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http://www2.oninet.ne.jp/kaidaiji/dai1keiji-06-13.html
憲法第9条
2001年05月19日(土)
今日、「憲法第9条についてどう思いますか?」と質問を受けた。質問者はたぶん教師だと思う。私は政治や軍事のことを特に研究しているわけではないし、それどころかむしろ無関心に近いので、なぜ私に聞くのかわからないけれど、まあせっかく聞かれたのだから、私なりの意見を述べておいた。以下、素人の意見だと思って読んでいただきたい。
例えば、自衛隊は、道路交通法に従わなければならない。だから、敦賀かどこかに某国の軍隊が上陸して、兵庫県伊丹市にある部隊がそちらへ向かうとする。戦車(自衛隊では特車というようだが)は、信号が赤だと停止しなければならない。夜間だと、無灯火で運転してはいけないので、ヘッドライトをつけるから、格好の攻撃目標になってしまう。これは、いわゆる有事立法がないからで、有事立法がないのは第9条があるからだ。
今さら本気で非武装中立を信じている人はあまりいないと思うので、自衛隊の存在そのものは容認するわけだ。としたら、それがどんな状態であるかを監査する権利を納税者はもっていることになる。法整備が不十分であることだけが問題ではない。装備についてもさまざまの問題があるようだ。陸上自衛隊は弾薬をあまり持っていなくて、一斉射撃を続けると半日で弾丸がなくなるという話も聞いたことがあるし、戦車はコンピュータ制御できわめて精巧にできているので前線で故障したとき修理できないという噂もある。そういうことが本当だとすると、われわれの税金が不当に使われていることになる。
こういうことについて、冷静に議論できる雰囲気が必要だ。法を改正するかしないかは、現実に即応しているかどうかでもって決めるべきであって、そのためにはまず現実を知らなければならない。私は、法が理想をうたうことを、あまり好きではない。法というのは、きわめて現実的なものでなければならないと思っている。日本国憲法は、ややロマンティックすぎるのだ。
憲法第1条
2001年05月20日(日)
昨日とは別のところで別の人から、「天皇制についてどう思うか」という質問を受けた。質問者はきっと教師だろうな。しかし、どうして私みたいな政治無関心派にこんなことを聞くのだろう。まあ、聞かれたことには私の考えを答えることにしているので、以下のように話した。
まず「天皇」という名前はやめた方がいい。英語でいうと emperor で、「皇帝」ということだが、皇帝というのは、他民族を征服した王朝の君主のことをいうので、いくつか具合の悪いことがある。まず、実情にそぐわない。天皇は、日本国民の君主(という用語がいやなら、「統合の象徴」)であって、それ以外の国の君主ではない。つまり、「日本国王」なんだ。英語でいうと king だ。これなら私は認めることができる。
第二に、「天皇」という名称の歴史的起源が怪しい。古事記や日本書紀の時代に、朝鮮半島の一部(いわゆる任那日本府)に対する宗主権の主張のために考え出された称号ではあるまいかと私は思っている。韓国・朝鮮人は、だからこの称号が嫌いなようで、韓国の新聞では天皇のことを「日王」と表記している。「日本国王」の省略だ。これは妥当な名称ではないか。
第三に、歴史的に、この地域の皇帝は中国皇帝だったし、日本は卑弥呼以来何度か朝貢したことがあるので、中華帝国の辺境王国だったのだ。今の中国共産党はチベットに対してひどい迫害をしているのでちょっと困るが、むかしの中国皇帝はもうすこし鷹揚で、朝貢さえすれば現地の文化はそっくりそのまま認めたので、中国の属国でいるのもそう悪くはなかったようだ。中国が共産主義をやめて、イデオロギーのない帝国に復帰すれば、朝貢して、「日本国王之印」などいただくのも悪くないのではないか。
こうして、「天皇」はやめて「王」にすることが第一の提案。第二は、皇室(ではなくて王室)の人々の基本的人権を認めること。たとえば、銀座か新宿あたりで私と皇太子が一緒に一杯呑む権利とかね。今みたいに、国民から隔離して暮らしていただくのは、あの方々に気の毒すぎる。あれじゃ「いけにえ」だよ。王というのも一種の世襲の職業であるから、能の家元程度には窮屈かもしれないが、その程度の窮屈さにしてさしあげたい。
