Q
自分をどう使うかに迷っています。子どもがいるので子育てを第一に考えようと思いますが、仕事もしたいと思っています。いろいろな現実的な問題のある中で、「これだっ!」って感じられるものを得られる準備の仕方を教えてください。
A
そんなんわからんわ。女の人が仕事をしたいと思うのも半分わかるけど、半分わかんないんですよ。僕どっちかというと家庭的男性で、ずっと仕事をしなくて誰か素敵なオバサマが私を養ってくださって、それで朝昼晩に食事を作って掃除して子育てして暮らせるなら、そんなありがたいことはないと思うんですけど。なかなかそういうオバサマが現れなかったものですから、イヤイヤ仕事をしておりますが。仕事することが優れたことで、専業主婦は劣った人たちだという迷信を広げた人たちがいるんですね。一方ではいわゆる女性運動家たちが女性の社会的自立を叫んでいて、それもなるほど納得できる根拠はあるけど、一方では廉価労働力なんですよ。かつて集団就職というものがあって、中学を出た子どもたちが集団就職で都会へ出て、工場なんかで働いていました。今集団就職難かないんですよ。なんでないかというと、代わりにパート主婦を雇うからね。パート主婦というのは、それなりに教育程度も高いし、集団就職の子のように思春期じゃなから情緒不安定じゃないし、それからパートですからいつでも解雇できるんですね。集団就職の子たちは常勤でしたし、当時、組合運動の強かった時代だから組合が組織して、かなり資本家たちが手こずったので、それに比べれば主婦労働力は扱いやすい労働力でいつでもクビにできるんです。おんなじ知恵が若い人たちにも及んで、若い女の人たちはいわゆる派遣社員で、派遣会社へ勤めてそこから現場へ行くのね。そうすると解雇が凄い簡単にできるじゃないですか。そういうふうに資本家の都合の良いように使われているだけという側面があるんです。そこをちゃんと見抜いておかないといけないと思うの。だから仕事をすること自体が社会的に優れた状態になることじゃないんです。資本家の手先になるだけなんですよ。だからほんとに自分のしたい仕事が見つかるまで、まあ慌ててスーパーのレジ打ちなんかに行かないほうがいいと思う。生活に困らないなら。ほんとにしたい仕事っていうのはようわかりません。人によってみんな違うからね。私だって、こういう仕事を見つけるまでに三十七・八年かかったわけですよ。若いころ思っていた方向と違います。若いころの思っていた方向というのも漠然としていましたけど、まあ白衣を着たお医者さんという方向で考えていたけど、全然違う方向で仕事するようになりました。それはなんでするようになったかというと、まわりと自分との相互作用ですね。私があることをやり、まわりがそれに反応し、また私があることに帰る。まわりがそれに反応しちょっとずつ変わっていって現在の状態があると思うんです。だから自分の決心で人生が開けるとも思わないし、まわりのなりゆきで開けるとも思わなくて、その両方のやりとりの中で開けてくると思うんです。そういうふうに考えて、慌てて考えないで、時間をかけていろんなことをやりながら試行錯誤的にやりながら自分の場所を探していくんだと思ったらどうですか?
Q
娘はただ安楽に人生を送るのを選択して暮らしています(素敵ですね)。もちろんそこからいろんなことを学んでいるのでしょうが、彼女と接していて私は何かできるのでしょうか?結婚しています。これからも彼女は自分の個性で学んで選択していくのでしょうが、それはそれでいいのでしょうが、何かモヤモヤしています(まあモヤモヤするでしょう)。
A
あのー、僕のに娘も1人「海牛」の生まれ変わりではあるまいかと思う、のんびりした人がいるんです。昔、話をしたことがあるんです。彼女が思春期の真ん中、18,9のときかにお話したことがあって、「お父さん(僕ね)は勉強しすぎたと思う。凄いたくさんお勉強して、大学を卒業してからも研修医とか何とかいっぱい勉強して、40ちょっと過ぎたころに気がついた」って、「この人生の前半、間違った」って。「学校が許してくれるところまで勉強しておけばよかった。それ以上賢くならなくてもよかった。医学部なんかに行ったけど、全科目力入れてやることないんで、教授さんが卒業させてくれる程度に勉強しておけばよかった。皮膚科とか耳鼻科とか勉強したって、卒業したら『ああこれ耳鼻科の病気だから耳鼻科へ行ってね』と言うことしかしないんだから、中身知ってなくてもいいんだ。合格点ギリギリでみんな60点で済ませたらよかったのに、そこを真面目にやっちゃった。卒業してからも、どうせ死ぬに決まっている患者さんにちょっと力を入れて、一生懸命やり過ぎた。あんまりせんでも早う死んだし、しても早う死んだし、一緒やなと今になったら思う。そうやって一生懸命頑張ったもんだから、遊ぶということを忘れてしまって、自分の体の状態も悪くなったし、なんかいろんなことで間違ったと思うんで、40過ぎてから遊ぶことにしました。で、釣りしたり山登ったりして、遊び人生活をして、その合間にちょっと仕事して暮らすことにしたんです。あなたは若いときからそのことに目覚めてずっと遊んでいて凄い良い生活の仕方だと思う。まあ自分が食べられるだけは稼いでほしいと思うけれど、頑張って生きるだけが人間の生き方ではないと思うと、自分でやってみて学んだから、あなたが頑張らないで生きるのに私は全然反対しませんから」と言ったんです。そしたら彼女は「わーい」と言ってそのまま頑張らないで生きることにしまして、のんべんだらりと暮らしています。僕はもともとライフスタイル的に頑張る人ですから、見てると「もう少し何とかならんか」と思うんです。思うけど、それは彼女の人生の選択だし、彼女が四十いくつかになったときに、誰かに言うかもしれない。「私は努力しないでのんびり暮らしてきたけど、これもやっぱり良くないことがあって、これこれであなたももうちょっと頑張ったほうがいいかもしれない」と人に言うかもしれない。それならそれでいいじゃない。人間は万能じゃない、全知全能じゃないからベストな生き方なんかやれないんです。みんななんかどっか間違った生き方を選ぶんですよ。私の生き方だってベストじゃないんです。子どもの生き方もベストじゃないかもしれない。その中で自分の個性に合わせてある生き方を選んでいくわけで、それは社会全体の中でそういう生き方をすることが必要なんだと思うわ。ひがんでいて復讐的になっていて、ムキになって変なことをしているのでなければ、自然体でそうなんならそれでいいんじゃないですか。
Q
最近、軽度発達障害の子どもが増えているようです(ほんとかな?)。わが子もそうではないかと言われています(みんなそうです。僕もそうです)。このような障害のある子どもにどのように接し援助してあげたらよいでしょうか?LDの子どもにどう勉強を教えていけばよいでしょうか?
