Q
人のものを盗った子どもに対する指導をアドラー的にやってみたつもりです。しかし、他の職員から「中学になったらきっともっと大変になるだろうから、もっと厳しく指導しないといけない」と言われ、甘いと思われていると感じている。このことで、“みんなから評価されたい私”がいることを改めて意識できた。それがわかって少しすっきりしたけど、まだくじけています。こんなとき自分をどう勇気づけたらいいのか教えてください。
A
どんな指導をしたかわからないけど、アドラー心理学ってメチャメチャ厳しいよ。結末について話し合って、実行された子にはすごく堪(こた)える。だって「なるほど」と納得できるもの。
盗みなら、まず「警察へ行きますか?」と言う。「君はどうもみんなと一緒にやっていけないみたいなので、警察へ行きませんか。そうしたら、児童相談所へ行きなさいとか、カウンセラーと会いなさいとか言われるでしょうから、その人たちと話してみませんか?」「もうしません」「もうしないんだったら今回は行かなくていいですけど、次にやったらもう話しませんから、即、警察へ行きましょう。それでいいですか?」。これって論理的でしょう。
学校という社会は警察とつながるのをイヤがるね。私は裁判所や児童相談所にいたことありますが、教師よりうまいこと扱いますよ。向こうは専門家なんだから頼んで協力体制をとるのを戸惑ってはいけないと思う。
だいたい、学校の先生に「処分権」があるかどうか疑問です。刑事犯罪ですから、子どもであっても。もうちょっと何か考えたほうがいいという気がします。この意見に固執はしませんが。個人的見解です。アドラー心理学をやっていると、どうせ批判はあります。だから闘うことです。私はそうやって暮らしてきました。なんであなたがたがそうしないかわからん。自分のやっていることに確信を持てるまで、信念を持てるまで深めていって、人がどうのこうの言ったら、「いいえ、このほうが正しいんです」と言えるだけの準備をする責任があります。しっかり勉強してくださいね。(野田俊作)
頑迷固陋(がんめいころう)
2001年11月04日(日)
あるところで公開カウンセリングをしていたら、フロイト派のスーパーヴァイザーのもとでカウンセリングを学んでいるという人がやってきて、「1回のカウンセリングで、あんなに進んでしまっていいんですか?」と尋ねる。「1回で進まなければ、何回で進めばいいんですか?すこしでも早く問題を解決してあげるのが、治療者の責任だと思うんですが」と私は答えた。「でも、過去のことをいっさい聴かないで、未来のことだけをおっしゃっていていいんでしょうか?」と言う。「過去は終わってしまったから変えられませんが、未来はまだ来ていませんから、どんな風にでも変えられます」と私。「あれではほんとうのところは治らないのでは」とその人。「『ほんとうのところ』は私にもクライエントさんにも見えません。見えているのは、クライエントさんが困られている問題だけで、その問題が解決したんだからいいんじゃないですか」と私。
ああ、どうせこの話は噛み合わないんだ。ここ50年も、われわれアクティヴ・セラピストはフロイト派の人たちと同じ議論をしてきた。ミルトン・エリクソンに誰かが、「過去のことを尋ねなくていいんですか?」と聞いたら、エリクソンが、「忘れていたよ」と答えたのは、もう50年近くも前の話だ。目の前でクライエントさんが回復していっているのに、原因論者たちは信じることができない。きっと再発するだろうとか症状移動するだろうとか主張する。しかし、実際には再発も症状移動もほとんどおこらないし、おこったらまたそのとき1回か2回会えばいいだけのことだ。
人間は、ある理論を信じてしまうと、その理論と認知的不協和をおこすデータの存在を否定する。理論は地図でデータは現場なんだよ。地図と現場が違ったら、間違っているのは地図のほうなのにね。
卒業論文
2001年11月05日(月)
このごろ、「アドラー心理学でもって卒論(修論)を書きたい」という人が多いので困る。「指導教官の専門は何?」と聞くと、行動主義者だったり、分析派だったり、短期療法家だったりする。「それだったら、先生の専門領域で書きなよ。アドラー心理学なんて、学生さんのレベルで論文になることなんてないよ。百年近くもみんなで啄ばみつくして、今じゃ、ほんとうのプロにしか論文は書けないぜ」。そんなことを言うのだが、あきらめる人はめったにいない。