王制には賛成なのだ。だって、君主というものが必要なんだが、歴代の総理大臣の誰一人、君主にいただいていいほど上品じゃないんだもの。それに、外国の例を見ると、立憲君主制の国のほうが政情が安定している。共和制は、うまくいっているときはいいが、混乱しだすと歯止めがないようだ。
以上の意見は、右翼からも左翼からも嫌われるだろうね。ある意味で国辱的だもんな。
演出の力
2001年05月16日(水)
明日、精神神経学会で発表するので、ここしばらく準備をしていて、今日は最後の追い込みだ。自分で出す演題ではなくて、向こうから講演をするように頼まれたのだ。もうそんな年になってしまったんだね。でも、とても喜んでいる。もちろん、題目はアドラー心理学だ。私としては、やはり、専門家の前で話をしたいのだ。そうして、ひとりでも多くの専門家にアドラー心理学を学んでもらうことが、ひとつには患者さんたちへの貢献になるし、ひとつはアドラー心理学の未来を担う人たちを育てることになる。
ふつう、原稿なんかなしに講演するのだが、今回はきっちりと原稿を書いている。とても緊張しているのだ。精神医学の世界では、一方ではフロイト風の精神分析学が今でも優勢だし、もう一方にドイツ精神病理学という、私などにはとうてい理解できない深遠な理論がある。そういう先入観をもった聴衆に、アドラー心理学のようなあまりにも平明な理論と技法を説明しても、はたして評価されるかどうか、とても心配なのだ。たとえてみると、いつもオーケストラの曲を聴いている人に、笛の独奏を聴いてもらうようなものだ。中華料理のフルコースを食べ慣れている人に、漬物とお茶漬けを出すようなものだ。
そこで、ちょっと工夫して、相方さんを頼んで、分裂病(統合失調症)者の母親に対するカウンセリングのシミュレーションをすることにした。台本はようやく書きあがって、今日はリハーサルしたのだが、ちょっとした声の調子で、感じがまったく変わってしまうものだ。脚本だけでは芝居は動かないんだな、演出の力ってすごいんだなと、今さらあたりまえのことに感心している。台本を書くことはそう苦にならないが、演出はどうしていいのかわからない部分がある。才能がないんだな。あれこれ試行錯誤しながら、それらしく仕上げていったので、きっと大丈夫だろう。
精神神経学会で話す
2001年05月17日(木)
昨日も書いたが、大阪で精神神経学会があって、その催しの中に精神医学研修セミナーというものがあり、アドラー心理学の治療法について講習をしてくれと頼まれた。ようやくアドラー心理学も社会的に認知されはじめたのだなと嬉しく思っている。まあ、母校の大阪大学精神医学教室が今回の当番校だから、身内だというので声をかけてくれたにすぎないのかもしれないのだが。しかし、身内だとしても、教室との行き来はもう20年近くもほとんど途絶えている。それでも思い出してくれたのは、やはりアドラー心理学が世間に知られてきているからだろう。
50人ほどの聴衆の前で、分裂病(統合失調症)者の母親に対するカウンセリングのシミュレーションをしながら、あれこれ説明を加えた。「せっかく大阪へ来られたのだから、大阪夫婦漫才ノリで」などと言って、大阪弁でカウンセリングした。まじめな学会のまじめな研修会だから、私のようなふざけた講師は他にはいなかったのではなかろうか。しかし、標準語でカウンセリングすると、どうも間(ま)がつかみにくいのだ。大阪弁だと、微妙な間がうまくつかまえられるように思う。リハーサルしているうちに、やはり大阪弁しかないなと思ったのだ。そうなると、吉本新喜劇風で、アドリブをいっぱい入れることができて、ほんもののカウンセリングにとても近いものになったと思っている。やはり、大阪人は、大阪弁になったとたんに自由になるんだ。
おおむね好評だったように思う。聴衆の期待とはまったく違った内容の話をしたのではないかと思うのだが、熱心にうなづきながら聴いている人が多かった。質問もずいぶんあったし、内容もきわめて適切な疑問だった。なんだか、未来がちょっと明るい。あちこち、専門家の前で話をする機会が、今後もあればいいなと思っている。そのためには、専門家向きの本を書くことも考えなくてはね。
