Q0310
人としての責任とは何でしょうか?責任と自己満足の違いはどこで見つけるんですか?
A0310
責任って仕事です。責任とは何かというと、私の仕事のことです。
昔、書いたことがあるんですけど、戦争責任というのがあります。この前われわれの国は戦争をした。大東亜戦争、太平洋戦争、第2次世界大戦。私は、シンガポールでショックを受けました。日本人のありとあらゆる残虐行為を陳列している。中国人をいじめたのは失敗だった。『史記』とか『十八史略』とかあるでしょう。中国3千年の歴史を書いた本がある。あそこで「何とか民族は悪いやつでわれわれをいじめた」と書いてあるから、日本民族もこれから2千年とか3千年とか言いつのられますよ。あの人たちは僕たちと違って忘れないから。日本人と違ってさらりと水に流してくれませんから。何しろ中華料理食っているから元気なんですよ。シンガポールは中国人の国ですから言いつのっている。
シンガポールでは中国人を虐さつしました。日本の軍隊は、中国人はスパイダと思った。どれがスパイかわからない。インテリがスパイだと思った。どうやってインテリだとわかるか。眼鏡かけているのがインテリだ。眼鏡かけた中国人みなの首をくくったという恐ろしいことをしている。15万人くらいの普通の市民をころしている。地下鉄工事の現場から頭蓋骨がたくさん出てきた。
そのときすごく責任を感じました。私は戦後世代ですが、やはり僕らのおじいさん、おばあさん、おばあさんはしないか、おじいさんやお父さんたちのした行為だし、それと同じ心・同じ傾向性は今の日本文化の中にも絶対にあると思う。昔の日本軍が持っていた体質は、今の日本人も同じように色濃く受け継いでいて、いつかまた戦争になったら必ず同じことをするぞと思う。それは海外旅行していて日本の団体さんと会うと思う。こいつら兵隊になったら昔の兵隊さんと同じことをするだろうと思う。すごく躾けが悪いから。
それで、責任を取らないといけないと思いました。そのためには、まず戦争をしない、問題解決を怒りや暴力で解決しない日本国民を作らないといけない。いつも冷静に理性を頼りにして、話し合いと協力でもって問題解決するということを子どもたちに学んでもらわないといけない。それは家庭の育児や学校の教育の中で、本当に民主的な、自己責任・自己選択・自己決断という生き方を子どもたちに学んでもらうことが私の戦争責任だと思った。だから今責任を取っているんです。
アドラー心理学をみんなに伝えているこということは。第2次世界大戦に対する私の戦争責任なんです。変な考え方でしょう。責任という言葉の使い方が違う。責任とはわたくしの仕事のことです。わたくしがしなければいけない仕事。そんな大袈裟な話でなくても、例えばコンビニに勤めて弁当売っているのは責任なんですよ、世界に対する。それは夜中にどうしてもお弁当が必要な人たちがいて、その人たちに対する責任を果たしているわけでしょう。みんなが自由に便利に暮らせるように手伝っている。
仕事っていうのは全部そうなんです。どんな仕事も、この世界がうまく回っていくように、人々がしあわせに暮らせるように仕事しているわけで、ただ自分が儲かるためだけにしているわけじゃない。もちろん儲かるんです。共存共栄です。自分も儲かり、人々も不自由じゃなくなるというのが仕事で、それが責任だと思います。(回答・野田俊作先生)
10,孔子曰く、君子に九思あり。視ることは明を思い、聴くことは聡を思い、色は温を思い、貌(かたち)は恭を思い、言(ことば)は忠を思い、事は敬を思い、疑わしきは問いを思い、忿(いかり)には難を思い、得るを見ては義を思う。
孔子先生が言われた。「君子には九つ考え方がある。見るときははっきり見たいと考える。聞くときにははっきりと聞きたいと考える。顔つきは温和でありたいと考える。態度は恭しくありたいと考える。言葉は誠実でありたいと考える。仕事は慎重にやりたいと考える。疑わしいことには問い糾したいと考える。怒りにはのちのちのの困難を考える。利益を前にしては取るべき筋合いかどうかと考える」。
※浩→最も箇条書き的な条です。君子の徳目を「九思」という形でまとめたもので、君子たる者がどのようなふるまいや態度を取るべきなのかを直感的にイメージすることができます。
