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I am OK. You are not OK.からの脱出

Q
I am OK. You are not OK.について。ここからの脱出方法についてお話ください。

A
 私(野田)はこの間からワークショップを2つ連休の間に続けて続けてやりました。ワークショップは一番儲かるんですよ。本を書いたら全然儲からないです。『アドラーの思い出』なんか、苦労してね、1年もかかって翻訳してね、56,000円もらえたんですよ。なんか凄い悲しいです。本なんてそんなんです。『トーキングセミナー』は発行部数が多かったから1冊出るたびに20万円くらいもらっている。でも年に20万円くらいなんです。カウンセリングとか講演とかはあんまりお金にならないんです。僕、講演で一番もらえたのは、アドラーの仲間のところで、凄い気前のいい所で20万円くらいかな。でも月1回とかですから、それだけでは暮らせない。その割にワークショップは実入りがいいから、なるべくワークショップで暮らしたいものだと思っているんです。私のサバイバル戦略なんですけど。
 連休なんか稼ぎ時だから、2発続けてやったんです。片方が「俗アドラー心理学」で片方が「聖アドラー心理学」なんですけど、字がちょっと違います。どっちも問題になったのは、「私はちゃんとしているのにみんなが私のことをわかってくれない」とか、「私には間違いがないのにみんながおかしなことをする」って言って不幸になっている人たちなんです。この人たちは絶対救われないんです。なんでかというと、自分を変えることでしか答えはないから。僕たちが人生を変えようと思ったら、自分のやり方を変えるしかしょうがないわけじゃないですか。「私がこんなに誠実にしているのに、ちっともみんなが報ってくれない」とか、「一生懸命生きているのに私の家族がわかってくれない」とか言っている人は一生言っていると思う。これがI am OK. You are not OK.なんですよ。
 アドラー心理学の原理に遡って考えると、人間には劣等感というものがある。私はNot OKだと思っている。そのNot OK をOKにするために何かいろいろ努力したり目標を立てたりする(補償)。ところがこの人たちはNot OK度が深い。自分がNot OKだということを認めることができないんです。認めると崩壊しちゃうんです。だからそこから目をそらして、自分の不幸を他人のせいにする。そういうのをアドラーは「自己欺瞞」と言いました。フロイトは、あー忘れた。投影か。また思い出すでしょう。そうそう、「反動形成」(浩→やっぱり“投影”でしょう?)。私にあるものを相手に見つけるんです。「お前たちは残虐だ」とか「お前たちは嘘つきだ」とか言う人に限って、自分が残虐だったり嘘つきだったりする人を見たことない?あれ、反動形成(浩→“投影”)なんですよ。その人たちは劣等感があまりに深くて、その劣等感を直視することができなくて、相手の中に自分と同じ欠点を見つけ出して、「そうだ、そうだ」と言う。そういう人たちは、まずさしあたって手助けのしようがないんです。もしもその人たちの劣等感をまともに指摘したりすると、またやりますよ。「治療者は悪い人、私はかわいそうな人」ときっと言いますから、僕たちはゆっくりと時間をかまえて、その人たちが自分自身をちゃんと見つめて、「自分の力で変わろう」と思われるのを待つことにします。なぜ待つことにするかというと、私はちっとも困らないからです。
 このへんがやっぱりプロですね。アマチュアは助けてあげなければと思うが、プロは「助けてあげなければ」とは全然思っていない。「助けてほしければ助けてやらんでもない」くらいのところで構えていますから、待ちます。「時」が必要だと思うんです。病気の根が深い人たちだと思う。アドラーをやってても、そんな人とよく出くわすんです。そういう人たちは子ども時代の想い出までそうなんです。今現在もそう思っているけど、子ども時代の想い出もやっぱり「私がちゃんとやっているのに、みんながわかってくれなかった」とか、「確かに私も悪いことしたけど、あなた方のやり方はあんまりでしょう」というような想い出を持っている。だから骨の髄からI am OK. You are not OK.なんです。ということはよっぽど劣等感が深いので、かわいそうではあるけど、説明だけして、「こうこうこうなんです。今回あなたを援助することができません」と言って待ちます。(野田俊作)

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抑圧的政治(2)    野田俊作

 今日はこちらで御覧ください。↓

http://www2.oninet.ne.jp/kaidaiji/dai1keiji-09-22.html

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無責任に生きると自由?

Q
 私はハートで生きていないからでしょうが、「ハートで生きるのが自由だ」というのがよくわかりません。できれば教えてください。まったく無責任だと思うのですが、ときどき無責任に生ければ自由なのだと思ったりします。「自由」って何なのでしょうか?

