Q
よく怒鳴る10歳の子どもがいるのですが、どうすれば治せるでしょうか?
A
怒鳴るところに注目をしないで、たまたまおとなしくしゃべっているときに、「そういうふうにしゃべってくれるとよくわかるなあ」と言います。それから、すごく大きい声でこちらに向かってしゃべっているときに、「私、耳がいいから、もう少し小さい声でも聞こえるよ」と言います。(回答・野田俊作先生)
Q
先生の講演で、協力の手続きの仕方、協力の素晴らしさ、精神を、今の子どもたちに伝えていくことの重要さを学ばせていただきました。私にとっては、とても新鮮なお話でした。正しい言葉を使う実践など、すぐにもやっていけそうです。
ただ、「叱るということ」、「感情を込めた話」というのについて、もう少しお話を聞いてみたいです。私は今、これらも子どもたちにとって必要だと考えています。どうなのでしょうか?
A
それらは絶対必要ありません。まったく必要ありません。私はまったく必要なしに子どもたちを育ててきました。それでちゃんと育ちました。ただし、話し合いはたくさんしました。
例えば、子どもが真夜中に帰ってきたとします。これはよくする話ですが、うちであった出来事です。長男が高校生のころに、いけないことにパチンコに凝ったんです。それでよくパチンコ屋に入り浸りになりました。パチンコ屋さんは10時までやっています。だからだいたい10時15分くらいに、近所のパチンコ屋さんから帰ってきていました。それがある日帰ってこないので、「あれ?」と思いました。11時になっても帰ってこないし、12時になっても帰ってこない。そのとき考えたんです。もしも交通事故に遭うとか、警察に捕まるとかしていれば、連絡があるはずだ。連絡がないということはどっちでもない。交通事故でも警察でもない。まあどこかへ遊びに行ってるんだろうと思って、私は寝ました。そしたら、午前2時ごろ帰ってきました。それでまあ起きました。午前2時に息子はゴソッと入ってきました。さて、こんなとき父親は、いったい子どもに何と言えばいいでしょうか?私はこう言いました。「お帰り」。それだけ。そしたら息子は「ただいま」と言いました。私は次に「おやすみ」と言いました。向こうも「おやすみ」と言いました。終わり。
こんなときに話したら駄目です。こっちも寝ボケているので、ちょっと混乱しそうです。向こうも少し後ろめたいところがあるでしょうから、防衛的になるでしょう。だから、その日はもう何も言わないで終わる。これが絶対的なコツです。危ないときには話はしない。話はいつでもできます。
次の日の夕方に、「ちょっと話がありますが、いいですか?」と話をしました。「昨日は帰るのが遅かったですね。何時に帰っても私はかまいませんけど、都会に住んでいるので(当時、新大阪に住んでいました)物騒だからチェーン錠を掛けたいんです。一応午後11時には掛けたいと思っているので、11時までに帰ってくるか、あるいは朝まで帰ってこないかどちらかにしてほしいんですが……」と言うと、息子は「わかった」と言って、それからは11時までに帰ってくるか、電話をかけて「ちょっと遅くなる」と言うようになりました。叱らなかったです。
帰ってきたそのときに、「どこに行ってた?」と聞くのは、私は良くないと思う。夜どこに行くかは私が干渉すべき事柄ではなくて、彼が自分で管理する彼の人生の課題だと思うからです。彼がどんな人とつきあってるか、何してるか、私は知らなくていいと思う。ここで問題になっているのは、家庭の管理、チェーン錠を掛けるということに関する問題だとわかりました。でも、急にわかったわけじゃなくて、その晩は寝て、朝からずっとどこをどう話したらいいのか考えて、夕方ごろに、これはチェーン錠の話だけだとわかったからそこで話したんです。これがひと晩待った効果です。夜中に話したら、「どこへ行ってたの?」なんてきっと言うでしょう。それに対して、「そんなん勝手だろう」と言うかもしれない。「勝手だろう」と言われると、こっちもムカッとして何かひとこと言いたくなるかもしれないでしょう。だから十分落ち着いて、十分何がテーマなのか、何を問題解決すればいいのか、ちゃんとわかってそれから話をするほうがいいです。
