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横の関係(2)

 もう1つは、その中で1人1人の個性は徹底的に尊重しないといけない。全員が同じことをしたら差別です。不平等です。国語をうんとたくさん勉強したい人は国語をうんとたくさん勉強すればいい。その分だけ他のことはちょっと手を抜きます。それはそれでよろしいやろ。社会的に必要なだけの、その人間がこの世で生きていく上で必要な教養というものがあるだろうと思う。僕は新聞を読めなきゃいけないとはあまり思わない。うち、新聞取ってないので、新聞というものが必修科目だとは思わない。が、テレビのニュースがわかる程度の日本語力があったほうがいい。公用文を会社に勤めたら書かないといけない。「新緑の候となりましたが、皆様ますますお元気のこととお慶び申し上げます…」。それくらいのものを書いたり読んだり理解できる国語力がいるんではないかしら。それくらいできれば、別に芥川龍之介を鑑賞できなくていいです。今の子どもはもはや芥川龍之介を読めません。もちろん夏目漱石も森鴎外も全然一言も歯が立ちません。構わないです。一生、夏目漱石も森鴎外も読まないでも人間やっていけます。夏目漱石も森鴎外も文豪で素敵なことを書きましたが、彼らが持っている問題意識は明治末期~大正初期の問題意識です。あの問題意識を今の子どもたちは持ってないし共有してないですから、わざわざ読まないといけないことはないです。僕、開高健が好きで、開高健の文章を今の子どもたちは絶対読めないです。相当な美文ですからね。でも読めなくていいです。彼はベトナム戦争という時期を僕らの先輩たちと一緒に生きて、ベトナム戦争の中へ凄く奇妙な形で食い込んだ朝日新聞の特派員でしたから、日本人としての立場で物事を書いていました。それは僕たちには問題意識の共有があって読めたけど、今の子どもたちはベトナム戦争も何もわからないし、彼の抱えたさまざまな問題を抱えてないから読まなくていいです。でも現代の小説家たちが現代の問題について書く文章はたぶん読めたほうがいいです。そういうミニマムなことは、文化の伝承として子どもたちに与えてあげたいけど、それ以上のたくさん勉強してもらわなくてもいいと思う。その分、他のことへ回したほうがいいと思いませんか。僕、理科系人間ですから高校3年生のときかに──、ここの角度がrでこの距離がθで、ここの円弧の長さがrθなんです。それじゃあ円の面積はどうなるかというと、ここを△で近似しますと、ここの面積が1/2r×rθですから、1/2r二乗θですね。その△をずーっと一周積み重ねて積分すればいい。0から2πまでrθを積分すれば、2πr二乗ですね。半径の二乗×円周率ですね。──というのを習ったときに、「なんでこれを僕に小学校5,6年生のときに教えてくれへんかったんやろ」って。それまで中学校で四苦八苦しためんどくさい問題たちが全然問題なく全部解けるんです。インチキよ、そんなん。と、理系人間は思う。理系の子たちは、角座標を教えてもらったり積分や微分を教えたもらったとききに、それまで小学校では円の面積は「半径の二乗×円周率・3,14」というのが何の意味もなく子どもたちに教えられたのが凄い苦痛だったんです。「なんでそんなんあんた勝手に言うねん。ほんまに計ったんか」と、「円周率3,14てどうやって計ったんや」と先生に質問したら、先生は「覚えなさい」と言うんです。ところであれどうやった計るか知ってますか?円周率。いろいろあるんですけどね。普通多くの人がやるのは、半径rの円に内接する多角形を作って、それから外接する多角形を作って、これ三角ですからこの長さは簡単に計算できます。計算しておいて多角形の角の数をどんどん増やしていく。で、外側から内側を引いて、辛抱できなくなるくらいに小さくなったところを円周率にします。七万角形とか十六万角形とかいうのを作って、その外接と内接の差がいくらになっているから円周率はこれからこれの間だとわかる。これが一番正確な方法。遊びとしてはもっと面白い方法がある。円を描いてそれの外接四角形を描きます。ここへランダムに点点を打つんです。外へ落ちた点と内へ落ちた点の数を数える。20万個くらい点を打って3,1なんです。無茶苦茶能率が悪い。今のコンピューターは性能が良くなりましたから、3日か4日働かせ続ければ結構良い線が出るのでは?そんなことをして計るしかしょうがないもんで、それを3と言おうが3,14と言おうが、教師には何の根拠もないんだから、そんなんただπと言っておけばいい。数字知らんけど。弧があって弧を一周くるっと回ったら、πrになるし、2πrになるし、そこの面積を測ったらπr二乗になるじゃないですか。これでよろしいやろと僕らは思います、理系は。でも文系の人は思わない。「そんなん許せん」と。「それで何がわかったん?」「それは頭の構造が違うんやからしゃあない」と理系人間が言うのは、とにかくこういうふうにものを考えるように初めからできているわけで、人類の何パーセントとかがなるべくサイン・コサイン・タンジェントとか指数とかで世界が見えるほうがいいと思っているんですよ。