A
僕たぶんADHDですね。今学校へ行っていたら絶対そう言われて、「病院行きなさい」言われて、リタニン(中枢神経刺激剤}かなんな飲まされておとなしくなっているでしょう。おとなしくなると僕の値打ちなくなるんですよ。うちのパートナーさんがいつも言います。「あなたはADHDなんだけど、たまたま成績が良かったから許されたのよ」って。だから、何にも注意事項はないんです。その子はその子なんですよ。その子に学校が学校の期待する人間像を無理やり押しつけようとするから病気だと見えてくるので、病気なのは子どもじゃなくて学校なんです。病気なのは子どもじゃなくて社会なんです。どんな種類の子どもも人間も、象徴的に言えば、神様に必要があってこの世に生まれたんです。だから例えばほんとに重度の知恵遅れの子とか、精神障害の子どもとかも意味なくこの世に生まれてきたとか、間違って生まれてきたんじゃないんですよ。そういう子たちもこの世の中に必要なんですよ。全員が働けなくても、働けない人たちも必要なんですよ。それを「何とかみんながおんなじように暮らせるようにしよう」と言う社会の側が間違いだと思うの。障害児教育について僕いつも言うんです。健常者とおんなじ目標で障害者を教育するのは凄い差別だと思うんです。みんなが算数をできなくったってちっともかまわないんですよ。それを、算数や国語ができることが人間の価値で、できないことは「劣っている」と考えることが病気だと思う。社会が大変深く病んでいると思う。これも1950年、60年ころから哲学者や思想家たちが言い始めました。「今の社会全体が大変大きな重大な精神病にかかっている」んだって。その精神病の症状が個人に出ている。だから社会を健康に戻さないといけないと思う。その症状の病気の本体の1つは何かというと、「全員がおんなじようでなきゃならない」ということね。だから、ADHDとかLDとかいうものは、存在するとしても問題じゃないんです。その子たちがその子たちの生き方で生きられるように、親と教師たちとが工夫していけばいいんです。社会に対して呼びかけていけばいいんです。その子たちを社会が資本主義社会が求める人間像に変形させるお手伝いをやめればいいんです。お手伝いしている限り、その人たちをも不幸にするし、この今の病的な社会を持続させもするし、大変良くない方向性だと思う。だから、教師はクビにすべし。社会は改革すべし。人間が人間をして生きられる社会を作っていくべし。
Q
レスポンシビリティと相手の言うとおりにすることは同じですか?
A
まったく違います。レスポンシビリティ、何に対して僕らがレスポンシブルなのかというと、世界全体に対してなんです。例えば、誰かが僕に「野田さん、10万円ちょうだい」と言ったらあげません。だって、その人に10万円あげることと僕の世界に対するレスポンシビリティと何も関係ないもん。私がこの世で世界にできること、この人類とその未来、地球とその未来にできることがレスポンシビリティなんです。いつもアドラーは「共同体」というのを二重写しで、「今ここにいるこの人」のことにも言うし、その向こう側にいる人類全体に向かっても言うんです。そこに向かう自分の責任を果たしていくことだと思う。目の前にいる人が凄いわがままでガリガリ亡者で自分の利益だけ考えている人で、その人に対して私がしてあげることが人類全体に対して良いか悪いかわからないじゃないですか。子どもを育てているときに、子どもの言うとおりに何でもかんでもしてあげたら、それは単なる溺愛的放任育児で、子どものためにとても良くないし、子どもの向こうに広がる人類の未来にも良くないじゃないですか。だから、子どもに、子どもが頼むことでも断るべきこともあると思う。子どもがしたがることでも、「それはしちゃいけないんだよ」と言うこともあると思うんです。「選択できない可能性」の話だってそうでしょう。だから、相手の言うとおりにすることではまったくありません。