Q
自分は穏やかな性格で、おとなしい気の弱い子だと思って育った一方で、家庭の中では、短気でわがままで自分のことが嫌いで育った。そして、他の人には腹をあまり立てないものだと思っていたのに、最近どうもずーっと腹を立てている。人を好きになれないという気がしてならない。
「自分がまず相手を好きになればいい」と言うが、それができない。相手の予想外の面を見つければ、好きになるかもしれないが、アウトラインを1つでも教えてください。
A
□「できない」と「したくない」
1つだけ嘘がありますね。気がつきましたか?それは、「自分がまず相手を好きになればいいと言うが、それができない」というところです。これは嘘なんです。「できるんですがしたくない」というのが本当です。
僕たちが、これは私にできないと思うときは、もう一度考えてみよう。「人間にはできないことはない」とアドラーは言いました。人間にはしたくないことはある。「私はあの人を好きになりたくない」と言うのはOKです。「好きになりたくない」と言っているときには、責任は全部自分で取っているから。ところが、「私は好きになりたいんだけど、好きになれない」と言っているときには、誰が責任を取るのか。かわいそうな“性格さん”という人(?)の責任です。「私の性格が、私に、あの人を嫌いにさせているので、悪いのは私ではなくて、私の性格だ」と言っている。こうやって、いつも“性格”が犠牲者にされている。
僕たちは性格の話をするのがすごく好きです。例えば、血液型性格判断。あれは、ありとあらゆる実験や、また心理学的な綿密な研究で、どれも結論が一致している。それは嘘だと。性格と血液型はまったく関係ない。私の友だちは心理学者ですが、彼は血液型がO型で、みんなから「典型的なO型性格だ」とずっと言われてきた。本人もそう思っていました。大学へ入ってしばらくして、彼は献血をしました。そしたら実はA型だったんです(浩→『華麗なる一族』の主人公とその父親がそうでした)。だから、血液型の性格分類なんて、まったく当たらない。にもかかわらず僕たちは、血液型の話が大好きです。
血液型よりも、もっとアテにならないはずの星占いの話も大好きです。どうしてかというと、自分の性格のことで、例えば、「あなたは徹底して何でも物事を突き詰めてやるほうだ」などと言われると、何かあったときにそれのせいにできるからね。習慣とか性格とか生い立ちとか、また環境とか遺伝とかというものは、ずっとそうやってわれわれの自分自身の責任でないという言い逃れのための口実として使われてきたんです。
□“思い込み”が私を決める
だから、アドラー心理学はそういう話をするのが嫌いです。きっと、責任逃れの口実にそれを引っ張り出すに違いないから。
「できない」とは言わない。できないときに「いったい何が私にそれをさせないか」を考えてみる。それは、私の決断が、私の決心が、私にそうさせないんです。だから、「できない」んじゃなくて、「したくない」んです。まずこのことを最初に知っておく。「自分が相手を好きになればいい」と言うが、「それをしたくない」んです。
それで、「外では自分は穏やかな性格でおとなしい気の弱い子だと思って育ってきた」とおっしゃいましたが、「思って育ってきた」というのは、すごく正確な言い方だと思います。「私はこんな人だ」と自分で思うんです(浩→“自己概念”)。で、決めていく。「私はおとなしい子」だとか「私はおしゃべりだ」とか「私は無口だ」とか「私は勉強のよくできる子だ」とか「勉強ができない子だ」とかいうのを決めます。
初めは、子どもが自分自身を決めるときには、わりといい加減な根拠で決めます。小学校1年生くらいのときに、たまたま学校の先生が、「あなたって上手に絵を描くのね」と言ったんで、「自分には絵の才能がある」と決めつける。決めると、そっちの方向へ動く。「自分は絵が上手なんだ」と思った子は、絵を描くチャンスを増やすでしょう。だから実際に上手になっていく。「自分は算数ができるんだ」と思った子は、算数に投入するエネルギーを増やします。だからできるようになっていく。できるようになった結果、「私は算数ができるんだ」と思います。思った結果、また投入するエネルギーを増やします。そうやって、悪循環の反対の“良循環”になる。
悪循環もそうです。「私は算数が嫌いだ」と思ったら、どんどん嫌いになって、どんどん苦手になる。最初は、ちょっとしたことです。根拠なんてないんです。
子どもの生まれつきの素質というのは、まずそんなに変わらない。きょうだいは遺伝的には同じものを持っているから、そんなに変わらないはずですが、実際育っていくとすっかり違う。遺伝が性格を決めるのではない。
