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論語でジャーナル

22,子曰く、君子は矜(きょう)にして争わず、群するも党せず。

 先生が言われた。「君子は厳然と高潔な態度を取っているが他人と争うことはない。また、大勢の人と交流するが党派に加わることはない」。

※浩→有徳の君子は、謹厳実直に己を持している(矜恃=きょうじ→ここから“矜持”が生まれたらしい。* に)が、その自尊心の高さゆえに他人と争い合うような狭量なところはない。(寛容で温かみのある君子は)他人との幅広い交流を持つが、特定の党派に入って派閥争いをするようなこともない。「高潔の士」であっても、高ぶらず争わず、人々と交わっても「党派」に属さない。「高潔・孤高の人」は、ニーチェの「超人」を思わせ、「争わない」ところは、老子の「謙下(けんげ)不争」を思わせます。神を否定することで、一旦ニヒリズムになり、新たに「権力への意志」に目覚めた「超人」を目ざす人間の道徳=君主(貴族)道徳に対して、キリスト教を含む従来の道徳を「畜群道徳」とか「奴隷道徳」とか言って区別したニーチェの思想は、アドラー心理学の「目標追求の生き方」の原点になっていてます。ニーチェについては、常々じっくり学び直したいと思っています。ネットはありがたいです。著者は不明ですが、とてもまとまった論文を見つけましたので、引用させていただきます。著者さま、ありがとうございます。↓
 ニーチェは人間の道徳を二つの類型に分ける。君主道徳と奴隷道徳である。この区分は一見して、ニーチェが以前に展開していた二項対立図式であるところの「自由な精神と束縛された精神」、「高貴な人間と卑俗な人間」に対応しているように思われる。一方では自由な精神の持ち主が高貴な人間となり、その高貴な人間が支配者となって君主の道徳を作り上げる、他方で、束縛された精神は卑俗な人間となって奴隷の道徳を作り上げるというものである。
 ニーチェにとって「自由な精神」とは、既成の価値に囚われない目で見、それによってその欺瞞性を暴露して転倒をはかるものであったが、その自由な精神とは、歴史的にはもともと、高貴な人間として君主道徳を形成していたこともあるのだ。だが、君主道徳は没落して奴隷道徳が世にはびこるようになった、というのがニーチェの基本的な認識枠組である(浩→野田先生は「創造的思想」と「土着思想」と区別されました)。それゆえ、ニーチェにとっては、奴隷道徳を克服することで君主道徳をもう一度復活させることが肝要だ、ということになる。
 「道徳的価値差別には二つの発生点がある。その一は、被支配者に対する自己の差別を快感をもって意識する支配者族であり、その二は、奴隷またあらゆる程度の従属者などの被支配者である。前者の場合にあっては、支配者が『善』という概念を定めるのであって、自己の高揚した矜持ある魂の状態が優越と順位を決定するものとして感じられる。高貴なる人間は、かくの如き昂揚した矜持ある状態の反対を示すような事物を軽蔑する。ここにただちに見よ、この第一種の道徳にあっては、『善』と『(劣)悪』の対照は、ほぼ『高貴』と『軽蔑すべきもの』にあたっている・・・高貴な種類の人間は、自己を価値決定者として感じる。彼は他人によって是認されることを要しない・・・彼は価値の創造者である・・・君主道徳は、人はただ彼に等しき者に向かってのみ義務を有して、下位の階層の者やすべて見知らぬ者に向かっては「心の赴くままに」行動してよい、という原則を立てている」(『善悪の彼岸』竹山道雄訳、以下同じ)
 ニーチェはここで、人間の歴史について語っているようにもみえるし、そうではなくて理念的な(非歴史的な)典型について語っているようにも見える。歴史が問題ならば、(高貴な人間としての)支配者がかつては実在したのだということになるし、典型が問題ならば、過去のことはさておいて、将来に向けてどのような道徳が望ましいのかということが重要になる。どちらにせよ、ニーチェは、人間というのは支配する立場に立つものと、支配される立場に立つものとに必然的に別れるのだと見る。そうして支配するものは、彼自身が価値の創造者である、したがって彼は、彼よりも弱い立場の者に対して「心の赴くままに」行動してよい、という露骨なエリート論の立場に立つ。
