パワーポイント
2002年10月06日(日)
今日からアドラー心理学の基礎講座をしている。全8章を、2章ずつ4回で講義するのだが、今回からパワーポイントでスライドを作って、それを見せながら話をしている。ちゃんとしたスライドができれば、他の講師にもそれを使ってもらって、統一的な規格の講義ができる。アメリカのアドラー心理学の学校ではシラバスを使っている。昔は私もシラバスを使っていたのだが、それよりもスライドのほうが、書体や色やレイアウトを工夫して、立体的に構成することができる。複雑な話をしているので、すこしでも論理構造が見えやすいほうがいいと思う。その点では、紙に印刷されたものより、カラフルなスライドのほうが、わかりやすいように思う。
もっとも、現在のスライドは、あまり出来がよくない。このごろ忙しくて、ゆっくり考えて作る暇がなく、心理臨床学会などで使ったスライドを大急ぎで焼きなおしたものだ。何度か講義するうちに、だんだん洗練されてくるだろう。来年か再来年には、最終決定版ができると思う。このアドラー心理学基礎講座だけではなく、さまざまの種類の講義のためのスライドを作っているが、けっこう面白くて楽しんでいる。
リヴェンジ失敗
2002年10月07日(月)
先週、和歌山県すさみ町へダイビングに行って台風に会ってしまったので、リヴェンジを企て、今日行くことにしていた。ところが、昨夜ショップから連絡があり、波が高くて船が出せないとのこと。荷物を宅急便で送ってあるので、送り返してもらうことにして、往復の送料丸損だ。季節と予定を考えると、今年のダイビングはこれで終わりだ。残念。
ダイビングに行かないとなると、一気に疲れを感じた。この前から疲労感が続いている。これは、血圧の薬が変わって、身体がまだ慣れないためかもしれない。あるいは薬のせいではなくて、オーバーワークのためかもしれない。こんな状態でもダイビングに行けば、きっと元気なんだ。しかし、休養と決まると元気じゃなくなる。心と身体の微妙な関係だ。
月曜はパートナーさんがお休みで、なんだか自宅のメンテナンスなどにたくさん仕事を入れているみたいなので、邪魔になってはいけないから出勤することにした。ただ出勤して仕事をするのでは悔しいので、途中で日本橋(にっぽんばし)によってDVDプレーヤを買った。今まではパソコンのDVDドライブを使っていたのだが、やはり専用機があるほうが便利だ。先日、オーディオのパーツを買いに行ったときついでに値段を見たら、ずいぶん安くなっているので、これなら買ってもいいなと思ったのだ。オフィスで、それに液晶プロジェクタをつないで、オペラ『アラベラ』を見ていた。音声はちゃんとしたオーディオシステムにつないだので、とても感動的だ。オペラファンのスタッフに頼まれて、音をMDに録音したけれど、リヒヤルト・シュトラウスの複雑怪奇なオペラを、音だけ聴いても楽しくないんじゃないかと思うんだがな。ヴェルディとは違うんだよ。
スタッフは仕事をしていたけれど、私は一日休養させてもらった。先週は忙しかったし、この週末からまた忙しい。今週はちょっとゆっくりしよう。おっと、月末までに原稿を2本書かないといけないな。ま、なんとかなるだろう。
五年日記
2002年10月08日(火)
五年日記は3年目になって、まだ書き続けているが、続けたものかどうか、ちょっと考えていた。補正項も毎日書いているし、これとは別に日記を書くのは負担がちょっと大きい。
内容は、日記というよりは日誌で、何時のどの列車に乗ってどこへ行っただの、どこのホテルは居心地がいいだの、事務所でどんな相談をしただの、あの山のこのルートは難しいだの、患者さんがどういう問題で来ただの、そういう乾燥した記録ばかりだが、そういうことのほうが後で役に立つかなと思って書いている。情的なことをくどくど書いても、そのときは面白くても、後で読み返して使えないからね。
