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成績の良い者にボーナスを多く出すのは?

Q
 会社でボーナスの配分で成績のいい者は多く出し、悪い者は少ない。アドラーを取り入れるとどうなりますか?

A
 うちもそうしています。責任に応じて権利があるから。たくさん働いた人はたくさん配分を受ける権利があるだろうと思う。ただ、競争主義と成績が良かったり悪かったりするのをはっきり区別して考えたい。学校の成績だと、C4Rスクール(コーシーニ4Rスクール=アドラー学校)の成績は本人しか知らない。生徒本人にはフィードバックするが、他の子たちは他の子の成績を知らない。全体の席次も公開されない。クラスの中のどのへんにいるかもわからない。平均点も出ない。偏差値も出ない。わかるのは、要するにどこを間違えたかだけ。相対評価には一切何の価値がないと思うから。自分が何を理解していて何を理解していないかが問題だから。平均値も順位も出さない。そういう意味では個人の努力が報われるのはいいことだと思う。それはそういうふうにしておこうと思う。それを勝ったとか負けたとかに結びつけるのは間違いです。(野田俊作)

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猫の死

猫の死
2002年12月04日(水)

 パートナーさんの飼い猫のシャクティが、今朝午前2時に死んだ。血統書つきのアビシニアンだ。10歳だったから、まだ老猫というほどの年ではない。
 夏ごろからなんとなく食欲がなかった。やがて体重が減り始めたので、獣医さんと相談したら、慢性膵炎だと言う。猫には慢性膵炎が多いのだそうだ。副腎皮質ホルモン剤を使いながら、高カロリーの餌に変えたが、薬の効果はあまりなくて、それほど食べない。体重は減り続け、数週間前から自力ではほとんど食べなくなった。そこで、獣医さん指導のもと、パートナーさんが注射器で強制給餌していた。それでも体重は減る一方だった。私は猫の病気はわからないが、どうも慢性膵炎じゃなくて、癌じゃないかと思った。猫に悪性腫瘍があるのかどうか知らないけれど、症状は人間の末期癌に似ている。
 強制給餌するためには、パートナーさんは外泊することができない。シャクティはとても気の強い猫で、パートナーさん以外の人にはそれほどなついていない。私などが触ろうとすると、恐い顔をしてハーッと息を出して脅す。それでも餌をねだったりはするのだが。子どもたちは私よりはもうちょっと許してもらっているみたいで、抱くことくらいはできるが、とても注射器で餌をやったりはできない。「こうして餌をあげていると、いつかよくなって、自分で食べるようになるんだろうか」と私が言うと、彼女も「どうなんだろうねえ」と言っていた。日に日に衰えていくシャクティを見て、二人とも、そう長くはないなと思ったのだけれど、口には出さなかった。猫は人間の言葉がちゃんとわかるみたいだし。
 数日前、病状が改まって、水を入れた容器の前に座って飲もうとするが、吐き気がするのか、口をつけなくなった。食事を与えても嘔吐するようになったし、吐物の中に血液が混じっているようなので、獣医さんに連れて行って血液検査をすると、腎不全だと言われた。尿毒症だと思って最近の症状を見ると、かなり納得できる。癌の末期に尿毒症になるのはよくあることだ。月曜日に獣医さんに行って、その晩は泊まり、火曜日に帰ってきた。行ったときはまだ歩いていたが、帰ってきたときは寝たきりだった。点滴をしていたが、もうあまり意味がないと私は思った。ときどき痙攣する。眼は開いているが、意識があるのかどうかよくわからない。「痙攣がひどくなったら安定剤を注射してください」と、注射器をもらってきていた。たぶんバルビタール剤だろう。動物の安楽死に使う薬だ。
 人間だったら、意味がなくても最後まで治療する。しかし、動物は、ある時点で安楽死させてあげるほうがいいのではないかと、私は思う。回復の見込みがあるかどうはかは、医者にはかなり高い確率でわかる。それでも100%じゃないので、人間の場合は安楽死というわけにはいかない。しかし、動物だったら、ごくわずかの「ハズレ」があっても許されるんじゃないか。もっとも、パートナーさんに安楽死薬を注射させるのはむごいので、私がしようと思う。殺生はやはり殺生だからね。むかし研究室時代に、たくさんのマウスやラットを安楽死させたので、ここで猫1匹分カルマが増えてもかまわないだろう。
 12時ごろまで看病していたが、私は先に寝た。午前2時、パートナーさんが来て、「シャクティの息が止まったみたい」と言う。起きだして、懐中電灯で瞳孔を見ると、完全に散大している。頚動脈も触れない。安楽死の必要はなく、苦しまないで自然死した。
 死亡確認をして、点滴をはずし、枕経を読むことにした。医者も坊主も一人でするわけだ。本物の坊さんが臨終のときになにを読経するのか知らないが、正法眼蔵『道心』と『生死』を読んだ。両方とも、臨終のときに読むのにふさわしい内容だ。ただ、残念なことに、人間用に書いてある。道元禅師は人間の菩薩だったので、人間の言葉で人間用に書いた。猫の菩薩がいらっしゃれば、猫用の経典があるのにな。『地蔵菩薩本願経』かなにかに、地蔵菩薩は六道を輪廻して出会う衆生を済度すると書いてあったので、猫にも転生するかもしれない。そんなことをなんとなく考えながら読経した。子どもたちも起きてきて、みんなで通夜をした。
 きれいな箱に入れて、花を買ってきて入れ、好きだった鰹節とチーズを入れ、シャクティがこの家に来たときからのお気に入りの猫ジャラシも入れた。パートナーさんはかなり落ち込んでいる。

