Q
どうすればまわりを敵と思わず自分を能力のある必要な人間だと思えますか?
A
どうすれば?別にどうもしなくていいんですけど、この世の中は仲間ばかりか敵ばかりかというと、どっちも嘘です。どちらも私の勝手な思い込みなんですよ。敵のようでもあり仲間のようでもあり、敵になったかと思うと仲間になったりするかもしれない。まあ、こっちの出方でもあるし、その日の天候でもあるし、ご機嫌でもあるし、いろんなことで決まりますからわからないんです。「自分は能力があるかないか」もわからないんです。あるようなふうにも思えない、ないようなふうにも思えるんです。どのみち、私は能力があるとか、人々は仲間だとかいうのは「PASSAGE」では「信念」と書いてある。信念というのは法則のことです。法則というのは「思い込み」のことです。法則というのは、「まあこんなもんだ」と思っている。例えば、「女の人はちょっときついことを言うとすぐ泣く」とかいうふうに思っていたとするんです、私が。それまでのいくらかの経験でそう思っているんです。泣かない女性に出会うと、「これは例外だ」と思う。「この女は女じゃない」と思う。普通の女は皆泣くんだと思う。第二番目の泣かない女と出会うと、これもまた例外だと思う。20人くらい会ってもまだ例外。180人くらい会うと、ひょっとしたら法則を変えるかもしれない。いい加減なサンプルで結論を出している。泣くも泣かないもどちらもいい加減なんです。ほんとのところはわからない。わからないから、所詮思い込みにすぎないから、勝手に変えたっていいんです。一応「私は能力がある」という法則に仮にしてみるんです。しばらく暮らすとだんだんその証拠が見つかるかもしれない。先に「見なし」「思い込み」をやってみて、それでやってるとあとから大急ぎで根拠が集まってくる、「能力があるんだ」と。ですから、「私って凄い」とか「私ってなんてできるの!」とときどき言うんです。密かにね。あるいは「みんな凄い良い人だ」と言うんです。「そんなことない。ほら、こんな悪いこともある」という声もあるけど、「そういえばこんなこともあったね」というのも見つかるかもしれないから、まず結論を言ってみて、言ってみて足りなかったら書いてみて、書いてみて足りなかったら壁に貼る。「私って素敵」と。そしたらそんな気になりません?
Q
人生目標のタイプが同じであると、夫婦が仲良く生きやすいということがありましたが、Cタイプどうしだと主導権争いが起こってうまくいかないように思います。どうでしょうか?
A
そんなことないです。一方が勝ちますから、必ず。Cタイプの人というのは、一番肝心なところで勝たせてあげるとお殿様になりますから許してくれるんですよ。例えば、家計・経済かなんかで奥さんが完全に制圧したとします。そんならもう旦那は家来ですから、あとグジャグジャ言うても「良きに計らえ」なんです。一番肝心なとこさえ絶対勝ってれば。旦那のほうは旦那のほうで、旦那が大事だと思うことね、例えば日曜日の使い方とかについて絶対勝ってしまえば、あとは「良きに計らえ」でうまくいくんです。負かすと大変なんです。
Q
人生目標で、私がDで主人がCの場合、私が共感できなくても「はいはい」と一応言って従ったほうがいいでしょうか?(そうともそうとも)。子どももいるので当分夫婦は続けたいと思っています。
A
全部お父さんに決めてもらって、で、そのとおりしなければいいんだ。そおっと。
Q
最近、研究会の講師などを依頼されるようになりました。でも私はあまりやりたくなくて、知人を紹介したりしています。でも、人にチャンスを与えているとも言えるわけで、そういう自分が疑問です。人と争うわけでもなく、向こうから来たチャンスに対してこういう対応をしてしまう目的は何でしょうか?またどうしたらこのパターンを変えられるでしょうか?
