子曰く、朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり。
先生が言われた。「その朝に真実の道を聞くことができたら、夕暮れに死んでも本望なのに」
※浩→短い言葉に、いつも温厚な調子とは似つかない激しい感情が込められているようです。古い注では「道」は真実の道という抽象的なものではなくて、現実に道徳的な社会が実現していることを指していました。その道徳的な理想社会は、孔子の一生のうちに実現することはなかろうという絶望に近い感情を表したと解釈しています。のちの朱子の注では、「道」は真理で、朝真理を知りえたら夕べに死んでもいいという、真理を求める積極的な意志を示していると言えます。春秋末の乱世を考えると、朱子のように、単に真理を求める気構えをあらわすだけでなく、生命が朝、夕をはかれない緊迫した社会では、切実な発言であったと貝塚茂樹先生は解説されます。
アドラー心理学ですと、さしずめ、「朝、この国に共同体感覚が実現していたら、その夕暮れに死んでも悔いはない」となるのでしょうが、これは実現不可能な夢のまた夢のようです。現実の世の中は、ますます共同体感覚から遠ざかっているようです。国内的にも国際的にも。
アドラーが第一次世界大戦の戦場から帰国してはじめてホテルのカフェに現われたとき、弟子の一人が、「何か新しい発見がありますか?」と聞きました。アドラーは、「世界が今必要としているのは、新しい政府でも新しい大砲でもない。それは共同体感覚だ」と言いました。1918年のことです。あれから今日までどうなったか。事態はどんどん悪化して、2022年にはロシアがウクライナへ侵攻しました。アドラー自身もロシア革命を見て失望しました。現代のわれもまたロシアの行為を見て失望しています。人類は愚かとしか言いようがないのでしょう。
『徒然草』第四十九段に──
老来(おいき)たりて、始めて道を行(ぎょう)ぜんと待つことなかれ。古き塚、多くはこれ少年の人なり。はからざるに病(やまい)を受けて、忽(たちま)ちにこの世を去らんとする時にこそ、始めて、過ぎぬる方のあやまれる事は知らるなれ。誤りといふは、他の事にあらず、速やかにすべき事を緩くし、緩くすべき事を急ぎて、過ぎにし事の悔しきなり。その時悔ゆるとも、かひあらんや。
人は、たゞ、無常の、身に迫りぬる事を心にひしとかけて、束の間も忘るまじきなり。さらば、などか、この世の濁りも薄く、仏道を勤むる心もまめやかならざらん。……
→現代訳:
老いがやって来て、その時に、はじめて仏道を修行しようと待っていてはならない。古い墓は、大部分は、年少で死んだ人のものなのである。このように、人はいつ死ぬかわからないのであるから、思いがけず、病気にかかって、にわかにこの世を去って死にゆく時になって、やっと、今まで過ぎ去ってしまった期間の間違っていたことが自覚されるものなのだ。その間違いというのは、ほかのことではない、速くしなくてはならないことをのんびりと後回しにし、いつやってもよいことを先に急いでやって、生涯を経過してしまったことであって、それが、死に際に後悔されるのである。しかし、その時になって後悔しても、何の効果があろうか。
人間というものは、ひたすら、無常、即ち死がわが身に近く迫ってしまっていることを心中にしっかりと保持して、わずかの間も忘れてはならないのである。こうした心掛けでいるならば、どうして、この現世に執着する邪念も薄くならないであろうか、また、仏道に精進努力する心持ちもまじめでないことがあろうか。……
私の知人で夭逝したのは、まず「兄」が十歳で病死しました。私は五歳でほとんど兄の記憶はありません。古びたアルバムの写真にその面影を偲びます。父は55歳で病死しました。大学卒業直後、同期で数学専攻の井本仁君が脳腫瘍で急死しました。高梁工業高で担任をした生徒が卒業後、交通事故で亡くなりました。藤井章史君と言います。彼の実家は石屋さんで、このクラスの卒業記念に「青春賛歌」と銘記した記念碑をそこで造っていただきました。備前高校では1年生で担任だった末石武士君が2年生のとき自さつしました。岡山工業では土木科(隣のクラス)金田照一君が交通事故死しました。職員仲間では、一時ともに校内でアドラー心理学を学んだデザイン科の田村剛章先生が病死され、また私に歌舞伎に開眼させてくださった細川公之先生が病死されました。親族では甥が47歳で急死しました。一方、わが母は87歳(数えでは88歳=米寿)で、菩提寺から「天寿」と称していただき、こちらは長寿グループです。私と妹はそれぞれ80歳を越えました。ありがたいことに長寿の側のようです。妹はいろいろ病気を乗り越えて、現在健在です。私のほうはまあ「一病息災」というところです。来年はまた運転免許の更新で、「認知機能検査」がありますが、これまでのように満点に近い得点は無理かもしれません。まあ何とかなるでしょう。まだ車がないと独り暮らしには不便ですから。更新します。知的好奇心は相変わらず旺盛ですから、あれこれ多彩な面に関心をいだいて、脳トレと、ジム通いで筋トレは怠りなく努めます
第34課 目的、提案の表現
<目的の表現>
#キーフレーズ
ここに何しに行かれますか?
