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男性として尊敬できるか?

男性として尊敬できるか?
2002年03月10日(日)

 夫とのsexを拒否している女性が、その理由を「夫の子どもは産みたくないから」と言った。ある特定の女性というわけではなく、何人もの女性がそういうことを言う。ふうむ、これって、女性にしかわからない感覚かもしれない。男性が女性に「この女に私の子どもを産ませたくない」とは、まず思わないものな。逆に、「この女に私の子どもを産んでほしい」と思ってsexするわけでもなさそうに思う。だいたい、男性の心の中では、性行為と妊娠・出産がそれほど結びついていない。しかし、女性の心の中では、やはり、この両者は強く結びついているんだ。だから、女性が男性を受け入れる場合には、「この人の子どもを産みたい」と思っているんだな。おおこわ。
 どういう男性はsexしてもらえないのだろうか。sexを拒否している女性たちの意見を総合すると、要するに「男性として尊敬できない」男性が拒否されるようだ。そんな話をしていたら、さっそくフェミニストらしい女性から、「『人間として尊敬できない』男性ではいけないんですか?」と質問があった。彼女らは、かならずここにこだわるんだね。「男性として尊敬できない」でないとおかしいですよ。だって、逆に、セックスの対象となる男性は「男性として尊敬できる」男性であるはずで、「人間として尊敬できる」男性ではないでしょう。
 いや、これも男性的な感覚なのかな。私は、「いい女」とはsexしたいが、「いい人間」とsexしたいわけではない。また、誰か女性が私とsexしたがっているとして、なぜ私を受け入れるのか尋ねたら、「あなたはいい男だから」と言われると納得するけれど、「あなたはいい人だから」と言われるといやな感じだ。女性だってそうじゃないのかな。だって、性行為は、文字どおり性的な関係で、性的な差異(それが生物的なものであれ社会的なものであれ)が重要な鍵であるはずだ。
 もっとも、ここで「いい女」とか「いい男」とか言っているのは、さすがに私の年になると、容貌のことではなくて、「女性として尊敬できる」「男性として尊敬できる」という意味だ。ちなみに、今日は私の54回目の誕生日だ。



ジェンダー・センシティヴ
2002年03月11日(月)

 ある新聞記事に三流フェミニストの講演の要約が載っていて、「ジェンダー・フリー」の重要性を説いていた。生物的な性別をセクシュアリティ、社会的な性別をジェンダーというように区別する。しかして、ジェンダーは社会的な合意だから、どのようにでも変更できる。ここまでは私も合意する。ところが、三流フェミニストたちは、ジェンダーが性差別を作ってきたのだから、性差別撤廃のためにはジェンダーを撤廃すべきだという。
 ちょっと待ってよね、なるほどジェンダーという概念自体を拒否してしまえば、社会的な性の区別はなくなるけれど、それでいいのだろうか。区別がなくなることって、かえって差別的なんじゃないか。むかし、同文同種だとかいって、台湾の人々や朝鮮半島の人々に日本語や日本文化を押しつけたのと、同じ発想じゃないか。そこまでひどくなくても、たとえばアイヌの人々や沖縄の人々を文化的に根こそぎにして「同化」させているのと同じ発想じゃないか。それはひどい差別だよ。
 ジェンダーは、たしかに性差別と関係してきた。だから、差別と関係しない新しいジェンダーの区別を作らないといけない。それは賛成だ。そのために、ジェンダーそのものを否定してはいけない。私はそう思う。アドラーは、「同等(sameness)」と「平等(equality)」は違うといった。あの人はいつも賢いね。男女は違っているが、違ったままで平等でいられると思う。
 「ジェンダー・フリー」という概念の出典はどこなんだろう。最初に言った人は、それなりに考えて、ちゃんとわかって言ったんだろうね。提唱者となら話が通じそうに思う。しかし、今それを引用している三流フェミニストたちは、概念の内容をきちんと再検討しないで、ただ言葉だけを引用して、浅薄な解釈を加えて、さもわかったように思い込んでいるだけだと思う。
 「ジェンダー・センシティヴ」という概念のほうが有益な気がする。既成のジェンダーを鵜呑みにしないで、いつも再検討を加えていく、しかも否定しない、という態度だ。



最終的解決
2002年03月12日(火)

