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ストーカーの具体例は?

Q 
 近ごろストーカーのことが、よくドラマに取り上げられていますが、ストーカーの具体例がありましたら話してください。「全然知らない人からの無言電話」もストーカーでしょうか?

A
 何か次々にあんなものをはやらせる馬鹿者がいるんです。この前は何だったかな?“アダルトチルドレン”だ。もう1つ前は、“シンデレラ・コンプレックス”で、絶えず儲けたい心理学者がいるんです。
 私も本を書いていますが、本って最初書くのが大変です。鉢巻きして、ウンウン言いながら書きます。それで、印税10%です。だから例えば、1000円の本を1万部出すとするでしょう。そうすると売り上げは1千万円です。1千万円の10%の百万円をもらえます。嬉しいですね。でも、半年かかって一生懸命本を書いて、百万円って少ないと思いませんか?本を書くエネルギーに比べたら、土木作業に行ったほうがよほど儲かります。ところが印税は、第2版以後もくれるんです。1万冊刷ったのが全部売れて、次にもう1万冊出したら、何もしないのに百万円入ります。しばらくすると第3版、また百万円入る。だから実はすごくぼろい商売です。
 『アドラー心理学トーキングセミナー』は、1986年ごろに書きましたが、今でも年に1回か2年に1回増刷します。そのたびにくれるんです。何か突然宝くじに当たったみたいで、すごく嬉しいです。でも、あの本は1回に千冊くらいしか印刷しないので、そんなに儲からない。残念!それでも10万円とか入りますから嬉しい。1冊2千円だと20万円くらい……。百万部売れたりすると嬉しいね。心理学は売れ筋なんですよ。
 私はある大手出版社から絶えず「本を書きませんか」と言われています。『誕生順位による性格判断』とかを。「絶対ベストセラーですよ」と言われます。そりゃベストセラーになるかもしれないけれど、そんなもの書きません。「みんなが気にして、そのうち映画ができたり、テレビ番組ができたりするのがイヤだから書かない」と言ってます。でも、そんなのを書く人がいます。
 ストーカーなんて言うと、センセーショナルで本が売れちゃったりする。百万部は売れないかもしれないけれど、1000円の本が10万部売れたら、すごいお金です。ちょっと計算してみてください。「おっと」という感じになるでしょう。1冊の本でそれだけ入ったら、女房、子どもがいなければ、2年くらい暮らせるでしょう。女房、子どもがいたら1年くらいだけど。
 だから儲けるために書いている人がいます。根拠も何もないのに、まるで手品のように何もないところから、“アダルトチルドレン”とか“ストーカー”とかを取り出し、それにマスコミが食らいつく。次にはテレビドラマが食らいつく。
 テレビドラマを作っているのは、だいたい30歳代前半の人たちで、われわれみたいな年齢の者から見ると、失礼ながら世間のことをあまり知らない人たちで、目先目先の話題になったことをドラマに織り込んでいきます。あんなドラマは、半年したら忘れられるということを、初めから計算に入れていて、シェークスピアや近松の芝居とは違います。今やっているドラマを、300年後に舞台でやっているでしょうか。2度とやらないと思います。使い捨てでどんどんドラマを作っていきます。テレビでストーカーのドラマを作るけど、それがいつか再放送されるなんて考えてない。一時視聴率を上げればそれでいいので、そんなものにわれわれは深刻にならないことです。30歳代の若い人たちが一時会社からの受けが良くなるために、たまたま金儲け主義の心理学者の書いたことに食らいついただけで、深刻に受け取ることはありません。(回答・野田俊作先生)

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この先の日本はどうなる?

Q 
 最近のくだらないテレビ番組、幼児期からの塾通い、小中高等学校の非行など、またいろんな場所での講話を聞いても、この先日本は、日本人はどうなるのだろうか?と思います。野田先生は、今どきの日本の人々(若い親や子どもたち)をご覧になり、この先の日本をどうお考えになりますか?自分さえしっかりしていればいいとも思うのですが……。