A
いわゆる自由に好き放題にわがまま勝手に生きるとね、不自由になると思いません?人間は社会の中で相互作用の中でコミュニケーションの中で相互依存関係の中で暮らしているわけで、勝手なことをすると結果として大変不自由になると思いませんか?例えば電車に乗っていて疲れたから、座席の上に横になってゴロゴロ寝ていると、それは自由な生活なんだろうか?そんなことをしていると、だんだん世間が狭くなって暮らしにくくなると思わない?結局、人間が自分の人生を意味あるものとしてね、アドラー心理学はいつも人生の意味について考えるんですが、意味のあるものとして生きるためにはどうすればいいかというと、責任を果たして生きればいいんだ。責任というのは何かというと、自分の「すべきこと」をして生きればいいんだ。自分の「すべきこと」をして生きるのが、結局一番自由なんだ。ボディやマインドが「したい」と思うデザイヤーとかニードとかいうレベルで暮らしていると、それは「つながり」のない暮らしなんです。なぜなら「つながり」はハートの世界にしかないから。そうするとだんだん自分は人生の意味を失い、モノは得られるかもしれん。悪いことしてお金を稼いだりしたら、お金持ちになるかもしれん。でもその人生って幸福でもないし自由でもないと思うんです。「私は一体何のためにこんなことしているだろうな?」って。そう思いませんか?まあだいたいそう思うもんだという一種の性善説にもとづいてアドラー心理学は話をしているんですけど。(野田俊作)

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戦国自衛隊    野田俊作

戦国自衛隊
2001年11月14日(水)

 アフガニスタンで、北部同盟がタリバン兵を虐さつしているそうだ。北部同盟は、以前にも市民を虐さつしたことがあるとかで、評判が悪い。
 最近、『平家物語』や『太平記』を読んでいるので、アフガニスタンの戦争についてのニュースを聞くと、頭の中で二重写しになってしまう。日本の中世もきっとあんな風だったんだろう。日本の場合は、宗教間でも民族間でもなくて、氏族間の戦いだったのだが、残虐さはおなじことだ。アフガニスタンは文化的には中世なんだな。そこへ以前にはソ連、今はアメリカが介入して、現代の戦闘法を持ち込んだ。しかも、今回は、現代のマスコミがすべてを見張っていて、アフガニスタン人のすることを現代の価値観で裁こうとしている。日本の南北朝時代に、いきなり現代のアメリカが介入しているようなものだ。
 そういえば、むかし、『戦国自衛隊』という映画があったなあ。半村良のSF小説の映画化で、原作も読んだっけ。角川春樹事務所によれば、新潟・富山県境に演習を展開していた自衛隊一個中隊が、ヘリコプター、装甲車、哨戒艇もろとも突如、戦国時代にタイムスリップした!彼らの前に現れたのは長尾景虎と名乗る武将、すなわち後の上杉謙信であった。景虎の越後平定に力を貸すことを決意した伊庭三尉率いる中隊は、現代の兵器を駆使して次々と諸将を征圧していくのだが……。果たして歴史は塗りかえられるのか?という話だ。アフガニスタンの戦争は、これとちょっと似ている。事実は小説よりも奇なり、ってところか。
 SF小説は父母ともに好きだったが、とくに母が好きで、『SFマガジン』の創刊号からずっととっていた。大正14年生まれの女性だから、ひどくモダンな人なんだ。両親が読むと、私や弟が読んだ。中学時代と高校時代は耽読(たんどく)していたけれど、大学に入ると読まなくなった。他に読むものが多くなりすぎたんだ。映画は1979年で、息子と一緒に見た記憶があるが、そのときは息子はまだ6歳だから、見たのはたぶん劇場じゃなくて、もうすこし後にビデオで見たんだと思う。息子もこういう話が好きだったから。
 同じような感じのSFだと、豊田有恒『退魔戦記』というのも印象に残っている。これは元寇と関係した話だ。角川春樹事務所によれば、代々脇田家に伝えられてきた古代文書「退魔戦記」。脇田俊夫はその解読にあたるが、そこには驚くべき真相が記されていた。― 蒙古軍の襲来を迎えようという文永年間の日本を、天空を翔けめぐる船に乗った未来人たちが訪れていたというのだ。彼らは蒙古による世界支配を阻止せんと、七百年もの時空を超えた歴史改変の戦いを繰り広げているのだったが……。ということだ。これも、すこし現在の様子と似ていないでもない。
 ともあれ、アフガニスタンの話は、中世にいきなり現代が迷い込んだようで、パースペクティブが狂って不思議な感じがする。迷い込んでいる現代のほうは、自分の価値観もまた相対的なものであるにすぎないとは、まったく考えていないので、アフガニスタン人の残虐行為を、なんの迷いもなく非難する。しかし、アフガニスタン人にはアフガニスタン人の価値基準があって、虐さつにも立派な理由があるのかもしれない。こんなことを書くと、現代日本人からは総攻撃を受けそうだな。



抑圧的政治
2001年11月15日(木)

