Q671
大きな物語の終わり、地球そのものの破壊という問題から抜け出す唯一の可能性が育児と教育だというお話でした。けれど邪悪な勢力にとってもそのことが当てはまるのではないでしょうか?このことについて何かお話いただけますか?
A671
そうですよ。例えば、エコロジーというものを考えると、今3つの種類のエコロジーがあると思うんです。1つはディープ・エコロジーと呼ばれているもの。どうディープかというと、先祖返り、「“縄文式時代に帰れ”運動」。これってたくさんの人たちが、自然農法とかアメリカン・ネイティブの人たちの知恵に学べとかやっているけど、あれって生産性を維持できないんです。僕たちが縄文式時代の人口まで減っていいんだったら縄文式時代の暮らしができます。北海道のアイヌの人たちは、完全に自然と調和した暮らしをされていましたが、じゃあ北海道が何人のアイヌの人たちを養えたか?今の人口の北海道を絶対養えないんです。農業生産というのは飛躍的な生産力の向上です。農業生産以前の世界へ戻ったって、ほとんどの人が餓死します。だからディープ・エコロジーというのはナンセンスだと思う。もう1つはエコキャピタリズムと言うんですけど、太陽電池とかハイブリットカーとか、今の工業製品の延長上に、「自然にやさしい○○」というヤツ。あれが最も邪悪な勢力なんですけど、大きな問題に目を覆って目の前のちょっとした問題を解決したことで全部の問題が解決したかのように見せかけるまやかしをさかんにやっています。でも一番根本にある原理は、エコロジーの場合は一番根本にある原理は、熱力学第二法則で、第二法則って凄い簡単なんです。「動けばゴミが出る」んです。どんな動き方をしても出るんです。熱力学第二法則の素敵さは、いかなる動き方をしてもゴミが出るんです。電気で動こうがガスで動こうが石油で動こうが原子力で動こうがゴミが出るんですね。ゴミの量の多い少なくはあるけど、ゴミが出るんです。だから唯一の手は「動くのを止めること」だけなんです。いらない動きを全部止めろなんです。でも資本主義者たちはいらない動きを止められると困るんです。自転車操業ですから止めるとコケるんですよ、この社会が。だから何とか動かしながらエコロジーを謳いたい。自然にやさしいムニャムニャをしたい。だから世の中、“緑の何”とか、“自然の何”とかでいっぱいでしょう。嘘つきばっかりね。だから第三番目の道を探したいんです。スピリチュアル・エコロジー。1人1人が自覚して、1人1人の暮らし方を管理していくこと。みんなが「自然と調和した暮らし方が素敵だな」「自然と私とが別のもんじゃないんだ」ということをしっかり学ぶこと。で、大人になってからなかなか学ぶヒマがないから教育の中で徹底的にそれを教えていきたいんです。そのためにはまず教師たちがそのことを学びたいんです。そのためにはだいぶ時間がかかりそうです。今の子どもたちはもう間違った教育を受けてしまっているので、もうちょっとあとの時代の子どもたちにその教育を始めて、試行錯誤的に、何もかも僕らが知っているわけじゃないもん、やりながら補正していって、その子たちが大人になって、その大人たちが教師になって子どもたちを教えて、それが第二世代目で、その子どもたちが大人になって教えるころに、どうやら第三世代くらいで本格化するんじゃない?だから最低30年くらいかかりそうに思う。それぐらいの時間、何とかこれ以上の破壊をもたらさないように暮らさないといけないと思っています。いつも金儲けを企む人たちがいるじゃないですか。教育は教育産業というものがあるし、福祉は福祉産業、エコロジーはエコロジー産業というものがあって、「産業」というもの自体がまやかしなんですね。僕、経済というのが全然理解できないで暮らしていました。大学の教養で「経済学」を採りまして、大阪大学というのは珍しい大学で、マルクス経済学というのはないんです。