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向上心、怠惰

Q 
 前回、「人には決められないことがある、することもできないというのがアドラー心理学ではとても重要です」ということを教えていただいて、ずいぶんまわりで起こっていることを楽に考えられるようになりました。自分の思いどおりにならないことを苦にしていましたが、できないことやわからないことがあるのは当たり前とそれほど気にしないことだと思いますが、向上心がない、怠惰だと見えそうです。どう考えればよいでしょうか?

A
 向上心とか怠惰とかいうのは価値観です。価値観は事実でなく思想ですから、別に向上心なく怠惰に暮らすのを美しくないとは思いません。近代、いつからか?1600年くらいから近代なんですけど、近代という時代は何だったのかというのがここ10年くらいの大きな論争のテーマです。日本ではちょうど第二次世界大戦が始まって1年ほどしたころに、近代の超克という名前の討論会がありまして、それが本にまとめられています。当時、「日本というのは何なのか」「日本の文明というのは何なのか」「日本は世界史の中で何をしようとしているのか」ということを考えなきゃいけないとみんな思っていた。あの戦争は、何も考えないうちに戦争になったんです。戦争が終わったあと、マッカーサーが思っていたように、「集団防備でみんなで世界征服しよう、おー!」とやったわけでは全然なくて、ヒトラーみたいに「何が何でも世界征服するぞ」と全然日本人は思ってなくて、なんやあれやったりこれやったりしているうちに、だんだん戦場が広がっていって、気がついたらアメリカと戦争してしまっていたわけです。そんな状態で困って、僕たちは一体何をしているんだと思ったので、まあいわゆる文化人ね、小林秀雄とか林房雄とか哲学者や科学者が集まって大変大規模な討論会をしました。大体それぐらいから日本人は、一体近代文明というのは正しいのか正しくないのか、もし正しくないとしたらどっちの方向へ乗り越えないといけないのか考え始めました。いまだに何も結論は出ていないです。結論は出ていないけど、近代が何をやってきたかというのはだんだんようわかってきました。それ以来一生懸命考えてみてから。要するに世界征服、物理世界の征服をしていたんです。ルネ・デカルトという人が、科学の力を使えば物質世界を人間は完全に支配することができると、『方法序説』という本の中で言いました。それを実際にやってきました。何のためにやってきたかというと、豊かな暮らしができるように。マルクスが共産主義で目ざしたのは、生産力を大きく上げてしまうと貧富の差がなくなる。あれはうまくいかなかった。で今度ケインズさんやアダム・スミスさんなんかがやったのも、人間の欲望を正面から肯定してしまうと、みんなが儲けたいから生産力は上がる、欲望を全肯定しておいて、生産者は生産者でお金持ちになると思い、消費者は消費者でいろんなものを買いたいと思い、みんなで一生懸命勤勉に働いて向上心を持っていたら、生産性が上がって貧富の差がなくなって、差別のな良い社会が来るだろうと、まあ思っていた。資本主義のほうがある程度成功しました。ある程度成功しましたが、成功してみた結果わかったことは何かというと、要は、幸せじゃないということ。何か忙しいんです。何かどっかが違うよ。鬱は増えているし、子どもも伸び伸びしてないし、みんな勉強せんといかんし、すごいたくさん働かないといかんし、家族もゆったりくつろいでないし、何かどこか違うんです。