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http://www2.oninet.ne.jp/kaidaiji/dai1keiji-08-18.html
玄米
2001年09月21日(金)
ここのところ、「食べ物シリーズ」だな。数日前に友人から「コシヒカリを送る」というメールがあったので、「玄米にしていただけると嬉しい」と返事したところ、今日、玄米のコシヒカリと、イカの一夜干と、カマボコが着いた(「カマボコ」と書くと、どこの地方から来たか、わかる人にはわかるな)。
白米は、外食の他は、登山のときくらいしか食べない。山では、まさか玄米を炊くわけにもいかないしね。むかしはアルファ米という「ほしいい」みたいなものを使っていたのだが、高価だし、おいしくないし、そんなに高山に登るわけでもないので、最近は普通のお米にしている。炊き方にちょっとコツがあって、2千メートルまでの山であれば、おいしく食べられる。
家では玄米ないし三分搗(つ)きだ。玄米は好き嫌いがあるが、私は好きだ。もぐもぐと噛んでいると、とてもおいしいと思う。白米は、甘すぎて、お菓子のようだ。玄米は、しかし、糠に水銀が蓄積するとかで、農薬をたくさん使ったものは危ない気がする。友人の田圃でできたものなら安心だ。
毎年、秋になると、何人かの友人がお米を送ってくださる。野菜やお米をいただくと、なんとなく、田舎のお医者さんをしているみたいだ。お金はたいして持っていないけれど、食べ物は不自由しない。ありがたいことだ。
お酒もいただく。先日、酒どころの友人から日本酒をいただいて、今日、大阪のオフィスのアル中三人組(一人はもちろん私で他の二人は女性事務員)とアル中顧問税理士と、四人で酒盛りをした。社長が率先して職場で酒を呑むのだから、どうしようもない。
伴奏音楽
2001年09月22日(土)
劇の伴奏音楽の話をする。劇といっても、サイコドラマ(心理劇)だ。サイコドラマは、モレノという人が考え出した心理療法技法で、アドラー心理学もその技法を輸入して、アドラー心理学なりにアレンジして使っている。その名のように、芝居仕立てで心理療法をしてしまうものだ。
私は主として伴奏音楽の担当なのだが、選曲がけっこう難しくて、また面白い。お客さんがよく知っている曲は使えない。あらかじめお客さんがその曲に対してもっているイメージが邪魔をするのだ。たとえばTVの「水戸黄門」のテーマソングを使ったりすると、頭の中は水戸黄門でいっぱいになる。だから、TVでよく流れる曲はだめだ。ヒットソングも、日本のものであれ外国のものであれだめだ。クラシックも、多くの人が知っているものはだめだ。そこで、誰も知らないような変わった曲ばかり選ぶことになる。
合宿でサイコドラマをすることが多くて、その場合には一日中やっているから、一人のお客さんを主役にした劇が終わると、ちょっと休憩してから、次のお客さんを主役にした劇をする。次の劇が始まる合図に、決まったファンファーレを鳴らす。そうすると、休憩中のお客さんたちが「始まるぞ」とわかって、着席してくださる。今日から大阪で合宿をしているのだが、今回は、ヒンデミット『カンマームジーク』第1番第1楽章だ。といっても、「ああ、あれね」と思う人はまずいないだろう。聴いても、ほとんどの人は知らないと思う。
むかし、リヒャルト・シュトラウス『ツァラトゥストラはかく語りき』の冒頭を使ったら、この曲は映画の伴奏に使われたりして世の中でよく知られているので、そのイメージが劇造りの邪魔になったことがあった。それで、まだ劇が始まっていない時間に鳴るファンファーレでさえ、人の知らない曲でないといけないことを学んだ。これまでに使ったファンファーレは、ヤナーチェック『グラゴル・ミサ』第1楽章、モンテヴェルディ『聖母マリアのための晩祷』第1曲、バッハ『管弦楽組曲』第3番第1楽章などだ。バッハはともかく、ヤナーチェックの曲やモンテヴェルディの曲は、今回のヒンデミットほどじゃないけれど、「通」でないと知らないと思う。こういうのを探すのが楽しくて大変なのだ。
伴奏音楽(2)
2001年09月23日(日)
