3,孔子曰く、禄(ろく)の公室を去ること五世なり。政の大夫に逮(およ)ぶ)こと四世なり。故(ゆえ)に夫(か)の三桓(さんかん)の子孫は微なり。
先生が言われた。「俸禄を与える権限が魯の公室を離れてから、五代の時が流れた。政権が大夫の手に渡ってから、四代の時が流れた。あの孟孫・叔孫・季孫の三桓の子孫も衰えたものだ」。
※浩→臣下が主君を打倒する下剋上を嫌った孔子ですが、魯の君主に代わって政権を掌握した三桓(孟孫・叔孫・季孫)も季孫氏の家臣であった陽虎のクーデターによってすっかり力を失ってしまいます。実力主義で政権を奪い取った者は、さらに自分よりも強力な相手が出てくると政権を奪い取られてしまう。陽虎の政権も間もなく没落します。三桓つまり仲孫氏・叔孫氏・季孫氏は魯の家老職の家ですが、彼らは皆、魯の桓公の後裔です。日本で、源氏が清和天皇の、平氏が桓武天皇の後胤であるというのと似ているようです。その三桓の政権にひびが入って、もとの権威を回復できませんでした。この魯国の現実の政権の転移、下剋上の具体相を感慨深く述べていて、前章と違って、これは孔子自身の言葉だとみられています。前章は、ここをもとにして後代に付加されたのでしょう。貝塚先生の解説です。
衰えて滅び行くものへの哀愁、これは日本人好みです。典型は『平家物語』です。祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす。
祇園精舎の鐘の音には,この世のすべての現象は絶えず変化していくものだという響きがある。沙羅双樹の花の色は,どんなに勢いが盛んな者も必ず衰えるものであるという道理をあらわしている。
中国ものでは、『三国志』の終わりのほうを思い出します。「秋風五丈原」というと、横山光輝のコミック版『三国志』に詳しく描かれていました。全50巻ありましたが、私はそれを在職当時通っていたスポーツジム「オリンピア」のコーチから譲り受けて、学校の教育相談室に置きました。来室する生徒たちが喜んで読みあさってくれました。もう1つ、ずいぶん前にNHKのアニメに『三国志』があって、これもかなり詳しく描かれていました。クライマックスの「赤壁」と、そのあと逃亡する曹操を情け深い関羽が見逃すシーンまでは、一気に読めますが、そのあとの長い部分をラストまで読むのは大変です。私は、諸葛孔明が「五丈原」に惜しくも敗れて、「天は我を見捨てたかー」のシーンに深い感慨を覚えました。ネットに珍しい歌が載っていました。拝借します。↓
「秋風五丈原」土井 晩翠 作
一、祁山(ぎざん)悲愁の風更けて 陣雲暗し五丈原
令露(れいろ)の文は繁くして 草枯れ馬は肥ゆれども
蜀軍の旗光無く 鼓角の音も今しづか
丞相病あつかりき 丞相病あつかりき
二、清渭の流れ水やせて むせぶ非情の秋の声
夜や関山の風泣いて 暗に迷ふか雁がねは
令風霜の威もすごく 守る諸堂の垣の外
丞相病あつかりき 丞相病あつかりき
三、帳中眠りかすかにて 短檠(たんけい)光薄ければ
こゝにも見ゆる秋の色 銀甲堅くよろへども
見よや侍衛の面かげに 無限の愁(うれい)溢るゝを
丞相病あつかりき 丞相病あつかりき
四、風塵遠し三尺の 剣は光曇らねど
秋に傷めば松柏の 色もおのづとうつろふを
漢騎十万今更に 見るや故郷の夢いかに
丞相病あつかりき 丞相病あつかりき
五、夢寝に忘れぬ君王の いまはの御こと畏みて
心を焦し身をつくす 暴露のつとめ幾とせか
今落葉の雨の音 大樹ひとたび倒れなば
漢室の運はたいかに 丞相病あつかりき
六、四海の波瀾収まりて 民は苦み天は泣き
いつかは見なん太平の 心のどけき春の夢
群雄立ちてことごとく 中原鹿を争ふも
たれか王者の師を学ぶ 丞相病あつかりき
七、末は黄河の水濁る 三代の源遠くして
伊周の跡は今いづこ 道は衰へ文弊たおれ
管仲去りて九百年 楽毅らっき滅びて四百年
誰か王者の治を思ふ 丞相病あつかりき