 昨日、ジェンダーのことを書いたが、それに限らず、なにごとについても、「最終的な答え」は存在しないと思っている。男女のあり方についても、無限に問い続けていかなければならず、しかも解答には到達しない。ある答えを得たと思ったら、その答えでは通用しない問題があらわれ、また問い直さなければならなくなる。無限に問い続けていくしかしかたがない。
 そうしているうちにいつか、問いそのものが無意味になることはある。たとえば、「死後われわれはどこへ行くか」というような問いは、今はもう無意味になりつつある。男女のあり方についての問いも、いつか無意味になる時代がくるかもしれない。それまでは、それはくりかえしわれわれに挑戦してくる。考えて、議論して、修正して、しかも最終的な解答には到達しない。
 そういうふうな永久革命論者なので、いつも最終的解決論者をいらだたせる。しかし、「最終的解決(final solution)」なんて信じないほうがいいよ。むかし、国際アドラー心理学会の評議員会で、ドイツの委員がこの言葉を使ったので、ユダヤ系の委員が一斉に退席したことがあった。だって、ヒトラーが「ユダヤ問題の最終的解決」といって、ガス室を発明したんだもの。いつだって、最終的解決なんて、そんなものなんだ。
 性差別についても人種差別についても、その他あらゆる不合理なことについて、無関心でいてはいけないと思う。センシティヴでなくてはね。でも、最終的解決に到達したと思ってもいけない。そういうものはないんだよ。

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少林寺をやる生意気な小4男子に

Q
 子どもに少林寺拳法を教えているんですが(楽しそうですね)、小学校4年生の男の子が中学生くらいの子どもたちに対して、からかい半分で叩いたり口答えをしたりして生意気だと、中学生の子どもたちから言われました。その4年生の男の子と「話をしてみる」と、中学生に言ったものの、どういう話をしたらいいかわからないです。アドバイスをください。

A
 どうなんでしょう?僕、少林寺拳法の哲学的側面についてよく知らないんです。合気道やってましたから、合気道の哲学的側面をよく知っているんです。“あかつあがつかつはやみのみこと”(=「正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)」名前の一部)という合気道の神様がいらっしゃるんです。合気道ってめちゃ神がかりでね、神様がいらっしゃって大本の神様なんですけど、その神様のこの世への使いなんです。その神様の「素の言霊」という言霊を承けてこの世に来ているんですよ。この話をしょっちゅう師匠から聞かされるんです。「だから座って合気道を学ぶ者として君のしたことをどう思うか、神の御前に、大神の御前に申してみよ」、とこう言うんですね。大神の御前に申すって、かなりこわそうに思わない?そう言います。少林寺拳法も一応宗教法人ですから、お釈迦様か何か神様がいらっしゃって御仏前に申し開きをしてみよと、人間に対して申し開きをしなくてよろしい。師匠といえども、“あかつあがつかつはやみのみこと”の神主にすぎないから、神主は所詮人間なんですよ。その向こう側にいる神の御心を自分の体に実現するのが合気道なんです。そしたら少林寺拳法も仏の御心を実現するのが少林寺拳法で、「あなたのしたことを仏様の前で説明してごらんなさい」って言うと、子どもは理解できると思う。そこで何が起こっているか、それは自分を辱めたり相手を辱めたり師匠を辱めたりするよりも、もっと大きなものを辱めているんです。倫理っていうのはそういうことです。倫理というのは、“人間性”というものそのもの、わたしでもなくあなたでもなく、この地球上に存在する人類というものがいて、それに“人間性”という値札が付いていて、それを私が下げたんです、ちょっと。そのことを子どもが理解してくれたらありがたいなって思います。だから今日はしませんが、いつか宗教のお話を正面からしなきゃいけないと思うんです。この間のスピリチュアルワークでは1日かけて靖国神社を含むなんて過激な宗教の話をみんなとしました。それはわれわれ1人1人がアレルギーを取り去って、冷静にそのことに向かい合わなきゃいけない話題なんですけど、宗教と言った途端に逃げ出す日本人が多いんです。「その話は聞きたくない」って。それはオウム真理教みたいな変な宗教とか、もう一つ変な宗教ありますね、なんか、外国の僕らの知らないおっちゃんと握手している太ったおじいさんが出てくる宗教。名前を言うのを憚りますが、ああいうものが凄くはびこっちゃうのは、日本人1人1人が宗教というものに真っ正面から向かい合わないからです。だいたい宗教って何かわからなくなっている、そもそも。それって凄い問題だと思うんだけど、まあ武道を習うということは神々とつきあうということです。剣道だって柔道だって神棚があって武道があるわけで、あれは神様の“わざおぎ”なんですよ。神々の前でする舞いなんですよ。だからその場所へ戻れば凄く簡単に話ができるんです。暴力とsexというものは人知を超えたものですから、神様の御前で行われることだったんですね、古来。だから結婚式って神前結婚しないといけないんです。神々があなた方を「産めよ増えよ、地に満てよの段階に達しましたよ」っておっしゃっているわけじゃないですか。だから神聖な出来事なんです。お相撲も土俵の上に前の大阪府知事を乗せなくて、僕は他の女なら乗せてもいいけどその女を乗せなかったのは立派だと、こう思ったんですけど。あの知事嫌いでしたから。暴力とsexは人間の力に余っているから、神々のワザだという場所に位置づければ、僕らの制御下に置けるんです。多くのことを制御下に置くために宗教というものが必要なんですよ。そういう風にお話なさることはできますか?スポーツってものを僕はあまり好きじゃないんです。武道がそういう神聖性を失ってただの競技になったときには、人間と人間とのただの競争にすぎなくて、それはアドラー心理学がいやがっている勝ち負けの世界、誰が上で誰が下の世界、金メダルもらう側の世界になっちゃうけど、武道というのは好きなんです。それは勝ち負けの世界じゃないから。勝ったとか負けたとかが問題じゃなくて、自分がどうであるかの世界だから、ほんとはね。近代柔道や近代剣道は勝ち負けを取り入れてしまったけど、本来はそうじゃなかったからね。(野田俊作)