世界は全部、微分と積分だと思っているんですよ。高校3年生になってやっと微積を習うんです。大学へ入ってやっと本格的に解析物理といって、こういう微分積分を使って世界を見る方法を教えてくれるんですけど、そこまで欺され続けている。欺してないで小学校6年生くらいから教えてくれると、ずっと人生楽だったんですよ。だからクラスの中にこんな子用のちょっとした「村」を作って、「島」を作って、これをやってくれれば、僕は凄く楽に中学高校を過ごせたんです。でも今これダメです。例えば大学のセンター試験である問題を解くときに、高校で教えていない解法で解いたらダメなんです。でも高校で教えている解法は大体全部インチキなんです。大学の解法から見ると。そういう試験の仕方って何か意味があるんでしょうか?なんでそんなことをするかというと、全員に同じことをさせるため。その子たちの個性を発揮させないために、1人1人の違いを伸ばさないために、みんなが同じように動けるようになるためでしょう。そのことがみんなに凄い負担をかけている。英語を勉強するのが全然苦痛じゃない子がいる。英語だけだと暇でしょうがなくて、ドイツ語もやりますフランス語もやりますラテン語もやりますギリシャ語もやりますという子もいます。ところが高校でギリシャ語の本を読んでいると先生が怒る。「そんなんせんと英語をしなさい」「英語は僕わかります」「英語がわかるからといってギリシャ語を読んでいいといものではない」とわけのわからん理屈を高校の先生はこねる。この子にギリシャ語を読ましてやれよ。子ども1人1人良いほうにも悪いほうにも皆違います。それを学校の科目だけじゃなくて、たくさんのことが起こると思います。僕昔、合唱団に入ってまして、大学出てから宗教音楽だけを歌う合唱団に入っていました。バッハなんか歌っていました。当時フォークソング全盛時代で、合唱団の合宿かなんかでワーッと歌って、休憩時間にフォークソングを歌っていたら、指揮者の恐い先生が「お前らそんな歌になるとなんでそんなええ声出すねん」と怒るんです。「それは先生、違うもん」て。学校で教えていることが得意じゃないからといって、学校で教えないことが得意な子がいっぱいいるんですよ。カラオケ連れて行ったら、無茶苦茶たくさん歌える子がいるんですよ。学校の音楽は全然ダメでですよ。カラオケでいっぱい歌えて学校の音楽アカンて、どっちが正しくてどっちが間違ってる?それは、学校の音楽が間違ってる、この子たちにとってはね。僕は音楽の授業廃止論者ですから、音楽を学校で教えることはない。音楽大学へ行く子たちは、学校で習ったことは音楽大学ではまったく役に立たないです。ほんとにもっと小さいころからちゃんとやってないと。音楽大学行かない子は、学校で習った音楽は全然役に立たないです。なぜならモデラートとか書いた楽譜を読まないから。学校で音楽を教えることはない。音楽がない国はいっぱいある。学校の授業に音楽が存在しない国はあります。日本で伝統的に学校で音楽が存在したのには意味があります。かつての時代に。文部省唱歌というものがあって、それを使って国民に西洋音楽というものを教えたかった。明治政府は、三味線を弾いてやる東洋の音楽からあるいは民謡から西洋音楽に脱却したかった。外国に対する見栄もありますね。日本文化で外国人から一番評判が悪かったのが音楽です。絵とか建築とかには西洋人は驚嘆しまして、浮世絵とか金閣寺に西洋人は凄いと言ったけど、音楽だけは西洋人は辛抱できなかった。なんであんな変なものがついているの?そういえばそうね。あれは西洋音楽の意味で聞くと変なもんです。それで明治の高官たちに西洋人が、「あの音楽だけはやめなさい」とさかんに進言したので、まあそれもそうかいねと思って、西洋音楽を小学校から教えようと思いました。それが1つで、もう1つは国民共通の音楽を作りたかった。明治政府にとっては、日本国家の共通の○○、国旗から始まって日本国民だぞという自覚を持たせるために共通の物語が山ほど要った。それは国語の教科書だってそうだったし、修身の教科書だってそうだったし、歴史の教科書だってそうだったし音楽だってそうなんで、世界中どこにいても同じ歌を知っているということが無茶苦茶大事だった。それは音楽教育の凄い大きな目的です。アメリカ人はこの種の教育を徹底的に受けていますから、だから世界中どこでアメリカ人と会っても、アメリカ人が歌う歌はアメリカの学校で習ったアメリカの文部省唱歌です。それがアメリカ人の統合の象徴なんです。そういう国家主義的な意味で音楽をしなければならない時代がありました。今、学校で教えている歌が日本人統合の象徴として動けるかというと、動けないと思う。子どもたちは僕たちが習った歌を歌いたくないもの。音楽の概念が変わったもの。カラオケあるし、テレビあるし、学校で教えなくてもみんながその時代の歌を歌うんです。僕なんか子どもたちとカラオケに行って歌を歌えない。「お父さん、何?その歌ダサい」と言われるから、「いいよ、僕らだけで行くから」とこう言うわけです。それでいいじゃない。そうなると、モデラートや八分音符だので責め立てて、子どもたちを音楽嫌いにする必要はないわけです。(つづく)