全部、近代経済学で、日本でも珍しいんです。それで、サムエルソンという先生の経済学の本を使って1年間講義をワーッと聴いて試験は通ったくせにひと言もわかっていない、結果的に。なんかようわからんかったんですよ。需要が供給がどうちゃらこうちゃら言うてわからんなあと思って、大人になったら、桂枝雀さんが落語をやってまして、それは「花見酒」といって、2人の男がお花見に行くんです。お花見に行くのにただ行ったんではつまんないから、酒を持って行って、酒を売って儲けようやってお酒持って出かけるんです。途中で喉が渇いて、「おー、酒一杯くれ」「そりゃダメだよ。こりゃ売り物だから」「じゃあ金出すから」と言って百円出して一合飲むんです。「うまいなあ」って、そこで飲まれたらこっちも飲みたいじゃないですか。「俺も飲む」とさっきの百円を渡して一合飲むんです。「おー、うまい、もう一杯」とこっちの百円渡して一杯飲むんです。百円玉が行ったり来たりしているうちにお酒が減るでしょう。あとおしっこが出てゴミが増えるでしょう。だから一定量の貨幣が回転している間に資源が減ってゴミが増えるのが経済の基本構造だとわかったんです。だから儲かるとダメなんです。儲かると必ずゴミが増えるんです。動きがあるから。だから何かの産業というのを生んじゃうとダメですよ。ゴミ出さないで資源減らないで自然の中で僕たち人間の使って許されるものだけを使って暮らしたい。そうやると偽物が見破れるんです。そこで誰かが儲かっていると具合が悪いんです。「花見酒」です。
バルトーク
2001年06月05日(火)
昨日はマーラーの話をしたが、バルトークも同じころから聴いていた。高校1年生のとき、学校でチケットを安く売ってくれて、大阪フィルハーモニーのコンサートを聴きにいった。そのときの曲目は、バッハの『管弦楽組曲第三番』とバルトークの『ビオラ協奏曲』とベートーベンの『交響曲第六番』だった。しかし、妙なプログラムだね。真ん中にバルトークを入れるというところがすごいミスマッチ。3人ともBではじまるから洒落たのだろうか。
しかし、私はそのバルトークが気に入った。音楽ってこんな風に語れるんだって、生まれてはじめて体験して、ショックを受けてしまった。ところが、いっしょに行った友だちには、バルトークはきわめて不評で、「どうしてあんな曲をするの?」なんて言って怒っていた。しかし、好きなものは好きでどうしようもないので、バルトークを聴きこんでみることにした。
最初に買ったレコードは、ルドルフ・ゼルキンがピアノを弾いた『ピアノ協奏曲第一番』だった。オーケストラはセルのシカゴフィルじゃなかったかと思う。昭和30年代の後半の話だから、バルトークの曲のレコードを手に入れるのはきわめて困難だった。昭和20年に亡くなった作曲家で、当時はまだ「現代音楽」だったからね。それに、作曲者の著作権が生きていたので、演奏すると著作権料を支払わなければならず、敬遠されていたのだと思う。それでも、あれやこれや手に入れて聴いた。
そんな風にしてバルトークの音楽を聴き込んでいるうちに、『ビオラ協奏曲』は、彼としてはたいした曲ではないことがわかってきた。最高傑作は、『弦楽器・打楽器・チェレスタのための音楽』だと私は思う。しかし、これは、きわめて深刻な曲なので、あまりしばしば聴かない。「よく出来た曲」と「好きな曲」は違うんだ。しばしば聴くものということになると、3曲のピアノ協奏曲かな。なかでも、『ピアノ協奏曲第三番』は、古風でメロディアスでノスタルジックで、とてもとても美しい曲だから、誰でも好きになるんじゃないかと思う。
母と息子
2001年06月06日(水)
パートナーさんの息子(前の夫の子ども)は、学校を出て就職して、別に住んでいる。数日前、ふらっと帰ってきて、一泊してすぐに出て行った。いつもそんな風で、休日に予告もなく帰ってきて、また予告もなく出て行く。母親と祖母は、帰ってきたら大喜びであれこれ話しかけたりもするしご馳走もする。彼のほうは、喜ぶでもいやがるでもなく、淡々と彼女らとつきあって、帰る日の朝、愛想もなにもなくふらっと出て行く。
