Q
子どもは引っ込み思案で活動的に動くことが非常に少ないです。友だちも限られていて、休みの日も1人で家の中で生活することが多いです。親としてどんな勇気づけをしたらよいかいつも考えているのですが、何かアドバイスをお願いします。子どもは高校生になっています。もっと自信を持っていろんなことに挑戦してもらいたいと考えているのですが。
A
あのー、アドラー心理学は、「子ども改造計画」には手を貸さないことにしているんです。僕、引っ込み思案は素敵だと思います。友だち少なく暮らせるのは素敵だと思います。消極的に自分の世界の中で暮らすのもとても素敵だと思います。そういう人もこの世に必要です。もちろん積極的に社会に打って出る人も必要です。今の社会は社交的であったり外向的であったりすることを評価するあまり、そうでない人たちが価値が劣った人たちであるかのように言っているけれど、それって凄いまずいことだと思うんです。自分の世界の中でゆっくり考えるタイプの人も、この世に必要なんですよ。だから、「あなた、その生き方はダメです。こっちの生き方にしなさい」というのが一番勇気くじきだと思う。どうすれば勇気づけできるかって言うと、「あなたって素敵ね」って言えば勇気づけることができます。「あなたの生き方って素敵よね」って言って、変な気持ちになるでしょう。どこが素敵なのかしらって。それから考えてほしいの、どこが素敵か。だから、「あなたの生き方って素敵よね」とまず言ってみて。で、どこが素敵かはあとから一生懸命くっつけてくださいな。(野田俊作)
丘は地球の岬
2002年04月24日(水)
たしか小松左京の小説だったと思うが、「丘は地球の岬、そこからは宇宙がよく見える」という一節があった。
高校生のころから、丘に登ってボーッと時間をすごすのが好きだった。その時代には、大阪府と奈良県の境にある二上山の低い方の峰、雌岳に登った。今はそこはこんもりとした森の中だが、そのころは伐採直後で、大阪平野と奈良盆地が見渡せた。学校などでいやなことがあると、そこへ行って、寝転がって、麓の物音を聞きながら、空や雲や風景を見ていた。
深山は神々の領域で、穢れた人間のままではそこへは入れない。しかし、丘は神々が人間に貸してくれた場所で、日常のままでそこへ行ってもよくて、そこには適当な量の霊気があって、人間の心身を清めてくれる。なんだか、そんなことを考えている。そういう場所に一日いると、なんだか違うのだ。
丘には霊気がある。だから、丘で「悟り」を開いた話が多い。日蓮聖人もどこかの丘でご来迎を仰いで開悟されたというし、禅籍にも丘で悟った話は多い。たとえば、こんな話だ。
唐代の僧、霊雲志勤は、三十年間修行したが開悟しなかった。あるとき雲水の旅に出たが、山の麓で休息して、はるかに人里を望んだ。ときは春で、桃の花は盛りであった。それをみて忽然として悟った。そこで偈を作って師匠に示した。
三十年間も(川に落とした)剣を(船べりの目印を目当てにして)探していた
何度葉が落ちて、また新芽が生えたことか
桃の花をひとたび見てからは
ひたすら「今ここ」を生きて、疑うことは何もなくなった
三十年来尋剣客
幾回葉落又抽枝
自従一見桃花後
直至如今更不疑
師匠の大為大円は、これを見て、「縁より入る者は永く退失せず」と評した。
今日は、滋賀県近江高島の見張山の中腹に登った。このごろ、そこが気に入っている。そこからは湖と町と街道と鉄道が見える。花の季節は終わったし、今にも雨が降りそうな曇天だったが、それでも宇宙はちゃんと見え、霊気に洗われて帰ってきた。悟りまでは開けなかったがね。
動的平衡
2002年04月25日(木)
私もパートナーさんもかたづけが苦手だ。今日は休日なので、せめて私の分をかたづけておこうと思った。
収納スペースがまずあって、それにあわせて物を買ったり捨てたりしている。流入量と流出量を等しくして、動的平衡を保っているということだ。科学的だろう。それでほぼうまくいっている。