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横の関係(1)

Q
 小学校の事務職員です。縦の関係を脱却するというのは、子どもの横であり担任の横でありもしくは教員・校長の横である位置を探るということなのでしょうか?子どもからも担任からも相手に対する不満を聞かせてもらうことが多く、どう対応したらいいものか試行錯誤しています。

A
 なんやようわからん質問や。あのー、今日質問少ないからたくさんしゃべろう。
 アドラー心理学の用語がたくさんあって、例えば劣等感というと、他人と自分を比較して自分が劣っていることだと思うんです。でも、アドラー心理学では劣等感をその意味ではまったく使わない。アドラー心理学では、自分の理想と比較して自分の現実が劣っていることを劣等感と言う。これが定義です。自分の理想というのは、人間は目標追求をしていて、生命があるということ、生命活動があるということは目標追求をしているということですから、人間には必ず劣等感があるんです。劣等感がない状態というのは、死んだらなくなるんですけど、死なない限り劣等感があるんです。なぜかというと、劣等感というのはまったく内的なものだから。自分の理想と自分の現実との比較だから、そういうふうに定義するから、すべての人に劣等感があると言うとすんなり来るんです。劣等感をなくするのは不可能です。「しね」と言うのと一緒ですから。
 横の関係とか縦の関係とかもアドラー心理学上の定義があります。横の関係というのは、協力して問題を解決するような関係です。縦の関係と言うのは、誰が上で誰が下かを決めようとするような関係です。誰が上で誰が下か決めるのではなくて決まっていたら縦の関係ではない。だから、校長先生がいてヒラ教員がいても縦の関係ではない。総理大臣がいて一般住民がいても縦の関係ではない。誰が総理大臣かをみんなで争っていたら縦の関係です。普通僕たちは社会的な身分制度について争いをしないです。戦国時代の下剋上じゃないから。どんなことで争いをするかというと、誰が成績が良くて誰が劣っているかとか、誰が理解が早くて誰が理解が遅いかとか、誰が駆けっこが上手で誰が駆けっこが下手だとか、誰が正しい考え方をして誰が間違った考え方をしているかとか、誰が美人で誰がブスかとか、誰がカッコいい男の子で誰がカッコよくない男の子かとか、誰が歌が上手で誰が下手だとか、誰の絵が良く描けているかとかで上と下の争いをしているわけです。
 現在僕たちの縦関係というのは、ほとんど学校と関係があります。学校で成績とか評価とかいうことと関係しながら争わせるとか、あるいは正不正、誰が正しくて誰が間違っているかを、学校の先生は決めたがるんです。例えば、牛乳瓶かなんか出してあったら、「誰が出したの?」と聞くんです。「あの子が出したの」「じゃあ呼んでらっしゃい」「あんた自分で出したらちゃんと片づけなさい」「僕出したんと違うもん」「じゃあいったい誰が出したの?」「あいつが出した、こいつが出した」と言い争いをさせている。あれ何してんの?その間、牛乳瓶そこにあるんよ。それよか誰が片づけるか決めたほうが良くない?「誰が出したの?」と聞くより、「誰が片づけてくれますか?」と聞くのよくありませんか。誰が出したかはよろし。「片づけてくれる人はいますか?」と聞けばいいのに、誰が出したかを決めたいんです。なぜ決めたいかというと、誰が悪人かを決めたいから。誰が善で誰が悪かを決めたい。あるいは学校では滅多にやらないけど、誰が美しくて誰が醜いか、美人コンテストをやったりする。善悪真偽美醜、そうであるかとかそうでないかとかをみんなで争って決めようとする関係を縦の関係と言います。