男の子が自立するというのは、母親なしで暮らせるようになるということだと思うのだが、母親のほうは息子なしで暮らす覚悟はできていないので、あれこれつきまとうことになる。もちろん親切でつきまとっているのだが、息子のほうは、無理やり努力してでも母親と距離をとらないと、いつまでも自立できない。そこできわめてそっけなくふるまうのだ。
私もそういう息子を長らくやってきたので、息子の側からこの事態がどう見えるかはよく知っているつもりだ。息子は、母親が愛情で動いているし、いささかの悪意もないことがわかっていて、それで余計に困るのだ。そこで、必要以上にそっけなくしてみたり、ときに腹を立ててみる。それしか母親を遠ざける方法がないと思うから。もっとも、意識的にそう思っているとはかぎらないが、すくなくとも精神の全体的な流れはそういうことだ。
しかし、母の側からどう見えるかは、自分が息子をやっているときにはよく見えなかった。こうして外から母と息子のやりとりを見ていると、はじめて自分の母親がこういう事態でどう考えどう感じたかがわかる気がする。母親が「私はよい母親だ」と感じることができたのは、子どもを援助できていたからだと思うのだが、援助する必要がなくなったとき、「私はよい母親だ」と感じることができなくなるんだね。
しかしまあ当事者ではないので、母親の心の動きを正確にたどれているかどうかは保証できないが。いずれにせよ、母親はひどくさびしがっている。しばらく話を聴いてあげなくては。
猫と飼い主
2001年06月07日(木)
猫は犬と違って飼い主に媚びないといわれている。パートナーさんは猫を二匹飼っているが、実際、パートナーさんと私が一緒に旅行に出たりして、数日ぶりに帰ってくると、なつかしがるでもなく、玄関あたりをそしらぬふりで通り過ぎていったりする。彼女は「これが犬だったら、ちぎれるぐらい尻尾を振って『おかえりなさい、どこへ行っていたんですか、さびしかったですよ』という感じで喜ぶのに、猫は本当に愛想がないわね」と言ったりする。猫たちは私を飼い主だとは認知していないので、私一人が帰ってきても知らぬふりをするのはもっともだが、明らかに飼い主と認知している彼女に対して、あまりにもそっけないと、私も思っていた。
ところが、私が家にいて彼女が外から帰ってくるときの様子をよく観察すると、彼女に関係する物音を敏感に聞き分けるようで(残念ながら、なにを手がかりにしているのかわからない)、二匹とも二階から玄関まで走って下りていって、その上で、あらためて知らないふりをするのだ。彼女は、猫が知らないふりをするまでのプロセスを知らないし、私が言わなければ一生知らないままだろう。
昨日は、息子が、自分が去った後、母親がどのようであるかを知らない話をした。5月10日の「『ない』の論理学(4)」にも同じようなことを書いた。どうも、最近そのことを気にして生きている。
私は攻撃的な人格で、しばしば人の気を悪くさせているらしい。だから、私のいないところで、私の悪口を言う人がきっといるに違いないと確信している。ただ、「無実の罪」だとはまったく思わないので、その点で精神病でないだけで、思考内容は妄想型分裂病(統合失調症)者の妄想と選ぶところがないかもしれない。ほんとうのところを知ることは決してできないのだと思うと、面白いものだと思う。私だけがそうなら、不当だから怒ることもできるが、すべての人がそうなのだから、笑うしかない。
私の悪口を言っていた人が、私があらわれた途端に知らないふりをするのは理解できるが、猫は、どうして知らないふりをするのだろう。およそ動物の行動は基本的には合目的的であると信じているので、そうする方がメリットがあるに違いないと思うのだが、そのメリットがなんなのだかよくわからない。
