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事務仕事    野田俊作

事務仕事
2002年05月08日(水)

 日本アドラー心理学会の事務局長をしていて、もうすぐ役員会があるものだから、事務の仕事が山ほどある。学術会議に申請するということもあって、その仕事もある。会員名簿に関連するかなり複雑な事務もある。決算報告もある。10月に行なわれる総会の準備もはじまっているし、今年は役員選挙の年で、それに関連する事務もある。しかも、再来週から北米アドラー心理学会に出張するので、それまでにすべてのメドをつけておかないといけない。目が回るほど忙しい。
 こういう仕事は元来苦手で、できればやりたくない。けれども、誰かがしないと回らない。兵隊さんはたくさんいて、みんな有能で、面倒な仕事を、文句を言わないでコツコツと仕上げてくれる。私は肉体労働はほとんどしていなくて、全体の管制塔をしている。名簿の話をしているかと思うと帳簿の話をし、そうかと思うと役員会の議題を揃え、会長や役員に伺いを立てるように指示し、あちこちからの問い合わせに返事を口述している。一貫した仕事じゃないので、働いた気がしないのに、ものすごく疲れる。
 事務局長の仕事はやめたい。やめたいけれど、代わりが今のところいない。あちらの仕事もこちらの仕事も同時並行でやっていくのは、ひょっとしたら才能なのだろうか。もし才能だとしても、あまりこういう才能はないほうが、幸福に一生を送れそうな気がする。ひどい疲れの後に、たいした成果が残っていない。事務というのはそういうものかもしれないが。



事務仕事(2)
2002年05月09日(木)

 日本アドラー心理学会の役員は無責任だと、いつも怒っている。ほんとうはそんなことはないので、みなさん誠実に仕事をしてくださっている。私が怒っているのは、作業の面倒臭さを、誰かのせいにしてうっぷんを晴らしたいからだ。
 今日は名古屋で仕事をして、3時に終わって、新大阪の事務所へ取って返し、あれこれ雑用をかたづけた。事務というものには終わりがない。いや、終わりはあるのだが、終わったという実感がない。終わったような気がしていると、なんだか残りが見つかる。そのときの失望が大きいものだから、「終わった」と感激しないほうがいいと思っているのかもしれない。今日であらかた終わった気がしているが、きっと明日もなにか出てくる。



親不孝
2002年05月10日(金)

 21日からシカゴへ行って、北米アドラー心理学会の総会に参加する。シカゴには私の「ユダヤ人のママ」がいる。アドラー心理学の先生の一人なのだが、年のころなら70近く、とんでもない美人で、とんでもないおせっかい女だ。困ったことに、彼女は私のことを深く深く愛している。彼女には3人の息子がいるのだが、彼女があまりにも彼らを愛するので、南アフリカだのアルゼンチンだの、彼女からできるだけ離れたところに住んでいるとか。4人目の息子である私は、普段は日本にいるので問題はないのだが、シカゴに行くので身の危険を感じていた。やはりメールが来た。

 あなたが、すくなくとも総会が始まるまでの間、私の家に泊まらないのなら、私はとってもがっかりするわ。空港でピックアップして家まで乗せていってあげる。総会の間ホテルにいたいのなら、そうね、それはOKよ。もしダウンタウンに行きたいなら、連れていってあげてもいいし、電車の駅で落としてあげてもいいわ。どうして私の家に泊まりたくないの?あなたを傷つけたりしないわよ。約束するわ。何千も、あなたとおしゃべりしないといけないことがあるの。泊まるって返事をちょうだい、すくなくとも一晩か二晩はね。個室もあるし別のバスルームもあるわ。朝食も無料よ。「はい」って言って。