かたづけるべき対象は3類あって、ひとつは本やCDで、ひとつは洋服で、ひとつはおもちゃだ。おもちゃ、すなわち山道具・釣り道具・写真道具については、動的平衡がほぼ保たれている。とくにカメラは優秀だ。写真道具一切を乾燥機のついた収納ケースに入れているのだが、このケースがガラス張りで外から見えるものだから、「ああ、なにか買うとなにか捨てないといけないな」とわかるので、容易に自主規制できる。流入がないので、流出もさせなくてすむ。もし流出させる必要があっても、下取りシステムが完備しているので、捨てないですむ。山道具は、ほとんど物置にあって、これも一望できるので、動的平衡を保ちやすい。ただ、一部、いつも使う低山散歩用のものが、寝室にあるおもちゃ箱の中にある。ナイフとかコンパスとか双眼鏡とかね。しばらくすると、これがあふれてくる。今回は思い切ってずいぶん捨てた。かわいそうなのは釣り道具で、大部分は家を追い出されて、実家に預けてある。渓流釣りの道具だけが家にあって、しかもほとんどは車の中にある。これについては、動的平衡を保つことができなくて、システムが破綻したわけだ。
洋服は、そんなにたくさん持っているわけではないのだが、収納スペースが狭いので、すぐにあふれ出る。特に問題は普段着で、整理箪笥の上に置いておいたりして、見苦しいことかぎりないと、自分でも思う。それもなんとか処理した。外出着については、このごろネクタイをして暮らしているので、かえって量が減って、動的平衡を保ちやすくなった。むかしはカジュアルな服装をしていて、たくさんのバリエーションが必要だった。ネクタイをして暮らすことにすると、上着についてはそんなに種類がいらない。シャツとタイで誤魔化せるからね。
最大の問題は本だ。読んでしまった本を定期的に事務所に持っていって「捨てて」くる。しばらく事務所の本棚に置いておくが、そこもあふれてくると古書市をする。9割引で売るのだ。千円の本が百円だ。捨ててしまうよりはマシな処理法だと思っている。もっとも、ヲタクな本が多いので、あまり売れない。今回も大量に本が出たので、何回かに分けて事務所へ運ばなければならない。そうして、読んでしまった本を「捨てて」いても、流入量が多いのと、もうひとつは「これは手元に置いておきたい」と思ってストックが増えるのとで、システムは常に破綻している。コンピュータ関連のマニュアルとか、山のガイドブックとか、アドラー心理学の基本文献とか、辞書類とか、そういうのだけで本棚がいっぱいになってしまっているし、これ以上本棚を増やすスペースがない。CDも同様で、必要なストックだけで、収納スペースからあふれてしまう。本やCDは「文系」で、自然科学の法則に従わないんだ。仕方がないよ。
子どもが好きな人
2002年04月26日(金)
銀行で行列待ちをしていた。ある女性が機械のほうを向いて作業をしていて、後ろに乳母車がおいてある。その中の子どもがすこしグズった。女性がふりむいてあやそうとすると、いかつい顔の中年のガードマンのおじさんが来て、乳母車をゆすりながらあやしはじめた。子どもは不思議そうな顔をして機嫌を直した。
それを見ながら、「子どもが好きな人に悪い人はいない」という言葉が頭に浮かんだ。すると、この恐い顔のガードマン氏も、実はいい人なんだ。しかし、私は子どもは嫌いだな。「動物が好きな人に悪い人はいない」というが、動物も嫌いだな。なにか好きなものはないかな。「山が好きな人に悪い人はいない」ともいうが、これは嘘だ。山が好きで、しかもひどく悪い奴を知っているもの。「音楽が好きな人に悪い人はいない」ともいうが、これも嘘だ。音楽を好きな大悪人を何人か知っているし、アメリカ映画のマフィアはオペラ・アリアを聴いているし、ナチはワーグナーを聴いているじゃないか。とすると、子どもや動物が嫌いで、山や音楽が好きな私は、悪い人か?
