Q
不登校や引きこもる子どもが増えていますが、要素論の枠組みの中で動いている社会の中で、学校や社会と調和して社会参加する力を子どもが身につけていくためには、大人はどのような援助をしていけばいいのでしょうか?改めて、子どもの社会化における家庭の役割や機能について教えてください。
A
中島さんに訊いて。萩さんに訊いてください。僕、その話をすることをやめることにしたんです、何年か前から。今のデカルト的社会に子どもを適応させてはいけないと思うんです。それは破壊活動だと思うの。子どもたちが社会参加してくれると困るんですよ。社会参加した子どもはみんなで大阪湾を埋め立てて、この間まで「30メーターライン」で埋め立てをやっていて、この次「40メーターライン」で埋め立てようと相談しているんですが、大阪湾の一番深いところは60メーターなんです。だから60メーターラインまで埋め立てると、淡路島まで歩いて行けるんです。どう思いますか?その30メーターラインの埋め立てもバカげたことに、大阪でのアドラー心理学会の総会をわざわざ30メーターラインでやったんです。あそこって荒涼とした土地でしょう。あれはまだマシで建物が建っているんですけど、舞洲(まいしま)とか夢洲(ゆめしま)とかいうところはオリンピックしようと思って埋め立てしたんです。オリンピックは北京にとられたんです。で、今何にもないんです。まったく何もない。埋め立てだけして。使い道がないから、私なんかが1800円払って渡船に乗って黒鯛釣っているんです。巨大釣り堀になったんです。それ以外使い道はないんですよ。そういう社会ね、何もかも破壊していく社会に子どもを適応させるわけにはいかないと思う。学校を潰して社会を潰して資本主義を潰して自由主義を潰して、次の新しい社会を作らなきゃならないので、そのために子どもたちの精神を保護することが大事だと思う。子どもたちが精神的に押しつぶされないように、しかも社会のお手伝いをしないように、全然違う生き方を始める。僕たちはもう間に合わない。私はもうすぐ死にますから私のこの生の間に間に合わないですけど、僕たちの子どもたちや孫たちの世代にパラダイムシフトを起こして、この暮らし方から外へ出ないと、人類も滅びますし地球も滅びますから、今の要素論的な社会に子どもたちを適応させる仕事をやめました。そのこと自身が犯罪的だと思いますから。昔から思ってたんですけどね。一応前線・現役にいる間はやってもいいと思ってたんです。昔1960年代、70年代ぐらいにレインとかクーパーとかの反精神医学という運動があって、反精神医学は結局、精神医学が精神障害者を社会の生産性と治安維持のために隔離収容してみたり、薬でしびれさせて働けるようにしてみせたりして、阻害的な犯罪行為をしていると言ったんです。彼らは、精神障害者のために社会全体を改革しろと言ったんですけど、まああれは極端に行きすぎた意見だと思う。でも僕なんかやっぱり反精神医学のアンティサイキアトリーの影響を受けて育ちましたので、今でもお薬使うの嫌いなんですよ。お薬は患者さんご自身の自然治癒力を快復するために使うんだったら、それはしょうがないと思う。でも患者さんの自然治癒力と関係なく、社会の都合で患者さんをおとなしくさせるとか、家族のために妄想行為をなくすためにお薬を使うのは犯罪行為だと思っているんです。だからそんなことよりもむしろ、患者さんと一緒にこの間違った社会の中でどうやって生きていくかの工夫をする。患者さんの弁護士として生きていくんだと思って暮らしています。それは子どもたちについてもそうなんで、今は社会が間違っているけれども、やがて正しい社会が来るだろうと思っているんです。そう思わないと暮らせないからね。その正しい社会が来るまで、子どもたちの精神を保護することが私たちの仕事だと思っている。彼らがクラッシュして潰れてしまわないようにね。だから今の学校に子どもたちを適応させる気は、私はまったくありませんから、違う治療者に訊いてください。他の治療者が子どもたちを学校に適応させるために働くことは邪魔しません。それは彼らの仕事ですから。他の治療者がSST(ソーシャルスキルトレーニング)なんかやって、精神障害者を就職させる運動するのを反対しません。それは彼らの仕事ですから。私はそれをしません。それは私の貞操観念というものです、はい。