 学校が激しい縦の関係でやってまいりました。昔はのんびりした時代で、そんなことをあまり気にしなくても学校にいられた。お勉強しなくても別にどうってことなかったんですが、だんだんだんだん競争が悪化してきて、どうしてもそういう縦関係の中へ子どもが入らざるをえない状況を作ってしまいました。まあ学校もそうですが塾もあって、塾との相互作用で。それが今度は社会へはみ出していったんです。学校の縦関係が社会へ漏れ出していって、成績評価を社員さんになってもやるわけ。営業成績を評価して、「いくらいくら売れました」「あなたは目標に到達していません」と言われる。そうやって勤務評価されて序列をつけられて、能力給で給与格差がついて、あまりにも能力がないと思われた人は解雇されて、そうでもない人はいわゆる窓際で網走かどこかへ送られて、本社へ残って最後まで生きようと思ったら、学校的評価として上のほうにいないといけないという社会を作ってしまった。これが縦社会です。
 江戸時代の封建社会は縦社会じゃないんです。士農工商の身分はあったけど、あそこでは争いがなかったから。お百姓は将軍になろうとしてもできなかったもの。誰が将軍か誰が殿様か初めから決まっていたもの。あれは縦社会でない。今が縦社会です。上下を争う社会。それが今の学校なんです。それを横社会に変えたいんです。横社会というのは例えば軍隊は横社会なんです。軍隊は将軍がいて上官がいて部下がいますが、内側で誰が上官で誰が部下か争えないもの。みんなで敵をやっつけるということに協力しますから、あれは横社会です。横社会というのは、みんなが役割分担をして協力して問題を共同で解決する社会です。
 ここで2つ重要なアイディアがあって、1つは共同の問題だということ。「PASSAGE」を学んだ人の1つの悪い癖は、何でもかんでも課題の分離をしまくって、「あれは私の課題ではありません。これも私の課題ではありません」と言って、完全の自分の課題ゼロという世界へ入って、完全に無責任に生きて、「これでアドラー心理学できました」と言っている。違うので、アドラー心理学はいろんなことを共同の課題にして暮らしたい。ただ、向こうは手伝ってほしくないことを、お節介して介入したくない。子どもは勉強についてあまり大して親に構ってほしくない。勉強は自分でやりたいと思っているのに、なぜ親が「そんなことダメよ。あなたの勉強は私の課題だから私が手伝う」と言うかというと、それは親の課題があるから。親は勉強のよくできる子どもを持ちたいんです。なんでかというと、例えば学校へ行って先生に怒られなくてすむから、親が。例えば友だちのお母さんに対して鼻が高いから。あるいは公立高校へ行ってくれると体裁もいいけど、経済的にもちょっと得かなと思うから。成績が良いと良い会社に勤めてくれて老後の安心も増えるから。ということは、子どものためと言うけど、よくよく考えると全部自分の利益なんです。自分の利益のために子どもを勉強させたい。子どもを勉強させないでいると、ちゃんと親をやっているのかしらと、私は親としてすべきことをしてないという感じがする。口うるさく言っていると、親としてすべきことはしている。これだけ口を酸っぱくしてすべきことをしているのに勉強しないのは、あの子が悪い。親としてすべきことをしないで勉強しないと、私が悪い人。私が悪い人でなくなるためには、とにかく努力しておくと子どもが悪い人になるから、これで良かったといって、隠れた縦関係がある。誰が良い人で誰が悪い人かを決めるという。だからいっぺんそこを整理してください。
 いったい何が誰の課題かを整理した上で、本当の意味で共同の課題を作りたい。学校でお勉強するというのはクラス共同の課題です。数学なら例えば二次方程式をある一定期間に全員がマスターできるように、「みんなが一丸となって頑張ろうね」というのが本来の姿なんです。競争して「僕はできたぞ。お前なんかできないだろう。バカバカ」と言うのが本来の姿ではない。二次方程式はどっちでもいいと思うんですけど、例えば国語ね。漢字が「新聞に出てくる程度の漢字をクラスのみんなが小学校1年生から中学校を出るまでに読めるようになろうね」と、助け合って暮らすのが本来の学校の姿だと思う。わからない子にわかる子が手助けをして、その代わり、手助けされた子は別のことでわかる子に別の形で手助けをして、みんなが協力して小学校から中学校出るまで暮らせれば、それが一番良い姿でしょう。それが横の関係のクラスです。1つは学業であれ道徳的な生活であれ、あるいは体育であれ、それらは共同の課題なんだと。全員が助け合ってみんなが伸びていくということを、先生が援助しないといけない。これが1つ。(つづく)