サイコドラマの伴奏の話の続きだ。ファンファーレが鳴ると、監督(治療者のことを、サイコドラマではこう呼ぶ)が舞台に出て、あらかじめ予約している主役のお客さんを呼び出す。話を聴いて、芝居の筋書きを作る。この間に、音楽担当者は曲を選ぶ。あらかじめ話の筋を知っているわけではないので、主役の話を聞きながら、こういうストーリーだったらこんな音かな、と選んでいく。私はCD担当で、もうひとり楽器担当のスタッフがいる。あれこれ相談もする。必要があれば、擬音も用意する。15分だか20分だかすると、ストーリーも決まり、観客から相手役を選び出し、リハーサルが始まる。
今回、用意していったCDは50枚くらいで、実際に使ったのは20枚ほどだと思う。ほとんどが、あまり人の知らないクラシックだ。リハーサルの伴奏には、バロック時代の室内楽をよく使う。バッハのフルートソナタなどだ。そうでなければ、あまりパンチのない20世紀の音楽だな。19世紀の音楽は饒舌すぎて、ほとんど使えない。ポップスを使うことはまずない。
リハーサルを繰り返すうちに、ストーリーが変わってくる。はじめ主役は泣いていたのが、監督と主役が相談して、泣くかわりに怒ることにするかもしれない。そうなれば、伴奏を変えないといけない。泣いているときには、たとえばバッハのフルートソナタの短調の緩徐楽章を使っていたのだが、怒るのだと、たとえば、ウェーベルンの管弦楽曲の速いパセージを使うことにする。さらにまた話が変わって、怒りの内容を相手に向かってのんびりゆっくりした口調で言うことになるかもしれない。そうなればまた伴奏が変わって、楽器奏者に「おはなはん」のテーマをシンセサイザーで弾いてもらうことにするかもしれない。
時に、同じストーリーを違う伴奏でやってもらうこともある。そうすると、怒っていた人が怒れなくなったり、笑っていた人が怒ったり、雰囲気はすっかり変わってしまう。音楽が人間に与える影響はすごいなと思う。普段の生活でもそうなんだな。TVやFMから流れる音楽に、自然に影響されて生きているんだ。ある意味で、気をつけないといけないね。その気になれば、音楽でもって人心操作が、ある程度はできるんだから。
伴奏音楽(3)
2001年09月24日(月)
アメリカ人は戦争をする気で、『リパブリック賛歌』などの愛国的な歌を歌っている。物騒な話だ。ショーペンハウエルが、「音楽は理性を飛び越えて感性に直接働きかける」というようなことを言っていたと思うのだが(記憶による引用なので、間違っているかもしれない)、たしかに理性を痺れさせる効果はある。
日本も、戦前には、戦争の伴奏音楽がたくさんあったみたいだが、今はそういう種類の歌はない。私の世代はもう、『君が代』を歌っても、愛国的になんかならない。私の父の世代でも、『君が代』では愛国的にならなかったんじゃないかな。でも、愛国的ないし好戦的になる歌はあったみたいだ。
『君が代』をやめて別の国歌にしたほうがいいという意見があって、じゃあ、どういう歌がいいのかと考えてみた。なにはともあれ、みんなが知っている国民歌をそのまま国家にするのがいいと思う。そう考えると、『ふるさと』だとか『上を向いて歩こう』だとか『翼をください』だとかを思いつくけれど、今のところ、どれも、戦争の応援歌にはなりそうにない。
しかし、ある音楽と愛国心ないし好戦的感情が結びつくのは条件反射によるので、どんな音楽であれ、ある強化随伴性[注]のもとで鳴らせば戦争の伴奏音楽になるのかもしれない。『君が代』や『海行かば』みたいなシケた音楽でも好戦的感情をあおったのだから、『上を向いて歩こう』でもって突撃することだってしかねないよ。
*注:強化随伴性:Aがある状況である行動をすると、Bがその行動に報酬なり罰なりをあたえるとする。そのとき、状況と行動と報酬(あるいは罰)の関連性を、強化随伴性という。たとえば、ある音楽を鳴らして、愛国的な演説をし、愛国的な反応をすると賞賛されるというようなとき、音楽や演説という状況と、愛国的な反応という行動と、賞賛という報酬の間の関係は、強化随伴性である。
Q
「会議をしよう」と家族に勧めてもイヤがる者に、どのように勧めたらいいでしょうか?