指導教官のほうがまた無責任に、「アドラー心理学?いいんじゃない、それで書けば」なんて言うものだから、余計に困ってしまう。それで、実際に書いたら、きっと気に入らないんだ。いくつか原因がある。
ひとつは、教官が思い浮かべているアドラー心理学と、実際のアドラー心理学がまるで違っていることだ。教官がイメージしているのは、フロイトの亜流で、劣等感だの力への意志だのをキーワードにした古いタイプの心理学だ。しかるに、実際のアドラー心理学は、この間までは「アドラー心理学は紛れもない認知理論だ」と言っていたし、もうちょっと前は「アドラー心理学は現象学的心理学の先駆だ」と言っていた。今じゃ「ポストモダンだぜ、アドラー心理学は、いえぃ!」なんて言っている。まったく節操がないんだ。
ふたつ目の原因は、日本語の文献がないので、英語かドイツ語を読まないと話にならないのだが、このごろの学生さんは語学力がなくて、そういうものを読む気がないことだ。大学の先生も大変だね。外国語の論文を読む気のない学生さんに論文指導をするなんて。他の流派だと邦訳された文献がけっこうあるが、アドラー心理学はアドラー自身のとドライカースのとを除いてはあまり翻訳がなく、新しいものはほとんどないし、あっても、訳者が、アドラー心理学がわかっていないか外国語がわかっていないか、あるいは両方がわかっていないかで、使いものにならないものが多い。
みっつ目の理由は、アドラー心理学の側のサポート体制が悪いことだ。指導できる力のあるアドレリアンは、みんな信じられないくらい忙しくて、学生さんの相手をしている暇がない。それで、教えてもらえないままで書かなければならなくなる。これではいけないのだけれど、当分はどうしようもない。
そういうわけで、読者の中にアドラー心理学でもって卒論や修論を書こうとしている人がいるなら、忠告しておくが、あきらめたほうがいい。それよりも、せっかくある領域の専門家に指導してもらうのだから、その先生の専門領域を勉強させていただくことだ。きっと一生役に立つ。アドラー心理学なんか、いつでも学べるんだ。
Q
40歳主婦です。子育ても一段落つき、半年前からパートに出始めました。もともと暗いほうの性格の私です。自分が何と世間知らずなのか、何と常識がないか、思い知らされています。頭の後方から「はた迷惑だから家でおとなしくすればいい」という声が聞こえます。「少々つらくもあるが、恥をかきながら体験しなければいつまでも殻に閉じこもったままだぞ」という声も内から聞こえます。どうすればいいですか、勇気づけてください。
A
不適切な生き方、誤ったライフスタイルというのは、間違ったことを覚えたからそうなったのではなくて、「正しいやり方を知らないからそうなった」んです。非行だって神経症だって不器用な主婦だってそうです。仕事の中の人間として、職業人として働く方法を今まで学ぶ機会がなかっただけのことです。学ぶのには時間がかかります。
人間が学ぶには3つのプロセスがある。1つは知識を得ること。仕事の手順なんかを「こうやって、ああやって」と覚えること。ノートを取ったり、うちへ帰って反省してみたり、それに関する本を読んでみたりすれば得られる。
もう1つは体が覚えること。ちゃんと体がそのように動くようになること。これはスポーツと同じで、練習がいり時間がいる。知識は1回聞けば覚える。でも聞いたことが実行できるようになるには一定期間かかる。3週間とか3か月とか3年とかかかります。
もう1つはエピソード、ある出来事から学ぶ。何か事件が起こるでしょう。その事件の処理からたくさん学べる。ふだんの平常のときの業務ができるようになっても、何か事が起こるとできない。そのときに失敗するけど、そこからまた学べる。その3つのプロセスを経て人間は成長する。
仕事に就くのはいいことですね。就きたくない人は就かなくていいけど。女の人たちが結婚して子育てしている間は、外側の社会、普通の世間とある程度縁を切って暮らしているから、自分たちの持っている能力を十分発揮できない。それがこうやって職に就くとひょっとしたら発揮できるかもしれない。パートタイムが好きならそれでかまわないけど、お勧めしているのは、「この際もう1回お勉強したらどうですか?」と言っています。日本では大学に行き直すのは珍しいけど、欧米ではまったく普通です。ある年齢になって、社会人入学でもう1回大学に入るとか、通信講座で大学課程を取るとかして、何かのお勉強をしてみる。資格取得もいい。女の人たちもそんな方向へ行かれたらいいんじゃないですか。普通のおばさんたちが心理学とか社会学とか国文学とかで、もう1回通信教育で大学へ行って、ひょっとしたら資格、社会指導主事とかをもらってやってみるのもいいことです。パートタイムにこだわらないで、40歳から先、人生長いから。80歳まで生きるならあと40年ある。今まで生きてきた時間と同じです。
