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息子はゲーム、主人はアルコールで私は不幸

Q 
 24歳の息子の仕事もしないで(日中かな?)ゲームをしている姿や、主人がアルコールがあるから早く死のうと言うのを聞くことがつらくて、私が自分の不幸を作りだしているらしい。そういう部分はどこなのか、新しい暮らしのイメージが頭に浮かばない。知るにはどうしたらいいのでしょうか?

A
 あのー、「人が悪くて私はかわいそう」と言っているかぎりは決して救われません。さっき、I am OK, you are not OK.と言ったけど、まわりの不幸は私と何にも関係ないんです。私が相手の不幸を作っていることはあると思うけど。相手が不幸だから私が不幸になるというのは、それは因果関係が違うと思うの。どんな不幸のまっただ中でも、幸福に生きる私がいれば、他の人たちも幸福になるだろうと思うんです。じゃあ、人はどうやったら幸福にいられるかというと、人はdispleasure(不快感)とdiscontent(不満)を抜ければいいんだ。体の不快とか頭の不満とかじゃないところで満足している喜びを見つければいいんだ。そのためにはどうすればいいかというと、ほんとに人のために生きているなっていう実感があればいいんだ。じゃあ、自分がどうやったら人のために役に立てるかを考えないといけない。人って誰かも考えないといけない。何をすればいいかも考えないといけない。相談しないといけないけど、少なくとも、「自分の家族はこんなだから」と理由を出している間は救われないと思う。それは自分の不幸と関係ないこっちの不満とか不快なことにすぎないから、それは幸福と何も関係がないと思う。(野田俊作)

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生臭い話    野田俊作

合唱
2002年02月28日(木)

 むかし、女声合唱団の指揮をしていた。「ゾンネンブルーメ(Sonnenblume)」という、ちょっと洒落た名前の合唱団だった。ドイツ語で「ひまわり」のことだ。もともとは、別れた妻がやっていたのだが、彼女は声楽家で、指揮は好きじゃなかったみたいで、押しつけられてしまった。1985年に別居したのだが、そのときの条件のひとつに指揮を続けることがあった。1991年に内輪もめで解散してしまって、お役ごめんになった。コンサートのテープが何本か残っている。できのいいコンサートがあったので、CDに焼いてみた。まさか、自分の演奏がCDになるとは思わなかったな。
 ゾンネンブルーメでは、指揮だけではなくて、編曲もしていた。そういう仕事を、いつかまたしてみたいなと思う。女声合唱はあまり気が向かないのだが、混声合唱だったら喜んでするな。「アドラーコール」という、年に一回だけ成立する合唱団がある。日本アドラー心理学会の総会で歌うのだ。しかし、そこの指揮はしてはいけないとパートナーさんは言う。「あなた、これ以上目立って、どうするのよ」だって。それももっともだ。ま、老後の楽しみにおいておこう。



新幹線の椅子
2002年03月01日(金)

 東京に来ている。「のぞみ」の椅子が身体に合わない。先日来、腰痛がグズグズくすぶっていて、再発が怖い。さいわい、ひどくならずに東京に着いた。グリーン車だと楽だと思う。しかし、会社は貧乏なので、グリーン車の旅費まで出してくれない。自分でも出す気はない。ケチなんじゃないよ、ただ貧乏なだけだ。
 古い「ひかり」の椅子は「のぞみ」ほど窮屈ではない気がする。椅子を設計する時、想定している人体の大きさがあるはずだが、「のぞみ」のほうが「ひかり」よりも小さいようだ。これはちょっと馬鹿げていないか。日本人はだんだん大きくなっているんだし、西洋人もよく利用するし。車両の大きさから椅子の大きさを計算したのだろうか。それはちょっと人間疎外的だな。大きさの問題ではなくて、背中の角度の問題かもしれない。とにかく座り心地の悪い椅子だ。



生臭い話
2002年03月02日(土)