いまだに近代の超克、近代思想・近代文明を乗り越えて次の段階へ何とか行きたい、方向はわからないけど行きたいなあとみんな思っているんです。だんだんそれは深刻な問題になってきている、いろんな点でね。われわれは大きな力を手に入れました。核科学、原子爆弾・水素爆弾なんかあって、日本国を滅ぼそうと思ったら、中国が2,3発撃ったら終わりです。そんなのひどい世界だと思わない?それはあんまりですし、最近の話題だと、金融資本主義ね。あれはものすごいね。世界の総生産、1年間何もかも作って作って作って全部の生産量が大体5000億ドルくらいなんです。ところが、株式とか先物取引で動いているお金が1年間6000億ドルくらいなんですって。総生産量より大きいお金が、何も買ったり売ったりせずに実体経済と関係なく飛んでいる。そういうわけで株式や先物取引の総計がどれだけかわからない。ある学者の統計によると、2京か2万億ドル、そんな単位聞いたことない。それくらいのお金が株式の形でどこかに置いてある。生産量より多い株式って一体何なんだろう。何もないところでお金が作り出され消えていくマジックが発明されて、ひょっとしたら来年再来年くらいに飢餓とかパニックが起こるかもしれない。今のところない。隠しているから。見えてくると恐いから。もう1つ、生物学というのもめちゃめちゃ恐いと思う。今僕たちが一番びくびくしているのは鳥インフルエンザなんですけど、鳥インフルエンザというのは名前が良くなくて、風邪でしょと思うけど、全然風邪と違う。僕たちが普通かかるインフルエンザは、まあそんなには死にません。全然治療しなかったら、それでも数パーセント死にます。今治療も良くなりました。鳥インフルエンザが人間に感染すると、少なく見積もっても30%、多く見積もって60%の致死率です。もしも日本に鳥インフルエンザが入ってきたら、日本の人口が6000万くらいに減ります。恐ろしい。僕は一応缶詰を買います。一応1週間分。お医者さんたちは6週間分。6週間分の缶詰ってすごい量です。3メーター近づかなければうつらない。3メーターくらいしか咳は飛ばないので。3メーター近づくチャンスというのは、普通、電車だけなんです。電車に乗らなかったら鳥インフルエンザにならないから、日本に入ってきたら、私は自宅へ閉じこもろうと思っています。だいたい5,6週間で死ぬべき人は死にます。その間耐えればいい。なんでそんなことになったかというと、生物学の1つの成果で、密集して鶏を飼うんです。今、養鶏場を見ると、すごい狭い鶏小屋に空中に網の上で鶏さんを育てている。卵を産むと後ろへコロコロと卵だけ流れる。なんであんなに密集して飼えるかというと、感染予防のために餌の中に抗生物質が入っているんです。抗生物質を食べているからすぐ隣の鶏さんとこっちの鶏さんとで病気がうつらないんです。これは恐いですよ。あらゆるところで抗生物質が使われている。例えば、養殖の魚も餌の中に抗生物質を入れているから、あんな狭いところで密集して暮らせる。だって広い海を泳いでいたハマチさんや鯛さんがあんな狭いいけすの中で泳げるなんておかしいと思わない?絶対病気になるのにならない。薬がしっかり筋肉の中に入っているので、食べたら体の中に入りますから、ご用心と言ってももう遅い。もうちょっと違う文明を作っていかなきゃいけない、時間をかけて。だから勤勉じゃなくなって怠惰になると、近代文明の中でえらい暮らしにくいけど、いいじゃないですか、未来を先取りしてて。