 アフガニスタンのカブールが「解放」されたら、さっそく女性のブロマイド(もちろんヌードではない。ただ顔が出ているだけだ)を売っている人がいたし、それを喜んで買っている人もいた。音楽放送も解禁されたし、女性のアナウンサーも登場したそうだが、そういう公的な活動よりも、まったくの「民間」の活動としてのブロマイド売りのほうが「自由」というものを象徴する力が強いように思う。
 抑圧の時代が終わって喜んでいる人々の姿が報道されているが、一方で、ブロマイドを売るなどの「放埓」を苦々しく思っている人もいるのだろうか。抑圧的な政権が持続できたのは、罰と脅しによる締めつけのために国民が卑屈になってしまったためもあったろうが、そういう姿勢に賛成する国民の支持もあったのではないかと思うのだ。たとえば、戦前の日本政府が存在しえたのは、強圧的な政治のためだけではなく、政府のイデオロギーを支持する国民が数多くいたからだと思う。「いやいや従っていた」と年寄りたちは言い、たしかにそうだった人もいたろうけれど、戦前は軍国主義者だったのに、戦争が終わると器用に民主主義者に変身した人もたくさんいたという。同じようなことが、イスラム原理主義の国家でもあるのだろうか。
 われわれは抑圧的じゃない政府のもとで生まれ育ったので、ひどく抑圧的な国家で暮らす感覚がピンとこない。そのうえ、私個人は、いわゆるサラリーマンをしたことがないので(勤務医はしたが、あれはサラリーマンとはとうてい言えない「気楽な稼業」だ)、抑圧的な職場も経験がない。学校は、中学校だけがひどく抑圧的だった記憶があるが、その他は自由だった。いい生涯を送らせてもらっていると思う。
 抑圧された体験が少ないわれわれは、たとえばタリバンのもとで暮らす人々の感覚をよく理解できない。「われわれ」と言ってはいけないので、日本でも、たとえば、女性たちは「抑圧されている」と感じているかもしれないし、実際、今なお男性よりも不自由な生活を強いられているところはあると思う。それはそれとしても、なおタリバン政権下の人々、なかんづく女性、ほど抑圧されているわけではない。そういうわれわれに、抑圧された国家で暮らす人がどのように感じ、どのようにふるまうかは、想像しかできないし、その想像もそれほど実像に近くないかもしれない。
 ひどく抑圧的な政府のもとで暮らさなければならないとき、人間はどこまで希望を持ち続けられるのか、逆にどこまで卑屈になれるのか、私にはよくわからない。私が、いつも希望をもって勇気をもって生きようと思っているのは、政府が抑圧的じゃないからで、もし日本政府がひどく抑圧的に変身したら、私だって卑屈になってしまうかもしれないし、それどころか、政府のイデオロギーを本気で支持するようになるかもしれない。人間の性格は一人に一つしかないのではない。複数の人格があって、状況によって違う顔が出てくる。私だって、密告者や抑圧者になるかもしれない。だから、社会状況を、国民の悪い顔が出ないようなシステムにしておく必要がある。そのシステムって、どういうものなんだか、ずっと考えつづけている。

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自分は悩まなくなったが、他人の子どもの非行化や暴力が気になる

Q
 アドラー心理学を学んで、自分の悩みはなくなった。他の人で、子どもさんが非行に走っているとか家庭内暴力を起こしているというのが気になり始めました。
A まあまあ一段階良いことではありますね。
Q 向こうが何も悩んでないのに、そのことについて口を出すのはお節介になるのではないかと思います。でも気にはなるんだけど、そこでどうしたらいいか?
A
 昔、知り合いの統合失調症の患者さんが、尾道の海の上を渡っている橋から飛び込んで自さつを図って、アップアップしているところへ漁船が通りかかって「助けてほしいか?」と聞いたから、「助けてほしい」と言ったら助けてくれた。もし、「助けてほしくない」と言ってたら、あれは見捨てて行ったんでしょうかね(笑)。
 ですから、いっぺん注文を取ってみたらどうですか。「何だったらご相談に乗りますけど、どうでしょうか?」と。注文を取ってみるとわかることがある。外人さんが道で困っていると、僕は英語がしゃべれるから“May I help you?”と言うんだけど、黒人さんのおじさんが2,3人困っていて、英語で聞いたが、向こうは黒人さんの英語でしゃべるから全然わからなくて、全然お助けマンになれなかったことがあった。助けられないかもしれない。気の毒だとは思うけど、手を出してみたがどうしようもなかったということもありうる。われわれ自身にもゆとりがほしい。ほんとに助けられるものかどうか考えてみたい。「何だったらご相談に乗りますから、気軽に声をかけてくださいね」と言って、あと何にもしないで見ているとお節介にならないで生きられる。余計なお世話で、「あの人が来たために、余計に話がややこしくなった」と言われない。
 漢方医学のことわざに、“病を得てこれを治せずんば、中医なり”というのがあります。「病気になってこれを治さなければ、中ぐらいの医者にかかったと同じだ」ということ。病気になって下手な医者にかかるよりは、全然医者にかからないほうがはるかにマシ。何だってそうで、藪医者ぶりを相手に押しつけると、相談するよりもっと悪いことになる場合もある。
 人を援助することに反対ではないです。少々お節介になるのもそんなに反対ではないです。僕らの心の内側がドロドロしていっぱい“甘え・甘やかし”の後遺症が残っている間に、あんまり人を助けにかかると、自分の内側のドロドロを相手に押しつけるということを知っていたほうがいい。知ってさえいれば安全です。知らないで、「私はまったくの善意でやっているんだと」思って、ドロドロにするヤツが一番具合が悪いですね。(野田俊作)

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