では、環境が決めるのか?まあ、かなり影響しますが、決めるのは「本人の思い込み」(主観)です。「私はこんな人だ」と決める。思い込む。それで方向がどんどん変わる。で、この人は、「私はおとなしい気の弱い、外では穏やかな性格だ」と思った結果、そうなったんです。もし違うことを思ったら違う人になったでしょう。違うことを思えば、違う人になれます。今まで30年なら30年、「自分はおとなしい子だと思ってきた。しかし違うんだ、私ってすごい活発な人なんだ」と何かのチャンスに思い込めば、そうなります。急にはなれないけれど、強く思い込んでしまえば、やがてそうなっていきます。
マインドコントロールという言葉を聞いたことがありませんか?強く望むとそれは必ず実現する。こと、自分に関しては絶対そうです。「私はこうだ」と強く信じれば絶対そうなります。自分と関係ないことについて信じて駄目ですね。「お日様は西から昇れ」とか強く願っても絶対そうなりません。だから何ができて何ができないはあるけれども、こと自分自身の性格だとか、自分自身の生き方ということに関しては、自分で決めたとおりになるんです。
「家庭の中では短気でわがままだと思った」というのも、そう思ったんですね。そう言うふうに決めたんです。家族以外の人と2人ペアになるときは、「私は穏やかでおとなしく気が弱い」という役割を演じよう。それから家族という名前のついた人と一緒にいるときは、「私は短気でわがまま」という役割を演じようと決めたんです。
□仮面劇を演じている
性格は英語では「パーソナリティ」ですね。ラジオでおしゃべりする人のことじゃないです。パーソナリティの語源の、“ペルソナ”というのは仮面のことです。ギリシア劇は、仮面劇です。日本の能も仮面を付けます。仮面を付ければ全然変わるでしょう。男の人が女の人の役もできるし、女の人が男の役もできるし、優しい役も、恐い役もできます。同じ役者さんでも雰囲気がガラッと変わります。性格というのを、西洋ではそういうふうに例えています。パーソナリティ、仮面性。「相手がこの人だから、私は今この役をするんで、この仮面を付けよう」と、自分で付けるのが性格なんです。
西洋には、もう1つ性格を表す「キャラクター」という言い方があります。これも役割という意味ですが、いつの間にか遺伝的に決まっている性格のことを言うようになって、パーソナリティとはちょっと意味が違います。普通、キャラクターは「性格」と訳し、パーソナリティは「個性」とか「人格」と訳します。だから、キャラクターはパーソナリティみたいに、ポンポンと入れ替える仮面という感じではない。
西洋の心理学では、パーソナリティというものは固定的でずっと存在するものだとは考えられなかったんです。その場合場合に、ポンポンポンと付け替える仮面にすぎないと思われてきた。この人もそうで、仮面をつけ替えてある役割を演じている。
で、その役は自分1人でやっているんじゃなくて、相手側の期待もあるんです。この家族の中で、短気でわがままをやっていると、家族が短気でわがままな人だと思ってつきあってくれるでしょう。こっちが、短気でわがままでない穏やかなおとなしい気の弱い人のふるまいをしても信じない。「あなた今日、熱があるんと違う?」と言って、コミュニケーションがうまくいかない。だから短気でわがままをやっているほうが、いつもの手順でしゃべれる。もし恐いお母さんが急に優しくなったら、子どもはパニックを起こす。どうしていいかわからないから。恐いお母さんというのは本当はイヤなんだけど、恐いお母さんなら、こっちがどうすればどうなるか、動きが完全に読める。そのお母さんが「SMILE(PASSAGEの前身)」なんかに参加して、付け焼き刃で急に優しくなったら、子どもとしてはまったく読めなくなる。悪いことでも読めるほうが、まだましです、何も読めないより。だから家族はすごくイヤがって、できるだけ元の形に戻そうとするでしょう。
□アドラー宣言を
「短気でわがまま」と決めている人は、家族から短気でわがままと扱われて、短気でわがままでないふるまいをしたときに、家族は短気でわがままでいるように期待してくるので、つい短気でわがままという役割をまた引き受けてしまう。だから、結局グルグルとそこに戻って、性格は変わらない。家族と一緒にいるときにはね。外ではすぐ変わります。大事なことですね、この知識は。
僕たちが子どもとつきあうとき、あるいは夫婦間でつきあっていくときに、最初向こうがびっくりするということを知っておきましょう。アドラー心理学を知って、やり方を変えるときに、今までつきあってきた人たちが驚くだろう。驚きの程度は、こっちの変わり具合によるでしょうが。急にものすごく変わったりすると、離婚することだって起こりえないことではないです。