 ある地方にアドラー心理学を学んでいたグループがあったが、世話人の方針に不満な人がいて、新しい学習グループができた。昔からのグループは他の地方の学習グループと交流することなく独自路線で勉強していたが(正にその点が批判の対象だった)、新しいグループは、中心になる人たちが他地方へ積極的にでかけて、全国標準(?)の学習法を取り入れた。その結果、旧グループは次第に日本のアドラー心理学運動全体から取り残されていった。
 今日、新しいグループの世話人さんの一人が東京に来てくれ、古い方のグループが最近発行した冊子を私にくれた。読んでみて驚いた。アドラー心理学理解が後退している。20年近く、私や他のアドレリアンがそのグループに講演に行ったりして、新しい考え方を説明してきたのに、そこで学んだことはすっかり忘れてしまって、1970年代のアメリカ式の古風なアドラー心理学理解に逆戻りしている。アドラー心理学は、理論的にもここ20年ほどでずいぶん進歩したように思うし、学習法もここ10年ほどの間にすっかり変わった。しかし、古いグループは、大昔のアメリカの理論と方法に固執している。さらに他流派の心理学を折衷することさえしている。
 同じようなことは、他の地方でも起こっている。日本のアドラー心理学運動の初期は、全国あちこちに孤立的なグループがあり、相互の交流はなかった。やがて相互交流がはじまったとき、他のグループと積極的に情報交換する世話人さんと、そういうことに消極的な世話人さんとがいた。情報交流しない世話人さんのグループは時代遅れになっていったが、一般会員が他地方に出かけないかぎり、時代遅れぶりはバレない。しかし、一般会員が他地方の進歩的なグループと交流すると、バレてしまって、反乱が起こる。ここ数年、孤立的なグループの内部での反乱が、あちこちで起こっている。ちょうどそういう時期なんだな。
 私は、反乱には関与しないことにしている。その地方の人たちが民主的に解決すればいいことだ。しかし、反乱派が相談してくる。そりゃそうだよ、保守派は閉鎖的で反乱派は開放的なのだから、開放的なほうが私や他の日本アドラー心理学会の役員にアプローチする。相談してくれば、相談に乗らないわけにもいかない。そうなると、保守派にうらまれる。反乱派が新しいグループを作ると、保守派は一気に反動的になって、新しい考え方ややり方を一切拒否するようになってしまう。困ったことだが、対策を思いつかない。

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質疑応答

Q 息子がゲーム中「しね、しね」と机を叩く

http://www2.oninet.ne.jp/kaidaiji/dai1keiji-11-24.html

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CDを焼く    野田俊作

CDを焼く
2002年02月25日(月)

 先日から、コンピュータの音声入力をデジタル化すべく格闘していたが、とうとう成功した。手始めに、カセットテープに入った音楽をCD-Rに焼いた。カセットテープそのままだと扱いにくいので、まずMDに入れなおす。それを1曲ずつパソコンに取り込んでWAVファイルにし、さらにそれをCD-Rに焼く。時間も手間もかかったが、これで永久保存できる。
 その音楽は、友人が演奏したライブ録音で、ずいぶん古いテープだ。音質もすこし劣化してきているが、高音域に白色雑音様の連続音が入っている。スピーカで聴くと気にならない程度だが、ヘッドフォンで聴くとひどく気になる。WAVファイルの段階で、その雑音をかなりうまく消去できた。デジタル化さえしてしまえば、加工はとても楽だ。自分が演奏したのやら友人のライブやら、カセットテープがいくつかあるから、同じ手順でCD-Rにしておこうと思っている。
 しかし、音の世界では、カセットテープはすっかり時代遅れになってしまった。それでもずいぶん長持ちしたよな。オープンリールのテープが消えていったのが1970年代じゃなかったっけ。それから30年ほど、カセットテープの時代だった。MDが出てきて、カセットテープで録音することが減ってしまった。音も悪いし、保存性も悪いし、消えていっても仕方がないと思う。CD-Rへの録音は、今はまだ現場ではできないので、しばらくはMDの時代かな。
 パソコンのメディアはもっとターンオーバーが速い。最初のパソコンはカセットテープで、その後すぐに5インチのフロッピーディスクになり、それが3.5インチになり、MOになるのかなと思っているとCD-Rになり、もうちょっとするとDVDになるのかな。今では5インチのディスクに入れたデータを取り出す方法がなくなってしまった。そのうちCD-ROMも読めなくなるかもしれない。音のためのCDは、あと30年くらいはもつかもしれないが、パソコンのCD-ROMはそんなにもたないだろう。
 パソコンは永久保存するデータがそんなにないし、もしあっても、新しいメディアが出るたびに簡単に変換できるのでそれでいいのだが、音は永久保存するデータがたくさんある。しかも、メディア変換は、ときとしてそんなに簡単ではない。でも、30年もってくれれば、私の寿命が尽きるから、私にとってはそれでいいのだが。



外国の本を読む
2002年02月26日(火)

 オフィスへ行くのに45分かかる。電車の中で本を読む。専門書を読むこともあるし、新書などを読んでいることもある。それ以外の時間には、あまり本を読まない。
 このところしばらくは『指輪物語』を読んでいる。リヴェンデルでの長い長い会議も終わって、ようやくフロド・バギンズは8人の仲間と旅に出た。しかし、この会議には参ったな。会話文があまりに難しすぎた。最後の部分を引用してみる。

At that moment Elrond came out with Gandalf, and he called the Company to him. 'This is my last word,' he said in a low voice. 'The Ring-bearer is setting out on the Quest of Mount Doom. On him alone is any charge laid: neither to cast away the Ring, nor to deliver it to any servant of the Enemy nor indeed to let any handle it, save members of the Company and the Council, and only then in gravest need. The others go with him as free companions, to help him on his way. You may tarry, or come back, or turn aside into other paths, as chance allows. The further you go, the less easy will it be to withdrow; yet no oath or bond is laid on you to go further than you will. For you do not yet know the strength of your hearts, and you cannot foresee what each may meet upon the road.'

