Q0284
長女24歳、オフィスレディーですが、反抗的で親の私と話をするのをイヤがります。話のとっかかりを探すのが難しいと思いますが、楽しく彼女と会話する方法はないものでしょうか?
A0284
こんな時期と違うかな。2つ可能性が考えられます。
発達のプロセスで、20歳代を「前成人期」と言う。前成人期はだいたい高校を出たくらいから。結婚して子どもができるくらいまでです。
その時期に、解決していなければならない子どもの側の課題は“親離れ”ね。「親なしで人生をどうやって工夫していくか」ということをやらないといけない発達のプロセスの最中になるから、ある子たちは親と話をしなくなる。あるいは話をしても秘密をたくさん作るようになる。それは正常な発達だから気にすることはない。そこを通り過ぎて、子どもの側で親離れが終わって、親とどうつきあうかが決まれば、新しいつきあい方が始まるだろうと思う。これはいいほうの可能性です。
悪い方の可能性は、反抗的と書いてあるから、今までの出方が大変強圧的でまずかったのではないか。それで娘さんが怒っている。そういう可能性もある。それなら、こちらの出方を工夫するとそのうち良くなる。ちゃんとアドラー心理学ふうに再編成すると良くなりますが、24歳にもなっていると良くなるのに時間がかかります。10歳の子どもとの関係修復は2か月か3か月あれば十分できる。24歳だと、こちらの態度が変わっても向こうは変わらない。今までの長い歴史の積み重ねがあるから、1年くらいかかるかもしれない。それでもやらないよりやるほうがマシ。もしも今までに支配し迫害したという感じがあるなら、やり方を変えてください。ただ、最初、子どものほうは反応してくれませんから、子どもから勇気づけをもらえないので、仲間から勇気づけをもらったり、自己勇気づけをしたりして頑張らないといけないです。(回答・野田俊作先生)
17,子曰く、群居して終日、言、義に及ばず、好んで小慧(しょうけい)を行う。難(かた)いかな。
先生が言われた。「寄り集まって一日中雑談をしながら、一度も話が正義について触れることなく、こざかしい悪知恵を働かせてばかりいる。これでは(天下国家について語るのは)難しい」。
※浩→「価値のある対話」「意味のある談義」で「問題の本質=本当に重要な話」に触れることができますが、無意味な雑談やこざかしい悪知恵を働かせていては、どうしようもない。弟子たちが談義しているのを見て、孔子はそう感じたのでしょう。喫茶店や居酒屋で悪事を働こうと謀議している者に警告を発しているわけでもあるまい、しかし、そうもとれる、と貝塚先生は述べられています。ご自分の学生さんたちが河原町辺りの喫茶店にたむろしているのをご覧になって感じられたのかもしれません。
私は月に2回、津山へ出勤していましたが、お昼にお出迎えのK先生に駅でお会いすると、学校へ向かう車中からしゃべりはじめて、到着後も、相談室滞在中、それから「学習会」での講義、アフター5の「ダレヤメ(薩摩言葉=慰労会)@寿司屋」まで、懇談&質疑応答&ケース検討などで午後8時まで、私はずーーーーっとしゃべっています。これは単なる雑談ではなくほとんどが実のあるお話になっていると思います。ほとんどがアドラー心理学がらみのお話です。間に、歌舞伎のストーリーを語ることもありますし、時には「漢詩」、時には「落語」、時には、「色っぽいお話」もあります。かなり濃厚です。フランクルの「3つの価値」というのがあります。↓
彼によれば、人間は人生に意味を求めて生きている。無意識のうちに、誰もが価値を認めていて、3つに分類される。
1)何かを創造して世の中に与える
2)何かを経験して世の中から得る
3)苦悩に対して何らかの態度をとる
この3つの意味は、3つの価値と称する。
1)は創造価値。自分自身で絵や彫刻など、ものを作った時に感じる充実感で、世の中に何かを与えることに生きる意味を見出す。
2)は体験価値。美しいものに触れたり、きれいな景色を見る、美しい絵を見る、楽しいことをするなどによって感動する気持ち。世の中から何かを受け取るときに伴う体験に生きる意味を見出す。