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反折衷主義    野田俊作

パートソング/塩
2002年03月07日(木)

 今日も体調は完全ではなく、休暇をとって一日家にいた。なにもしないのもいやなので、昨日に引き続いてビデオの編集をしていた。待ち時間が長い作業なので、その間パートソングのCDを聴いていた。
 パートソング(partsong)といっても、知っている人は少ないと思う。19世紀から20世紀の前半にイギリスで書かれた合唱曲だ。ふつうは無伴奏の混声合唱だが、男声合唱もある。たまにピアノ伴奏がついたものもあるがごくめずらしい。ソロがついているのもないことはないが例外的だと思う。日本の合唱曲のように組曲になっているものもあるかもしれないが、一曲ずつ独立しているのが普通だ。
 パートソングを書いたのは、エルガーとか、ヴォーン・ウィリアムズとか、ホルストとか、ディリアスとかいった、「イギリスの」一流作曲家たちだ。「イギリスの」にわざわざカッコをつけたのは、イギリスへ行くと、クラシックCDの売上上位はいつもこの人たちの作品だそうだし(パートソングじゃなくて、交響曲や協奏曲だが)、クラシックのコンサートのプログラムにはこの人たちの作品が含まれていないと聴衆が承知しないという。中世の作曲家ジョン・ダンスタブルからついこの間亡くなったベンジャミン・ブリテンまで、イギリスの作曲家でさえあれば人気があるようで、音楽についても国産品愛用に徹しているとか。これらは誰か音楽評論家が言っていたのの受け売りで、自分で確かめたわけではないが、ありそうなことだとは思う。
 ともあれ、パートソングはきわめてイギリス的な音がする。いや、イギリス的な音なんだかどうだか、実はよくわからない。他の国の音楽とはきわめて違った音がする。真冬に聴くと寒くて仕方がないし、真夏に聴くと暑苦しくてしかたがない。今ごろの季節か晩秋に聴くのがいい。イングランドやスコットランドの霧にけむった海と空と森の音がする。ときどきこの作曲家たちの管弦楽作品も聴くが、同じ音がする。ドイツ音楽みたいに元気じゃないし、フランス音楽みたいに洒落ていないし、イタリア音楽みたいに情熱的じゃないし、ただただ「くつろいでいいよ」という音がする。悪く言えば、労働意欲のなくなる音楽だ。体調がよくないときには向いているかもしれない。
 ところで、今夜の夕食は、カツオのナマブシの生姜煮、大根の鶏そぼろあんかけ、ブロッコリーの和風サラダ、ネギと豆腐の味噌汁を作った。この間、サラダのドレッシングについて尋ねる人があったのだが、天然リンゴ酢2:ひまわり油1をベースにして、これにオリーブ油と荒塩とコショウを加えて西洋風にするか、ゴマ油と醤油と唐辛子(鷹の爪をそのまま入れる)を加えて和風にするのが普通だ。その都度作る。
 材料にあまり凝るほうではないけれど、塩だけは各種そろえていて、使い分けている。ドレッシングには、お遍路に行って、第十番札所切幡寺の下にある仏具屋に売っていた中国製の深層塩の結晶を使っているが、これはいい塩だ。残念なことにもうすぐなくなる。あそこへはもう行かないので、別のいい塩を探さなくては。煮物は、石垣島に行ったとき手に入れた、沖縄県粟国島の塩を使っている。石垣島まで行かなくても、「ワシタショップ」にも売っているようだ。漬物にもよさそうな塩だが、パートナーさんは漬物を食べる習慣がないので、家では作ったことがない。焼き物にはヨーロッパ製の岩塩を使っているが、もうちょっといい塩がほしいと思っている。
 塩だけで調味することもある。野菜くずを塩水で煮て作ったブイヨンでポタージュスープを作ったり、魚が新しければ酒で煮て塩だけで味つけすることもある。試したい人に言っておくけれど、食卓塩でするとまずいよ。