音楽家の文章
2001年06月01日(金)
柴田南雄『グスタフ・マーラー』(岩波新書)を読んでいる。音楽家が書いた文章が好きだ。朗読して美しいように書かれている。文を朗読するということは、小学生でもなければしないかもしれないけれど、黙読であってもリズムというものがある。同じ意味でもリズムのよい文章とリズムの悪い文章がある。音楽家は、それを、ほとんど本能的に知っているのかもしれない。
読みにくいほうの極端はいわゆる「現代思想文」で、朗読してもただの雑音でしかない。言語というものは、まずは話し言葉であり、それが高揚すると戯曲や詩になる。意味よりも前に音がある。音から伝わるものがあるのだ。
ここまで書いたら、例を引いておく必要があるだろう。なんとなく開けたページの一節を書いておく。どこを引用しても同じようなリズムだ。
さて、〔第七交響曲の〕二つの「夜の音楽」の中間にはさまれた第三楽章「スケルツォ」には「影のように」という思わせぶりな発想標語がついているが、これは不思議な音楽だ。全体はほとんど凡庸な楽想のみで、しかもすこぶる練達な職人的な技術で纏め上げた音楽という感じがするが、不思議な演奏効果を持っている。つまり、意外感に満ちた音色が時折オーケストラのあちこちから立ちのぼるのである。弱音器をつけたトランペット、右手を朝顔に深く挿入して得られる、鼻づまりのような音色を出すホルン、ヴァイオリンやヴィオラのソロ、木の撥で激しく叩かれるティンパニ、チェロとコントラバスのパートで、弦を指板に打ちつけるほどの強いピチカト。この最後のものは楽章の後半に出るが、フォルテの記号fを五つも重ねて、マーラーは効果を損なわぬように念を入れている。もっとも、この奏法は今ではバルトーク・ピチカトと呼ばれ、そのための記号さえ出来ていて、珍しいものではなくなっている。
呪:しゅ(2)
2001年06月02日(土)
パートナーさん(萩昌子さん)が小学校の同窓会に出た。昔の面影は何もなくて、みんな知らないおじさん・おばさんみたいだったと言った。
同じ人物であると、どうして思うのだろうか。脳の神経細胞や心臓の筋細胞を除いては、すべての細胞は入れ替わっているし、神経細胞や心筋細胞にしたところで、分子レベルでみれば別の分子に置き換わっている。死んだもの、たとえば、鉄道のレールを構成する鉄の分子は、最初に作られたときと変わらないままで最後まである。しかし、神経細胞や心筋細胞を構成している窒素分子は、最初のものとは違っている。遺伝子を鋳型にして、たえず同じ形に作り直されているので、同じ細胞のように見えるが、それはちょうど水の渦のようなものだ。渦は固定してそこにあるが、渦を構成している水の分子はたえず入れ替わっている。だから、物質的には、どこから見ても同じ人物ではない。
それなのに同じ人物だと思うのは、本人も周囲の人も同じ人物だと思っているからだ。ただ「同じ人物だ」という思い、「同じ人物だ」という言葉、だけが、その人が同じ人物であることの根拠だ。『陰陽師』風に言うと、「呪」だね。みんなが「同じ人物だ」と意味づけているので、なんの問題もなく同じ人物になりすましている。
『アドレリアン』の表紙
2001年06月03日(日)
今日、日本アドラー心理学会の役員会があって、10月に予定されている総会で物故者に対する黙祷の時間を作ろうという話になった。私が、頼藤和寛君は現会員ではなかったが、設立当初の会員であったし、第1回の総会で特別講演をしてもらったし、学会機関紙『アドレリアン』の表紙をデザインしてくれたので、功績があったから黙祷してもらえないかと提案した。
表紙について言ったところで、役員たちから一斉に「ええっ!」と声があがった。ほとんど誰も、表紙を彼がデザインしたことを知らなかったのだ。そうなんだな。考えてみると、30人ほどいる役員のうちで、設立時のことを知っている人は、私の他に一人だけしかいない。時は流れてしまったんだ。
