歴史という物語
2001年11月11日(日)
名古屋で仕事があって、行き帰り兵頭裕己『太平記〈よみ〉の可能性:歴史という物語』(講談社選書メチエ)を読んだ。楠正成をめぐる話なのだが、視点が構造主義的ないし構成主義的で面白い。序文に次のようにいう。
芝居や講釈の世界でくりかえし再生産された「忠臣」正成の物語が、近世の幕藩国家においてある種の「開放」「革命」のメタファー(隠喩)として機能したことはみのがせない。もちろん原因は、正成の物語それ自体にあるのみではない。天皇と「武臣」という二極関係で構成された近世国家の物語的な枠組みじたいが、その対立項ないしは補完物として、くりかえし「忠臣」正成をよびおこしていたのである。(中略)日本の近世・近代の天皇制は、太平記〈世界〉というフィクションのうえに成立する。ポール・リクールふうにいえば、歴史(イストワール)とはすなわち物語(イストワール)であり、物語として共有される歴史が、あらたな現実の物語をつむぎだしてゆく。(pp.12-13)
『太平記』の構造を、『平家物語』を踏まえた源平交代劇だとまずとらえる。北条氏が平家で、新田氏と足利氏が源氏だ。「昔より今に至るまで、源平両家朝家に召しつかはれて、王化にしたがはず、をのずから朝権をかろむずる者には、互ひにいましめを加えしかば、代のみだれもなかりしに」(『平家物語』)という、源平両氏が天皇家を補佐するという図式は、しかし『太平記』では、後醍醐天皇が、楠氏や名和氏や児島氏のような、源氏でも平家でもない「悪党」と直接むすんで親政を企てたために、すっきりと成立しなくなる。逆にいうと、楠正成は、「さして名ある武士にては候はぬ」「あやしき民」が、「天皇⇔将軍⇔藩主⇔家臣」として序列化された朱子学的な「名分」の世界を一気に転覆して天皇親政をあおぐという、日本的な革命のシンボルとなるのだ。著者は、赤穂浪士・由比正雪・吉田松陰を例にあげているが、二・二六事件などもそうだな。ひょっとしたら、今現在もこのメタファーは生きているかもしれない。
「物語として共有される歴史が、あらたな現実の物語をつむぎだしてゆく」という視点は、心理学よりも前に文学研究の世界で発展したのだから、きっとあちらではそうめずらしくないんだろう。心理学では、最近ようやくトピックになりつつある。まだ取り扱いに困っている部分があって、一部には過激で無政府主義的な反精神医学運動になってしまって、あまり感心できない袋小路におちこんでいる人たちもいるが、一方で将来性のありそうな研究もたくさんある。すくなくともここ十年は、これで楽しめるんじゃないかな。
原書を読む
2001年11月12日(月)
英文の論文を書こうと思って、参考文献を積み上げて読んでいる。もちろん英語の本だ。和訳されているものも、かならず原書を読んでおかないと引用できない。引用できないだけじゃなくて、原書を読むと、かなりひどい誤訳があることに気づいたりする。和訳で読んで、「ここはすばらしい。引用しよう」と思っていたところが誤訳で、思っていたのとまったく違う意味だったりすることがあって、とてもガッカリする。
このごろは、心理学関係のものはアマゾン・ジャパンで簡単に手に入るので助かる。検索機能を使うと、入手可能な文献はすべて網羅されるので、どんどん買ってしまって、あとで支払いのときに青くなったりする。
英語で読むことは苦痛ではないが、速度が遅い。日本語は音読よりもはるかに速い速度で黙読できるが、英語は音読の速度以上にはならない。それと、後で重要な個所を探すのが不便だ。同じ形のローマ字ばかりなので、キーワードが簡単にみつからない。日本語の場合は漢字を探しているんだな。中国語は漢字ばかりだから、英語と同じことになって、かえって探しにくいだろうと思う。
