Q
システム論からは倫理性かな、とバランスをとる…超越的存在は一切関係ないとなると、倫理的な領域はどうなるか?
A
倫理というものは、どのみち科学からは直接は滅多に出てこないと思うんです。科学というものの向こう側に世界があって、世界の中で僕らが生み出されて、生み出されていることをみんなが学校で学び、親から学び、お互いどうし確認したときに、僕はラウエの縞模様と言うんです。パンティーストッキングを2枚履いたときにできる縞。あれは「存在」しないんです。でも存在するんです。あんなふうにみんなの頭の中にできてくるだろうと思う。今までは倫理的な根拠を作るためにだいたい三説ありました。一節は天国地獄説で、審判者がいて死んだあと天国か地獄へ送り届けられる説なんです。この説は今たぶん魅力を失っていると思います。私はあんまり恐がりませんもの。でも、『法然上人四十八巻伝』なんて読んでいますと、熊谷直実という人が平敦盛という少年の首を切るんです。その罪深さにおののいて、自分は絶対地獄に落ちると思ってノイローゼになって、法然上人のところへ行って、「私はたくさんの殺生をいたしましたが、私のような者が地獄へ落ちなくてすむでしょうか?」と言ったら、法然上人が「それは阿弥陀様のご本願であるので、念仏なされば必ず極楽往生しましょう」とおっしゃった。彼は刀を抜いて「もしも地獄へ落ちると言われたらもうしょうがないからこの場で死のうと思った。極楽へ行くと言うならこの場で出家します」と、その場で髪を切って坊さんになりました。彼なんかが持っていた地獄への恐怖というのは無茶苦茶リアルだった。中世の人が持っていたようなリアルティを僕らは持てないから、天国地獄説は今や倫理の根拠になりえない。もう1つは身分制度と関係がある。例えば、「君子はなんとかせず」と書いてあります。「君子は厨房に入らず」とかいっぱい書いてある。あれは中国のある階級の人たち、士大夫と呼ばれる人たちがそうであることの誇りとして、ある暮らし方をしようとしたんです。武士道というのもそうで、自分たちが武士であることを強調するためにある倫理観を守ろうとして暮らしたんです。ニーチェなんかがそれを凄い持ち上げるんです。そういう誇りのある人の倫理観、わかるけど、それって万人向きじゃない。君子であろうとか武士であろうとか思わないとダメなんで、そう思わない人間もいっぱいいて、だいたい犯罪するような人間はそう思わないに決まっているから、孔子聖人の教えは倫理的な根拠としてはあんまり強くない。実際、孔子の国・中国は極端な刑罰主義でした。犯罪した人をもの凄い刑罰に遭わせるのね。それでもって倫理性を保っていたでしょう。孔子聖人はあんまり役に立たない。もう1つが輪廻転生説で、因果応報説で、因果応報説というのは輪廻転生説をふまえないと成り立たないんです。というのは、この世で悪いことをしていて最後まで栄えるヤツもいるし、この世で善いことをしてても全然報われない人もいるから、それだと計算が合わないじゃないですか。それで、永遠の世界の中での輪廻転生ということを考えてはじめて成立する説なんです。たぶんねえ、この次の時代に僕たちが採用できるのは輪廻転生説だと思うんです。というのは、システム的にものを考えると、私のこの体と私の心を持った私は意味がないんです。システムに意味があるから。意味がないけど私は存在するわけで、1つの縞模様として存在するわけで、それが今の時代にある役割をするわけです。やがて私が消えますと、死にますと、次の時代に私の役割をすべき人が必要じゃないですか。それを世界が生み出すでしょうよ。そうやって私は転生するんですよ。別の体で別の心で、同じ役割で。私が世界をある方向へ向けておくことが、次の生存がやりやすくなる。あるいは次の世界の生存がやりやすくなる。そんなふうにしてすべてがネットワーク、編み目の中で関係し合っているから、だから私が倫理的でなければならないという、これはたぶん成り立つ根拠なんです。そういう方向で行けるんじゃないかな。
Q
地球ガイヤ説とベイトソンのシステム論の違い。
A