隣の部屋では、大学の研究室のボスだった高石昇先生が行動療法の話をされていた。自分の先生と一緒に講座をするというのは、かなり緊張する体験だった。大学に就職して講義をしていると、そういうことはふつうにあるだろうから、そう緊張しないのかもしれないが。
「ない」の論理学(4)
2001年05月10日(木)
家族から嫌われている父親がいたとしよう。彼がいないとき、家族は仲良く笑いながら暮らしているのだが、彼が帰ってきたとたんに雰囲気が暗くなって、どんよりと重たい空気の中で傷つけあいながら暮らす。さて、この父親から見ると、家族は暗くて重たいところで、笑うことはおろか、話すことさえめったにない。ところが実は、彼さえいなければ、みんなしあわせに暮らしているのだ。彼は、自分が不在のときの家族を知らない。
これはたとえ話で、われわれは自分が不在のときの世界を知らないということを言いたいのだ。逆にいうと、自分が臨在することの効果を知らないのだ。われわれが住んでいる世界が明るいところか暗いところか、楽しいところか苦しいところか、面白いところかつまらないところか、みんなが助け合う世界か足をひっぱりあう世界かは、実は私の臨在や不在と関係しているのかもしれない。それほど関係していないのかもしれないが、かなり関係しているのかもしれない。それをわれわれは、直接には知りようがないのだ。
「私がいない時、みんなはどうしているの?」と誰かに聞いてみるという案は、あまりいいアイデアではないかもしれない。みんな遠慮して、ほんとうのことを言わないかもしれないし、もし本当のことを言ったとしても、それは、聞かれたほうの人が臨在している世界であって、その人がいないと変わるかもしれない。あるいは、ほんとうのことを聞くと、われわれはひどく傷つくかもしれない。最初に例にあげた父親に、「あなたさえいなければ、家族はとてもしあわせに暮らしているんですよ」というと、彼が傷つくように。
ビデオなどで録画しておくというアイデアもあるが、情報量が限られている気がする。実際にそんなことをしてみるほど、みんなはパラノイアックじゃないみたいだし。
※浩→パラノイア=偏執(へんしゅう)病、妄想症ともいわれ、頑固な妄想のみをもち続けている状態で、その際に妄想の点を除いた考え方や行動は首尾一貫しているものである。
幻覚、とくに幻聴は伴わず、中年以降に徐々に発症し、男性に多い。妄想の内容は、高貴な出であると確信する血統妄想、発明妄想、宗教妄想などの誇大的内容のものをはじめ、自分の地位・財産・生命を脅かされるという被害(迫害)妄想、連れ合いの不貞を確信する嫉妬(しっと)妄想、不利益を被ったと確信して権利の回復のための闘争を徹底的に行う好訴妄想、身体的な異常を確信している心気妄想などがある。一般には、自我感情が高揚して持続的な強さや刺激性を示している。
パラノイアを独立疾患とみる立場と、統合失調症の一類型とみる立場、あるいは一定の素質と生活史や状況から理解できるという立場などがあって、今日なお一定した見解はない。
なお、パラフレニーparaphreniaは妄想だけでなく幻覚も伴うもので、人格の崩れの比較的少ないものをいい、多くは統合失調症に含まれている。
消極的な性格の人は、こういう心配をしなくていいかもしれない。そんなに場を支配しないから。まあ、消極的な人は消極的な人なりの支配の仕方もあるのだけれど、それでも積極的な人が場を支配するのとは違う。積極的な人は、「私が動かないと、ひどいことになる」と信じていて、ずっとそうして生きてきたものだから、自分が動かない場合にどういうことがおこるかを、実際には知らない。動かないと、けっこういいことがおこることもある。逆にいうと、動くので事態が悪くなっていることもある。治療をしていると、よくそういうことに出くわす。
まあ、人のことはよく見えるが、自分のことは見えないので、私がいない世界が私がいる世界よりも住み心地がいいのではいけないから、もうすこし消極的になってすこし離れたところから世界を観察してみよう。こうして、消極的になって、世界からすこし距離をとって、関与することを避けて、それで世界になにがおこるのか見てみるのは、自分の臨在の効果について洞察するいい方法なのかもしれない。
「ない」の論理学(2)
2001年05月08日(火)