3)は態度価値。死や不治の病、障害、愛する人の死など避けることのできない運命に対して、苦境にあってどんな態度をとるか という人間の尊厳の価値。これに生きる意味を見出す。
創造、体験に意味を発見できる人はそれで生きがいを感じる。創造、体験ができなければ、態度価値がある。避けられない運命的な出来事において生きる態度に「態度価値」が実現される。人間は、死ぬ直前まで意味を持っている。「人間には責任、つまり意味と価値を充たし実現する責任がある」(フランクル『意味への意志』)
高齢になると、「創造価値」の実践は次第に困難になりますが、「生きる意味」はまだ、「善美なるものを体験する」ことに存在します。私は今もこの2つの価値を体験できていて、幸せです。もっと高齢になるか、あるいは心身ともに衰えたら、残る「態度価値」だけになるのでしょう。
フランクルはアドラーの関わりがあった人です。そのアドラーの主著に『人生の意味の心理学』というのがあって、冒頭に、「われわれ人間は、さまざまの意味づけの世界に生きている。われわれが経験するのは、決して純粋な事実などというものではなく、常に人間にとって重要な事実というものである。われわれの経験にしてからがすでに、その根源において、われわれの人間的な目的に規定されている。『木』は、『人間との関係にある木』を意味しているし、『石』は『それが人間の生活の一因子でありうる限りにおいての石』を意味している……いかなる人間も、意味づけなしには生きられない。われわれが現実を経験するのは、常に、われわれが現実に付与する意味を通してであり、われわれは、現実そのものではなく、すでに何か解釈されたものとして、それを経験するのである」。
Q0283
私の妻は、「親しい間柄なら何でもズバズバ話すのがよい、意識的に考えながら話すのはしんどい」と、私の気に障ることをよく言います。私は、「親しき仲にも礼儀ありで、相手が大切な人だと思うほど言葉を気をつけて話さないといけない」と注意しますが、直りません。どうしたらいいでしょうか?
A0283
注意の仕方がまずいね。あることをお願いをして聞いてもらえないのは、こちらのお願いの仕方がまずいと思わないとしょうがないじゃないですか。「人に何をさせるかでなくて、自分が何をするか」がアドラー心理学の課題でしょう。何か私の出方がまずいから、向こうが聞く気にならないのかな。奥さんを勇気づけながらそれを伝える方法がないかといっぺん工夫してみてください。(回答・野田俊作先生)
16,子曰く、如之何(いかん)、如之何(いかん)と曰(い)わざる者は、吾れ如之何(いかん)ともすること末(な)きのみ。
先生が言われた。「『どうしようか、どうしようか』と言わない者は、私はどうしてやりようもない」。
※浩→「天は自ら助く者を助く」ですか。「どうしたらいいのでしょうか?どのようにすればいいのでしょうか?」と自分の疑問や困難について質問しない人は、どうにも助けようがないということです。孔子の教育は、弟子に一方的に教え込むのではなく、弟子の問いにしたがって指導するのです。“啓発主義”と言えばいいでしょうか。
「述而篇」に、「子曰わく、憤(ふん)せずんば啓せず。非(ひ)せずんば発せず。一隅を挙げてこれに示し、三隅を以て反(かえ)えらざれば、則ち復(ま)たせざるなり」とありました。現代語訳すると、「自分で悩み、心がいらいらするくらい考えない者には指導しない。自分の考えを何と言ったら良いか口に出しかかってむずむずしているくらいでなければ教えない。一を教えたら三倍の答えや疑問を返してくるくらいでなければ二度と教えない」ということです。ソクラテスの「問答法(対話法)」も、師が一方的に教えるのではなかったです。彼は、青年たちをつかまえては、対話による哲学的な思考の教育を行いました。相手の主張に対してソクラテスはそれに反駁し、相手に己れの無知を気づかせて、真の知に至らしめるという方法を用いたため、“助産術”とも呼ばれましたが、自分の無知を思い知らされた相手からの反感を買い、それがもとで誤解を生み、「怪しげな神を信じ、若者を惑わした」罪で裁判にかけられたことはご存じのとおりです。