表紙以外にも、彼には、あれこれデザインを頼んだことがある。高校生のころ、私はアマチュア無線をしていた。そのときのQSLカード(交信するとその証拠に交換するハガキ大のカード)も彼に作ってもらった。コーヒーかなにかをおごって、それでお礼にしたような気もするが、なにもしていない気もする。子ども時代だから、まあそんなものだ。
『アドレリアン』の表紙は、今後とも変わらないのではないかと思う。彼が作ったものが意外な場所で生き続けるんだ。やがて彼が表紙を作ったことを知らない人が大多数になる日がくる。そのころ誰かが、「これは頼藤和寛という人が作ったんだよ」と言い、「へえ、そうなのか、あの人がね」と、また人々が感心する。想像すると楽しい。
マーラー
2001年06月04日(月)
柴田南雄『グスタフ・マーラー』(岩波新書)は読み終わった。こんな本を読んでいると、やはりマーラーが聴きたくなる。『第二交響曲』を聴いて、とても満足している。
マーラーのレコードをはじめて買ったのは、中学3年生か高校1年生のときで、『大地の歌』だ。オイゲン・ヨッフムがアムステルダム・コンセルトヘボウを振っていて、テナーがたぶんヘフリガーだったと思う。アルトは誰か忘れた。自分でレコード屋へ行って買った。マーラーを聴いたことは、それまでなかったと思う。それなのになぜ買ったのかよくわからないが、ものすごく気に入って、何度も何度も聴いた。ずいぶんマセたガキだったんだ。
高校へ入ると、いわゆる「角笛セット」の、第二~第四交響曲が好きになった。高校の音楽室にとてもいいオーディオセットがあって、それを自由に使わせてくれたので、クラシック好きの友だちがレコードを持ち寄って聴かせあったりしたのだが、マーラーはいつも不評だった。バルトークはもっと不評だったけれどね。ともあれ、そういう友だちグループがあったので、ベートーベンやブラームスはレコードを買わなくてもいつでも聴けた。それで、自宅にあるレコードは、マーラーだのバルトークだのストラビンスキーばかりになった。
大学へ入ってからは、ルネサンスの合唱曲に入れ込んだりバッハにかぶれたりしたので、マーラーはあまり聴かなくなった。それでも、頼藤和寛が私の家へ来て、『第三交響曲』の中のツァラトゥストゥラの「真夜中の歌」を聴いていっぺんに好きになった場面を覚えているから、聴かないことはなかった。
今も、まあそんなものだ。とても疲れていたりすると、第九交響曲をかけながら眠ったりする。あの曲は、私には深い癒しの効果がある。ときどき無意識に『子どもの死の歌』や『子どもの不思議な角笛』の一節を口ずさんでいることもある。一生こんなことなんだろうな。
それに、マーラーを聴いていると、アドラーが生きていた時代のウィーンのことを想う。マーラーが亡くなったとき、アドラーは41歳だった。彼は音楽が大好きだったし、当時の現代音楽を理解していたようだから、マーラーの交響曲の初演には行ったんじゃないかなと思って聴いたりする。これだけで、ちょっと感動するんだ。
インドネシア語
2001年05月29日(火)
日本映画を見るついでに、今日は『ムルデカ』を見てきた。日本の軍人がインドネシア独立戦争を手伝う話だ。昨日の『ホタル』ほど監督が耽美的になって作っている映画ではないので、言うことはあまりない。どうしてあるのかわからない挿話があったり、展開がやたらまったりしていたり、という短所は同じだ。しかも、泣きたいほど美しい画面作りはない。ただ、面白かったことが1つある。それは、前半、日本が負けるまでは主に日本語でしゃべるのだが、後半、日本が負けてからは、日本人の俳優も皆インドネシア語でしゃべることだ。