これは土井晩翠の名詩です。「桃園義盟」に始まり、孔明の苦心孤忠を画く「三国志」は、隣邦中国を想う本学の学生たちの心を痛くゆすぶったに違いありません。何時のころから校庭を「五丈原」と称し、学堂を「臥竜窟」と名づけ、そしてこの晩翠の詩を愛唱したのです。拓殖大学の校祖として初代校長桂太郎公は、明治四十五年七月、後藤新平氏等を随え渡欧露都にて、明治大帝崩御の報に接し、急拠帰国、直ちに内大臣兼侍従長を拝命、新帝を輔弼(ほひつ)申し上げました。この大任を受くると、校長を辞し、これを小松原英太郎氏に譲りました。越えて十二月組閣の大命を拝し、三たび首相の印緩を帯びましたが、翌大正二年総辞職し、病を得て帳中深く引こもりました。
劉備玄徳の遺嘱を受け、幼帝を扶けて、天下三分の計をめぐらし、五丈原頭に馬を進め、遂いに病んで再び起たなかった諸葛孔明の心事は、そのまま桂公の胸中であったのでしょう。病に倒れた桂公の胸中を去来したものは、大正日本の前途と、東亜の形勢であったでしょう。孫文の中国革命に深い理解を持ち、アジアの回復を希念していた公の経論も、天、遂に時をかさず、これをすべて白玉楼中に送ってしまいました。
もしも私が大学のボート部にいたころに、この歌を知っていたら、率先して歌い、先輩に知らしめ、後輩にわがもの顔で伝授したかもしれません。
Q0302
28歳の息子のことです。上京して3年。準劇団員を1年やり、「上層部の人々の目が死んでいる。こんなところにいられない」と退団してしまいました。相談も受けなかったし、某プロダクションを受けてみると言っていますので、本人を信じて見守るしかありません。私たち夫婦は2人とももう定年退職の年ですので、家賃のみですが、今までのように仕送りができるのもあと1年です。こんな状態の中で、親として息子を何とか信じると言っても不安はあります。勇気づけの言葉が見つかりませんので教えてください。
A0302
「お金打ち切るぞ」と言ってください。これ、勇気づけの言葉です。勇気づけという言葉の意味をどうとらえているかよくわからないのですが、勇気づけというのは、例えば子どもだと、子どもが「自分の選択で自分の責任で生きていこうと決心する方向へ援助すること」でしょ。原理的に言えばね。だから、「家賃払えなくなるよ」と言うと、自分の選択で自分の責任で生きていかざるをえなくなるから、勇気づけなんですよ。そう言ってあげたらどうですか。
それ以外に、今向こうから何か頼んでくれば別だけど、何も頼んできていない状態で、劇団やめてプロダクション受けるのも自分で決められるようになっているんだから、またそういうことについてこの親御さんはアドバイスできないと思うし、信じて任せるしかしょうがないではないですか、イヤでも。
まあ、経済的に援助できないという事実があるなら、経済的に援助できない。まあ、「イヤになって大阪へ帰ってくるならいつでも帰っておいで」と言ってあげるのも大事なことだと思う。
昔、ある子が高校を出て、成績あまり良くなくて、わりとつまんない大学へ行きました。すぐにイヤになって、北海道のリンゴ農園に行くことにしました。雑誌か何かで見て。大学をやめると言うと、親がすごく反対した。で、親と子どもが両方カウンセリングに来た。「どうしよう?」と言うから、話を聞いたら、「そんなリンゴ農園に行ってもあんたはきっと失敗するだろう。失敗して帰ってきても家に入れませんよ。親の言うことも聞かないで大学やめて勝手に行ったんだから」と言う。僕(野田)は、ちょっとカチンときた。そんなん親じゃない。親の気に入らない選択を子どもはするかもしれない。ひょっとしたら失敗するかもしれない。失敗して帰ってきたら、「お帰り」と入れてあげるのが親じゃない。そんなところで復讐しないほうがいい。「その選択は親としては間違っているし、賛成できない」と、そう思うなら言ってもよろしい。失敗すると思うなら「失敗すると思う」と言ったってよろしい。言わないほうがいいけど。でも「もしも失敗したら帰っておいで。あなたのうちなんだから帰ってきていいよ」と言ってはあげてほしい。この子の場合もそうなんで、はたして役者になれるかどうかわからない。最後は失敗して帰ってくるかもしれない。そのときは機嫌よう迎えてあげよう。「ご苦労さん、面白かったでしょ。次のことをゆっくり考えよう」と。
