子曰く、苟(いや)しくも仁に志させば、悪しきこと無き也(なり)。
先生が言われた。「もし人が少しでも仁を行う意志を持つならば、他人から憎まれるはずはない」。
※浩→「苟」の読み方に2説あるそうで、朱子は「まことに」と読み、荻生徂徠は「いやしくも」と読むと、吉川幸次郎先生の解説にありました。吉川先生は徂徠の説です。
孟子は、「自ら反(かえり)みて縮(なお)くんば、千万人と雖も、吾往かん」と書いています。自分の心を振り返ってみたときに自分が正しければ、たとえ相手が千万人であっても私は敢然と進んでこれに当ろう」の心意気、すなわち「浩然の気」で、この「浩」が私の名前の由来です。「浩然の気」はアドラー心理学では「勇気」でしょう。
現代社会は不条理で「善因必ずしも善果をもたらさず」のようです。『旧約聖書』のヨブのような、いわれのない苦難・災難が続いたりします。実はいわれはあります。神がヨブに試練を与えたのです。はじめヨブは自らの潔白を主張し続けます。ヨブの悲惨な姿に失望して妻が去り、さらに信頼していた友人たちがヨブにこれほどの災難が来るのはきっと隠れて罪を犯していたに違いないと考えて去っていきます。絶望のどん底でついにヨブは神と対決して徹底的に打ちのめされます。そうして真の信仰に至るというストーリーですから。
世の中がどんどん乱れて、純粋に人間の善意を信じることが困難になりました。アドラーはニーチェの「永劫回帰」や「運命愛」の影響を大きく受けていますから、もっと深くアドラーを読み込めば、ヒントが見つかるのかもしれないですが、世の中の大きな流れをどうやって食い止めたらいいのでしょう。カミュの「不条理の哲学」の出番でしょうか。『異邦人』はあまりにも有名ですが、新潮文庫に「カリギュラ・誤解」という一冊があって、これも私の大好きな一冊です。『異邦人』をふり返ってみましょうか。
主人公ムルソーは、母の死の翌日海水浴に行き、女と関係を結び、映画を見て笑い転げ、友人の女出入りに関係して人をさつ害し、動機を「太陽のせいだ」と答える。判決は死刑であったが、自分は幸福であると確信し、処刑の日に大勢の見物人が憎悪の叫びをあげて迎えてくれることだけを望む。
刑務所に入って、はじめは夜も眠れず、昼間は全然眠れなかった。だんだんと、夜は眠りやすくなり、昼間でさえも眠るようになった。ここ数か月は、毎日16時間から18時間眠り、したがって残りは6時間となるが、食事や用便や思い出やチェコスロバキアの出来事の記事を古い新聞で読んで過ごした。藁布団とベッドの板との間に、実は、1枚の新聞を見つけたのだ。すっかり布に張りついて、黄色く、裏が透けていた。その紙は、頭のほうこそ欠けていたが、チェコスロバキアに起こったらしいある事件を載せていた。1人の男が金を儲けようと、チェコのある村を出立し、25年ののち、金持ちになって、妻と1人の子どもを引き連れ、戻って来た。その母親は妹とともに、故郷の村でホテルを営んでいた。この2人を驚かしてやろうと、男は妻子を別のホテルへ残し、1人で母の家に行ったが、男が入ってきても、母は息子だと見分けがつかない。男は冗談に一室借りようと思いつき、金を見せた。夜中に母と妹は男を槌で殴りころして、金を盗み、死体は河へ投げ込んだ。朝になって、男の妻が来て、それとは知らずに、旅行者の身元を明かした。母親は首を吊り、妹は井戸へ身を投げた。ムルソーはこの話を数千回も読んだ。一面、ありそうもない話だったが、他面、ごく当たり前の話でもあった。いずれにせよ、この旅行者はこうした報いを受ける値打ちがないわけでもない、からかうなんぞということは断じてすべきではない、と彼は思った。
主人公ムルソーは不道徳で無責任な人だろうか。違うようです。次のような解説があります。
「……母親の葬儀で涙を流さない人間は、すべてこの社会で死刑を宣告されるおそれがある、という意味は、お芝居をしないと、彼が暮らす社会では、異邦人として扱われるより他はないということである。ムルソーはなぜ演技をしなかったのか、それは彼が嘘をつくことを拒否したからだ。嘘をつくという意味は、無いことを言うだけでなく、あること以上のことを言ったり、感じる以上のことを言ったりすることだ。しかし、生活を混乱させないために、われわれは毎日、嘘をつく。ムルソーは外面から見たところと違って、生活を単純化させようとはしない。ムルソーは人間の屑ではない。彼は絶対と真理に対する情熱に燃え、影を残さぬ太陽を愛する人間である。彼が問題とする真理は、存在することと、感じることとの真理である。それはまだ否定的ではあるが、これなくしては、自己も世界も、征服することはできないだろう……。
ムルソーは、否定的で虚無的な人間に見える。しかし彼は1つの真理のために死ぬことを承諾したのだ。「人間とは無意味な存在であり、すべてが無償である」という命題は、到達点ではなくて出発点であることを知らなければならない。ムルソーはまさに、ある積極性を内に秘めた人間なのだ」。
うーん。「不条理の哲学」は20世紀の哲学でしたが、21世紀の今もそうなんでしょうか。東洋ではやはり「老荘」でしょうか。老子の逆説の処世法が有効なのかもしれません。あれは何しろ乱世を生き抜く智慧ですから。また読み返したくなりました。アドラーが第一次大戦の戦地から帰ってウイーンのホテルのカフェで「今世界が必要としているのは、新しい政府でも兵器でもない。それは共同体感覚だ」と言ってから100年になります。人類はほんとに進歩しているのでしょうか?