 彼女の家に泊まるくらいなら、野宿したほうがマシだ。だって、彼女がおしゃべりしたいネタは、アメリカのアドレリアンのゴシップだとか、彼女の恋愛話だとか、そういうたぐいのことばかりなんだ。私の私生活についても、根掘り葉掘り聞こうとするだろうしね。それに、私の行動にいちいち、途方もなく親切な助言をくれるに違いない。私のあまり好きじゃないタイプの酒場などにも連れて行かれるおそれも十分ある。さいわい、性的な危険だけはないがね。ともあれ返事を書いた。

 ごねんね。火曜日はダウンタウンのホテルに泊まりたいんだ。あなたががっかりするのはわかっている。世界中の母親は息子と一緒にいたいと思っていて、世界中の息子は母親と距離をとりたいと思っているんだよ。愛にあふれた母ほど危険なものは存在しないんでね。怒ってもいいよ。水曜日は友だちと一日一緒にいる。木曜日に総会会場で会おうよ。あれこれおしゃべりする時間はそこで十分にあると思う。

 おお、なんという親不孝。しかし、返事が恐いな。シカゴで会ったときがもっと恐いが。



禁麺
2002年05月11日(土)

 ちょっと油断していたら太ってしまったので、ダイエットをはじめることにした。以前にもダイエットして成功したことがあるのだが、そのときは、いくつかのことを並行してやったので、どれがほんとうに効果的だったのかがわからない。そこで、今回は、まず麺類を禁止してみることにした。ソバであれウドンであれラーメンであれスパゲッティであれ、一切の麺類を食べないことにする。麺類は大好きなので、とてもつらい。そこで、ただ一種類、「ヘギ蕎麦」というものだけはいいことにしておく。フノリが入った蕎麦で、体内の脂肪を排泄させる作用があるとテレビで言っていた。インターネット通販で手に入れた。
 こうして「禁麺」を1ヶ月ほどやってみて、体重の増減を見る。1ヶ月そうしてだめだったら、次は禁酒しようと思う。完全にお酒をやめると、人々に迷惑をかけそうなので、私の禁酒はいつも、機会酒にすることだ。おそらく禁酒すれば痩せると思う。しかし、あまり禁酒したくないので、禁麺だけで痩せるように願っている。

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長女・次女の不仲

Q 
 長女・次女の仲が悪く、今では口をきかない、目も合わさない状態です。2人は正反対の性格です。長女21歳、次女18歳。

A
 たくさん書いてあるけど、この歳になったら自分たちに任せるしかしょうがないで。
Q 母として私はどのようにしたらいいでしょうか?
A 彼らに任せなさい。そんなんにお母さんが入って三つ巴になったらきっと余計ややこしいと思う。僕、どう考えても。
Q 私はすぐ腹が立ってしまい、止まる・落ち着くということが本当に難しいです。どうしたら腹が立たず、野田先生のような穏やかな人になれるでしょうか?
A 僕、全然穏やかじゃないです(爆笑)。私は自分のスイッチを自分が持ってることを知っているだけ。だから入れればいつでも入ります。感情がわたくしを使っているんじゃないんです。わたくしが感情を使っているんです。感情の奴隷じゃないです。私が感情の主人です。だから、わたくしが感情的になることもならないことも決められます。このことを知ってさえいれば、感情のスイッチを入れちゃったとき、「入れたな」と自分で気がつくんですよ。そしたら、「入れようかな」というとき「入れないでおこう」と気がつきます。だから感情が自然に起こると絶対思わないでほしい。私がスイッチを入れてはじめて起こるんです。(野田俊作)

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演劇的思考    野田俊作

演劇的思考
2002年04月30日(火)