それさえ子どもに伝わっていれば、子どもは安心して無茶ができます。若いときには安心して無茶しないとダメです。
野田智助さんというカヌーのおじさんがいます。親戚ではありません(笑)。早稲田のボート部出身で、大学出て勤めてすぐにイヤになって、放浪の旅に出て、カヌー担いであちこちヒッチハイクしていた。あるトラックの運転手が「お前何やってる?」と言うから、「何もしないでバイトしながら旅してる」と言ったら、「いい年して真面目に働かんといかんじゃないか」と言われた。野田さんはすごく怒った。「俺は真面目だからこんなことをしている。真面目じゃなかったら勤めているわね」。真面目じゃなかったら勤めているんですよ。人生のことをほんとに真剣に真面目に考えたために勤められなくなって、さすらいの旅に出て、飯場仕事をしてもいじゃない。それは今の矛盾した社会の中で、真剣に自分の生き方を探すとすれば、どうしてもそういう時期が必要です。そこでやがて見つかるかもしれないし、見つからなくて、不真面目なまともな社会に戻ってくるかもしれない。どっちでもいいです。(回答・野田俊作先生)
2,孔子曰く、天下道有れば、則ち礼楽征伐、天子より出ず。天下道なければ、則ち礼楽征伐、諸侯より出ず。諸侯より出ずれば、蓋(けだ)し十世にして失なわざること希(まれ)なり。大夫より出ずれば、五世にして失なわざること希なり。陪臣国命を執れば、三世にして失なわざること希なり。天下道有れば、則ち政は大夫に在らず。天下道あれば、則ち庶人は議せず。
孔子が言われた。「天下に正しい道(政治、秩序)が行われていれば、礼楽・征伐を行う実権は天子が握っている。天下に正しい道が行われていなければ、礼楽・征伐を行う権限は諸侯に握られている。諸侯がこの権限を握るときは、十代後にこの権限を失わないものは稀である(きっと失うということ)。諸侯の大夫がこの権利を握るときは、五代後にこの権利を失わないものは稀である。諸侯の陪臣が国家の政権を握っているときは、三代後にこの権限を失わないものは稀である。天下に正しい道があれば、大夫が政治の実権を握ることはなく、庶民が政治の議論を戦わすこともない」。
※浩→ここでは反民主的で封建主義的な身分制度を強調しているようです。人には身分や立場によってそれぞれが担うべき役割と責務があるという話で、分不相応な越権行為(謀反・叛逆)が繰り返されると国が乱れ人民が困窮します。最も正しい政治形態は、国を治めるべき天命を拝受した天子(君主)に政治の実権が握られている「君主政」で、諸侯やその家臣が天子の代わりに政治の実権を握る状態を指して「道が行われていない」と言っています。下剋上です。天命思想は、日本で明治維新を実現する原動力となった『王政復古・尊皇攘夷・大政奉還』などの思想・理念にもつながっていると考えられます。
この図式はあまりにも厳しくて、ここの孔子の言葉が孔子の言葉かどうか怪しまれています。吉川先生も貝塚先生もそのお考えです。実際に周王朝の全国支配の権利は諸侯(覇者)の手に移っていて、諸侯の支配権はさらにその下の大夫や士に移ったりして、下剋上は加速度をもって進行していて、孔子はその将来を案じていたのは確かですが、ここまで厳しくなったのは、孔子の学説が弟子・孫弟子と伝わっていく間に次第に体系化されて図式が明瞭になっていったと考えられます。ここでは、「天下道あれば、則ち庶人議せず」とありますが、儒家の準経典の「国語」の「周語」には、「天子の政(まつりごと)を聴くや、公卿より列士に至るまで詩を献ぜしめ、瞽(こ:めしい)には曲を献ぜしめ、史には書を献ぜしめ(中略)百工は諫め、庶人は語を伝う」とあります。