だから、最初に宣言しておいてください。「今から変わります」と。「アドラー心理学を勉強して、今までのやり方を変えます。最初のころは、どう変えていいかわからんから、とにかくいろんなことをやります。すごく失敗するかもしれませんが、びっくりしないでしばらく見ていてください。元の私に戻そうとする努力はやめてください。前のほうが良かったと言わないでください。とにかく途中は具合が悪いかもしれないけど、辛抱してください」とちゃんとお願いしておいてください。それくらい言っておいたほうがいい。そうしないと、元に引き戻されますから。
□知らないのは私だけ
そういうふうにこの人は育ってきたわけです。それで、外では他の人にあまり腹を立てないほうだと思ってきたんです。ところが、最近どうも腹を立てている、好きになれないでいる気がしてならないということですが、「私はみんなに腹を立てないんだぞ」と決めているからといって、腹を立てないわけにはいかないんですね。「私は穏やかな人で、めったに腹を立てないです」と自分で決めていることと、それから実際に腹を立てているということは、あまり関係ない。腹を立てないコミュニケーションの仕方、怒りという感情を使わないで、怒りが達成しようとしている目的を達成する方法、怒りじゃない方法で人とつきあうやり方を学ばない限り、怒りは自然に起こります。
ですから、自分が腹を立てない人だと思っていて、本当はずっと腹を立てているという人はたくさんいます。「あの人はいつもずっと怒っているわ」とまわりの人はみんな知っているんだけど、本人は、「私ってすごく穏やかな性格だなぁ」と思っている。無意識というのはそういうことです。無意識とは何かというと、まわりの人が全員知っていて、当人だけが知らないことのことです。
「人を好きになれないでいる気がしてならない」ということに気がついたというのは、偉大な第一歩です。本当の自分自身に気がつき始めた証拠だから、すごくいいことです。このことで落ち込まないこと。「私はみんなに腹を立てていて、ずっと1日中怒っているんだ」ということに気がついて、「なんて馬鹿な私」と思わないでね。それに気がついたら、そこから抜けられるから。
□まず自分にいたわりを
「自分がまず相手を好きになればいいというのは、できない。それはしたくないんだ」というのがわかりました。ところで、相手を好きになるためには、自分を好きでないと駄目なんです。「私は自分のことが大嫌いです。でも人は好きです」というのはありえない。僕たちは他人にひどいことを言います。僕なんか口が悪いから、すごくたくさん言います。ですが、距離の遠い人ほどあまり言いません。道で通りすがりのおじさんに、「あんた、ブサイクな顔をしていますね」と言うと、どんな目に遭うかわかりません。でも、例えば自分の子どもとか配偶者だと、それくらいのことは場合によっては言うかもしれない。距離が近くなればなるほど、相手の勇気をくじいて、傷つけるようなことをわりと平気で言っちゃうんです。
一番ひどいことを言われているのは誰か?それは自分自身です。自分に向かってはムチャクチャな言葉づかいをします。「なんて駄目な男なんだ、俺は!」ぐらいなことは結構頻繁に言っている。「なんて駄目な男なんだ、お前は!」と、他の人に向かっては滅多に言わない。他人に向かっては絶対言わないくらいひどい言葉を、自分に向かっては絶えずかけるので、かけられている自分の側は、本当に勇気がくじかれて駄目になっていく。そうやって自己嫌悪ということになります。
だから、一度何かショックを受けたときや自分が失敗したときとか、うまくいかなかったときに、自分が自分にかけている言葉をチェックしてください。それを全部、優しいいたわりの言葉に変えるんです。「あっ、なんて駄目な男なんだ、俺は!と思ってるな。これはやめよう」と。「僕はすごく努力した。一生懸命努力したから、まぁ失敗してもいいじゃないか」というふうに思うわけです。こうやって自分に向かってトレーニングをします。
同じ出来事に対して、できるだけ勇気づけの言葉を使うトレーニングをすると、他の人に向かっても使えるようになります。自分に向かってひどい言葉づかいをしている人は、他人がイヤなことをすると、自分に向かってかけているのと同じ言葉が頭にパッと思い浮かびます。「なんてイヤなやつだ、こいつは」。それを少し和らげて変えて言うだけなんです。そのままでは言えないから。それをやっている限り、基本的には相手が嫌いなんです。
□ボクは天才!
