Q
登校拒否に関して、親子の場合は、第1段階で頑張れば、つまり、子どものことにかまわないように我慢すれば、子どもが親の変化を感じ取ってくれて、事態が動くことが期待できますか?
A あんまりそうは思いません。親が邪魔にならなくなったから自由に選べるんだと思う。
Q 教師は、「学校へ来ないのはあなたの問題だから何も言いません」と覚悟しても、生徒には通じにくいです。第1段階では具体的にどういう行動をとればいいですか?私は自分の仕事を頑張って少しマシなクラスができています。でも、登校拒否している子には伝わらない。
A まず、訪宅していいかどうか子どもに聞いてください。「いい」と言ったら訪宅する。「イヤだ」と言ったら、子どもの了解を得て、親に会ってください。学校で会うか家で会うか決めてください。会ったらいったい何をすればいいのか。親に「ああしてください。こうしてください」と言うのはやめようね。親は勇気づけるだけにしようね(例えば、すでにできていることに注目するとか)。「どうしてほしいのか」「どんな注文があるのか」聞いてください。今の学校のシステムでは、だいたい実現できない注文のようですがね。でもしっかり聞いてください。何かできることがあるかもしれない。(野田俊作)
一人旅
2002年09月26日(木)
昨日午後6時大阪発の飛行機で新潟まで来て、長岡に泊まって、朝レンタカーを借りて、魚沼の三国(さぐり)川というところで釣りをしていた。一人旅はいい。長岡でレンタカーを借りて魚沼のどこかで釣りをするところまでは決めていたのだが、どの川に入るかは現地に着いてから決めることにしていた。最初、登川というのに入ったが、状態がきわめてよくないので、三国川に変えた。三国川は、幸か不幸かダムがあって、その上流側には人の手があまり入っていない。25センチほどのイワナが何匹か釣れた。
もう夏も終わりだ。水温も下がってきている。ゴルジュ(両岸が崖になって切り立っている地形)の多い川で、流れが深かったが、夏だったら泳いで越えているところだ。ちょっと泳ぐ気にはなれず、いちいち高巻き(岸の崖をよじ登って上流へ下りること)をしたので、けっこう疲れた。
一人で沢にいると、息が止まりそうなほど美しい瞬間があって、そのとき、岩の上に座ってうっとりしていられる。他の人と一緒だと、そういうわけにはいかない。いかないことはないのだろうけれど、「お兄ちゃん」としては、他の人の都合を無視して、一人で座り込むわけにはいかない気がしてしまう。三国ダムの上流に十字峡という三本の川が合流するところがあって、そこから三国川の本流をしばらく遡ると、支流が無数の小滝になって流れ込む場所があって、そこで放心して le temps vecu(生きられた時)をすごした。
縁あって、ある友人から池田大作『法華経の知慧』をもらった。夜、それを読んでいた。法華経があって、それをクマーラジーヴァが中国語に訳すとき解釈を加えて、それに天台大師が解釈を加えて、それに伝教大師最澄が解釈を加えて、それに日蓮聖人が解釈を加えて、それに池田氏が解釈を加えて、ある見方ができる。その解釈は、サンスクリットで法華経を読むと、けっして出てこないものだ。
たとえば、「諸法実相」は天台によれば「一念三千」で、日蓮によれば「南無妙法蓮華経」だと池田氏は言うのだが、なんと「諸法実相」という言葉は、サンスクリットの原典にはないのだ。法華経方便品の該当部分の「諸法実相」にあたるサンスクリットはダルマターという言葉だったと思うが、ダルマターとは「属性通有の性質」というような意味だと思う。「ダルマ」は普通「法」と訳されるけれど、あまりいい訳語ではない。仏教論理学の考え方では、「AにBがある」というときのBのことだ。Aを有法といい、Bを法という。たとえば、「花は赤い」というときの「赤い」とか、「人は死ぬ」というときの「死ぬ」とかがダルマだ。「ター」は抽象名詞を作る語尾で、そういうダルマを貫く性質を意味する。そうだとすると、ダルマターとは「空」のことだ。空というのは「Xでもないし非Xでもない」ということで、「赤い」とか「死ぬ」とかいうのは、人の判断(分別)であるにすぎず、花はほんとうは赤くもないし赤くなくもないのだし、人はほんとうは死ぬのでもなく死なないのでもない、ということだ。では、有法は存在するか。赤くもないし赤くなくもない「花そのもの」があるか、死ぬのでもないし死なないのでもない「人そのもの」があるか、というと、属性を離れて「物そのもの」があるのでもない。それが仏教の主張だ。結局、一切はあるのでもないしないのでもない。しかも、人間は、一切があるかのように感受する。そのように感受された世界を、仮のものと知りながら生きていくところに、人生の味がある。それが大乗仏教の基本的な主張だと思う。池田氏の解釈だと、ここのところが明確に出てこない。