A
勧めるのをやめることです。「家族会議しようよ」と言って「家族会議なんかイヤだ」と言われたら、修業未熟なのは誰かというと、“私”なんです。だから、もう半年くらい考え直すように。(野田俊作)
ダイビングと戦争
2001年09月17日(月)
年末には沖縄に、来年の1月か2月には、パラオ島かどこか、ミクロネシアにダイビングに行こうと思っている。しかし、戦争になっていると、ちょっとヤバいかな。沖縄はテロの目標にならないともかぎらないし、ミクロネシアはアメリカ領のグアムを通るし。まあ、なにもないにしても、どこかで殺し合いをしているときに、遊んでいるのも、すこし罪悪感があるな。
このように、まったくの私利私欲から反戦的なのだが、理性で考えると、今は反戦的でいるべきなのかどうかが、よくわからない。「テロリストに対しては断固とした態度をとる」ということが国際的合意になっていて、それはそれで理解できる。しかし、問題を暴力で解決するのが好ましいことではないことも確かだ。とはいえ、話しあうといっても、イスラム原理主義者たちとは世界観の根底が違うので、まともな対話が成立しそうにない。向こうが変だといっているんじゃないよ。向こうから見ればこちらが変なんだ。つまり、疎通性がないんだ。言葉が通じないんだ。だから、話しあいはできない。そうなると戦争かね。しかし、暴力はいけないよ。ううむ、ようわからんな。
ここで、「どんなことをしても戦争を避けるべきだ」というのは、空想的平和主義であるにすぎないのだろう。私のアメリカ人の友人は、ほとんどがユダヤ系なので、きわめて好戦的になっている。彼らに、いま言っているようなことを伝えたら、怒鳴りつけられそうだ。しかし、私としては、ダイビングに行きたいんだよね、とりあえず。
ニンニク
2001年09月18日(火)
大学を出てしばらくしたころの話だが、ある人のお宅でバーベキュー・パーティがあって、呼ばれて行った。鉄板焼肉の間に、それまで食べたことのない小片があった。クセがあるけれど、おいしいものだった。「これはなんですか?」と尋ねると、不思議そうな顔をして「ただのニンニクですよ」と言われた。
母はニンニクが嫌いで、「ニンニクほどまずいものはない」と言い、けっして料理に使わなかった。それで、大人になるまでニンニクを食べたことがなかった。外食したときの料理の中に入っていたかもしれないが、どんなものだか知らないのだから、入っているのかどうかさえわからない。
「ただのニンニクですよ」という答えを聞いたとき、親にだまされていたということを、生まれてはじめて知った。それまでも、親の言うことがほんとうでなかったことはあったかもしれないが、実感として「だましたな」と思ったことはなかった。母の言うことがぜったいに正しいと思うほどウブでもなかったはずなのだが、食い物の恨みはおそろしいのかな、なんだか身体感覚として信頼が薄れたな。まあ、そんなことがあって大人になれたと言うこともできるかもしれない。
それからは、ニンニク好きになった。今日も、畑をもっている友人がくれたゴーヤー(ニガウリ)とピーマンをスライスしたニンニクと一緒にいためて昼食にした。なんとなく母を裏切っているようで、どちらかというと楽しい。
背徳の味
2001年09月19日(水)
パートナーさんが天然酵母パンに凝って、いっ時さかんに焼いていた。天然酵母パンはたしかにおいしいのだが、ときどき店で売っているパンも食べたくなる。パートナーさんに悪いので、そっと買ってそっと食べる。背徳の味がする。
最近は、どういうわけか彼女はパンを焼かない。それで、わりと堂々とパンを買ってくる。それでも、なんとなくイケナイ食べ物で、すこし楽しい。昨日書いたニンニクもそうだが、禁じられているものを食べて喜ぶのは、私の個性なのか、それとも人間はたいていそうなのか、よくわからない。