孔子はソクラテスほど“皮肉屋”ではなくて、弟子から恨みを買うことはなかったでしょう。昔、テレビ朝日で『一休さん』というアニメが放映されたことがあります。主題歌が、子ども向けのアニメにしては、ませていて、「好き好き好き好き、愛してる、好き好き好き好き、一休さん、とんちは鮮やかだよ一級品、いたずら厳しく一級品、だけど喧嘩はからっきしだよ三級品、あーあー、南無さんだ。望みは高ーかく果てしなく、わからんちんどもとっちめちん(これ、意味不明)、とんちんかんちん一休さん、好き好き好き好き愛してる、一休さん」。寺男の孫・さよちゃんがガールフレンドなので、こういう“大人げた”フレーズが入っているのでしょうが、幼子がこの主題歌を「好き好き好き好き……」と歌っているのは、かわいらしくもまた小生意気でもありました。このアニメで、筆者が一番かわいいと思ったのは、“どちて坊や”です。何かにつけて「どちて?」と聞くので、みんなが回答に窮します。会う人ごとに質問攻めにするため周囲からは嫌われていて、一休さんでさえ苦手にしています。この子は実は戦災孤児で、南北朝争乱によって両親を失っているんです。本名は“こうた”で、安国寺の隣村で祖父母と暮らしていました。誰もがみんな逃げ回る中で、ただ1人、さよちゃんだけは、「どちて?どちて?」と聞かれるたびに、「それはね……」ときちんと答えていて、ある日その様子を見た一休さんが恥じ入る一幕があります。さよちゃんは、カウンセラーの資質を持ち合わせています。
Q0282
アドラー学校はどんな教え方をするんですか?日本にはこの学校がありますか?
A0282
「アドラー学校」というのは俗称で本当は「C4Rスクール」と言う。ハワイのレイモンド・コーシーニが提唱したやり方ですごく面白い。ディズニーランドとかマクドナルド方式みたいで、マニュアルがある。日本語にも翻訳されている。初期の『アドレリアン』にあります。
アカデミック・アドバイザーというアドラー心理学をよく知っている人が1人いる。これは学校の先生じゃない。あとの先生はアドラー心理学をまったく何も知らない。学校の運営をマニュアルどおりにやる。わからないことがあればアドバイザーに聞く。これだけのシステムです。
アドラー心理学の世界の中では賛否両論あるんです。確かに学校はアドラー心理学ふうに動く。でも先生の意識は何も変わっていない。マニュアルどおりに動いているだけ。マクドナルドが、「フライドポテトいかがですか?」「こちらで召し上がりますか?」とにこやかに言うときに、あのおねえちゃんたちは、無意識に言っている。
クリステンセンはそんな意見でした。C4Rスクールのやり方が世界に広がることは、かえって学校の中で先生が自覚的に勉強することの邪魔になると。
コーシーニは逆の意見で、「先生たちが自分の努力でアドラー心理学を学んでやっていくのを待っていたら、それまでに地球が滅びるぞ」と言う。「体が動けばいいじゃないか」という意見です。
日本でもC4R学校を作ろうという運動があったが、残念ながら実現していない。いろんな要因がある。だいたい教師が当然やるものでしょ。ところが、教師の一番下手な作業は金集めです。僕のところに来た人がいる。「野田さん、アドラー学校を作りたい」「そうかそうか、簡単です。20億あればできる。すぐ集まるよ。お母さんたちに説いて回って、100万円出しなさいと言うんです。10人で1000万円。100人で1億。2000人のお母さんから集める。それもイヤなら、国会へ行って国会議員に名詞を配って回る。文科省はあてにならないからまず議員を回ればいい」と言ってやった。
学校の先生はどっちも全然下手で、お金が集まらない。1年くらいして「今いくらある?」と聞いたら、「2万5千円」。これはあきまへんわ。
C4Rスクールを見てみたいときはどこがいいかとコーシーニに聞いきました。世界に13校あるうちで、イスラエルのテルアビブがいい。とてもうまく動いている。大規模校がいい。(回答・野田俊作先生)
(浩→現在は、国際通のアドレリアンにたずねても、近況はわからないということです。)