Q
成人して結婚、3人の親となった中間子。親に心配をかけます。仕事のこと子育てのこと、別居して離れているので助けてやりたいができづらいです。来たときにすぐ話を聞いたりしていますがどうしたらいいかわかりません。
A
えー、どこかへカウンセリングを受けに行く。新大阪でも高知でも。1時間ゆっくり考えてみる。カウンセリング受けても良いアイディアないんです。なんでないかというと、カウンセラーはあなたの生活を知らないから。カウンセリング受けるとしゃべりたいんです。しゃべるとしゃべっているうちに自分で気がつくんです。「あ、そうか。こうすればいい」と。うまくしゃべれるように援助するのがカウンセラーです。問題の解決に向かうように質問を組み立てるとか。極端に縮めて言うと、「で、あなたにできそうなことはありますか?」と聞けばいい、最後に。その前に、「あなた自身のパーソナルストレングスね、あなたの長所とか得意技とかそういうのありますか」と聞けばいい。あるいは、「子どもさんとか夫さんとか親とかの良い点とかこれからもっと延びてほしい点がありますか?」と聞けばいい。それを聞いてから「あなたに何ができますか」と聞く。人間の考えを僕らがどう捉えるかというのはまだ決まってない。みんないろんなことを言っているんですが、僕は、口に出してしゃべったことが初めて考えになっていると思っている。頭の中でモヤモヤ考えているのは、モヤモヤ考えているのを仮にそのままで聞いたら、ほとんど文章にもなっていなくて論理にもなっていなくて、大体堂々巡りだったり千切れ千切れだったりします。人にわかるようにしたとき初めて自分でもわかります。人にわかるように説明する前は自分にもわかっていない。だからカウンセリングするんです。カウンセリングというのは、相手が自分のことを理解するように、その理解にもとづいて次の段階をどうすればいいか自分で計画できるように援助する。だからカウンセリングを受けてみてください。助言は大したことをもらえない。カウンセリングというのは、助言をもらいに行く場所ではない。自分の考えをまとめに行く場所です。新しい考えが出てきます。
Q
先生のお話をうかがっていると、「刑法」の責任論を思い出します。統合失調症の人や未成年者は刑を減免されますが、責任を負わせられない人というのはいるのでしょうか?
A
心理学は刑法の責任論に反対なんです。僕、論文書いたことがあるんですけど、心理学にとっては全員がその範囲内で責任を負えているわけで、別に統合失調症だからとか認知症だからといって刑を減免する理由はあまりないと思う。刑法が心理学を採用しないのはOKなんです。僕らが刑を決めるわけではないもの。刑法には刑法のロジックがあって、基本前提があって、1つは犯罪者に対して更生の援助をしたい。刑務所とかへ入れて、職業訓練をして、将来犯罪を犯さないように生きていけるようにしていくという援助をしたいというのが1つある。もう1つは応報刑で、懲罰を与えることによって、被害者や社会の納得を得たい。犯罪者にあんまりニコニコした待遇を与えてはいけない。拘置所や刑務所は夏暑く冬寒いようにとか、ご飯はなるべくおいしくないようにとか、つらい目に遭ってほしいんです。つらい目に遭うことが教育的だとは思わないけれど、社会に対して、つらい目に遭わせていますよということで、被害者に満足感があるでしょう。世の中でよく言うのは「刑罰を厳しくすれば犯罪は減るだろう」と。あれは統計的にはほとんど価値はないと心理学者はそう思っているし、教育法に関係する人たちもよく知っている。少年法を厳しくしたからといって、少年犯罪は減らない。そんなことで減るような人は初めからしてないわ。やるヤツはどんなふうに法律が変わってもやるわ。抑止効果というのも社会が求めているんです。社会がもっと刑罰を厳しくしてくださいと言うので、じゃあしましょうかという一種の社会の懲罰に対する満足感としてはやります。中国なんか「公開銃殺刑」ってありますもの。中国と日本とどっちが犯罪が多いかというと、向こうのほうが多いもんね。犯罪統計はきっちりないけど、中国の裏情報系のインターネットサイトがいっぱいあるんです。