 今日で阿蘇のサイコドラマ合宿は最終日だ。パートナーさんはもの真似がうまくて、ある、とても特徴的な動きがある人の真似をしてみせた。それを別の人が、「口のあたりが似ていない」というようなことを言った。パートナーさんは、「そんなことはどうでもよくて、私が『彼女になっている』ということが大事なの」と言う。
 私はもの真似は上手じゃない。けれど、いつも心の中にアドラーとかエリクソンとかいう天才治療者がいて、その人たちの真似をして生きているなと思う。真似るというのは、形を真似るというのではなくて、まず「その人になる」という心がまえがあって、その結果、ある人はそれを所作にあらわすし、ある人は「その人」になって思考する。たとえば歌舞伎の女形とか、宝塚の男役とかは、形を分析してそれを真似ているわけではなく、まず異性の心になってみて、そこから流れ出す動きをしているのだと思う。
 他人のサイコドラマを見て学べる人と学べない人がいる。学べる人は、出演者に「なる」ことができる人で、学べない人は頭で「ああ、こういう場合にはこうすればいいんだ」と分析的に理解する人だ。そうして部品を無数に集めても、全体はできてこない。まず全体があって、それから個々の部品を整えるのだ。まず「あんな人になりたい」と、人全体にあこがれ、心がその人になりきらないといけない。
 アドラーが、「自然界は原因論で動き、人間界は目的論で動く」というような意味のことを言った。論理的思考は自然界を相手にするときに適している。しかし、人間関係ではうまく働かない。人間関係には演劇的思考が必要だと思っている。人生とはドラマであり、私は私のドラマの主役であり、他者は私の相手役だ。そこで働く原理は、論理的法則ではなく演劇的法則だ。人間関係を論理的に分析しても、いい芝居はできない。先輩から役を学ぶときも、所作を論理的に分析して真似ようとしてもだめだ。その先輩その人になりきらないと学べないと思う。そういえば、心理療法もそうだな。先輩その人になりきるしか、学びようがない部分がある。



演劇的思考(2)
2002年05月01日(水)

 頭でわかったことがただちに実行できるものでないことは、心理療法家でなくても、誰でも知っている。知的な理解はそのまま行動変容にはつながらない。「わかっちゃいるけどやめられない」ものなんだ。心理療法家は、しかし、「そりゃできないよね」で済ませるわけにはいかない。
 これまでに方略は2つあったように思う。行動療法家たちは、理解や洞察を問題にせず、訓練でもって行動変容を起こそうとした。それもたしかにいいアイデアではあるが、人間にはせっかく認知機能があるのだから、それを使ったほうが効率的なんじゃないかという治療者もいて、そういう人たちは、知的理解とは違った種類の「洞察」が行動変容を起こすと主張してきた。私もその意見に賛成で、訓練だけに頼るより、多くの場合、短い期間で行動変容を起こせるように思うし、適用範囲も広いように思う。
 では、知的理解とは違う洞察とはどんなものかということになる。それを私は、演劇的思考にもとづくものだといっている。論理的思考にもとづくのではなく、演劇的思考にもとづくのだ。理解に対して「洞察」ということもできるし「納得」ということもできる。演劇的思考という代わりに、文学的といってもいいし、逸話的といってもいいし、寓話的といってもいいし、ひょっとしたら神話的といってもいいかもしれない。しかし、神話的というと、ユング派みたいに、万人に共通の象徴体系があるかのように思ってしまうので、その言い方はやめたほうがいいと思う。ユング派は、集合無意識という、立証も反証もできない概念を前提にしているが、そんなものを認めてしまったら、すべてが非科学的になってしまう。もっとも、彼らは非科学的であることになにも問題は感じないだろう。しかし、私のほうは、臨床心理学は科学的であるべきだと思っているので、そういう概念を認めるわけにはいかない。そうなると、物語の筋立てや、登場人物や、大道具・小道具に、人類共通の意味体系があるとは考えることができなくなる。
 しかし、知的理解の背景になっている論理的思考とは違った、ある思考法則があるのは確かで、しかもその文法構造は万人にほぼ共通だと思う。もっとも、正統精神医学のように、「精神病者は了解不能だ」というように、文法構造が違っていると主張する流派もあるが、心理療法家としては、健常人と精神病者との相違点よりも共通点に注目しないと、治療の設計ができなくなる。だから、すべての人に共通な思考法則を探すことになる。それが、演劇的な思考、あるいは「ごっこ遊び」の思考だと思うのだ。
 これについては、まだまだつっこみが足りない。単に思いつきを書いているだけだ。数年すると、これについてちゃんとした論文が書けるだろう。いつもそんな風に、思いつきを温めていて、あるものは消えてゆくが、あるものは熟成して形になる。

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わかっていても感情的に

Q
 子どもへの言葉がけで、わかってはいても感情的になってしまうことが多いのですが、そのようにならないために良い方法はありますか?やはり訓練するしかないのでしょうか?