多動症
2002年03月08日(金)

 光が日一日と春になる。庭の白木蓮もつぼみがふくらんできた。
 3月1日に渓流釣りが解禁になっているのだが、最初の2週間ほどは成魚放流した魚を釣りに行く釣り人でいっぱいなので、私は行かない。まるでパチンコ屋みたいに人が並んでいる。そんなところで釣っても仕方がない。3月下旬か4月初旬になってから出かけると、誰もいない静かな沢が待っている。もっとも、人もいないが魚もいないので、そんなに釣れないのだが、それはそれでかまわない。春の光の中で一日すごせれば、それでいい。しかし、今はまだ時ではない。
 登山は、先日(02/20)ちょっとした雪山散歩をしていらい行けていない。雪山キャンプの予定があったのだが、急速に暖かくなって、中止した。雪がゆるくなって雪崩の危険がある。雪がなければただの枯木山で、風情もないもない。しばらくは登山も行けない。5月ごろかな、次は。
 海釣りは、一年で一番釣れない季節だ。グレ(メジナ)はもう終わりだし、メバルはまだすこし早い。わざわざ海へ出かけても、何も釣れないで帰ってくるのがオチだ。それに、このごろ渓流釣りや沢登りで忙しくて、海釣りは南の海へ行ったときしかしていないので、腕がうんと落ちていると思う。
 そういうわけで、休日も家にいることになる。そうなると、休憩した気がしなくて、出勤する日もなんとなく疲れているように思える。とにかくじっとしていられない人なんだ。子ども時代からそうだった。今だったら多動症だと言われていたと思う。多動児でも、こんなにちゃんと(?)大人になるんだから、親たちは心配しなくていいよ。



反折衷主義
2002年03月09日(土)

 地方でアドラー心理学運動の世話人をされている人の中に、アドラー心理学以外の心理学諸流派にも関心のある方が何人かいらっしゃって、他派の指導者を招いて講演会やワークショップを開催されることがある。そのことについて、学習者たちから、「アドラー心理学のお勉強だと思って参加したのに違った」だの「なにがアドラー心理学でなにがアドラー心理学でないのか区別できない」だのといった不満をよく聞かされる。
 日本の臨床心理学の主流は折衷主義になりつつあるように思う。アメリカではずいぶん前からそうだから、日本が追随するのは仕方がない。だから、折衷的にさまざまな流派の心理学を学ぼうと考える人のほうがアップ・トゥ・デートで、私のようにある流派の心理学一本で行こうとするほうが時代遅れなんだろう。それはそうなんだけれど、個人的な感想として、アドラー心理学を学んでからは、他の流派の理論や技法を取り入れる必要をあまり感じないのだ。アドラー心理学だけでほとんどの問題は解決できると思っている。だから、そういう折衷的な世話人さんたちが、なぜ他派の理論や技法を折衷したくなるのか、あまり理解できない。理解できないが、彼らがそうしたいのであれば、それはそれで仕方がないとも思うので、彼らに忠告したことは一度もない。
 私に不満を言う学習者たちは、私が世話人たちの折衷主義になにも言わないことも不満みたいだ。「なぜ野田さんは、『アドラー心理学でないものを学ばないでください』って言わないんですか?」と、私に詰め寄ったりする。そんな無茶を言わないでよ。なるほど私は反折衷主義のアドラー心理学原理主義者だよ。でも、人に反折衷主義を強要する気はない。また、地方のアドラー心理学運動がどう動くかは、その地方の学習者が決めることであって、私には決める権利がない。もし折衷主義的な世話人がいやなら、反折衷主義的なグループを作ればいいじゃないか。従来の折衷主義的な世話人を支持するか、新しい非折衷主義的なグループを支持するかは、地域の学習者が民主的に決めればいい。そういうものだと思っている。