第36課 動作の結果を説明する「結果補語」
<スキット>
Wo3 yi3jing1 chi1bao3 le. Ke3shi4, wo3 hai2 xiang3 chi1...
我已经吃饱了。 可是,我还想吃...
もうお腹いっぱいです。でもまだ食べたいし……
Ha1 ha1 ha1, ni3 zhe4me xi3huan chi1 bao1zi a.
哈哈哈,你这么喜欢吃包子啊。
ハハハ、そんなに肉饅が好きなんだね。
Liu2 shi1fu, nin2 ke3yi3 jiao1 wo3 zuo4 bao1zi ma?
刘师傅,您可以教我做包子吗?
劉師匠、肉饅を作るのを教えていただけますか?
Zuo4 bao1zi yao4 xian1 xue2hui rou2 mian4. Lian4xi2 rou2 mian4 hen3 xin1ku3 a.
做包子要先学会揉面。练习肉面很辛苦啊。
肉饅作りにはまず生地作りができるようになる必要がある。生地をこねる練習が大変だぞ。
Wo3 bu2 pa4! Nin2 jiao1 wo3 ba!
我不怕!您叫我吧!
私は平気です!教えてください!
Ng, na4 hao3 ba.
嗯,那好吧。
うん、いいだろう。
<単語>
@yi3jing1 已经 = 「もう」「すでに」
@chi1bao3 吃饱 = 食べてお腹いっぱい
@ke3shi4 可是 = 「しかし」「でも」
@xi3huan 喜欢 ~ = ~するのが好き
@yao4 要~ = ~しなければならない
@xian1 先 = 「先に」
@xue2hui4 学会 = 学んだ結果できるようになる
@rou2 mian4 揉面 =小麦粉をこねる(生地作り)
@lian4xi2 练习 = 練習する
@pa4 怕 = こわがる
@na4 那 = 「じゃあ」「それでは」
<キーフレーズ>
Wo3 yi3jing1 chi1bao3 le.
我已经吃饱了。
もうお腹いっぱいです。
@chi1bao3 吃饱 = 食べてお腹いっぱいになった
※文型:「動詞+形容詞/ 動詞(結果補語)」
結果補語が動詞の例;chi1wan2 吃完 (食べ終わる)
結果補語が形容詞の例;Chi1hao3 le. 吃好了。(食べて満足した→「ごちそうさまでした」)
「了」を付けることが多い。
<聞き取り>
Ting1dong3 le me?
听懂了么?
聞いてわかりましたか?
Yi4dianr3 ye3 mei2 ting1dong3.
一点儿也没听懂。
少しもわかりませんでした。
<エクササイズ>
(お酒を)飲み終わりました。
Wo3 he1wan2 le.
我喝完了。
飲み干しました。
Wo3 he1guang1 le.
我喝光了。
「光」= 光る→全部なくなる
飲み過ぎました。
Wo3 he1duo1 le.
我和多了。
酔っ払いました。
Wo3 he1zui4 le.
我喝醉了。
私の中国語は、あなたは聞いてわかりますか?
Wo3 de Zhong1wen2, ni2 ting1dong3 le me?
我的中文,你听懂了么?
<ピンイン> 声調変化のおさらい
yi2xia4 一下 4声の前は2声に
yi4qi3 一起 3声の前は4声に
bu2yao4 不要 4声の前は2声に
Yi2 dun4 fan4 chi1 yi4 jin1 shui3jiaor3 hai2 bu2 gou4?
一顿饭吃一斤水饺儿还不够?
一度の食事に500グラムの水餃子を食べても足りないのですか?
