Q
17歳の息子のことです。中2の3学期より不登校で、高校へも行かず3年目です。出かけるところは本屋とローソンと映画をたまに観に行くくらいで昼夜逆転してます。友だちはいません。「ずーっとこの家でこのままでいるつもりはない」と言います。母親として、将来どうなるのだろうかと思うこともありますが、家にいることに何の違和感もなく普通の生活をしています。
A
まあ、もうちょっと何かしてあげたいと私は思います。もしこんな子がうちにいたらね。人間関係、この世と人間のつきあい方は、4つのレベルがあると思います。第1番目は「遊び」。第二番目が「仕事」です。3番目が「友だち」で4番目が「愛」です。この子は今、遊びのレベルであまりうまくいかない。そうなると友だちもできない。遊べない人は仕事ができない。恋人もできない。結婚もできない。今彼にやってあげられることは「遊びなさい」と言うこと。せっかく若いんだし、学校行かなくていいんだし、親はしばらく、5年でも10年でも養ってあげようと思う。その間できるだけ思いっきり遊んでほしい。何でもいいから遊びを見つけて、やってごらんなさいよ。オートバイで走りまわるのもいいし、テント担いで日本一周するのもいいし、山に登るのもいいし、映画を片っ端から観まくるのもいいし、いろんな種類の雑誌をいっぱい読むのもいいし、何かのコレクションをしてみるのもいいし、何でもいいからやってみたいことをやってみるなら、親というよりは経済的なパトロンとしてバックアップしてあげるから、「遊んだらどう?」という助言をする。学校のこととか仕事のこととかはしばらく考えないほうがいいだろう。遊んでいるうちに思いつくことがいっぱいある。出会いがいっぱいあるから。そこからきっと未来が開けてくると思うよって、私だったら言います。この子もきっと考えている。中学生くらいから不登校やって高校行かなくてうちにいると、いっぱい考えるんです。いつも考えは保守的です。考えは自分を消極的な場所へ縛るための道具です。考えれば考えるほど動けなくなる。どうやったら動けるか?動いたら動ける。動くのも難しいほうへ動くとしんどいから、できるだけ安易なほうへ動くといい。遊びというのは動きやすい。仕事をするという動きよりも友だちを作るという動きよりも、自分の一番好きな趣味道楽にのめり込むというのは動きやすい。動くとい考えないんです。動くとチャンスが広がるんです。ですから、まずまず遊んでごらんね。音楽やるのもよかろうし、絵を描くのもよかろうし、この子が遊びだと思うものにいっぺん入れ込んでみたらどうでしょう。(回答・野田俊作先生)
Q
最近アルバイトを始めましたが、その職場に近所の人も勤めていました。その方ととは別に仲が悪いわけでもなく仲が良いわけでもなく、今までおつきあいはほとんどなったのですが、何となく気詰まりです。ご近所の関わりと職場でも関わりは別なのかと考えるほうが無難かなといろいろ考えてしまいます。仕事自身は楽しくやっているんです。
A
考えるというのは、頭の中でいろいろ考えるでしょう。何のために考えるかというと、大体人間はマイナス向きに考えるんです。そもそも「考えの役割」がそうなんです。何か新しいことを始めるとか一歩踏み出すとか、違う展開に持って行くとかのためには考えないので、保守的に今までのやり方を続けるとか、元に戻るとか、逃げるとかのために考えるんです。それが悪いとは言わないのですが、考えるという人間の心の働きの役割は、大体保守的なんです。逆に、感情というのはある場合には大変革命的です。結婚なんてそうです。結婚なんて、理性的に考えたらできないよ。どう考えても。1人の女の人と結婚したら、残りの女の人全部ダメなんでしょう。どんなにおっぱいが大きくてウエスト細くても、子どもの2,3人も産んでごらんよ。全部垂れ下がってウエスト太くなるに決まっている。若い男の子がじっくりと冷静に考えれば、絶対に結婚できない。それを恋愛だとかで目がくらんで、感情でもってついうっかり結婚する。それで人間は今日まで種族を保存してきたわけじゃないですか。いつも感情的なこととそれから理性的なこととが、車の両輪のようにバランスを取っているんです。