もともとは釣り日誌と山行日誌があって、それらをやめて五年日記にしたので、それらふたつに、出張日誌と業務日誌が合併したようなものになっている。ただ、欄が小さいので、釣りや山行に関してはじゅうぶんに書けない。かといって、専用日誌を復活するのもおっくうだ。
あれこれ考えたが、やはり続けて書くことにした。毎日の血圧や体重を書いておいたり、キャンプしたときマークをつけておいたり、そういうことだけでも将来役に立つ気がするからだ。
秘書が、「亡くなった後も日記が残るのはいやじゃないですか?」と訊ねていたが、人に読まれて困るような内容じゃなくて、商家の大福帳みたいなものだから、読んだって面白くないし、読み始めた人もすぐに飽きるだろう。
ワイン
2002年10月09日(水)
血圧も高い目だし、心臓の具合がよくなくて不整脈が続いている。別に、歩いて息切れがするとかめまいがするとか、あるいは脚やまぶたがむくんでいるとか、そういう恐ろしい症状はない。ただ、なんとなく胸部の不快感があり、全身がだるい。だるいのは、病気でだるいのじゃなくて、累積疲労なんだろうな。よく働いているものな。よく遊んでもいるが。
しかし、油断しないで養生したほうがいいので、お酒を減らすことにしただけでなく、ウィスキーなどはやめてワインを飲むことにした。主治医からもらった養生の手引き書によると、ワイン適量は心臓・血管系にいいのだそうだ。しめしめ。本来は蒸留酒、とくにウィスキーが好きなのだが、このごろちょっと量が多すぎたな。しばらくあきらめよう。
どうせ酒の味なんて、ある酒を飲むとそれが好きになって、別のに変えると、またそれが好きになる。日本酒党だったこともあるが、泡盛に変わると日本酒はそれほど好まなくなった。泡盛をウィスキーに変えると、泡盛を飲みたくなくなった。だから、次はウィスキーをワインに変えると、きっとワインが好きでウィスキーはそれほど飲みたくなくなるんだ。浮気性だからな。
帰り道に酒の安売り屋があって、いつもだとスコッチを買うのだけれど、そこでワインを買うことにした。ワインについてはほとんど何も知らなかったのだが、パートナーさんの弟さん夫婦がワイン党で、さまざまのワインを飲ませてくれるので、だんだん覚えてきた。ともあれ、ボルドーとイタリアのとスペインのと、1本ずつ、3本買った。上等じゃない、ドイツで言うところのターフェルワインのクラスだ。上等のワインがおいしいわけでもないことも、弟さん夫妻から学んだ。
しばらくこの線で暮らして、様子を見よう。症状がなくなると油断するのだが、そのころには口がワインに慣れていて、ウィスキーを復活させることもないだろう。
Q
中学校の教師です。今は不登校の生徒を受け持っているわけではありませんが、以前、不登校の生徒を受け持っていて、そのときは家庭訪問しているうちに普通に登校するようになりました。私は、自分が高校時代に登校拒否したことがあります。1週間くらいで元に戻りました。そのときは何も知識がないままに行動していていましたが、今振り返ってそのときのことを分析したいと思ってここへ来ました。
A
子どもを訪問することは基本的に賛成です。というのは、子どもには教育を受ける権利があって、学校は子どもに教育を受けてもらうために努力する責任があるから。
でも、子どもがイヤがっているのに訪宅するのは反対です。「訪宅していいか?」「私と会いたいか?」と聞いて、子どもが「会ってもいい」と言ったら訪宅する。
訪託したときに何を話すか?