A
 結論としては、私も自分さえしっかりしていればいいと思います。日本国はこのままでは、どう考えてもたぶん駄目です。
 このごろ、ちょっと経済学をお勉強しています。いろいろ考えているうちに、「一番根底的な部分は、結局、経済構造にあるんだ」と思うようになったので、お勉強したんです。大したことはないんですが、本を2~3冊読みました。
 わかってきたのは、1950年ぐらいから、経済学の考え方が変わったということ。それまでは、必要なものを売って必要なものを買っていたのが、今は欲しいものを売って欲しいものを買っている。
 どういうことかというと、例えば、私は釣りが好きです。うちに小さい物置がありますが、そこを開けるとなんと釣り竿が30本くらいあります。「なぜこんなにあるんだろう」と自分で不思議に思います。その30本あるうちの実際に使うのは2~3本です。残りはどうしてあるのかというと、広告に釣られたとか、店の人の口車に乗ったとか、何か買った由来があります。買ったそのときは幸せだったんです。「買って良かった」と思うんですが、しばらくの間幸せなだけなんです。で、しまい込みます。しかも、買うときに安いものを買いません。できるだけ高いものを買います。そのほうが幸せが大きいんです。千円の竿より1万円の竿、1万円の竿よりも10万円の竿(10万円の竿は持ってないけど、もしあったとすればね)。持っていると、何かすごく幸せなんです。
 お宅のご主人がゴルフをやっていると、クラブを欲しがりませんか?今のでもちゃんとできるのに、「ブラックシャフトがどうの」とか言って、また欲しがりませんか?若い人は車を欲しがりませんか?ちゃんと走っているのに、ニューモデルが出たら、「あれが欲しい」と思う。なぜそう思うか。テレビなんかにデザインと広告で欲しくさせる構造があるからです。それを見ていると、ついうかうかと乗っかる。乗っかって買ったとき、すごく幸せ。高級品を持っていると感じられて。
 でも例えば、80万円の車と800万円の車で、乗って何か違うか。本当はそんなに違わない。外の形が違うだけで、裸にしたら中は一緒です。千円の釣り竿と10万円の釣り竿とどっちがよく魚が釣れるかというと、関係なくて、どっちでも同じです。ゴルフもそうで、いいクラブを買ったってちっともスコアは伸びない。でも買うと幸せなんです。だから必要によって買うんじゃない。メーカーも必要なものを売ってるんじゃない。不必要なものを欲しがらせて買わせる。われわれは不必要なものを買って、一時だけすごく幸せになる。そうやって売り買いの構造が、売る人と買う人とがどんどん売ってどんどん買い換えて、それで日本国は戦争しないですんだんです。それまでの時代の経済というのは、必要なものを売って必要なものを買って、そのうち売れない時代が来て、大恐慌が起こって、どうにもいかなくなって失業率が増え、それで戦争をした。戦争すると軍隊のために、ものすごくたくさんのものを生産して、ものすごくたくさんのものを消費しないといけない。それでみんな就職できて働けて良かったんです。しかし、第2次世界大戦をした結果、そんなやり方だと世界が破滅することがわかった。そこで戦争をやめるために、今度は無駄なものの売り買いをする方針にして、これは今のところうまくいっています。われわれは戦争をしないです。先進国はもう戦争なんかしません。無駄なもの、欲しいものを売り買いしているところじゃなくて、必要なものを売り買いしている社会が、今もまだ戦争をやっています。
 この構造は、幸せじゃないところがいくつかあります。1つは物質的なことです。というのは、ものすごい量の資源を使って、ものすごい量のゴミを出すこと。経済は需要と供給でぐるぐる回っているけど、これは一方では資源を使って生産して、もう一方ではゴミを吐き出している。今は資源の問題よりゴミ問題のほうがずっと深刻です。以前、大阪がオリンピック候補地になりました。大阪オリンピックはゴミ問題と深い関係があります。大阪は大阪湾へゴミを捨て、その上を埋め立てて、たくさんのゴミで埋め立て地がいっぱいできました。けれど景気が悪いからそこへ工場が何も建たなくて、ただの空き地です。大阪市としては体裁が悪い。でも、環境保護団体が怒っています。「大阪は全部埋め立てて、淡路島まで歩いて行けるようにするつもりか!」