最初に、一番ひどい言葉づかいを思いつくというところから脱却して、勇気づけのメッセージを考える。そのために自分を相手に稽古する。これは誰にも害を及ぼしませんから。自分を勇気づけるとき、人を勇気づけるときと1つだけ違うポイントがあります。それはほめてもいいということ。メチャクチャほめるんです。「お前はエライ!お前は天才だ!お前のような自分を持てて俺は幸せだ」。自分と自分の間には縦関係ができない。でも、子どもに言っちゃいけない。子どもに、「お前はエライ!お前は頑張った」と言っちゃいけない。それは子どもを支配することになる。でも、自分には言ってもいい。
自分を勇気づけるのは、だからすごく簡単です。世の中でほめ言葉と言われていることをいっぱい1日中言って暮らす。「なーんて僕は賢いんだろう。天才じゃないだろうか」。2~3週間もやってごらん。すっかり自分が好きになってくるから。
思い込めばそうなる。自分に向かって「俺は天才だ」と言っているとそうなります。天才までいかなくても、「すごく優しい人間だ」ぐらいのことを思っていると、本当に優しい人間になる。そこへエネルギーを投入し始めるから。1日の中で、「あんないいことをした、こんないいこともした」と思うようになると、それが増えていく。僕たちが意識したものが増えていく。「あんな悪いことをした、あんないけないことをした」というのを意識すれば、それが増えていく。
反省は僕たちを変えない。われわれが「悪いことをしたなぁ、あれも良くなかった」といくらリストを書いても、実際またそれが起こるでしょう。いくら反省してもやっぱり同じ失敗をしてるでしょう。というのは、反省の仕方がまずいからです。反省するなら、「こうすればあれをしなくてすんだ」ということを反省する。その前に、「あれはうまくいっている」ということを反省する。「今日こんないいことをした、あれもうまくいった、あれもすごく難しかったけど成功した」というふうに、たっぷり反省する。こういうのを反省と言う。リフレックス、「思い出すこと」というのが、反省のもともとの意味です。鏡に映し出すということ。それで悪い部分については、「次はこうしよう」と思うこと。そうすると変わります。そうやって自分が変わるのと同じテクニックが相手に使えます。(回答・野田俊作先生)
Q
人間関係を良くするアドバイスをしていただけませんか?