まあ、そうかもしれないが、すこし理屈をこねておこう。「ある人が子どもが好きならば、その人は悪い人ではない」という主張なのだが、「子どもが好きな人」の行動特性と「悪くない人」の行動特性に共通性があって、しかもその共通性は偶然によるものではなく、その背後に共通の構造を持つために起こる必然的なものであるということなのだろう。子どもや動物などを好きだというのは、「弱いものを保護する」という構造なのだろうか。しかして、「悪くない人」の条件のひとつが、「弱者を保護する」ということなのかもしれない。
しかし、「子どもが好き」と「悪い人」との間には、他の構造もありうる。たとえば、子どもの好きな女医さんが小児科医や児童精神科医になって、かえって具合が悪かったというようなことを、何例か見聞きしている。子どもがあまり好きじゃないと、いつも冷静でいられる。しかし、子どもが好きな医者は、ときとして理性を失ってしまって、「鬼手仏心」じゃなくなってしまう。冷たいほうがかえって患者のためになることもあるのだ。だとすると、「子どもが好きな医者は、いい子ども医者じゃない」という主張だって成り立ちそうに思う。つまり、「子どもが好き」ということは「理性を失いやすい」という構造をもっているかもしれないということだ。
私も子どもが好きじゃないが、うちのパートナーさんも子ども嫌いだ。もっとも、二人とも、思春期の子どもは好きなのだが、ここで子どもといっているのは、乳幼児ないし小学校低学年の子どものことだ。ともあれ、彼女は子どもは好きじゃないが、とてもよい児童カウンセラーだ。私がいい思春期精神科医であるかどうかはわからないが、そうでありたいと思っている。子どもが嫌いだからって、悪い治療者になるとはかぎらないと思う。冷静さは、いい治療者の重要な条件なんだ。
…どうも自己弁護くさいな。
Q
職場に60歳のやや神経症気味のおばさんがおります。仕事熱心なのですが、すべて自分のペースでやろうとし、周囲の人たちの反感を買ったりトラブルが絶えません。本人は「話し合いで何でも解決しましょう。どんどん意見を言ってください」と言うのですが、話し合いができる人でなく、「悪いあなた、かわいそうな私」をして、筋道を立てて論理的に思考できず、子どもじみた駄々をこねます。こんな人と当たり障りなくつきあえるコツをお願いします。
A
当たり障りあったらどう?いっそ。当たり障りがあって筋道通すのと、当たり障りなく筋道がないのとしか選べないとしたら、どっち選んでもいいですけど、ちょっと当たり障りがあってもいいかなという気はします。まあ、それはイヤやと、うんとトラブルになって勝ってやるというのも1つの手なんですが、それはイヤやということになれば、「私たちは何をしようとしているんだろう」と、絶えず問いかけることだと思う。興奮してきたらちょっとストップして落ち着いて考えて、「で、何を解決しようとしてたんだね」って。目標さえ見失わなければ、人間って何とかかんとか協力できると思うんですよ。協力できなくなるのは、「で、何をしようとしていたか」を忘れるからだと思います。(野田俊作)
電線
2002年04月21日(日)
金沢に来ている。長町といって、武家屋敷のあるあたりで講演をする。繁華街の香林坊のすぐ近くだが、静かな一角だ。藩政時代の高級武士の邸宅が並んでいる。
このあたりは電線が少ない。写真撮影のことを考えてくれたのだろうか。この前京都に行ったが、電線が邪魔になって困った。写真家のためだけじゃないよ、地震のときも電柱は危ないんだって、神戸の震災のときテレビで評論家が力説していた。ヨーロッパの町には電線がないので、その気になればそういうことも可能なのに、日本ではどうしてこんなに網の目のように電線をはりめぐらせて平気なんだろうか。リルケの『神様の話』に電線の悪口が出てくるので、あの時代にはまだヨーロッパにも電線があったんだ。
せっかく電線がないのだが、今回は写真はない。カメラを持ってきたが、かなりひどい雨で、光がなくて撮れなかった。年に1回程度金沢に来るが、いつも雨か雪で、いままでいい写真が撮れたことがない。今年は後2回行くことになっているので、次の楽しみということにしよう。
徒労
2002年04月22日(月)
携帯電話の着信メロディを入力するのを頼まれて、CDから聴音して採譜し、入力した。たくさん同時に頼む人だったので、とにかく3曲入れた。さて、一覧して鳴らしてみようと思ったら、最後に入れた1曲しか入っていない。そのときわかったのだが、その機械は、自分で作曲するのは1曲しか入らず、新しく入れると上書きしてしまうのだ。くそっ!