この教えに背いた周の厲(れい)王は放逐されて、王位を失ったそうです。孔子自身の政治の理想は為政者の「徳治主義」でしたが、後世になるにつれて、エーリッヒ・フロムの言い方を借りれば、“土着化”していったように思えます。1992年のアドラー心理学会総会は横浜で行われました。私はその前年の91年の@大阪市立大学から参加しています。横浜総会では、野田先生の「基調講演」が、「心理学における土着思想と反土着思想」でした。古今東西の思想が形成された時点(元祖)では、クリエイティブ(創造的)だったものが、時代とともに次第に土着化していくというお話を、仏教や老荘思想などを引用しながらお話され、その後、機関誌『アドレリアン』に投稿されました。一部を引用します。↓
創造的な思想、批判的な思想はどのようにして堕落するか。エーリッヒ・フロムは、「創造的思想は常に批判的思想である」(『フロイトを超えて』)と言っている。いったい何を批判するか。当たり前ということを批判する。われわれの社会がこれは当たり前だと思っていることを疑ってみる。もう一度ご破算にして考え直してみること。
創造的思想が文化の価値観を批判する時、それへの反動として、文化が本来持っていた価値観を擁護するための思想が形成されてきます。これを土着思想と呼ぶことにします。土着思想は、批判の否定ですから、「考えることをやめて、現状をそのまま受容せよ」と主張します。これが土着思想の基本的メッセージです。
土着思想の例として、例えば、神道の思想をあげることができるでしょう。古代日本の文化的自明生が言語化されたものが神道ですが、これは仏教という外来の思想に触れてはじめて思想化されました。仏教が批判的創造的な役割を果たした時代があったのです。神道は、日本古来の価値観を反映していると思われますが、歴史的に見れば、仏教への反動としてはじめて言語化されたものです。以下、長く続きますが、ここでは省略します。
Q0301
人をもてなすとき食器やテーブルセッティングなどにこだわるのは、周囲を仕切りたい人だと言われます。人を喜ばせたいと思う心の背景に支配欲があると言われます。趣味や好みや個性の表現で、押しつけがましくない限り、その人らしさというとらえ方をしたいと思います。趣味や好みにこだわり続けることは感性を磨くことに通じると思います。趣味や感性を磨くことをアドラー心理学ではどのように考えるのですか?
A0301
難しいことを聞かないでよ。自分の分析をするのはやめたほうがいい。自己分析、自分が何をやっているかを分析するのはトラブルに巻き込まれたときする。子どもが無気力になって1日中寝ていると、それはトラブルでしょ。そのときはひょっとして私は何かしていると思う。子どもの無気力の片棒をきっとかついでいる。それは例えば、無気力でないように期待している、これが片棒だと思う。トラブルに巻き込まれてなかったら、何もしなくていい。自動車と同じで、変な音がしたり止まったりしたら修理屋さんに持っていく。快適に走っているのにしょっちゅう中を見て分解したらいけない。テーブルセッティングを美しく仕上げて、お客さんが「なんでこんなことする」と怒ったら、トラブルに巻き込まれたから考えます。お客さんが喜んだら、トラブルがないんだから自己分析しなくていい。
支配性ってありますよ。当たり前です。生きているとは周囲を支配することです。生命の力とは何か。自分の都合に合わせてまわりを作り変える力を生命と言う。死んでいるものは周囲を作り変える力はない。物理法則で、石が落ちてきて下にある石を割ったとかいうのはあるが、あれは別に自分の都合に合わせて割ったわけではない。ライオンがシマウマを食べるのは自分の都合に合わせて食べている。お客さんが来て、私がお料理をたくさん作った。それは実は、みんなに「わーすごいね」と言われるため。「野田さんほんとに料理上手ね」と、優越感を持ちたいためなんです。それが目的なんです。別にみんな喜ばなくていい。僕がほめられればいいんです。突き詰めて考えればそうです。私の私利私欲で料理を作って、「私ってすごいでしょ」と言いたい私の私利私欲をみんなが利用して喜んでくれたらそれでいいじゃないですか。共存共栄で、私も儲かる、向こうも儲かる。お商売なんです。私の講演を聞いて、お金を払って、私は儲かった。皆さん方も損していない。私の話を聞いてたぶん儲かったんだ。支払いに応じただけの収益があるからみなさんおいでになる。くだらない話をしていると誰も来なくなる。それは共存共栄的でないから。