例えば、「お小遣いくれ」と言われても、「何に使うの?」とは聞かないことにしています。お小遣いをあげるかあげないかを、向こうがいい使い方をするか、いい使い方をしないかで決めるのは“縦関係”だと思います。私のほうとしては、お小遣いをあげるかどうかは、「お金があるかどうか」なんです。払えるかどうか、それから、向こうが上手に頼むかどうかによって決めようと思っています。
この間、娘に騙されました。上の娘が、「お父さん、この前会ったときに、『あなたのお誕生日に財布を買ってあげる』って言ったでしょう」と言うんです。「おかしいな、そんなこと言った覚えないよ」と言ったら、「お父さんはいつもそうやって、言っていて忘れるんだから」と言う。私、確かに「そうだな」と思う。いつも言っておいて忘れて、みんなに怒られている。「言ったかもしれん。私は確かにそういう性格だから、言っておいて忘れるからなあ」「そうでしょう。だからねえ、財布を買いに行こうよ」「うん、行こう、行こう」と大阪の街へ出ました。道を歩いていたら、財布屋さんがあって、“大特価!!5割引!!”と書いてある。「あれ行こう」と言うと、「あんなんだったら、お父さんに頼まない」と言う。「なるほどね。じゃあどこへ行くんですか?」と聞くと、「デパートへ行こう。デパート」。デパートへ行ったら、ウワっと目の玉が飛び出るようなブランドものの財布が並んでいる。それを見て娘は、「これ!」って。しょうがないなあ。まあお誕生日のお祝いに、大安売りの1500円くらいの財布でごまかそうというのも、大人の娘を持った親としてはセコイ話だと思って、少し高い財布を買いました。買って支払いが終わったときに、「ねっ、この手はうまくいくでしょう」と妹に言っている。だから私は、上手に頼まれると騙されることにしています。
叱らなくても、感情的にならなくても、子どもはちゃんと育てられます。そんなふうに育てると、子どもたちは、感情を使って人を支配しない子、他人を罰しない子、そんな子になります。あの子たちが将来子どもを産んだら、きっとそういうふうに子どもを育てていくだろうし、夫婦関係なんかでも、きっとそういうふうにやっていくだろうと思います。一体何をテーマにすればいいのかをゆっくり考えて、ゆっくり話し合う子(人)になると思います。
罰にはありとあらゆる害悪がありますが、1つだけ利点があります。それはすぐ効くということです。罰すれば、こちらの思いをすぐ効かせられます。例えば登校拒否なんて、法律を改正して「3日以上学校を無断で休んだ者は死刑」にするとすぐ解決できます。こうすると、たいていの子は学校に行きます。しかしこの方法で子どもたちが学校に来たって、その子たちの「体」は来ているが「心」は来ていない。何も根本的な問題は解決してなくて、恐怖で動いているだけです。だから、即効性はありますが、副作用が大きすぎる。例えば人間関係が悪くなるとか、消極的になるとか、人が見てないと悪いことをするとか、恐怖心で動いて人生を楽しめなくなるとか、人を罰することを覚えるとか、いっぱい副作用があります。
心理学の常識ですが、叩いて育てられた子どもは、大人になったときに自分の子どもを叩くんだそうです。叩かれないで育った子どもは、大人になっても自分の子どもを叩かない。それはそうです。親から教えてもらった方法で子どもを育てますから。だから、暴力はいけませんし、怒りの感情も動物的な原始的なものですから、あれはなくてもやっていけます。(回答・野田俊作先生)
Q
ときどきスネたり、どこか体の不調を訴えたりする子がいます。私は、こういうときあまり取り合わず、普通にしているときに話しかけたり、接触するようにしています。しかし職場では、「あの子がスネたりしなければいけないのはなぜなのか、背景(原因)を探ろう」という考えが主流です。私があまり取り合わず、「放っておいて」と言っても、他の人が、「どうしたの?」とか「元気がないね」と声をかけたり、機嫌を取ったりします。私にできることはありますか?