Q
相対的マイナスから相対的プラスへ向かう動き、個人の生物学的な目標は「種の保存と個体保存」であるというのは、古典アドラー心理学によるライフスタイルの説明ということになるでしょうか?(そうですね。どっかにあったね。)デカルトパラダイム、相対的全体論からできているものなのだと思います。絶対的全体論による新しいアドラー心理学から出てくる新しいライフスタイル論というのはあるのでしょうか?質問していて自分でもよくわかっていません。
A
デカルトは世界の方向性とか意志とかそんなものを一切考えなかったんです。デカルトの世界というのは「機械」ですから。時計に何か目的はあるか?時計に目的はないんです。近代科学は目的論の否定から出てきたんです。アリストテレスの中世の哲学は、物理学を大変目的論的に考えたんです。例えば、石はなぜ落ちるかというと、石は本来生まれた場所へ帰りたいからだって、アリストテレスが言ったんです。運動法則ですら目的論的に考えました。それをデカルトが否定したんです。だから原因論というのは中性的目的論の否定なんです。原因論というのはつまり世界にも目標はないし、個人にも目標はないという議論です。個人の行動というのは、例えばフロイトによれば、内的な欲望と理性との葛藤からたまたま出てくる結果にすぎなくて、その結果個人は何を成し遂げようとしているのかというと、さしあたっての欲求不満の解消だけじゃないですか。絶えず欲求不満が起こってはそれを解消し、欲求不満が起こっては解消しというモデルしか持ってなかったんです。こうやって人生を長いスケールで見て目的論的に考えるのは、絶対にデカルトパラダイムからは出てこないんです。デカルトの言い方だと、一応道徳は可能そうに見えるんです。何かの道徳基準がどこかから与えられる。どっから来るかはわからないんです。デカルト自身はまだキリスト教が生きていた時代の人でしたから、聖書の中に道徳があって、それは科学の立ち入るべき領域じゃなくて、それが欲求と社会との間の自我の行動指針になっていたんですけど、聖書から来る道徳がなくなっちゃって、それで理性でもって道徳を作り直したんです。それがいわゆる「モダン」なんです。理性で作り直した道徳のことを、ニーチェが「畜群道徳」と言うんです。民主主義とか自由主義とかいうのが結局、人間が身を寄せ合って卑怯にほんとに誠実じゃなくて、自分の願望のために生きていく畜群道徳だと非難するんです。じゃあ、ニーチェは何をするかというと、ニーチェは結局、道徳を破壊しただけで、それ以上何もしないで死んでくれたんです。ここが僕らの抱えている問題なんです。アドラーの言う「共同体感覚」はいかにもニーチェなんです、思想的には。理論でこんなこと言っておいてから共同体感覚というのは、どう考えたって矛盾しているんですよ。アドラー自身の論理だけだとね。だから、われわれが問題にしているわけです、はい。質問は、デカルトパラダイム、相対的全体論が出てきているというのは違うんです。デカルトパラダイムは出てこないんです。絶対的全体論からの新しいアドラー心理学でライフスタイル論はすでにニーチェの段階で、ポストモダンの段階でと言ってもいいんですけど、ニーチェの思想が100年くらいしてわりと新しい形で再評価されて、いわゆるポストモダン運動になっていったと思うんです。その段階で、複数のライフスタイルとかライフスタイルというものが固定しているんじゃないとかいう議論をたくさんの学者がしました。そのあと、今のベイトソンになると、ライフスタイルそのものについて議論するのはあまり意味がない気がするんです。ライフスタイルは、大きなものをもっとみんなが認識するようになれば、そんなに僕たちの障害にならないから、行動を変化させるためのね。まだよくわかんないですけど。
