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論理的結末が使えない中学生は放任しかないか?

Q0335
 中学生になると論理的結末(個別の問題について双方話し合い、約束を作って、次に同じ問題が発生したとき、約束を実行する)が使えないということですが、子どもが何をしていても見ているしかないのでしょうか?

A0335
 何をしていても見ているということではない。共同の課題にすることができる。今日、自然の結末・論理的結末・社会的結末と言ったのは、個人の課題にしないで相手の課題のままで冷静な話し合いができるということです。論理的結末は、罰になりやすいからといって、まったく使えないのではない。感情的にならず、タテの関係にならず、権力闘争構造にならず使うなら使うことができるんです。(回答・野田俊作先生)

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論語でジャーナル

20,孺悲(じゅひ)、孔子に見(まみ)えんと欲す。孔子辞するに疾(やまい)を以てす。命を将(おこ)なう者、戸を出(い)ず。瑟(しつ)を取りて歌い、これをして聞かしむ。

 孺悲が孔子にお会いしたいと言って来た。しかし、孔子は病気を理由に面会を断られた。孔子の言葉の取り次ぎ役の人が戸口を出て行った。これを見すました孔子は瑟をとって歌って、孺悲に聞こえるようにされた(仮病だということを孺悲に知らせた)」。

※浩→「孺悲」は魯の哀公の命で、孔子について喪礼を学んだ臣です。詳しいことはわからないそうです。「命をおこなう者」は「返答を取り次ぐ者」。前の条と同じく、孔子は「言葉」を通じてではなくて、心と心とが通じることに重きを置いています。道の本質は言葉だけによらず、心と心の間で伝わるという考え方が、当時広く行われていました。またまた『老子』に通じそうです。『老子』の冒頭には次のようにあります。

 道の道とすべきは、常の道にあらず。
 名の名とすべきは、常の名にあらず。
 無名は天地の始めにして、有名は万物の母。
 故に、常に無欲にして以て其の妙を観、常に有欲にして以て其の徼〔きょう〕を観る。
 此の両者は同じく出でても名を異にし、同じく之を玄と謂う。玄の又た玄、衆妙の門。

 これこそが理想の“道”です、と言っているような“道”(=世間一般に言っている道)は、恒久不変の本来の「道」ではありません。これこそが確かな“名”だと言い表わすことのできるような“名”(=世間一般に言っている名)は、普遍的な真実の「名」ではありません。天地開闢以前に元始として実在する道は、言葉でな名づけ用のないエトヴァスであるが、万物生成の母である天地が開闢すると、名というものが成立する。だから人は常に無欲であるとき、名を持たぬ道のかそけき実相を観るが、常に欲望を持ち続ける限り、あからさまな差別と対立の相を持つ名の世界を観る。この道のかそけき実相およびあからさまな差別と対立の相の両者は、根源的には一つであるが、名の世界では二つに分かれ、いずれも不可思議なるものという意味で玄と呼ばれる。そして、その不可思議さは玄なるが上にも玄なるものであり、造化の妙用になる一切万物はそこを門として出て来るのである。(←福永光司先生訳より)
 野田先生のおっしゃったように、「万物の根源」としての「道」を言っていますから「土着思想」ですか。『老子』は「道徳経」と呼ばれていて、前篇が「道」についての哲学で、後篇が「徳」の実践編になっています。まるで、カントの『純粋理性批判』と『実践理性批判』のようです。さいわいアドラー心理学では、理論の折衷は認められませんが、技法の折衷というか借用はいっぱい行われています。後篇から「人生哲学実践」のアイディアを拝借するのは許されるのではなかろうかと、私は勝手に解釈することにします。『老子』の逆接的な道徳実践は、アドラー心理学が好む「パラドキシカル」な技法にも通じそうな気がします。「千里の道も一歩から」などはよく知られていますが、あの出所は『老子』で、「千里の道も足下に始まる」が原文です。「老子」全体のキーワードは、もちろん、“無為自然”です。

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非主張的なのを変わるには?

Q0334
 私は内気なタチで、いつも非主張的になってしまいます。どうしたら変われるでしょうか?

