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高2女子の担任として

Q0300 高2女子の担任として
 高2の女の子が9月から学校を休んでいます。家でのんびりテレビを見たり外出したりして過ごしています。「親が学校へ行けと言うのがうっとおしい」と言うのでいろいろ相談した結果、「学校へ行け行けと言わないでほしいと、自分でも言う。私から親にお願いする」という結論に達し、今は親も「学校へ行け」と言わなくなり、そこそこ快適な日々を過ごしているそうです。他種の高校の情報も、本人の希望により提供しました。11月いっぱい休んでも大丈夫です。もちろんもっと休んでもOKだけど、今年進級するなら。
 「どうせ休むなら楽しく過ごすように」と言ったのですが、担任として何か他に援助できることはあるでしょうか?

A0300
 いつも学校の先生に言っているんですが、子どもの注文をしっかり取ってください。こっちから、「あれしてあげたらいいだろう」、「これしてあげたらいいだろう」というのは、思春期の子どもにとって侵入的なんです。思春期の子どもにとって、大人というのはすごく扱いにくい動物で、ちょっと気を許すとつけあがるんです、子どもから見れば。やさしい顔をするとどんどん進入してくるし、遠ざけるために恐い顔をするとあたふたして怯えるし、猛烈に扱いにくい動物なので、まず扱いやすい動物になってあげないといけない。
 それは結局、「私にできることがあったら言ってください。言ってもらえばそれはします。知りたい情報があればそれは提供します。こっちから積極的にああしなさいこうしなさいという助言はしません」というくらいの出方のほうがいいと思う。
 特にこれは高校生でしょう。高校生が学校へ行かなくなったのを登校拒否と言うのがおかしいので、登校拒否というのはやっぱり義務教育に対して言うべきではなかろうか。学校へ行く行かないは自由な選択なんです。「高校へ行かない」と子どもが自己選択・自己決断したわけだから。その線上でOKを出しておけばいいんじゃないですか。別の高校へ行くというならその方向で援助すればいいし、やめると言えばやめる方向で援助すればいいし、今の高校へ戻ると言えば戻る方向で援助すればいいし、全部子どもが決めて僕らが助ける。(回答・野田俊作先生)

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論語でジャーナル

42,師冕(しべん)見(まむ)ゆ。階に及べり。子曰く、階なり。席に及べり。子曰く、席なり。皆坐す。子これに告げて曰く、某(ぼう)は斯(ここ)に在り。某は斯に在り。師冕出(い)ず。子張問いて曰く、師と言うの道か。子曰く、然り。固(もと)より師を相(たす)くるの道なり。

 音楽師の冕(べん)が孔子に謁見した。階段のところに来ると先生が言われた。「ここは階段ですよ」。座席に来ると先生が言われた。「ここは席ですよ」。一同の座席が決まると、先生は冕に、「誰々はここに座っています。誰々はここに座っています」と紹介された。冕が退席すると、子張が質問した。「さっきの先生の言動は、盲目の師に対する礼(作法)ですか」。先生が答えられた。「そうである。これが本当に音楽師を心から助ける場合の作法なのだ」。

