Q
頭を打ったときに、もしかしたら脳内出血をしていたらと不安になります。そんなことはないと思っても体がパニックに陥って、胸がドキドキ気分も悪くなり、自分自身がほとんどわからない状態になってしまうんです。
A
要するにこの人は不安なんですね。僕はこの人がやっている仕事の意味を知っています。頭の中に「病気のリスト」があるんです。歯を磨いて出血すれば白血病だと思い、足が痛いと骨肉腫だと思い、胃が痛いと胃癌だと思う。ずっと毎日、自分の不幸を頭の中のリストに書いていくんです。「今日はこんな不幸があった。体はこんなにボロボロだ……」。こういうふうに長々と同じ話をしているんです。
この人をカウンセリングしたらどんなふうになるかというと、きっと毎回同じ話を聞かされるんですよ。「どうでしたか?」と聞くと、「先生ねえ、私、脳内出血しているんじゃないかと思うの。20年前に頭を打ったでしょう。あのときから出血し始めたんじゃないかと思うの。それで心配で心配で……」「それは先週聞きました」「でもね、どうしても話を聞いてもらいたいんです」「聞きたくありません」「これを話さないと次へ進めないんです」「その話だけは聞きたくないんです。あなたはもうその話をよく知っているでしょう。毎日毎日繰り返し、同じことを自分に向かって言い続けているでしょう」。
その言い続けている目的は何でしょうか。なぜこの人は自分に向かっても、他人に向かっても、同じ「病気の心配」を言い続けて暮らすのでしょうか。それは、(他の)“ある話”をしたくないということなんです。そのある話とは何かというと、それは本人に聞かなければわからないですが、例えば夫婦関係が悪くて、その夫婦関係をもう少し良くしたいとかということに対して、真剣に取り組もうとしていないということかもしれない。そのことに対して、病気を口実にして、そこから逃げようとしているんです。
だから、神経症的な不安とかこだわりとかを強く持っている人は、自分自身に、一度その話をするのを全面的に禁止してください。頭の中でそのリストを読み上げ始めたら、「それはもう私はよく知っている」と思ってください。「私がこれ以外に本当に心配していることは何なのかしら」と思ってみる。そうしたら見つかります。
それはきっと「対人関係の悩み」なんです。必ず100パーセント。そしてそれは「自分と親しい人との関係」です。例えば夫婦の問題、例えば親子の問題です。そこを本気で解決する気にならなければ、ここから一歩も進むことはありません。
私はこの話を(本気では)聞いてあげませんからね。私はこの話を聞く必要が何もないもの。だって、カウンセリングというのは、その人自身が自分についてまず学ぶことだから。「私はなぜこんなふうなのか」をまず学ぶこと。この話はもうすでにこの人はよく知っているから、今さら繰り返して学ばなくてもいいんです。本当はそうなのに自分がよく気づいていないことを学ばなくてはいけない。だから、「この話は聞きません」と言って、カウンセリングは引き受けます。これ以外の話を聞きたいから。(回答・野田俊作先生)
Q
ここ2,3日、クラスが騒がしい状態で、授業が落ち着いてできません。
A
ああ、これは授業がつまらないんだ(笑)。授業を面白くする工夫をしたほうがいい。学校の先生は、不思議なことに、こういうことについて心理学に頼ろうとする。心理学に頼る前に教育技術を上げたほうがいいです。その技術がかなり上がってきているのに、なお問題が起こっているんだったら、これは心理学の領域です。
結構いい授業をしているはずなのに、何だかザワザワしていることがあります。それは、子どもたちの間に何か問題が起こっているんです。ぜひ、その子たちとよく話してみてください。どんな素敵な話があるのか、どんな素敵な計画があるのか。授業中にでも話さなければならないことが起こっているのかもしれない。このことに関心を持つんです。別に批判したり、アドバイスしたり、やめさせる気はないけれど、担任としては知っておきたい。そう思って、ちょっと情報を流してくれるようにお願いします。そうすると、いろいろわかってくるでしょう。
私たちに聞くよりも子どもに聞くべきです、いつでも。「こんなときにどうしたらいいんでしょうか?」と私(野田)に聞くより、「何が起こっているのでしょうか、私はどうしたらいいでしょうか?」と子どもに聞いたらいいと思います。(回答・野田俊作先生)
Q
私はおしゃべりで、直したいと思うんですが、直るでしょうか?