'Faithless is he that says farewell when the road darkens,' said Gimli.

'Maybe,' said Elrond, 'but let him not vow to walk in the dark, who has not seen the nightfall.'

'Yet sworn word may strengthen quarking heart,' said Gimli.

'Or break it,' said Elrond. 'Look not too far ahead! But go now with good hearts! Farewell, and may the blessing of Elves and Men and all Free Folk go with you. May the stars shine upon your faces!'(pp.273-274)

 そのときエルロンドがガンダルフとともにやってきて、一同を呼び寄せた。「これは私の最後の言葉である」。彼は低い声で言った。「指輪保持者は滅びの山を探す旅に出ようとしている。彼一人にすべての重荷がかかっている。指輪を捨ててしまってはならぬし、敵の手先に渡してはならぬし、それ以外の者にもけっして手を触れさせてはならぬ。ただし仲間の一行や会議の参加者は除くが、それも、いかにもやむをえぬ場合に限ってのことである。他の者は、道みちに彼を助けるべく、みずから望んでの同伴者として行くのである。汝らは、ときとして、遅滞し、引き返し、あるいは他の道にそれることもあるやもしれぬ。遠く行けば行くほどに、撤退することは難しくなろう。汝らが望むよりもさらに遠くに行けという契約も束縛も、汝らに課せられてはおらぬ。汝らはみずからの心の強さを知らず、また、おのおのが道すがらに出会うものを予見することができぬのであるから」。

「道暗くなりたるとき去らんとするは誠なき者」とギムリが言った。

「かもしれぬが」とエルロンドは言った。「夜の訪れを見たことがない者に、暗闇を歩くと誓わせることはできぬ」。

「されど誓いの言葉は震える心を強めるやもしれませぬ」とギムリが言った。

「あるいは破るかもな」とエルロンドは言った。「あまり遠くを見るでない。よい心をもって行かれよ。さらばだ。エルフと人間と他のすべての自由な民の恵みが汝らとともに行くように。星ぼしが汝らの顔を照らすように」。

 どうも、ある階級の言葉を反映しているようだ。シェークスピアなどを勉強すると、どういう階級がどの言葉を使うのかわかるのだろうな。イギリスでは、今でもエルロンドのような喋り方をする階級があるのかもしれない。ギムリみたいな言葉使いは、きっと今はもうないんだろうな。それはそれで面白い読み方だが、そんなことを勉強する気はない。小説はめったに読まないんだし、論文を読んだり書いたりする本職には役に立たないし。
 むかしは、ドイツ語やらフランス語やらの本も読んだ。今はもう、英語以外の外国語を読むのはおっくうだ。『ドクトル・ジバゴ』を読むためにロシア語を勉強するというようなことは、もうしない。英訳で読んで満足する。和訳は、どんな名訳でも、ヨーロッパ語とは呼吸が違うと思う。英語なら、かろうじて、作者の息づかいの名残りがある。
 英語圏以外の外国の文献を英訳で読むことの便利さを発見したのは、アメリカにいたときだ。「臨床心理学の他流派のうちのひとつをとりあげて、アドラー心理学との異同を比較せよ」なんていう課題が出て、ビンスワンガーというスイスの精神医学者の文献を引用しようと思った。しかし、当然のことだが、英訳本しか手に入らなかった。その中で、「世界内存在 In-der-Welt-sein」という単語が"being-in-the-world"と訳されているのを見て、ああ、英語で読んだほうが和訳で読むよりもずっとわかりやすいんだと思った。それ以来、哲学書は英訳で読む。アドラーの著作だけは、仕方がないので、まず英訳で読んでから、引用しようと思う部分だけをドイツ語の原文で確認しておく。しばしば誤訳があるんでね。
 哲学書だけではなくて、英語以外で書かれた小説も、和訳では読まないで英訳で読む。最初から英語で書かれた小説は読まない。英語が難しすぎる。詩は、翻訳では、音が違ってしまうので、どうしようもない。だから、英訳じゃなくて、ドイツ語なりフランス語なりで読む。短いので、たとえ全部の単語について辞書をひいたって、そんなに苦痛じゃない。パステルナークの詩を読むためならロシア語を勉強するかもしれない。ハーフィズの詩を読むためだけの目的で中世ペルシア語を勉強したことがあるもの。あまりものにならなかったけれどね。