여기 뭐 하러 가세요?
ここに何しに来ましたか?
여기 뭐 하러 왔어요?
#公式:目的「~(し)に」
・「語幹 + 러/으러」(パッチム型)
・パッチムㄹの場合はそのまま러を付ける。
通常あとに、가다, 오다が続く。
@する=히다 しに=하러
一緒に映画を見に行きます。
같이 영화를 보러 가요.
<提案の表現>
一緒に夕食を食べましょうか?
같이 저녁 먹을까요?
#公式:提案「~(し)ましょうか?」
・「語幹 + ㄹ까요?/을까요?」(パッチム型)
・パッチムㄹは「ㄹを取って + ㄹ까요?」
@食べる=먹다 食べましょうか?=먹을까요?
@座る=앉다 座りましょうか?=앉을까됴?
@会う=만나다 会いましょうか?=만날까요?
@撮る=찍다 撮りましょうか?=찍을까요?
@作る=만들다 作りましょうか?=만들까요?
@勉強する=공부하다 勉強しましょうか?=공부할까요?
<問題>
1,明日友だちが会いに来ます。
내일 친구가 만나러 와요.
2,遊園地に遊びに行きましょうか?
놀이공원에 놀러 갈까요?
<ワンポイント>
(買い物で)安くしてください。
ッサゲ ヘ ジュセヨ
싸게 해 주세요.
おまけをつけてください。
トムロ ト ジュセヨ
덤으로 더 주세요.
<発音> ㄴの添加
連続した単語をひとまとまりで発音する場合や合成語で起こる。
パッチムㄴ,ㅇ,ㅁのあとに이,야,여,요,유があるとそこへㄴが加わる。
どうされましかた?
ムスン ニリセヨ?
무슨 일이세요?
@頭痛薬=두통 약 [두통 냑]
@もちろんです=그럼요 [그럼뇨]
<フィナーレ>
歌を歌いに行きましょうか?
노래하러 갈까요?
はい、行きましょう。
네, 기요!
そのあと一緒に食事をしに行きましょうか?
그리고 같이 식사하러 길까요?
今度一緒にケーキを作りましょうか?
다음에 같이 케이크를 만들까요?