「勉強せんといかんよ」と言わないでほしい。そんなのは聞かなくても子どもは知っているから。親も教師もそうですが、子どもと話をする前に、これは子どもは知っているかどうか考えてみてほしい。今までに一度でも二度でも言ったことがあることは子どもは知っているから、もう言わなくてよろしい。何か言って、子どもが勇気づけられて、「そうだなあ、頑張ろう」と思えるようなことを見つけて言う。しかも子どもが今までに気がついていないこと。そうなるとなかなか話題がない。
話題がないからどうするか。「こんにちは。何の話しよう?」と聞いてみる。そうすると、子どもが何か言う。「学校でこのごろ何が起こっている?」とか言ったらその話をする。教師が訪宅したからといって、教科の話をしなけりゃならないものでもない。クラスの話をしなけりゃならないものでもない。テレビの話でもゲームの話でもいい。教師が自分で勝手に話題を限定しないこと。「子どもとつながって子どもと話が通じる人になる」というのが第1の目標ですから、お利口な話をしようと思わなくていいです。(野田俊作)
高血圧
2002年10月02日(水)
このごろ肩がこると思っていたら、血圧が上がっていた。出張が続いて、塩分摂取が多いのとカロリーオーバーなのと酒量が多いのが原因だと思う。運動もやや不足なように思う。精神的ストレスだってないことはないが、血圧が上がるほどのものじゃない。
とにかく主治医に相談したら、薬を変えるとのことだ。私の知らない薬だ。私は医者ではあるのだが、薬を出さなくなってもう20年にもなる。だから、このごろの新しい薬は知らない。一生、医療現場に復帰することはないので、まあいいかと思っている。とにかく、主治医の処方する薬を服んでみることにする。
薬で血圧を下げるのは、あまりいいことじゃない。不摂生のままで安心してしまうものね。やはり生活を整えることだ。そう思って、月曜日からお酒をほとんど飲んでいない。まったくゼロというわけではないのだが、日本酒換算で0.3合ほどではないか。塩分も極力控えている。養生はすぐに効果が出ないのがつらい。反応に続いてすぐに強化がないと、習慣は形成されにくいのだ。お酒やおいしいものは、行動に続いてすぐに強化があるので、つい続いてしまうのだ。
昨年の今頃はウォーキングをしていたのだが、いつしか絶えていた。パートナーさんに、ウォーキングを復活しようと言っているのだが、彼女はあまり乗り気でないみたいだ。仕方がないので一人で歩こうかと思っている。体はとても歩きたがっている。元気は元気なのだ。
歩く
2002年10月03日(木)
パートナーさんは一向にウォーキングを復活しそうにないので、一人で歩くことにした。といっても、いったん帰宅してからまた出るのはおっくうなので、2つ前の駅で下車して、そこから約30分、すこし登り気味の道を早足で歩く。歩くということがはっきりすると、それまでに飲酒するわけにもいかないので、職場の帰りにちょっとひっかけるということができない。これはいいことだ。帰宅してからも、なんとなく上気していて、しっとりとお酒を飲む雰囲気ではない。ビールの小さなのを飲んで終わりにする。酒量を減らすというのも、血圧を下げるために大切なので、できるだけ機会飲酒に近い状態にもっていこうと思っている。宴会が多いのがちょっと問題なのだが。
ジャンクフード
2002年10月04日(金)
出勤途上でコンビニに寄って、インスタント焼きソバと栄養ドリンクを買って、昼食に食べようとしたら、社員に「疲れているんですね」と言われた。栄養ドリンクではなくて、むしろインスタント焼きソバが判断根拠であるらしい。たしかに疲れると、ジャンクフードが食べたくなる。塩分が多いからだろうか。血圧が上がり気味なので、塩分の多いものをあまり食べてはいけないのだが。
インスタントラーメンを食べることは、ほんとうに稀にしかない。山で昼食に食べるくらいかな。水さえ手に入れば、昼食には手軽でいいんでね。インスタント焼きソバは、山道をもって歩くにはかさばるので、車を使って釣りに行くときの昼食に食べることはある。しかし、町では、そういうものはめったに食べない。それを食べたくなるというのは、やはり体になにかあるのだろう。それに気がつくスタッフをもって、ちょっとうれしい気がする。
