Q
中学校のことですが、去年あるクラスで全員のお金と物が盗まれるということがありました。…
A
おおっ、すごい才能のある怪盗ですな。
Q
そのとき担任は、「それぞれなくなったものを紙に書いて提出しなさい。しかし、結果としてなくなった物は出てこないでしょう。悪い夢を見たと思って諦めてください」と言いました。…
A
すごい担任ですねぇ。
Q
今年になって、また集金袋ごと大金が盗まれるという事件が起き、生徒の中で「3年生の誰それがやりました」と訴える者もいたそうです。……
A
おおっ、とうとう密告者まで現れましたか。
Q
担任は、「じゃあ聞いてくる」と言い、その後、「やっぱり知らないそうだ」と言いました。さらに最近も、制服や靴が盗まれるということがありました。いつも「夢と思って諦めなさい」で終わっていますが、親ができること、学校ができること、子どもたちができることについてアドバイスください。
A
これは親のほうの相談なのかな?親の相談なのか、教師の相談なのかで、まったく話は違ってきます。
親からの相談であれば、「誰の課題がどこにあるか」です。まず、自分の子どもはこのことについて親にどんな相談を持ちかけているのでしょうか。もしも、「学校でお金を盗られちゃったんだ」と子どもが訴えるとします。それだと、「ええ?盗られちゃったの?」と聞く。それから、「……で?」「えっ?お金を盗られちゃったんだよ」「ああ、盗られちゃったんだね」「……で?」「だから……」「だから?」「だから、盗られちゃったから、もう少しお小遣いを追加してください」。
もしもそう言えば、その相談には乗れるかもしれないし、乗れないかもしれない。だいたい、子どもが「学校でお金を盗られちゃった」と言うと、親は、即、動き出すでしょう。これはいけない。「犯人を摘発し、厳重に処罰しなければいけない」と言うけど、これは親の仕事ではないんです。この場合の親の仕事は、自分の子どもの相談に乗ることでしょう。「冷たい言い方だけど、盗られるほうもトンマだよね。じゃあ、盗られないようにするためにはどんな工夫をすることができるかね」って子どもと話し合うこともできる。だから、この質問が親の相談だったらそれで終わりです。自分の子どもと十分に話し合い相談し合って、子どもが親に対してしてほしいと思っていることをよく理解し、それが親にとって、やってあげてもいいと思うことであれば、してあげればいい。それ以上のことには手を出さないことです。
もしも教師の相談で、自分のクラスによく盗難事件が起きるということであれば、これはまったく話は別です。これはクラス全体の問題ですから、クラス全体で話し合わなければなりません。「盗難事件が起きるけれど、それに対してどうすればいいか」。ものすごくはっきり犯人がわかっているときは、その子が泥棒なんかをしなくても暮らしていけるように援助するために、話し合います。犯人をはっきりさせるということは、その犯人に更生するチャンスを与えて、僕らが援助を提供できるようにするためです。ただ、学校の援助力を超えているような場合、本格的な犯罪予備軍で学校の力ではどうしようもないというときは、学校では諦めて、その道の専門家にお任せしなければどうしようもないということもありますが。この程度の被害であれば、学校内で何とかなると思います。
犯人がわからない場合。これは、犯人捜しなんかやめたほうがいいと思います。子どもたちどうしの関係をとても悪くしますから。このときは、「どうすれば被害を防ぐことができるか」ということ、もしもその犯人が誰かわかったときに、「どうやってその子と、もう1回友だちになれるか」という2つのことが、話し合いの話題になります。「その子はみんなと友だちになれなくて、みんなといい関係でいられないから、こうやって事件を起こすことで、みんなと悪い関係を持とうとしているに違いないから、だからその人が誰だとわかるときに、みんなはいったいどんなふうにしてその子を援助することができるか」ということを話し合ってほしい。教師ができる援助はこれなんです。(回答・野田俊作先生)
Q
クラスのルールの中に、「これを守らなかった場合○○という罰を与える」というルールを作ってもよいそうですが、そんなことをしたら体罰にならないですか?
例えば、「チャイムの合図を守らなかったら教室に入れない」というようなルールは良くないような気がするのです。どういうルールなら教育的なんでしょうか?
