Q0287
「運命」と「縁起」はどう違うんでしょうか?お釈迦様は輪廻転生するとおっしゃったそうですが、我(が)が存在しないのに、いったい何が輪廻するんでしょうか?
A0287
お坊さんに聞いてください。
運命と縁起は違います。縁起は“自業自得”のことです。「わたくしがこれをするからあれがあるだろう。わたくしがこれをしなければあれがないだろう」ということ。「わたくしが浮気をするとあとでトラブルがあるだろう。浮気をしないとトラブルがないだろう」「勉強すると賢くなるだろう。サボっているとバカになるだろう」。外側の運命と関係なく、自分自身の業(ごう)が結果を招くということを縁起と言う。業って「行為」のことです。
「我(が)」が存在しないなら何が輪廻するか、わからない。それは仏教学者が2500年議論してわからなかったからわからない。
最近の仏教学者たちは面白いことを言う。お釈迦様の聴衆は賢かったりおバカだったりする。1250人の弟子と在家の信者さんがたくさんいた。相手によっていろんなことをおっしゃった。理論的にきっちりしたことも言うし、まあ大衆が理解できるようにおっしゃるから、一々言ったことを取り上げて、「お釈迦様が言ったとか言わない」とか言わんほうがよろしい。理屈に遡って考えたほうがいい。インド人は輪廻転生すると思っているので輪廻転生しないと言うわけにはいかないからそうおっしゃったんでしょう。ヒンドゥー教徒も思っているし、ジャイナ教徒も思っているし、インド人はみんな輪廻転生説なんです。お釈迦様だけが輪廻転生しないと言うともめるから、みんながすると言うならすることにしておこうと思ったんでしょう。日本では仏教しか入ってないからびっくりするけど。(回答・野田俊作先生)
19,子曰く、君子は能(のう)なきを病(うれ)う。人の己れを知らざるを病えざるなり。
先生が言われた。「君子は自分に能力がないことを気にかける。しかし、他人が自分を認めないのを気にかけない」。
※浩→有徳の君子の必要条件として、「人の己を知らざるを憂えず」は『論語』で繰り返して語られています。まず「学而篇」の冒頭の、「学びて時に之を習う、また説(よろこば)しからずや。……人知らずして慍(いか)らず、また君子ならずや」とあり、「憲問篇」にも、「人の己を知らざるを患(うえ)えず、その能わざるを患うるなり」とありました。私は何しろ、“見栄の大森”の異名をとったくらいですから。『論語』を読むたびに、「人知らずして慍らず」とありたいものだと願っています。しかし現実は、講演や講義が終了したとき、出張の場合は必ず拍手があったのに、現在の勤務校(10月で形式上はやめました。ボランティアでひそかにサポートのための講義は月1回にして継続しますが)で全職員対象の研修会があったとき、約90分の講演のあと、パラッとも拍手がなくて、さすがにがっかりしたことがあります。この8月は大丈夫で、しっかりありました(笑)。でも、来年はやりません。「人の己れを知らざるを病えざるなり」が登場するたびに“反省!”です。過去に“見栄の大森”を一番印象づけた出来事は、在職中、一時、進路指導課にいたときのことです。それまでは、母親が毎日の手作り弁当を作ってくれていて、お昼は大丈夫でしたが、高齢化にともなって、お弁当作りがしんどいと言うのでやめることになりました。そのため、お弁当屋さんから配達してもらったり、職場の近所の食堂や喫茶店に同僚と食べに行ったり、“ホカ弁”を買いに行ったりしました。外へ出ると時間を喰うので(これは安楽を求めるライフスタイルか)、配達してもらうことがほぼ定番になりました。当時、350円くらいの「満食」のお弁当を多くの先生方が利用されていました。そういう状況下で、私は、近所のお寿司屋から、1000円くらいの「上ちらし寿司」を配達してもらって、悠々といただいていました。このとき“見栄の大森”を自分で認めました。隣席のS先生(←この方は、備前高校でも先輩の同僚でボート部の顧問のお1人でもありました。進路指導課から教育相談室長に移動されて、その後、以前から相談室を希望していた私を即引き取ってくださった大恩人です。おかげでこんにちがあります。)は、自分は“ヒガミのS”だとおっしゃり、向かい席のY先生は、自分は“あきらめのY”だとおっしゃいました。この短いニックネームに、各自のライフスタイルが本当によく表されています。