ここで、近所の人と職場が一緒になってイヤだなと考え始めると、きっと消極的な結論になって、例えば仕事を辞めるとか、その人とお友だちにならないようにするとかいうふうにいくに決まっている。だから、考えるという力をつまらない使い方をしていると思う。別に考えなくてもいいんじゃない?なるようにしかならないから。なるようにしかならないのを、皆さん方はどうやって考えるんでしょう?僕はあまり消極的に考えたくないので、神様仏様のお計らいだと思うことにしているんです。僕は神も仏も実は信じてないんですけど、神様仏様のお計らいだと思うと、何となく自分で自分を説得できるんです。ああそうなんだと。近所の人と同じ職場に勤めたのは、これは神様仏様のお計らいなんだ、これはきっといいことなんだ、ここでこうやって働いていると自分のお勉強になるとか、成長するとか、お友だちが増えるとか、何か得することがあるからこういうことになっているはずだから、ひとつどんな得するかを見てみようと思う。そうしたらあまり臆病にならないで勇気を持って新しい状況に入っていけるんです、私の場合は。この質問をされた方が、「これも神様仏様のお計らいなんだ」と思うと元気になるかどうかわかりません。でも、自分が自己勇気づけをして元気になって、新しいことを引き受けていくほうが、きっと面白いことが起こっていくと思います。この方が歳いくつか知りませんが、歳を取ると新しいことを始めるのが億劫になるんです。何となくやってて今まで暮らしてこられたんだから、別に今更やったことのないことを始めなくてもいいんじゃないかって思います。そんなことをしたらボケますよ。いつも新しいことに挑戦したほうがいいし、それから危険(リスク)を引き受けていったほうがいい。勇気づけの「勇気」とは何かというと、危険(リスク)を引き受けるということで、賭けをしてみることで、絶対安全路線をとらないことね。安全確実有利というのは進歩もないし喜びもないから、この人といっぺんつきあってみてくださいな。そしたら、すごくイヤなことが起こるかもしれない。何しろ賭けですから。損することもあるんです。でもたぶんいいことのほうが起こりそうに思います。だから初めから臆病になってたくさん考えないでね。考えは臆病のしるしです。(回答・野田俊作先生)
Q
実の母親と同居しています。姑となら「心にもない優しい言葉がけ」ができるのに、実母は毎日の姿を見てイヤになります(野田:そうでしょう)。勤めから帰り玄関を開けただけで、至るところに母親の介入が目につきムカッとします。夫婦喧嘩にも割り込んでくるし、イライラすることばかりです。別居をしようと夫に言いますが、「自分にとっては良い親だし、子どもを思ってのことだから感謝せよ。わがままだ」と言われて、それなら独り暮らしをしようと私だけ家探しをしています(野田:過激やなあ)。
A
実のお母さん、お父さんもそうですが、実の親はこの世で一番難しい相手で、この人と付き合えるようになると、あと夫婦円満、子どもともOK、孫ともOKで、とても良い自分の老後が保障できますから、だから課題が難しいからと投げ出さないほうがいいと思う。せっかくこれだけ難しい問題があるんだったら、ちょっとチャレンジして何とか解いてみたらどうでしょう。「心にもない優しい言葉がけ」がなぜできないか?あれは要するに口先だけですから、口というのは要するに「あー」とか「いー」とか「うー」とか動くだけで、それでもって「ありがとうねー」とか「いつもすみませんねー」と言えばいいだけで、お腹の中で「べー」って舌を出していていいですから、できるはずでしょう。できるはずなのになぜできないかというと、それは権力闘争で、人間関係がどっちが上でどっちが下か、どっちが正しくてどっちが間違っているか、どっちがボスでどっちが家来かを決めようというルールで動いているからです。家族関係の中で、正しいとか正しくないとか、上とか下とか、筋が通っているとか通ってないとか、新しいとか古いとか、競争してもしょうがないのと違う?それよりも、協力できる準備を何かしていったほうがいいと思う。そのために最初にしないといけないことは何かというと、「負ける勇気を持つこと」ですね。だから、お母さんに負けます。負けると向こうはつけあがってますますひどくなるかというと、ならないんです。なんでならないか?