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精神発達

Q 
 エリクソンの言うライフスタイルの精神発達についてどう思われますか?

A
 エリック・エリクソンね。エリック・エリクソンは全面的に間違っています。なぜなら彼はフロイディアンだから。アドラー心理学はフロイトに対するアンティテーゼとして出てきたんです。要するに「5つの基本前提」に全部○を付けました。エリクソンは全部×を付けています。一番根本的なスタンドポイントが違うんです。でも、邪悪だとか人類を不幸に導くとは思わない。ただ、われわれとまったく話が通じないんです。まったく話の通じないものに批判するも批判しないもしようがないから、エリクソンの発達段階を僕らは使いません。じゃあ、発達段階について何か使えるアイディアはないのか?アルフレッド・アドラーは発達段階についてほとんど何も言いませんでした。教育や児童心理をやっていく上で、発達の段階がないというのも不便です。僕の先生のバーナード・シャルマンはハリー・スタック・サリヴァンという先生の発達段階を使いました。サリヴァンはフロイトの弟子筋なんですが、フロイトに全然忠実じゃなくて、きわめてアドラーに近いです。サリヴァンの書いた本はすごい読みにくいんです。無茶苦茶な悪文家です。この人のお弟子でチャップマンという人の書いた本がいくつか和訳されています。チャップマン先生の発達論の本が出ています。誠信書房か。サリバンは、乳児期・幼児期・児童期・思春期4期・成人期・初老期・老年期に分けました。乳児期というのは言葉が出ると乳児は終わりです。二語文が出るのがだいたい2歳くらいで、乳児から幼児になります。幼児が児童になるのは、友だちができると児童です。友だちというのは、勝手に子どもどうしで次々新しい遊びを見つけて遊べるようになる友だちです。親とか保育士さんとかが遊びを設定してあげなくても、子ども自身で遊びをクリエイトできると児童期です。だいたい5歳です。思春期に入るのは、思春期型の親友ができると思春期です。児童期の友だちは大きなグループですが、小さなグループで同性で閉鎖的で仲間と仲間でないのとをはっきり区別して、遊びのテーマがはっきり決まっているのが思春期型グループ。この反対が児童期型グループです。だいたい5年生、10歳か。5年生になるとクラスの中がパッとグループに分かれたりする。あれは思春期に入ったから。それからこの時期を、前思春期と言う。次、思春期前半・思春期後半に分けて、思春期前半は、異性に関心ができて何となくグループで異性と交際をする。男の子の親友グループと女の子の親友グループという単位でお誕生会をやってみたり、どこかへ遊びに行ったりすると思春期前半です。個人交際して2人で消えちゃうと思春期後半です。だいたい中学1年生の終わりから2年生になると、多くの子が男の子のグループと女の子のグループで何となく一緒にいたりする。それまではえらい憎しみ合うんです、男と女が。前思春期って無茶苦茶憎しみ合っているみたいです、両方でどういうわけか。それが何となく気がついたら一緒にいるなんてことになって、高校2年生くらいになると、「あいつらどこへ行ったの?」とパッと消えるという恐ろしい現象が起こって、性的な関係というのはそれと関係なく起こるんです。あんまり親密さと関係なく欲求だけで性行為をするのが思春期前半からあったりする。それでもやっぱり人間関係を見ると変わってない。思春期後半から前成人期。これはわりと人によって違うけど、親からの自立。物理的には大学へ行ったりして、親元を離れるというのがありますから、物理的に別れるというのもありますが、心理的にも18,19歳くらいになると、あまり親を「お父さん」「お母さん」て感じじゃなくなって、まあ「ああいう人もいるわね」と感じでクールになる。完全に独立してしまうと成人期です。親から経済的・精神的に完全に独立してしまうと一応成人期です。サリバンの時代の感じとしては、サリヴァンはアドラーよりもちょっとあとの時代の人ですが、サリヴァンの時代の感じとしては、結婚にしているとか子どもがいるとかいうことが成人期と関係している、自立していることと自分が結婚するということが関係がある。そこが今問題です。親からの完全自立をなるべく遅らせようとする恐ろしい作戦が進行していて、35歳くらいにならないとなかなか。結婚しようが子どもができようが、お年玉をせびりに来るとかいうようなことが起こります。こんなの年齢はアテにならないですけどね。子どもによって前後があります。初老期というのは、子どもが自立する、子どもがなかったらどうなるか?子どもがなかったら初老期にならないかな?夫婦2人がポツッと残されると初老期です。老年期というのは、生産的な活動から全部退職してしまうと老年期です。退職しないで生涯現役を貫くと老年期にならない。実際、生涯現役をやっている人は若いんです。体もね、政治家とかね、実業家とかね。定年を楽しみにして、定年になったら新しいことをせずに、……ちょっと難しいんです。年金がもたついているから。昔、年金がすぐ出てきたりすると、退職してすぐに何もしなくなったりすると、急速に老化しましたね。
 サリヴァンの発達段階表の良いところは、完全に人間関係のあり方からだけ分けているところです。内的発達を一切無視して。外から観察できる、家族との関係とか交友関係だけから発達段階を分けていて、しかも実際での観察とぴったり一致するところです。だいたいアドラー派の人で発達段階の話をするときは、サリヴァンの発達段階表を使いながら、前思春期がどうの、思春期前半がどうのと話をします。そのほうがエリクソンよりはるかにわかりやすいです。

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依存症への関わり方

Q
 依存症の人への関わり方を教えてください。

A
こんなん言うたらいかんと言うてるでしょ。依存症の人なんかいない。AさんとかBさんとかしかいない。だから依存症の人への関わり方というのはありません。1人1人みんな違うと思う。まあ大雑把に依存症的な性格とかいうものあるように思わないでもないが、そうでなくても依存症になる人もあるし、依存症的な性格なのに依存症にならない人もあるし、ピタッと一致しなんです。だからそれよか1人1人の人と向かい合って、その人に対してして私のあげられることを考えるほうが、健康な考え方だと思う。