 「道徳の第二の類型たる奴隷道徳はこれとは全く類を異にする・・・奴隷の目は強者の徳に対して好意を持たない・・・ここに讃えられるのは、同情であり、優しくいたわる手であり、温情であり、忍耐であり、勤勉であり、謙抑であり、親切である。何となれば、これらのものは生存の圧迫を忍ぶために役に立つ性質であり、あるいはその唯一の手段だからである。奴隷道徳は本質的には功利道徳である。ここに、かの「善」と「(凶)悪」なる有名な対照の炎をたてる火壺がある。すなわち、奴隷は強者の力と危険性を(凶)悪という形で感得する。そして、その恐ろしさを、無視しえぬ巧みと強さを認める。かくて、奴隷道徳によれば、(凶)悪人は恐怖を呼び起こすのである」(同上)
 支配者が、自分自身価値の創造者として絶対的な権威を持っているのに対して、奴隷は支配者に支配されているという限りで、支配者の付属物に過ぎない。奴隷は自立した人間ではありえない。奴隷という言葉自体が、そのうちに支配という概念を含んでいるのだ。支配者によって支配される者、それが奴隷なのだ。だから奴隷道徳は、支配者への恐怖の上に成り立っている。奴隷たちにとって支配者は悪人なのであり、善人とは自分たちのことであると、奴隷道徳は言う。だが人類を向上させてきたのは、善人である奴隷たちではない。「『人間』の類型を向上せしめたのは、これまで貴族社会のなしたことであった・・・真実は冷酷である。これまですべての高度の文化がいかにして地上に始まったかを、ここに仮借なく言おう!それは、いまだ枉げられざる自然のままの人間、言葉のおそるべき意義における野蛮人、またいまだ不屈の意力と力の渇望を持っている猛獣的人間が、より弱くより順風美俗化してより平和な、おそらく商業や牧畜を営んでいた人種を襲ったのである」(同上)
 人類の類型を向上させてきたのは君主道徳なのだ。支配者たちは力強いものとして、より望ましいものとして、高貴なものとして、自分以外の者を自分の水準に引き上げてやる力がある。一層力強い支配者が生まれることで、人間社会はいっそう高い水準に上ることができる。反対に奴隷道徳ができることは、何もかもを奴隷の水準に引き下げることだけだ。だから人類の向上という広い視点から見れば、われわれはより一層強力な支配者の階級を作るべく努力すべきだ、ということになる。こうして、ニーチェの議論は、貴族の復権とその心構えをめぐって展開していく。
 「真の貴族制の根本心情は、社会は社会自身のためには存在すべからず、というにあるべきであり、社会の存在理由は、ただ選ばれた種族がより高き任務~より高き存在とまで向上するための土台であり足場である、というにあらねばならぬ」(同上)
 こうして高貴な人間たちには、社会全体を引き上げていくべき役割が期待される一方、奴隷たちには支配者に従属してその犠牲になることが要求される。
 「素朴な人々の耳を不快にすることを覚悟して、私は明言する、~エゴイズムというのは『われらがある』ごとき存在に対しては他の存在はその本性上従属して犠牲となるべきであるという、かの確固たる信念を指す」(同上)
 ここまでで、ニーチェのエリート論も徹底した相貌を呈する。エリートは社会全体を向上させることに意義を持つのだから、自分に対して誇りを持ち、常に上昇することをのみ考え、奴隷たちの水準に自分を引き下げることなど考えてはならない。
「われらの義務を万人に対する義務にまで引き下げることを、決して考えぬこと」(同上)
「高貴なる者は自己に対する畏敬を持つ」(同上)
 しかし実際の歴史においてはなぜか、支配者道徳が尊重されることはなかった。それどころか没落を余儀なくされた。それにかわって奴隷道徳が社会の規範となって、すべての人を抑圧してきた。それはいったいどういうわけからなのか。その点については、「道徳の系譜学」という形で、説明されるであろう(浩→『善悪の彼岸』の続編に『道徳の系譜』があります)。
 ↑引用終わり
 ニーチェの「君主道徳」といえば、1992年のアドラー心理学会・横浜総会での野田俊作先生の基調講演「心理学における土着思想と反土着思想」を思い出します。これは機会を改めてご紹介します。