もっとも、池田氏に反論する気はない。私は宗教多元論者で、創価学会を否定する気はまったくない。創価学会もあっていいし、私もあっていい。私がもし創価学会を否定するなら、創価学会も私を否定できる。どちらも存在していいのだ。どのみち、私も空、創価学会も空なのだからね。
一人旅(2)
2002年09月27日(金)
今日もまた三国川の流域へ行った。支流をいくつか探訪した後で、ダム上流の三国川本流の上流部へ入った。かぎりなく美しい時間だった。この世に生きていて、こういう美しい時間を持てたことに感謝する。小さなナメ滝のそばで、しばらくうっとりとして見つめていた。死んで天国に行くとすると、きっとそこには渓流が流れているだろう。何枚か写真を撮ったが、デジカメが入院中なので、フィルムを使うカメラだ。だから、ここに掲載できない。
夜は小出町で講演をした。せっかく魚沼に行くのだから、話をさせてほしいと、地元の友人に頼んだのだ。小出は、雪国の小さな町だが、魚野川のほとりにある美しい町だ。雪国の町らしく、真面目な人が多い。アドラー心理学をとても真剣に受け取ってくれているのがわかって、嬉しかった。
Q
先生が強制的で子どもとの関係が縦の関係になっている。また、子どもや親が担任を選べないというお話は、小学校教師の私に突きつけられている問題だと思います。
子どもに対して「~してくれませんか?」とお願い口調するものの、ほんとは自分の考えているとおりにしてほしいと思っている。そのとおりにしないとイライラしてきて、どうしても罪悪感を持ってしまいます。今までのやり方を全部否定するのは勇気がいりますね。
A
僕たちが子どもに教えようとしているのは、「勇気を持って生きましょう」ということです。そのためには僕たちが勇気を持たないといけない。いっぺん「今までのやり方は間違っていたんだ」というところから出発して考え直してみよう。
その先に作ろうとしていることは、そんなに難しくない。「~してくれませんか」と言って、子どもが言うとおりにしてくれないときには、2つくらいのことを考えます。
1つは「~してくれますか、それとも~してくれますか」と二択で聞く。「静かにしてくれませんか」と言わないで、「教室の中にいるときは静かにしているか、静かにできないなら廊下にいてくれますか」と聞く。そしたらどっちか選べるでしょう。
どうしても相手が、教室の中にいてしかもしゃべりたいというときには、これは目的があってそうしているんです。この場合は、その場は諦めて、あとでゆっくり「なぜ教室の中でしゃべりたいのか」、よくお話を聞く。絶対に理由があるはずです。子どもに「どうしてそういうふうにするの?」と聞いてみる習慣が僕らにないんです。
ある幼稚園に、何でもかんでも一番になりたい子がいた。先生が「なぜそんなに一番になりたいのか」聞いた。他の子をいじめるから。そしたら、「僕は3人兄弟の真ん中で家ではお兄ちゃんか弟が一番になって、僕は一番になれない。だから幼稚園では一番になりたいんだ」。先生が変に納得した。きっと先生も真ん中の子なんだろう(笑)。「この話をクラスのみんなにしてもいいか?」と聞いた。「いい」。「実は○○ちゃんは、家では3人兄弟の真ん中で何も一番になれないから、幼稚園では一番になりたいんだって。どう思う?」。他の子が「それは一番になれることもあるけど、なれないこともあるよ」と言った。子どもは全員納得して、それから問題はなくなったそうです。
最後まで話を聞くと、コロンブスの卵ですね。このことに気がつくまで先生は、とにかく一番になるのをやめさせようとして必死で努力して無駄だった。まず子どもと話をすることね。「なんで教室の中でおしゃべりするの?理由があるでしょう?」。そうすると、きっと何か言ってくれる。
第1段階としてお願い口調もいいけど、いくつかの選択肢をあげてください。その中から選んでもらう。どれも選ばないときには関係がこじれているから、どういうふうにこじれているのか、何が起こっているのか聞いてください。(野田俊作)
王賊
2002年09月24日(火)
北朝鮮が日本人を拉致して、しかもその多くが死亡しているというニュースがあって、私の周囲にいる人たちの多くは、「あんな国と国交を正常化することはない」と憤っている。心情はわかるけれど、そうもいかないだろう。国家が崩壊して難民が大量に流出したりすると、韓国も日本も中国も困るからね。日本全体の利害から考えると、拉致された人たちやそのご家族には申し訳ないが、北朝鮮を許してあげるしかないのだと思う。
思うのだが、拉致されて亡くなった(たぶん虐殺された)日本人も気の毒だが、北朝鮮の国民も気の毒だ。わずかに漏れ伝わるニュースでは、政治的にも経済的にも悲惨な状況に置かれているという。国交を回復すれば、いくらかでも北朝鮮国民の助けになるのではないか。金正日ら政府高官も肥え太るだろうが、そのおこぼれが国民に回るだろう。まっとうな方法でお金やものが手に入るようになれば、覚醒剤だの偽札だのといった妙な産品を輸出することもやめるだろう。楽観的すぎるかな?