民主主義の概念
2002年10月05日(土)
カウンセリングの内容にかかわることなので、あまり書けないのだが、問題にならないだろう範囲で。
ある公立高校に、民間人が校長で赴任した。大阪府はそういうことを積極的に推し進めているらしい。彼は、民間企業の経営法で学校を運営しようとした。それに職員がいっせいに反発して『抵抗勢力』になってしまった。相談は、教師の一人からだ。
私は、教師の立場も理解できるけれど、校長の立場も理解できる。彼は、「社員の意見は一応は聞くが、最終的に決定するのはボス」という民間企業の論理を真っ向からふりかざしたのだ。そうでないと組織は動かないと思う。職員たちは校長のやりかたを「非民主的」だと言っているそうだが、そうなのかな。私は、民主主義の根幹は「国民が選挙によって政治家に権力を委譲する」ことだと思っている。権力が委譲されると、政治家は権力者であり、国民はそれに従わなければならない。ただし、政治家が権力を濫用しないように監視し、もし権力を濫用するようなら次回の選挙でその政治家に不支持を表明することができる。
学校の先生方の民主主義の概念は、「すべてをみんなで話しあい、誰も権力を持たない」ということであるように思う。これは、政治学的には、デモクラシーではなくて、アナーキズムだと思う。学校は、ずっとそのようなアナーキズムを信奉してきた。しかし、企業はそれでは動かない。経営者が責任を持って決定しないと、倒産してしまう。
学校に企業型民主主義を導入することがいいことか悪いことか、私は判断する根拠をあまり持っていないのだが、今までのアナーキズム型の学校運営の結果が現在の学校荒廃であるかもしれないので、そうだとすれば別のやり方を実験してみる価値はある。しかし『抵抗勢力』が暴れていたのでは、その成果がわからない。だから、私に相談した先生には、「もし校長のやり方が嫌いなら転勤なさい。転勤しないなら校長に協力なさい」と助言した。学校に残って校長に抵抗し続けるのでは、せっかくの実験を台無しにしてしまう。
Q
小学校6年の登校拒否児に関して学校から提案がありました。学校としても、子どもとかかわりたいので、担任も含め、ときどき家庭訪問して子どもと仲良くなりたいが、どうでしょうか?
A
子どもに聞いてください。「学校はこう言っているけど、どう?」と。学校と子どもとの仲介(=何とかしようとする)にはならないこと。親が間に入って右往左往しないこと。学校が子どもに向かって何か言ってきたら、子どもに伝えて子どもに聞いてください。子どもが学校に向かって何か言ったら、そのまま学校に言ってください。子どもが「あんなボンクラ先生に会うのはイヤだ」と言ったら、「子どもはあんなボンクラ先生には会わないと申しております」と言ってください。そのことを先生に教えてあげないと、先生は行動できないでしょう。「あの先生は嫌いだ。考えただけでムシズが走る。あんなヤツ死んでしまえばいい」と言ったら、そのとおりに先生に教えてあげたら先生が判断できるけど、そこを美しい言葉で飾るとデータが足りないから、先生は行動を間違うでしょう。「私は(仲介役でなくて)電話線だ」と思ってください。ただの電話線。電話線はこっちが罵ったときそれを美しい言葉に変えない。
訪宅は結構なことですが、子どもはイヤがるかもしれない。もし、イヤがったら、「子どもはイヤだと言っています」と言ってもいいが、ついでに「どんな条件だったら会うか」「誰だったら会うか」というようなことも聞いてみてください。まあ、イヤだったらだいたい全部イヤだと言いますがね。経験的に。(野田俊作)
諸法実相
2002年09月28日(土)
インド仏教では「AにBがある」という構文をもとに考えるということを書いた。たとえば、「花は赤い」とか「人は死ぬ」とかいう文を、「花に赤がある」とか「人に死がある」とかいう構文に変換して考える。Aを有法(うほう、ダルミン)、Bを法(ダルマ)という。