 * 「矜持」=「自分に自信と誇り、プライドがあって自制心も持ち合わせているさま」
  「矜恃」=「自分に自信と誇り、プライドがあって堂々とふるまっているさま」

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すぐキレる子への対応

Q0289 
 小学校3年生の担任です。クラスに些細なことでも1日に数回切れる子がいて、担任の言葉も入りません。相手を決めつけたり、自分が相手を叩いても、「していない」と言って認めようとしません。その上、物を投げたり、相手を叩いたりして、言葉では対処できないことが多くて困っています。何か良いコミュニケーションの取り方を教えてください。

A0289
 前後関係がわからないからよくわからないけどね。
 1つは、子どもが感情の制御の仕方を知らないのかもしれないから、「ポジティブタイムアウト」を教えてあげる。みんなから離れて気分良くできる方法です。教室の後ろのほうに気分良くできるための席を作って、そこへ行って本を読んだり何しててもいいから、「落ち着くまでそこにいてちょうだい」というのを、冷静なときに取り決めておいて、いよいよキレ始めたら、口で言うと怒るかもしれないから、そこへ行くことにしておいて、何回かお稽古すると、子どももそれは自分の助けになると思ってくれればしてくれるかもしれません。
 1つは、まあ一般的な原理として、子どもがクラスの中で不適応行動を起こすのは、クラスに対する所属感がないからだと思う。「自分はこのクラスの一員だ」、「ここは私のいる場所だ」と感じられないからだと思う。
 それはどうしてか。同級生からの尊敬を得られていないから。あるいは、自分は何も役に立ってないと思うから。だから、彼を役に立ててあげればいいわけです。この子の得意なことが、他の子の役に立てられるように考えてあげたい。例えば、朗読が得意だったら、朗読のやり方をみんなに教えてもらうとか、動物を飼うのが得意だったら、動物の飼い方を教えてもらって実際に動物を飼ってもらうとか、何かこの子ができて他の子が感心するようなことを見つけると、こういう奇妙な行動でみんなの注目関心を引かなくてもよくなると思います。(回答・野田俊作先生)

