Q
担任しているクラス、小学校5年生にいる気になる子2人についてお願いします。発達の遅れのある男の子、学習の理解がかなり難しい。算数だけ別の先生に見てもらっている。小学校入学直前に癲癇発作を起こして以来、薬を飲んでいるので発作はない。授業中にその子はよく寝ます。(ああ、そうでしょうね)。勉強がわからなくなると寝るそうで、休み時間は元気に遊んでします。薬のせいなのだと思うのですが、起こしたほうがよいのでしょうか?親は起こしてほしいと言われます。でも起こしてもどうしても起きない状況です。起きているときは感情が高ぶって妙にハイな状況です。繰り返し何度も同じ歌を歌う。椅子の上に乗って喜ぶ。友だち関係もクラスの中で浮いてしまっています。身の回りもグジャグジャ。料理するのが遅いので気になり、私自身いけないとは思いながら、イライラしたり怒ったりしてしまいます。私はこの子をどう理解しどう接していけばよいのでしょうか?とりあえずその子とできるだけ話をするように心がけています。
もう1人は、冷たい水が嫌いなので水泳の嫌いな男の子です。今までの様子は、プールサイドにしがみついてほとんど水泳に参加できなかったらしい。母親の話では年々少しずつ進歩してきていると言われるが、また学校に行きたくないという理由でときどき休むので、水泳の時期はこれも心配です。水泳の授業のときこの子をどうしたらいいのでしょうか?何か良いアドバイスをください。お母さんとても心配しています。
A
癲癇の子は気の毒だけど、一生癲癇を持って暮らすわけだ、これから。一生薬を飲んでお医者さんとの縁が切れずに暮らし、ある種の職業には就けないし、車の運転なんかもひょっとしたら危ないかもしれないし、いろいろ制限があるわけですよ。それから性格的な障害もあるみたいだから、まあ障害者手帳を持って障害者として暮らすことになるんでしょう。障害者を教育するときの目標って何なのかというと、例えば算数ができてもあまりしょうがないわけです。一番大事なことは、まわりの人たちから愛される性格に育ってほしい。人に助けてもらって暮らさなきゃいけないから、嫌われちゃうと凄い暮らしにくくなるから、担任の先生もそこをはっきっり意識したほうがいいじゃないでしょうか。学校でその子に教えるのは、どうやったら友だちに好かれてみんなに助けてもらえる人になるかどうか、そっちの方向で少し考えたらどうかな?
水泳も強制すると余計イヤになるから、いっぺんこのことについて子どもとゆっくり話し合ってみたほうがいいと思う。こっちが絶対何が何でも水泳させようというんじゃなくて、どのへんまでだったら参加できるのか、何だったらやりたいのか、そのへんをちょっと柔軟な姿勢で話ができるといいと思うんですけど、どうですか?
Q
テスト中にカンニングする子がいます。1人は机の中のノートを見ている。もう1人は早くできた子にこっそり見せてもらって直している。明るいカンニング対処を教えてください。
A
明るいも暗いもないので、これは犯罪なんですよ、学校ではね。犯罪というのは、われわれ先進文明国では、「刑事訴訟法」と「刑法」があって、「刑事訴訟法」と「刑法」に則って国では処罰されます。学校でもそうなんで、クールになったほうがいいと思います。校則に「犯罪をした者は怒鳴りつけて2,3発しばけ」と書いてあれば、そうすればいいが、たいていそう書いてない。「その科目零点にする」とか場合によっては「全科目零点にする」とか書いてあるから、そう書いてあるならクールにそうするのが当たり前です。「カンニングなさいまして、うちの校則でその科目は零点ですからあなたは零点ですよ」と。「刑事訴訟法」とか「刑法」とかいう法律は、ほんとに現代の国家の誇りとしなければいけないもので、江戸時代とか鎌倉時代の法律と一番違う部分だと思うんです。というのは、国民の権利を縛っているのではなくて、国家の権利を縛っているんです。つまり、法律に書いてない刑罰を与えてはいけない。例えば、ハイジャックの法律がなかった時代にハイジャックがあると、ハイジャックに対する刑罰が軽いんです。そのときは重い刑罰をあげようとしてもできない。国が恣(ほしいまま)に国民に重たい刑罰をあげるということを禁止しているですから、例えば拷問の禁止なんかを書いてあるのは、拷問を国の側の権利として使ってはいけないということを書いてあるわけ。学校の法律(校則)も本当は学校の側を縛っているんだと思う。子どもたちの権利を最大限に保障するために、ある程度子どもの権利を制限しないといけないけど、学校は横暴だからそれ以上に子どもの権利をもっとたくさん制限したくなるので、そんなことをしてはいけませんよという意味であるんだと思う。カンニングしたときに、怒鳴るとか殴るとかしてはいけません。ただ「その科目を零点にしなさい」と書いてあるんですよ、たいてい。だからそうしてください。それが民主主義ということだから。
Q
例えば団体行動をしているとき「私は○○」と、団体行動と違うことをしたいということは、社会と調和して暮らすことと外れているんでしょうか?
A
どうなんでしょうかねえ。みんなが許してくれればいいんですけどねえ。ものによってわからないけど、例えばお昼を食べに行ってみんながカレー食べたいと言っているのに、「私カレーいやや」と言ってみんなに迷惑をかけないことがないとは言えないんです。迷惑かけないこともある。だからわからない、時と場合で。
Q
4月から高校に通っているんですけど、通学するとき歩いていて、顔の表情をすれ違う人が変に思っているんじゃないか、階段を上るときの上り方とか他にもたくさんあるのですが、凄く気になります。これをなくすのは無理だとわかります。(ほうほう。良いことに気がつかれました)。けれどこんなことを感じていていいのかとか、凄くイヤになったりするときがあります。このことについて先生のお考えを聞きたいです。
A
私の考えは参考にならないわ。馬鹿なことばっかり言うから。だから、絶対、人が変に思えるような歩き方をしてみる。そうすると心が「ああ大丈夫だ」と思って、「普通の歩き方くらい大したことないわ」と思えるんじゃないか。だいたい僕らが一番恐れていけないのは、願っていけないことは、自然にふるまうとか自然な表情をするとか自然に歩くことなんかです。そんなん自然なんだから、努力したら不自然なんですよ。だから自然になる努力というのはないんです。それだったら不自然になるほうだったら努力できるから、不自然になってからそれをパッと弛めたら自然でしょうが。だから思い切り変な顔をしてみるとか、もっと変な歩き方をしてみてやめると自然にならないか?ならないかなあ。悩んでいけないことを悩んでいると思うな、これは。みんな歩き方って変ですよ、本人は知らないけど。嘘だと思ったら、自分の歩いているところやしゃべっているところをビデオに撮ってごらん。「えー!なんでこんなん。違う」とみんな言う。僕はさんざん撮られたから馴れたけど。