Q
野田先生には「将来小粒」と言われてしまいそうですが、うちの小学生2人は毎日コツコツ宿題をやっています(偉い子や。せん子も偉い子でする子も偉い子なんです)。給食はとてもおいしいと言います。毎日、学校はとても楽しいと言います。これで問題でしょうか?真面目で明るく元気。学校に適応しすぎているようでちょっと恐いです(何でも恐がるなあ)。
A
何ひとつ恐くないです。われわれが子どもたちにあるムキになる姿勢、「クソーっ」って言って反逆的に反抗的になり、つまり「人々は仲間じゃない」と思い、「自分には能力がない」と思い、大きな劣等感を克服して競争に打ち勝たねばという状態に陥れなければ。子どもたちが「人々は仲間だ」とも思い「自分には能力がある」とも思い暮らせるなら、あとは子どもたちが自分の生き方を選んでいくんです。ある子は毎日宿題をし、ある子は絶対宿題をしないんです。ある子は多くの友だちを作り、ある子は友だちを作らないんです。どれもその子がスクスク育っているなら、まったくOKなんです。それを認めたい。表に出ている行動がどんなふうであっても、全部OKを出したいんです。裏にある子どもたちの「信念」ね、子どもたちの基本的な人生設計に問題が起こらないようにしたいんです。そこのところで、子どもたちが世を怨み、自分自身を憎み、親を憎み、人々を敵だと思い暮らすやり方をやめてほしい。そうならないように育てたい。今のやり方は、行動面の画一さを求めるあまり、子どもたちをそっちへ追いやってしまっていると思う。世の中には大物もいるし小物もいるんです。総理大臣も必要だし町の文房具屋さんも必要なんです。どっちもおんなじぐらい人類にとって重要なんです。最高裁判所の長官もいるし、町の交番のお巡りさんもいるんです。どっちもまったくおんなじように役割の分担があるだけで、社会に対する貢献という点で、そんなん量で計れるものじゃない。その人のあるべき位置にあれば、それがその人の一番貢献だと思う。それを社会的な地位とか身分とかを上から下へずらっと並べて、ちょっとでも上へ上がりなさいというやり方が間違っていると思う。そこから抜け出していきたい。抜け出せるお手伝いができるといい。まあ私の生きているうちにどうせ間に合いませんのでのんびりしておりますが、僕はインド式ですのでまた生まれ変わってまいりますから、次生まれ変わってまた続きを言ってやろうと思っているので、何世かにわたって根気良くこういうことをやっていかないといけないと思っています。
Q
高校1年生男子のことです。自分よりも目立つ友人をはめているように思えるフシがあります。物がなくなる、証言が食い違うとかで、友人だけが処分の対象になるのです。あくまでも可能性が高いだけですが、どのように関わっていくことが大切でしょうか?(ああ、自分と違うんや)
A
どのように関わっていくことが大切か、わかりませんねえ。ご本人の求めに応じてしか援助のしようがないと思っているんですよ。その子が何か困っていることがあれば、それに対して僕らは何かしてあげられるけど、その子が困ってない、その子自身が相談してこないことに対してわれわれが援助のしようがないと思うので、残念ながらわかりません。学校の先生がクラスの子どもたちとどうおつきあいしていくかで変わっていくと思う。その子が自分の悩みとか問題とかをしゃべってくれるような関係ができれば何か言ってくれて、何かできるようになるかもしれない。第三者的に客観的に、「あの子あんなことしている。何かしないと」という立場では援助の設計のしようがないように思うんです。
Q
迷っていたところへ勇気をいただいたと思います。ジェーン・ネルセンさんの言う思いやりがありかつ断固としていること、「やさしくきっぱり」というのを英語では何と言うのですか?
A
Kind and firmです。