A
無理ですね。だいたい、おしゃべりがなぜいけないんだろう。おしゃべりは楽しいことですよ。言葉少ない人は言葉少ないのが楽しいし、おしゃべりの人はおしゃべりが楽しいんです。そんなのは変えなくていいじゃないですか。たとえ一生しゃべり続けたとしても、共同体のためにそれがプラスになるようにしゃべり続ければいいんだし、黙っていてもそれが共同体のためにプラスになるように黙っていればいいんだし、自分の今現在持っている性質を変えるんではなくて、それが「みんなの役に立つように使われるにはどうすればいいか」を考えてみてください。
子どもに対してもそうです。反抗的な子というのは反抗的なんです。それなのに僕たちは反抗的な子を従順な子に変えようとする。だから失敗するんです。建設的な反抗をする子にすればいい。私なんて建設的な反抗をする見本だと思いませんか。およそ従順な人間ではないと思うよ。科学なんていうのは反抗的な人のおかげで進歩したんです。科学者がみんな従順だったら、教科書に書いてあるとおり、先生の言うとおりで、絶対に先に進みません。「先生は嘘を言っているに違いない。教科書は間違いだ」と思う人たちが、新しいことを発見してくれ、人類は前に進むことができたんです。そういうふうに考えると、反抗的な人たちの功績は大きい。もちろん、従順な人たちの功績も大きい。
ある子どもが反抗的であるか従順であるかは、先天的に決まるわけではありません。それはきょうだい関係の中で、人生のごく早い時期に本人が決心をして決めるんです。一生を「イエス」の線で行くか、「ノー」の線で行くかを。「お兄ちゃんがイエスなら私はノーだ」などと選んでいく。これは、親からはイエスに決めてくれるかノーに決めてくれるかを仕向ける手がないんです。子どもが自分で選んで決めてしまったら、もうそこからあまり変えることはできないんです。僕たちにできるのは、破壊的なイエスや破壊的なノーでなくて、建設的なイエスや建設的なノーを言ってもらうようにすることです。
破壊的なイエスというのはどんなのか。例えばファシズム社会というのは破壊的なイエスを言う人たちによって担われているんだと思います。独裁者がいて、その人たちにおべっかを使う人たちが成り立たせている。それは破壊的なイエスだと思います。この前日本がやった戦争もそうですし、サダム・フセイン(浩→今ならP大統領かM首相かな?)もそうですが、本当は1人では何もできない。悪い奴が1人でどれだけ頑張っても何もできない。そういうのにくっついて、イエスを言う人がたくさんいるからできるんです。
だから、破壊的なイエスだってあるし、破壊的なノーだってある。それを変えるのではなくて、いつも持っているものを最大限にプラスに使おうとすることが大事なんです。持っているものを、みんなのために建設的に使うことを考えさえすればいいんです。それは子どもについてもそうだし、自分についてもそうです。私の持っているこの“軽率さ”はどうやったらプラスに使えるだろうかとか、私の持っている“忘れっぽさ”はどうやったら建設的に使えるだろうかと考えてください。(回答・野田俊作先生)
Q
今の自分を受け入れることが大事だと聞きました。それと同時に目標を持つことはいいのですか?