と。大阪市としては、そこへオリンピックを乗せると体裁がつく。だからぜひともオリンピックを埋め立て地の上でやりたい。しかもひどいことに大阪は、分別収集をほとんどやっていない。大阪市内はまだで、ようやく周辺都市で、燃えるものと燃えないものとを分別しだしたばかりで、ものすごい原始的な段階です。そんなゴミを海へどんどん埋め立てています。余談ですが、東京はもっと状況が悪い。東京は人口が多いし、東京湾は大阪湾より狭いから、とうとう埋め立てられなくなりました。埋め立て可能なところは全部埋め立ててしまったので、今度はゴミを「青森県へ捨てよう」と言ったら、青森県が怒りました。「うちへ捨てないでくれ」「じゃあ、インドネシアへ捨てよう」。恐ろしいことを考えています。
 ゴミ問題と環境汚染。われわれは家をどんどん建て替えていますが、新建材はあとで燃やすとダイオキシンが出てきます。ベトナムで奇形児が産まれる原因になった薬ですが、それが産業廃棄物から海へ溶け出して、広島の牡蠣にもいます。アナゴにもいます。瀬戸内海はダイオキシン汚染が魚や貝にだんだん進行してきています。それをわれわれは食べるわけです。それしか食べるものがないから。そのダイオキシンが体の中に入って、例えばアトピーのように体質を悪くするし、子どもたちの奇形率もやがて増えていくでしょう。これもゴミ問題です。
 家なんてのは、われわれの3代から4代前までは田舎の家は茅葺き屋根で、だいたい一度建てたら200年は保った。それを大事に大事に使っていました。今の家はだいたい20年から30年しか保たないように最初から造ってあります。しかも住宅金融公庫から融資を受けると、住宅金融公庫は材木の指定をしていて、「ここのこんな材木しか使っちゃいけない」という規制があります。その材木は輸入材で、その輸入材には防腐剤(虫除けの薬)が大量にしみ込ませてあり、これが毒なんです。その家に住んでいると、そいつが空気の中にフワフワと出てきます。それを毎日吸って暮らすうち、やがて体がやられます。住宅金融公庫からはお金を借りないようにね。田舎に家があるなら、それを大切にあと200年ぐらい使うようにしましょう。もちろん資源の枯渇のこともあります。石油はもうすぐなくなりますし、原子力も廃棄物で困っています。
 もう1つは精神的なこと。こうやって欲望に任せて買っていると、物を買えなくなると不幸になります。何かを買うということが幸せの条件、物を買えるのが人間の幸福だと、われわれはあまり思わないけれど、子どもたちは思います。「タマゴッチ欲しい」と言ったら、何がなんでも欲しい。あんなものどうせ買っても、私の釣り竿と一緒でしばらくしたら飽きます。でも、私の釣り竿はわりと善用しています。飽きたら、大阪のアドレリアンで釣り好きの人にあげます。そうすると、ちょっと恩に着てもらえるかもしれないから。「あのとき釣り竿あげたろ」なんてこと言えるかもしれない。タマゴッチなんかみんなが飽きたら、ただのゴミですよ。でも子どもたちはどうしても欲しい。ものを買えることが幸せ、あるものを手に入れていることが幸せだと子どもたちは誤解している。
 幸せはそんなとこにはない。物を持っているとか買えるとかというところには、人間の幸福はない。幸せはどこにあるか。アドラーは、2つのことが人間の幸福の条件だと言います。1つは、「この世の中で役に立っている」ということ。自分は誰かの役に立っているという感じがあることが大事。それから、「人と良いコミュニケーションが持てている」ということ。みんなから見捨てられてひとりぼっちでいるんじゃなくて、話し合ったり遊んだりできるということ。それがあればいいと思うけれど、今はみんなそんなふうに考えられなくなっています。それは子どもたちの精神をむしばんでいるし、やがてこの日本国だけでなく、いわゆる先進諸国を駄目にしていくでしょう。それも人類の運命であれば、その方向に動いていくんでしょう。だから、さしあたって私とか私の周囲の人とか、私の家族とかはどうするかをみんなで考えたいんです。そして最終的にわれわれが違う世界、今みたいにこんなに毎日贅沢三昧で暮らすんじゃない世界になったときも、幸せに暮らせる用意だけはしておきたいと思います。(回答・野田俊作先生)