子曰く、民の過(あやま)つや、各(おのおの)その党においてす。過ちを観れば、ここに仁を知る。
先生が言われた。「人民の過ちは、それぞれの住んでいる里の風俗の影響によるものである。人民の過ちを見れば、仁徳の感化がどこまで進んでいるかがわかるであろう」。
※浩→従来の朱子の解釈では、「人の過ちはその人の類(たぐい)によっていろいろの形で現れる。君子(有徳の人)は人情の厚さに失するし、小人(徳のない人)は酷薄さに失する」となっていますが、『論語』で「党」を「類」の意味では使わないという荻生徂徠の「党は郷党」とする説に、私も賛成です。古い注釈では、「党は党類なり」と言われていて、「隣里郷党」つまり地方の地域共同体、その成員としての「党人」を指しました。「人民は里の風俗によって感化されるのだから、政治家はその過ちをあまり責めないで、かえって自己の感化の至らざることを反省せねばならない」ことを、婉曲に述べているようです。政治家に対して、人民のみを責めないで、自己の徳の修養につとめよと暗示したのが、もともとの孔子の意図ではないでしょうか。徳治政治ですから。
人格形成が環境に影響はされることは、後代の孟子のエピソード「孟母三遷」でもわかります。アドラー心理学では、遺伝と環境は人格形成への影響因子で、決定因子はあくまでも本人の態度決定であると考えます。
戦後の日本では、伝統的な地域共同体が崩壊して、特に都会では、核家族の増大、集団住宅(マンションなど)の増加で、個人主義が徹底して、隣家とのつきあいさえないような状況です。「子どもは地域が育てる」という伝統が廃れましたし、核家族化してしかも自己中心的な親によって育てられる子どもは、いったいどんな人格に育つのでしょうか?昔は、よその子でも、悪いことをしたら近所のおじさんやおばさんが叱りました。これが当たり前でした。今はそんなことをすると、親が怒鳴り込んできます。幼児・児童虐待や育児放棄などは、いつごろから起こってきたのでしょうか。家庭も学校も崩壊状態に近いようで、この国の未来に不安を抱きますが、限りある命を今をせめて隣近所とのおつきあいは大事にしていきたいです。
第37課 方向補語
<スキット>
Wo3 hui2lai le.
我回来了。
ただいま。
Ni3 zen3me le? Shen1ti3 bu4 shu1fu ma?
你怎么了?身体不舒服吗?
どうしたの?具合が悪いの?
Lian4 rou2 mian4 lian4le yi4 tian1, lei4si3 le.
连揉面练了一天,累死了。
生地をこねる練習を一日中やっていたから疲れて死にそうだよ。
Xin1ku3 le. Ei1, bie2 zai4 sha1fo1 shang shui4 a!
辛苦了。欸,别在沙发上睡啊!
お疲れさま。ねえ、ソファーで寝ちゃダメだよ。
Wo3 bu4 xiang3 qi3lai...
我不想起来……
起きたくない……
<単語>
@ hui2 回 = 「戻る」「帰る」
lai 来 = ~してくる→hui2lai回来 = 戻って来る(→ただいま)
@ zen3me 怎么
・「zen3me怎么+動詞フレーズ」=なんで~するの?
Ni3 zen3me hai2 bu4 lai2?你怎么还不来?=なんでまだ来ないの?
・「zen3me怎么+動詞」=どのように~する(動作の方法)
・「zen3me怎么+了?」=どうしたの?(状況をたずねる)
@ lian4le yi4 tian1 练了一天 = 一日中練習した(語順に注意)
※動作行為の時間やかかった回数は「動詞のあと」に。
@ bu4 xiang3 不想 = ~したくない
@ qi3lai 起来 = 起き上がる
<キーフレーズ>
Wo3 hui2lai le.
我回来了。
私は戻って来ました(ただいま)。
・「回(戻る、帰る)+来(=方向補語)」=帰って来る
方向補語の発音は軽声。
#方向補語の典型: lai来, qu去
自分を基準にする。
(こっちへ)「入って来る(近づいて来る)」=jin4lai 进来
(あっちへ)「入って行く(離れて行く)」=jin4qu 进去
<エクササイズ>
王さんはパソコンを持って来ました。
Wang2Yang2 dai4 dian4nao3 lai2 le.
王阳带电脑来了。
1羽の小鳥が飛んで入って来ました。
Yi4 zhi1 xiao3niao3 fei1jing4 lai2 le.