臨床心理学はフロイトが「無意識」というアイデアを思いついたときにはじまる。無意識というのは、語義的には「ここには意識がない」ということだが、じゃあ「意識がない」というのはどういうことか。
「意識がない」というと「なにもない」と考える人がいる。脳外科医などはそうで、彼らがいう「意識がない」というのは、高次神経機能がすべて麻痺している状態のこと(意識混濁)のことだ。
しかし、心理学者は、意識混濁や失神の話をしているのではないから、「意識がない」といっても「なにもない」とは考えない。心理学者の中には、「意識がない」というのは、「高次神経機能は働いているけれど、ただ『意識』と呼ばれる機能だけがないのだ」と考える人がいる。アドラーなどはそうだ。そうは考えないで、「意識がない」というのは「意識の代わりに無意識というものがある」という風に考える人もいる。フロイトなどがそうだ。
意識だと、話がわかりにくいので、「ここに人はいない」を例に考えてみよう。「なにもなくて虚空しかない」という解釈もありうるし、「人はいないけれど犬はいるかもしれない」という解釈もなりたつかもしれない。けれど「『無人』がいる」というのは変だよね。フロイト式の「無意識がある」というのは「無人がいる」というのと同じで、実はおかしな考えだと思う。
論理学的に見ると、アドラーは「ここに意識がない」といい、フロイトは「ここに無意識がある」と言っている。つまり、「無」は、アドラーにおいては述語であり、フロイトにおいては主語だ。別の言い方をすると、「無」は、アドラーにおいては機能で、フロイトにおいては実体だ。アンスバッハーという学者は、「無意識(Unbewusst)という単語を、フロイトは名詞として使い、アドラーは形容詞として使った」と言っているが、同じことだ。
フロイトは無意識を実体化して主語にし、そこから無限の思弁を繰りひろげていった。まともにものを考える臨床心理学者は、それと百年間戦い続けなければならなくなったのだ。しかし、素直に考えれば、「不在のもの」を主語にするのはおかしいと思う。「無人がいる」というように。「ない」についての論理学があいまいだから、百年も無駄な議論をしなければならなかった。
「ない」の論理学(3)
2001年05月09日(水)
ゴータマは「自我はない」と言った。しかし、「この私」はあるだろう。だから、この言明には、なにか深い意味があるんだ。
部派仏教(小乗仏教)の学者は、ゴータマの言葉を解釈して、「自我はないが、その構成要素(法)はある」と考えた。彼らによれば、自我はたとえば馬車のようなものだという。車輪や車軸や車体などで馬車ができていて、車輪等の構成要素はたしかに実在するが、それを離れて馬車というものは実在しない。
※浩→部派仏教:釈迦 (しゃか) 入滅後100年ごろから約300年の間に分立した諸派の仏教。アショカ王の時代に、教団が保守的な上座部と進歩的な大衆部とに分裂し、以後、上座部が11部、大衆部が9部の20部となった。のちにおこった大乗仏教からは小乗仏教と貶称 (へんしょう) された。
ナーガールジュナ(龍樹)がこれに反発して、「自我もないし、その構成要素もない」と言った。自我や構成要素の存在をわれわれは感じるが、それは幻覚のようなものであって、実在ではないというのだ。つまり、一切(=自我と構成要素)は空だと、彼は言う。
唯識派はこれに反発して、「自我もないし構成要素もないんだったら、虚無主義じゃないか。そうじゃなくて、自我も構成要素もないが、それをみている「識」はある。ただし、その識は、意識されていないので、ふつうの自我や意識のことではない」と言った。
(龍樹の一派の)中観派はたまげて、「それじゃ自我があるといっているのと同じじゃないか。名前を変えたって、自我は自我だぜ。そうではなくて、ナーガールジュナが言ったように、自我も構成要素も、“実体”としてはないが、“現象”としてはあるんだ」と言った。
この論争は一千年も続いたが、決着がつかなかった。私がこの論争を追いかけるのは、臨床心理学について考えるうえで意味があるように思っているからだ。唯識派はフロイトやユングに似ていて、「一切は存在せず、ただ無意識だけがある」と言っているし、中観派はアドラーに似ていて、「一切は実体としては存在しないが、現象としては存在する」と言っている。中観派の唯識批判をきっちりと読んでいくと、フロイトやユングをどう批判すればいいのかがわかってくる。