外傷神経症(3)
2001年06月22日(金)
文献[1]によれば、帰還兵士や「れいぷ」被害者のPTSD症状に対する治療としては、系統的脱感作(不安の対象になっている場面にすこしづつ慣れてゆく方法)やフラッディング(安全な状況で比較的長時間不安場面を思い出す方法)のような行動療法や、認知を操作する認知行動療法が有効で、支持的カウンセリング(いわゆるふつうのカウンセリング)はあまり効果がなく、恐怖場面を強く思い出させて情動表出させるような治療をすると症状が悪化するといわれている。これは、いかにもありそうなことだ。支持的カウンセリングは神経症一般に対して有効性が証明されていないし、「抑圧された感情」の発散を目的とする治療も一般に無効だといわれている。一方、有効性を立証されている行動療法や認知療法などは、多くの種類の神経症に対して有効であるといわれている。
また、同じ論文によると、「心的外傷となる出来事が発生した後の早期の段階で心理社会的介入を行い、その後のPTSDの発生を予防するというもくろみは、これまでのところその効果を確かめられていない」という。ここで言われている「心理社会的介入」というのは、具体的には心理的デブリーフィング(psychological debriefing)というもので、エンカウンター・グループ風に、被災者が集まって、「出来事の間に体験したことについて、思考、感情の表出を促しながら語り合い。認知処理を行うもの」だそうだ。この方法は、これをしなかった統制群との間に治療効果の差がないか、あるいはかえって悪化させた。そうだろうね。同様に、支持的カウンセリングによる早期介入も効果がないようだ。
大阪教育大学付属小学校の児童について言えば、だから、早期介入については、あまり考えなくていいということになる。つまり、普通どおりに授業をしてみて、それで症状が出る子どもがいれば、個別的に薬物療法なり認知行動療法なりといった神経症治療をほどこせばいいのだ。
[1] 飛鳥井望「PTSDの診断と治療および早期介入の有効性」『臨床精神医学』29(1):35-40,2000.
外傷神経症(4)
2001年06月24日(日)
講演していたら、「大阪教育大学付属小学校が校舎を建て替えるといっていることについてついてどう思いますか?」と質問された。
私の先生のバーナード・シャルマンが、こんな話をしていた。
いつも車の後ろを追いかける犬がいたのだが、あるとき車にぶつかって痛い目にあった。これでもう車の後を追いかけるのはやめるだろうと思っていたら、相変わらず車の後を追いかける。しかし、車にぶつかった場所には近寄らなくなった。
池田の事件も同じ感じがする。問題は教室という場所にはない。場所は、たしかに恐怖体験の手がかり刺激になりうる(つまり、教室は事件を思い出させる)かもしれないが、それは不合理な条件づけだから、脱感作したほうがいい。子どもたちが刺激弁別しなければならないのは、「悪い大人」と「よい大人」であって、「事件のあった場所」と「事件のない場所」ではない。ああして、「悪い思い出のあった場所には近づかない」ということを子どもに教えると、子どもの行動範囲がだんだん狭くなるじゃないか。神経症的な子どもは、家から外へ出れなくなるかもしれない。だいいち、それは、先ほどの犬と同じような、不合理な非理性的な判断だ。
「悪いおじさん」と「いいおじさん」を弁別させたいのだが、「悪いおじさん」はきわめて少ないので、「知らないおじさんには気をつけよう」というのも、正しい治療教育法ではない。そんなことをすると、子どもは、すべての成人男性に不信感をもつようになる。それに、「いいおじさん」と「悪いおじさん」の区別は、そんなに簡単ではない。だから、万が一悪いおじさんに出会ってしまったときの対処法(たとえば逃げるとか叫ぶとか)を教えたほうがいいんじゃないか?それがいちばん合理的な治療教育だと思う。
下見
2001年06月25日(月)
パートナーさんと一緒に映画『ホタル』を見にいった。この前、ひとりで見にいったのだが、よかったので誘ったのだ。いつもこんな風に、ひとりでまず見にいって、よかったら誘う。つまり、下見するわけだ。