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自由と放任

Q
 自由と放任をはき違えて、アナーキーになっているクラスをどのように援助したらいいでしょうか?担任は、問題だとは考えていないようです。

A
 担任が問題だと考えていないから、どうしようもないな。こんなのが多いです。『クラスはよみがえる』という本を書いて、激しく後悔しているのはこの部分で、アナーキーな教師が読むと、アナーキーの無政府主義的なやり方の口実にアドラー心理学を使ってくれます。それで結局、子どもたちに対する教育力や指導力がないのを、「実はこれが本当の教育だ」と言うんです。さっきの先生は、子どもが授業中に教室の中を歩いたりすることを悩んでいましたね。全然悩まない教師もいます。子どもが教室の後ろに集まって、ブラブラ歩いているのに。「あれでは授業になってないよ」と言うと、「あの子たちは誰にも迷惑をかけていないからいい」と言うんです。そんなのは授業と違う。かなり前に某県で、「これがアドラー心理学だ」と、そんな状態のクラスをテレビ局に公開して、放映した教師がいました。あれにはまいりました。
 ファシズムで、すごく強引に指導して、時に罰を使って、体罰まで使うかもしれなくて、それで子どもをまとめて、わりとちゃんとクラスがまとまっているというかまとめている教師と、アナーキズムでクラスがバラバラなのと、どっちが悪いかというと、アナーキズムのほうがずっと悪いです。それって、何も子どもに教えていないもん。ファシズムのほうは、何はともあれ何か教えている。ほんとはどっちも悪いんですがね。
 アドラー心理学は、そのどっちでもない第3の方法を教えようとしています。しかし、この第3の方法というのは、われわれのまだ知らない方法なんです。われわれが自分の子ども時代に学校の先生が教えてくれた方法は、たいていファシズムでした。今の学校でみんなが見る方法は、たいていがアナーキズムです。そうじゃない第三の本当に民主的な方法というのは、われわれはモデルを見たことがない。だから手加減がよくわからない。やりながら学んでいかないとしょうがない。
 親もそうです。親が子どもを育てるときも、最初はたいていの親がファシズムなんですけど、アドラー心理学式の育児をやると、初めアナーキズムになるんです。私はよく、「とにかく子どもに任せなさい」と言います。するとアナーキズムになって、そこで止まってしまうお母さんがたくさんいます。止まってはいけない。その次のことをやらないといけない。「子どもを勇気づける」ということを。子どもに「ちゃんと責任を取ってもらう」ということを教えないといけないんだけど、この段階になると、誰も知らない。
 今は、日本にアドラー心理学が根づいてかなりになりますので、うまく動ける人が増えました。その人たちに相談すれば、多少のアドバイスはもらえるけれど、でも、その人たちの家庭でやっていることをそのまま自分の家に持ち込んでも、うまくいくとは限らない。自分も違うし、子どもも違うから。だから、自分の家で創意工夫して、民主的な育児、アドラー心理学式の育児を自分でこしらえていかないと仕方ない。これがやがて世間の常識になって、学校もアドラー心理学式の民主主義で動いている、家庭も動いている、みんながそうなっているんだったらわれわれは楽で、そんなに創意工夫しなくても誰かの真似をすればいいですけれど、今のところはそうはいかない。学校もそうです。それはすごく大変です。学べないから。教えてもらえないから。自分で作らないとしょうがないから。でもそうしないことには、どうしようもないんです。
 ファシズムもアナーキズムも次の時代を作っていけないと思います。子どもたちをちゃんとした大人にする力がないと思います。だから、この先生にどう言えばいいかと言われても、言えることはありません。少なくとも一度は“自分のクラスで、本当に民主主義的なクラスのモデルをきっちり作って見せてあげること”が第一点。
 それから第二点は、“目標を一致させる”ということ。これは、アドラー心理学のカウンセリングの中でよく言うことで、養成講座の生徒さんたちが最初に一番悩むのがそれです。「お客さんとの目標を一致させなさい」。結局何を解決しようとしているのか、解決で「どうなろうとしているのか」をはっきりさせないとカウンセリングが始まらない。何となく話しているうちに、何となくわかるだろうとは思ってないです。
 例えば、登校拒否の子どもの親が来るとします。そうしたら、私が最初に目標を一致させたいのは、「親がその子どもと冷静に対応ができるようになってもらうこと」です。それが第一段階。そうでないと次の仕事ができない。さしあたって、子どもと感情的にならないで、普通に対話ができて、登校拒否なら登校拒否の問題について、お互いが冷静に話し合えるという地盤を作るというのが、第一の段階です。
 それができたら、次は「子どもが学校へ行けるようにどう援助するか」を学んでもらうこと。これが第二の目標になると思います。もしも、「親が子どもと冷静に話し合えるのが第一の目標です」と言って、「そんなのイヤです。子どもとは絶対冷静になれません。私はずっと子どもを怒り続けるし、あの子と話なんかしたくない。けれどあの子を学校へやりたい」と言われたら、それは無理です。子どもが学校へ行くことを援助する方法は、そんな道からは絶対に生まれないから、カウンセリングを断ります。
 目標が一致できない場合には、援助できないです。例えば、このアナーキズムの先生が、とても上手に民主的に動いているクラスを見て、「先生のところは何か子どもたちが生き生きとよく勉強して、よく言うことを聞いて、クラスがまとまっているけど、いったいどうしているの?」と聞きに来たら教えてあげられる。目標が一致したから。でも聞きに来なかったら、これでいいんだと思っていたら、教えてあげられない。その間は申し訳ないけれど、ちょっと放っておいて、自分のほうをしっかり充実させるしか方法がないんじゃないでしょうか。(回答・野田俊作先生)

