは。
それから、「こじれているときのコミュニケーションは最小限にする」というのがコツです。こじれているとき、コミュニケーションをしないのはまずい。何も言わないでいると、永久にこじれた状態が続くかもしれない。最低限言わなきゃいけないことは言わなきゃいけないけど、最低限にすること。でも、こじれているときに限って、たくさん話したくなるんですね。
□恋人時代に帰ろう
親子とか夫婦とかは、調子がいいときはあまり話題がないんです、あんまり。だからお互いが退屈している。喧嘩をし始めると無限に想像力が働く。結婚以来のすべての疑惑・因縁がズズズッと芋づる式に湧いてくる。
建設的な会話、夫婦が良い感じでできる話のレパートリーを作らないといけないと言われますが、本当はあるんですよ。婚約時代、あるいは新婚時代。どんな夫婦だって、婚約時代や新婚時代には、つまんないことをペチャクチャ毎日おしゃべりしていたでしょう。恋人たちを観察していると、「こいつら、よくこんなアホなことを1日中しゃべってて飽きんな」と感心します。本人たちはすごく楽しいんです。そのころに話題だったことを思い出してほしい。やっぱり夫婦がうまくやっていこうと思ったときに、繰り返し繰り返し思い出さないといけない。婚約時代に何をして遊んだか。これは夫婦の基本的なテーマです。だから、例えば婚約時代に2人でよく映画に行ったんだったら、また2人で映画に行ったらよろしい。婚約時代によく旅行に行ったんなら、旅行に行ったらよろしい。旅行まで行かんでも町内散歩でもよろしい。2人でパチンコに行ったんならパチンコに行ったらよろしい。
そういう夫婦の基本的な遊びのテーマに戻ること。おしゃべりもその時代にどんな話をしたかを思い出して、その話をしたらよろしい。そういうプラスの話題があんまりないというのが、こういうようなマイナスのコミュニケーションをやらなければならない理由です。
□決死の覚悟で
夫婦は何もしないで無為自然にしていると、だいたい退屈します。イヤになります。夫婦というのは、ちょいと努力しないと、維持できない仕掛けになっている。「そんなの水臭い」と言う人がいる。水臭いったって、水臭くて仲が良いのと、水臭くないけど喧嘩ばかりしているのとどっちがいいですか?ちょっと努力して、仲が良いほうが私は良いと思います。お互い同士をやっぱり大事にしたいと思います。
この奥さんは最初に鼻の穴に指を突っ込んで、注目関心を引こうとしたわけです。ということは、この旦那さんも、奥さんの注目・関心を引きたいという基本的な動きがあった。きっとそうですね。対人関係の構造が「注目関心構造」で、この夫婦は「注目関心性格」です。それがときどき「権力闘争性格」に変わります。またしばらくしたら「注目関心」までは戻るけど、そこよりもっと前へ戻るかどうかが気になります。もっとポジティブな方向に向けよう。「注目関心の構造」があるときに、もっとポジティブな構造へ帰ることを考える。もしそれがあれば、滅多に注目や関心をこんな方法で引くということは起こらない。だから、「君と一緒に暮らせて嬉しい」とか、一度決死の覚悟で言ってみます。あとはわりとスラスラ言えますから。「どうも条件反射で言ってるな」とわかっても、奥さんのほうは嬉しい。そして、「あなたと一緒に暮らせて嬉しいし、結婚できて良かった」と言っていたら、そう思えてくる。そして本当にそうなってくる。関係全体が「いかにわれわれが結婚できて良かったか。いかにわれわれが一緒に暮らせて嬉しいか」ということを証明しようと動き始めるから。いつもプラスの側に思い込んじゃうこと。そしたらそっちへ少しずつ変わっていきます。
□“ベキ”の迷い道
もう1つ、マイナスの感情に気がついたときに、反省したり落ち込まないためのコツがあります。怒っているとか、あるいは復讐心に燃えているとか、何かイライラしていると気がついたときに、なぜわれわれは落ち込むかというと、「怒ってはいけない」とか、「復讐心に燃えてはいけない」とかと思っているから。つまり、「心はいつも穏やかであるべきだ」と思っているから。いつも優しく愛に満ちて暮らしているべきだと思っているから。これは違うんです。「べき」じゃない、「怒ってはいけない」とは私は言ってない。「怒らないでいることができるよ」と言ってるんです。「復讐心を持ってはいけない」ではなくて、「復讐以外のやり方もあるよ」ということ。その違いをわかってほしいんです。「べき」「べきでない」という考え方は、人間を不自然にします。