このごろ着信メロディの入力をよく頼まれるのだが、向いている旋律と向いていない旋律がある。旋律の型を大きく分けると、「もろびとこぞりて」のように高いところから音階をたどって下がってくるものと、「蛍の光」のように和音をたどって上がっていくものと、「かごめかごめ」のように一つの音の回りをウロウロするのとがある。最後のタイプのものが使いにくい。だって、歌詞もないし音色の変化もないんだから、着信メロディにすると、ただ同じ音がダラダラ鳴っているように聞こえて、ものすごくつまらない。
今日頼んだ人は、ところが3番目が好きみたいで、選んだ曲のほとんどがそのタイプだった。仕方がないので、伴奏に工夫して面白く仕上げた。それなのに、消えてしまったんだよ、ぐすん。
天才を守る
2002年04月23日(火)
小さいころから、音楽や絵画や数学や体育の才能がある子どもがいる。ふつう程度だといいのだが、ひとつのことにほとんどのエネルギーが向けられて、他のことに向けるゆとりのないことがある。いわゆる天才だ。もし学校で、教師がその子たちに「ふつうの子」であるように圧力をかけたとすると、そういう子どもはパニックに陥ってしまって、不適応をおこす。そうして、早い時期に社会から落ちこぼれ、悪くすれば折角の才能もつぶされてしまう。そういう子どもを学校教育がどう扱うかは、大問題だと思う。
関連したお話。むかし、フランスに、エヴァリスト・ガロワという、ちょっと非行気味の少年がいた。授業についていけないし、性格もかなり変わっていたようだ。さいわい、中学の数学教師が彼の才能に気がついて、高等数学の本を与えた。彼は他のことをすべて捨てて、その本を耽読した。やがて、5次方程式の一般解法に関心を持ち、群論という新しい理論を開発して、5次方程式の一般解法は存在しないことを証明した。しかし、当時の数学者は、その証明を理解できなかった。それくらい斬新な理論だったんだ。彼は、天才だったけれど、エクセントリックな人で、恋人をめぐって友人と決闘して、21歳だかで亡くなった。ガロワのことを私たちが知っているのは、中学の先生が彼の才能を発見してくれたおかげだ。もし、この先生がいなかったら、ただの非行少年のままだったろう。
そう言えば、今やっている『ビューティフル・マインド』という映画は、精神病の数学者の話だったな。それからの連想だが、もう時効なので書いてもいいのではないかと思う話がある。Oという有名な数学者がむかしいた。フルネームを言えば、「ああ、あの人ね」と言う人が多いと思う。この方は精神病で、ときどき幻覚や妄想が出て、世間との折り合いがとても悪くなった。そうなると、仕方がないので入院していただいたのだが、第1回目の入院の主治医が私の父だった。このときは薬もない時代で、父によれば、「ただ毎日お話を伺いに行っていただけだ。そのうち症状が軽快したので退院していただいた」ということだそうだ。第2回目は、私のスーパーヴァイザーだった高石昇先生だった。そのころ、精神病の薬が発明された。試しにそれを服用していただいたところ、「これをのむと、頭が動かなくなります。そうなると、数学の仕事ができません」と言って断られた。そこで、幻覚や妄想がある間は入院を続けていただいたという。
要するに、天才は、ときとして学校や社会との折り合いがとても悪いのだ。そういう天才を保護するのも、精神医学や心理学の仕事だと、私は思っている。ちょうど今、ある天才児の親が相談に来ていて、学校との折り合いの難しさを嘆いている。担任の教師は天才をひとり潰そうとしていることに気がついていない。なんとかしてこの子を守って才能を伸ばし、人類に貢献できる人になってもらいたいものだと私は思っている。
Q
中3女子と高2男子の感想文を1人500円で代筆したら、私自身は作文は大嫌いでしたし文章化することにそんなに意味はないと思っていたのですが、子ども自身がイヤで困っているなら、代わってやってもいいかなと考えます。どう思われますか?
A
悪事だと思います(爆笑)。別にね、感想文を書くことにそんなに一生を左右するほど大きな問題があるとは思わないんですが、ここで子どもが何を学んだかを知りたいんです。いつも僕たちの育児の結果、子どもがどんなことを学んだかを知りたい。困ったら金で解決できるとか、自分の責任を人に代理させられるとかいう類いのことを学んでいると困ると思うんですよ。人生には自分で引き受けなきゃならないことってあると思うし、金で人にやってもらえないこともあると思う。金でやってもらうことが悪いと思いません。例えば僕は税理士がついているんですけど、全然帳簿ってわかんないんですよ。一応、現金出納帳だけつけていて、あともうそれをポイって税理さんに渡して、「これだけ税金払いました」「はいはい」ってやってるの。それはみんなそうするんです。税務だとか法務だとか、あるいはお医者さんに健康管理してもらうのは、それはシロウトさんができないことですからやりますが、でも一方わたくしが自分でしなきゃなんないこともいっぱいあるんですね。で、学校の宿題というのは税務や法務じゃないので、専門家に委託して代金払ってやるもんじゃないと、多分思います。この世にはたとえいやでも不服でもやんないといけないことあるんじゃないってことを学んでもらったほうがいいんじゃない?だから、極悪とは言わないが悪事です。(野田俊作)