ともあれ、そういう食べ物がいくつかある。山へ行くと、昼食に、インスタント焼きソバを食べることがある。ふだんはインスタント食品はぜったいに食べないのだが、そういうときだけは食べる。これも、なんだかワクワクする。年間に10食は食べないと思う。あまり頻繁に食べると、興奮がなくなるんじゃないかな。
トーストを食べるときは、肥満予防のために、バターもチーズもジャムも使わず、ただパンだけを食べる。けれど、出張して朝食で喫茶店のモーニングサービスを食べると、トーストにバターがあらかじめ塗ってあったりする。それも、禁じられた美味だ。なにも塗らないトーストに慣れると、バターが塗ってあっても特別においしいとは思わない。けれども、後ろめたさがあって、それが味付けになっている。
こんなことを書いていると、みみっちい性格だなと思う。イケナイことをするなら、もっと大きなイケナイことをすればいいのにね。
ウリ好き
2001年09月20日(木)
スイカが好きだ。ところが、秘書がスイカが大嫌いなのだ。私がスイカを好きなことを知っている人がいて、ときどきくださる。事務所で切って食べるのが難しい。秘書の顔が「キッ!」とけわしくなるのだ。臭いがイヤみたいなので、切るだけで機嫌が悪くなる。彼女は、スイカだけじゃなくて、ウリ属全般に嫌いなようだ。私のほうは、スイカだけじゃなくて、ウリ属全般が好きだ。困ったことだ。
夏に奈良県へ釣りに行くと、帰り道に、西吉野村というところを通る。ここにお百姓さんの産地直売店があって、マクワウリなどを売っていると、お土産に買う。ところが、家族はあまり食べない。結局、自分でみんな食べてしまう。メロンなどより、昔風のマクワウリが好きだ。
そう言えば、父もマクワウリが好きだったな。漢籍好きの父は、ハネデューメロンを食べながら、「哈蜜瓜(はみのうり)というのは、こんなものではないかな」と言っていた。西域に哈蜜瓜というものがあるのだそうで、なんだか中国の文献に、たまらなく旨いと書いてあるのだそうだ。
ナスやキュウリも好きだが、ズッキーニが好きだ。炒めて食べてもおいしいが、沖縄風に、ナーベーラ(へちま)だと思って、味噌で炒め煮にしてもおいしい。
畑を持っている友人からいただいたゴーヤー(ニガウリ)を、ついにすべて食べてしまった。菜園を持っている友人が数人いるので、野菜には不自由しない。ただ、同じものばかり大量に集まるが、本来そういうものなので、一年中いろんな野菜が手に入るほうがおかしいのだ。無農薬野菜が食べられて、ほんとうに有難いことだと思っている。
Q
日本人は会議が下手なようですが、どんな国民性でしょうか?
A
知りません。僕はだいたい社会評論に興味のない人です。なんで日本人は会議が下手なのか、どう下手なのかは、われわれが別に知らなくてもいい知識だと思う。
世の中には、知らなければいけない知識と知らなくていい知識があって、イカの皮の剥き方とかは知らないといけない知識。でも、宇宙の始まりはどうなっているかは、知らなくてもいい知識です。われわれの生活力とか社会性につながっていくような知識は知らなければいけない知識だけど、そうじゃない知識は無駄なこと。いわゆる「日本人論」なんかは無駄な知識の見本みたいなもので、知らなかったからといってどうってことはない。あまりそんなことに興味を持たないこと。あれに興味を持つとお金は儲かっていいんだけど。『アドラー心理学から見た日本人』なんていう本を書くと、結構売れたりするかもしれない。
無駄なことに脳を使うと、大事なことがこぼれるから、なるべくそういうことは忘れましょう。(野田俊作)