私の英文の論文は、だいたいはアドラー心理学と仏教の比較に関するものなので、仏教の文献の英訳も必要なのだが、これがなかなか手に入らない。新しい論文や本が英訳されていないのはしかたがないとして、経典や論書も、阿含経だの法華経だのといったきわめてポピュラーなものの他は、西洋語への翻訳がないか、あったとしても何十年も前の本だったりして手に入らない。英語でなくても、ドイツ語でもフランス語でもいいのだが、ない。しかたがないので、原典から私が英訳している。さいわい、査読は私の英訳しかなくても通してくれているので助かっている。
兼平(2)
2001年11月13日(火)
『平家物語』巻第九「木曽最後」の段を読むと、木曽義仲と今井四郎兼平の最後の様子が謡曲よりもやや詳しく描写されている。その中で、次のくだりが面白い。
今井の四郎・木曽殿、主従二騎になってのたまひけるは、「日ごろはなにともおぼえぬ鎧が、今日は重うなったるぞや」。今井四郎申しけるは、「御身もいまだ疲れさせたまはず。御馬もよはり候はず。なにによってか一両の御着背長を重うおぼしめし候べき。それは御方に御勢が候はねば、臆病でこそさはおぼしめし候へ。兼平一人候とも、余の武者千騎とおぼしめせ。矢七八つ候へば、しばらくふせき矢仕らん。あれに見え候、粟津の松原と申す。あの松の中で御自害候へ」とて、うってゆく程に、また新手の武者五十騎ばかり出できたり。「君はあの松原へいらせ給へ。兼平はこの敵ふせき候はん」と申しければ、木曽殿のたまひけるは、「義仲、都にていかにもなるべかりつるが、これまで逃れくるは、汝と一所で死なんと思ふためなり。ところどころで討たれんよりも、ひとところでこそ討ち死にをもせめ」とて、馬の鼻を並べてかけむとしたまへば、今井四郎馬より飛び降り、主の馬の口にとりついて申しけるは、「弓矢とりは、年ごろ日ごろ、いかなる高名候へども、最後のとき不覚しつれば、ながき疵にて候なり。御身は疲れさせ給ひて候。続く勢は候はず。敵におしへだてられ、言うかひなき人、郎党にくみ落され給ひて討たれさせ給ひなば、『さばかり日本国に聞こえさせ給ひつる木曽殿をば、それがしが郎党の討ちたてまったる』なんど申さんことこそ口惜う候へ。ただあの松原へいらせ給へ」と申しければ、木曽、「さらば」とて、粟津の松原へぞかけたまふ。
「日ごろはなんとも思わない鎧が、今日は重くなった」という義仲に、兼平は、「あなたも疲れていないし、馬も弱っていない。鎧が重いはずがないではありませんか。味方の軍勢がいないので、臆病になって、そんなことを思われるのでしょう」と答えている。しばらくすると、兼平は、離れようとしない義仲に、「あなたはお疲れになっています。味方の軍勢もいません。あの松原へ行ってご自害なさい」と言っている。先には「疲れていない」と言い、後には「疲れている」と言う。いずれにしても、木曽を気遣ってのことだ。兼平はいい男だ。
しかし、2人きりの場面で、しかも義仲も兼平もこのあと討死にしたのだから、この対話は誰も聞いていなかったはずだ。だから、これはまったくの創作だ。しかし、なぜ作者は、兼平をこんなにいい男に書いたのだろうか。『平家物語』や『太平記』は、登場人物の子孫の家をまわって語って聞かせたものなのだそうだ。そのとき、先祖の事跡を美化するように、聴衆から圧力がかかったという。兼平の子孫が要求したのだろうか。しかし、兼平は敵方なのに、子孫が残っていたのだろうか。なんとなく謎めいていて、調べると楽しそうだな。そんな時間はないけれどね。
Q
夫43歳。別に猛烈社員というタイプの人ではなく、ゴルフ以外は趣味がなく、休日は1日中家でテレビを見ながらゴロゴロしています。会社帰りに同僚と飲みに行きますが、会社を離れて親しい友はいません。お節介だとは思いますが、これでは定年後どうなるか心配です。夫は、「私にはあなたがいるから別に親しい友だちはいらない。定年後は毎日パチンコでもして暮らせばいい」と言います。それではボケてしまうんではないでしょうか。夫が心豊かに過ごすために私にしてあげられることはないでしょうか?