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論語でジャーナル

21,子曰く、子曰く、君子は諸(これ)を己(おのれ)に求め、小人は諸を人に求む。

 先生が言われた。「君子は(求めるものを)自己の中に求めるが、小人は他人に対して求める」。

※浩→求めるものが何か、いろいろあるでしょう。ともかく期待するものは自己の中にある。自己の力によって期待を実現する。他人から与えられることを期待してはいけない、ということでしょう。貝塚先生はこう解説されます。孔子は、他人に何かを要求するような心は卑しく、自分を練磨して自分の内面から期待するもの・価値あるものを生み出そうとする心を尊いとしたのでしょう。言葉の連鎖で、「期待するもの」「価値あるもの」とは「目標」のことです。アリストテレスは、「最高善(=目的)は幸福」と言っていました。人間は目標・目的を追求して生きるというとアドラー心理学のようです。それは「善を追求する」ことだとすると、ソクラテスの「善く美しく正しく生きる。善にして美なるものを知る者は、それを措いて他のものを選ぶことは決してしない」となり、さらにプラトンの「善のイデアを追求する」にたどり着きます。功利主義では、「自分の幸せを他人に求めてはいけない。自力で達成せよ」でしょうか。仏教には「他力本願」と「自力本願」という考えがあります。「自力本願」であれ、ということでしょうが、こういうことが堂々と言えるのは、肥沃な農業社会にあって、人力の有効性が確認できたからでしょう。ユダヤ教やイスラム教のような(不毛な)砂漠で、自然の脅威にさらされる生活を強いられるとなると、絶対的で万能の「神」に帰依することに自己の幸福実現を求めざるをえなくなるでしょう。「他力本願」について少し調べてみると、他力とは自己を超えた絶対的な仏の慈悲の力(働き)、本願とは一切衆生(いっさいしゅじょう)の救済を約束する「仏の願い」を指します。この言葉は浄土真宗の教えを示す重要な基本用語ですが、正式には「本願他力」と言うのですか。親鸞上人によれば「他力とは本願力なり」ですから、一切衆生の救済はこれ(=他力)によって成立することを明らかにしました。世間では、何も努力しないで他人の力に頼ることを「他力本願」と言っていますが、これはまったく誤用です。仏教は、ユダヤ教のような砂漠ではなくて、ガンジス川流域の肥沃な土地で生まれましたから、唯一絶対万能の「神」に帰依するのではなく、悩める人自らの修行によって苦悩を解脱しようとしました。これは「自力本願」ですね。始祖のゴータマは自力本願で解脱したのに、その流れを継ぐ親鸞聖人は「他力本願」を説くというのは、凡人の私には理解が困難です。ただよほどの絶望状態からのお悟りではないかと推察するのみです。真宗の信徒さんから叱られそうです。ごめんなさい。
 野田先生は、「自立」というのは、人がすべてのことを自力で成し遂げることだとはおっしゃいませんでした。というのは、人はどこまでも「不完全な」生き物ですから、その能力には限界があります。どんな限界かは、哲学者がいろんなことを言っています。フランシス・ベーコンの「4つのイドラ」がわかりやすいです(これは今日はパス)。自力のみで達成困難なときは、人の協力を仰ぐことができること。それができてこそ「真の自立」だとおっしゃいました。そういえば、「人にものを頼むのは嫌いだ」と言う方がいます。そういう人は、ほんとの自立をしていないのかもしれません。

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夫婦トラブルに母が介入

Q0288
 夫婦仲が悪くなり2人が殺し合いをする前に、私の母が夫の本気相手(浮気相手でない)に談判し、すべてを仕切ったあげく、実家に子どもと2人で転がり込むことになって1年になります。現在調停中ですが、母は何かと仕切ろうとします。離婚に反対だからだと思うのですが、「あんたは人の言うことを聞かない頑固者だ、頭がおかしくなった」とひどく非難し、「あんたらのおかげで私がなんでこんなに苦しまなければいけないの」と言う始末。自分の考えが一番常識的で正しいという意識が人一倍強く、私は本当の気持ちが言えず、ただ母を怒らせずにいなければと、何だか恐くなってしまいます。自分自身1人の子の親である以上、このままではいけないと思うのですが、恐くて何も言えません。何か良い方法があるでしょうか?ちなみに母は私の娘に対する躾け方にまで口を出してきます。「アドラー的方法はもってのほかだ」と。

A0288
 お母様に感謝することです。「おかげでこうやって主人と別居することもできたし、毎日お世話になってほんとにありがとう」としばらく言う。そうするとお母さんは、「この子もずいぶん大人になったね」と思って、もっと手を緩めてくれると思う。「お母さんは勝手に仕切って邪魔よ」と思っているとそれは伝わるから、余計ムキになって「どんなに私が役に立つか見せつけてやろう」と思うんじゃないかと思う。
 親がこうやって子どもためにいろいろしてあげる、例えば、小さいときに子どもの着替えの手伝いをするとか、朝起こすとかしたい。それは子どもが可愛いからだけではない。「私はこんなにいい親だ」と自分に証明したいから。子どもがなかなか朝起きてこないけど、体験から学んでもらおうと思って起こさないでいると、すごく不愉快なんです。あの不愉快さは劣等感で、この劣等感を使って、「こんなに不愉快なんだから言っちゃおう」といくと、自己欺瞞的劣等コンプレックスです。何をしようとしているかというと、自分は正しい良い母親だということを証明しようとしていて、その自分が正しい親だということを証明する「自分の課題」のために子どもを犠牲にしている。このお母さんはいまだにそれをしていて、こうやって娘の夫婦関係を仕切ってあげるのは、結局自分が正しい良い母親だと証明するためでしょう。抵抗すればもっと証明したくなるから、「いいお母さんで、私のために一生懸命やってくれている」と言ってあげると、そんなに証明しなくてよくなる。だからたくさん感謝することですね。(回答・野田俊作先生)

