科学と宗教の未来
2001年10月31日(水)
ある友人が、「21世紀の終わりには、宗教はなくなるんじゃないか」と言った。私は、むしろ、宗教は盛んになると思う。ただ、今までのようなあり方ではいられなくなるだろうとは思うが。つまり、新しい形で復活すると思うのだ。
かつて科学は「宇宙の真理を発見する方法」だと思われていた。しかし、今では、「予測と制御のための言語システム」程度にしか思われていない。「客観的」とか「実証的」とかいうことさえ、構造主義者や構成主義者からは疑われている。要するに、「ひとつのものの見方」でしかないのだ。たしかに、科学というものの見方は、ある場面ではきわめて便利であり強力である。つまり、観察可能な事象をもとに未来の事象を予測すること、未来を変えるために現在の事象に操作を加えること、この2つについては、科学以上に有効な方法を人類は知らない。天気予報は占いよりも当たるし、現代医学は祈祷よりも効くのだ。
20世紀は、科学に立脚する技術で、「自然を征服」しようと試みた。ある程度、それは成功したけれど、なにしろ自然は非線形なものだから、予想外の副作用がたくさんあって、最近は反省期に入っている。反省期に入ってはいるけれど、まだ人々は科学信仰を捨てない。環境問題のように、科学の副作用として生じた諸問題も、科学がもっと進歩すれば克服できると信じている人が多いし、あるいは実際にそうであるかもしれない。
しかし、科学だけでは、けっして問題は最終的には解決しないのだと、私は思う。ここでもしばしば書くけれど、たとえば倫理の根底は超越的なものでなければならないと思うのだ。科学は、人間の倫理の起源にはできない。そういうことが、やがて一般常識になっていくだろう。「科学の効用と限界」ということについて、人々が理解するようになるだろうということだ。
そうなると、科学で説明できない領域を説明するために、宗教が必要になる。ここで宗教というのは、超越的な根拠を元に、ある領域の現象を説明しようとする方法のことだ。超越的な根拠というのは、神仏でもいいけれど、縁起でもいいし般若波羅蜜でもいい。そういうものを前提にしないと展開できない論理というものがあるのだ。
先日(10/26)、「男らしさ」はいいが「私らしさ」はよくないということを、縁起と関連づけて書いた。それを読んだ、チベット仏教に関心のある友人が、「こんなことまで縁起と関係づけるのね」と言った。縁起と関係づけなくてどうするんだね。私が理解する仏教とは、「一切の法は縁起によって生じる」ということで、私が男であること、医者であること、日本人であることなどは、すべて縁起によって決まったことだ。そういうさまざまの「法」が集合したものとして「私」があり、それらを離れて私というものが実在するわけではない。それはちょうど、エンジンや車輪や車体や窓ガラスから自動車ができているようなものであり、それらを離れて自動車があるわけではないのと同じだ。
「そう説明されてはじめて、野田さんがなにを問題にしているのかわかったけれど、仏教を知らない人にはわからないんじゃない?」とその友人は言った。そうかもしれない。しかし、「男として(あるいは女として)どう生きるか」が科学で説明できる事柄であるとは、私は思わない。それは宗教的な事柄なのだ。仏教でなくてもいい、キリスト教でもイスラム教でもいいのだ。「私は男である(女である)」ということについてどう態度決定をすればいいのかは、科学の話題じゃなくて、ある超越的な根源と関係しながら考えるべき事柄なのだ。これが宗教的な事柄なのだとわかるようになるのが、21世紀ということじゃないか?