A
ああ、いいですね。人生に目標を持つということはいいことです。僕たちが目の前の困難さを乗り切れるのは、将来に夢があるからです。今の子どもたちがすぐ挫折するのは、あの子たちに夢がないから。「大きくなったら何になるの?」と聞いたら、「普通のサラリーマンじゃないかな」と答えるし、「どんな生活が理想なの?」と聞くと、「そうだなあ、一戸建ては無理だからせめてマンションでも買いたいなあ」なんて答えるから、彼らには何にも夢がないんだと思う。だから、彼らはコケやすい。
将来の夢がある人は、目の前の困難を困難と思わない。視線がいつも向こうを向いているから、目の前の苦しさも、苦しいと思わなくて耐えられるんです。 だから、人間は理想を持たなくてはいけないし、夢を持たなくてはいけないんですが、大事なことはその理想とか夢とかを、「理想とか夢だ」とはっきり知っていることです。現実だと思い込まないこと。「みんなから愛されたい」と思うのはかまわない。でも、みんなから愛されるのは無理です。できるだけ多くの人から愛されることはできるけど。夢や理想というのはそこに向かって歩けるけれど、そこにはたどり着かないということを知っていてほしいんです。それは地平線だから。いつも自分の方向を与えてくれるものではあるけれど、本当にそこに着くものではない。旅というのは途中が楽しい。着いてしまうとそれで終わりでしょう。着いてしまうと、また遠くへ行きたくなる。それでいいんです。
だから、現在の自分を受け入れるということは、夢や希望も全部捨ててくださいということじゃないんです。今の自分もOKだけど、「少しずつこうなっていきたい」と思うことはいいことです。今の自分というのは現実ですから、現実を否定してもしょうがないでしょう。その現実から好きになるしかない。夢はいかに素敵だったとしても現実ではないですから、夢から引き比べて現実の自分を駄目だと思うのはやめたほうがいいですね。(回答・野田俊作先生)
Q
人の話を自分で解釈しないで、本当にそれをそのまま理解する方法があれば教えてください。
A
いいですね。これはいいことだと思います。最近、僕はこのことにすごく関心があるんです。どういうことかというと、丸暗記するということに。今の学校教育の中では丸暗記することがなくなったんですが、昔は勉強するということは丸暗記することだったんです。インド人の医者の友だちがいて、彼はインドの伝統医学をやっています。アーユールヴェーダーと言って、漢方医学のようなものですが、彼はアーユールヴェーダーというインドの医学書を丸暗記しています。それは詩で書いてあって、日本語で言えば七五調みたいなもので、口調はリズムがあっていいですが、量はものすごく膨大なんです。電話帳3冊分くらいを頭から全部覚えている。
例えば、「風邪引き」について質問すると、「アーウーアーウー…」と唱え始めます。その章の頭からしか思い出せない。歌だってそうでしょう。歌だって途中からは思い出せないので、頭の部分から歌いだして思い出しますね。
仏教のお経も、多くはインドから中国に伝わるときに、書かれたもので伝えられたんじゃないです。翻訳した三蔵法師なんかが暗記していたんですね。その暗記していていたのをただ中国語に訳した。だから元の本は残ってないんです。もともと、元の本なんてないんです。そんなふうに、昔の人々は膨大なものを暗記しました。日本人だって、例えば『論語』を全部暗記している人は、そんなに珍しくなかった。ああいうものを暗記することの良さがあります。私のお婆さんは、曹洞宗の信者で、小さいときから『修証義』という日本語のお経を毎朝読むんです。あんなのは子どもが聞いているとすぐ覚えちゃう。20分くらいのものです。それくらいなら、子どもの頭は何も入ってないから、すんなりと入ってしまう。意味も何もわからないけど。今でも覚えています。
そうやって丸暗記して覚えておくことのいい点は、その意味を何度も発見すること。『修証義』なら『修証義』で、そのある部分の意味が、「あ、そうなんだ。これはこういう意味なんだ」とあるときふっと気がつく。だから、どんどん“読み”が深くなっていく。でも暗記していないと、それは絶対に起こらない。昔の人は、孔子聖人の『論語』を暗記したりして、「故キヲ温メテ新シキヲ知ル」なんて言っていると、その意味をただ頭で理解しただけでなく、生活の中で、「あっ、このことなんだ」と、体で理解するチャンスが何度も何度もあったと思うんです。そうすると、すごく自分のものになっていくんです。
鎌田 穣さんたちと言っているんですが、七五調のすぐ覚えられるアドラー心理学の暗記教材を作ったら面白いかもしれませんね(浩→実際作りましたね。「勇気づけの歌」とか)。
言葉をすっかりそのまま暗記してしまうということはすごく大事なことで、何度も何度もそれを噛みしめる中で、何度も何度も違った側面を見ることができる。ですから、自分の好きな言葉をぜひたくさん暗記してみてください。
暗記のコツはたった1つ。暗記というのは、喉の筋肉が覚えるんです。これは心理学的にそうです。水泳の仕方とか自転車の乗り方と同じで、筋肉の仕事です。だから、目で黙読しただけでは覚えない。また、声に出して繰り返せば必ず覚えます。昔の人は暗記しようと思ったら、声に出して節をつけて何度も読みました。とても簡単です。かなり長いものでも、毎日声に出して音読していれば覚えてしまいます。昔、うちの子どもが3人ともどういうわけか『桃太郎』の話が好きで、「昔々あるところに」って3人が口をそろえて言うんです。完全に暗記していました。 人によって早く覚えられる人と、ゆっくり覚える人がいます。けれど覚えられない人はいません。(回答・野田俊作先生)