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世界の中での役割、世界の流れ

Q
 アドラー心理学のカウンセリングでは、クライエントが世界の中でのその人の役割を果す方向に向かえるようにする専門的援助と考えていいでしょうか?もしそうなら、カウンセラー自身、世界の流れを意識しているということですか?

A
 世界の流れを意識したいものですね、はい。たいていそんなことを望んでくれないんですよ。みんな自分とこの子どもの操縦法とか、自分の亭主のたぶらかし方とか訊きにくるから、商売ですからうちに在庫があれば売るんです。貞操観念も何もなく、金さえもらえば。こっち側に売りたい商品があるんですが、たいていの人はそれは全然買いたがらない。OK。そんなもんです。昔、お釈迦様のところへもいろんな人が来まして、みんな「いいところへ生まれ変わるにはどうすればいいですか?」と訊くんです。お釈迦様は「いいところへ生まれ変わること」なんか何も興味なかったんですが、とても丁寧に答えられました。あれはお布施があったからですね。

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一元論、要素論、全体論

Q
 「このシート」(浩→現場にいないから何のことかわかりません)を説明をしてください。

A
 はい。私のグループワークに出た人はみな、こんなん(シート)見たことあるんですが、まず「一元論」というのは、“見えないひとつ”があるんですよ、神とか仏とか星の運行とか。見えないそのひとつが世界全体を動かしている考え方だから一元論と言います。「要素論」というのは何もない。ただ分子とか物体だけが飛び交ってお互いどうしが物理法則で動いているという考え方。「全体論」というのは、全体のひとつの調和とかハーモニーとかがあって、しかもその「いちなるもの」がない、それを陰で動かしている「見えない手」がないという考え方。「生きた世界がある」という考え方。見えないものが動かしているというのは、西洋でも東洋でも、中世の考え方です。僕たちが思い出しにくい昔ですね。鎌倉時代とか室町時代に、いったい人々がどのように暮らしていたのか、凄い興味があって、本を読むんですけど、歴史学者自身が例えば網野善彦さんなんかが「わかんない」と言うんです。江戸時代はわかる。江戸時代というのは、われわれと直接に繋がっている時代で、街道があって街道のまわりに集落があって、集落のまわりに田んぼがあるんだと。でも鎌倉時代にはそういう塊まった集落がなくて、散村で家1軒1軒が凄い離れていて、それが荘園だとかで区切られていて、その中の人々の生活も大変複雑な宗教的な区分とか身分的な区分とかがあって、江戸時代とか明治時代とか近代と繋がっていないと言う。だいたい南北朝時代くらいを境にして、人間の暮らし方が根源的に変わってしまって、それを実感的に思い出して追体験するのが難しいと、歴史学者が言うくらいですから、僕らはとても難しい。喩え話として私の子ども時代の農村の生活は、例えばトイレが家の外にあって、土壁で造ってあって汲み取り式になっていて、バキュームカーが来るわけじゃなくて、肥だめに溜めておいて、発酵させて肥料にする。広い土間があってそこでいろんな作業をして、作物を庭先へ干しておいたりし、鶏がそこら辺をコッコと歩いているのをポンと首を切って食べたりするし、という生活をしていたわけです。それを僕の子どもたちに説明するのが難しい。僕たちはまだ記憶があるんです。実際実物を見たことがあるから。皆さん方の若い人はないかもしれないけれど、その暮らし方を子どもたちにありありと追体験できるように説明できない。それよりも鎌倉時代はもっとずっと遠い。中世の暮らしってわからない。でもその時代には、みんなが見えない大きな力が世界を動かしているとを信じていたことはわかる。それは絶対そうだった。ユング心理学はまさにそうだと思う。ユング心理学というのは、僕らの知らない大きな力が人間を動かしているととても強く信じている心理学だと思います。あれは極めて中世的だと思う。フロイトはその点ではいかにもモダンです。人間機械論で味も素っ気もなくて、よくまあフロイトとユングがしばらく一緒にいられたと思います。アドラーも一緒にいました。面白いですね。フロイトのところにアドラーもユングもいたんです。ルツボのようなところで、そこからパチッと3つツボが飛び散って、過去へ行ったヤツと現在にいるヤツと未来へ行ったヤツに分かれたんです。アドラーはフロイトとニーチェが上にいて下にいるように、フロイトとニーチェとマルクスから影響を受けました。アドラーがニーチェを超えているのはマルクスを読み込んだからだと思う。マルクスから大きな影響を受けています。ベイトソンはまだハテナで、これからです。みんなで読んでいこうと思います。