A
 あのー、感情的になってしまうんじゃないんです。感情のスイッチを入れるんです。そのスイッチを誰が持っているかというと、自分が持っているんです。だから感情のスイッチを入れなきゃいいんです。もしもどうしても入れちゃうんだったら、その場を離れて落ち着いて自分が感情的じゃなくなる方法を見つけることです。散歩に出るとか、自分のお部屋へ行ってちょっとくつろぐとか、音楽聴くとか、女の人は通販雑誌見ると落ち着くとかで通販雑誌見るとか、自分は何したら落ち着くか知ってることね。即解決しようとしないで、落ち着いてからもう1回出直そうと、「あ、テスト落ちちゃった」と思うことね。そうやって何度かやれば、「ああ、通販雑誌読まなくてもいけるよね」ということになります。そんなに手間はかかりません。訓練て言うほど難しくありません。何しろスイッチは自分が持っていますから。(野田俊作)

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子どもが好きな人(2)    野田俊作

子どもが好きな人(2)
2002年04月27日(土)

 私もパートナーさんも乳幼児は嫌いだが、ちゃんと言葉が通じるようになった子どもは好きだ。ものを教えられるからじゃないかと思う。子どもにであれ大人にであれ、ものを教えるのは大好きだ。だから、こんな商売をしている。
 一昨日、釣り番組を見ていたら、子どもに釣りを教える場面があった。それを見て刺激されて、パートナーさんの娘に「男の子を産んでね」と頼んだ。「釣りを教えようとしているな」と言われた。「山登りもね」と答えた。5月2日から、沖縄県与那国島へ友人たちと一緒に出かけるのだが、もうすぐ3歳になる男の子も来る。悪いことをいっぱい教えちゃおうと思っている。ものを学ぶ年齢になった子どもは好きなのだ。
 乳幼児を好きな人は、教えるとかいうことじゃなくて、接触をもつことそのものが好きみたいだ。そういうのを世間では「やさしい」と言うだろうし、また「いい人」だとも言うだろう。そういう人も必要なんだが、接触ではなくて、知識や技術の伝達に興味を持つ人も、この世には必要なんだよ。そういう人を、よく言えば「面倒見がいい」という。私も面倒見のいい人だと、自分で思う。やさしくないけれどね。
 接触するのが好きなのと、教えるのが好きなのとは、ある程度排他的みたいだ。アドラー心理学では、対人関係重視型と課題達成重視型という。詳しいことは省くが、私もパートナーさんも課題達成重視型で、ベタベタするのが嫌いできわめて「そっけない」対人関係を作るが、とても「ていねいに」人の世話をする。
 教えるだけじゃなくて、自分が持っている知識や技術でもって人を援助するのも好きだ。この前、あるスタッフに着信メロディを作ってあげたことを書いたが(04/01)、彼女を好きだから作ってあげたわけではなく、音楽を作るのが好きだから作ったのだ。もちろん、彼女を嫌いなわけじゃないよ。人を好きでも嫌いでも、作業が好きならしてあげる、ということだ。相手が誰かよりは、作業がなにかでもって、行動が決まる。
 結論。子どもが嫌いでもいい人はいる。ただし、子どもが好きないい人とは、「いい人」という言葉の意味がちょっと違う。やさしくないけれど、面倒見がいいんだ。



自己一致
2002年04月28日(日)