ポストモダン心理学と仏教
2001年11月01日(木)
「ポストモダン心理学では、複数のパーソナリティを認める。無意識は一つだと思う。そのうえに、複数のパーソナリティがあって、文脈に応じてそのうちのひとつが意識され行動されている」という話をしたら、「無意識も縁起によって生じるのか」と、ある仏教フリークの友人に尋ねられた。私はアドラー心理学と仏教の比較論文をいくつか書いているので、アドラー心理学をポストモダン風に拡張して説明すると、さっそく、仏教との関係を気にする人がいるのだ。これはいいことだと思う。
当然、無意識もまた縁起によって生じる。なぜなら、「私の無意識」だから。証明終わり。
しかし、これでは、なんのことか、普通の人にはわからないね。インドの論理学では、「私は男性だ」というのを「私に男性性がある」という風に考える。「私」という「有法(ダルミン・基体)」の上に「男性性」という「法(ダルマ・属性)」が乗っていると考えるのだ。ちょうど、机の上に品物が乗っているようなものだ。机が有法で、品物が法だ。机は一つしかなくて、品物は複数ある。机は動かなくて、品物は次々と入れ替わるかもしれない。「私は医者だ」は「私に医者性がある」ということだし、「私は日本人だ」は「私に日本人性がある」ということだ。「男性性」や「医者性」や「日本人性」は法だ。だとすると、「私に無意識性がある」と言っていいことになり、無意識も法であることがわかる。
仏教の教えによれば、一切の法は縁起によって生じる。私が男性なのも縁起によって男性なのだし、私が日本人なのも縁起によって日本人なのだ。だとすると、無意識が法であるならば、縁起によって無意識があるのだ。これで、証明は終わり。
その人が、「無意識も縁起によって生じるのか」と尋ねたのは、無意識が「有法」で、その上にさまざまのパーソナリティが乗っかって、法として縁起しているように聞こえたからだと思う。その考え方は仏教的ではない。有法(あるいは界とも境とも我とも自性ともいう)は存在しない。私というのは、身体や意識や無意識や理性や感情や男性性や日本人性などの「諸法が集合」したものであって、それを担っている基体としての「我」(=有法)は存在しない。もし存在すると、それは縁起によって変化しない実体であることになり、そんなものがあったのでは、私は変化できなくなる。つまり、迷いから悟りに向かって変容できなくなる。
私が法の集合体であって、それらを担う基体としての自性(あるいは我・界・境・有法)が存在しないということを、「無我」といい、あるいは「空(くう)」という。空だから縁起が可能なのだし、一切法が縁起によって生じるので、変容が可能なのだ。ともあれ、無意識は有法(=我)ではないし、無意識が原因で意識が結果なのではない。無意識も意識も、過去の業(ごう)の結果であって、その点ではどちらが上でどちらが下でもない。
Q
1歳8か月の娘が、ときどき“ビートたけし”みたいに首をかしげます。日々の生活で何かイヤなことがあるのでしょうか?
A
首ぐらいかしげさせてあげてください(爆笑)。
これも心理学の悪い作用ですね。子どもは、爪噛みもするだろうし、指しゃぶりもするだろう。その子が20歳になっても30歳になっても爪噛みしているだろうか、指しゃぶりしてるだろうか。年齢とともに自然に消えていくものに1つ1つ注目しないでください。注目すると、それが意味を持つんです。お金と一緒です。みんな騙されていて、1万円札という名前の紙を値打ちがあると思っている。あれはただの紙ですよ。全員がそれに注目して貴重だと思うから貴重なんです。火をつけると燃えるでしょう。では金(キン)は貴重か。金も大したことない。鉄や銅だと実用になる。金は電気の接点くらいにしか使い道はない。柔らかすぎるから。それをみんなが貴重だと思うから貴重なんです。ダイヤモンドはどうか。あれはただの炭素。炭ですよ。いつも人間が貴重だと思うものは、みんなが貴重だと決めたから貴重なだけで、本質的に貴重なわけではない。(野田俊作)
魔法使いの弟子
2001年10月28日(日)
今日は、別の場所でアドラー心理学の講義をした。昼休みの雑談で、ある人が、次のようなことを言っていた。
友人が催眠療法を習っているのだが、あるとき、治療を見せてくれた。ある女性に催眠をかけると、突然、男性の声になって、「自分の頭部の手術を受けた」と言い、あれやこれや口汚いことを言う。術者は、「長い間、こういう人を呼び出していると、悪い影響があるから」と、そのペルソナ(?)を消して、次のものを呼んだ。すると、被術者の死んだ祖母が出てきて、あれこれ言う。その言う内容が、現実に符合していたのだそうだ。