A
「私にできること」?……できることは、(スネているときは)取り合わずに、その子が元気なときに話をすることだと思います。
「主流」というのは、つまり心理学の主流ね。今、学校ではたぶん、“カウンセリング・マインド”という変な言葉が流行っていますが、私はそんな気持ちの悪いものは持つべきではないと思います。アドラー心理学は、日常の暮らしとカウンセリングしているときとまったく違いがないんです。私が家族と話しているときと、カウンセリングでクライエントと話しているときと、自分でも全然変わりないんです。あるいは、学校で先生と会うときも、生徒と話すときも関係なかろうと思います。それは、私がカウンセリング・マインドを持っているからではなくて、私がそういうふうに暮らしているからです。自分の普通の暮らし以外に、何か特別なしゃべり方とか、特別の技術があるわけではないと思っています。ところが、そうでないカウンセラーたちがいます。それは、そうでない特殊なしゃべり方をする人たちで、何か相手の言うことを繰り返したりしますね。例えば、「映画行ったんだよ」「おお、映画行ったのか」「タイタニックね」「ああ、タイタニックなあ」「すごいなあ」「あの映画すごいのか」って言うんです。普段の、日常生活で使えないようなカウンセリング・トークを使うと、カウンセリングしている自分としてない自分を区別するようになります。そこからカウンセリング・マインドという1つの技術としてのつきあい方ができてしまうんでしょう。
そういう主張をしている人たちは、原因論的です。子どもが何かフテくされているときは、きっとそこに何か心理的な原因があると考えます。原因は普通2種類あります。周囲の社会とか家庭に原因があるという考え方。もう1つは、子どもの過去に原因があるという考え方。その過去と周囲とを組み合わせれば、過去の育児というところへ行きます。子どもが教室の中でフテくされているのは、どうもあれは家で面白くないことがあったからだろうと考えます。ということは、子どもが家で暴れたら、学校で面白くないことがあったことになりますよ。どうして、学校でフテくされているのは学校に原因がなくて、家で暴れるのは家に原因がないと考えるのかよくわからないですが、なぜかそう考えます。教師の集会で、「クラスに登校拒否の子がいる」「万引きする子がいる」と言うと、みんなで「家庭背景が悪い、家族が悪い、おーっ!」と言う。今度は親の会に行くと、「家に登校拒否児がいる、万引きする子がいる」と言うと、みんなで「学校が悪い、おーっ!」と言う。両方一緒に集まったらどうするのか、昔すごく興味がありました。そんなときたまたま、両方一緒に集まる教師と親の会に出ました。そしたら、「文部行政が悪い、社会が悪い」なんです。要するに、そこに来ていない人が悪い。ということは、そこにいる人の責任は逃れられるわけです。
それから、「過去が悪い」というのは、「今が悪い」と言ってないということです。アドラー心理学では「今の行動は今と関係がある」と考えます。今ここで子どもが反抗的であったり、今ここで子どもがフテくされているのは、今、私との関係の中で、フテくされている。だから、私がその子が反抗的になるように、何か刺激を出している。もしかすると、私が刺激の出し方を変えれば、その子は変わるかもしれない。まあ、私じゃないかもしれないけれど、さしあたって私だと思っておくと、私が何か変えてみようかという気になります。それで変わればよし、変わらなければまた別のことをやります。