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アドラーと弟子のドライカースの違い

Q
 アドラーと弟子のドライカースのやり方の違いはありますか?

A
 たくさんあるので説明しにくい。ややこしいね。アドラーがある仕事をやって、それをドライカースがやって、またそのお弟子さんがやって、現在の時点からどれを誰が始めたか、どの時点では何があったか、それは、相当しっかり文献研究しないとわからない。
 こういうことは苦手なのでパス。どれがどれかようわからん。だいたいアドラー心理学とドライカース心理学は違う心理学じゃないかと言う人もある。違いはたくさんある。まあ、両方の“ええとこ取り”をやっている。(野田俊作)

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役に立たない学問を    野田俊作

役に立たない学問を
2002年12月01日(日)

 このごろ学校の先生方と話をする機会が多くて、そこで感じたことなのだが、「実社会に出て役に立つ学問」と「知的な興味をかきたてて面白い学問」とが、なんとなく中途半端に混合して教えられていて、それが子どもを混乱させているのではないかと思うのだ。まあ、教育についてはまったくの素人が言うことなのだから、見当はずれの批判なのかもしれないが。
 たとえばブザーのことを考えてみる。電磁石の側に弾性のある鉄片を置いて、同時にそれをスイッチにしておく。電磁石に電流を流すと、鉄片を引きつける。そうするとスイッチが切れる。その結果、鉄片は電磁石から離れる。離れるとスイッチが入る。鉄片はまた電磁石に引きつけられ、スイッチが切れる。以下、同様の繰り返しで、鉄片は振動を続ける。これが空気に伝わって音に変わる。面白い現象だが、じゃあ、実社会で役立つか。ブザーを自作する人はいないんじゃないか。しかし、「自作しないにしても、ブザーはあちこちにあるので、その原理がわかっているのはいいことだ」とおっしゃるかもしれない。どっこい、そうはいかない。最近のブザーはこの原理では動いていない。中にICが入っていて、それが振動を作り出している。
 言いたいのは、ある時代(1960年代かな)から、日常出会う技術が、初等中等教育のレベルでは理解できないものになったということだ。私は小学校のころカマボコ板の上にエナメル線を巻いた五寸釘とブリキ板を使ってブザーも自作したし、鉱石ラジオも自作した。中学に入ったら当時1V1(高周波増幅1段+検波+低周波増幅1段)と呼ばれる真空管式短波ラジオも自作したし、高校に入ったら高1中2(高周波増幅1段+中間周波増幅2段)と呼ばれるスーパーヘテロダイン短波ラジオも自作した。ここらあたりまでは、ただ作れるだけじゃなくて、高校生にも原理が完全に理解できた。