インドネシア語は、もともとインドネシア諸島の人々がしゃべっていた言葉ではなく、マレーの海洋商人がしゃべっていた言葉が、一種の国際語となってあの領域一円に広まったものだ。国際語になるだけあって、発音も文法もきわめて単純だ。動詞の時制変化もないし名詞の格変化・数変化もない。"Saya makan kue." というと、「私は菓子を食べる」という意味なのだが、すでに食べたのかもしれないし、いま食べている最中かもしれないし、これから食べるのかもしれないし、食べるか食べないかというと食べる種類だということかもしれない。菓子も、単数なのだか複数なのだかわからない。ものの1か月も学べば、何とか目鼻のつく言語だ。音も、ちょっとイタリア語風で、いかにも南国的で美しい。
この言語を中学校の選択科目にしてはどうかと前から思っている。基本的な語順がヨーロッパ語式で、「主語+動詞+目的語」だし、前置詞もあるし関係代名詞もある。だから、英語やドイツ語やフランス語を学ぶ準備になる。それに、古い時代にはサンスクリット、次にアラビア語、次にオランダ語、最近は英語と、さまざまの文明からの外来語があって、アジアの歴史がわかる。さらに、アジアの人々の日々の暮らしや考え方がわかる。
英語や中国語を学ばせるのは、言語帝国主義に手を貸しているだけだ。かといって、エスペラントにはさまざまの問題がある。インドネシア語のような、いわゆる「大国」ではない国の言語で、しかも学びやすくて、しかもヨーロッパ諸言語を学ぶ基礎となる言語があるのに、これを放っておく手はないように思うのだが。
映画と議論
2001年05月30日(水)
いつも行く古本屋で竹山道雄『ビルマの竪琴』(偕成社文庫)を200円で手に入れた。子ども向きの読み物なので、一気に読めてしまった。何度か映画化されていて、そのうちのいくつかを見ているが、本で読むと印象が違う部分があった。どの映画も、ストーリーは忠実にたどっていたのだが、何度か長々と語られる著者の主張は、映画の中でも兵士たちの議論としては撮られていたのかもしれないが、印象がきわめて薄い。例えば次のようなものだ。
ビルマは宗教国です。男は若いころにかならず一度は僧侶になって修行します。ですから、われわれくらいの年輩の坊さんがたくさんいました。
何という違いでしょう!われらの国では若い人はみんな軍服を着たのに、ビルマでは袈裟をつけるのです。
われわれは収容所にいて、よくこのことを議論したものでした。──一生に一度必ず軍服をつけるのと、袈裟を着るのと、どちらのほうがいいのか?どちらが進んでいるのか?国民として、人間として、どちらが上なのか?
これは実に奇妙な話でした。議論していくと、いつも、しまいには何だかわけがわからなくなってしまうのでした。
まず、この両者の違いいは次のようなことだと思われました。──若いいころに軍服を着て暮らすような国では、その国民はよく働いて能率が上がる人間になるでしょう。働くためにはこちらでなくてはだダメです。袈裟は静かにお祈りをして暮らしているためのもので、これでは戦争はもとより、すべて勢いよく仕事をすることはできません。若いころに袈裟を着て暮らせば、その人は自然とも人間とも溶け合って生きるような穏やかな心となり、いかなる障害をも自分の力で切り開いて戦っていこうという気はなくなるでしょう。
(中略)
われわれがだんだん議論をしていくと、一生に一度軍服を着る義務と袈裟を着る義務とでは、その因ってきたるところは、結局はこういうところにあるのだ、ということになりました。つまり、人間の生きていき方が違うのだ、ということになりました。一方は、人間がどこまでも自力を頼んで、すべてを支配していこうとするのです。一方は、人間が我を捨てて、人間以上の広い深い天地の中に溶け込もうとするのです。
ところで、このような心がまえ、このような態度、世界と人生に対するこのような生き方はどちらのほうがいいのでしょう?どちらが進んでいるのでしょう?国民として、人間として、どちらが上なのでしょう?