行動を変えるにも原則があります。子どもの不適切な行動のほうに声をかけていくと、子どもは「そうか、不適切な行動をしているとコミュニケーションができるんだな。注目してもらえるんだな。みんなが私のことを大事にしてくれるんだな」と学ぶわけです。それで不適切な行動を中心に、それを話題にコミュニケーションしていく。
そうではなくて、適切なこと、勉強しているとか、お掃除をちゃんとしてくれているとか、あるいは元気に遊んでいるとか、はっきりとお話してくれるとかというほうに注目していくと、「そうか、適切にやってもいいなあ」と学ぶでしょう。だから、“適切な行動を探して、それに注目をする”というのを原則にしたい。
ところが困ったことに、適切な行動というのは、不適切な行動ほど目立たない。不適切な行動というのは、何しろ不適切というくらいですから、すぐ目立って相手はムカッとくる。「あいつめ!!!」と思う。「適切」というのは全然目立たない。しゃべったり横向いたり寝たりしないで黒板を見ているのは、教師は「そんなのは当たり前」と思う。だからそれに声をかけない。でもやっぱりそれに声をかけていきたい。「私のつまんない授業を、1時間も一生懸命聞いてくれてありがとう」と。
まず出だしとしては、不適切なほうにあんまり声をかけないでいきたい。不適切な行動をするには、それなりに理由、必然性があるだろうから、もしも、必然性を取り除けるものなら取り除きたい。必然性というのは例えば、「注目の中心にいたい」なんて思っているかもしれないので、「注目の中心にいなくても、あなたはとても素敵だよ」と言ってあげられるなら言ってあげたい。あるいは、喧嘩をして勝ちたいと思っていたら、負けてあげたい。だいたい、子どもと喧嘩をしても大人は勝てません。喧嘩というのは、汚い手を使えるほうが勝ちます。男と女では女のほうが汚い手が使えます。泣くとか、叫ぶとか、実家に電話するとか、夫の実家に電話するとか、「もとの19歳に戻してよ」と言うとか。男はこの手は使いにくい。男が夫婦喧嘩して泣くのはちょっとやりにくい。実家に電話して、「お母さん、嫁にいじめられてます」と言うのも、相手の実家に電話して、「お宅の娘さん、私にこんなことをします」とも言えない。大人と子どもが喧嘩をしても、子どものほうがいっぱいいろんな手が使えます。子どもはグレることもできるけど、教師が生徒と喧嘩してグレるわけにはいかない。登校拒否に倣って出勤拒否も具合が悪い。子どもは、そういう手が使えるから、子どものほうが強い。だから、向こうが喧嘩をしようとしたら、まずさしあたって負けることです。「あんたの勝ち」って。
それから、子どもとの関係を少しずつ立て直していく。向こうがそうやって喧嘩をしようと思うのは、それまで子どもを傷つけてきたということです。だから、どこで自分が子どもを傷つけてきたかちゃんとわかって、そこを謝っておく。そうしないと関係は良くならない。(回答・野田俊作先生)
Q
「正しい話し方ができるように、技術を深めていかなくてはいけない」とお聞きしたのですが、具体的にどういうことかわかりません。ご説明いただけますか?