北朝鮮はたしかに悪者国家みたいだが、そもそも国家が善玉になりうるのかどうか、ちょっと疑っている。仏教に「王賊」という言葉があって、国家は盗賊であって、国民のものを奪うものだと考えられている。お店を出しているとヤクザがきて、「守ってやるかわりに金を出せ」というようなことがあるそうだが、国家もそれに似ている。国民の生命と財産を保護するかわりに税金を取り立てるのは、ヤクザと同じ論理だ。
もっとも、仏教も後には国家の保護を受けるようになって、国王の恩ということを言うようになった。これは天地の恩、父母の恩、衆生の恩などとならぶ四恩のひとつとして数えられるのだが、古くは国王の恩ではなく師友の恩が数えられていたようだ。そのほうが現代的だと思う。つまり、自然環境や動植物の恩、父母や家族の恩、人々の恩、先生やともに学ぶ仲間の恩の4つを四恩というのが、私は好きだ。国家はやはり王賊だと思う。北朝鮮もそうだが、日本政府だって、基本構造はヤクザなんだよ。いくらかタチはいいけれどね。
脱稿
2002年09月25日(水)
原稿を書き終わってメールで送った。編集者からすぐに返事が来て、好意的に評価してくれているみたいだ。1日で書き上げてから、アドラーの言葉の引用を丁寧に入れるのにもう1日、最後に全体を見直すのにもう1日かかっている。25枚に3日は、まあまあのペースか。9月30日の締め切りだが、今夜から新潟に出かけ、29日の夜にいったん大阪に帰るが、30日と10月1日はパートナーさん他2名とダイビングに行くので、個人的には今日が締切日だ。
書いているうちに、本の構想が湧いてきた。アドラーの言葉を交えながら、心理療法のテキストを書くというのはどうだろうか。むかし、インドの論師たちは、師匠の著作を一言一句引用しながら注釈書を書いた。たとえば、バーヴァヴィヴェーカは、ナーガールジュナ(龍樹)の『中論頌』を引用しながら『般若燈論』を書いたし、チャンドラキールティは、バーヴァヴィヴェーカに反論するために、同じ『中論頌』を引用しながら『明句論』を書いた。それらと同じように、アドラーの言葉を、一言一句ではないにしても、引用しながら私の解釈を書いてみたい。師恩に報いるには、いい方法ではないかな。
実は、いつも不安だ。アドラーの教えを忠実に伝えているか、自信がない。師匠に習ったとおりに伝えているつもりなのだが、私の考えが混じりこんでいる危険がある。もちろん、私も古代インド人ではなくて現代人だから、自分の考えを言いたいのだが、自分の考えは自分の考えとして、アドラーの考えとは区別して伝えたいのだ。そのためにも、アドラーの言葉を一々引用するのは、いい考えかもしれない。
Q
神経症とはどんな病気でしょうか?本人が治療を受けないと治らないのですか?
A
神経症というのは、悩むのが好きな人のことです。ただ好きなだけでなく、悩みを人生の、生きるための道具に使っている人です。アドラー心理学ふうに言うと、劣等コンプレックスで生きている。「自分はダメだ、自分は劣っている」ということを、人に言う。「私は不安でしょうがない。手が汚いからいつも洗わないとしょうがない。だから~できない。だから就職できない。だから結婚できない」。これが神経症です。
Q 本人が治療を受けないと治らないのか?
A 「治る治らない」という発想をしないんです。不安を取るとか取らないとかはカウンセリングのテーマにならない。その人が不安なままで幸福になるとか、強迫神経症を持ったままで幸福になるという考え方をする。
フロイトは、「カウンセリングは不幸な神経症者を不幸な正常人にするものだ」と言った。彼は悲観論者だからそういう言い方をする。アドラーは、「カウンセリングは不幸な神経症者を幸福な神経症者にするものだ」と言った。
Q じゃあ正常はどこにあるの?
A そんなものはない。病気の分類とかかわりなく、幸不幸は別に決まる。「他の人たちと対等で協力的な関係を持って暮らせるように」なれば、神経症であろうが癌であろうが話は同じです。(野田俊作)