ヒンズー教は有法の実在を認めるが、仏教は有法は法の集合体であって実在しないと考える。『ミリンダ王の問い』という古い論典に、車は存在せず、ただ存在するのは車輪や車軸や座席などであると書かれている。これは、「車に車輪がある」などの構文をもとに、有法である車は実在せず、ただ車軸などの法だけが実在することを主張している。これは、「我」は実在せず、ただ実在するのは「色(しき)・受・想・行・識」というような要素だけだということのたとえ話だ。
「説一切有部」などの部派仏教は、有法は実在しないが、色・受・想・行・識などの法は実在すると考えた。中観派や唯識派などの大乗仏教は法もまた実在ではないと考えた。大乗仏教のほうが論理的だと思う。というのは、「AにBがある」と考えるなら、Aは名詞だがBは形容詞や動詞等でもよいことになる。たとえば、「花は赤い」では「赤い」は形容詞だし、「人は死ぬ」では「死ぬ」は動詞だ。すなわち、形容詞だとか動詞だとかいうのは、Bが実在ではなくて現象だということだ。
中国仏教では、Aのことを「性(しょう)」、Bのことを「相」と呼んだのではないかと、私は思っている。もっとも、性や相は、インド仏教の術語と一対一に対応していない中国仏教独特の概念なので、このあてはめ方は、専門家から見ると乱暴だと思うが、まあ近似的にそうだということだ。
さて、法華経の「諸法実相」だが、このような文脈で読み解くと、妙な術語だ。仏教では、「実性」という言葉は使えない。「自性は空」すなわち「有法は実在しない」ということは、部派仏教でも大乗仏教でも認めていて、もし性の実在を認めるとヒンズー教になってしまう。もし「実」なるものがあるとすれば、それは「実性」ではなくて「実相」でなければならない。しかし、相が実であれば、大乗仏教ではなくて、説一切有部などの部派仏教だ。大乗仏教では、「性も空、相もまた空」でなければならない。すなわち「諸法皆空」なのだ。だから「諸法実相」という用語は、まったく大乗仏教的でない。
この用語はクマーラジーヴァが発明したもので、法華経のサンスクリット原典にはない。さらに悪いことに、クマーラジーヴァは、法華経だけでなく『中論』や『大智度論』の訳文中にも「諸法実相」という用語を使っていて、しかもそれに相当するサンスクリットはない。しかし、中国人は、漢訳された仏典だけをもとに研究を進めたので、それらの間に関係を見つけだし、たとえば天台教学ができる。今はサンスクリットで経典が読めるんだし、1500年も前の中国人の誤訳と誤解を引きずって暮らすことはないと、私は思う。
ライフスタイル診断
2002年09月29日(日)
昨日と今日とは、新潟県下で合宿して、ライフスタイル診断の実習をしていた。「ライフスタイル」とは、アドラー心理学の用語で、ほぼ「性格」とか「人格」とかに相当する言葉だが、特有のニュアンスがある。それを、きょうだい関係や、いくつかの特殊な質問や、子ども時代の思い出から診断する。参加者にもたくさん実習してもらったが、1人のボランティアのライフスタイルを私が分析してデモンストレーションをした。
むかし、シカゴのアルフレッド・アドラー研究所に留学して、最初の講座を聞いたとき、ハロルド・モザク先生がライフスタイル診断のデモンストレーションをして見せてくれた。ショックを受けてしまった。ほんのわずかのデータから、見事にライフスタイルを抽出する。「この技術はぜひとも会得しなければ」と思って、それから毎日、患者さんや看護師さんや友だちにライフスタイル分析をさせてもらった。帰るころにはほぼ習得できていて、帰国してからも、ことあるたびにいろんな人のライフスタイル分析をして暮らした。
アドラー心理学を教えはじめるようになって、ライフスタイル分析のデモンストレーションをすると、生徒は私とはライフタイルが違うんだね、「この技術はとうてい習得できない」と思うみたいで、みんな引っ込んでしまう。それで、デモンストレーションはやめてしまった。
しかし、年を取ってきて、このごろ思うのだが、私の頭の中にあるものはみんな見せておいたほうがいいんじゃないか。あの世までは持っていけないものね。だから、今年になって、機会があればデモンストレーションをして見せている。そのうち、ただ舌を巻くだけじゃなくて、まねをしようとする人が現れるのを待ちながら。