A
まず、丁寧に話すことです。命令したり、指示したりしないで、対等の仲間と、自分の家族と話をするわけですから。なるべく丁寧な言葉で話をしたいと思います。
ぞんざいな言い方のほうが親しみを込めているという感じがありますが、感情的になりそうなこととか、難しい話題は、子どもが相手でも丁寧な言葉で話したほうが安全だと思います。こちら側を冷静に保つためにも、極端な敬語でなくてもいいから、丁寧な言い回しをします。私も自分の子どもと話すときに、なるべく丁寧な言い回しを心がけてきました。
それから、私が何か提案することを、向こうが断れるようにします。『スマイル』(『PASSAGE』の前身)を受けると“お願い口調”というのが出てきます。テキストには、「お願い口調というのは『こっちへ来なさい』とか『こっちへ来てちょうだい』と言わないで、『ちょっとこっちへ来てくれませんか?』とか『こっちへ来てくれると助かるんだけど』というように、疑問文や仮定文で言ってください」と書いてあります。「お願い口調を使うと向こうがよく言うことを聞いてくれる」と誰かが言いますが、それは違います。お願い口調を使うと、向こうがよく言うことを聞いてくれないんです。そこがいいところです。お願い口調を使うと、子どもが断りやすいんです。「ちょっとこっちへ来なさい」と言われるより、「ちょっとこっちへ来てくれないかな」と言われるほうが、「イヤです」と言いやすい。そのためにお願い口調を使うんです。
私(野田)によくお願い口調を使ってものを言う人がいますが、それは全部断ることにしています。「野田先生、今日、帰りはヒマですか?ねえ、一緒につきあってもらえません?」「イヤです」。するとその人は怒るんです。怒ると、「こいつ、まだアドラーができてないな」と思います。お願い口調は、断られるために言っているんです。だから、子どもにも断る権利があり、その権利を認めながらも、こっちが何か頼みたいことは、平等に頼んでいく工夫をしようと思っています。
それから、理屈の通った(論理的な)ことを言いたいし、向こうの理屈が通っていれば、負けたいと思います。これも昔、息子にイタズラで話したことです。彼、お魚のカレイが好きで食べていたんですが、片身だけ食べて片身残すんです。私、面白いから、「ねえねえ、ちょっとお説教していいですか?」と聞いた。「面白いね、お父さんがお説教しますか。やってごらん」と言うから、「それじゃあ、やらせていただきます」とお説教をしました。
「今、アフリカでは子どもたちが飢えている。それなのに君は、こうして食べ残していいと思っているんですか?」。すると息子は、「私がこれを食べるのと、アフリカの子どもが食べないのとは関係がないと思います。それともお父さんは、これを宅急便でアフリカへ送りますか?」と言うんです。負けました。一本負けました。だから、「すみませんでした」と謝りました。
子どもでも、向こうのほうが理屈が勝っていればやっぱり負けたいと思うし、こちらも、子どもが納得できる理由でいろんな話をしたいと思うんです。両方が納得できる、筋の通った理屈で話がしたいんです。
伝統的に日本人は理屈を言うのが嫌いなようです。でもこれからは、理屈の強い日本人を作っていかないと世界的に困ります。外国人は否応もなく、これから増えていきます。今は例えば、イラン人とか、インドネシア人とか、タイ人とかの未熟練労働者が、あるいはバーのおねえさんが入ってきてますけど、いつまでもその状態ではなくて、やがて必ず、熟練した労働者、知的な労働者が日本でも働くようになると思います。企業も、インドネシアやタイやフィリピンの大学卒を雇わなくてはならなくなると思うんです。国際的な圧力もありますし、それから、絶対的な必然でもありますね。あるいは、日本の企業で働いていても、タイやフィリピンやインドネシアに工場を持っています。大企業だけでなく、中小企業も同様です。日本国内では、人件費が高い、土地も高いのでやっていけなくて、外国に工場を造ります。だから、お宅の坊ちゃんやお嬢ちゃんは、将来問題として、タイの奥地でカマボコを作っているかもしれないです。
外国人とつきあうときに、われわれが頼れるのは論理の力だけです。理屈ならどの国の言葉に訳しても共通だから通じます。日本ふうの「情」は通じない。「情」に絡めようったって、タイ人やフィリピン人は絡められない。あの人たちには“大和魂”はないから。
そんなふうに論理的な力がすごく大事と思うから、子どもと話をするときにもわれわれは、冷静に論理的にちゃんと理屈が立つ、筋道が立つ話し方をしていきたいと思います。(回答・野田俊作先生)
Q
「好きな仕事」「やりたい仕事」というのが自分の使命でしょうか?