 阿蘇山にある施設でサイコドラマ(心理劇)のワークショップをしている。その中で、「ある人が『あなた、私をバカにしているの?』と言うので、困っている」というような話が出た。それを芝居に仕立てて、その人のもの言いや態度を観察すると、なるほど相手をバカにしているように見える。しかし、言葉ではそれを隠して、いかにも親切な言い方をしている。そこで、「うんと相手をバカにしているようにふるまってみてください」と指示してみる。すると、相手は、それほど腹を立てない。口先だけ親切そうに言っているとき、かえって相手は怒ってしまう。だから、答えは、相手をバカにしていることを認め、さらにそれを言葉で表せばいいんだ。
 しかし、これってアドラー心理学の教えに反していないか?人を尊敬し、信頼してつきあわなければならないと、アドラーは教えている。そうだね、ほんとうにそうだ。そうできればそれに越したことはない。問題は、そうできないとき、どうするかだ。いかにも相手を尊敬しているかのような言い回しをし、しかも心の中で軽蔑しているのは、二重にバカにしているように思う。それよりは、心と口を一致させてしまったほうが、まだ相手を尊敬しているにやや近い。ロジャーズが言うところの「自己一致」だな(正確に言うと、感情から考えはじめるロジャーズと、信念から考えはじめるアドラーとでは、違うことを考えているのだが、まあ細かいことはよろしい)。
 アドラー心理学を間違って解釈している人たちは、ここのところがわかっていなくて、心のほうは放っておいて、相手を尊敬しているかのように聞こえる口先の技を教える。だから臨床心理学は「偽善者養成講座」だって言われてしまうんだ。
 理想として「人を尊敬しなければならない」と思い、現実に「相手を尊敬できていない」ことを認識し、しかも嘘をつかないで暮らしたい。そうなると、相手を尊敬できていないことは表現することにして、それを具体的にはどう表現するかを工夫する方が、より誠実な生き方であるように思うのだ。いいことじゃないんだけれど、「口先アドラー」よりはずっとマシだと思う。



阿蘇も雲仙も九州だろ
2002年04月29日(月)

 まだ阿蘇にいる。外輪山の中にある施設で、広大な草原のはずれ、中岳や高岳がすぐそこに臨める場所にある。残念ながら、山頂はいつも雲の中だ。
 阿蘇にはたくさんの詩があって、たとえば三好達治の「艸千里浜」という、ちょっと人麻呂の長歌みたいな雰囲気の詩が有名だが、三好達治という詩人は、私はどうも体質的に好きになれない。「絵ハガキ写真」みたいなんだ。たしかによく撮れているけれど、あまりにも傍観者的すぎると思う。
 思い出していたのは、伊東静雄の「なれとわれ」という詩で、これはけっして模範的な詩じゃないけれど、とても美しいと思う。しかしよく考えると、これは阿蘇の詩ではなくて、雲仙の詩じゃないか。まあいいだろう、同じ九州なんだから(ごめんね、九州の人。アバウトな認識で)。

新妻にして見すべかりし
わがふるさとに
汝(なれ)を伴ひけふ来れば
十歳を経たり

いまははや 汝(な)が傍らの
童さび愛(かな)しきものに
わが指さしていふ
なつかしき山と河の名

走り出る吾子に後れて
夏草の道往く なれとわれ
歳月は過ぎてののちに
ただ老の思に似たり

 パートナーさんと知り合って、もうすぐ20年になる。前に結婚していたのが13年だから、それよりも長くなった。このごろ「歳月は過ぎてののちに/ただ老の思に似たり」と、ちょっと思うようになった。伊東静雄が言うのは、嫌悪していた故郷(諫早)を、妻や子の存在を介して、許せるようになったことだと思うが、私は故郷を嫌悪していないので、違う種類のことを思っている。それにしても、年をとって、若いころとは違った感覚で世界を見ることができるようになったことを喜んでいる。

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