A
□人間はお芝居をしている
アドラー心理学では、夫婦関係にしても親子関係にしても、できるだけ自然な関係を作ろうとしています。アドラー心理学を「テクニック」として勉強するだけでは結局うまくいかないんです。口先で勇気づけの言葉とか、お願い口調とか、たくさん勉強しても、相手を尊敬していなかったら、すぐに見破られますから。
人間というのは実はお芝居をしているんです。本当はそうではないのに、子ども時代からずっとあるお芝居をして、嘘を言って暮らしている。それをやめたい。子どもに対する愛情とか、あるいは配偶者に対する愛情とかいうものが、よくよく考えると、こっちの都合だったりする。
子どもが登校拒否して親が心配しているとします。「子どもがこんな状態になって、親が心配するのは当然でしょう」と言うけど、よくよく考えてみると親の体裁が悪いのね。近所の手前とか。あるいは、学校のクラスの生徒の成績が悪かったりすると、先生は生徒を叱って、「勉強しなくちゃいかん」と言うけど、あれは同僚教師や校長に対する見栄かもしれない。そのように、僕らはごまかして生きている。われわれが、これが愛情だと考え、自然にそう感じるんだと思っていることを、一度ちゃんと反省しておいたほうがいいように思う。もう1回本当に人間と人間とが、信頼し合って、尊敬し合って、愛し合うとしたら、どんなふうに相手に言うかを考えてみよう。
□尊敬とは
アドラー心理学では「愛情」とか「愛」とかいう言葉をまったく使わない。代わりに、「尊敬」と「信頼」と「目標の一致」と言います。なんでそんな言葉を使うかというと、「愛」という言葉はたくさん悪用されているからです。「これはあなたに対する愛情」だと言って、みんな残酷なことをしているから。でも、「尊敬」と言うとわかります。だから、まず自分の子どもを尊敬しているかどうか、自分の配偶者を尊敬しているかどうかチェックしないといけない。尊敬してなくて愛情を持っているわけがないですから。「愛しているわ」と平気で言える人でも、「尊敬していますか?」と聞かれたら、「ちょっとねえ」とごまかしてしまいます。その子が登校拒否をしていようが、非行をしていようが、神経症になっていようが、尊敬すべきだと思う。
尊敬するとはどういうことかというと、自分の一番尊敬する(大事な)人と、同じような態度で接することです。すごく尊敬する人物に、「あなた、そりゃいけませんよ。そんなことをしていると、ロクな大人になれませんよ」とは言わないでしょう。変だと思うようなことをしていても、それはきっと何か深い考えがあってやっているに違いないと思ったほうがいい。
これもアドラー心理学の基本的な考え方ですが、人間の行動にはすべて目的があります。無意味な行動というのはない。ある人があるとき神経症をやっているとしたら、その人は神経症をやる意味があるんです。神経症をすること、あるいは登校拒否をしたり、非行をしたり、あるいは大人なら浮気(不倫)をしたりすることが、その人が成長するために必要なんだということを、その人自身あるいは周囲の人が受け入れることができれば、本当に成長できます。それが悪いことだと思うとそこで止まってしまう。だから、この人生で僕ら自身に起こることは、全部成長していくために、生きていくために、必要なことだと思いましょう。きっと、問題を起こしている子どもには、深い深い本人すら意識していないような目的があるに違いないんです。だからそれを大事にしよう。
□信頼とは
それから、信頼というのは決して裏切られることのないものです。それに対して、信用というのはよく裏切られます。こちらが信用していて、相手がそれにうまく応えてくれないと、裏切られたように思ってしまう。信頼しているというのは、相手が何をしていようと、「それはあなたにとって本当に必要だと思ってやっているに違いないんだ」と思うことです。白紙の小切手を渡して、あなただったら馬鹿な使い方はしないだろうと思い、それで若干無茶な使い方をしても、これにはきっと深いわけがあってのことだと思う。そういう意味での信頼ができるようにしたいです。それと同じ感じを他の人にも持ちたいんです。少なくとも自分の家族に対しては持っていたい。「そんなことはできない。あの人は何をするかわからない」と思っていると、本当にそうなります。われわれの思いというのは実現するからね。「うちの亭主はちょっと油断すると、何をするかわからない」と奥さんが思っていると、ご主人はちょっと油断すると、本当に何をするかわからない人になってしまうんです。「うちの亭主は大丈夫」と思っていると、絶対大丈夫な人になります。
僕たちは、みんなが自分に何を期待しているか、敏感にわかるんです。人間は無意識的に他の人の期待に応えるんです。「うちの子どもは非行化するんじゃないかなあ、悪いことをするんじゃないかなあ」と親が心配していると、子どもは実際に非行化します。だって、「子どもが非行化するんじゃないかなあ」と心配するということは、この子は非行化するに違いないと思っているのと同じことですから。「うちの子はちょっと万引きぐらいするかもしれない。でも、根本的なところでは大丈夫だ」と思っていると、ちょっとぐらいするかもしれないけれど、それでおしまい。だから、白紙小切手が切れるくらいに家族を信頼しよう。