アドラー心理学が目指す生き方というのは、聖人君子の言う「ベキベキ」が全部実現できるタイプの理想じゃない。「自然に生きられる」ということ。われわれが自然に生きられないのはなぜかというと、いっぱい「べき」があるからです。「べき」も、合理的じゃない「べき」があるんです。だいたい、「べき」とか「目標」とか、こうなろうという「理想」というのは、そんなに合理的じゃないです。小さいときに決めたものですから。われわれの理想というのは、最近決めたんじゃない。昔決めたんです。子ども時代に。大して経験もないころに、大して知識もないころに、親が教師が言ったことを鵜呑みにして決めたんです。「あなた、腹ばっかり立てちゃ駄目よ」とか、「穏やかな円満な人になるのよ」と言われて、「そうだ、円満な人になろう」と思った。ところが、その親は、穏やかな円満な人でもないんです、全然。円満じゃないんだけど、親はそう言う。子どもは素直だからすっかり信じちゃう。で、「怒ってはいけない。復讐してはいけない。穏やかであるべきだ」と思い込んだ。そんな目標があると、道に迷います。私はどこへ旅行に行っても、道に迷いません。広島も岡山もウロウロしましたが、一度も迷わなかった。なぜかというと、どこへ行くか決めてないから。歩いていれば全部正解です。旅行ってそういうものだと思う。私は旅行に行くと、1日に20キロか30キロくらい歩きます。しかもきれいな名所旧跡めぐりとか山歩きじゃなくて、街歩きをします。広島も岡山もどこでも案内できるくらい、歩き回りました。そうやって歩いている途中にプロセスがある。ちょっとしたお店があったり、おそば屋さんがあったり、面白い造りの家があったりする。
目標さえなければ、人生に迷うことはない。どこにいても正解です。反省したり落ち込むというのは目標があるから。マイナスの感情を持たないでおこうという目標があるので、それからそれると、「あ、道に迷った。えらいこっちゃ」とパニックに陥ってしまう。
□人を操作する癖
どうして悪いマイナスの感情を持ってしまうかというと、相手に何かをさせるためです。感情にも目的があります。その目的は、相手に何かをさせること。怒りの感情の目的は、だいたい相手に今やっていることをやめさせたり、やってないことをやらせたりすることですね。まずそれに気づくことが大事です。
「私はいったいこの感情で、例えば復讐心とかイライラする感じ、落ち込んだ感じ、あるいは鬱状態、あるいは不安、あるいは怒りとかでもって、誰に何をさせようとしているのか」。そんなふうに考えたことはないでしょう。憂鬱で、「あ~ぁ」とため息をつきながら、「かわいそうな私・悪いあの人」あるいは、「イヤな性格さん」と言いながら、私は誰に何をさせようとしているのかを考えてみる。
例えば、奥さんが落ち込んで、がっかりしている。そのときに、「あの人は冷たい。こんなときぐらい会社から早く帰ってくればいいのに」と思っているとすれば、つまりご主人に早く帰ってきてほしいんです。これがわかれば、そう言えばいい。「すみませんが、今夜は早く帰ってきてもらえませんか」と言えばいいだけのこと。何も落ち込んで病気にならなくていい。子どものころ、われわれの親は、僕らが落ち込むと言うことを聞いてくれたんです。子ども時代には、「お父さん、お願いだから今夜早く帰ってきてくれない?」と言ったら、「お父さんだって忙しいんだから」と聞いてくれなかった。でも、僕らが病気になると、早引きしてでも早く帰ってきてくれた。だから、小さいころから感情とか病気とかを使って、人を操作する癖がついているんです。
アドラーの育児では、「子どもの感情に反応して動いてはいけない」と言います。「子どもがソブリで示しているときに動かないで、ちゃんと頼んでくれたときに動いてください」と。それはその子どもたちが大人になったときに、感情で人を操作する癖をつけないように、ちゃんと言葉で人にお願いできるようになってもらいたいからです。
感情的に怒りや落ち込みや不安の強い人は、まずその感情の使われ方・目的を意識していないし、それから目的をたとえ意識していても、それをうまく言葉で相手に伝える技術がないんです。だから、どうやったらこれを相手に伝えられるか、冷静な言葉で考えてみてほしい。もしも口で言えないんだったら、書いてでもいいから、相手に示せるようにする。
□ただ尊敬する
それから、イヤだなあと思う人に対して、好きになるためにその人のことを「かわいそうな人なんだ」と思うのはまずいです。無理に良いところを見つけようとするのはどんなもんかな。かわいそうな人だというふうに相手のことを思うのは、縦の関係です。つまり、同情するということでしょう。
心理学用語に「共感」というのがあります。「同情」というのもある。よく似ていますが全然違う。「かわいそうに」と思ったら同情です。「あっ、この人はこんなふうに感じてるんだな」と思ったら共感です。共感というのには価値判断がない。相手が良いか悪いか、かわいそうかかわいそうでないかという判断がない。相手がいい状態だと思ったり、悪い状態だと思ったり、そしてこっちの感情がそこへくっついちゃうと同情です。
「あの人はかわいそうだ」と思うのは、相手を尊敬していない。尊敬している人のことをかわいそうだとは思わない。アドラー心理学が教える最も基礎にある考え方は、「他人を尊敬しよう」ということです。「あの人は私の尊敬する人だ」とまず思ってみる。