こういう話をした上で、「野田さんがしているエリクソン催眠も、こんなのですか?」と言う。うへえ、催眠って、そんなのだと思われているんだ。これって、降霊術じゃないか。怪しすぎるよ。しかし、まあ、そう思われているかもしれないな。「催眠術」って、怪しい響きだものね。
家族療法家や短期療法家で、催眠家ミルトン・エリクソンの影響を受けた人がたくさんいるのだが、催眠を使おうとしない。それどころか、なんとかエリクソンの心理療法技法から催眠を抜き去ろうと努力している。それは、結局は、世間が催眠を見る眼が冷たいからだと思う。「催眠が専門です」と言うと、心理療法家の間でも、一歩引かれてしまうもの。
そう考えると、私の師匠の高石昇先生は偉いな。大学人でありながら、堂々と催眠家って名乗っているもの。私も、長い間、催眠を使うことに抵抗があったのだけれど、魔法使いの弟子は魔法使いになるしかないかなと、このごろ割り切った。
陰陽師
2001年10月29日(月)
パートナーさんと彼女の娘と、三人で映画『陰陽師』を見にいった。安倍晴明役の野村萬斎も源博雅役の伊藤英明も、明るくていい。漫才のボケとツッコミをすこし上品にしたようで、どこかトボけている。夢枕獏の小説の中の二人の感じは、こういう風だ。平安時代が舞台なのに、とても現代的な青年なのだ。テレビで稲垣吾郎が安倍晴明で杉本哲太が源博雅を演じたテレビドラマは、二人とも暗くて、原作とはずいぶん感じが違った。監督の滝田洋二郎は、テレビのものをまったく見なかったのだそうで、正解だったと思う。
まあ、なんということはない娯楽映画なのだが、主役の野村萬斎はさすが狂言師で、所作がきわめて美しい。途中と最後に挿入される舞ももちろん美しいが、立居振舞がいかにもメリハリが効いていて、さわやかだ。「順体」というのだったと思うが、右手と右足が同時に前に出る。日本の踊りや武道はすべてそのように動く。それが完全に身についているので、とても自然で美しい。
以前に(05/30)、テレビドラマになった陰陽師を批判したときに、「呪」についての晴明と博雅の議論がどうもうまく描けていないと書いたが、映画では、けっこううまく描けている。議論の場面はほんの少ししか出てこないのだが、大学生くらいの年齢の青年の青臭い議論という感じが、上手に演出されている。
こういう話がうけるところが、21世紀なんだな。陰陽道とか密教とか魔法とか、そういうものが、いくらかまじめな話題になるんだ。1970年代のいわゆるニュー・エイジでは、禅とか瞑想とか悟りとかが話題になったけれど、それとはちょっと違っている。もっと非論理的な不合理なものがとりあげられている。科学に対する信仰が薄れたんだな。この流行は、深いところでポスト・モダンの思想と関係があると思う。
イスラムの正義
2001年10月30日(火)
宮田律『イスラムでニュースを読む』(自由国民社)という本を読んでいる。9月11日のテロ事件以前(2000年4月)に出版された本だが、事件の背景が実によく書けている。目次は次のようだ。
【第1章】イスラム政治運動の成長
なぜいまイスラムなのか
オサマ・ビン・ラディンによるアフガン・コネクションの構築
イスラム集団とキーパーソン
国際安全保障の核としての南西アジア
【第2章】イスラム紛争を読む
キルギス日本人誘拐事件
チェチェン紛争
インド・パキスタン核問題
コソボ紛争
ケニア・タンザニア、アメリカ大使館テロ事件
サウジアラビアのイスラム主義勢力
湾岸戦争
アフガニスタン内戦
インドネシア・ワヒド政権
【第3章】イスラムの基礎知識
イスラムの宗教
イスラムの生活
イスラムの経済
【第4章】イスラム経済と世界
イスラム世界の石油資源
イスラム諸国の経済外交
この本のおかげで、現代イスラム世界についての基礎知識はいちおう身について、それなりにわけ知り顔ができそうだ。逆に、これを読むまでは、イスラム世界について何も知らなかったなと思う。
先日(10/17)、「イスラム世界では、『自由』にはほとんどポジティブな価値がないだろうし、『正義』は、イスラム教にもとづいた意味で使われ、アメリカの言うのとはまったく違うニュアンスをもっているだろう」と書いたが、この本には、「正義」について、次のように書かれている。
イスラム世界の「正義」の概念は、基本的には、イスラム共同体内部のムスリム相互の富の公平、共同体全体の利益を考える政治、ムスリムの意思が政治に反映されること、またイスラム法が無視されていないこと、さらに対外的にはイスラム世界の運命が外部勢力によって決することがないことといえよう。(p.134)