先週は、新潟に仕事に行ったついでに、魚沼のいくつかの沢に入って釣りをしたが、釣りだけしていたのではなくて、あちこちの沢に入って、沢登りの下見をした。7月の下旬に仲間と来ようと思うのだが、参加者の力にあった沢を探したわけだ。さいわい、そう難しくなくて、しかも美しい沢をみつけた。
なんだか、いつもこんなことをしている。アドラー心理学だってそうかもしれない。いろんな心理学理論を下見して、いちばんいいと思ったのをみんなに教えているわけだから。いいのを見つけるためには、つまらないのをいくつも下見しなければならないが、それは仕方がない。積極的に行動すれば、かならず、いい映画や、いい沢や、いい理論に出会えると、経験から思っている。
サルティンバンコ
2001年06月26日(火)
夕方から「サルティンバンコ Saltimbanco」というサーカスを見にいった。パートナーさんと彼女の娘が出かけるのに便乗したのだ。入口で「場内へ飲み物や食べ物を持ち込むのは禁止です。場内で販売しているのをお求めください」と叫んでいる。なるほど場内に入ると、さっそく売店があって、飲食物を売っているが、この高いこと。ペットボトルのお茶が300円、ビールが500円だ。まあ、仕方ないかと思って、いくらかのものを買う。ビールを飲みながら見物していいのは、さすがサーカスだ。
ショーの内容は驚嘆すべきものであったが、それよりも私が感激したのは、音楽と照明の使い方だ。これは、言葉ではうまく説明できない。サーカスといっても、動物は出てこなくて、人間ばかりだ。綱渡りもあるし空中ブランコもあるが、それと同時に他のメンバーが下でさまざまのことをしている。その全体を音楽と照明でくくってある。舞台全体が、あちこちで別のことが起こりながらも、有機的な統一を保っている。モダンバレーを見にいっているのだとまず思っておいて、そこに曲芸がくっついているのだと思えばいい。
沢登りをするものとしては、ロープ一本や竿一本で、あんなに簡単に登ったり降りたり谷を渡ったりできれば便利なのになと、変な感想を持ちながら見ていた。
外傷神経症(2)
2001年06月21日(木)
昨日の話の続きだ。PTSDが実は神経症だとわかると、私にも手のとどく話題になる。つまり、ふたつの要因があって、ひとつはその人の認知構造(cognitive framework)であり、もうひとつはその人がおかれているコミュニケーション構造だ。認知構造について荒っぽくいうと、その人が「安全だ」と確信していればPTSDにならないし、「危険だ」と確信していれば症状が出る。これにはコミュニケーションも関与していて、まわりの人が「安全だ」と言いつづければ認知構造は「安全だ」に傾くし、「危険だ」と言いつづければ「危険だ」に傾く。これは、まったく常識的な考え方だと思うのだが、どうだろうか。
さて、そうだとすると、大阪教育大学付属小学校事件のようにみんなが「心の傷が症状を出すだろう」と言いつのれば、実際に子どもに症状が出るだろう。これは洗脳や催眠と同じだ。なんどもなんども、さまざまな人が言えば、それが個人にとっての現実になってしまうのだ。マスコミの騒ぎ方も、学校の対応も、そういう点できわめて望ましくない方向に向いている。
なかでも腹が立ったのは、ある有名なフロイト派の精神科医が、テレビのインタビューで、「今のところはなにもなくても、思春期になってから症状が出るかもしれない」と言っているのを見たときだ。あれでは子どもたちとその親に「呪い」をかけているのと同じじゃないか。きわめて反治療的だ。もし何年も後に神経症症状が出たとしても、その症状と今回の事件の因果性は立証できない。つまり、症状が出る人は、今回の事件がなくても、神経症になったのかもしれない。人口の何パーセントかは、思春期に神経症になるからね。外傷体験を経験した人を十年以上追跡調査をして、神経症発症率が高いという研究でもあれば信じるかもしれないが、そんな研究はもちろんない。