※浩→春秋時代の音楽師は、日本の琵琶法師と同じく盲目でした。盲人は聴覚が敏感ですから。日本では箏曲の宮城道雄さんを思い出します。というと、アドラー心理学の「器官劣等性の補償」に関連して度々登場します。孔子は単に人権尊重的な配慮からだけではなく、自分に『詩経』の学問を教えてくれる盲目の音楽師に対して、自らの学問の師に対するような手厚い対応をしたのです。「階」は二階へ登る階段ではありません。古代中国の家はみな平屋で、庭から「堂」つまり座敷へ登るのに階段がありました。日本の寺院建築にその形が残っています。階段は寺院のように真ん中に1つあるのではなく、京都御所の紫宸殿のように、東西に2つありました。西側が賓階、つまりお客用でした。冕師匠はここから登りました。「席」は畳、敷物ですが、今のように座敷全部に敷きつめていなくて、主人や客が座る場所にだけ敷いていました。時代劇を見るとわかります。冕師匠が退出すると、子張がたずねます。「あれが盲人の音楽家と話をされる方法なんでしょうね」。孔子「そうだ、元来ああするのが、盲人の音楽家を補佐する方法なのだ」。何気ないやりとりのようですが、子張が「師と言うの道か」と言った言い方が冷淡な響きを免れないですが、孔子の「師を相(たす)くるの道」は、温かい響きを持っている、と、吉川先生は解説されています。
 歌舞伎の舞台で「御殿」は、真ん中に「階段」がついています。また、遠山の金さんでも、ラストのお白州の場も、上座敷と「白州」という庭をつなぐ階段があります。犯人を追い詰めてシラを着られると、金さんこと遠山金四郎は、片肌脱いで「桜吹雪の入れ墨」を見せて、階段へ長い袴の裾を垂らして、「この遠山桜に見覚えがあろう!」と大見栄を切ります。歌舞伎の名作『義経千本桜』の「川連法眼館(かわつらほうげんやかた)の場」では、この階段の仕掛けが重要な役目を果たします。
 「憲問篇」と「衛霊公篇」と長篇が続きましたが、ここで完結です。長い長い道のりでした。『論語』もいよいよラストスパートに入ります。次回から「季氏篇」に入ります。

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人間関係の距離

Q0299
 40歳代の男です。人間関係には距離が必要だと最近思うようになりました。中学校(職場)では生徒とかかわれと盛んに言っていましたので、かかわるクセがつき、自分の子どもにも触りに行ったりすることがいいことだと思っていたのですが、どうもイヤがられているようです(野田:女の子じゃあるまいな)。触っていないと不安というか人間関係ができているという実感が湧かないのでやっている自分に気づきました。以前「山嵐のジレンマの話」を読んだことがありますが、そのときはわかりませんでした。今、人には適切な距離が必要だと思います。何かヒントを。

A0299
 家庭の話題なんですがね、私は子どもが呼べばいつでも応える父親でいようと思ってきた。「お父さん相談がある」と言えば「OK」で行こうと思っている。呼ばなければ全然かかわらない父親なんです。その代わり、窓口は開いている。お客が来なかったらそれまで。ニードのないところに商売はできないから。だから影の薄い父親ではないみたい。
 私の娘は東京都の某所に住んでいる。住所もよく知らない。手帳には書いてあるけど。電話番号も、携帯電話に記憶させているけど覚えていない。こっちからかけたことはほとんどない。もちろん家へ行ったこともない。向こうからときどき金の無心でかけてくる。それくらいしか連絡ない。最近用事があってかけたら、電話が切られている。料金不払いで。でも何も言ってこないから別に援助はいらないと思って、放ってある。そしたら娘にとってあの親父は不必要かというと、そんなことない。いよいよ困ったらうちへ来る。向こうが来たときは精いっぱい対応してやろうと思ってきたから。そういう距離の取り方が、特に女の子が相手の場合、父親としてはうまいやり方だと思っている。女の子たちは中年のおじさんが嫌いなんです。親父を含めて。臭いし、何かイヤらしそうだし。そう思われているだろうと思う、向こうからこっちは。いくら努力したってね。だから、彼女らとしては金づるとか世間のことを知っているおじさんという役割で利用したいだけなんです。それじゃ利用されてあげようよ、そのへんでしっかり。そんな感じでつきあっています。
 男の子もまあ原理的には同じで、こっちから積極的にあれしようこれしよう、遊びに行こうとかいう感じではつきあえなくなりますよ、小学校へ上がったくらいから。向こうから「買い物に行くからついて来て」とか、「一緒に選んでくれ」と言えばつきあいます。だから受け身なんです。そのほうが賢いと思います。(回答・野田俊作先生)