A
あのね、ルールの中に罰を作ることはいいことではありません。ですから、本当は罰なしのルールがいいんです。
罰なしのルールでやっていって、どうしても守れないということが起こってくる場合があります。例えば、「教室の扉を壊さない」とか、「チャイムの合図で教室に入る」とかのルールの場合です。「チャイムの合図で教室に入る」というルールの場合、それ以前に「これがルールになりうるのだろうか、このルールの合理性は何だろうか」ということがちょっとばかり気になります。
チャイムが鳴っても教室に入らない子どもがいたとするね。そのときに、その入らないという行為の結末は、誰の身にどのようにふりかかってくるのか。まず、その子どもの身にふりかかってきますね。勉強が遅れるかもしれませんから。教師はチャイムが鳴ったら授業を始めるという態勢でいたほうがいいです。たとえ全員集まっていなくても。みんなが来るのを待つことはないから。そういう前提での話です。1人も入っていなかったとしても、空っぽの教室で授業を始めるくらいの迫力があったほうがいい。私はそうです。私は時間になったら講義を始めることにしていますので、誰も来ていなくても始めてしまうんです。
だから遅れるということで、その結末は本人にだけふりかかるようにしなければいけないと思います。とすれば、このことはそもそもクラス共同体の課題になりうるのだろうか。クラス全体の共同の課題になれないようなものをルールにできるかというと、これはできないんです。だから、「チャイムの合図を守ろう」ということはルールにならないんです。キャンペーンはできるけど。ルールとキャンペーンは違うんです。「チャイムが鳴ったら教室に入ろうね」というポスターを作って、壁に貼っておくことくらいはできるけど、まぁ、あんまり役には立たないと思いますがね。
ルールにできることというのは、全員に関わること。例えば、「窓ガラスを割らない」とか。窓ガラスを割ったら、全員が困る。冬の寒いときに割れた窓ガラスは困りますよ。「教室の道具を壊さないこと」。机を壊されたら困りますからね。これはルールにできます。
僕が、今の学校を批判している理由の1つは、ルールにできないことをルールにしているということです。そもそもルールとしてなじまないものをルールにしようとしている。これはいけない。
話を元に戻して、「教室の窓ガラスを壊さない」というルールが決まったとしますね。にもかかわらず、誰かが壊してしまった。ではどうするか。
その場合にペナルティを決めることができます。そのペナルティは、行為そのものと関係があることが条件です。例えば、弁償して責任を取ってもらうこと。あるいは自分でガラスを買ってきて自分で修理すること。そういうふうに、そのルールと論理的に関係のあるペナルティであるならば決めることができる。普通は、論理的に関係のないペナルティを決めることが多いんです。ぶん殴るとかね、のけ者にするとかね、それらは教育的ではないです。(回答・野田俊作先生)
Q
気分がよくコロコロ変わってしまいます。今日は気分がいいなあと思ったら、すぐ落ち込んでしまったり。毎日幸せに楽しい気分で暮らせるコツというのはありませんか?
A
いいときもあれば悪いときもあるでしょう、そりゃ人間だからね。そんなにずっとずっと幸せに暮らしたら、ただ馬鹿なだけじゃないかな。
ずっと、ただ幸せでいたいというというのは、目標自体が非現実的です。体がずっと痛みがなくて健康で快適で気持ち良くありたいというのは、非現実的でしょう。風邪を引くときもあるだろうし、食べ過ぎてお腹が痛くなるときもあるし、怪我をするときもありますよね。それと同じように、心もずっと快適で幸せというのは非現実的なんです。
『日々是好日』という言葉がある。この言葉には由来がありましてね。師匠が、「今月の朔日(ついたち)から今日までどんな日だったか言ってごらん」と、お弟子さんたちに聞いた。誰も答えることができない。そしたら、師匠が『日々是好日』、つまり「みんないい日だったね」と言ったんです。すると、弟子たちが、「そんなことはないですよ。雨が降った日もありましたし、風が吹いた日もありました」「うん、だからみんないい日だった」。
いい日だというのは、すごくハッピーでラッキーでいいことがいっぱいあったからいい日だというのではなくて、毎日毎日変化があって、その中で生きていかれるからいい日なんです。ずっと気持ちがいいのが続いたら、それは死んでいる。人間として、生き物として生きてない。上がったり下がったりするから人生であり、上がったり下がったりするから生命なんです。
「今日は調子が悪いじゃないか、何とか調子良くしよう」というのがおかしいの。「今日は天気が悪い。何とかお天気にしよう」というのと同じようなもの。お天気な日もあるし、悪い日もある。対人関係がうまくいっている日もあるし、すごく気まずいことが起きる日もある。それを全部トータルに見て、これが生きているということで、僕たちの幸せなんです。
対人関係で気まずいことが起こったときに、僕たち自身のパートは変えられるけど、相手のパートは変えられないですよね。イヤな人がイヤなことを言うこともあるでしょう。イヤな人がイヤなことを言ったのも、それは僕らの人生のある日の出来事の1つであって、そしてそれはきっといいことなんだ。すごくイヤなんだけど、きっといいことなんだ。なぜならば……。その先は皆さんが考えてください。
昔話ですが、僕(野田)の友だちが京都大学に行こうと思って、一生懸命勉強をしていた。ところが落ちちゃったの。それで、昔の二期校の大学に入った。本人にすればすごく不本意だったんです。だから、ずっと不幸そうに暮らしていた。ところが、その大学で恋人ができた。そして、その恋人と結婚しちゃった。その二期校の大学を出たのちに京都大学の大学院を受けたら、これは通った。だから、彼は二期校で4年間ほど寄り道をしたために、人生の伴侶を見つけた。もしも、そこに寄り道をしなかったら今の奥さんと結婚できなかった。彼は今、奥さんのことをすごく愛していて、だから4年間の彼の雨降った日々が、結果的にはメチャメチャいいことだったんです。そんなことは、僕らの人生でふり返ってみれば、誰にでもいつでもあることでしょう?