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訪問カウンセリングは?

Q
 不登校児に対する学生カウンセラーをやっています。家庭訪問の活動を始めようとしています。学生カウンセラーとして間に入る立場ですが、接する上での心構えを教えていただけないでしょうか?
 自分自身、不登校児だった過去があります。自分の例を話すことは、相手にとってプラスになるんでしょうか。もしも接し方を間違えたことで逆効果にならなければいいと考えています。心を開いてくれるまでの時間が一番大切だと思うのですが。その間にすべきことがあるんでしょうか?

A
こんなにようけい(たくさん)聞かんといてください。
 訪問カウンセリングは、僕、好意的じゃない。否定的なんです。訪問カウンセリングのやり方にね。するんだったら、子どもがカウンセリング受けてもいいという気になってくれるために、カウンセラーとはどんなものか見せに行くもので、それはどんなやり方かというと、親に会いに行くんです。子どもと会おうとあまり強く思わないこと。親とお話して帰る。親にも先にそのことを言っておく。子どもさんには無理に会わない。子どもが会うと言ってくれれば会います。そうでなければ会いません。お父さんなりお母さんとお話をして帰ります。そうすると子どもは、最初からかどうかわからないけど、たぶん観察していると思う。訪問してきた人がどんな人か。あの人だったら会ってもいいなあと思うと会ってくれる。イヤだなあと思うと会ってくれない。しばらく通って会ってくれないようだったらやめます。会ってくれるようだったら会います。
 子どもがカウンセリングを受ける決心するまでは、こっちから積極的に働きかけないで、カウンセラーとはどんな人物か見えるようにするのが最初の仕事です。
 会ってくれたらいきなり「では不登校の問題を解決しましょう」ではなくて、「子どもが自助する」というのがすごく大事だと思う。鎌田さんが『クライエントの責任』という論文を書いた。あれはすごく大事な視点です。われわれ治療者の側にも責任があるけど、お客さんの側にも責任がある。ここ(=アドラーギルド)へ通って来るとか、相談料を払うというのはクライエントさんの責任です。子どもは、不登校児はどんな責任を取っているか。訪宅してもらうと一銭も払っていない。あるいは親がお金を払うと、その子は何も責任を取っていない。これは必ず失敗します。カウンセリングを受けたかったら、相談所まで来てほしいとか、クライエントが取る責任を先に考えてほしい。いつでも求めに応じて「はい行きます」という構造を取らない。
 心を開いてくれるようになるまでが一番大切な時間だとは思いません。開いてくれてからのほうがもっと大切です。反抗的な子どもと関係つくまでが一番大切な時間なんではなくて、関係がついてから援助するのが一番大切な時間です。手術しようとしたら体力がない。それならしばらく栄養をつけて、手術に十分耐えられる力をつけてから手術する。栄養をつけている時間が一番大切ではない。手術する時間が大切です。関係はそこの手順を間違わなければだいたいつきます。
 関係がつくというのは、温かい包容力ある関係ではない。ビジネスの仲間として相談し合える関係です。それはアドラー心理学の治療関係の1つのイメージですが、「愛と信頼の関係」ではない。私はクライエントさんを愛したくはないし愛されたくはないから。「誠実な顧問、相談者」でいたい。弁護士さんみたいな。あるいは企業コンサルタント。“子ども業”という企業のコンサルタントになりたい。そういう関係は簡単につきます。最初強引にしなければ。そこからあとが大変なんです。学校へ行かない子を援助していくのはいろいろしんどいので、その都度、ここ(=アドラーギルド)へ勉強に来てください。それしか言いようがない。