A
できることはあるんでしょうか?これは困った問題なんです。
一番根本的な問題は、コミュニティーのあり場所が、日本の男性の場合、職場だということです。職場に住んでいて、友だちがいて、そこから家庭に出勤して来る。会社へ行ってデスクにつくと「やれやれ」とくつろぐ。1日楽しく暮らせる。うちへ帰ると緊張してくる。カミさんを見て、うるさい子どもを見て、緊張して晩の間過ごして、朝、生き生きと職場に帰ってくる。こういう社会を作っちゃったんですね。ここ何十年の間に。
この国には手厚い保障制度があります。年金やいろんな手当など。これは世界でも珍しい制度です。江戸時代のお城の人間関係を明治政府が真似をして、それを会社が真似をしたんです。もとをたどれば江戸時代の大名家と同じ構造を今の大企業が持っている。社員を丸抱えして幸せにする義務があると会社は思っている。また労働組合を通じて「われわれを幸せにする責任はお前らにあるぞ」と社員たちも思っている。その構造自体がヘン。
人間が住む場所は本来は「地域」なんです。お隣やお向かいさんと一緒に暮らすもの。お城へ勤めているお侍以外は、昔はみんなそうだった。江戸時代はお城との距離が遠くなるけど、戦国時代のお城は普通の家だったし、江戸時代みたいに格式張っていなかったから、今の会社みたいに丸抱えしてなかった。
丸抱えする異様な社会ができたんです。ほんとはお百姓さんと漁師さんみたいに、地域で住んでいて、遊ぶなら隣のおっちゃんと、話し合うのも町内で話し合って暮らすのがノーマルなコミュニティのあり方です。勤めている間はそれでいい。定年になったときこの世に居場所を失う。うちへ帰っても落ち着かない。知らない女と知らない子どもがいる。夜には知っていて、昼間は見たことがない人たちがいる。全然知らない会話をしている。母と子の対話などが耳新しく聞こえる。何をしていいかわからない。自分の所属している社会ではないから、まったく何をしていいかわからない。そうなると、手は2つしかない。1つはボケる。1つは癌になる。だいたいどっちかを多くの人は選ぶ。定年後1年以内にボケるか癌になる確率はすごく高い。所属を失うから。体が、「もう死のう」と決心する。
対策は、ます家族ぐるみで、奥さんと2人で、他の夫婦と遊ぶことを始めたほうが賢明ではないか。旅行なんかでも、夫婦どうしのお友だちで行動すると、だんだんコミュニティーが家庭のほうにある構造が作れてくる。10年がかりくらいで少しずつご主人をおうちのほうへ取り戻してはいかがでしょうか。(野田俊作)
四国遍路(6)
2001年11月08日(木)
第11番藤井寺は、真言宗ではなくて、臨済宗の寺だ。四国霊場のほとんどは真言宗だが、中に臨済宗や曹洞宗や天台宗の寺も混じっている。門前の茶店のおじさんによると、むかしは真言宗だったのが、後継ぎが絶えて臨済宗になったのではないかということだ。もっとも、たしかな根拠があるわけでもなさそうだが。
この寺の本尊の薬師如来はなかなか男前だ。ただし、これはコピーで、本物は国宝か何かで、一般公開せず、本堂の後の蔵の中に隠してあるのだそうだ。コピーが本物に似ているのかどうか、見たことがないのでわからないが、私が好きなのはコピーのほうだから、本物に似ていても似ていなくてもいい。
四国霊場では、田舎へ行くと薬師如来が増える。むかし、病気になった人は、薬師如来にすがるしか方法がなかったのだ。悲しい時代があったのだ。
兼平
2001年11月09日(金)
ある本の中に謡曲『兼平』からの引用があって、妙に美しかったので、手持ちの岩波古典体系の『謡曲集』を見たが、収載されていなかった。しかたがないので、謡本を買ってきた。兼平というのは、今井四郎兼平のことで、木曽義仲の家来で、最後に義仲と二人きりになって討ち死にする人だ。気に入った一節とは、次のようなくだりだ。
そののち合戦たびたびにて、また主従二騎に討ちなさる。「今は力なし、あの松原に落ち行きて、御腹召され候へ」と、兼平勧め申せば、心細くも主従二騎、粟津の松原さして落ちたまふ。兼平申すやう。「うしろより御かたき大勢にて追つ駈けたり。防ぎ矢仕らん」とて、駒の手綱を返せば、木曽殿御諚(ごじょう)ありけるは、「多くの敵を逃れしも、汝一所にならばやの所存ありつる故ぞ」とて、同じく返したまへば、兼平また申すやう。「こは口惜しき御諚(ごじょう=お言葉)かな。さすがに木曽殿の人手にかかりたまはんこと、末代の御恥辱。ただ御自害あるべし。今井もやがて参らん」との、兼平に諌められ、また引つ返し落ちたまふ。
