Q
「ヨシヨシしてほしい」と思うのは、かなり幼児的だと聞きました。それはまだ自分が十分できていないということなのですか。
A
私は「人からヨシヨシしてもらいたいんだ」とわかりながら、あることを望むなら、それはかまわない。おいしいお料理を作っていて、旦那さんが帰ってきて「すごくいいのを作ったんだな」と言ってほしいなあ。これは幼稚なんだなと、相変わらずやっているなと、わかりながら願っているのは安全です。わからないで願っていると危ない。
フロイトさんはとても賢い人なので、ただそれがわかっているだけでは満足できなかった。ちゃんと知的に底の底まで根まで理解しないといけなかった。気がついていることと知的に理解していることとはまったく違うことです。だって、弘法大師様が寝てるかもしれないから橋の上で杖をついてはいけないという知識があることと、橋の上で杖をつかないことを実行できることとは似ても似つかないで(シンフォニー)(シンフォニー)題にしているのは、ごく簡単な事柄にずっと気がついていて、それを実行できること。実行できないまでもそれを意識していること。これはものすごく難しい。洞察中心の治療を受けると、山ほどどうでもいいことに気がつく。で、何にも変わらない。(野田俊作)
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Q
自己トレーニングについてもう少しお話しください。
A
「気がついていく」しかしょうがないと思う。それだけ。結局それだけ。これって、すごく大変なんです。
この間、大阪で、四国八十八カ所霊場巡りに行こうと突然言いだして、おバカさんが8人集まって行ったんです。まだみんな若いから歩こうということで、全部歩いた。全部歩いたら健脚の人でも48日かかる。でも2泊3日しか取れないから、歩けるだけ歩こうということで11か所回った。
お遍路にはタブーがいっぱいあるんです。ひとつは杖の使い方が難しい。ただの杖なのに。杖は弘法大師様の御身代わりなんだって。休むときに人間が先に休んではいけない。杖を先に休ませる。お宿へ行ったり宿坊へ泊まったりするときに、まず杖をきれいに洗って床の間に上げて、それから人間を洗わないといけない。それはまだいい。橋の上で杖をついてはいけない。いわれがあって、昔、弘法大師様が橋の下で寝ているとき、上を杖をついて歩く人がいっぱいいて、そのために不眠症になった。そういう因縁があるから、今でも大師様が寝ていらっしゃるといけないから、橋の上で杖を使わないというのが巡礼のマナーなんです。何でもないことでしょう。橋の上で杖をつかないなんて。でもいつも忘れる。橋の途中で気がついて、「あっ、ここは橋だ。ごめんなさい、お大師様」ってなる。そんなつまんないことでも、気がつき続けるというのはすごく大変なことです。朝から晩まで歩いているといっぱい橋があって。
自分が縦の関係をとっちゃう。あるときには支配的であったり、過保護であったり、どうしてもらいたいと思ったり、甘えたいと思ったりする。それに気がつき続けるというのは大変難しい技です。
Q 気がついたら、それをやめるわけですか。
A 気がついたらしてもいいんです。知ってするならしてもいい。自分は今本当は自分でできるのに、相手にさせたいと思っていて、それでやっているんだとわかってやるなら安全です。
Q いつまでもやっていいわけではないでしょう。
A 消えます。われわれが自分を変える方法は、気がつくことです。気がつくことというのは、行動を変えなさいということではない。「変える」と「変わる」は違う。気がつけば変わるから。いっぺんやってごらん。半年くらい自分がどんなに甘え好きか甘やかし好きか、あるいはその両方が好きか、観察し続ける。
Q すごく破壊的なことを気がつきながらやるのは?