どうして尊敬するのか。無理に良いところを見つけようとするのはどうかという話と関係があるんですが、なんであの人を尊敬するかというと、理由はないんです。人間だからです。ただそれだけ。いいことをしたから、「あの人こんないいところがあるから尊敬する」とかいうんではない。別に長所見つけをやって悪くはないですけど、やんなくったっていい。ただ尊敬する。あの人をただ尊敬しようと思って、自分が一番尊敬する人とつきあうようにつきあってみようと決心する。教師だったら生徒に対して、自分が最も尊敬する人とつきあうように一度つきあってみよう。そして、その結果何が起こるか実験してみよう。夫は、妻が自分の最も尊敬する人であると思って声をかけてみよう。そしたら何が起こるか。
「そうしなさい」と言っているんではありません。いつもアドラー心理学は、「こうしなさい、こうすべきだ、こうでなければならない」と言っているんではなくて、「こういう実験をしてみませんか」と提案しているだけです。こういうふうにするとうまくいくとか、それはこうすべきだとか、こうしたら私が良くなる、相手が良くなると思っていたりすると、うまくいかない。自分が一番尊敬する人とつきあうようにつきあってみて、何が起こるか見てみようというくらいの好奇心でやると、欲がないから、無欲は強い。
□茶坊主の話
司馬遼太郎だったか、池波正太郎だったかの話で、あるお殿様が茶坊主をすごくかわいがっていた。参勤交代で江戸へ行くとき、その茶坊主を連れていこうと思った。ところが、茶坊主を連れていっては駄目なんです。武士しか駄目なんです。茶坊主は武士じゃない。そこで、その茶坊主に武士の格好をさせて、参勤交代に連れていった。
江戸屋敷にいた茶坊主さんが、あるときお使いを頼まれた。ところがお使いに行く途中、刀の鞘(さや)が通りすがりの侍の鞘にパシッと触れた。これはえらいことです。“鞘当て”と言って、向こうのお侍がひどく怒りまして、「武士の魂を汚された」と、決闘を迫られた。それで、「決闘を受けますが、私は主人持ちの身ですから、主人の用事をすませてそのあとで相手をします。夕方の○○どきに××へ来てください。武士に二言はございません」と言った。
それから、剣で有名な千葉周作先生の所へ飛び込んだ。千葉先生はちょうど風邪を引いて寝ていた。「ぜひ千葉先生にお会いしたい」「病気だから会わない」「それではほんのちょっとでいいから、ひと言アドバイスしてほしんです。私は今から決闘して死にます。でも私は茶坊主で俄(にわか)武士ですから剣術をしたことがない。だから斬られて死にますが、主人持ちの身であるから、ぶざまな斬られ方をするわけにはいかない。侍として立派に斬られる方法をひとことご教示願いたい」と必死に頼んだ。
千葉周作先生は、「それは面白い。今まで斬り方を聞きに来たやつは多いけど、斬られ方を聞きに来たやつはおらん。じゃあ、会おう」。で、千葉先生は何と教授したか。簡単です。「まず、刀を抜きなさい。そして目をつむって刀を上段にふりかぶる。そしてじっと待ちなさい。そのうち相手に斬られたと感じ、ヒヤッと冷たい感じが体のどっかにあるから、それがあったらとにかく大上段にふりかぶった刀を振り降ろしなさい。それは相手に当たるか当たらないかわからないけれど、ただ斬られたことにはならない。武士としても面目が立ち、尋常に勝負して斬られたことになる」。
それで茶坊主さんは、その時刻に約束の場所に行ってただ刀を持って構えた。決闘だというので、見物人もいっぱい集まってきた。千葉先生に言われたように、目をつむって刀を振り上げて待っていた。で、相手の侍が、もう来るかもう来るかとと思っても全然来ない。いつまで待っても。まわりがあんまりザワザワするから、パッと目を開けた。そしたら、侍が泣いて平伏している。「参りました。私は今までかなり剣が強いと思っていたけど、あなたぐらいの剣豪には会ったことがない」と。「実はそうではない。私は茶坊主あがりで、剣術は全然やったことがない。さっき用事をすませたらすぐ千葉先生のところへ飛び込んで、死に方を教えてもらってそのとおりにやっただけなのです」と正直に話した。相手のお侍は、「それはすごい話だ」と言って、一緒に千葉先生にお礼に行こうということになった。千葉先生も大いに喜ばれて、めでたしめでたしというお話です。
□遊び心で
つまり、「ああしよう、こうしよう」という気があると駄目なんです。結局無欲であるしかない。親が子どもを、教師が生徒を何とかしようというところから発想していると駄目です。「そうだ、これをやってみよう。それで何が起こるか見てみよう」という、好奇心というか、遊び心というか、そんな気楽なところで動かないと駄目です。
イヤな子を好きになるというのも、とにかく一度その子をすごく尊敬して、いい子なんだと思って、そんなふうなペルソナ(仮面)をかぶって、ちょっと数日やってみよう。一生やりなさいと言われたらイヤです、私でも。1週間くらいならやれます。とりあえず1週間やってみる。それで何か起こるか、それから考えてみる。(回答・野田俊作先生)