すべての人間関係がそうなので、私もいいし、相手もいい。突き詰めて言えば私の支配性とか、私の私利私欲とかそんなものです。でもそれをみんなが喜んでくれればそれでいい。みんなが迷惑すればトラブルがありますから、そのときは分析します。
趣味とか好みとかは私は大事だと思う。私はクラシック音楽が好きです。瞑想するんですが、だいたい普通の人は瞑想用のボーッとした音楽で瞑想する。私はクラシックをかける。ブルックナーの交響曲なんか。大きな音でシンフォニーがかかっていると私が瞑想しているんです。クラシック音楽は聞くのには修業がいる。歌謡曲はそんなに修業がいらない。クラシックがほんとに面白くなるにはかなり知識もいるし、聞き込みもいる。鑑賞眼、蘊蓄もいる。「これは若いときのバーンスタインだな」てなことを言わないと面白くない。コーヒーなんていうのも、友だちで凝っているやつがいて、「これはサントスがどれだけ入っていて、ルーマニアがどうの」とか、修業がいる。私は短歌を詠むんですが、短歌はものすごい修業がいる。書くのも修業がいるし、人のを鑑賞するにも修業がいる。5年も10年もかかる。
そうやって僕たちの文化遺産、われわれの文化の美的な部分の判断力、鑑賞力はトレーニングしてやっとできるもので、それは大事にしていきたい。安易に誰にもパッとわかるものも一方でいるけど、ただ鑑賞するだけで美しいものがこの世にあっていいのではないですか。
そういう点で、感性を磨くことはいいことだと思います。人間の3つの心の働き。理性で判断することと、悟性、見て感覚的にわかることと、それを鑑賞する力、昔、カントが言った(浩→実践理性、純粋理性、判断力)が、鑑賞する力は大事です。今の子どもたちはどうも、学校でクラシックを聞かせるためかと思うんですが、クラシック鑑賞力が落ちていて困る。電車の中でシャカシャカやかましいのを聞いている子がいるでしょ。(回答・野田俊作先生)
1,季氏、将(まさ)に顓臾(せんゆ)を伐(う)たんとす。冉有(ぜんゆう)・季路(きろ)、孔子に見(まみ)えて曰く、季氏、将に顓臾に事あらんとす。孔子曰く、求よ、乃(すなわ)ち爾(なんじ)是れ過てること無きか。それ顓臾は、昔者(むかし)先王以て東蒙(とうもう)の主と為し、且つ邦域の中(うち)に在り。是れ社稷(しゃしょく)の臣なり。何を以てか伐つことを為さんや。冉有曰く、夫子これを欲す。吾二臣は皆欲せざるなり。孔子曰く、求よ、周任(しゅうにん)にあり、曰く、力を陳(の)べて列に就き、能(あた)わざれば止(や)むと。危うくして持せず、顛(くつがえ)って扶(たす)けずんば、則ち将(は)た焉(いずく)んぞ彼(か)の相(しょう)を用いん。且つ爾(なんじ)の言過てり。虎(こ)・兕(じ)、柙(こう)より出で、亀玉(きぎょく)、犢(とく)中に毀(こぼれ)たれば、是れ誰の過ちぞや。冉有曰く、今夫(か)の顓臾は固くして費(ひ)に近し。今取らずんば、後世必ず子孫の憂いと為らん。孔子曰く、求よ、君子は夫(か)のこれを欲すと曰うを舎(お)いて必ずこれが辞を為すことを疾(にく)む。丘(きゅう)は聞けり、国を有(たも)ち家を有つ者は、寡(すく)なきを患(うれ)えずして均(ひと)しからざるを患え、貧しきを患えずして安からざるを患うと。蓋(けだ)し均しきときは貧しきこと無く、和すれば寡(すく)なきこと無く、安んずれば傾くこと無し。それ是(か)くの如し、故に遠人(えんじん)服せざるときは則ち文徳を修めて以てこれを来たし、既にこれを来たすときは則ちこれを安んず。今、由と求とは夫子を相(たす)けて、遠人服せざれども来たすこと能わず、邦(くに)分崩離析(ぶんぽうりせき)すれども守ること能わず、而して、干戈(かんか)を邦内に動かさんことを謀(はか)る。吾恐る、季孫(きそん)の憂いは顓臾に在らずして蕭牆(しょうしょう)の内に在らんことを。