さてその後に木曽殿は、心細くもただ一騎、粟津の原のあなたなる、松原さして落ちたまふ。頃は睦月の末つ方、春めきながら冴え返り、比叡の山風の、雲行く空もくれはとり、あやしや通ひ路の、末白雪の薄氷、深田に馬を駈け落し、引けども上がらず、打てども行かぬ望月の、駒のかしらも見えばこそ、こは何とならん、身の果て。せんかたもなくあきれはて、このまま自害せばやとて、刀に手をかけたまひしが、さるにても兼平が行方いかにと、をちかたのあとを見かへりたまへば、いづくより来たりけん、今ぞ命は槻弓(つきゆみ=槻の木で作った弓)の、矢ひとつ来たつて内兜に、からりと射る。痛手にてましませば、たまりもあへず馬上より、をちこちの土となる。
平家物語だとか太平記だとか謡曲だとかは、こういう血なまぐさい場面を、かぎりなく美しく荘厳する。実際の戦争というものは、けっして「頃は睦月の末つ方、春めきながら冴え返り」というような耽美的な風景ではなかろう。それをこのように飾るのは、戦争を美化するためではなく、鎮魂のためであることを思い出せば、これらの文学を素直に読むことができる。そうして読むと、「心細くも主従二騎」が「心細くもただ一騎」になってゆく人の生の悲しさに泣くこともできるし、そういう運命を避けようとしながら、どうしようもなくそういう運命に巻き込まれてゆく人の業の深さに思い至ることもできる。
いわゆる「反戦運動」でもって戦争を避けることができるのかどうか。戦争を憎むことでもって平和に暮らせるものかどうか。「修羅物」とよばれる謡曲のほとんどは、戦死した死者たちの霊が甦って、旅の僧がそれを鎮魂する、というストーリーだ。こういう演劇が、やがて厭戦気分を盛り上げて、戦国時代を終わらせ江戸時代の太平をもたらしたのではないかと、私は思っている。
数学的思考
2001年11月10日(土)
むかしの共通一次試験の問題に、数列
A(n) = ( ( 1 + i * sqrt(3) ) / 2 ) ^ n
(ただし、i は虚数、sqrt() は平方根、^ はべき乗の記号)
がとりうる値はいくつか、というような問題があって、当時高校生だったパートナーさんの娘が質問に来た。私は、もともとが工学系の頭なので、複素数を見るとすぐに極座標形式で書いてしまう。そうして、
1 / 2 + i * sqrt(3) / 2 = r * ( sin(x) + i * cos(x) )
と考えると、 r = 1, x = π / 3 であることが容易にわかる。
A(n) = sin( π * n / 3 ) + i * cos( π * n / 3 )
であるから、A(n) = A(n+6)で、6つしかとりうる値はないという答えを出した。
ところが、今の高校では、複素数の極座標形式の表示は教えないので、この解法はバツなのだそうだ。あらま。模範解答を見ると、なんだか技巧的なことがしてあった。なぜ、そんな奇妙な解き方をしなければならないのか、私には理解できなかった。
その後、友だちの数学者にこの話をすると、「あら、これって1の6乗根じゃない。だから、とりうる値は6つよ」と、一瞬の間に答えた。うへえ、理学部は発想が違うんだ。
どの解法だっていいんじゃないか。どれも数学的なんだから。それを、極座標形式は教えていないだの、1の6乗根なんていう発想は許せないだの、そういう杓子定規を言うから、数学嫌いが増えるんじゃないのかな。
そもそも、この問題を作った人は、1の6乗根であることを知っていたか、あるいはすくなくとも極座標形式でどうなるかを知っていて、そこから問題を発想しているに違いないと思う。それを隠しておいて、難問を作り出しているわけで、これは意地悪としかいいようがない気がする。子どもに数学を教えるようになってからわかったのだが、中学や高校の数学の問題は、中学生や高校生の知らないレベルの数学でもって先に答えがわかっていて、それを無理やりに中学や高校の数学のレベルで解かせようとしているものが多い。読者にわかるたとえを出せば、小学校で教える「鶴亀算」は、中学に入って連立方程式を習うときわめて簡単に解ける。ということは、小学生用に鶴亀算の問題を考える人は、あらかじめ連立方程式で考えておいて、それを子どもに鶴亀算でもって解かせようとしているのだろう。これと同じことを、中学や高校の教材でもやっているようだ。こういう教育法って、どういう意味があるのだろう。
橋本裕さんという高校の数学の先生の日記ホームページに、ここ数日、数学教育についてのご意見が掲載されていて、関心を持って拝読している。たとえば、次のようなことが書かれている。