□目標の一致
目標の一致というのは、尊敬とか信頼とかができてからの話です。家族共同体とか、学校のクラス共同体とか、職場共同体というのは、個人個人が違う目的で生きているけれど、みんな一緒の部分がないと成り立たない。結局われわれは、最終的には、どういうことを成し遂げたいのか、ぜひ話し合う必要があると思います。人間関係がこじれるのは、目標が一致していないときです。必ずそうです。夫婦がこじれるのは、奥さんが描いている人生の目標と、ご主人が描いている人生の目標が違うからです。親子がこじれるのもそうです。だから、結局どうなりたいのかということを、やっぱりイメージする必要があります。
家族の目標として、私のお勧めは、“毎日平和に暮らせること”。育児の目標は、“子どもが親を見限って家から出て行くこと”。学校教育の目標は、“世の中で(なるべく)ひとりで生きていける力をつけること”。生活指導の先生に取り締まられなくても。そこのところがよくわかっていると、すごく楽です。
家族全体を考えてみると、はっきり目標がないですね。家族全体がどこにたどり着かなければならないかというと、お墓しかないんです。だから、家族の目標というのは、未来にあるんではないんです。毎日毎日にあるんです。今日1日をどうやって楽しく平和に暮らすかというのが問題なんです。そう考えていくと、育児にしても、親を見限ってひとりで暮らせるようになるためには、未来の遠い先の目標ではなくて、その瞬間瞬間にあるんです。今ここで、この子がひとりでできることはいったい何か。このことが未来にずっと続いていって、やがて本当に人に頼らなくなるんです。今ベタベタに干渉しておいて、きっと将来自立するだろう……そんなことはない。
学校の教育もまったく同じで、イヤがる子どもに無理やり教えていたら、その子は将来自立できるか?できないでしょうね。
目標というのは、未来にあるように見えて、実は今日現在にある。「今どうするか」だけが問題です。それが明日につながっていく。未来のことを考えると、「将来こんなふうにしよう」とか、「こんなことが起こったらどうしよう」とか、いろいろ用意をするようになる。すると、きっと今日現在を失うことになります。準備ばかりしていて忙しいから。
□「この子のために」という発想
子どもが、「ねえ、何かして遊んでよ」とか、うるさく言ってきます。ここで遊んでやったりすると甘やかすことになるとか、要求ばかり聞いていると悪い癖がつくとか、いろいろ考えます。これは「考えが“現在”にない」んです。
子どもが「遊んでよ」と言ってきて、「考えが現在にある」にはどうすればいいか。「自分は遊びたいか遊びたくないか」を考えるんです。簡単でしょう。今遊びたいか、遊びたくないか。子どものために遊んであげたり、遊んであげなかったりするんじゃなくて、自分が遊びたいか、遊びたくないかで動けば、それは正直です。でも、ここで遊んでやったほうがいいだろうとか、遊んでやらないほうがいいだろうとかというのは、初めから嘘なんです。それで起こることはすべて嘘です。そこには、本当に「生きている心の交流」は起こらないんです。
気持ちを通じ合わせるとか、気持ちがわかるということを世間でよく言うけれど、アドラー心理学ではあまり言わない。じゃあ、何と言うか。「相手の要求は何か」、「自分の要求は何か」、「その要求が違うときにどうふるまえばいいか」ということを言います。子どもが「遊んでよ」と言っているときに、子どもが「遊んでよ」と言っているのだということをまずはっきりとわかること。遊んでやったほうがいいか、遊んでやらないほうがいいかなどはわからない。とにかく、口ではっきりと「遊んでよ」と言っているんだから遊んでほしいんですよ。何にも言わないんだったら、別に要求がない。だから、素直に言葉に出されているものをまず何よりも信じたいです。そして、自分が本当はどうしたいのか、どうしてあげたいのかを優先的に考えたい。そうして初めて対等な人間関係になるんです。例えば、外出しようと思っているときに、子どもが「外に行かないで」と言うから、「それじゃあこの子のために行かないでおこう」というのは対等ではない。どっちが上か?子どもが上に見えて、実は親が上なんです。子どもが親を支配しているように思えるけれど、「この子は弱い子だから、私が守ってあげなければいけない」と親が思っているわけで、精神的に親が上です。これは、やっぱりまずい。
「すべてのトラブルは目標の不一致から起こる」と言いましたが、同じことですが角度を変えて言えば、「すべての不一致は人間関係が対等でないことから起こる」んです。0歳児だって、僕らとまったく対等な人間、仲間だと思ってください。もちろん、中学生・高校生だと当然そうです。そんなふうに考えたら、トラブルはいつも最小限度ですむ。横の人間関係ですから、すごくナチュラルでシンプルです。
だから、みなさんが日常やっていることのほうがよっぽど複雑怪奇です。「この子のために」という発想を、心の壁から取り外しさえすれば、とても楽に生きられるようになります。(回答・野田俊作先生)
Q
「悩むという仕事」をしている自分に気がつきます。どうしたらあれこれ悩むことをやめられるでしょうか?