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論語でジャーナル

20,子曰く、君子は世(よ)を没(お)わるまで名の称せられざるを疾(にく)む。

 先生が言われた。「君子は一生を終わるまでに、自分の名が世に唱えられないのを気に悩む」。

※浩→おやおや、前に言ったことと矛盾するのではないですか?「君子は人の己を知らざるを病(なや)みとせざるなり」と「世をおわるまで名(な)称せられざるを疾(にく)む」ですから。じっくり味わっていくと、「人に自分の“存在”を知られることと、“名誉”を残すこととは違うということだと思い当たります。少し安心です。君子は名誉を否定はしないんです。他人に認められるために学問するのではないが、学問して実力がつくと、世間に出て理想を実現するために働かないといけない。そうすればきっと、世の中の人に知られる“仕事”もできるはずである、という前提がないと、確かに前の考えと矛盾します。なるほど、「自分の存在」と「自分の残した仕事」とは区別しないといけません。アドラー心理学で言う「対人関係優位」の人は「自分への評価」、人からどう思われるかを気にし、「課題達成優位」の人は、自分が成し遂げる仕事を気にする、あれと重ねると、とてもよく理解できます。卒業式で、『仰げば尊し』を今でも歌うのでしょうか?戦後しばらく、歌詞が封建的だと考えられたためか、これは歌われなくて、『蛍の光』だけ歌われていたようです。ところが、私が22年勤務した岡山工業高校では歌っていました。卒業学年を担任した年は、卒業式が近づくと、ホームルームでこの歌の指導をしました。

 仰げば 尊し 我が師の恩
 教えの庭にも はやいくとせ
 思えば いと疾(と)し このとしつき
 今こそ 別れめ いざさらば

 互たがいに睦(むつ)みし 日ごろの恩
 別わかるるのちにも やよ 忘るな
 身を立て 名をあげ やよ 励めよ
 今こそ 別れめ いざさらば

 朝夕 馴(な)れにし 学びの窓
 蛍のともしび 積む白雪
 忘るる 間まぞなき ゆく年月
 今こそ 別れめ いざさらば

 なるほど、1884年(明治17年)に発表されただけに、歌詞は「古文」です。でも、スローテンポで、この歌を合唱すると、卒業式で絶対泣きます。岡山工業高校が式でこの歌を歌うことにしたのは、別に懐古趣味でもなければ封建的でもなかったと思います。明治緒近代国家創成期のフレッシュなエネルギーが溢れています、教師と生徒はまさに「師弟関係」で深い信頼関係を感じさせてくれます。さらには「世のため人のために」社会貢献的に生きていきましょうね、となると、現代において、最も欠損しているように思われるエキスが完全に揃っています。子どものころ、歌詞の意味がよくわかっていなくて、「思えばいと疾(と)し」を「思えば愛(いと)とし」と勘違いしていました。「疾(と)し」は「速い」ということです。さらには、高校で古典を習ってはじめて知った“係り結び”なんて、知るよしもありませんから、「今こそ別れめ」は「今こそ別れ目」だと信じ込んでいました。“係り結び”の法則を知って、このフレーズを分析すると、原文は「今別れむ(ん)」で、この「今」を強調して「今こそ」と「こそ」が付くと、あとの動詞「別れむ」の「む」が活用変化して已然形の「め」になるんです。これ、もしかしたら、大人だってよく知らないで歌っているかもしれません。
 超懐かしい映画、1954年に公開された映画『二十四の瞳』(主演:高峰秀子、松竹)では、オープニング・エンディングで合唱されていました。新しいところでは、2019年公開のアニメーション映画『天気の子』のクライマックスシーンで、主人公の生徒が高校の卒業式で歌ったそうですが、私は残念ながら観ていません。今度テレビで放映されたら観ます。古いものでも、こういう素敵な歌は大事な日本文化ですから、きちんと伝承していきたいです。

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