高校時代数学が得意でも、大学にはいると、まるで数学がわからなくなり、挫折するケースが一般的である。その理由は高校で習うのは「受験数学」で、本物の数学ではないからだ。受験数学に習熟することで、かえって数学的才能が損なわれているのである。
「受験数学」の特徴を上げると、①問題が与えられていて、②必ず解答があり、③決められた短い時間内に解け、④解き方が指定されている、ということだろう。「受験数学」が対象としているのは、限られた人工的な架空の世界であり、必ずしも混沌とした多様な現実世界を対象としていない。(中略)受験数学の達人は受験に出題される、ただ煩瑣なだけのおよそ趣味の悪いこうした人工的な問題は解けても、現実の多様な現象を前にして、ほとんど無力でしかない。数学に必要な創造的能力は、決して「受験数学」に習熟することでは得られない。(11月8日)
私が最初にあげた問題などは、受験数学の典型じゃないかな。私は、「高校時代数学が得意でも、大学にはいると、まるで数学がわからなくなり」のちょうど反対で、高校時代、数学は苦手科目の筆頭だったが、大学に入ってから数学が得意になった。ただし、教養部時代の「ε,δ論法」は、とうていついてゆけなかった。学部に入ると、当時の大阪大学の医学部は数理医学のメッカみたいなところで、生理学や生化学や内科学の時間に、黒板に行列や微分方程式がならんだものだ。ベンゾジアゼピン環に塩素をつけたりフッ素をつけたとき電子密度がどう変わるかを計算して薬理作用の違いを説明したり、心臓から流れでる血流を偏微分方程式で記述したり、ネフローゼ症候群に対して副腎皮質ホルモン剤が有効であるかどうかを線形判別関数でもって予測したりする仕事は、とほうもなく眩しくて面白かった。
数学的思考というのは、複雑な現象の背後に潜む単純な論理性を見抜く作業だ。そういうことが、これらの授業を通じて深く納得できた。そういう意味での数学的発想は、臨床心理学を専攻するようになってからも、きわめて役に立っている。作家曽野綾子が「私は2次方程式もろくにできないけれども、65歳になる今日まで全然不自由しなかった」と発言したことを橋本さんは批判されている。2次方程式だけをとりだせば私だってそうかもしれないが、数学的思考なしで、これまでの私の精神科医ないし心理療法家としての仕事はなかったと思う。そして、数学的思考は、高校数学でもってやしなわれたのではないのだ。
Q
「人格障害だ」と言われ、簡単に説明されましたが、もうちょっと詳しく説明してください。内気のちょっと度の過ぎた状態です。統合失調症とはまた違うのでしょうか。この用語は、アドラー心理学でしか使わない医学用語でしょうか?
A
アドラー心理学ではこんなこと言わない。誰や、こんなこと言ったのは。
人格障害というのは“変わった人”という意味です。医学用語は「世間で普通に言っている普通の言葉を難しく言い換えると患者さんがびっくりするだろう」という目的で作られている。だから、「変わった人やな」とお医者さんが言ったんだ。
変わった人は別に悪くないんです。変わった人のまま大人になればいい。変わった人を変わってない人に治そうとするから話がややこしくなる。このままでスクスク育ってくれたら、そういう変わった大人になるであろう。
だいたい、アドラー心理学は病気の診断をしないんです。やれ統合失調症だとか、やれ神経症だとか、やれ人格障害だとか、診断名を付けることには反対です。なんで反対かというと、病気は1個しかないから。心の病気というのは「勇気をくじかれている状態」1個だけしかない。その勇気をくじかれている状態を、いろんな形で人は表現するんですね。ある人は、内気になるかもしれないし、ある人は粗暴になるかもしれないし、ある人は幻覚妄想を持つかもしれないし、ある人は犯罪者になるかもしれないけど、根本は1個で、人生を建設的に生きていく勇気をくじかれているだけです。
治療も一緒で、「建設的に生きていく勇気」を持ってもらえばいい。別に統合失調症を治さなくていい。人格障害も治さなくていい。治すのは「勇気」を治せばいいんです。人格障害のままで生きていてもらえばいい。統合失調症のままで生きていてもらえばいい。
勇気を持てばあんまり変わったやり方をしなくて、だんだん良くなっていって、もう少しみんなが見て、「なるほどな」と納得できる生き方をしてくれると思います。(野田俊作)
四国遍路(4)
2001年11月06日(火)