(中略)
軍服と袈裟の議論はいつもこんな話になってしまって、どちらがいいのか、はっきりとは決めかねました。しかし、最後にはたいてい次のようなことに落ち着きました。
──ビルマ人は生活のすみずみまで深い教えに従っていて、これを未開だなどと言うことはとうていできない。われわれの知っていることを彼らが知らないからとて、バカにしたら大間違いだ。彼らはわれわれの思いも及ばない立派なものを身につけている。しかしただ、これでは弱々しくて、例えばわれわれのようなものが外から攻めこんできたときに自分を防ぐことはできないから、浮き世のことでは損な立場にある。もう少しは浮き世のことも考えなくてはいけないだろう。この世をただ無意義だと決めてしまうのではなく、もっと生きていることを大切にしなくてはいけないだろう。
途中省略したが、この議論だけで7ページもとっている。映画でどうだったか、さっぱり覚えていない。本というメディアと映画というメディアの違いで、こういう議論に説得力をもたせるのは、映画は不得意なのだ。
もう1つ別の小説の映像化で、同じようなことを最近感じた。それは夢枕獏の『陰陽師』だ。これはテレビドラマで、NHKでやっているのだが、小説の印象とひどく違っている。ドラマ化の過程で原作をかなり改悪してしまっているが、これは今は責めないことにしよう。主役の安倍清明を演じる稲垣吾郎は、ちょっと暗すぎる気もするが、それなりにいい感じを出している。相手役の杉本哲太演じる源博雅が、小説の感じと違う。そのことも関係するのか、二人の議論がよくない。小説の感じは、今だと大学院生くらいの年齢の男の子が議論しているような、やたらに知的で理屈っぽくて、しかも中途半端で、それがなかなかの味なのだが、ドラマではそういう感じはまったくなくて、なぜこんなところで二人がそんな話をしているのか、小説を読んでいない人にはさっぱりわからないと思う。小説では、「呪(しゅ)」というものを通じて一種の言語論が展開されていて、これが構成主義風でけっこう面白いのだが、映像ではそういうことを描くことはできないんだね。
呪
2001年05月31日(木)
夢枕獏『陰陽師』の中に出てくる「呪(しゅ)」の話をしたが、それと関係した面白い一節があった。
清明は、顔を赤くしている博雅を、やさしい眼で眺め、
「人は、仏にはなれぬ……」
ほろりと言った。
「なれぬのか」
「ああ、なれぬ」
「えらい坊主でも無理なのか」
「うむ」
「どのように修行をつんだとしてもか」
「そうだ」
清明の言葉を、腹深く呑み込むようにして沈黙してから、
「それはそれで、哀しい話ではないか、清明よ」
「博雅よ、人は仏になるというのは、幻(まやかし)よ。仏教も、あれだけ、この天地の理(ことわり)について、理づめの考え方をもっていながら、その一点において何故と、おれは長い間不思議であった。しかし、この頃になってようやくわかってきたのだが、その幻によって、仏の教えは支えられており、その幻にとって、人は救われるのさ」
「--」
「人の本性を仏と呼ぶは、あれは一種の呪(しゅ)よ。生きとし生けるもの皆仏とは、ひとつの呪なのだ。もし、人が仏になることがあるとするなら、その呪によって、人は仏になるのだ」
「ふうん」
(夢枕獏『陰陽師・飛天の巻』(文春文庫)pp.56-57)
夢枕氏はご存じないのかもしれないが、仏教はこのとおりに考えている。本質的には、迷いもなく悟りもないのだが、人間が言葉でもって、あるいは迷っていると思い、あるいは悟っていると思う。たとえば、『金剛般若経』にある、
私は一切の衆生を悟りの境地に導きいれなければならない。そうして一切の衆生を悟りの境地に導きいれおわっても、しかもひとりの衆生も悟りの境地に導きいれていない。
という謎めいた言い方は、そういう意味だと思う。客観の世界ではなにも変わっていない。ただ、自分を含めた客観世界への意味づけが変わるだけなのだ。「迷っている」と意味づけて自分と世界を見ていると、自分と世界は実際に迷いの中にあるし、「悟っている」と意味づけて自分と世界と見ていると、自分も世界も悟りの中にある。しかも、変わったのは言葉だけで、実体としての自分と世界はなにも変わっていない。なにも変わっていないが、自分と世界とのかかわりが変わるので、なにもかもが変わる。しかも変わったのは、意味づけだけだ。
英語の冠詞
2001年05月26日(土)
ときどき英語の文を書かなければならなくなるが、そのとき一番困るのが冠詞で、次が前置詞だ。前置詞のほうは、辞書を丁寧に引けば、何とかならないことはないが、冠詞のほうは、辞書ではわからないことが多い。
最近、正保富三『英語の冠詞がわかる本』(研究社)を入手して、少しずつ読んでいる。これは実に良い本だ。冠詞の使い方の原理がわかりかけてきた気がする。身につくには、まだだいぶ練習がいりそうだが。
This is the book that I bought yesterday.
This is a book that I bought yesterday.
の違いとか、
The biggest problem was shortage of skilled workers.
The biggest problem was the shortage of skilled workers.