 そのころFM放送が始まり、ちょっと高校生の手に負えなくなった。テレビも、もちろん手に負えない。FM受信機だってテレビだって、作るだけなら作れたけれど、原理の細かいところが理解できない。今の技術はもっと理解できない。CDがどういう原理で音を録音していて、それがどういう原理で再生されるかわかりますか?デジタル放送ってどういうことになっているかわかりますか?すくなくとも中学生や高校生の手には負えそうにない。結局、人々は、機械の中はブラックボックスだということにしておいて、ただ操作の方法だけを覚える。昔だって、科学技術に関心のない人々はそうだっただろう。でも、今は、日常生活で普通に使われる技術でさえ、科学技術に関心のある子どもたちでも理解できないほど複雑化した。
 だから、もう「実社会で役に立つ」は、あまりこだわらなくてもいいんじゃないか。それよりも、「知的な関心を引く」に徹したほうがいいのではないか。そう割り切ると、数学なんて、「ある数を2乗して、同じ数を2倍したものを引いて、それに1を足したら0になる、その数はな~んだ」ということにすぎないから、ただのクイズないしパズルだ。こういうクイズが好きな子どももいるだろうし、関心がない子どももいるだろう。関心がない子どもに無理に学ばせることもないだろう。どのみち、実社会に出て役に立つものじゃないんだから。だから、ある領域に関心を持てない子は、その領域の学習を早い時期に免除したほうがいいのではないか。数学であれ古文であれ化学であれ、実社会に出て役に立つものじゃないんだ。けれど、ある子どもたちにとってはとても面白いのだ。面白いものはたくさん学んでもらい、面白くないものは免除する。それでは、やはり具合が悪いんだろうね。なんだか難しい議論があって。



24時間心電図
2002年12月02日(月)

 病院へ行って、24時間心電図の装置を装着された。胸に電極をテープで固定して、装置は腰にベルトでとめておく。装置の大きさは、むかしのウォークマンくらいで、あまり邪魔にならない。しかし、テープを貼ってある部分がとても気になる。
 カードを渡されて、時間と行動を記録しておくように言われる。いちいち書いていたのでは面倒なので、ICレコーダに吹き込んで、後でまとめて書くことにする。病院を出てすぐに「○時○分、病院を出て歩きはじめる」と言う。駅に着くと、「○時○分、駅について立ち止まる」と言う。人が大勢いるが、そういうのを気にしないほどオジサンになってしまった。
 夜、お酒を飲もうかどうか考える。晩酌、つまり夕食と一緒に飲酒すること、はしないことが多く、夜の10時すぎから寝酒のようにして飲むことが多い。お酒を飲むと不整脈は確実に悪くなるので、最近は外では飲まないことにしているし、家でも飲まないこともある。しかし、飲むこともあるのだから、検査中も飲んでおいた方が実態に近いと思い、ワイン180mlを飲むことにした。このごろはだいたいこれくらいの量だ。島根県の友人に「葡萄神話」という島根県産のワインをいただいたので、それを飲む。このワインは、国産にしてはとてもよくできている。
 いつもはその後で入浴する。一家の事情で、早めに入浴してからお酒を、というのは不可能なので、就寝直前に入浴する。しかし、今日は入浴は禁止だ。ちょっと物足りない。



負荷心電図
2002年12月03日(火)