またもや四国遍路に来ている。今回は、1番霊山寺から11番藤井寺だ。徳島県の吉野川沿いの村々をめぐる平坦な道だ。11番からはじめて山道になる。初めての人を何人か連れて歩いている。あまりにも歩き遍路が増えて雰囲気が悪くなったので、歩き遍路はしばらく休憩しようと思っていて、1番から11番のコースは今回でいったん終わりだ。来年、12番から17番を春、18番から23番を秋にまわって、それで、すくなくとも数年は遍路に来ることはないと思う。ひょっとしたら、一生もう来ないかもしれない。私も年だしね。
途中、R.A.ニコルソン著,中村廣治郎訳『イスラムの神秘主義』(平凡社ライブラリー)を読んでいる。仏教の巡礼に来ながらイスラムの本を読むというと、変な顔をする人がいるが、私の中では何も違和感がない。それは、仏教やイスラム教などの制度としての「レリジョン」とはほとんど無関係に、瞑想者たちの体験としての「スピリチュアリティ」があって、これは、すくなくともその骨格部分は、宗教をこえて共通のものだと思っているからだ。また逆に、スピリチュアリティは、どのレリジョンとも、ある程度折り合いが悪い。
歩き遍路は、私の中では、スピリチュアリティの側に属する行為で、レリジョンの側にいる寺院とは、いくらか折り合いが悪い。私が歩き遍路を通じて求めているのは、商売繁盛や家内安全のような現世での世俗的幸福でもないし、後生安楽のような来世での幸福でもない。かといって、「自己をみつめる」というようなクサい話でもない。歩くこと自体に目的があるのかもしれない。いずれにせよ、言葉ではうまく説明できないことだ。
「これで最後かもしれないな」と思って歩いていても、たいして感慨はない。上述の本の中に、イスラム神秘主義と仏教を比較して、
われわれはスーフィー(引用者注:イスラム神秘主義者)の「ファナー」(引用者注:宇宙的実在の中に個我が消滅する体験)を仏教の涅槃と無条件に同一視することはできない。両語共、個我性の消滅を意味するが、涅槃がまったく否定的であるのに対して、ファナーは神の中での永続的生命を意味する「バカー」を伴っている。スーフィーが神の美的観照の陶酔に我を忘れたときの歓喜は、仏教のアラハト(阿羅漢)の非情熱的・知的明澄性と完全に対照的である。(p.33)
と書いている。著者の仏教理解は、はなはだ上座仏教風だと思う。大乗仏教は、もうちょっと熱狂的だよ。しかし、仏教風の「非情熱的・知的明澄性」はいくらか私にもあって、熱狂して遍路しているわけでもないし、遍路していないとき退屈しているわけでもない。どのみち、この世で出会うひとつひとつの出来事が「これで最後」なのだしね。だから、物理的に最後であることが、心理的な感傷につながらない。逆に、物理的には今後も続くことでも、心理的な感傷は常にある。
四国遍路(5)
2001年11月07日(水)
心配事があると、なにをしていてもそのことを考え続けるだろう。たとえば、医者に「あなたはガンです。手術はできません。半年ほどの命です」と言われたら、ずっとガンのことを考え続けるだろう。悪いことについては、人間には、それについて考え続ける能力が備わっている。この能力を善いことについても使えるといい。そういうことを瞑想用語で「シャマタ(止)」といい、あるいは「心一境性」という。これは、そのことしか考えない「集中」とは違って、他のことを考えながらもいつもそのことを気にしている状態をいう。
四国遍路に来ていると、あちこちに地蔵菩薩の石像が立っている。伝説によれば、地蔵菩薩は、釈迦如来が般涅槃に入ってから弥勒菩薩が成道するまでの間、悟りを開かないで六道(地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人・天)を輪廻して、出会う衆生を救済する菩薩なのだそうだ。石像に会うたびに立ち止まって合掌し、真言を唱えることにしている。そうしながら、菩薩の生き方についてシャマタしようと思う。3日間歩くが、3日間ずっと同じことを気にし続けるのは、なかなか努力がいる。
むかしの瞑想者は、何ヶ月も何年も、同じテーマを気にして生き続けることができた。それだけ暇だったんだね。今は忙しい世の中で、普段の生活の中でそうすることが難しい。ガンにかかったって、忙しさの中で気が紛れてしまうかもしれない。悪いことでさえそうなので、善いことはまして気にし続けることが難しい。だから、ときどき四国遍路に来たりする。わざわざ旅に出なければならないのは、普段の生活が整っていないからなのだが、どうも今生にいる間には整いそうもない。