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スピリチュアル・エコロジー、エコキャピタリズム

Q
 スピリチュアル・エコロジー、エコキャピタリズムについて補足してください。

A
 エコキャピタリズムというのは太陽電池とか風力発電とか、それから「自然にやさしいウニャウニャ」と言って売っているヤツ。資本主義がエコロジーを売り物にして、それが商品になるとわかったから、エコロジーを売り物にして儲けようというやり方ね。世間で普通エコと言われているもののほとんどがエコキャピタリズムなんです。「これは自然にやさしい」とか「消費電力が少ない」とか「水の資源が少ない」とか言うんです。一番根本的なところで何か忘れてないかと思う。資本主義に乗っかって商業化されたエコね。スピリチュアル・エコロジーというのは、「次の時代へ行きたい」、「縄文時代へ戻らない」こと。もちろん一部は逆戻りしないといけないと思う。例えば僕が思うには、われわれはデカルトが言うように地球の主人ではなくて、間借り人だと思うんです。だから僕らは賃貸住宅に住んでるんですよ。だから壁に釘を打ってはいけないんですよ。ましてや海を埋め立ててはいけないんですよ。なぜいけないかというと、回復できないからです。壁に釘打ったらなんでいけないかというと、壁に空いた穴を回復できないからです。海埋め立てるのも、いっぺん埋め立てるともう1回土を上へ上げて、元の白い砂浜と松の木の林は帰ってこないんですよ。回復不可能だから具合が悪いと思う。農業というのは確かに自然を破壊するんです。農業をやると自然環境を大幅に変えるんですが、農業をやめちゃって農業が滅びて、畑をそのまま放っておいたら回復していくと思うの、200年とか300年の時間で。200年、300年、500年で回復するなら、そういう改造はしてもいいと思う。大阪湾を埋め立てたら、1000年したって2000年したって回復しないと思う。だからそれをやっちゃいけない。体についても、自己治癒能力・自然治癒力というものを問題にしていまして、同じように地球についても自己治癒能力を気にしながら、自己治癒能力を超えたことをしない暮らしのやり方を考えていきたい。それは可能だと思う。その点で日本は世界に誇っていいので、鎖国をしたことがありまして、人口があの時代に2千万から3千万いたんです、江戸時代。生活必需品全部自給自足で、ほとんど輸出入に頼らないで暮らしたことがありまして、だからいけますて。それぐらいまで減らせばね。産児制限して。

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野田先生の「教育の構想」は?