あんなところへどこかから情報が漏れ出てきているのを見ていると、最近の中国はかなり犯罪が多いんです。刑罰は無茶苦茶厳しい。でもあまり効果はないですね。本人の社会的更生半分、1つは社会に対する「罪人を罰しているよ」という満足半分でやっていて、これはどっちにしても僕らとロジックが違うんです。われわれは援助を求めてきた人と目標の一致をして協力するという枠組みの中で心理学をやっている。こっちで言っていることを向こうの、援助を全然求めてない犯罪者に対して懲罰を与えるという場所へ持っていくのは無理なんです。責任というのはそういう前提なしに中空にあるわけじゃなくて、刑法という文脈の中で責任というものがあり、心理療法という文脈の中で責任というものがあり、親子関係という文脈の中で責任というものがあるから、一般論として論じられない。だから心理学としては、統合失調症者や認知症のばあちゃんに責任能力はありますかというと、あります。ありますと思わないと治療できない。「この人たちは心神耗弱状態で私が何を言っても自分で判断できないんです」と思ったら、治療そのものが成り立たない。認知症のおばあちゃんに対しても統合失調症の患者さんに対しても、心理的に援助できる部分はしようと思っているから、その人たちの責任能力を認めないとしょうがない。
Q
母が父の悪口を言う(うちの母も言うなあ)。職場の同僚が人事の不平をこぼしたり人間関係の悩みを訴える。それらの話を聞いているけど暗い気持ちになってしまう。アドラー心理学は、自分が変わることしかできないのならば、最良の選択は小細工をして相手を操作するのではなく、聞き流すことでしょうか。それともあまり意見しないことでしょうか。
A
私なんて、人の愚痴を聞くことを商売にしています。全然暗い気持ちにならないんですよ。だって、その人にしてあげられるのはまずその人の話を聞くことだと思うし、こちらの問いかけの具合によってだんだん話が変わるというのを、1つの実感として持っている。相手がどんな人でどんな話をするかは私によって決められている。だから、私の母が「お父さんは家族のことなんか考えないで、好きなことばっかりしているよね」と言ったとします。確かにそうけど、今までずっと何十年も一緒に暮らしてきてね、そのようでない時もあるのではないか。僕から見ていて、「これいい所よねというとこともあるよね」と言うと、「それはないこともない。家庭人としてはうんざりするけど、職業人としては立派かもしれない。仕事は確かに熱心にするね」「熱心にするおかげでいい暮らしができるね」「まあいい暮らしができて幸せなのかもね」とかなっていくと、ちょっとポジティブになっていくかもしれない、話としては。だいぶ時間はかかるかもしれないけど。話をしながら、私も片棒を担いでいるんだと、いっぺんに話をガチャーンとひっくり返すわけにはいかないけど、小さな変化を、聞き終わって次に言うひとことで小さい変化を良いほうか悪いほうかへ起こせるといつも思う。別に母親を変える気はないけど、話を変えたい。母親は全然ライフスタイルは変わらないけど、母親の暗い面でなく明るい面を刺激するような質問ってないかと考えながらやっていると、その積み重ねが良い循環に変わるかもしれないと思う。一応これは作戦だから、今日の話をあとでノートに書いておこうと思う。母親にこう言ったのはよかった、こう言ったのは悪かったと、パセージの課題シートみたいに。それを1週間くらいしっかり学ぶと、「これしたら次こうなる」というのが見えてくるでしょう。そうしたらうちの中で暗い話を聞かなくていいし、母親のほうも暗い話で幸せになるわけじゃないと思う。「お父さん、好きなことばっかりしてきてけど体は元気だったし、元気なのは良かった」と言うようになるかもしれない。だから相手を別に操作しようとは思わないけど、コミュニケーションは操作できると思う。コミュニケーションは僕にとっても幸せだけど、相手にとっても幸せだと思う。その意味ではできることはいつもあると思います。
Q
軍隊では目標の一致がとれたときは縦関係ではないことは理解できました。夫婦間でも何かありますか?親子関係において目標の一致は難しいと思うのですが、横関係でありながら親として伝えるべきこと伝えたいことについて、もう少し聞かせてください。