さっきベイトソンの理論には神秘性がないと言ったんです。生命があるということは別に神秘でもなんでもないので、「生命に見られる諸現象がある」ということなんですね。ところが命があるとか心があるとか言うと、それはすぐエゾテリックな異教的な神秘的なところへジャンプするバカたれたちがいるんです。いつの時代にも。すぐ「ガイヤ」だと言い、なんじゃらと言い、エコだと言い、いわゆるディープエコロジー。エコロジーには3つあって、ディープエコロジーとエコキャプタリズムとスピリチュアルエコロジーとあるんです。そのディープエコロジー、「縄文式時代へ帰れ」運動へ飛び込んでいくんです。凄いバカげていると思う。ベイトソンのもの凄い科学的にデカルト以来積み重ねられた科学的な言葉を使うことで、科学の持っている根本前提を突き崩したんです。彼の『精神と自然』という本の中に、「誰もが学校で習うことでしょうが」というこれがめちゃめちゃ面白いんです。誰もが学校で絶対習わないことがいっぱい書いてあるんです。ごく中学校的知識で今の科学の根本前提を次々ひっくり返して見せてくれます。ベイトソンは一切神秘主義とか漠然とした生命とか精神への信頼とかから話をしているんではなくて、完全に醒めた科学者の目で話をしていて、しかも世界のシステム性を言っているとこが僕らの魅力なんです、もの凄い。ただ、ベイトソンの思想はそういうやり方をするもんだから、難解だと思うんです。ベイトソンのゼミナールに出ていた学生さんたちが、1年間ゼミへ出て1年終わって、ゼミのテーマが何だったかわからなかったって。ベイトソンはずっとしゃべり続け。ゼミでいろんなことをやったけど、結局何をしたか誰も理解できなかったという有名なエピソードがあるんです。で、ベイトソンという人は多弁・多芸な人で、凄いいろんなものに関心を持つんです。例えば蟹の甲羅とかね。例えば木の葉っぱとかね。例えばどっかの村の儀式とかね。例えば統合失調症者の親の性格特徴とかね。例えば映画とかね。例えば小説とかね。それらを全部同じ原理で説明するの。蟹の甲羅から統合失調症者の親まで全部1つの原理で説明するの。さすが天才なんですね。そこにはだから神秘性がないんです。一切そういう神秘性を持たない理論を、しかもデカルトみたいに世界が死んでいるんだという意味じゃない理論を、世界がシステムとして生きているという理論を、「生きている」という言葉の定義まできちっとして、成長すること、進化すること、学習すること、発展すること、やがて死滅することという定義までして、作るところがベイトソンの良いところだと思うんです。あんまり熱に浮かされたガイヤ主義者とつきあわないほうがいいと思う。
Q
最近、人に頼まれたことは、よほど無理だと思うこと以外引き受けようと思って暮らしています。この間、中学校のPTAの学年代表を引き受けることにしました。今年度どんな経験ができるのかなと楽しみにしているところです。自分で決めるのが好きで、今までいろんなことを自分で決めて責任を取ることが美しいと思ってきたのですが、このごろは全体に必要があれば私のところへくるお仕事もあるかもしれないと思うのです。これはアナーキーな考え方なのでしょうか?そしてこんなふうに暮らしているとだんだん忙しくなっていくのですが、ずっとこれでやっていけないかもしれないと思ったりしています。
A
あのー、どうなんでしょう。僕、中学なんか滅びたほうがいいと思っているから、PTAの役員なんか絶対引き受けないな。ちゃんとした働きをしてないもの、PTAが。PTAというのは、アメリカでは凄い強力な組織なんですね。例えば、学校が使う教科書を選ぶとか、先生の特性を決めて、「あの先生、クビにしろ」と圧力をかけるとか、たくさんの権限を持ってるんです。ファインマンさん、『ご冗談でしょう、ファインマンさん』という本に出てくるノーベル賞学者ファインマンさんはPTAの役員になって、自分の息子の中学校へ行って、「この物理の教科書は間違っている」と言っていましたから、凄い圧力をかけられるんです。