一只小鸟飞进来了。
<謝罪>
・Dui4buqi3.对不起。
「申し訳ありません」と、きちんと謝るとき
・Bu4 hao3yi4si. 不好意思。
カジュアルな「ごめん」。恥ずかしい、面目ない。
・Wo3 gai1 si3. 我该死。
「万死に値する」
子曰く、我未だ仁を好む者、不仁を悪(にく)む者を見ず。仁を好む者は、以てこれに尚(くわ)うるなし。不仁を悪む者は、それ仁を為すなり。不仁者をしてその身に加えしめず。能(よ)く一日もその力を仁に用いるあらんか。我未だ力の足らざるものを見ず。蓋(けだ)しこれあらん。我未だこれを見ざるなり。
先生が言われた。「私は今まで、仁を好む、人間性を好む人、また一つは不仁を憎む人に会ったことがない。仁を好む人には、もちろんそれ以上注文のつけようがない最上の価値である。不仁を憎む人間も、それは仁の道徳を行う者であると言える。なぜなら、不仁、つまり仁の徳に背いた人を憎むことによって、その不仁者にそれ以上不仁な行いをすることをなくさせるからで、そうすれば、さらにその不仁者でも一日くらいなら、その力を尽くして仁を行うことができるのではなかろうか。私はその力さえ不足する人にはまだ会ったことがない。いや、そんな人がいるとは考えられるが、そんな人に今まで会ったことはない」。
※浩→この一節は『論語』で最も難解な文章の1つだそうです。そこで、貝塚茂樹先生と吉川幸次郎先生の訳と解説をミックスして、自分流にまとめてみました。
「不仁者といえども、一日くらいなら積極的に仁を行うくらいの能力は持っている。その能力がないという人間はまだ見たことがない」というのは、「どんな悪人でも一日くらいは善いことができる能力を持っている」ということでしょうか。アドラー心理学では、子どもを勇気づけるのに、「不適切な行動に注目しないで適切な行動に注目する」、また「不適切な行動の中の適切な面を探してそこに注目する」とあります。どんな子だって、一日二十四時間不適切な行動をしているわけがない。ほとんど適切に暮らしているはずですが、親の眼には「不適切なこと」がすぐ見えてしまいます。また、たとえ親の眼には不適切な行動であっても、子どものその行動の動機は「善」だったかもしれません。善いことをしたいという意志はありながら、勇気をくじかれていたりして、それができないでいることに気づいてあげる必要があります。
孟子の「性善説」「四端の心」を思い出します。
中国、戦国時代の儒者・孟子の用語で、惻隠(そくいん)(哀れみ)、羞悪(しゅうお)(廉恥(れんち))、辞譲(じじょう)(謙譲)、是非(ぜひ)(善悪の判断)の4つを言う。ともに道徳的情操であり、それぞれ仁(じん)、義(ぎ)、礼(れい)、智(ち)の四徳に対応する。「端」は兆し(きざし)。心に兆す四徳の芽生えが、四端である。例えば、幼児が井戸に落ちそうなのを見れば、人はだれでも哀れみの心を起こすが、それはその子の親に近づこうとか、同郷人に褒められたいとかいった打算を超えた人間の自然な感情である。それを仁の端とするのである。四端を拡大していけば、人間の善性は完全に発揮できると言う。(←『小林勝人訳注『孟子』上下(岩波文庫)』 )
そう言えば、アドラー心理学の「共同体感覚」も、生まれながらに持つ素質ではあるが、生後に育成していかないと育たないとありました。これが怠られて、今のような自己中心の人が溢れることになったのでしょう。
コロナ前には、外国人観光客が各地に溢れていました。それほど外国人には魅力的な日本なのでしょうが、さて、内情はどうでしょうか。家庭では幼児・児童虐待があとを絶たない。学校では、生徒間では「いじめ」の多発、被害者の自死。教師は授業の成り立たないクラスに苦慮し、過剰な校務、部活動で休日返上。何かにつけて、すぐクレームを言いに怒鳴り込んでくる保護者への対応……。高齢者を狙った特殊詐欺の巧妙化。政治の世界では、モラルを失った議員の多いこと。野党は政府与党の「揚げ足取り」に終始、本来の法案審議がはかどらない。近隣諸国との軋轢。カトリック教会でも、聖職者による少年への性的虐待が問題になっているとか。いったい世の中はどうなっているんでしょう……。
こういう悲惨な現状ではあっても、アドラー心理学の「適切な面に注目して」いくしかありません。昔、野田先生が「大きな物語は崩壊した」とおっしゃっていました。アドラーが期待したような「人類の進歩」とか、「国際平和」とか、大きな物語は確かに崩壊しています。仕方ないので、もっと小さな小さな、せめて自分のまわりの人たちとの「あなた&私ペア」で、協力的な尊敬・信頼関係を築いていくしかないようです。何とも寂しいことではあります。諸行無常とおっしゃたたお釈迦様は凄い!