今さかんに介入してきたりいろいろするのは、向こうも権力闘争に入っているわけです。こっちが入っているから。こっちが「余計なお世話よ!」と言うから、「ここで引っ込んだら私の負けよ。娘がわかるまで絶対言おう」と決心しているからいっぱい言いつのる。こっちが「ありがとう、そうしてみる」と、せんでよろしいから、口先だけ言えば、あっちもおとなしくなります。権力闘争に入っているだとまずわかってください。権力闘争から降りる方法は、1つしかない。負けるという最も悔しい方法です。こっちが負けると、向こうも「私が悪かった」ときっと思ってくれます。思うまでの期間がちょっとつらい。あっちは「最近おとなしいけど、これは作戦だな」としばらく思います。ちょっとの間辛抱しないといけないけど、人間関係って面白いので、自動車のギアチェンジみたいにあるとき切り替わるんです。切り替わったら切り替わったまんまなんです。悪い人間関係から良い人間関係に切り替わったら、あとは良い人間関係が続きますから、切り替わる途中だけちょっとだけ努力してください。悔しいでしょう、自分から折れるとか優しい言葉をかけるとか感謝するとかはすごく悔しいんです。でも、お母さんのほうも、助言しないで引っ込むとか、娘に世話してもらっているのに感謝するとかするのはきっと同じように悔しいんですよ。こちらが変わるのは悔しいのと同じように、向こうも変わるのが悔しいんです。親に悔しい目をさせたらいけない。親不孝だぜ。まず自分が悔しい目をしてあげたら、向こうも悔しい目をしてくれるでしょう。(回答・野田俊作先生)
Q
来年古希を迎える夫婦です。夫はまだ会社に行っていますがやがて退職を迎えます。友人知人を見ていると妻が夫のお守りをしている感じのご夫婦が多いようです。私はお互い対等で、趣味も一緒のものと別々のものとがあって、お互いの自由も尊重していけたらいいと思っています。どんな心がけが大切でしょうか?子どもはみな自立していて同居はないと思います。
A
初老期じゃなくて老年期ですね。どういうとき老年期ななるか?発達の話です。人生の最後の発達段階です。この社会に対する建設的な貢献的な活動からすべて身を引くと老年です。会社へ行っていたら建設的で活動的で貢献的です。会社辞めちゃってもそれはできる。例えば、近所の老人会の世話役さんをするとか、子どもたちに何か教えるとか、自分でお勉強を始めるとかすれば建設的で活動的です。趣味の世界に没頭して、毎日池へ鮒を釣りに行くだけでは建設的でも活動的でもない。もうちょっと何かしないと。池が汚れてきたから池をきれいにする運動をするとかすると建設的で貢献的です。気をつけて何か社会に対してプラスの作用を及ぼそうと、親はやがて死んでいくけど、残る人たちにちょっとでも役に立っておこうと思うと老年期に入らなくてもすむ。初老期のままで一生いられる。そしたら初老期にボケないし、それからたぶん保障はしないけど癌にもならない。どんなとき癌になるか?生体が自さつしようと思うとき癌になる。何かイヤになっちゃったとき、定年になって悠々自適で暮らそうと思うけど、悠々自適と口先では言っていても実際には何も夢はなくてぼんやりと暮らしていると、「もういいだろう」とちゃんと体が癌になってくれる。あるいは配偶者に死なれたとか、子どもに裏切られたとかいう感じを強く持っていて、「もうイヤだな」と思うと体が癌になってくれる。ボケもそうで、あれは体は残るけど心のほうが自さつする。だからそんなにならないように、いつもこの世に夢と希望があって、自分に役割があって、自分に場所があって、自分が貢献できるということに気をつければ、老後やっていけると思う。だから何かそんな計画を話し合われたほうがいい。署名集めなんかもいい。ある人は禁煙指導をするお医者さんで、その人は電車の中にタバコの釣り広告があると、“Today I smoke. Tomorrow I will die.”というシールを貼って回ったとか。(回答・野田俊作先生)
Q