魯の家老・季氏が顓臾(山東省の小城)を征伐しようとした。冉有(ぜんゆう)と季路(きろ)とが孔子にお目にかかって申し上げた。「季氏が顓臾に攻撃を仕掛けようとしています」。孔子が言われた。「冉有よ、それはお前の過ちではないか。顓臾という国は、昔、先祖の国王が東蒙の山神の祭主と決められて、魯国の領域内にある。属国としてれっきとした譜代の家臣であるのに、何の理由があって征伐するのだ」。冉有が言った。「かの方(季康子)が討伐を欲せられたのですが、私たち二人は討伐を望んではいません」。孔子が言われた。「冉有よ、大史の祖である周任の言葉に、『力の限りを尽くして任務に当たり、力が及ばない時には辞退する」というものがある。主君の危難を見て支えず、主君が倒れても助けないというのでは、どこに宰相の役目があろうか。お前の言葉はさらに間違っている。虎と兕(じ=野牛に似た一角の獣)の猛獣が檻から逃げ出して、大切な亀の甲と玉の宝石が箱の中で壊れたとしたら、それは誰の責任か?それと同じことではないのか」。
冉有が申し上げた。「かの顓臾の国は難攻不落で季氏の持つ費の城に近い場所にあります。今この機会に顓臾を攻め滅ぼしておかないと、後世になって子孫の苦悩となるでしょう」。孔子が言われた。「冉有よ、君子は正直に『欲しい』と言わないで、別の理由を考え出すような、虚偽の人間を嫌うものだよ。私の聞くところでは『国を保ち家を保つものは、人民の貧困を心配せず、不平等であることを心配する。人民の少ないことを心配しないで、人民が安定しないことを心配する』という言葉ある。平等であれば貧しいことはなくなり、和合していれば人口の少なさは気にならなくなり、人心が安定していれば危険はなくなるのである。こういう次第だから、遠国が服従しない場合には、文化的な外交政策でなつかせて来朝(朝貢)させるのである。遠国が来朝して交友が深まれば安定する。今、子路と冉有は、季氏様の補佐をしているのに、遠国が服従せず、さらになつかせて来朝させることもできない。それに国家(魯)が分裂分解しているのに、これを防ぐこともできない。その上、国内において軍隊を動かそうとまでしている。私が密かに恐れているのは、季氏の危険は、遠くの顓臾ではなく、身近な門内にあるのではないかということなのだ」。
※浩→いきなり長文です。『論語』最長の文は、「先進篇」に315字(白文で)がありました。ここはそれに次いで第二位です。274字あります。
「顓臾(せんゆ)」は、山東省の小城で、領主は代々、魯の保護国として魯に帰属していた。魯の家老筆頭の季氏は、すでに広大な地域を魯国内に所有していたが、さらに野望をたくましくして、武力で顓臾を伐ち併合して自分の領地としようとしました。このことを、季氏の家臣となっていた冉有と子路が孔子に報告に来て、孔子から厳しく叱られています。この出来事がいつのことかは怪しいそうです。子路が季氏の家臣となったのは前498年で、冉有が季氏の家臣となったのは前484年ですから、この事件のときに両者がともに孔子を訪問することはありえないそうです。本文ラストの、「季氏の危険は、遠くの顓臾ではなく、身近な門内にある」は、前502年に季氏の家臣・陽虎が下剋上をして季氏を軟禁した事件があり、冉有と子路が季氏の家臣となったのは、それよりのちの時代のことで、そう言われています。孔子のここでの弁論は、戦国時代に潤色されて現代に至っているという説が有力のようです。
これだけ長い本文と現代語訳と解説がある上に、さらに私のコメント入れることは憚られます。よって、省略ということに。