「被虐待児童や災害被害者などについては、そういう研究があるのではないか」と思う人がいるかもれないが、今回の事件とは状況が違う。つまり、被虐待児童は持続的に虐待されているし、もし親から切り離されれば孤児になってしまっているわけだ。今回の大教大付属小学校の児童は、事件は一回だけだし、その後の日常生活では外傷的なできごとはおこっていない。したがって、性質がまったく違う。また、災害被災者についても、災害後の長期間、ストレス事態が持続している。たとえば、阪神大震災に被災した8千人の小中学生に対する質問紙調査[1]をみると、震災4ヵ月後や6ヵ月後では「恐れ・不安」も「抑うつ気分・身体化反応」も非被災児童よりも反応数が有意に多いが、2年経つとコントロール群と差がなくなっている。これをどう説明するかだが、正常な反応だと言えば言えるんじゃないか。震災後1年間の瓦礫の中で暮らして、不安にもならず憂鬱にもならずに暮らせるほうが神経症的じゃないか。つまり、災害についても、その被害が持続してる間のデータでもって、後遺障害についてものを言うことはできない。
さて今、われわれが大教大付属小学校の子どもたちに向かってしなければならないのは、「世の中には悪い大人も少数いるけれど、いい大人もたくさんいるよ」とか「死んだ子どもたちはかわいそうだったけれど、生き残った君たちは、あの子たちの分までしっかり遊んでしっかり勉強して、しっかり生きていかなければいけないね」と言ってあげることだろう。つまり、よい認知を与えるようなコミュニケーションの中に子どもをおくことだ。子どもたちを過保護にかばってはいけない。そんなことをすると、それこそ神経症発症率が増えるだろう。
[1] 植本雅治・高宮静男・井上浩「阪神淡路大震災が子どもたちにもたらした精神医学的影響とその経過」『臨床精神医学』29(1):17-21,2000.
Q675
気になることが起こったとき、質問しようとかクライエントに出てみようと思うのですが、その問題を論理的に言語化して説明しようと思い、頭の中で整理していると解決してしまうことがたびたびあります(当たり前や)。しかし自分で解決してしまうということはやはりいつものパターンで間違っている可能性もあるように思います。こんなふうにして質問したり相談したりするタイミングを逃してしまうことがよくありますが、どのタイミングで人に訊いたらよいのでしょうか?
A675
論理的に考えても解決しないときは?論理って何か?ちゃんと筋道立った論理って何かというと、自然に見えている現象の裏側にある法則を写したものだと思っているんです、科学者たちは。で、表に出てきている現象はさまざまで、非常に多様でとりとめなくいろんなことが起こるんだけど、その後ろには凄い単純な法則がある。それを僕は自分の日記やホームページに書いたんだけど、例えば駅で電車から降りて歩いて行くたくさんの人たちの群れとか、川の流れとか、電流とか扇風機から渦巻きながら出てくる風とか、そういうのが全部同じ方程式で書けるんんです。凄い単純な方程式で書けるんです。原理というのは凄い単純なもので、そこから多様な現象が説明できる。まあそんな方程式ほど緻密な論理を僕たちは組み立てないけど、何か出来事が起こったら、じっくり理屈立てて考えてみるじゃないですか。そうすると今起こっていることの中の法則がわかって、法則がわかると答えが出るんです。公式を見つけたから。答えがわかったから、さしあたってその答えでやってみて暮らせるなら、それでよろしいがね、無理に相談せんでも。論理で考えるのに答えが出ないときもあるんです。そのときは二つ可能性があって、一つはその論理が間違っているときね。公式が間違っている可能性がある。公式が正しくても出ないときは、人間の力を超えているときね。人間の力を超えたことがこの世にたくさんあります。人間の力を超えている事柄についても訊いてもらえば、「それはあなたの課題ではありません。例えば、「職場の上司がもっと私のことをやさしく接してくれればいいのに」とかいうのは、それはあなたの課題ではありません。あなたがその上司とどう接するかが問題です」とか僕が言いますから、それなら問題が解けますがな。だからまあいっぺん冷静に考えてからわからなかったら訊いて。こういうタイプの人は。パッと思っては、「ちょっと思いついたんですけど」というのに一々相手をしていると、私は忙しくてしょうがないから、いっぺんちょっと考えてから訊いてくれるほうが、嬉しいのは嬉しい。