A
やめればいい(笑)。私たちは悩むのが好きですね。「悩む」代わりに「困り」ましょう。悩まないで、「ああこれは困った」と思う。違いがわかりますか?
解決法を考えるときには、感情的にならないことです。いくつぐらい方法があるか冷静に理性的に考えてみる。1つも解決策がないとしても、それは感情的になっても解決しないです。
孔子聖人があるとき旅行をしていて、野原の真ん中でとうとう食べ物もなく、泊まる家もなく困ってしまった。すると弟子が、「君子(くんし)でも困りますか?」と聞いた。孔子は、「君子は初めから困っている」と答えた。君子はいつも追いつめられて困っている。ただ、悩まないです。クヨクヨしない。感情的にならない。「小人(しょうじん=徳の乏しい人)はみんな乱れる」と孔子はおっしゃる。「乱れる」仕事にエネルギーをつぎ込んで、「困る」ということをしっかりやらない。
だから、悩むのをやめて困ることです。困った結果、道がないときには、困るのもやめる。困ったって一緒だから。そのときは、天に任せます。
悩んでいるときには何を困っているかがわからない。どんな解決策があるか見えなくなる。でも、実は全部あるんです。どんな場合にも解決策は必ずあるんです。例えば、死ぬということ。死ぬとき、われわれはどうすればいいか?死ぬときは死ぬ。(浩→良寛様みたい)。でも、そのときでもまだわれわれは選べるんです。「イヤだイヤだ」と言いながら死ぬか、喜びながら死ぬかどっちかを選べる。どっちを選んでもOK。「イヤだ、死ぬのはイヤだ」と言って死んでみようと決めると、度胸が座る。そう思いませんか?それから、「死ぬというのはいったいどんなものなんだろう。初めての体験だから楽しみだ」と胸をワクワクさせて死ぬのも、やっぱりハッピーです。
だから、「選べるんだ」ということがわかっていて、自分で選べば問題は解決するんです。私たちは、感情的に動揺していると問題が解決するような迷信を持っているんです。怒っていたり、後悔していたり、焦っていたり、不安になっていたりすると、きっと何とかなるんじゃないかと思っている。だからすぐ悩んじゃう。
それから、相手が感情的になっていると、どうしたらいいと思いますか?まず、その人と「つきあうかつきあわないか」が選べます。つきあわないことも選べます。どうしてもつきあわなければいけない人もいます。そのときは、イヤイヤつきあうか喜んでつきあうかが選べます。徹底的にあからさまに、イヤな顔をしてつきあうことだってできます。自分で選べばね。だって、それは相手にイヤな顔をさせられているんじゃなくて、私がイヤな顔をしているんですから。このことさえわかっていれば、人間は悩まなくてもすむんです。相手が感情を使うのは相手の勝手で、こっちはどうすることもできない。本当は「自分がどうしたいか」だけなんです。でも、僕たちは被害者だと思うのが好きなんです。相手にさせられていると思うのが好きなんです。自分の責任でなくなるからね。(回答・野田俊作先生)
Q
私は今、障害児学級の担任をしているんですが、できるだけ健常児に近づこうという発想で行動療法的なやり方をするのが一般的で、どうかすると訓練することになり、調教師が動物に芸を仕込むような感じになります。私は何か間違っているような感じがするのです。彼らもある時期が来て彼らの発達段階が来たらおのずとできるようになることを、無理に今しなくてもいいような気がするんです。
A
それはノーです。それは間違っています。あるトレーニングをしたらできるようになるということがわかっていて、それをしないで自然の発達に任せようというのは犯罪です。それは健常の子でもそうなんです。あることを教えてあげればできるようになるのに、みすみすそれがわかっていて教えてあげないというのは、教育の責任を果たしていないんです。