小学5年生の息子の担任のことです。学級の運営が空回りしています。先生の対処が感情的であったり先入観であったりするので、子どもと先生の距離はどんどん遠くなり、子どもは先生を好きになれず、先生は一部の子を手強い子で憂鬱だと思っています。息子は自発性に優れ、学ばなくてもアドラー的生き方をしています。ここで野田先生は「ほんならええやないですか」と言われると思っているので、これで終わらないで、息子の担任だから母親にやれることを教えてください。私は、空回りしていることを早く先生に気づかせたい。子どもに「上靴が汚い。給食エプロンが汚い。着替えが早くできない」など、そんな細かいことを言わないでほしいです。40代男性。どんなタイプの子どもでもよく話を聞いてやってほしい。話さない子を増やさないでほしい。子どもたちが先生に話を持って行くと、そのことを「チクリ」と言って非難します。それを気づいてほしい。ちょっと欲張りですがお願いします。私は担任が嫌いですが助けてあげたい
A
これが余計なお世話です。2つ言います。すぐ1つとか2つとか言うところが賢い。自分で言っているくらいですから(笑)。親と教師と子どもと三角関係があって、今相談者はこの親です。教師と子どもの関係はこのお母さんにはさわれない。このお母さんは自分と子どもが仲良くなることはできます。自分と教師が仲良くなることもできます。でも、教師と子どもが仲良くなるのは、原則としてできない。担任の課題ですから。これが一番。じゃあ絶対できないかというと、ある条件の下ではできます。それは先生が困って、「ねえお母さん、僕はクラスの子どもたちと何とか仲良くなれないでしょうか?ひとつ相談に乗ってくれませんか」「じゃあ相談に乗ってあげましょう」ということになれば手伝える。僕の仕事がそうです。学校の先生が来られて、「うちのクラスでうまくいってないんですけどなんとかならないでしょうか?」「こんなふうにしてみてはどうですか?」とわれわれがアドバイスできるのは、向こうが頼んでくるから。私と先生との間に契約ができて、私がコンサルタントだと向こうが認めてくれるからでしょ。この先生はお母さんをコンサルタントだと認めてくれそうに思わない。思わないのでどんなことをしてもこの先生は変わらないと思う。アドラー心理学のカウンセリングはすごく強力だと思う。受けられるとたぶん利益があるでしょう。当たり前みたいに思われるかもしれませんが、そうでもないんですよ。よそへ行くといくとどんなにスカみたいかわかりますから。うちですとカウンターパンチみたいなのを顔面にパーンと入れられたりして痛い目に遭いますが、とにかくカラダが何をしていけばいいかがわかります。例えば、僕のところで、「子どもを愛してあげなさい」言われることはないんです。「あなたは愛が足りないからもっと子どもを受け入れてあげなさい、愛してあげなさい」と言われても、愛してあげたいとは思うけどどうしていいかわからない。具体的に。僕のところではそんなふうに言わないで、例えば、ご飯をちゃんと食べてくれたら、「ちゃんと食べてくれて嬉しいと言いなさい」とか、お手伝いしてくれたら「お手伝いしてくれて助かった」と言いなさいとか、具体的にカラダが何をすればいいかを教えます。しかも、心はともなわなくていいとよく言います。“心こもらぬ言葉から”すべてが始まるので、心はあとから追っかけてくるから、口先アドラーをまずやりなさいと。それをやっている間に、だんだんこっちも本気になるから、向こうも本気になるから。それは実行可能です。すごく強力なカウンセリングだと思いますが、望まない人、例えばうちへ来ているお母さんが、息子さんなり娘さんなりを無理やり引っぱってきて、「カウンセリングはイヤや」と言うているのに、「そんなこと言わないで野田先生に会いや」と言ってもこれはダメなんです。向こうにニードがないと。あちら側が自分が変わりたいと願っていればアドラーのカウンセリングは強力ですが、全然願ってない人には何を言っても聞こえませんからダメ。この先生はたぶん願ってないかもしれない。「こんなもんだ」と思っているかもしれない。もし願っていても自分の生徒の親に相談しようとは思わないと思う。だからダメ。諦めてください。だから、このお母さんにできることは、まず子どもとの関係を良くすることにもっとエネルギーを使ったらどうか。この先生と仲良くするのにエネルギーを使ったらどうか。先生を改造しようとする計画はお捨てになったほうがいいんじゃないでしょうか。(回答・野田俊作先生)