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頭の切れる女性上司がドンくさい自分にしゃべってくれない

Q0305
 職場の上司でかなり頭の切れる女性がいます。ドンくさい私は彼女にとって目障りな存在のようです。朝の挨拶以外はものをしゃべってくれません。もちろん私も心が縮んでしまって話ができません。他の人たちには楽しそうにしゃべる彼女を見て、情けないやら悔しいやらで悩んでします。勇気づけてください。

A0305
 困りますか?私を嫌いな人はいるんですよ。いますねえ、思い出してしまった。絶対に私に口をきかない人がいるんですよ。某有名アドレリアンでね。道で会っても、総会なんかでも。大阪の人じゃない。大阪にはそんなのはいない。全部撲滅しましたから(笑)。その人なんか目も合わさないし、口もきいてくれないけど、それでいいと思う。あの人の言うことを聞いたら耳が腐るから。別に気にしないでいいんじゃないですか。よく言うけど、10人の人が周囲にいたら、2人の人は私が何をしてても許してくれる人で、ずっと私を好きでいてくれるだろうと思う。1人の人は私が何をやっても許してくれない人で、一生私のことを嫌いだと思う。残り7人はケースバイケースで私の出方で好きになったり嫌いになったりする。どうやらこの上司は運命の1人みたいで、何やっても許してくれないでしょうから、許されないままで暮らしましょう。そういう人が1人くらいは絶対いるんです。10人いたら。まあそこに1人いて、残りに友だちがいますから、その友だちのほうを見る。適切なな部分に注目するんです。人生には明るい世界と暗い世界とが必ずあって、明るい側をしっかりと確保していくと、暗い側を悩むよりはエネルギーの使い方が上手になります。(回答・野田俊作先生)

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論語でジャーナル

5,孔子曰く、益者三楽(さんらく)、損者三楽。礼楽を節するを楽しみ、人の善を道(い)うを楽しみ、賢友多きを楽しむは、益なり。驕楽(きょうらく)を楽しみ、佚遊(いつゆう)を楽しみ、宴楽(えんらく)を楽しむは、損なり。

 先生が言われた。「ためになる楽しみ三種、損になる楽しみ三種。行動と音楽を節度をもって行う楽しみ、他人の徳性・美点を讃える楽しみ、すぐれた友人をたくさんもつ楽しみ、これらどんなにためになるだろう。驕りたかぶる楽しみ、家に帰らず遊びほうける楽しみ、酒食荒淫の楽しみ、これらどんなに損になることだろう」。

※浩→孔子が「楽しみの種類」を、「有益な三楽・有害な三楽」と箇条書きの形で述べています。現代にも当てはまります。「驕楽」は傲慢、「佚遊」は安惰、「宴楽」は消費生活の贅沢を言います。自分に関して採点すれば、「節度」と「他者への勇気づけ」と「交友」の楽しみはまあまあだと思います。「他者を勇気づけること」はアドレリアン必須の課題ですから、常に心がけている“つもり”です。。「賢友多き」は過去の話になりました。高齢化とともに減少しました。「皆無」でなく、ごく少人数ではありますが、親密な交わりをしています。「傲慢」と「遊びほうける」と「酒食荒淫」は、要注意です。自分の成した成果を奢る気持ちがときどき生じます。「謙虚・寛容さ」はずっと修業が必要です。人間はどこまでも不完全な存在ですから、しょっちゅう過ちます。常に自己点検を忘れないように、心していきます。「学而篇」に「曽子曰く、吾日に三たび吾が身を省みる。人のために謀りて忠ならざるか、朋友と交わりて信ならざるか、習わざると伝えしか」。

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自分の好みに合わない子を好きなるのに、フロムの『愛するということ』は参考になるか?

Q0304
 復讐期まで行った息子、現在18歳がいます。子ども3人の中で確かに私の好みに合わない子どもだったと思います。今まで自分のしてきたことが子どもの勇気をくじいていたとわかったら、何も言えなくなってしまいました(野田:ええことです)。最近息子が話しかけてきても、以前のように私が話に乗らなくなったせいか、「ねえ僕の話聞いてる?」と確認してきます。そのときに、「うん、聞いている」と応えます。自分の好みに合わない子を好きになることはできないでしょうか。フロムの『愛するということ』は参考になるでしょうか?