日本語の「思う」は漠然としていて、「思考」「意志・欲望」「感情」などをすべて「思う」で表現されます。そのためか、常々感情表現が適切でなく、思考を述べることが多いのは周知のことです。英語では「考える」はthinkで、「したい・欲する」はwantやwould like to~で、「感じる」はfeelとはっきり使い分けています。中国語も「思」は「考える」「反省する」「思索する」に限定して用いられる。ここでは、生活の習慣に則して考慮することで、行動の前に、行動しつつ、また行動のあとで「どうだかな?」と考えてみることを指しています。以上は貝塚先生の解説によります。
日本語で「思います」が乱発されているように“思い”ます。例えば、企業の代表者が会見で謝るような場合、「申し訳ございませんでした。心からお詫び申しあげます」と言えば、きちんと謝っています。こう言わないで、ほとんどの人が「心からお詫び申しあげたいと思います」と言っています。それを聞くたびに強い違和感を覚えます。記者が、「お詫び申しあげたいとお思い(お考え)なんですか。じゃあ、お詫びしてください」と詰めることもありません。「お詫び申しあげます」と「お詫び申しあげたいと思います」は、はっきり意味が違います。「申しあげたい」は「未来への意志」で、まだ未完ですし、「と思います」は精神内界の「思考」で、まだ実行されていないです。お料理番組でも、リポーターがおいしいものを口に近づけて、「では、いただいてみたいと思います」と、同じような言い方をしています。それを見ながら、「じゃあ、食えよ!」と叫んいます。これも、「では、いただきます」と言い切ればいいのに。小さいことが気になる僕の悪い癖です。あれ?(笑)。
Q0309
感情とはいったい何でしょう。無意識と関係あるでしょうか?
A0309
感情とは自律神経の反応です。「怒り」って何か。脈がどきどきして、頭がのぼせて汗が出て、筋肉がこわばることでしょう。感情は心のものじゃなくて体のものだと思う。体の「ある反応」のことです。
その体の反応は何をしようとしているか。アドラーは2つの目的があると言った。1つはそれで他人を動かそうとしている。怒りを使って人を支配しようとしているとか、不安を使って人にやさしくしてもらおうとしているとか、憂鬱を使って仕事をさぼって、みんなに許してもらおうとしているとか、他人を動かそうとしている。もう1つは、自分が動くためのかけ声。腹が立つので「クソー、バカたれ!」と言って、何かある行動、例えば離婚に踏み切るとか、冷静だとなかなかエネルギーが出ないことに、「エイ!」というかけ声の代わりに感情を使う。
感情はそういう意味では合理的です。目的のために作り出されて使われている点では合理的です。ただ人間は愚かですから、ときどき目的を見誤っている場合がある。子どもに「勉強しなさい」と言って、「勉強なんかしない」「何!どうして親の言うことを聞かないの!勉強しなさい!勉強しなさい!」「絶対勉強なんかするか!」と喧嘩しているときに、やがて勉強なんかどうでもよくなる。子どもを従わせる、子どもに言うことを聞かせることが目的になる。「昨日子どもと大喧嘩したのよ」「テーマは何?」「何だったかねえ…」。夫婦喧嘩もそう。「昨日すごい喧嘩をして、私が鰺のフライを投げたら向こうはお皿を投げようとしたから、お皿やめて、割れるからと言ったら、向こうもしょうがないからその辺にあったマヨネーズを投げた」「結局なんで喧嘩をしたの?」「さあ何だったんだろうねえ…」。あれは途中で目標を見失っている。何の話かわからないけど初め合理的な目標があった。喧嘩が始まったとたんに勝つという目標に変わった。何でもいいから相手を屈服させる。初めの本来の合理的な目標は飛んじゃった。勝つという目標に向かって感情がさかんに使われたから、その点では合理的なんです。勝つという目標自体に向かっているという点では。でもそこで勝たなくていい。
喧嘩した人にたずねるんです。「何が決まった?」と。夫婦喧嘩なんかほとんど何も決まっていない。どっちが勝ちか決まった。だいたい女の勝ちです。女のほうが汚い手が使えるから。泣くとか、ヒステリックになってわけがわからなくなるとか、「元の20歳に返して!」と叫ぶとかいう手が使える。男は泣くのはもひとつでしょう。「元の25に返して」も不細工でしょう。使えるレパートリーが少ない。殴ると負け。女性を殴ると殴った男も「しまった」と思う。殴らんといかん女房もいるけど、殴ったら、プロレスの反則と同じで、あと言いつのられるから。「うちの亭主はすぐ手を出す」とか。友だちみんなに電話をかけまくって、実家へも電話かけまくって言いまくるから負け。それくらいしか思いつかないほど、男は使える手が制限されている。男が友だちに電話して「女房と喧嘩して…」と言えないでしょう。使える手が制限されているから、だいたい女の勝ちです。