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中2になって急に反抗的になり非行化した生徒

Q149
 中学校の教師です。現在2年生の生徒のことです。中1のときからかなり気をつけていたのに、2年になって急に反抗的になり非行化しました。短期間の間に何か悪いコミュニケーションがあったのでしょうか?自分ではあまりわかりません。この子たちは他の教師たちともうまくいかず、数名の部活の監督の話だけは聞きます。

A149
 子どもが非行化する原因はわからない。およそ原因というのはいつもわからない。
 反抗的になったら反抗的になったで、しばらくその子と仲良くする算段をすれば、仲良くするグループに入れてくれるでしょうから、あんまり自分を責めないで。
 仲良くすること。「その子たちが関心を持っていることに関心を持つこと」に注意を向けてください。

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ボーイフレンドができた高2娘が友人宅へお泊まり

Q
 高2の娘ですが、ときどき「友だちの○○さんのところへ泊まりに行っていいか?」と聞きます。友だちもわが家に泊まることがあるので許しています。今年の5月、2歳年上の社会人のボーイフレンドができました。毎回ではないのですが、彼と一緒のときもあるのではないかと思います。このままで友だちの家へお泊まりということでいいのか、話し合ったほうがいいのか迷っています。また妊娠についても心配なんですが。

A
 話し合ってどうするかの結論のほうを先に聞きたいんですけど……。私のところは話をしました。全部話しました。
 まあ、今どきの若い人のことですからボーフレンドとつきあうのもいいし、外泊するのも別にかまわない。今どきの若い人のことですから、セックスするのもこっちの課題ではないからかまわない。あなた方が全部マネージしてくれればいいと思う。行き先も別に言ってもらわなくていい。「これからラブホテルへ行く」と一々報告をもらいたくないから。「彼と一緒にいる」で十分です。
 ただ、彼と一緒にいるということは、どっちかというと知っておきたい。全然違う女友だちのうちへ行くと言って彼と一緒にいて、何か連絡したいことがあって、その女友だちのうちへ電話を入れたりしたら、そのおうちに迷惑でしょう。だから、「彼と一緒にいる。行き先は言わない」だと、「ああ、今日は連絡できないな」ですむから、それはそれでよろしい。どこへ行くか言わなくていい。セックスするのも一向にかまわない。
 ただ妊娠したらお互い生活力がないから困るだろうから、避妊はしてほしい。「避妊の仕方を知ってますか?」「はい知ってます」「じゃあ避妊してしっかり頑張ってくださいね」「イヤらしいわね」と言われて終わり。
 話し合いをしたとき、「こっちが何を伝えたいか」を先にきっちりと考えてほしい。今どきの若いお嬢ちゃんに、「エッチしたら駄目よ」と言うのはすごくナンセンスだと思う。別にエッチしろよということではないが。するなと言ったってするだろうと思うから、それはしょうがない。「行き先をちゃんと言いなさい」というのも、言えないところも当然あるでしょう。私も昔、思春期があって親に言えないこともさまざましましたから。彼らだって親に言えないこともさまざまして大人になるでしょう。それはオッケー。
 ただ、言える範囲のことだけは言っておいてほしい。第三者に迷惑をかけるようなことはやめてほしい。友だちの家に泊まると言って、そこにいないのは困る。これくらいのことしかないんじゃないでしょうか。
 もしも、わざわざ言ったほうがいいと思うなら言ってください。見て見ぬフリをしてもいいなら、見て見ぬフリをしてください。どっちでもいいです。

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