Y先生のニックネームが一番“わびさび”が効いていて、人生をすでに達観されているようで、なんとも素晴らしいです。進路指導課の重要な業務として、「求人票」の製作がありました。Y先生が進路指導課に見えるまでは、すべて手書きでしたが、彼は電気科の先生でコンピューターに堪能でしたから、電子化に着手されました。ある日、残業してデータを打ち込んでいて、ほぼ終了というときに、用事ができて立ち上がった瞬間、足下の電源コードを引っかけて、コンピューターのデータがすべて消えてしまいました。Y先生は、静かに着席して黙々と、最初から打ち直したそうです。「有能な人」というのはこういう方のことだと思います。そういえば、野田先生は、原稿用紙500枚書くコツは何かとおっしゃっていました。「わー大変だ」と己れの運命を嘆いたりしても何も始まりません。原稿用紙を広げたら、まず最初の1文字を書くそうです。そしたらまた次の1文字を書く。そうしていくうちにだんだんでき上がっていく。これしかないとおっしゃいました。Y先生は、まさにこのとおりのことをなさっていたのです。“見栄の大森”はきっと生涯治ることはないと思いますが、ときどきこういうことを思い出しては、自分への戒めにしています。
Q0286
夫婦仲は今のところ仲良くやっているんですが、主人のきょうだいと、主人は6人きょうだいですが、嫁の1人と仲良くいきません。お互いに思いやりの気持ちが持てません。主人のためには少しでも関係を良くしたいと思うのですが。
A0286
良くしないほうがいいんじゃないかな。親戚なんだからいくらか話し合わないといけないことはあるだろうけど、ビジネスの部分だけ、法事とかはきちんとつきあう。グジャグジャした親戚の愛情関係のほうは、クールに済ませておくほうがお互いのためにいいんはないかな。
アドラー心理学を誤解している人が多い。「すべての人と仲良くしなさい」と言っていない。「良い人間関係を持ちましょう」というのは、前に「家族は」が付いている。だって家族は離れられないもの。だから良い人間関係を持たないとすごくまずい。姑さんとも仲良くしたい。そのほうがいいからね。でも別居している親戚とだと、そんなに仲良くなくても、喧嘩さえしなければいいのだから、少し距離を開けたほうがお互い傷つきにくいんじゃないですか。(回答・野田俊作先生)
18,子曰く、君子、義以て質と為し、礼以てこれを行い、孫(そん)以てこれを(い)出だし、信以てこれを成す。君子なるかな。
先生が言われた。「正義をもって内的本質とし、礼に従って実行し、謙遜な言葉で表現し、信義をたがえないことによって物事を成し遂げる。このような人こそまことの君子というものだね」。
※浩→君子の持つ資質や特徴として、「正義・礼容・謙譲・信義」の4点を挙げています。ここの「孫」は「遜」で「謙遜」のことです。「出だす」は古注では「言葉に出だす」で、新注では「表現する」となっています。吉川・貝塚両先生は、新注を採用されています。確かにこのほうがわかりやすいです。
もっとくだくと、「正義を心に、礼儀正しく、謙虚に、忠実に」ということになるでしょうか。これらの徳目は、日本人好みのようで、人名に多用されています、「正義」はそのまま「まさよし」、「礼」は「礼子」、「謙譲」の「謙」は「謙一、謙二、謙次、謙治、謙造、……」、「信義」はそのまま「のぶよし」に。「信」を漢和辞典で調べると、一番目の意味は「まこと。真実。言行が一致する」とあります。「信義」と熟語になると、「約束を守り義務に従う」とあって、「義」は「義務」だとわかります。ついでに調べると、「正義」は「正しい道理」とありました。ここでは「義」が「道理」になっています。「正しい意味」とあるのは「義」を「定義」のことだと読んでいるようです。これは道徳とは関係ないです。「礼儀」「謙譲」「信義」については、まず誤解のおそれはないようですが、「正義」をめぐっては気をつけないと、トラブルのもとになりそうです。「正義感が強い」というと美徳でしょうが、自分の正義と相手の正義とが同じだとは限りません。野田先生は、歴史上、人々の死亡原因のトップが「正義のための死」だとおっしゃっていました。個人間では、互いに正義を主張して相交われないと喧嘩になるし、国家間では戦争になります。正義というのはまことに主観的で、古今東西、人類に戦争が絶えなかったのは、この「正義」のたでした。過ぐる9月11日はあの悲惨な「同時多発テロ」の日でした。被害を受けた方々の心情を察してあまりあるものがあります。非難されるかもしれませんが、理屈の上では、加害者側にも彼らなりの「正義」があったのでしょう。目標はともかくも、手段があまりにも破壊的で有害で、決して容認できるものではありません。今はまさに、ロシアとウクライナ、イスラエルとハマスが互いに正義を主張して戦争しています。人類の精神年齢は、もう少し成長しないといけません。