 昨日装着した24時間心電計をはずしてもらいに病院へ行ったついでに、心臓のエコー検査と負荷心電図の検査を受けた。
 エコー検査は横になって、かわいいお姉さんの検査技師さんに胸をまさぐられていればいいだけなので、なんということはなかった。30分以上もかかって心臓の動きを見てくださった。隣の部屋では胃カメラをしているみたいで、「喉に麻酔をしますから」だの「つばを飲み込むと肺に入りますから」だのと恐い注意をする声が聞こえる。しかし、こちらは楽なもので、途中でちょっと眠ってしまったかもしれない。
 負荷心電図は、むかしは階段の昇降をしたのだが、最近は自転車こぎをさせられる。検査技師さんとお医者さんと、男性二人でお世話をしてくださる。自転車の上に座らされ、胸一面に電極を装着される。まず使用前の心電図。「だいたい3回に1回は期外収縮です」と技師さん。「ほう、ずいぶん出ていますね」とお医者さん。どうりで、昨日と今日は調子が悪いと思ったよ。「じゃあ、はじめてください。脚がだるくなったり胸が苦しくなったら言ってくださいね」と言われて、ペダルをこぎはじめる。一定速度以上を保つように言われてこぎだしたが、ペダルは軽くて、なんということはない。
 ところが数分すると、なんだかすこし重くなってきた。疲れたのかなと思っていたのだが、しばらくするともっと重くなる。「ペダルを重くしているんですか?」と聞くと、「もっと重くしますからね」とお医者さんがおっしゃる。これは大変だ。なかなかの重労働だぜ。検査技師さんが1分間の不整脈の数を報告する。運動が激しくなると不整脈はかえって減るみたいだ。「苦しくありませんか?」とお医者さん。「だいじょうぶですよ」。「元気ですね」。元気じゃないよ、だから病院へ来ているんじゃないか。
 10分あまりペダルをこいだが、最後は汗まみれになった。「足はだるくないですか?」と検査技師さん。「だいじょうぶです」。「しかし、ここまでヘバらない人はめずらしいね」とお医者さん。なんだって、じゃあスペシャル・サービスで、他の患者さんよりたくさん働かせたの?「なにか運動していますか」と検査技師さん。「登山をしています」。「ああ、道理でね。終わってから、脈拍数もすぐに元に戻ったし。いいですね」。よかないよ、こんなに不整脈があるのに。
 最終的な検査結果は、来週の診察のときに教えてもらえる。私は循環器内科は素人同然だけれど、負荷心電図を見ていると、どう見ても死なないタイプの不整脈だ。心臓そのものは丈夫だと思う。しかし、自覚症状はかなり苦しいんだよ。ニコニコ暮らしているけれどね。

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「論理的結末」とアドラー心理学

Q
 「論理的結末」とアドラー心理学のカウンセリングはどのように関係しているのですか。また、「社会的結末」とはどのように違うのですか?