でもそこで勝っても意味がない。何かを取り決めることが大事です。ときどき結果的に不合理に動くことはあります。でも、さしあたっての目的に向かっては、常に感情は合理的だと思っています。(回答・野田俊作先生)
9,孔子曰く、生まれながらにしてこれを知る者は上なり。学びてこれを知るものは次ぎなり。困(くるし)みてこれを学ぶは又た其の次ぎなり。困みて而も学ばざるは、民にして斯(こ)れを下(しも)と為す。
孔先生が言われた。「生まれながらにして知性豊かなる者は最上の人間である。学問をして知性を備える者はその次である。(生活に困難を感じて)学問をして知性を備える者は、それはその次である。生活に障害を感じながら学問をしない者、それは凡民であって、それこそ最下の人間である。
※浩→孔子は、天才の存在を認め、それを尊重する態度があったのでしょう。このあとの篇「陽貨篇」に「上知と下愚は移らず」とある「上知」がそれです。孔子自身は、「述而篇」で「我は生まれながらにして之を知る者にあらず」と謙遜しています。
「学んで之を知る者」は、学問をすることに障害を感じない人間を言います。「困しみて之を学ぶ者」は、学問に対する興味を本来は持っていなくて、「困」つまり生活に困難を感じて、初めて学問におもむく者のことです。アドラー心理学を学び実践する人の多くは、子どもの不登校や問題行動がキッカケで、育児講座や野田先生の講演を聞いたりしたことからスタートしています。そういう人の中から、やがて、育児講座のリーダーやさらに学んでカウンセラーになられた人も多くいらっしゃいます。私の場合は、授業で心理学のパートをやっているとき、ある女子生徒が、「うちのお母さんがアドラー心理学というのをやっていて、本とか講演会の録音テープとかがあるので、貸してあげようか」と言ってくれたのに、即「お願い」と頼んだことがキッカケです。そのころ、岡山市内の蓮昌寺で毎月、野田先生のオープンカウンセリングが行われていて、毎回、かぶりつきで見学しました。それほど生活に困難を感じてはいませんでしたが、不思議な魅力に取り憑かれたようです。ところで、現在、毎月2回も開いているT工業高校の「研修会」にはかなり多くの先生方が参加されていますが、2018年の開講以来、一度も参加されない先生もたくさんいらっしゃいます。そういう方とはご縁がないのですね。
古代中国の春秋時代は、封建主義的な身分制が絶対と考えられていた時代で、一般の人民が学問や書籍に接することのできる機会はほとんどありませんでした。そのため、孔子は一般庶民は志学の精神を持つことが不可能と考えていた節がありますが、これは春秋時代に生きた孔子の認識のある種の限界を示したものと言えます。儒学は学問によって人間性を陶冶し知性を高めることを重視していましたが、この条では大衆蔑視的なところが見られます。これは古代という時代の制約です。孔子は最も学問に適性のない人以外はやはり「教育の機会」によって変われると信じていた人でもありました。それでも地元・岡山には閑谷学校と言って、藩主が庶民のために創建した学校があります。これは誇らしいです。
Q0308
親の無気力は子どもにどういう影響を与えるでしょうか?明るい親と暗い親で与える影響はどう違いますか?
A0308
親の無気力は子どものモデルになります。親は子どものモデルですから、親がやったようにするか、親のようにしないかどちらかです。だから、親みたいな無気力がいいと思えば親のようになるし、あんな親のようには絶対なるまいと思ったら、これは活発になります。
親の影響であれきょうだいの影響であれ、それが子どものライフスタイルを決定するわけではない。子どもはそういう無気力な親という試練に直面して、どうするか態度決定する。親が何もしてくれないから、全部自分でする人になるかもしれないし、親が何もしないから一緒に寝ている人になるかもしれない。子どもの態度決定で決まる。別に親は無気力でもいい子に育つかもしれない。まあ無気力でないほうがいいけど。(回答・野田俊作先生)