13,子曰く、郷原(きょうげん)は徳の賊なり。
先生が言われた。「えせ(偽者)君子は、道徳の盗人、あるいは冒涜である」。
※浩→徳の本質を重視する孔子は、外見や動作、服装だけを君子らしく見せかけて大衆を騙している人物を強く嫌悪しています。「郷原」の「原」を古注では「ゆるす」と読んで、誰にでも八方美人的な人間という意味です。新注では、俗にこびるにせ者の意味ですが、吉川先生は「えせ君子」と訳されていて、貝塚先生も絶賛されます。世の中には、芸術・学問・宗教・道徳の盗人がどれほど多いことかと言っているのですが、そう言われると私はドキッとします。日本では、「狂言師、見てきたような嘘を言い」と言われます。「見栄の大森」の私ですと、孔子先生にコテンパーにやられそうです。昔、備前高校でボート部の顧問をしていたころ、この部は大規模な部で、顧問が常に3人いました。その3人の顧問がよく、「誰が一番ええカッコ師か」、楽しい論争していました。この学校ではいろいろ事件もありましたが、職員どうしの結束が強くて、そのたびにワンームで乗り越えることができていました。自己弁護をしますと、その「見栄張り」も、世の中に役立つように活用することはできそうですし、実際はいくらかでもそうできている面もあります。全面否定する必要はないと思います。アドラー博士も「何を持っているかが重要ではなくて、持っているものをいかに使うかが重要だ」とおっしゃいます。
Q0327
ヨコの関係が大切なのはわかりましたけど、実際に職場で上司や部下の関係になると難しく感じますが……。
A0327
実は自衛隊にアドレリアンが1人います。で、同じような質問が出たときに、私はこのように答えたんです。自衛隊のような組織では上下関係というか、指揮・命令の伝達系等が崩れますと、全員が死ぬわけです。ですから、誰が指揮者であり誰が部下であるかということは非常にはっきり区別され、指揮系統、命令系統が常にきっちりとしていなければなりません。
自衛隊以外の組織、普通の会社のようなところでも、指揮命令系統ははっきりしていなければなりません。しかし、そのことと人間の価値とは別です。上司が部下にある指示をする、部下がそれに従うということは、それは役割の分業なんです。
上司は大きな権限を持ちます。その代わりに大きな責任を持ちます。部下は小さな権限しか持ちませんが、責任の量も小さいわけです。そういう意味で、平等なわけです。
その中での役割の分担なんです。役割の分担を人間の価値の上下と決して混同してはいけない。役割の分担についてはアドラー心理学ではOKだと、役割の分担があることが平等なんだと言います。
もちろん、現代の日本の企業の中で、職制の上下が人間の価値の上下と混同されていることは認めます。それは非常に良くないことだと思います。職制の上下は職制の上下なんだとはっきり意識すべきです。職制の上下はあっても、人間としては、上司も部下もまったく平等です。上司は部下を尊敬しなければいけないし、部下は上司を尊敬しなければいけない。そして、協力して企業という組織、企業という利益共同体を維持していかなければならないと、発想の転換をする必要はあると思います。(回答・野田俊作先生)
12,子曰く、色厲(はげ)しくして内荏(やわ)らかなるは、諸(これ)を小人に譬(たと)うれば、それ猶(なお)穿窬(せんゆ)の盗のごときか。
先生が言われた。「顔つきは厳めしいが、内面(心)はぐにゃぐにゃなのは、小人にたとえると、壁・塀に穴を開けるコソ泥のようなものだろうか」。
※浩→“巧言令色”を嫌った孔子が、ここでは表情だけ厳格で内面に信念がない人物を、小人の盗人になぞらえて厳しく非難しています。「穿」は壁に穴を掘ること、「窬」は蘠(かきね)に穴を掘ることです。
私も「顔つきが厳めしい」時代がありました。でも、「心はぐにゃぐにゃ」ではなかったかもしれません。アドラー心理学に出会う前は、授業でもいよいよ窮したら怒鳴っていました。いよいよ極限状態に達した時期には転職も考えましたが、その後、大学の恩師に相談して「カウンセリング」という世界があることを知り、以後は知恵を絞って、暴力的対応に変わる技術を工夫するようになりました。
それでも「見栄の大森」はずっと健在で、自分の外観はかなり気にし続けてきました。これも「中庸」が大切で、「華美になりすぎず」「不潔になりすぎず」を心がければいいのではないかと思っています。
野田先生は、子どもさんたちに、「うちのお父さんは怒らないけど怖い」と言われていたそうです。どうしてかというと、「言ったことは必ず実行し、実行しないことははじめから言わない」からだそうです。
Q0326
同じ親が育てていて環境はほとんど変わらないのに、不適切な行動をとる子と、適切な行動をとる子ができるのはどうしてでしょうか?