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論語でジャーナル

41,子曰く、辞は達するのみ。

 先生が言われた。「言葉は意味を伝達できればそれでよろしい」。

※浩→孔子は「巧言令色鮮(すくな)し仁」と言ったように、修飾・比喩・潤色が多い華美な文章というものも好みませんでした。それへの警告としこう言ったのでしょう。これが普通の説です。
 荻生徂徠の説は違います。「辞」は特殊な言語で、外国へ派遣された使者たちが自国の君主の意志を、相手国の君主に伝える言語だと読み、それについての注意の言葉だと解釈しました。この立場だと、「外交辞令は、意味が通じればよいのだ」ということになります。貝塚先生の解説によれば、当時の外交官の問答は、博学を誇示するため故事を引用して修飾の多い文体が多かったそうです。それでは内容空疎で、無意味になってしまうおそれがあるので、孔子は、外交官ははっきりと自国の主張を打ち出し、それを相手国にわからせなければならない、と言っているのでしょう。小国の魯に生まれた孔子は、祖国の利害を正しく大国に伝えることが困難であることをよく承知した上で、こういう注文をつけずにいられなかったのでしょう。日本も、国土は小さく、ある意味で「小国」です。近隣に「中国」「ロシア」など文字どおり「大国」が存在します。それらの国との交渉には政府は苦慮しているでしょう。組織の中の「少数派」が「多数派」と接する際のヒントにもなりそうです。衆議院議員選挙では、野党の勢力拡大を図らないと、与野党のバランスが保てないとは思うのですが、1票投じようと思える野党が存在しないのがもどかしいです。結局、自民党が“圧勝”で落ち着いてしまいます。その自民党も“寄り合い所帯”ですから、内部から新鮮な力が育って、党全体が浄化されることを期待したいです。

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精神的に不安定な弟(既婚者)が話しかけてきて煩わしい

Q0298 
 私の弟は結婚しています。夫婦関係がもつれ、現在、実家である父母、私たちのところへ戻ってきています。今までに自さつめいたこともしたりして、ずいぶん落ち着いたとはいえ、まだ安心できない精神状態に見えます。そんな弟が会社から帰った私をつかまえて、今後のこととか現在の自分のこととかもっとつまらないこともいろいろと話しかけてきます。聞いてあげたいという気持ちもありますが、読書とか音楽を聴くとか自分のしたいこともあります。そんな状態ですから、結局本を読みながら弟の話を聞いたり、「また明日にして」ということになります。これは勇気くじき的だと思うのですが(野田:そう思いませんが)、ついついやってしまいます。どうすればいいでしょうか?精神的にまだ不安定な弟がふさぎ込むのではないかと心配になってしまいます。弟とどう接すればいいでしょうか?

A0298
 私だったら(これが答えになるかどうかわからないけど)面接時間を決める。「1週間に2回。何曜日の何時から何時までは人生の話を聞きますがそれ以外は聞きません」と。
 僕(野田)は昔から一応心理療法の専門家です。かつ精神科医です。精神科医と心理療法の専門家は別なんです。心理療法を全然しない精神科医もたくさんいる。お薬の処方しかしない。精神科医でない心理療法の人もたくさんいる。僕は両方やります。外来診療は全然問題ない。問題は入院患者さんです。入院しているとしょっちゅう患者さんがいる。こっちもいるし。ずっと1日中相談してくる。「あの先生は、よー話聞いてくれるから相談しよう」と。そんなのかなわんから面接日を決めて、「人生の相談は週2回。1回30分。それ以上は聞きません。普段は会っても、『外泊許可出してください』とか『お薬どうしよう』とかは聞きます。医者としてすることは聞きます。それ以外はしません」という線でやっていました。そうしないと身が保たないから。弟さんといっぺんこういう線で話をしてください。そんなに話があるとも思えないから。(回答・野田俊作先生)

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