A
わかりませんね。われわれはこの世に生まれてきて、いろんな出来事に出会っていくんです。その中で、私の願いもあるけど、まわりの願いもあって、いろんな人間が絡まって自分の人生ができてきます。
私(野田)は今、たまたまアドラー心理学を教えています。でも、生まれたときからアドラー心理学を教えようと思っていたわけでもないし、中学生や高校生のときに思ったわけでもないし、大学のときに思ったわけでもない。大学の医学部にいたころは、無医村のお医者さんになりたかったんです。
それで、無医村のお医者さんになれるように、卒後研修を大阪大学の微生物病研究所というところに行って、普通の内科じゃなくて熱帯病とか寄生虫病とかの研究ができる施設でお勉強しました。最初に持った患者さんが、何しろサナダムシですから、日本の医者としてはかなり珍しいです。日本脳炎なんかも診たし、ちょっと変わった内科の先生を一時していました。で、無医村へ、特に南のほうの沖縄の孤島とか、ひょっとしたらもっと向こう、フィリピンかアフリカとか暑いところの無医村で一生暮らそうと思っていました。そう思っていたら、そのうち、たまたま結婚しました。結婚したら奥さんが、「無医村なんて絶対イヤ!」という人だった。「あらまあ」と動けなくなりました。
その動けない状態で考えているうちに、5年内科をやって気がつきました。自分がものすごいヤブだということに。あんまりすごいヤブだから、内科をやめたほうがいいと思って、それで精神科医になりました。精神科医になりたくて医学部に行ったわけではない。内科不適応で精神科に行った。
精神科でいろんなことをやっていましたが、統合失調症の患者さん、できたてホヤホヤの失調症の患者さんに対して、どうしたらいいのかわからない。古くなった患者さんならわかります。今狂ったばかりという人が入ってくると、全然話が通じない。警察に連れられたり、救急車に乗せられたりして、ものすごい混乱状態で入院してきます。最初、2、3週間から3、4週間、ほんとに狂乱状態になっているんですが、そこを何もしないで見ているのも芸がない。それで、何かいい本はないかなと思っているときに、私の先生のシャルマンという人が書いた統合失調症(当時の言い方では精神分裂病)の本があって、それが良かった。それで、手紙を書いたら、「こっちに勉強においで」と言われて行ったら、たまたまそれがアドラーだったんです。それでお勉強しているうちに、統合失調症がどうでもよくなり、アドラー心理学だけ残り、アドラーマニアになりはてて、こんなになっちゃいました。
高橋さと子さんが、石垣島で育児コースをすることになりました。「そんな遠いところにおばさん1人で行ってはいけない。みんなで鞄持ちに行ってあげよう」ということになって、5人が鞄持ちでついて行きました。
そのときつくづく思いました。ひょっとしたら私は、この石垣だとか、波照間だとか、与那国だとかいうところで、医者をしていたかもしれない。もしそうしていたら、日本にアドラー心理学はなかったかもしれない。わからんもんだ。これは仏様のおはからいとしか言いようがない。
何にも私の意志で動いてない。私が無医村に行けなかったのは、たまたま奥さんが田舎嫌いの人だったから行けなかっただけで、私が内科医をやめたのは、たまたま私がヤブだったり、精神科に知り合いがいて、「精神科に来ないか」と言われたという因縁があったからだし、アドラーを習ったのも、アドラー心理学がやりたいからやったわけではなくて、統合失調症の患者さんと関係して、一種の悪戦苦闘の中でたまたま見つけたにすぎず、すべてが外側から決まってきているような気がしています。だから、きっと他の人もそうじゃないかと思うんです。
私の中で自然に、内側にある願いと外側の出来事との連鎖とが反応して決まってくるわけです。それが結局、この世の中で生きる私の人生の意味なんでしょうね。私は、何のためにこの世に生まれてきたのかわからないけれど、こうして決まっているんだろうと思っています。(回答・野田俊作先生)