A0334
 ひと言で言いますと、トレーニングです。主張的な言い方を、とにかくまず言葉として学ぶこと、そして、今まで非主張的になった場面で、一度でいいからやってみること。人間の心というのは面白いもので、たった一度でもできれば、二度目三度目は簡単にできます。一度もやったことのないことはとても難しいんです。これは、自転車に乗ったり泳いだりすることと同じです。トレーニングする前にはそれはとても難しいことのように感じられるけれど、一旦自転車に乗れるようになってしまうと、しばらく自転車に乗らなくてもまたすぐに乗れるでしょう。同じように、主張的行動というのも、1つの筋肉の運動にすぎず、1つの態度にすぎないのです。一度身につけてしまえば、次からはとても楽にできます。(回答・野田俊作先生)

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論語でジャーナル

19,子曰く、予(われ)言うこと無からんと欲す。子貢曰く、子如(も)し言わずんば、則ち小子何をか述べん。子曰く、天何をか言わんや。四時(しじ)行われ、百物(ひゃくぶつ)生ず。天何をか言わんや。

 先生が言われた。「私はもう何も語るまいと思う」。子貢が言った。「先生がもし何も語ってくださらないと、私たち弟子は何にもとづいて語りましょうか」。先生は言われた。「天は何か言うだろうか。天の運行によって四季は自然に運行し、四季の移り変わりによって万物も生育している。天は何を語るだろうか」。

※浩→魯に帰国した晩年の孔子が、ある日突然、「これから君たちに何も話をしてやらないことにした」と言い、弟子たちがびっくり仰天しています。秀才の子貢は慌てて、取り消してほしいと願いました。孔子が何も語らないという理由は、世界の根本原理は、孔子の言葉の中にではなく「天命の示す摂理」にあるからで、孔子はすべての疑問を孔子の言葉に頼って解決しようとする弟子たちの態度を戒めたのです。天は何も語ってはくれないが、規則正しい天候の周期と万物の生成の中には「事物の摂理・本質」が内在している、教育者としての孔子はそのことを弟子たちに伝えたかったのでしょうが、秀才の子貢でさえ、このことがよくわかっていなかったのでしょう。
 『易』に、「言は意を尽くさず」とあるように、言語は実体の部分的な指摘でしかない。さらに、言語の指摘が実体を懸命に追跡し懸命に模写しようとすればするほど、指摘に漏れた覆われざる部分が増加する、そういうおそれが孔子にあったのでしょう。納得です。アドラー心理学の基本前提(理論)に「認知論(今は“仮想論”)」というのがあります。「認知論」という名称が「仮想論」になったのは、アドラーの原点に戻って表現を変えたのだそうですが、その違いは次のように説明されました。
 まず、「外界」があって、人がそれを「知覚」します。その「知覚像」に「言葉」がくっついて「意味づけ」することを「認知」と言いました。
「仮想」はどう考えるか?まず、漠然とした「外界」(カオスでしょうか)があって、人は「言語」でもって外界の部分部分を切り取って、自分の主観的世界を形成するのだそうです。その世界は「実物」の世界でなく、「仮想」の世界です。そして「言語」でできていますから、「言葉」を正確に使わないと世界が正しく見えないです。「言葉の限界が世界の限界だ」と言ったのは論理実証主義のウイットゲンシュタインでした。主観的世界よりも「外界」のほうが広いですから、当然、人知の及ばない未知の世界が存在するはずです。このことが孔子の言う、「言語は実体の部分的な指摘でしかない。さらに、言語の指摘が実体を懸命に追跡し懸命に模写しようとすればするほど、指摘に漏れた覆われざる部分が増加する」ということなのでしょう。仮想論のおさらいになりました。感謝です!

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攻撃的・復讐的な相手には?

Q0333
 相手が攻撃的になったり、復讐的になったりしたときにはどうすればいいんでしょうか?

A0333
 われわれがいかに主張的であろうと努めても、相手が攻撃的になり、復讐的になるときがあります。そのときには相手は、権力闘争を仕掛けているのです。相手が権力闘争を仕掛け、こちら同じように攻撃的になりたい気持ちがあるときの対応は、そこから降りることです。その場をとにかく離れて、一旦「非主張的」になって、自分が冷静でいられるように、すべてのコミュニケーションを打ち切ることです。復讐的に打ち切らないで、非主張的に打ち切ってください。そしてしばらく時間をおいて、冷静に話せるかどうか、自分自身に確かめ、また相手にも「さっきのお話について、さっきは感情的になってしまったから、少しお話がしにくかったんだけど、もう一度冷静に聞いていただけますか?」というふうに問いかけてみて、冷静に話ができる状態を作ってから話をするのがいいと思います。
 攻撃的なコミュニケーションを続行すると、最終的には必ずどちらかが復讐的になって、悪い後味を残して、2人の関係全体を悪くします。(回答・野田俊作先生)

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