子曰く、唯(ただ)仁者能(よ)く人を好(よみ)し、能く人を悪(にく)む。
先生が言われた。「仁者だけが、他人を愛し、他人を憎むことができる」。
※浩→人は感情によって他人を愛し憎むのであるが、孔子は、盲目的な好悪の感情を理性によって抑制するのではなく、感情が最も自由に発露すると、自然に節度を超えないと信じ、仁者にそれが可能であると考えたそうです。おや?感情を自由に発露というと、「カタルシス」かな?それだと、アドラー心理学の立場とは相容れないのですが、「節度を超えない」というところに注目します。
フロイトの説に、「イドあるところにエゴあらしめよ」というのがありますが、これは情動を理性で制御せよと言っているようです。アドラー心理学では、感情は目的のために使用されると考えます。感情はライフスタイル(信念)から出てきます。「競合的」でなくて「協力的」なライフスタイルであれば、陰性感情で人を操作することはないです。でも、ライフスタイルは幼少期から形成されているので、大人になってからの改善はかなり困難でしょう。不可能ではありませんが。
それよりも、愛も憎しみも「相手に関心があるからこそ」で、まったく「無関心」な相手には愛も憎しみも感じないでしょう。アドラーは感情(情動)を「結びつける感情」と「切り離す感情」と2分しました。相手に接近しようとする場合は「親愛の情」「喜び」とかコンジャンクティブな感情を使い、相手と離れたいときは「憎しみ」「嫌悪」とかディスジャンクティブな感情を使います。人間関係が協力的で個人が成熟したライフスタイルであれば、まず陰性感情を使う必要はないでしょう。「怒り」や「イライラ」や「憎しみ」で、人をどうこうしようとする必要はありませんから。「為政篇」にあった「七十にして心の欲するところにしたがいて矩(のり)を踰(こ)えず」という境地でしょうか。
<ジョブキソ22>
#テーマ
工場を案内してもらっていたら、外国人の同行者が飲食禁止の場所で食事を始めた。ランチまで待ってもらうには?
We are not supposed to eat here. Can you wait until lunch?
「ここでは食べないことになっていますよ。ランチまで待ってもらえますか?」
@ be not supposed to ~ = ~しないことになっています
@be supposed to ~ = ~することになっています
@ Could you ~としなかったのは「少し強く表現したいから」
#相手の応答
Oops, sorry! I started eating withou realizing! Only a few minutes until lunch, so I can wait.
おっと失礼。無意識に食べちゃった。ランチまで少しだし待てるよ。
子曰く、不仁者はもって久しく約に処(お)るべからず、もって長く楽しきに処るべからず。仁者は仁に安んじ、知者は仁を利とす。
先生が言われた。「仁の徳を体得していない人、つまり不仁者は、長期にわたって困難な生活を続けることはできないし、逆に安楽な生活を続けることもできないものだ。これに対して、仁を体得した人、つまり仁者は、仁の徳自体に落ち着いているし、知者は仁の徳を手段として用いているのだ。
※浩→「約」は「節約」という熟語があるように、「乏しい(窮乏の)生活のこと」。不仁者は貧乏な生活に耐えきれず、罪を犯すようになるし、安楽な生活に慣れて驕り高ぶるようになる。そのように不仁者は外界の支配を受けるが、仁者は仁を人生の最高の目的として、これに安住しているので、外界の影響など受けることがない。
知者は、仁を行えば自己にとって有利であるから、手段として仁を行う。知者ははたして境遇の影響から無関係に、仁を守れるかどうかは問題でしょう(←「世界の名著」の貝塚茂樹先生の解説から)。
知者と仁者はしばしば対比して述べられています。あとの章に出ます。例えば、「知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ。知者は動き、仁者は静かなり。知者は楽しみ、仁者は寿(いのちなが)し」(「雍也篇」)。要するに、「動」と「静」の二項対立のようです。組織で言うと、下っ端はこちょこちょ動き回っていて、上層部はどっしり構えているということに通じるのでしょうか。刑事物ドラマを見ていると、現場で刑事たちが捜査のために足を使って動き回ります。本庁では“お偉いさん”たちが、テーブルに着いて、マイクであれこれ現場に指示を出しています。『踊る大捜査線』では、現場の青島刑事が叫びます。「事件は現場で起こっている!」と。偉そうな女性監察官(真矢ミキさん熱演)が、「事件は会議室で起こっているのよ」と反論して、ちぐはぐな指示を出して、事件は迷路に入っていきました。考えさせられました。リーダーがアホだと組織は潰れます。別にうろちょろ動けという意味ではありません。東日本大震災で福島の原子力発電所がやられたときに、当時の総理大臣は自らまっさきに現場へ駆けつけました。あれはトップがうろちょろした好例です。現場へ行くのは、下役に任せて、「トップは会議室にいろよ」と言いたくなりました。野田先生はいち早く、そのことをおっしゃっていました。野田先生がお元気なころは、毎年夏のカウンセラー養成講座を見学してきました。そこでは必ず、アドラー心理学を「知っている」のと「わかっている」のと「(実践)できる」のとの違いを教えられました。自分がどれだけ「わかって」「実践」できているか、日々の自己点検を怠らないようにします。あるテレビ番組で、夜間中学を取り上げていました。そこには、日本へ避難してきた外国人も学んでいました。学校の方針は、「わかるまで」「できるまで」教えるということでした。日本中の学校が、生徒さんたちにがわかるまで、できるまで教えてくれるようだと、どんなに素敵なことでしょう。