A やってごらんなさい、まず。理屈でオッケーかオッケーでないか別にして、すごく破壊的なことを思いついて、「これは破壊的だ。こんなことをしたら私も他の人も破滅だと言う。さあやろう」と。(野田俊作)
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Q
4歳の男の子の行動について悩んでいます。棚に登る、階段の柵によじ登り越えようとする、勝手に戸外に出て自転車に乗ろうとする、公園で石を投げるなど、危険をともなうことについて口で伝えても、繰り返し行動します。今まで何度か転倒・転落して怪我をしていることもあり、こちらの言い方もついきつい口調になってしまうときがあります。他の不適切と思われる行動に対して(上のは不適切か?)、こちらも注意せず、様子を見たり冷静になってから話をするなどして時間をかけて対応しています。子どもと横の関係でありたい、頭ごなしに叱ったりきつく注意したりしないというのも難しいです。危険をともなう、すぐやめてもらいたいと思うような行動に対して、アドラー的にはどのように対応したらよいでしょうか、アドバイスをお願いします。
A
普通、年齢が4歳だとか5歳だとかだと、言葉が通じるだろうと、1つ思います。それから、結末を予測できないかもしれないと、2つ目思います。あることをやった結果次にこんなことが起こるだろうってわかるようになるのが、大体5歳ぐらいからなんですよ。小学生だと、自分のやったことの結末が普通は予測できるんです。普通はというのは、できないこともあるんだけど。だから、できないこともあるかなと思うんですよ。で、それについて話をしたい。どれぐらいの高さから飛びおりると怪我をするかな?とか、どんなふうにして飛びおりたら怪我をしないかな?とか、どれぐらいだったらあなたは飛びおりられるかな?とか、頭から落っこちたときと足から落ちたときとどう違うかな?とかいうのを、楽しい話題としていっぺんやってみるといいと思う。別に僕たちは、ここで僕たちの側からリミットラインを設けて「これ以上やってはダメよ」と言おうと思わないので、子ども自身が自分で予測して「これぐらいにしようね」って決めてほしんですよ。子どもは多分、「これぐらいはいけるだろう」とか「これぐらいはダメだ」ときっと話しながら気がついていくと思う。これもこのごろの心理学者が思うことなんですが、人間は黙っていてもあまり考えてなくて、誰かとお話すると考えるんですね。だから、お話をするチャンスをつくると、そのとき自分で「ああ、そうだな」とか「ああ、違うかな」と自分で考えるから、そのことについて楽しい話題として、「凄い高いところから飛べるようになったけど、ほう、どれぐらいから飛べるかな?ビルの10階なんかどう?」「お母さんのバカ、そんなとっから飛んだら死んじゃう」「そうなんだ。じゃあ10階がダメだったら2階はどう?」「2階もダメだよ」「じゃあどれぐらいだったら?」「階段4つぐらい」「ああ、階段4つぐらいか。そうか、そんなもんかもしれないな」と話が終わったら、その子は階段5つ飛ぶんです、きっとね(大爆笑)。楽しいでしょう。うん、楽しいんですよ、子どもって。はい、こうやって育ててください。アドラー心理学の子育ての制限する側、子どもの動きを制限する側っていうのは、1つはこうやって事前に楽しく話し合いをして、何したらどうなるかなっていうのを、子どもに口に出して言ってもらう。こっちが伝えるんじゃなくて。「ああ、君だったら4段まで飛べる」とか言うんじゃなくて、「君は何段まで飛べるかな?4段かな?」と子どもに口に出してもらう。そうすることで子どもが思考する。考える。で、因果性の中で自分のやることを位置づけるでしょう。これやったら次どうなるかな?とか。喧嘩するときは、「どんなことはしてもよく、どんなことはしてはいけないかな?」って訊くと、喧嘩について、自分のしていいこととしていけないことを言うじゃない。「刃物で首切るなんかどう?」「そんなことしちゃいけないよ。死んじゃうじゃないか」「そうか、死んじゃうんだ。じゃあ刃物はダメなんだ」とか話ができるじゃないですか。お話をして、予測してもらうというのが1つ。それからもう1つは、結末を体験してもらう。それをやった結果起こることを子どもに体験してもらいましょう。それも、結末を体験していますから、別に怒ったり感情的になることもないので、擦りむいて怪我したら、「どうして怪我しちゃったんだろうね?」って訊けばいいし、「次から怪我しないためにはどうすればいいだろうね?」っ訊けばいいだけじゃない。あれ、訊いといたほうがいいよ。子どもって変なことを学んでいるから。例えば、階段から飛びおりて怪我したとする。「どうして怪我したんだろうね?」「あの階段ダメだから、向こうの階段にする」と言うときがあるから、階段では一緒かもしれないから、もうちょっと話をしたほうがいいとわかるから、お話をすることにする。事後であってもただ黙ってないで、それについて「あなたはどう思うかな?」って子どもに語ってもらうことです。まあそんなところが、こういう問題に対する主なやり方だと思います。それでたいていうまくいくし、このやり方の一番いいところは、子どもが賢くなる。子どもが自分のやっていることについて説明ができる。これから起こるだろうことについて説明ができる。起こってしまったことについて、自分の力で説明できる、ということを“賢い”と言うわけですから、絶えずこうやって問いかけて、親は子どもを賢くするし、絶えずこっちから「こうやったらいい。こうやったらダメ」と言っている親は子どもをバカにする。子どもに説明してもらうのがいいと思います。僕らは育児の中で感情的になる必要はまったくない。ま・っ・た・く、なんです。感情的になったときは話し合いのチャンスじゃないんです。アドラー心理学は最終的に、人類の諸問題を感情抜きで解決できるところまで、人類が発達したいと思っているんです。戦争とかその他の暴力的手段で国家間の問題を解決しないでおきたいと、アドラーが1918年に決心したんです。私はそれに賛成なんです。そのためには普段から家庭生活や学校生活の中で、感情や暴力なしに問題を解決していける証明を絶えずしていかなければいけない。これは世界平和のためにわれわれがしなければならない“請願”。だから感情的に問題を快活する必要はまったくない。(野田俊作)