大事なポイントは、達成できる“過程”を子どもが楽しめばいいんです。そして達成できたことを子どもが喜べるようにしてあげる。工夫はここにあります。僕たちが子どもにあることを教えて、子どもがそれをできるようになって、こっちだけが喜んではいけない。子どもと一緒に喜び合えるような状況を作れば、子どもはそのトレーニングをすることが楽しくなります。良い行動療法家はすごく楽しい治療をします。
大阪にSさんという重度自閉症治療の天才がいますが、彼の治療はとても楽しいんです。行動療法にも下手な行動療法家と上手な行動療法家がいます。いつでもそうです。行動療法がいいとか悪いとかというのではなくて、下手な行動療法は駄目だし、いい行動療法はいいということ。大阪には行動療法の名人が多いです。彼らは見事で、ビデオを見ていても行動療法をやっているという気がしないんです。ほとんど普通の遊びのように思えるんだけど、子どもがどんどん変わっていく。感動しますよ。下手な行動療法家がやると、いかにも行動療法らしく行動療法をします。
障害者の人には、まだ子どもの時代に、僕たちの言うところの“生活力”をできるだけ身につけさせてあげたいですね。自分で着替えができるとか、身の回りの世話がきちんとできるようになるとか、それから友だちとあまり暴力的でなく関係を持てることとかいうのは、とても大事なことです。算数ができるようになることよりも、まず生活力が優先です。身辺自立が優先です。それを曲芸というふうに考えるのではなくて、生活力に結びついたことを教えていると考えたほうがいいですね。(回答・野田俊作先生)
Q
先生からお聞きした「幸福の条件」の1つに、自分が社会に貢献しているという感じを持つことというのがありますが、障害者であればそこの部分が難しいような気がするのですが。
A
だから、障害者の人も、「障害者として人の役に立つ」という工夫を自分でしなければならないんです。われわれ健常者も、健常者として人の役に立つ工夫を自分でしなければならないでしょう。役に立つ盲人とか、役に立つ聾唖者とか、役に立つ身体障害者とかにならなくてはいけないんです。だから、工夫しなければならない。重度の人でもそうなんです。
で、例えば極端な話、植物人間はどうしたらいいか。僕たちは、あまり植物人間の人たちの心配はしてあげなくてもいいんです。冷たいようですが。というのは、彼らは、「どうしたら幸福になれますか?」と聞いていないから。聞かれないことには答えなくてもいいです。もしも、「あの人たちも幸福にならないといけない」と思うとしたら、それは同情しているんです。「重度障害でものすごい発達遅滞(知恵遅れ)とか、植物人間に近い状態とかという人たちが幸福でいてほしい」と思ったりするとすれば、それは僕たちがその人たちに同情しているんです。同情しているということは、こっちが上で向こうが下なんで、縦の関係です。だから、そういう問題は別にしましょう。
盲目の人や、聾唖の人とかが、「どうやったら幸せになるでしょうか?」と、もし僕たちに聞いてきたら、これは答えられます。「あなたのその障害を抱えながら、他の人たちの役に立つ工夫をしてください」と言えます。その人たちが僕らに幸せについて問わないのに、僕らがその人たちの幸せについて考えるのは、とても傲慢だと思います。僕たちが、その人と仲良くつきあうというのは、これは僕たちの側の課題です。僕たちはちゃんと彼らとも仲良くつきあうべきだと思う。でも、彼らを幸せにしてあげようという態度自体はとても傲慢だと思います。(回答・野田俊作先生)