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倫理と理念

Q
 有意義なお話をありがとうございました。質問なんですが、倫理は理念であって実際は違うという意見を耳にすることがあります。先生は倫理と理念の関係をどう思われますか?

A
 理念ってideaなんでしょうね、きっと。倫理はidealですねえ。ですからエル(L)のある分だけ違います(笑)。英語の試験だと、おんなじだとペケです。頭の中で考えるmindですね、ideaっていうのは。ideaは言葉ですからmindなんですよ。「こうしたらいいかな」って、「こうするのがいいかな」「これは悪いかな」って考えること。倫理っていうのはheartですから、「こう生きよう」っていう決心なんですよね、ideal。アドラー心理学は「人のために生きよう」と決心してくださいです。それは決して強制できることではありませんが、もしあなたが本当に幸福になりたいのであれば、という条件をつけます。「もしあなたが本当に幸福になりたいのであれば、自分のことばかりを考えるのをおやめなさい。他の人たちに対してできることをなさい」って言います。アドラーはよく患者さんにそう言いました。「あなたは無理をして、人から期待されることを何もかもしようと思って暮らすから鬱病になるんです。だからあなたはしたくないことをしなくていいです。無理に何かする必要はありません。ただし、1日に1個だけは人のためにできることをなさい」って。そういう鬱なんかになって、神経症なんかになって、私の所へ来る患者さんを見ていて、つくづく思うけど、ごめんね患者さん、あなた方は1日いっぺんも人の役に立っていない。いっぺんだけでも役に立てれば、その分だけあなたの人生は変わっていくと思う。だからまず「他の人の役に立って生きよう」という大きな決心を最初にしないと動き出さないと思います。「四誓偈(しせいげ)」、“4つの誓いの歌”というのが仏教にあります。どの宗派もやりますねえ。うちは曹洞宗でしたので曹洞宗では一番最初に、「衆生(しゅじょう)無辺(むへん)誓願度(せいがんど):人々はよるべがないから誓いを立てて救おう」と、一番最初は「誓い」なんですよ。その次が「煩悩無尽誓願断:迷いは尽きるところがないから誓いをもって断とう」と、だから2番目は懺悔なんですよ。自分自身を見て、自分自身の問題点をちゃんと調べて劣等感を直視することね。その次が「法門無量誓願学」で、学ぶこと。自分の今までの考え方は違ったと思って、新しい考え方を一から学ぶこと。学ぶというのはさっき言ったように、聞いたことを既に知っている言葉に翻訳するのをやめること。ひと言でも相手の言ったことをそのまま受け取って実践してみることだと思います。それから最後に「仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう)」で、とにかくコツコツと一歩一歩実践していくこと。誓いを立てることと、それから自分の問題点をちゃんと直視することと、新しく空っぽになって学び始めることと、それを実際にやり始めることっていう順番が、僕たちが学んでいく順序だと思うんです。みんながうまく学べないのは、どっかの段階をパスしているからなんですよ。最初に、おのれの自分の得のために学ぼうと思ったり、学ぶけど「私は間違ってないもん」と思ってみたり、学んだけど実践しなかったり、実践するけどちゃんと勉強しなかったりすることでうまくいかないんです。だからその順番で学ばれれば、誰でもうまくいくと思う。僕、ダライラマを見てて思った。ダライラマというのは、あれは一応ただのおっさんですね。聖者というタイプではないと思う、インド風に言えば。インド風の「グル」とはちょっと違って、彼は生まれてごく小さいころにごく「賢い子」を選ぶんです。前世のダライラマの転生としてチベット中から賢い男の子を選ぶんですよ。その男の子の中で見込みのありそうな、体も丈夫で賢い子を転生だと言って、小さいころから英才教育をするんです。英才教育はチベットの場合は、公文式仏教英才教育マニュアルがありまして、頭の良い子が小さいときから系統的にやれば、誰でもだいたい二十何歳で完全に「歩く仏教辞典」になれるシステムがあるんです。僕、それに出会ったのが遅かったので、今生では間に合いそうにないから、5歳6歳の子が学び始めるみたいにわれわれ大人は学び始めることができないからね、忙しくもあるし先入観もあるし、記憶力も悪いし。だから今生は諦めまして、この次生まれ変わったらあのシステムで勉強しようと思っているんですけど。完ぺきなマニュアルがあるんですよ。それを彼は小さいときからやりまして、二十何歳で成就しました。それは結局今言った順番で願を立てて、懺悔して学んで実践するの繰り返しなんですけど、この間、日本で会見しているのを見てね、中国の政府や中国人を凄い慈悲をもって哀れんでいるんだと思ったの。普通、西洋論理学だと、ここで中国政府や中国人を怒るところなんですよ。同胞のチベット人がころされているから、怒らなきゃいけないのに全然怒らないで、彼らの煩悩ね、彼らの悟りの浅さを悲しんでいるなあと思ったんです。それは教育システムの成果だと思うのね。あれがハートが開くためのシステムで、ちゃんとシステムどおりやれば、ハートは開くんだ。あれはだから凄い新しいタイプの政治家だと思うんです、怒りでもって応えないタイプの。だから次の時代はああいう人たちがだんだん増えていって、仏教でもキリスト教でもイスラム教でも、怒りでなくてcompassion。bodyはsympathy、mindはempathy、heartはcompassionでね、ボディは同情で、マインドは共感で、ハートは慈悲なんですけど、今compassionてのがこれまた心理学で凄い話題なんです。sympathyでもemparhyでもないcompassionね。ああ、怒りでなくて慈悲でもって敵を見るんだって、彼らを迫害している人たちを見るんだなって。そういう政治家が出てくるんだなって思ったんです。だからね、学べば誰でもそこまでちゃんと到達する。ですから、ちゃんと「勉強、勉強」ってやっていきましょう。(野田俊作)