A
例えば、お勉強について子どもと話したいんですよ。「あなたは結局どうしたいの?」。大体話はここから始まります。僕はよく「日本の親」と、こう言うんです。われわれは「日本の子」を育てるんです。「日本人の大人に君はもうすぐなるわけで」、この国の中でどういう役割を担いたいんですか?」と、こういう切り出し方をする。この切り出し方そのものがかなりテクニカルで、すでにある方向を決めてしまっている。国のため人のために役に立つ人間にならないといけないという前提で話をしている。これは何かというと、「あなたの好きなように生きなさい」とか「あなたの趣味に生きなさい」ということはまったく初めから話にならないということを言っている。「この国の中でこの国を生き延びさせるために、円滑に運営するために、あなたは何をするのか?」とまあ聞くわけです。こう聞くと、子どもは何のことやらわからないから、「大きくなったら日本人としてどんなことをしたいですか?」と言う。そうすると、「医者になる」とか「エンジニアになるとか」。とても結構。「そのエンジニアになるとしたら、どんなコースがあるか知ってますか?」と聞く。大体知らない。みなそんなふうにものを考えてないから。まあ、今の制度の中では、エンジニアになるには工業高校という手が1つある。工業高専という手もある。大学の工学部という手もある。どの学校を出たかでもって、将来の企業の中での位置が大体決まる。大学の工学部の大学院修士課程とか博士課程を出ていると、大体指導的なエンジニアになって、たくさんの人たちを指導しながらチームのボスになっている。工業高校を出ていると、あまり責任を取らなくていい代わりに、「これやってね、あれやってね」「ハイハイ」と言って使われる。「あなたの一番いいのを取ってもらえばいいよ」と言うと、子どもはしばらく考えます。大体の子どもは野心が大きいから大学へ行くことになる。あまりディスカレッジしてなければ。大学院のできたら博士課程まで行こうよということになれば、まあ大学へ行かないといけない。工学部というと理系ですね。そのまま大学院までつながっている工学部はあまりたくさんない。文学部とかこのごろ流行の国際関係学部とか人間科学部というとどこにであるけど、工学部ではというとわりと少ない。工学部へ行くためには高校へいかないといけない。高校も選択範囲が狭まる。理系の工学部へ行きますという線で高校を選ばないといけない。「ところで君は中学1年生です。毎日どうすればいいでしょうか?」「勉強せんといかん」「勉強するについて、親にできることはあるか?」「しばらく自分で勉強してみるわ」。3か月くらいして一向勉強しているふうでない。テレビ観たりして。それだと、もう1回話をします。「この前、工学部へ行くことになってとてもいいことだと思うけど、目標に向かって努力できていると思いますか?」「努力足りないと思いますね」「どうやったら努力できる?1人の力でできるか、塾へ行くとか、家庭教師をつけるとか、親が毎日うるさく言うとか、何かできることがありますか?」「塾行ってみようか」。「塾行くについてはお金を払わないといけない。ただではない。もし大学院へ行っていただくと、計算上は塾の費用がこれだけとしまして、高校がこれだけで、大体これだけです。だから君に対する投資が350万円です。これから6年間。その350万円についてはどうしてもらえますか?」。大体、働いて返すと言う。先行投資です。あとで回収できるという見込みがないと、親としてはあまり投資したくない。全然見込みのない下がる株は買いたくないでしょう。教育というのは完全に投資なんです、親の立場からすると。僕たちが歳取ったら働けなくなります。今この国は、はっきり社会主義国家なんですよ。所得格差是正ということを戦後ずっと言い続けてきました。自民党も野党も言い続けてきて、極端な格差是正をやったので、超貧乏人と超金持ちの所得格差が100倍ない。アメリカだと1万倍くらいある。だからこの国は結局貧乏人の国なんです。僕たちの老後の保障もほとんどない。