しかるに、西欧化によって、貧富の差は広がり、一部特権階級が自分たちの利益のために政治をするようになり、イスラム法に代わって西洋的な法体系が採用され、アメリカがイスラム世界固有の問題に口出しする、というように、アメリカや西ヨーロッパ諸国のおかげで「正義」が犯されていると、ムスリムは感じているようだ。それは単に原理主義的な過激派だけではなく、イスラム世界全般が抱いている感じであるようだ。だから、アメリカがいくら「正義」と言っても、言葉が通じていない。イスラム世界は、アメリカが言う「不朽の自由」だの「永遠の正義」だのといったキャンペーンに、アメリカ人が計算したようには反応してくれないのだ。
テロ対策について、イスラム世界の穏健な人々が納得するような言葉の使い方を探さなければならない。そのためには、イスラムについて本気で勉強しなければならない。日本政府には、イスラムの言語や宗教や社会や歴史や風習についてよく知っている人がいるのだろうか。ちょっと不安だ。
Q
遠く離れたきょうだいや家族と家族会議するには電話が多いと思いますが、そのとき気をつけたほうがいいことを教えてください。
A
私は電話では(中身のある)話をしないことにしています。個人的に電話嫌いだから。理由は、体が見えないからです。声だけに頼って話をすると、とんでもない誤解をする。情報量が1/3とか1/5しかないからね。重大なことで決めなきゃならないことがあったら会いに行くこと。日本中、世界中どこでも。そういうことはめったにないが、外国の人とでも、とても大事なことだったら行ってでも会わないといけない。手紙でも電話でも済まないと思う。だから世の中には外交官がいるんです。いまだに電話で済まさないで、アフリカでもどこでも行くでしょう。
僕たちの文明の大間違いの1つが、電話という機械です。アメリカにアーミッシュという人たちがいる。17世紀くらいの生き方を頑固に守っているキリスト教の一派です。そのアーミッシュの村へ電話のセールスが来た。電気はかつて拒否しました。耕運機をちょっとだけ持っている。そこへ電話のセールスが来た。長老たちが「いっぺん置いて見よう」と置いた。でも、ひと月置いて断った。電話をつけると人が会いに来なくなるからという理由で。
だから電話相談も受け付けない。電話では相談できないから。絶対できない。電話は予約を取ったり変更したりするのに使うものです。予約注文などのビジネス以外に使えるものではない。雑談なら使える。2時間や3時間、話をするおばさんやおねえさんがいる。おかげでNTTは保っている。商用には使える。でも、ほんとに深刻な問題には使えないものだと初めから思ってください。手紙も使えない。一方通行だから重大な話には使えない。実際には、会うしか手がないんです。(野田俊作)
私の正体
2001年10月22日(月)
昨日、「『いい男』で『いい社会人』で『いい治療者』で『いい親』で『いい息子』で『いいパートナー』で『いい友人』で、そういうものの総体として、最後に『いい私』がイメージできるのであって、先に『いい私』があるわけではない」と書いた。むかしはそう考えていなかったことに気がついた。姓名とか、性別とか、職業とか、国籍とかは「私」の属性であるにすぎず、それらを担うものとしての「私そのもの」があると、どこかに書いた気がする。「『私は野田俊作だ』とか『私は男性だ』とか『私は医者だ』とか『私は日本人だ』とかいうのは、『ほんとうの私』については何も言っていない。『ほんとうの私』は、属性ではない」と、そんなことを書いたように思う。
しかし、この考え方は間違っていると、今は思う。「私は野田俊作だ」とか「私は男性だ」とか「私は医者だ」とか「私は日本人だ」とかいうことがあって、それらが「同じ人物」について言われていると私は思っていて、「私」というものをアイデンティファイするが、「私」というものは、ほんとうは存在しない。「ほんとうの自分」とか「真の自己」とかはなくて、「偽の自己」の集積しかないんだ。「偽の自己」というのは、要するに縁起によって生じたもので、空(くう)であり仮であって、実在するものではない。もちろん、それを超えた「真の自己」が存在するわけはない。
諸君は、言語にとらわれて、迷いとか悟りとかいう名前にこだわっているために、道を見る眼を遮られて、はっきりと見ることができないのだ。経典といえども、書いてあることはすべて表面的な言説にすぎない。諸君はそのことがわかっていないので、表面的な言語の詮索をしてわかったと思い込んでいる。しかし、それは言語によりかかっているだけで、なんのことはない迷いの真っ只中なのだ。君たちがもし生死を離れて自由になりたいなら、この話を聞いているその君が、形相もなく、それ以上遡るべき根本もなく、それ自体以外によるべき場所もなく、しかもピチピチと躍動している真の自己なのだという、そのことをたったいま知ることだ。
学人不了、為執名句、被他凡聖名礙、所以障其道眼、不得分明。祗如十二分教、皆是表顕之説。学者不会、便向表顕名句上生解。皆是依倚、落在因果、未免三界生死、汝若欲得生死去住、脱著自由、即今識取聴法底人、無形無相、無根無本、無住処、活撥撥地。