A
目的はようわからへん、これだけのことでは。「あまりやりたくない」というのは、なぜやりたくないのかがわからないからよくわからないのですけど、2つ言いますからどちらでも好きなほうを取って。1つは僕自身はどう思っているか。私自身は、「何かわからないことがあったらそれについて人に教えろ」という西洋の諺がある。あることを知らないと思う。例えば、最近のファッションの動向とか知らない。でも知りたいと思う。どうするかというと、「最近のファッションの動向」について講演をするとか、本と書くとかすれば、絶対知るんですよ。それが一番良い方法だと思うから、なるべくそういうチャンスがあれば引き受けるようにしている、どっちかというと。これが1つのやり方。もう1つのやり方は、孔子聖人か誰かが言った「よく知らないことは人に教えるな」。完全に知ったら自然に言葉の中に出てきて、向こうが「来てください」と言うようになるだろうから、それまでは断ろうという線もある。これはあんまり賢くならない気がする。私はD型ですから、他人がどう思おうと自分が賢くなる線が好きなんです。たまたま今『脳と心』という日経サイエンスの別冊が売られていて、その中に私の書き下ろし論文が1つあるんですが、あれはね通産省の偉いお役人がここへ電話をかけてきて、「野田さんの話を東京大学の人か誰かに聞いたんだけど、ラポポートというアメリカの僕もちょっと知っている学者が『強迫神経症という病気は脳の病気で脳の代謝異常がある』と書いてあるけど、あれに反論してもらえないか」と言うんですよ。「僕も代謝異常あると思います」と言うと、「まあそう言わずに、それはそれとして、何か心理学の側から『それだけではないよ』という話を書いてほしい」と。しかも『全人格的な心の治療』(浩→うちにあります)という題名を向こうで勝手に決めてきて、しかも2週間後までに書けというんです。「そんなん無理です」「そりゃ無理とわかっているけど、日本中でそんな短い時間に論文かけるのはあんただけだ」と言うんです。「わかった」と言って2週間で書いたんです。そんなのをやっぱり引き受けたら、たとえ短期間でも勉強するし、その分だけ賢くなるからやろうかなという主義でいってます。これは私のライフスタイル、人生目標ですから。
Q
仕事のことです。私としては一生懸命しているつもりなのですが、上司から能力がないと思われているようです。「○○さんなら半分の時間でできる」と上司が高く評価している人と比べられ、イヤな思いになってしまいます。最近ではやる気がなくなってきて、やめさせられない程度に手を抜くことさえ思っています。また上司からの評価が低いために、私のやりたいような仕事を回してもらえませず、余計意欲がなくなってきます。上司に対して「あなたのような人に私の長所は見抜けないと」と敵対意識を燃やしています。彼に対する考え方を改めるべきなのでしょうか?また自分の能力に対して自信が失われつつありイヤなのです。何か良い方法はないでしょうか?
A
抽象的すぎてよくわからないけど、1つは、お金に見合った仕事をするわけだから、自分の給料に見合った仕事をするわけだから、自分の給料相応分しか働かないという開き直りは、やっぱり根本的にはしておいたほうがいいと、僕は思う。上の人がどう言おうが。おんなじ仕事を仕上げるなら、できるだけ丁寧にやらないで手抜きをしたほうが楽でいいと思う。そうするのはイヤだ。私は給料なんかと関係なく働きたいとか、手抜きしないで丁寧やりたいとかならそれは自由で構わないです。2倍仕事ができる人がいるということは、この質問をなさった方は丁寧な仕事をしている、良く言えば。悪く言えば要領が悪い。もしも2倍分働こうと思うなら手抜きをして、「できました」と形を整えれば2倍働いたことになります。もしもそれがイヤなら、上司に文句を言われながら自分の仕事をするのがいいと思います。だからこちらのお勧めのコースはなくて、ご自分でお選びにならないとしょうがないんじゃないかな。でも、上の人に腹立てると大体うまくいかない。向こうのほうが強いですから。許してあげてください。で、なついたほうがいいと思います。お中元、お歳暮をして。