A0304
 ならないと思う。フロムの本は好きなんですけど、きわめて哲学的な本なんで、面白いから読んでみられたらいいけど、そこから、即、実際に行動につながるヒントがあるとは思えない。
 私のヒントは、「しあわせは心こもらぬ言葉から」です。心こもらなくていいから、いい言葉をかけ始めようと思うんです。子どもをあまり好きになれない心を変えられないでしょう。でも、体の動きとか口で言う言葉とかは変えられるでしょう。心がこもっていなくていいから、教科書に書いてあるような勇気づけの言葉を言っていて、「お母さんそれ嘘だろうが」「ああ、バレた?」てなことを言ってても、それでも傷つける言葉を言ってるよりはマシだと思う。その言葉によって、子どもは少しずつ態度が変わってくるでしょう。子どもの態度が変わってくると、だんだん親のほうの心も変わってくるでしょう。心は頭蓋骨の内側にあるとはあまり思ってない。心が先にあって行動がそこから出てくるというのは原因論であってアドラー心理学的でないと思う。心というのは、人間関係というものが私を通り抜けているときに立てるさざ波のようなものだと思う。だから人間関係が良くなると、相手のことが好きになると思う。愛があるから優しい言葉が出るのではなくて、優しい言葉のやりとりがあるときに愛が生まれてくると思う。愛があとだと思う。まず、いい言葉がけを、心こもらなくていいから、いい言葉がけを始めてみられてはいかがですか。(回答・野田俊作先生)

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論語でジャーナル

4,孔子曰く、益者(えきしゃ)三友。損者三友。直きを友とし、諒(まこと)を友とし、多聞(たぶん)を友とするは、益なり。便辟(べんへき)を友とし、善柔(ぜんじゅう)を友とし、便佞(べんねい)を友とするは損なり。

 孔先生が言われた。「ためになる三種の友人、損になる三種の友人。正直な人を友とし、誠実な人を友とし、博学な人を友とするのはためになる。見かけだけが良い人を友とし、人当たりが良いだけ(あるいは、難しいこと・イヤなことを避ける便宜主義者)の人を友とし、口先のうまい人を友とするのは損である」。

※浩→「益友」「損友」という言葉は今でも使われると、貝塚先生はおっしゃっていましたが、私は使ったことはありません。無学でした。ここのような孔子の言葉がどうしてできかたを、貝塚先生は次のように解説されます。
 孔子の学園で、孔子の言葉が次第に教条化され(浩→これは“土着化”と言ってもいいかもしれません)。教訓を箇条書きにして暗記する学習法がとられてきたあらわれである。孔子と弟子たちとの人格的な接触から生まれる会話の生き生きとした味はなくなってくる。
 師弟の人格的接触による学びというと、プラトンの「アカデメイア」を連想します。あそこでも、教師が生徒たちに一方的に講義する教育法ではなく、互いの対話による「問答法(対話法)」が用いられていました。アドラー心理学においても、親や教師からの1度や2度の「言葉がけ」で子どもを“操作”するのではなく、繰り返し“問いかける”ことで次第に両者ともの納得できる解決を導き出すという方法が提唱されています。
 幸いにして私は子どものころから「良い友」には恵まれてきました。小学校から中学校までは、広瀬のやっちゃん(広瀬康久さん=中学生のころすでに映画ツウで、東映時代劇などを筆者に紹介してくれました。彼の家はリッチで、母親どうしも親しくて、そのご縁でよくお泊まりさせていただいていました。高校を出てからは次第に遠のき、今では消息不明です。ご存命かどうかもわかりません)。中学から高校では、池田秀彦君(高校卒業後は岡山から宝塚市へ転居されて、お泊まりに行ったこともたびたびでしたが、やがて遠ざかりました)。中学では吉原正明さん(京都学芸(教育)大学へ進まれ、私は岡大ボート部で琵琶湖に遠征に行った帰りにはよく彼の下宿に泊めてもらいました。妙心寺の隣にありました)、岡村鉄夫さん(九州出身で中学から岡山に下宿されていて、よく泊まり込んで一緒に勉強していました。彼の家もリッチで、当時から熟へも行っていました)。高校での近間章さん(演劇部で一緒になり、おうちが富田町なので、帰宅時によく寄せてもらっておしゃべりをしていました)。大学では何と言っても行司伸吾君(ボート部の仲間。卒業前は彼の家に下宿させていただいていました)……。
 友を選ぶと言えば、ボート部のコンパでの愛唱歌に、与謝野鉄幹の「人を恋うるの歌」というのがありました。歌詞を完全に暗記して合唱した歌の1つです。久しぶりに思い出しました。↓