ただ、「年取ったら短い」とみんな言う。なんで短いか。びっくりしないから短いんです。「これも知っている。あれも知ってる」という生活をするから短い。毎日同じことが続いている。だから長くしようと思ったら、びっくりして暮らせばいい。新しいことを始めて、知らない世界へ絶えず入って行けば、子ども時代と同じように毎日朝から晩までびっくりして暮らせるから、人生うんと長くなります。ぜひ、びっくりして暮らしましょう。(野田俊作)
ポストモダン心理学と仏教(2)
2001年11月02日(金)
アドラー心理学と仏教は似ているという論文をいくつか書いたことがあるし、ポストモダン心理学も仏教に似ていると昨日書いた。「似ている」というが、実は、心理学を、私が仏教の理論から解釈しているのであって、ほんらい似ているわけではない。
仏教に出会ったのは高校生のころだが、ずっと「私は野田俊作だ」とか「私は男だ」とか「私は医者だ」とかを剥ぎ取っていくと、最後に「真の自己」があると思っていた。だって、日本の仏教はそう教えるのだから。
心真如(心の真実のあり方)とは、とりもなおさず、一法界(すべてのものの共通の基体)であり、大総相(その全体に通じるすがた)であり、法門体(種々の教えの本体)である。それはすなわち、心性(心の本性)が不生不滅であるということである。一切の諸法(意識の対象としてあらわれる現象)は、ただ妄念(誤った心の動き)によってさまざまに差別される。もし人が心念から離れれば、あらゆる境界(対象)の相(すがた)は無くなるであろう。それ故、一切の法は本来、言説の相を離れ、名称・文字の相を離れ、心縁(認識をおこす拠りどころ)としての相を離れており、畢竟して(ひっきょう=詰まるところ、結局)平等であり、変化することもなく、破壊することもない。ただ、これすべて一心(心そのもの)であるから、これを真如(しんにょ)と名づけるのである。
心真如者即是一法界、大総相、法門体。所謂心性不生不滅。一切諸法唯依妄念而有差別。若離心念則無一切境界之相。是故一切法、従本已来、離言説相、離名字相、離心縁相、畢竟平等、無有変異、不可破壊、是唯一心、故名真如。
これは『大乗起信論』の一節だが、もろもろの法の奥に「名づけられないそれ」としての心真如という基体(有法)があるという説だ。伝統的に、こういう考え方が仏教だと思われてきたのだが、松本史朗先生が『縁起と空』(大蔵出版)という本でこの考え方を批判された。それを読んでショックを受けた私は、昨日書いたように、法を支える基体は無いと考えるようになったのだ。
この考え方を学んだおかげで、仏教と心理学の間に乖離がなくなって、ひとつの理論で両方が理解できるようになった。それまでは、仏教は神秘思想で心理学は科学で、つながりが悪かったのだ。基体はないということがわかってから、仏教は神秘思想ではなくなって、科学的心理学と同じフレームワークで説明できるようになった。逆にいうと、基体の存在を前提にしている神秘主義的な心理学、たとえばユング心理学やトランスパーソナル心理学、への一切の劣等感がなくなって、この世もあの世も、ひたすらアドラー心理学とその拡張系だけでやってゆけるようになった。
自己は発見されない
2001年11月03日(土)
私の子ども時代の思い出に、次のようなものがある。
5歳のころ、家の前に庭があって、そこに大きな石があった。いつもその上に乗って遊んでいた。ある朝、おじさんたちがやってきて、大きな櫓を組んで、その石を滑車で持ち上げていた。どこへもっていくんだろうと思っていたら、すこし離れた場所に下ろした。父が車を買って、ガレージを作るために石の場所を動かしたのだ。
アドラー心理学では、このような子ども時代の思い出を使って性格分析をする。この思い出は、どのように解釈できるだろうか。
大人たちは私の意向を無視して、勝手に世界を作り変える。
技術さえあれば、困難に見える仕事でもなしとげることができる。
新しい楽しみ(車)を得るためには、古い楽しみ(石)を取り除かなければならない。
さて、このうちのどれが正しいだろうか。