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昭和万葉集    野田俊作

昭和万葉集
2002年03月03日(日)

 『昭和万葉集』という短歌のアンソロジーがあって、全20巻だかの壮大な仕事だ。むかし、全巻持っていたのだが、別居から離婚に向けてのドサクサの最中に古本屋に行ってしまった。その後、とても残念に思って、太平洋戦争と戦後の3巻を古本屋で見つけて買い戻した(元の本じゃないけれどね)。安い値段しかついていなかった。やはりこういうものは売れないのだ。
※注:アンソロジー(anthology)とは、一般的には、複数の作家が特定の題目(テーマ)で手掛けた作品をまとめた「選集」のこと。あるいは、同一作者の作品群から特定の基準で選りすぐった作品集のこと。
 アンソロジーの語源はギリシア語の「アントロギア」(anthologia)である。anthos + logia という構成の語彙で、そのまま英語に置き換えると「flower collection」つまり「花束」を指す意味となる。
 古代ギリシアにおけるアントロギア(anthologia)は、もっぱら「詩集」を指す語であったが、現代では短歌や短編小説、マンガ作品などの選集もアンソロジーと呼ばれている。
 その後、講談社現代新書から『昭和万葉集秀歌』3巻が出た。東京の事務所に持っていって、置いておいた。手元にもほしいと思って書店を探したら、絶版になっているようだ。そこで、今日、東京のを、持って帰ることにした。新幹線の中で読んでいたが、やはり精選されたよい歌が多い。戦争に関する歌が圧倒的にいいのだが、今はそういう陰気なのはやめて、春の歌をいくつか書いておく。