A
 アドラー心理学のカウンセリングは論理的結末なんですよ。
 カウンセリングの構造を荒っぽく言うと、クライエントが「選択できる可能性」をはっきりさせること。例えば、「うちの子どもが登校拒否になりました」と言ってお母さんが来る。このお母さんが選択できるのは何か。「子どもを学校へやる」という選択はない。なぜなら、子どもが学校へ行くか行かないかは子どもが選ぶから。母親の選べることじゃないから。母親は、「不幸な登校拒否児の母か、幸福な登校拒否児の母か」が選べる。子どもが学校へ行かないという条件は一定で、お母さんが幸せでいるか不幸でいるか。登校拒否のことで喧嘩するか仲良くするかは選べる。現実的に。だから最初の話題は、現実的に選択可能な枝(わざ)は何かはっきりさせたい。
 次に、必要があれば、ある枝(わざ)を選んだ結果今後どうなっていくかの予測もはっきりさせたい。不幸なお母さんをやって悩み続けると、そうするとやがて子どもは元気なるかそれともずっと元気でないか。どっちの可能性が高いか。子どもが登校拒否しているのを悩まないでニコニコとしていると元気になっていく可能性が高いか、不幸でいる可能性が高いか。たぶん、ニコニコとしていうほうが子どもが元気になっていく可能性は高い。あるいは、「学校へ行ったほうがいいんじゃない」と言って喧嘩をするのと、学校のことなんか忘れて仲良くするのと、どっちが将来問題としていいことが起こってくるか。将来の予測をすることもある。
 もうちょっと突っ込んで、お母さんが根性悪ババアである場合は、行動の目的を考えることがある。不幸である原因は子どもが登校拒否しているからでしょう。原因はどうでもいい。目的は子どもを罰することです。「あなたが私をこんなに不幸にしているのよ。いいかげん反省して学校行ったら!」と、子どもに圧力をかける。だから、お母さんが不幸でいる限り、親子関係は支配的で縦関係です。お母さんが勇気を持って不幸でいることをやめない限り、いい親子関係が築けない…という話をする。
 こういう話をして、「さて、あなたはどっちを選びますか?」と言う。そうするとこれは論理的結末を使ったことになる。
 アドラーのカウンセリングは、お客さんの話をよくよく聞かせていただくけど、聞いたら治るというものではない。お客さんの気持ちに深く共感するけど、したら治るというものでもない。どうやったら治るか、実際に現実的に選択できる可能性をはっきりさせて、その中で一番建設的なのをその人の力で選ぶことです。
 でも、中には、どうしても建設的な可能性を選びたくない人もいる。「なるほどわかった。子どもと仲良くすれば学校へ行くかもしれない。でも悔しくて選べない。どうしてもあの子を罰し続けたい」。オッケー。それを選ぶんだったら、自分の責任で選ぶんだったら、カウンセリングはそこで終わり。僕たちが援助できないから。「親子ともども地獄へ堕ちなさい。これも前世の業(ごう)でありましょう。気が変わったらまたおいでなさい」と言って帰すと、だいたい気が変わります。2,3週間したら。

 社会的結末とどう違うか。アドラー自身が書いていることがある。
 「共同生活の諸要求は例えば人間に及ぼす天候の影響がもたらす諸要求や、防寒や住宅建設の諸要求などととまったく同様に自明なものである。われわれは共同社会への強制を宗教の中にも見る。たとえそれがいまだに理解し難い形式を取っているにしてもである。宗教においては、理解できる形式の代わりに社会の諸形式を神聖化することが共同社会への結合手段として役立てられている。生活の諸条件は前者、天候の場合には宇宙的自然的に規定されているとすれば、後者の場合は社会的に規定されている。つまり人間たちの共同生活によって、またそこからおのずと生じてくる諸規定、合法則性によって規定されているのである。共同生活の諸要求はすでに自明なもの、絶対的真理として成立していた人間の諸関係を維持してきた。というのは、人間個々人の生活以前に共同社会があったからである。人間の文化の歴史の中で社会的なものとして営まれなかったような生活形態は一つも存在しない。人間は共同社会の中以外のどこにも出現しなかった。こうした現象は容易に説明できる……」
 アドラーは、環境を自然的な環境と社会的な環境の2つに分けて考えた。それ以外の環境はない。自然の法則で起こってくるのは自然の結末。例えば、裸になって走っていたら風邪を引くのは自然の結末。道を裸で走っていたらお巡りさんに捕まったというのは自然の結末でない。物理的な力じゃないから。これは社会的結末です。
 アドラーは宗教について書いていたが、不合理な約束も社会的結末の場合にある。物理法則には合理も不合理もない。1個しかないから。社会的な結末はときどき不合理です。日本では宗教が不合理なことをするのはあんまりない。一番不合理なのは学校の校則です。ちょっと古い時代の価値観を反映していたりする。
 不合理な社会的結末に対して態度決定しておかないといけない。態度決定はアドレリアンによって考え方が違う。私は「悪法もまた法なり」派。ルールがある限りはそのルールは守られるべきだと思う。それとは別に「ルールの改正運動をしてください」と言う派がある。「守らなくてもいい」派の人もいる。議論のテーマにはなるけど。

 論理的結末というのは、その両方についての話し合いのことです。具体的に自然法則とか社会の規則の中でわれわれは何を選べるか、何を選んだらどんな結末があるか、だからどっちを選ぶか、という話し合いのことです。(野田俊作)

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