これは臨在義玄(りんざい ぎげん=中国の唐代の禅僧。諡は慧照禅師。俗姓は邢。曹州南華県=山東省菏沢市東明県の出身。臨済宗の開祖)の言葉だが、これって仏教じゃない。日本人は、こういう思想に千年以上もだまされていたんだね。たしかに、俗耳に入りやすい思想ではある。
私の正体(2)
2001年10月26日(金)
21日に、以下のように書いた。
それに、「私らしい」というのは、端的なエゴイズムでありうる。「男らしい」という姿は、他の男性や他の女性との関係の中での自分の生き方だ。他者なしで自分を定義できないのだ。「いい社会人」や「いい治療者」なども、すべて他者との関係の中での自分のあり方だ。しかるに「私」は、かならずしも他者の存在を前提にしないで定義できる。「私らしい」生き方というのは、ヨーロッパ・アメリカ風個人主義の、もっとも悪い面につながる恐れがある。
今日、このことについて仲間と話をしていたが、あまりちゃんと理解されていなかったようだ。もうすこし補足する。
どういう行動が「男らしい」かは、私一人ではきめられない。世間一般に「男らしい」と認められている型があって、それに適合していない行動を、私が勝手に「男らしい」と主張しても、認めてもらえない。つまり、「男らしい」という名前(シニフィアン)に対応する概念(シニフィエ)を、私ひとりで完全に恣意的に決めてしまったのでは、言葉が通じなくなって、世間様が許してくれない。
むかしはただひとつの世間しかなかったので、「男らしさ」の意味は一義だったが、最近はたくさんの世間があるので、さまざまの「男らしさ」がありうる。逆にいうと、すべての人々から「男らしい」と認められる行動というのは、もはや存在しないので、ある特定のグループの中でだけ通用する概念でしかない。それにしても、今なお、ただひとりで「この行動は男らしいんだ」と言い募っていても、誰も認めてくれなければ、言葉が意味をなさない。
これに対して、「私らしい」については、「この行動が私らしいんだ」と言えば、他者はそれを否定できない。「あなたらしくないわね」と言われるかもしれないけれど、さらに重ねて、「いや、これこそが私らしいんだ」と言えば、もうそれ以上反論のしようがない。つまり、「男らしさ」という言葉の意味は私と他者の間で共有されているが、「私らしさ」という言葉の意味は、ひょっとすると私にだけ特有のもので、人々と共有されていないおそれがある。
「私らしい」の他に、「人間らしい」もそうかな。勝手に解釈できるんだ。だから、いつでも必要があれば、自己正当化の口実に使える。西洋個人主義というのは、とてもよい面もあるが、とても困った面もある。困った面というのは、他者のことを忘れて、自分の利益を最優先する思想に落ちぶれてしまうことだ。むかし、ハイジャック事件のとき、「人の命は地球よりも重い」と言った総理大臣がいて、「バカか!」と思ったことがある。たとえレトリックでも、そういう自己中心的なことを言ってはいけない。そういう発想は、「私らしさ」や「人間らしさ」という発想と、論理的な連関がある。
一方、「男らしい」や「女らしい」や「大阪人らしい」や「日本人らしい」や「医者らしい」や「教師らしい」や「若者らしい」や「七十年安保世代らしい」などなどは、意味の共有があって、あまり勝手に使えない。そういう勝手に使えない「らしさ」でもって自分を決めていくと、共同体との関係の中で自分が定義される。仏教語でいうと、縁起の中で自分が決まる。それを離れて、他者とは無縁に定義される自分がない。これは健全な考え方だと思っている。
なぜ私は新聞に投書しないか
2001年10月27日(土)
アドラー心理学の講義をしていたら、「私はアドラー心理学に全面的に賛成だ。世間で言われている『心の傷』の対策などは間違っていると思う。アドラー心理学の考え方のほうが正しいと思う。野田さんは、どうして、『世間のやり方は間違っている』と新聞に投書したりしないのか?」という質問があった(06/22に関連記事あり)。なるほどね、そういう風に考えるんだ。こういう質問をする人って、好きだな。
「私は、新聞に投書する気はありません。学者は、そういう方法で戦うべきではないと思うのです。新聞への投書どころか、他の心理学の学説にもとづく『心の傷』の予防法や治療法を批判する気もありません。そうではなくて、われわれのやり方で『心の傷』を予防したり治療したりした実績を積み重ねて、それを専門誌に発表しようと思います。思弁的な空論ではなくて、実証的な科学的な議論をしたいんです」と答えた。
しかし、新聞に投書するっていうのは、考えたことがなかったなあ。ふうん、そういう方法もあるんだね。使う気はまったくないが。