今、日本でそれができるのは、唯一筑波大学の近所の小学校だけで、あそこは筑波のお母さんたちが行きますので、お父さんはノーベル賞を狙っている学者で高学歴で、凄い大変だそうです、あそこの先生は。戦後、アメリカ軍が親というものの力を学校教育に反映しようと持ってきたんですが、日本ではそれを活かすことができなくて、先生の下働きで、子どもを迫害する手先になっているだけなんです。あまり良い仕事ができるとは思わないのですが、まあ引き受けたのなら楽しんでやってください。深刻にならないで。この世で深刻にならなければならないことはあんまりありませんから、せいぜい楽しんでやってください。
Q
質問!デカルト、ニーチェ、ベイトソンと来ました。デカルト、フロイトがモダンな機械的科学主義だとわかりました。じゃあベイトソンは非近代、近代の次、超近代、それならモダンを超えてじゃないの?ポストモダンを超えてなら(ポストモダンはニーチェです)、デカルト、ベイトソン、アドラーとポストモダンの位置関係を教えてください。
A
ポストモダンだと言っている人たち、デリダだとかさ、その他その他がみんなニーチェを読んでいるんですよ。ニーチェという思想家はこの百何十年間みんなに読まれてきたんです。アドラーなんかはニーチェの読者の最初の人たちだと思うんですけど、みんな違う読み取りをずーっとしててね、違うふうに、でもなんとなくこのごろ統一されてきたと思う、ニーチェの言っていたことが。それでニーチェの言っていたことは、結局、多様性。作りつけの一切の価値を否定して、キリスト教的な価値も資本主義的な価値も既成の道徳観念も、何もかも全部否定しておいて、その上で「生への意志」の選択の多様性をボーンと打ち出したんです。けれども、その「生への意志」の選択の多様性を打ち出したツアラツゥストラはもの凄い善意の人で、もの凄い誠実な人で、だからニーチェはツアラツゥストラの物語を書けたけど、僕らはあんなに善意の人じゃないし、あんなに誠実じゃないんです。脳は梅毒でしびれてないですから。だからニーチェの思想をそのまま現在の世界へ持ってくると、たぶんそこからは明るい未来が出てこないと思う。梅崎(一郎)さんが去年の理論分科会で、ポストモダンの彼なりのまとめをしてくれたけど、凄い悲観的な結論へ持っていくんです、彼自身が。僕はねえ、ポストモダンそのものから楽観的な結論が出てくるとはあまり思えないです。というのは、ポストモダンにはベイトソンが持っているような世界のシステムとしての“生命性”というか、世界全体がある方向性を持っているというような思想がないからね。ベイトソンは「ポストモダンを超えて」だと私は思っているんですけど、残念ながらベイトソンはそんなに大思想家じゃないと思う。デカルトとかニーチェがエポックメイキングの大思想家だったのに比べて、ベイトソンはそんなにもの凄い大ものじゃなかろうと思うんです。たまたま人類学という実践の現場でとても先駆的にいろんなことを発見しただけで、それがモノになるのにもう二世代三世代かかって、そのころにどっかの国に誰かすごい偉い人が現れて、それでニーチェを読んだりベイトソンを読んだりあれ読んだりこれ読んだりして、ドーンと花火が上がるんでしょう。上がったら、「玉屋ー、鍵屋ー、中村屋ー!」って言おうと思ってるんですけど、私ではないんです、それは残念ながら、もちろん。予感的に、次の時代がこっちへ行くのかなあというのが思えるだけで、そこに整合的にパチっと論理的にスパーっと割り切った論理がまだ立ってないと思う。ベイトソンが断片をいっぱい集めて、洗者ヨハネがキリストの来るのを預言したように、ただ兆しを教えてくれただけだと思うんです。それでも凄いことだと思うけど。
Q
今日の学校はさまざまの問題を抱えていると想いますが、学校教育の意味が見出せない子どもが増えていると聞きます。午前中に、社会の改革は育児と教育の改革なくしてはありえないと聞きましたが、野田先生は学校教育についてどのようにお考えでしょうか?また、社会の改革と繋がるような教育はどのようなものとお考えになっているでしょうか?