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自分に自信を持ってもらうには

Q
1)今、中学2年生の女の子ですが、私は娘に「頑張れ」と勉強などで言わないのですが、娘は部活も勉強も満足していません。そんな自分に劣等感を持っているようです。もっと自分に自信を持ってもいいのではないかと思います。どう接すればいいでしょうか?
2)クラスが替わって友だちと別れて学校が楽しくないと言います。人とのつきあい方を学んでいるのだと思いますが、どんな言葉をかけてあげればいいのかわかりません。勇気づけの方法を教えてください。

A
 これ、これですね!思春期というものが大きな文脈の中に自分を位置づけることができないとき。そんなとき、私がなんのために生まれてきて、なんのために生きていくのかわからないとき、たった今、クラスの中で好かれているかとか嫌われているかとか、勉強ができるかとかできないかとかいうところに、目が行っちゃうんですね。今の友だちなんかどうせ別れますわ。僕、中学校のときの友だちなんかともう会わないもん。あなた方ももう会わないんじゃない?そんなの、いっとき一緒にいるだけの人なんですよ。それで、こっちから言ってあげなくても、人生が見えている子にはそうなんです。自分が世の中へ出ていって世のため人のために働くんだとわかっている子にとっては、誰かに好かれているとか嫌われているとかは、些細な問題にすぎないじゃないですか。どうせ人は私を嫌いますよ。みんなの賛成するようになんか生きていけないですよ。大事なことは、わたくしはわたくしの信念で、わたくしの誠実さで、わたくしの努力でわたくしの方向性で生きていくことで、それに賛成する人も反対する人もいますよ。一番問題は、わたくしの信念もなく誠実さもなく方向性もないことなんです。なんでないかというと、そういうことについて誰も子どもに教えてあげないからです。長いスパンで以て、子どもがどう生きていけばいいのか、まあさしあたって、人々のために、人々って誰かはっきりさせて、人々のために何をすればいいのか、あるいはかつてみんなは人々のために何をしてきたのか、今この世界にどんな問題があるのか、それに対してあなたは何ができるのか、というような話し合いをしたいと思う。賢い子どもを作りたいんです。子どもたちはとても敏感で純粋ですから、きちっと情報をあげて問いかければ、とても良い答えをくれます。ただし若干非現実的ですけどね。でもいいんです。思春期というのは若干非現実的が味で、完全に現実的だとただのおっさん・おばはんですから、若干非現実的でも彼らは美しい答えを出せるようになると思うんです。そこの対話をしたいわけ。話し合う家族というのは、親が子どもに教えたり、親が子どもを勇気づけたりする家族じゃなくて、思春期になったら対等の仲間として、そこで教えたり教えられたり、語ったり語り合ったりする、そういう家族関係を作りたいんです。日本の親というのは、「私がこの子をなんとかしてあげたい発想」から抜けないのね。これが縦の関係です。ある年齢まで子どもは介助が必要です。いろんなことについて。だいたいいくらなんでも、普通、小学校出たらいらなくなると思うんですよ。対等の話し相手として動けるようになっているはずなんです。ただ、今の子どもたちは親があまりにも子どもを無能力な存在として扱うので、「これはしめしめ」と、そうしておいてもらうとあまり責任を取らなくてすむじゃないですか。ずーっと責任取らないで、大学行っても責任取らないで、大学卒業しても大学院行って責任取らないで、博士課程行って博士号取っても責任取らないで、ずっとプープーと暮らそうというような野望を抱いたりするんです。で、ずっと子どもなんですよ。僕、幼形成熟と言うんですけど、ボディはちゃんと大人に、子ども産めるのに、マインドは子どものままでハートは存在せず、マインドは子どものままで体は大人という存在がいっぱい歩いているでしょう。なんでそんなことが起こるかと言ったら、僕たちがちゃんと子どもを育ててないからです。われわれが子どものハートという存在そのものを忘れて、魂というものが存在することを忘れて、ただ体と計算だけ、マインドの得意技は「計算=ゼニ勘定」ですからね、計算だけでもって僕たちが生きてきて、それが人間の生き方だと誤解して子どもたちに伝えているからだと思う。ココロザシですよ、ココロザシ。魂ですよ、魂。古くさいな、単語が。だから、ハートとスピリットです、はい。(野田俊作)

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