年金だけでリッチに暮らせるほどの年金をもらえる人はいない。子どもが僕を養ってくれるのは計算に入れておかないといけない。働ける限り働きたいと思うけれど、働けなくなる時が来る。子どもに養ってもらわないといけない。そのために僕らは投資をしている。おばあちゃんになってもおじいちゃんになっても、ちょっとくらい贅沢したいじゃない。毎日たくあんと塩昆布で茶漬けというのもイヤなんで。もうちょっと何か食べたい。どうやったら食べられるかというと、今350万円払うか払わないかです。これは年金の積み立てなんです。ここは子どもに自覚してもらいたい。親は子どもに当然金を払うべきなんかじゃないんです。子どもの人生計画に僕らが賛成して投資するので、彼が工業高校を出て使いっ走りになるのはかまわないんです。投資は安いけど回収も安いから、もうちょっと回収できるところへ行ってくれたら嬉しい。だから子どもを子ども扱いしなきゃいい。子どもをちゃんと僕たちと同じ目を持って、尺度でものを計れる人として扱えば、大体10歳になれば、発達上で言いますと思春期に入るころには、完全に大人と同じように考えることができるので、僕らの話は通じます。「お年玉ちょうだい」と言ったらあげるけど、「ちょっとしたら返してね」と言う。これは投資なんです。
Q
最初から「自己」があるわけじゃなく、対話の中で行動を決めていくということだったと思うのですが、話し合いの中で行動を選んでいくことを「柔らかい決定論」と言うのでしょうか?
A
あのね、「柔らかい決定論」というのはライフスタイルを使ったり使わなかったりすることなんですよ。さっきの「対人関係の輪っか」の中での話は、ずーっとライフスタイルを使っているんですよ。決心して今ライフスタイルと違うことをしようなんて思ってないんです。しかもある夫婦は不幸になり、ある夫婦は幸福になるんです。そこで僕たちが助言して、いつも「何してんのよ、あなた!」と言うのをやめて、「もう少しお話してもらえませんか?」と言うじゃない。で、「もうちょっとお話してくれる?」と言ったときに柔らかい決定論が使われているんです。その瞬間ね。で、柔らかい決定論を使わなくても、個人のあり方というのが絶えず環境との相互作用の中で変わっていく。しかもその個人をその個人は自分だと思う。例えば、イライラしている人はずっとイライラしているんです。家でもイライラしているし職場でもイライラしている。それが自分だと思っている。私ってイライラする人間だと思っている。あんまりイライラするので、旅に出ようと思います。旅に出て三重県の沖、船に乗って三島由紀夫の小説「潮騒」の舞台になった神島という島がありまして、民宿へ泊まって夕方何もすることがないので浜辺へ出ていくと、おじいちゃんおばあちゃんが集まって夕日を見ながら、みんなでお話しているんです。神島のおじいちゃんおばあちゃんはよくしゃべる。「あんたどこから来たの?まあお入りよ」と言われて、お菓子食べながら何やかんやと話をしていると心がスッと穏やかになって、いつもの家庭といつもの職場の自分ってあれウソなんだと、自分はほんとはこんなに穏やかで心豊かな人間なんだ。いいなあと、3日間くらいここで暮らして退屈になって、休みが終わって職場へ帰りまして、奥さんの顔を見てしばらく心豊かなんですけど、「神島でこんなことあってね」と言うと、「あんたそんなことよりうちの子どもがちっとも勉強しないのよ」と言われて、だんだんイライラしてきて、職場へ行ってもしばらく心豊かだったのに、課長が「ここんとこ業績が上がっていない」とか何とか言い、だんだんイライラしてきて、神島のときの俺ってウソなんだと、イライラが本当なんだとこう思いますが、どっちが本当なんでしょう。どっちも本当なんです。ライフスタイルの別の側面が出てきている。ペルソナと言うんですけど、人間ってたくさんの顔を持っているんです。ライフスタイルは1個しかないんですけど、コミュニケーションの中で違う私が作られるわけ。作られるけどライフスタイルは変わってないんです。これだけだと柔らかい決定論はないんです。固く決定されているから。ここから出られるのは柔らかい決定論があるから出られるんです。