A
だから、社会を壊すことですよ。お金でもって物の値打ちを計ることをやめることだと思う。僕たちはいつ金で物の値打ちを計りだしたんだろうか?つい最近、明治の初めなんですよ。明治より前は金で物の値打ちを計りませんでした。じゃあ何で計っていたかというと、1つは身分というもので計っていたんです。1つはお米で計っていたんです。米と金とは違うんです。米は食えますから。金っていうのは実体のないもんなんです。お金食えないですからね。だからお金でもって何もかも金銭的に換算する思想というのは、われわれはつい最近馴染みました。それがデカルトパラダイム。金をたくさん持っているということは幸福なんだろうか?金が全然ないのは不幸なのは認めるわ。お金がないのは不幸であるというのは、お金があるのは幸福であると論理的には何の関係もないので、お金が食べられるだけあればそれでいいじゃないですか。それ以上になんでたくさんお金を集めようとするのか、まあ時代の勢いだからしょうがないですね。ホリエモンさん、なんであんなに儲けたかったんだろう。ビル・ゲイツはあんなに儲けていったい何をしようとしているんだろうか?よくわかんない。みんな強迫神経症なんですよ。過度の収集癖なんですよ。意味なく金銭を集めていらない物を買っているんですよ。そうじゃなくて、ホントの人間の幸福とは何なのかということをもう1回考えていきたい。考えていくと結局、今の社会の根本的なシステムを壊さないとしょうがないというところに行き着くと思う。アメリカが主導して、いわゆるグローバリゼーションをやりました。グローバリゼーションというのは何の意味もないんです。あれはアメリカが儲かるとか、世界中がアメリカの言うとおりになるというだけのシステムじゃないですか。ホントはローカルに自給自足できるほうが、絶対OKなんですよ。だって、われわれが完全に自給自足できれば、アメリカの言うことを聞かなくていいもん。それは世界中どこだってそうなんで、自給自足できれば言うことを聞かなくていい。それを自給自足できないシステムを作って、昔の旧植民地以来、プランテーションといって単品種を栽培するように強制するんです。日本だって、薩摩藩が奄美群島でサトウキビ以外のものを栽培するのを一切禁止したんです。だからそこにはサトウキビだけしかないんです。米とか豆とかその他全部薩摩から輸入ね。サトウキビと交換に。ということは、もしも薩摩の機嫌をそこねると、サトウキビだけが残るわけです。サトウキビだけじゃ人間生きていけない。だから、徹底的に薩摩に隷従しなきゃいけなかったんです。やったことあるんです。それなのにアメリカに同じことをされているんです。アメリカが機嫌悪くすると、例えば大豆が来なくなるんです。小麦が来なくなるんです。そうすると僕らは困っちゃうんです。醤油もないし味噌もないし豆腐もないんです。そういう暮らし方から抜け出さないといけないと思う。だからいろんなことをしながら、小さな世界で自給自足しながら暮らしていく方向へゆっくり変わっていかないといけない。そしたら何もかも価値観が変わるんです。今みたいにインターネットがあって携帯電話があって、テレビがあって新幹線があってという生活はいい生活なんだろうか?もう携帯電話はないほうがいいんじゃないと違うか?僕は長いこと持たなかったんです。そしたらみんなに犯罪者扱いされて「持て、持て」言われて、持ったら今度は、この間、徳島県へ行きました、私は。馬鹿ですねえ、私は。月曜の夜から仕事だというのに、朝から釣りに行きました。寒い寒い寒い日に。「おー寒いよー」と釣ってたら、携帯電話がかかってくるんです。メールです。「高橋さと子さんのおうちでご不幸があったので、パセージリーダー養成講座に東京へ来られませんが、どうしましょうか?」と言うんです。「人が釣りしている最中にそんな相談するなよ!」と思いながら、寒い寒い河原で「ああしろ、こうしろ」と指示を出したんです。これは良いことだろうか、悪いことだろうか?僕は悪いことだと思う、どっちかというと。でもそういうことを当たり前にしているんです。これって凄い馬鹿げていると思いません?どっかでボタンの掛け違いをしました。だから、学校制度をどうするかというと、今の教育制度を根幹的に潰すということね。無着成恭先生が去年、(大分)総会に来られて、「政教分離」と言いました。政治と教育の分離、あれ凄いですね。革命的ですよ。というのは、政治の最大の手段というのが教育なんです、今。われわれの国家は、子どもを徹底的に資本主義・自由主義に向かって洗脳することで成り立っているんです。だから政教分離しちゃうと国家が壊れます。もっともこの洗脳は簡単に壊れるような気もするんですよ。というのは、共産主義国が違う方向に徹底的に子どもを洗脳したのに、国家制度が崩壊した途端にみんな資本主義が大好きになりましたから、チェコ人とかポーランド人とかが。だから案外簡単に壊れる気はしますが。だからあまり悲観的じゃないんです。われわれが政教分離をして、本当に子どものために本当に世界のために、本当に人類の存続のために必要なものは何かを考えて、その方向でものを教え始めることをすれば、それを国家的に統一しなければ。標準カリキュラムを作らなければ。吉田松陰もいれば緒方洪庵もいるような世界にすれば、きっと良い思想が残っていくと思う。