春ここに生まるる朝の日をうけて山河草木みな光あり  佐々木信綱

静かなる雲の流れと思へるに木の間をくだる霧は速しも  岡井弘

梅林を深く来しとき陽のさして盛りの花は照り出でにけり  高見楢吉

春寒き風の行くへに光あり一樹の梅は花のま盛り  西郷春子

ちる花はかずかぎりなしことごとく光をひきて谷にゆくかも  上田三四二



確定申告/指輪物語の読者
2002年03月04日(月)

 大阪国税局のホームページに確定申告のためのエクセルのマクロがある。それを利用して申告書を書いた。一瞬でできあがった。帳簿はとても苦手で、昨年まではかなり苦労したのに、いったいあれはなんだったんだろう。昨年は、印税収入がほとんどなくて、とてもシンプルな申告書になった。今年はなんとか新しい本を書きたいものだ。冬の間にメドをつけるつもりだったが、あれこれ雑用をかたづけることで終わってしまった。ともあれ、明日は税務署へ行こう。
 映画『ロード・オブ・ザ・リング』を下見に行った。パートナーさんにお勧めするかしないか決めないといけないのでね。大阪のミナミの繁華街の映画館で、12時20分に始まったのだが、映画の中身はともかくとして、年配の観客が多いので驚いた。『指輪物語』の和訳本が出たのは、たぶん30年も前だから、そのころ読んだ人たちなんだろうな。しかし、それにしても、当時30歳でも今は60歳だ。もっと高齢の方々が多かった気がする。息子や娘が読んでいるのを読まれたのだろうか。
 一方、若い人はあまりいない。この映画、あまり流行らないかもしれないな。だって、3日に封切で、今日はもう座れたんだもの。



不整脈
2002年03月05日(火)

 昨夜から不整脈が出てつらい。不整脈は、初発は中学生のころだと思うので、もう長いつきあいだ。両親とも不整脈があるので、遺伝的なものだろう。危険な種類のものなら今ごろ死んでいるはずだから、命に別状はないと思う。しかし、心拍出量が減るので息苦しいし、少し歩くと脚がだるいし、安静にしていると脈が飛ぶのが感じられて不快だ。このつらさは、経験のない人にはわからない。まあ、どんな病気でもそうだと思うし、つらさを知るために病気してみようとも思わないが。薬を服んでいるのでふだんは抑えられているのだが、過労や深酒で出てくる。両方とも覚えがあるので、昨夜も今日も酒をやめて、いい子にしている。
 今日は休みたかったのだが、心理治療の予約があったので出勤した。こういう日に当たるお客さんは気の毒だ。文字どおり「息も絶え絶え」の治療者なんだから。他の心理療法家はどうだか知らないが、私は、声をコントロールすることで、さまざまの仕事をする。ところが、不整脈で息の調節が難しいと、それがもうひとつうまくいかない。だから、お客さんの「ノリ」が悪い。でも、体調が悪いからって断るわけにもいかないし、せいいっぱいは働いてきた。明日は休みがとれる。なにもしないですごそう。



禁酒
2002年03月06日(水)

 今日で3日、飲酒していない。意志の力で飲まないのであれば、ちょっとエラいかなと思うのだが、体調が悪くて飲みたくないだけのことだから、自慢できることではない。不整脈は、今日はすっかり落ちついている。しかし、なんとなく全身がだるいようで、本調子でない。
 仕方がないので、家にいて、ビデオの整理をしていた。2000年の夏にフィリピンのセブ島でパートナーさんが撮った水中ビデオをパソコンに取り込んで、切り継ぎしたり字幕を入れたりしている。パソコンに取り込むと、字幕は簡単に入れられる。必要があればアフレコもできるし、CDから音楽を取り込むこともできる。しかし、IEEE1394ボードにおまけでついてきたソフトはきわめて不便だ。Adobeから新しいビデオ編集ソフトが出たそうだから、買おうかな。それにしても時間がかかる、1日がかりで、やっと20分ほどの分が編集できた。全体で60分程度に仕上げようと思っているが、編集に3日かかり、その後でaviファイルに戻すのに丸1日かかりそうだ。これは暇人でないとできないな。
 体調はかなり回復しているので、夕飯を作った。中華料理だ。硬いヤキソバと、回鍋肉huíguōròuと、中華風チキンスープと、ブロッコリーとトマトのサラダ。そういうものを食べたくなるほど元気になってきているということだ。

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