 妻をめとらば才たけて みめうるわしく情(なさけ)ある 友をえらばば書を読みて 六分(りくぶ)の侠気(きょうき) 四分の熱

 恋のいのちをたずぬれば 名を惜しむかな男(お)の子ゆえ 友の情をたずぬれば 義のあるところ火をも踏む

 あーわれダンテの奇才(きさい)なく バイロン ハイネの熱なきも 石をいだきて野にうたう 芭蕉(ばしょう)のさびをよろこばん

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高校養護教諭として薬物対策は?

Q0303
 高校の養護教諭をしています。小中高校でタバコやシンナーに関する教育をしていますが、これからは薬物等の教育も必要だと数年前から言われています。数年前から大都市で中高校生に薬物が出回るようになってきています。そういう子どもたちはいわゆる勉強のできない子、不良と言われているような子どもたちのようです。学校においてどんな教育をすれば、子どもたちに薬物が悪いということが理解でき、そんなことをしないようなるのでしょうか?薬物の怖さをビデオで見せたり話したりするだけでは、不良と言われる子どもたちが理解はしないのではないかと思うのですが。

A0303
 理解はするでしょうよ。僕は昔、裁判所でシンナーを吸って捕まった初犯の子どもたちの講習会をしました。何のことははない。シンナーの効果について、体の中でどうなるか、きちっと教えただけです。ついでに実物教育で、豚のレバーを血抜きして話を始める前に目の前でシンナーをかけておく。終わりころに溶けてくるから、「あんた方の肝臓もこんなんよ」とみんなに回す。子どもはすごく気持ち悪がりました。理解はするでしょう。
 薬物を使うというのは、薬物そのものの魅力も一方ではあるけど、注目関心を引くとか、特に権力争いをするとか復讐をするとかいう、人間関係の構造の中で薬物を使うことに意味があるときのほうが多い。シンナーを吸っていると、先生が「やめろやめろ」と言う。やめたら先生の勝ち、続けたら私の勝ちというゲームの構造になっていることがわりとある。そっち側の処置をしないといけない。
 友だちどうしの間でみんなが薬物を使っていて、自分だけ使わないとつきあえないということもある。シンナーで捕まった子たちの話を聞いた。男の子と女の子と何人か集まる。夜に非行グループが。あの人たちはほとんど話題がない。集まってちょっと話をすると、すぐ話することがなくなるのでエッチする。エッチしていると話しなくてすむから。エッチも終わっちゃう。終わっちゃうとまた話のない時間がいっそう空しく広がる。そこで「まあまあ一杯」とシンナーやると、一応そこから逃げられる。みんなモワーとして話をしなくていい状態になるから。そういう理由でシンナーやっているみたい。シンナーがなくなったら困っちゃう。何していいかわからないから。全然話題がないし。
 だから、話を別にしなくていいんだとか、面白い話、こんなことをしたらどうかとか、そんなふうな教育をしてあげることのほうが大事だと思う。とにかく、みんなを笑わせてないと、自分が話し手になってみんなを楽しませていないとダメだという感じを、今の子どもたちは強く強迫観念として持っている。別にそんなこともないから、5人とか6人とか集まって、何も言わないでボーッと暮らしているのも瞑想的でいいじゃないですか。シンナーに逃げなくていいんじゃないかという話もしています。(回答・野田俊作先生)

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