古典的なアドラー心理学では、どれかひとつが正解だった。というのは、単一のパーソナリティが存在していて、それを「発見」すればよかったのだから。しかし、私なりに理解したポストモダン心理学では、複数のペルソナがあって、その核になる唯一のパーソナリティはない。だから、唯一の正解はない。上の3つのうち、どれも当たっていそうに思う。「そう言われればそう思われる」のだ。つまり、思い出の「意味」は、それを分析している対話の中で「構成」されるのであって、それ以前にはなかったかもしれないのだ。
性格分析は、だから、「自己発見」ではない。発見されるべき自己があらかじめ作り付けであるわけではなくて、対話の中で新しく作り出されるだけなのかもしれない。だから、「自己発明」だ。ということは、子ども時代の思い出であれ、その他のエピソードであれ、その人が一番建設的に利用できそうな方向に解釈すればいいわけだ。ただし、これは私の発見ではなく、ナラティブ・セラピストもそんなことを言っている。いや、もっと前から「リフレーミング」という名前で技法として使われている。
私がここで言いたいのは、「『無我』であるから変容が可能だ」ということだ。もし私の中に唯一のパーソナリティがあらかじめ存在するのであれば、私には変容の可能性がなくなる。私が、文脈依存なさまざまのペルソナの集合にすぎないから、適切な文脈さえ与えられれば、簡単に変容できるのだ。そういう意味で、思い出というのは、古典の一節のようなもので、状況に触れて、さまざまの違った教訓をわれわれに与えてくれるのだ。それに触れることで、われわれは柔軟に自分を変える。
Q
4歳男児が妹(5か月)に対して、ベッドに飛び込み危険を感じるほどかわいがります。2歳半になれば話せばわかると言われるのですが、今のところ同じことの繰り返しで困っています。時には叩いてやめさせ、あと言葉でフォローしています。どうしたらいいでしょうか?
A
(穏やかに)話し合いをして、子どもに選択してもらうんです。選択肢は、子どもが考えても論理的だと思われることで、しかも「穏やかに」でないといけません。親が恐い顔をしていると罰と同じになります。「この子と遊びたいんだったらやさしくしてください。やさしくできないんだったらお部屋へ帰ってください。どうしますか?」とたずねる。「やさしく遊ぶ」と言うでしょう。でも、すぐやさしく遊びませんわ。ということは行動でお部屋へ帰るほうを選んだんだ。「じゃあ約束だからお部屋へ帰ってください」「イヤだ」「自分1人で帰りますかそれとも抱っこしてもらって帰りますか」「1人で帰る」。そうしたら、一定時間、15分とか20分部屋から出てきてはいけない。出てきたら、またたずねます。「赤ちゃんと遊びたいんだったらやさしくしてください。もしもやさしくできないんだったらお部屋へ帰りましょう」。これを2,3回やると、子どもはやめます。
叩いて、特に、ときどき叩いて育児するのは猛烈にまずい方法です。たくさん弊害がある。まず、親が嫌いになる。それから、赤ちゃんと遊ぶこと、遊び方が乱暴なことと罰せられて叩かれることとの間に、論理的なつながりがない。だから納得できない。「仲良く遊べないと危ないからお部屋へ帰ってちょうだい」は、つながりがあるから納得できる。
叩いて育てると子どもが消極的になります。叩いて罰することで、ある行動をやめさせることはできる。でも、新しい良い行動を学ばせることはできない。やさしく遊ぶ方法を学ばない。叩いて育てると、罰する人がいないときに不適切な行動をやる可能性がある。お母さんがいない隙を見てやるかもしれない。中には、叩いてほしい子もいる。注目関心を引くために。言葉で言うより手を出して叩いてもらうほうが、もっと激しく私を注目していることになる。
この質問の場合、叩いてもらう目的でやっている可能性がだいぶ高いと思う。大人が見てないときはこんなことしないで、お母さんが見ているときだけやって、お母さんに叩いてもらおうと思っている可能性があります。いずれにしても大変まずいやり方です。言葉というのは、子どもと話をすれば何だっていいというわけではない。正しい話し方と間違った話し方とがある。「そんなことしたら駄目でしょう」は間違った話し方です。「もしも一緒にいたいんだったら仲良くしてほしい、仲良くできないんだったらお部屋にいてほしい」は正しい話し方です。
いつも2つ以上の選択肢を与えること。もしも子どもが、選択肢のまずいほうを選択したときは、赤ちゃんを乱暴に扱うほうを選択したときは、もう1回議論しないこと。「さっき約束したでしょう」「やさしくしないと駄目よ」と言わないこと。行動で選んだんだから実行してもらう。無駄な議論はしない。(野田俊作)