Q 
 まったくの理想でかまわないのですが、先生のお考えなり教育の構想についてできるだけ具体的にお話してください。

A
 そんなものあるわけないでしょう。僕は教育者ではないし、教育に興味はないし、教育は専門家がいるじゃないですか。医療なら言ってもいいけど教育はない。わたくしは日本の教育とか世界の教育とかについて何か言えるほど賢くないし、そのことについて勉強したこともないし、今までのことも勉強してないしこれからのこともしないし、それはそういうことを考えている人がきっといるはずです。だって世界が流れが全体がその方向へ向かっているから、そのことについて考えている人が当然出てくるはずなんですよ。僕、音楽聴いてて思うんですけど、モーツアルトっているじゃない。今年モーツアルト生誕250年でモーツアルト・ブームになるはずなんですけど、モーツアルトがいてバッハがいて、そのバッハを聴いたりモーツアルト聴いたりして、「あ、これモーツアルトね」とか「これバッハね」とか僕らは聴き分けできるんですよ。モーツアルトの時代におんなじような中小企業の作曲家がいっぱいいるんです。もう今では名前も知られていないようのがいっぱいいて、それとモーツアルトを聴き分けしろというと、わりと難しいんです。みんなよう似たこと書くの。そんな中でたまたまどういうわけか、モーツアルトだけ残りまして、他の人はあんまり残らなかったんです。まあ時代が淘汰したんですから、モーツアルトが一番優れていたんですが、類似品がいっぱいあったんです。なんで類似品がいっぱいあったかというと、それが時代の精神で、あの時代の精神がモーツアルトふうの音楽を大量生産したんです。その次の時代の精神はベートーヴェンふうの音楽を大量生産したんです。今はロック音楽を大量生産するんですよ。そんならロック音楽の個体識別ができるかというと、あんまりできないんです。みんなよう似てるんですよ。でも30年40年すると、生き残るもんと忘れられるもんとできるじゃないですか。だからこんな教育問題にしても、よく似たことを考える人が同時にいっぱい現れるはずなんです。きっと教育関係の本棚へ行って探せば、賢い人がいいことを書いてくれているはず。私が言うことは何もない。その人たちは本気で研究して本気でそのことについて考えてくれている。僕は心理療法の専門家ですから、「心理療法についてなんか言え」と言われたらなんぼでも言いますけど、教育は知らん。

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全体論

Q 
 デカルトやフロイトが要素論だとわかる。では全体論。「まず全体世界がある」のうち、相対的全体論と絶対的全体論の移動は?アドラーやニーチェやベイトソンの思想はそれぞれどのような全体論なのでしょうか?

A
 アドラーとニーチェは相対的と僕が言っているのは、「個人の中に葛藤はない」という意味ね。絶対的と言っているのは、「世界の中に葛藤はない」という意味ね。アドラーはユダヤ人ですから、「人生は試練だ」と思った人なんです。それはそうですわ。ユダヤ人に生まれたら絶対にそうだもの。生まれた瞬間から異邦人なんです、世界中のどこにいても。今はイスラエルがあるけど、イスラエルだってやっぱり異邦人ですからね。さまざまな迫害があるんです。迫害の中でユダヤ人が日本人と違うところは、いつでもユダヤ人をやめられるんです。ユダヤ教徒であることがユダヤ人の定義です。ユダヤ教徒をやめた途端にユダヤ人ではなくなるんです。それをみんな決心してユダヤ教徒でいるんです。ユダヤ教徒というのは、「律法」というのがあって律法を守って生きなきゃいけないんです。律法で一番厄介なのが土曜日が休日なんです。土曜日が休日だと、週休1日半制だと土曜日に学校へ行けないんです。ユダヤ人の子どもは土曜は学校へ行かないんです。それでアメリカは早くから週休二日制になったんだと思う。宗教問題で。イスラム教徒は金曜の晩、礼拝なんです。晩なのであれは行けるんですけど、ユダヤ教徒は土曜日の間に外出してはいけないんです。それから食べ物の制限があるんです。コッシャーといってユダヤ教徒が調理した品物しか食べちゃいけないんです。アメリカのスーパーマーケットなんか行くと、コッシャーのマークがあって、チキンラーメンとか味の素とかキッコーマンとかに貼ってあるんです。キッコーマンのサンフランシスコの工場は、ちゃんとユダヤ教徒を雇ってその人たちにユダヤ人向けのキッコーマンを作ってもらっているんです。ユダヤ教の教師・ラビがちゃんと年に1回視察に来て、確かにユダヤ教徒が作っているかどうか調べるんです。あれも不便な話です。それでもユダヤ教徒でいようと、ずっと決心しながら生きていくわけです。そしたら人生は試練よ。世界と私とはずっと葛藤していることになりますが、それは1つのものの見方だと思うの。そうじゃないものの見方をしたっていいわけです。アドラー心理学はこの世界の真理について言っているわけじゃないから、アドラー心理学そのものが“かのように”心理学で、「こういうふうなものの見方を仮にしてみよう」と言っているだけだから、そしたら絶対的全体論でもかまわないんです。で、絶対的全体論でアドラー心理学を見直してみることにしました。それはベイトソンの影響です。

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