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認められないと安心できない

Q
 人に認められないと安心できないんです。どうしてもこれにこだわってしまう。自分自身を生きることはつらいです。何かヒントを。

A
 人に認められないと安心できないのは、人間はみんなそうです。「みんなから無視されてみんなに忘れられたいものだ」と思っている人は、あまりいない。
 私がアメリカにいたとき、シャルマン先生が喩え話をしていました。昔、ドイツの深い森の中に小さな村があった。その村から20キロ離れた誰もいない森の中に、隠者さんが1人で暮らしていた。誰とも交わらずにほぼ自給自足していた。あるとき、雷が落ちて村が焼けた。村の人は、100キロ離れたところに村ごと引っ越しした。隠者さんも引っ越しして、その新しい村から20キロの所で1人で暮らした。「どんなに1人で暮らしている人でも、絶対、世間とある距離で関係を持っている」と彼は言った。
 認められたいし、ほめられたいし、愛されたいんです。「認められたくない人間になりたい」なんて変なことを思わないように。それは、人間のごく普通の方向性だから。
 問題は、どうやって認められるかです。目標はOKなんです。有名になりたいも、権力を持ちたいも、認められたいも、愛されたいも、全部オッケー。どんな方法で認められるかです。例えば、ものすごく悪い犯罪者になって、人でもころして警察に捕まって新聞に載って全国に有名になるのは、確かに認められる方法ですが、その方法は駄目です。そうではなくて、共存共栄的に自分が自分の目標を追求するんです。自分にはプラスがある。その結果、周囲の人にマイナスがある。そういう方向は具合が悪かろう。周囲の人にもプラスがあるような、そんなふうなやり方、お互いがプラスになっていくようなやり方はないかしらん。互恵(共存共栄)的な方向はないかしらんというのが、アドラー心理学の抱えている問題意識です。
 僕はアドラー心理学で一番好きな部分はここなんです。人間は、本来わがままで欲張りで、私利私欲だけ追求している利己的なものなんです。絶対にそうです。どこまで行ってもそうです。修行しようが神様にお祈りしようが何しようが、結局、利己主義者です。それはそうだけど、自分が自分の目標を追求する結果、周囲の人が得したり損したりする。周囲の人にどんな影響を及ぼしているかのほうに目を移して、自分の目標追求で、周囲の人が得していたらそれでOK。損してたらそれはいけない。人に認められる。それはOK。どうやって認められるか。みんなも自分も得する方向で認められる方法はないか。
 今私がここでお話しているのは、あなた方に認められたいという強い欲求からかもしれない。たぶんそうです。でもあなた方は損してない。私が知ったかぶりしている結果、あなた方はそこから何かの利益を持って帰れる。それはいいことでしょう。あるいは、ただお金儲けたいだけかもしれない。要するに、人々を騙してお金を儲けようと思っているのかもしれない。だいたい基本的にはそうです。あなたがたは騙されているかもしれない。騙されても得している。ここで支払う以上のメリットがあるんじゃないかと思って、ここへ来ているんでしょう。たぶんあるだろうと私も思っているので、共存共栄です。そしたら、私が欲張りで見栄っ張りで認めたがりでお金儲けたがっていて、一向にかまわない。どうせあなた方も欲張りで見栄っ張りだから、お互い様です。認められたい、儲けたい、愛されたい、そのことを悩まないでね。それは基本的に何も問題はない。

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子どもの喧嘩をほうっておいてもいいか?

Q
 子どもの喧嘩を放っておいてもいいのでしょうか?3年生くらいだと大きな怪我をすることはありませんが、5年生くらいになると恐い気がします。治る怪我はいいけど、取り返しのつかないことになると困ります。また、他の子がただの傍観者になってしまうのではないか、子どもの中に腕力による序列がついてしまうのではないかと気になります。