アドラー心理学は価値相対主義の立場をとります。人が言うところの「正義」は、決して絶対的・客観的な宇宙の真理ではない。「その人なりの真理である」と考えると、相手を受容する気持ちが生じて、「謙虚」になれます。「相手には相手の都合もある」と考えると、やたら自己主張することをコントロールできそうです。私は子どものころ、悪戯などすると、親に「相手の身になってみろ」と叱られました。
「正義」が「正しい意味・定義」という意味であることも知ったついでに、「正義」の内容は主観的でも、哲学者はどう説明しているでしょうか?プラトンは「四元徳」といって、「知恵」「勇気」「節制」「正義」を挙げました。これは、「気概」と「欲望」という2頭の暴れ馬を、「知恵」がきちんとコントロールして、馬車が調和ある走行ができるという意味で、その「調和」が「正義」でした。アリストテレスはさらに詳しく、人間の「徳」を「知性的徳」と「習性的(倫理的)徳」に二分し、「知性的徳」は「知恵」と「思慮」からなり、「習性的(倫理的)徳」は、欲望や感情が「思慮」に導かれて「中庸」を行うことだと説きました。例えば、「臆病」と「暴勇」の中庸が「勇気」で、「無欲」と「貪欲」の中庸が「節制」です。あと、たくさんの「習性的(倫理的)徳」があるなかで、「正義」と「友愛」が最も大事だと言いました。ポリスの市民としてのあるべき生き方を説くのは、ソクラテス以来の伝統です。心しておきたいのは、「正義」は大切だが、「正義」の人にも「友愛」は必要、「友愛」の人にはあえて「正義」を言う必要はない。なぜなら「愛する人のために人は不正をしないからである」ということです。長くなりましたのでこのへんで。
Q0285
21歳の息子です。介護士を始めました。儲け主義の医者のもと、ずっと給料が16万くらい。結婚を2年後に控え給料のことが心配とのこと。准看の資格を4月から取ると25万もらえると、やる気なのはいいのですが、その職場のことで質問です。
ほったらかしに近いところでは骨まで肉の腐った臭いがする。疥癬の心配がこちらにあるらしいのです。そんな息子を見ている私はどうしたらいいのでしょうか?本人も老人がかわいそうでつらいと言います。私に病気がうつるのはイヤです。下着などバケツに50度のお湯につけて洗濯していますがどうでしょうか?
自立すると、(親でなく)彼女と相談して生きていくのは立派ですが、都合の悪いときだけ相談し頼ってくる、その兼ね合いがよくわからなくなるときがあります。
A0285
アドラー心理学のお勉強をもうちょっときちんとやっていただいたほうが早道と違うか。
職場のこと、息子さんが例えば、「うちの職場は老人をほったらかしにしているんだよ」と言うとか、「給料はずっと16万だ」とか言うのは、何かお母さんとの間に「共同の課題」を作りたいから言っている。その共同の課題が何だかよくわからない。この話では。ただ「愚痴聞いてよ」というのが共同の課題なら、愚痴を聞いてあげたらいいし、その上で「どうしたらいいかアドバイスちょうだい」と言うならアドバイスあげたたいいし、「一緒に職場へ行ってねじ込んでほしい」と言うなら、それは断ったらいいし、そのへんがわからないままで、何かお母さんだけが空回りして1人で心配しているみたいに思う。
息子さんがお母さんに何してほしいのか、どんな手助けを必要としているのかをいっぺん聞いてあげたらどうかな。それだけやってあげたら?そりゃ心配ですわ、見てたら。だって向こうは人生の初心者だもの。こっちは“悪ずれ”しているもの。“良いずれ”もしているかもしれんけど。長いこと人生をやっているから、たいていのことはびっくりしない。若い人は初めてのことばっかりだから次々びっくりするけど、体験から学ぶでしょう。体験をしていただけないと育たないから、手を出さないで見ている勇気を持ってください。(回答・野田俊作先生)