の違いとか、
He's been captain for three years now.
He's been a captain for three years now.
He's been the captain for three years now.
の違いとかを、とても論理的に、かつ統一した1つの法則で説明してある。これはすごい。
実は、正保先生は個人的な知り合いだ。昔、ニフティの「外国語フォーラム」で知り合った。当時は大阪外国語大学の教授をされていたが、今は龍谷大学の教授をされているようだ。
知り合いだから薦めるのではない。英語を使わなければならない人は、ぜひ読んでほしい一冊だ。
外国語の意味
2001年05月27日(日)
アドラーの著作の古い英訳で soulと訳されているのは、もともとのドイツ語は Seele で、これはほんとうは mind と訳すのがいい。アドラーが Seele という言葉を使ったのは、単に「心」という意味でだが、英語の soul は「魂」で、宗教的な響きがある。ところで、mind という単語には対応するドイツ語がないというようなことを、フロイト派のマイケル・バリントがある本の中に書いていて、へぇ~と思ったことがある。このことと、Seele が soul と訳されたこととの間には、つながりがありそうだ。きっと、ドイツ人が英訳したんだ。英語にはもう1つ spirit という「魂」をあらわす言葉があって、これはドイツ語の Geist に対応している。さすがに翻訳者もこの単語は使わなかった。
こんな話をしていたら、オーストラリア人の友人が、「soul と spirit はどう違うんだろうね」と言った。キリスト教の三位一体の聖霊 holy spirit のように、何だか外から憑りついてくる「魂」が spirit で、soul は、神が動物である体につけくわえてくれた、人間独特の精神機能じゃないかと私が言うと、彼女は何だか納得していた。
昔、この反対の経験がある。ベルギー人のカトリックの神父が、「聖書に『讒言(ざんげん)する』と書いてありますが、どういう意味かわかりますか?」というので、「『そしる』ということじゃないですか?」と答えた。彼は、「そうではありません。『そしる』は、悪く言われる事実があるときに悪く言われることで、『讒言する』は、悪く言われる事実がないのに悪く言われることです」と言った。なるほどなと思った。
こまかい言葉のニュアンスの違いは、外国人のほうがかえって敏感なのかもしれない。ちなみに、旺文社英和中辞典には、soul は「body に生命を与え、宗教的には死後も存在すると考えられる霊魂」であり、spirit は「soul と同義だが特に肉体的・物質的な存在と相反するという暗示の強い語」であると書いてある。
ホタル
2001年05月28日(月)
高倉健と田中裕子が主演の『ホタル』という映画を見てきた。特攻隊の生き残りの人々の物語だ。こういうメジャーな映画は滅多に見ないのだが、死んだ父が、特攻隊ではないが、やはり戦争の生き残りで、「本当は昭和20年になかった命だ」とよく言っていて、そういう世代の心理がどう描かれているのか見たくて行った。
日本映画を見るといつも感じるのだが、とにかくテンポが遅い。その割に、重要な細部の書き込みが暗示的に曖昧で、観客の想像力に委ねられすぎる。また、なぜこういう挿話が必要なのか、全体の中の位置づけのわからない回り道がある(これは、意味がわからない私が鈍いだけかもしれない)。
一方で、画の作り方がうまい。この映画でも、鹿児島の風景が限りなくノスタルジックに描かれていて、見ているだけで感動的だった。入港する漁船のまわりに鳥山が立っているところなど、ぞっとするほどきれいだったな。人間の撮り方は、水準ではあるが、ずば抜けていると言うほどではない。
こうして、映画を見ると、まず全体の作り方を見てしまうのだが、これって変わっているかもしれない。クラシック音楽の聴き方と同じだなと思う。全体の構成だとか、楽器の音色の配置だとかにまず注意がいって、節回しはそれよりあとなんだ。
で、節回し、つまりストーリーだが、これはきわめて平明なので、誰が見てもわかる。話の軸は、特攻隊のことよりも、初老の夫婦の夫婦愛で、これは若い人にはピンとこないかもしれない。私はとても感動してしまったが、もうオジイだからだな。観客も、50代・60代の人が圧倒的に多かった。