A0326
きょうだい競合です。親という1つの賞品をめぐって子どもたちが競争関係にある。自分以外のきょうだいが、賞賛をたくさん手に入れるので、自分がいくら努力しても、他のきょうだいほどたくさんの賞賛を得ることができないと思うと、注目、あるいは権力という、より不適切な目標を中心にして行動する子どもができてきます。
もしも、きょうだい全員が不適切な行動をする場合、これは「家族の価値」(両親が共通して持っているかあるいは対立している価値観)に問題があります。例えば、両親ともに犯罪者の家庭だと、犯罪的な価値観を当然身につけやすく、全員が不適切な、反社会的な行動に走りやすくなるでしょう。
しかし、きょうだいの内の1人だけ、あるいは、ごく少数が不適切な行動をし、大多数は大丈夫だという場合には、家族の価値でなく、「家族の雰囲気」(親の問題解決の方法)の側に問題があります。
何が正しく何が誤っているかは理解されているが、家族の雰囲気がきょうだいの競争をあおる雰囲気であるために、子どもたちが競争をして、ある者は勝ちある者は負け、その負け組が不適切な行動を始めるわけです。(回答・野田俊作先生)
11,子曰く、礼と云い、礼と云う、玉帛(ぎょくはく)を云わんや。楽と云い楽と云う、鐘鼓(しょうこ)を云わんや。
先生が言われた。「礼だ礼だとやかましく言うが、何も神(祖先)に捧げる玉や絹ばかりが礼ではなかろう。音楽だ音楽だとやかましく言うが、鍾や太鼓を鳴らすばかりが音楽ではなかろう」。
※浩→「礼楽の形式」よりも「礼楽の本質(精神性)」のほうがより重要であることを簡潔に述べています。神への捧げものや実際の音楽演奏だけが礼楽の道ではないということで、弟子たち、特に子張・子夏・子遊などの若い弟子たちは、とかく本質(=礼楽の精神)を忘れているので、戒めたのでしょう。
「礼」は、秩序ある善意あるいは愛情の象徴的表現で、「楽」は、秩序ある調和の象徴的表現です。象徴的表現ということは「道具」がいります。礼の道具はまず、「玉(ぎょく)」と「帛(はく)」(玉を載せる布)で、音楽の道具(=楽器)はまず鐘・太鼓です。重要なのはそれらによって象徴される精神です。
昔、水前寺清子さんが「ボロは着てても心は錦、どんな花よりきれいだよ、若いときゃ二度ない、どんとやれ男なら、人のやれないことをやれ」と元気良く歌っていました。「いっぽんどっこの歌」でしたか。彼女は熊本出身で、“女村田”という愛称もありました。浪曲演歌の大御所・村田英雄さんを思わせるパワーが魅力です。節々の端が「ぃよっ!」とか「ぃやっ!」とかで終わるのが特徴的でした。熊本と言えば、筆者は、民謡の「おてもやん」が大好きです。ところが、熊本方言で歌われているので、意味がほとんどわかりません。
おてもやん あんたこの頃嫁入りしたではないかいな (おてもさん、あなた最近結婚したんじゃないの?) 嫁入りしたこたしたばってん (結婚したことはしたけれど) ご亭どんがぐしゃっぺだるけん、まあだ杯ゃせんだった (旦那が天然痘跡が残っていてブ男なので)、まだ三々九度の杯はしてないの) 村役(むらやく)鳶役(とびやく)肝入り(きもいり)どん (村の役付きさんや火消しの頭や仲人さん) あん人たちのおらすけんで あとはどうなっときゃあなろたい (いろんな世話役がいらっしゃるので、あとはうまくとりなしてくれるでしょ) 川端町つぁんきゃあめぐろたい (それより、川端町の方に回って歩きましょう♪) 春日ほうぶらどんたちゃ 尻ひっぴゃーで 花ざかり花ざかり (春日のかぼちゃのような男たちが裾を引っ張ったりして、私は人生の花盛りなの♪) ピーチクパーチクひばりの子 玄白なすびのいがいがどん (ひばりのように浮かれっぱなしの男や、野暮ったいイガグリ男たちは私の趣味ではないからね!)
一つ山越え も一つ山越え あの山越えて 私はあんたに惚れとるばい 惚れとるばってん 言われんたい おいおい彼岸も近まれば 若者(わきゃもん)衆も寄らすけん 熊本(くまんどん)の夜聴聞詣(よじゃもんみゃ)りに ※夜説教を聞くこと ゆるゆる話も きゃあしゅうたい(ついでだからやりましょう) 男振りには惚れんばな 煙草入れの銀金具が それがそもそも因縁たい あかちゃかべっちゃかちゃかちゃかちゃ
おてもやんは、見かけだけでなく、煙草入れの銀金具が素敵だとかそういう男っぷりに惚れる女性のようです。なかなか粋な女性です。「おてもやん」については、肥後(熊本)の若い女性の通称とも、明治の終わりに実在した人物とも言われているそうですが、真相は定かではありません。作詞、作曲、 振付けは慶應元年生まれの永田稲(イネ)さんだと伝えられています。