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 「あなたが決めることよ」をイヤがる娘

Q
 小学3年生、女の子の母です。……
A
 途中ですが、自分のことを「小学3年生の女の子の母」なんて紹介しないほうがいいですよ。例えば、「自分は37歳の主婦です」くらいから始められたほうがいいです。ご主人の肩書き、「○○会社の課長の妻」とかいうふうに自分を定義していると、自分じゃなくなるかもしれない。外のもので自分を決めているからね。特に女の人は、子どもや配偶者に自分の地位や立場を決めてもらうのでなくて、「私は私」というトレーニングをしておいたほうが楽しく暮らせそうですよ……。ごめんね、変なところを揚げ足取って……。
Q
 アドラー心理学を学んで3年です。「アドラー心理学はスポーツです」と言われたことを深く納得しています。頭と口先だけの私を、子どもは時に見抜いているようです。責任を学んでほしい、自分のことは自分で決めてほしいと思って、「あなたが決めることよ!」と言ってきましたが、ある日のこと、「お母さんの『あなたが~よ!』というのがとてもイヤなんよ!」と激しく言われて驚きました。「選択権はあなたにあるのよ」と言われ、冷たく突き放されたような、また押さえつけられた感じを、彼女は受けていたんだと気づきました。きっと、責任を学ばせようと思っている私があるからなんでしょうね。
A
 「あなたが決めることよ」と、私はあまり言いません。私は、うちの子どもとつきあうときも、自分の生徒さんとつきあうときも、何か向こうが決めるべきことをこっちに相談してきたら、「お好きなように」とか「私は知らん」とか言っています。とても無責任でしょう。「あなたが決めることよ!」という“あなたメッセージ”をやると、嫌われます。「私は知らん」と言うと、冷たいけれど、“私メッセージ”だから、あまり嫌われないんです。だって、私は知らんもん。みんな、いろんなことで相談に来ます。「高校を替わろうと思うんだけど、伯父さんどう思う?」。「俺は知らんよ、そんなこと。あなたの思うようにしたら?」でしょう。だから、「私は知らない」「私はそれに関与できない」「私の仕事じゃない」というふうに言っています。
 アドラー心理学を学んで、ときどきこうやって子どもからパーンとパンチを喰らって、それでまた賢くなるんです。考えて考え直して、ちょっと言い方を工夫して……。完璧な“アドラー・ママ”なんてこの世に存在しないので、いつもどこかおかしな抜けたことをやっていて、それで誰かに言われて、「あっ、そうか」と出直して、そしたらまた別のところが抜けていて、そうやって一生暮らすんです。それってすごく素敵じゃない。一生仕事があって。(回答・野田俊作先生)

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学校を休みがちな高2娘、親の手助けは?