A
 これ学校の先生なんだな、きっと。
 アドラー心理学はユダヤふうで、契約思想です。契約がないと動かない。この場合も契約がないから動かない。「子ども1」がいて「子ども2」がいて、「子ども1」と「子ども2」に喧嘩というコミュニケーションがある。そして「大人」がいる。大人と、喧嘩している子どもたちとの間に、何も取り決めがない。「助けてくれ」とも「手伝ってくれ」と言われてない。そうすると、「これは子どもたちの課題だ」と言う。
 まず自分の課題と相手の課題とを分けたいと思う。スマイル(パセージの前身)では「課題」、カウンセリングでは「責任」という言葉をよく使う。自分の責任と相手の責任。喧嘩というのは、子どもたちの責任でマネージすべきことです。喧嘩もそうだけど、怪我させないようにマネージするのも子どもたちの役割で、それを学んでいかないといけない。
 だいたい普通の発達で、中学に入ったころに自分が相手を傷つけるくらいの力を持ったことに気がついて、暴力的な喧嘩はほぼなくなっていくんです。それまでは力がないのでわりと安全に喧嘩をする。喧嘩をすること自体は正常な発達ですよ。猫や犬はしょっちゅう喧嘩をするでしょう。それは別に異常な事態ではない。動物が子ども時代はそうやって育つもの。それは別に困ったことではない。喧嘩のマネージメントができるのは大事なことですね。
 私は喧嘩は強いんです。合気道3段です。今は弱いけど昔は強かった。喧嘩が強いのはすごくいいことです。というのは、絶対に喧嘩をしないですむから。ムチャクチャ自分は強いから、したら絶対に勝てると知っているから喧嘩をしない。したら相手をころ
すかもしれないから。威張っている上司とかがいても、最後暴力になったら俺が勝つと思うから、しない。喧嘩が強いのはいいことね。空手、ボクシングを習うのはいいことね。それで人間が乱暴になるとは思わない。
 喧嘩そのものは別に問題だと思わない。子どもたちはマネージメントができるだろうと思う。できそうにないなら、お話しておけばできるようにだろう。
 喧嘩のやり方があるんです。髪の毛引っ張ったらいけない。殴るのはいい。ぶん投げるのもいい。日本人はあまり蹴らないけど、韓国人は蹴る。テコンドーの影響か。そういう何とない子どもの間の喧嘩のやり方のルールがあって、まあ卑怯なことはしないということがわかる。わからなければ大人が教える。「喧嘩してもいいけど、つねる、髪の毛引っ張るは駄目で、殴るか投げるか、せめて蹴るくらいにしてね」とか。「相手が泣いたら終わり」。それさえできていれば、別に頼まれないのに口を出すことはない。あとは全部子どもの課題です。教育的責務は果たしたから。「つねったらいけない」と教えましたから。
 それでも、怪我させるかもしれない。心配でしょうがない。それは自分(あなた)の課題です。子どもの課題ではない。喧嘩で大怪我したなんてことは普通ない。小怪我はあるけど。それでも心配でしょうがないなら、“心配性”という自分の課題を自力で克服しないといけない。自分の心配をなくするために子どもたちに喧嘩をやめさせるのを、「課題の肩代わり」と言う。本来自分が自分の責任ですべきことを他人にさせているので、とても良くない。そういう意味でこれは放っておいていい。いくらか基礎知識さえ子どもにあれば。
 契約になることがあるんではないか、共同の課題になるんじゃないかという意見もある。それには僕は反対です。ならないです。負けた「子ども1」が言いつけに来た。「いじめられた」と。勝った子は「勝った-」と言いつけに来ない。これで共同の課題になったから、じゃあ、いじめたほうの「子ども2」をやっつけに行こうというのは、あまり共同の課題になってない。「いじめられた」と言ってきたら、確かにその子は喧嘩を話題にしてきた。だから話題にはしましょう。でも共同の課題になったのは、言いつけに来た「子ども1」と大人の範囲だけです。「子ども2」は関係ない。この「子ども1」が喧嘩に勝つ方法を、逃げ方を教えるのがフェアで、「子ども2」のところへ行ったらフェアでない。ここだけで解決しないといけない。両方が来て、「どっちが正しいか判断して」と言ったら、それなら、してあげたらいい。そんなことは滅多にない。だいたい片っ方が言いつけに来る。
 学校というところは、「現場の実情がある」と言う。それは私の知ったことではない。現場の実情は自分で悩んでください。アドラー心理学の側には妥協しなけりゃならない理由はない。アドラー心理学はアドラー心理学の原理で押し通す。それ以上のことはそっち側でやってください。

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