あるときに不本意なことが起こったおかげで、あとですごくいいことが起こったということは、絶えずあることです。その不本意なことが起こったそのときは、不本意なんです。それがあとでいいことになるなんてわからないから。でも、ひょっとしたらいいことかもしれない。たぶんいいことなんです。しかも、これは自分で決められるんです。自分でいいことにすることができるんです。「今日はすごくイヤなことがあった。あの人にムチャクチャに言われた。これはきっとすごくいいことなんだろう」と考えれば、いいことにすることができますよね。(回答・野田俊作先生)
Q
86歳になる主人の母と同居しているんですが、私はいい嫁、いい母とかでなくてはいけないと思って頑張ってきたんですが、ここ5,6年は自分自身であまり無理をしたくなくなってきて、私自身がやりたいようにやろうと思いました。主人や子どもにはそれがかえって良かったのですが、母は戸惑っているかもしれないと思うんです。まだ自分でできるので、母から頼まれないことはこちらからはしないようにしているんですが、もしかしたら冷たい嫁と思われているんじゃないかなどと思います。
私が年を取ったときに余計なことと思えるようなことはしたくないと思うのですが、それを明治生まれの母にしていることに少し罪悪感を感じるのです。
A
この人はもう一度「いい嫁」をすることができるんでしょうか、できないんでしょうか。できないんだったら、しょうがないよね。
僕が病院に勤めていたときは、当然おじいちゃんやおばあちゃんたちも診ますわね。特に入院していて少しボケがあるおじいちゃんおばあちゃんたちに、面倒見てあげるとどんどん駄目になっていくんです。おじいちゃんおばあちゃんが、少しご機嫌が悪いくらいが元気で長生きなさるから、少しご機嫌を悪くするくらいの嫁は、いい嫁だったりするんです。自分が年を取ったときにされたくないことはしないとか、自分が年を取ったときにしてほしいと思うであろうことはするというのは、いい判断の基準だろうと思います。「私は年を取ったときにこうしてほしいけど、あのおばあちゃんにしてあげるのはイヤ」というのは、フェアじゃないと思うのね。おばあちゃんの本当の気持ちというのは、結局わからないですよ。僕たちがどんなことしても、それでおばあちゃんが満足なさるかなさらないかは、僕たちが想像するだけでしょう。だとしたら、自分はどうかで判断するよりないですよね。
お年寄りの自立というのはどういうことかというと、頼みたいことがあったら僕らに頼んでほしいということ。黙って期待しないでほしいということ。僕たちも年を取ったらそうなりたい。例えば、人に頼れないお年寄りというのは困るんです。老人病院とか、老人ホームの介護者とか、あるいは医者とかにとって、一番困る老人というのはどんな人かというと、何でもかんでもべったり頼ってくる老人ではなくて、世話をさせてくれない老人です。できないのに絶対自分ですると決めて、絶対頼まないで全部失敗するお年寄りね。これは困るんですよ。だから、自分でできないことをはっきり認めてほしいんです。そして、それを僕らに気軽に頼んでくれるタイプの老人というのが、自立したお年寄りだと思う。
やがて僕らも寝たっきりになったりして、シモの世話も人にしてもらわなくてはならないかもしれない。そのときには、観念して世話をしてもらおうと、今から決めておいたほうがいいと思う。イヤだけど仕方ないね。でも、そう決めてるほうが自立しているんですよ。「自分でできる間は全部自分でしよう、そしてできなくなったらあっさりそれを認めよう」と決める。そのときに、「私はこんなに駄目なんだから、当然あなた方が面倒見てくれていいでしょう」とは思わないでおこう。ちゃんとそれは感謝すべきですからね。(回答・野田俊作先生)
2.Adamがいて、+12歳の Bill(28歳)がいる。Bill について推測してください。
解答
2.ビルは、アダムとビルの間に多くのスペースがあるため、家族の中で一人っ子である可能性があります。
ビルはアダムを親のような人だと感じているかもしれません。
アダムはビルが学齢期になったときに家を出たので、ビルは両親と二人きりで暮らすかもしれません。
次の問題
3.子供の頃なりたかったもの:消防士
子供の頃怖かったこと:溺死
このクライアントがあなたに何を言っているのかを推測してください。