Q 
 野田先生のお話を聞いていて、自分は“楽観主義”でなくて“楽天主義”だったのかと思ったりしたのですが……。
 さて、高2の娘のことです。3学期より学校を休みがちになり、授業にあまり出ていなくて、担任の先生より「進級がどうなるか…?」と連絡を受けました。本人は努力しているようですが、帰宅が9時ごろになります。あまり勉強もしていない様子です。ここでなければと期待して入学した学校なのに、まわりのせいにしてこうまで変わるのかと思います。「友だちの悩みを聞いていると帰宅が遅くなる」と、理由を言います。父親とは喧嘩状態で口をききません。単位をもらおうと努力しているようですが……。
 親の手助けの仕方について、何か良いお話がありましたらお願いします。

A
 さてね……。
 うちの子どもたちは大人になって話のネタがなくなったと思ったら、ちょうど姪っ子が問題を起こしてくれました。弟の娘です。
 この4月から3回目の高校1年生です。素敵でしょう。最初、大阪の学区で一番優秀な高校へ進学しました。けれど高校へ入ってから、「雰囲気が気に入らない」と言うんです。「どうするの?」と聞くと、「別の学校へ替わる」。だけど、公立高校は転校できないんです。それで、去年春に1年生を受け直して、2番目に優秀な高校(私の母の母校ですが)へ替わりました。それで、行くかなと思っていたら、だんだん息切れしてきて、留年になりました。どうするかなと思ったら、「来年もう1回1年生やるわ」と明るく言う。「まあ、ずいぶん丁寧に勉強するんだね」と言ったんだけど…。
 弟の奥さんが、心配して相談に来ました。「お兄さんは専門家でしょう。うちの娘と会ってやってください」と言うから、「そりゃ、会ってあげます。小さいときからおなじみですから」と言って会いました。
 彼女が言うには、「周囲で応援して『勉強しなさい』とか、『学校へ行ったほうがいいよ』と言うと、余計に行きたくなくなる」んですって。年ごろから見ても、それもそうかなと思います。だから、「何も言わないで、見ていてほしい」と言う。「将来心配じゃない?」と聞くと、「何も心配ないよ。ゆっくり高校出るから」と言っているから、まあそんな考え方もあるからいいんじゃないかと思っています。本人が「放っておいてくれ」と言うから、「じゃあ放っとくよ。お母さんを説得して、放っておくようにするからね」ということになりました。
 うちの家族はみんなわりと仲が良くて、「あの子どうしよう?」と相談したら、「それじゃあ、もう何も言わないで見ていよう」と、親・きょうだい・伯父さん・伯母さんは決めました。「本人のするようにさせよう」と。
 ところが、学校が聞いてくれません。学校から親に電話してきたときに、親が「本人のするように任せますわ」などと言うもんだから、担任の先生もスクールカウンセラーもえらい心配しまして、「伯父さんは確かアドラーの先生…でした?」と言って、私のところへ電話がかかってきました。「もしもし、お宅の姪御さんのことですけど、このままでは心配です」と言うので、私は「心配しているのはあなただけです」と言いました。「親も子どもも、伯父も伯母も誰も心配しておりません。ここで子どもを信じきれるか信じきれないかが、子どもの将来を決めていくんだと思います。みんなで心配して、「大丈夫?」と言えば、大丈夫でなくなるだろうと思うから、われわれはとにかく信じてみようと思います」と返事をしました。なんで彼女を信じることができるかというと、それはやっぱり彼女と話をしたからなんです。
 だからこの場合も、一度話してみるといいと思います。「あなたのことを信頼して、心配せずに見ていていいのか」「それともわれわれに何かできることがあるのか」「してほしいことがあったら、言ってくれればするし…」。
 「何もないから、安心して見ていて。もう1年留年して頑張ってやるわ!」なんて明るく言われたら、それを信じて、もう1年留年して頑張って明るくやってもらうことだと思う。
 楽天的というのは、何もしないで「どうにかなるわ」と思うことです。楽観的というのは、「やることは一応全部きっちりやろう。それできっと道が開けるだろう」と思うことです。それじゃあ、今やれることは何なのか?私の仕事は何なのか?親なら親が今しなけりゃいけないことは何なのかを考えないといけない。すると、まずそれは、子どもの人生のことだから、子どもに相談しないで動いちゃいけないことがわかります。だから、まず子どもと相談してみよう。相談するというのは、要するに子どもから注文を取ることです。「何かしてほしいことがありますか?」。あるいは、こっちとしてもぜひ売りつけたい商品があれば、「こんなこともできるけど、どうだろうね?」と聞いてみる。断わられたら、それまでです。引き受けてもらえれば、それをやる。だから、まず相談すること。そして、してほしいことがあるかどうかと、こちらにやりたいことがあったら、それをしてもよいかどうかをたずねること。何もなかったらお茶でも入れてくつろいで暮らすことです。(回答・野田俊作先生)

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