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野田先生の補正項から

思想的な見晴らし
2001年01月30日(火)

 石垣島へ来ているが、ここへ来るまでの飛行機の中で、大嶋浩他著『絵でわかる現代思想』(日本実業出版社)というアンチョコ本を読んでいた。

・反・自然科学としての二十世紀の哲学の開始:ニーチェ・ベルグソン・ディルタイ・ガダマー

・現象学(意識の厳密学)から実存主義(実践の倫理学)へ:フッサール・ハイデガー・サルトル・メルロ=ポンティ

・論理実証主義による言語論的転回:マッハ・フレーゲ・ラッセル・ヴィトゲンシュタイン・カルナップ

・プラグマティズムと日常言語派:パース・ジェームズ・デューイ・ヴィトゲンシュタイン(後期)・オースティン・クーン

・マルクス主義の展開:マルクス・ホルクハイマー・アドルノ・ハーバーマス・アルチュセール

・精神分析学の誕生と展開:フロイト・ユング・ラカン・ベートソン

・構造主義とその展開:ソシュール・イェルレムスウ・バンヴェニスト・グレマス・ヤコブソン・レヴィ=ストロース・バルト・クリスティヴァ

・ポスト構造主義:バシュラール・フーコー・リオタール・デリダ・ドゥルーズ=ガタリ

・オートポイエーシスと現代社会学:ベルタランフィ・ブリゴジン・ヴァレラ・ベンヤミン・セール・ボードリヤール・ブルデュー

 これだけを200ページあまりで、しかもその三分の一くらいは イラストで、書こうというのだから、まあ、中身はあまり期待しないほうがいいかもしれない。そのことよりも、そもそもこういう本が一般向けに出ているというところが、日本のいいところじゃないかと思うのだ。
 アメリカにいたとき、ピアジェやラカンなど、フランス系の心理学者や精神医学者が知られていないことに驚いた。一般の人が知らないのは仕方がないとして、専門の心理学者や精神医学者も、彼らの仕事をよく知らない。本屋に行って探せば、ラカンはともかく、ピアジェは英訳本があったので、翻訳の問題ではないようだ。それよりも、アメリカ人がフランスに対して劣等感を持っていないことが問題のように思われる。ドイツについては、ビンスワンガーは翻訳もあったし、精神医学者の間ではそれなりに知られていたが、テレンバッハは翻訳もないようだし知られていなかった。事情はフランスよりはいくらかましな感じであったが、それはドイツ系の精神科医が多いからであろう。やはり、ドイツに対しても劣等感は持っていないようである。
 日本人は、西欧世界、特にフランスとドイツに対して強い劣等感を持っているし、アメリカやイギリスに対しても劣等感を持っていないわけではない。それで、翻訳も系統的に行われているし、大学でも外書購読を中心としたゼミナールがある。その結果、日本にいると、西洋思想の見晴らしがいい。専門書はともかくとして、質のいい入門書でもって、広く浅く見渡せるのだ。
 では、東洋思想はどうかというと、どうもアメリカにいるほうが見晴らしがいいように思う。『中国思想ソースブック』だの『インド思想ソースブック』だのが揃っているし、概説書も、例えば仏教について言うなら、南伝仏教も中国仏教もチベット仏教も等距離に見て書いてくれるので、とてもわかりやすい。
 もちろん、専門書を読むとか、専門的に研究するとかいうことになれば、西洋思想についてはアメリカのほうが、東洋思想については日本のほうが便利であることは当然だ。だが、専門外の分野の鳥瞰図ということになると、この逆なのだ。



地震の楽しみ方
2001年02月06日(火)

 フロイト派やユング派の心理療法では、クライエントの発言を解釈して「内面」を推量する。しかし、家族療法や短期療法やエリクソン催眠などの積極的心理療法(Active Psyhotherapy)では、クライエントの発言を解釈することはしない。クライエントの「内面」があるとしても、それはカウンセラーの操作の結果できたもので、それ以前の内面とは違っている。だから、研究対象になるのは、カウンセラーの操作のほうであって、クライエントの内面のほうではない。アドラー心理学も最近はその方向に傾いている。
 フロイトやユングは、素朴実在論的なんだ。観察以前に「心」が存在していて、観察されることでもっては変化しないし、その中には法則が潜んでいて、それが発見される、というわけだ。積極的心理療法は、そうは考えない。観察される前にも「心」は存在するだろうが、それがどんなものであったかはわからない。観察されることで心は絶えず変化する。あるとき「洞察」によってカタストロフィックに変化するのではなくて、観察者の操作によって連続的に変化し続ける。したがって、観察者によって違う心が見える。観察が終わった時点で、心には観察された「後遺症」が残っていて、観察者と出会う前の心とは違っている。それが治療である。
 心理療法に関しては、「観察」というのは、主に「問いかけ」のことだ。もちろん「語りかけ」でもいいのだが、「問いかけ」のほうがスマートだと思われている。語りかけは抵抗に遭いやすいし、いかにも説得ないし洗脳っぽくなるし、とにかく、かっこよくないんだ。

 さて、先日、沖縄で講演したときに、「神戸の地震のあと、本当は『心の傷』などなかったのに、心理学者とマスコミがキャンペーンしたものだから、『心の傷』ができた」という話をした。これも、上の理論の1つの展開で、コミュニケーションと無関係に心はありえないので、したがって心の傷もコミュニケーションと無関係にはありえない。仮に、地震の被害者が「私には心の傷がある」と訴えても、周囲の人が相手にしなければ、それは消去されると思う。周囲の人がそれを深刻に受け止めて応答するから、心の傷はますます大きくなるのだと思う。逆に、もし被害者が、「心の傷なんかない」と言ったとして、周囲の人が「いや、あるはずだ」と言い続ければ、やがて心の傷ができるかもしれない。ともかく、素朴実在論的に、コミュニケーションと無関係に心なり心の傷なりを考えることはできないのだ。
 ところが、聴衆の中に、おそらく実在論的心理療法を学んだ人だと思うが、「でも、両親をなくした子どもに心に傷がなかったはずはないでしょう」と主張する人がいて、いくら説明してもわかってもらえなかった。たかだか、「いいカウンセリングでもって癒すことはできますが」と認めてくれる程度だった。でも、もしいいカウンセリングで「癒す」ことができるとすれば、それまでには悪いカウンセリングで「傷つけられて」いたことに、論理的にはなるのだが。じゃあ、誰だい、悪いカウンセリングをして傷つけたのは?
 心理的な面に限って言うなら、地震の被害よりも、心理学の被害とマスコミの被害のほうが、神戸では圧倒的に大きかったかもしれない。きわめて反治療的なコミュニケーションを作り出して、被害者の心を悪いほうに操作したのだから。
 山陰で地震があって、いくらかの被害があった。その1月ほどのち、その地方の友人と会う機会があって、「楽しんだ?」と尋ねた。「楽しんだと聞かれたのは、はじめてだ」とその人は笑っていた。生き残ったのだから、楽しまなくてはね。「大変だった?」と問いかければ、その人は大変だったことを報告するだろうし、「楽しかった?」と問いかければ、楽しかったことを探すだろう。神戸でも、子どもたちに、「面白かった?」と言ってみればよかったんだ。勇気がいるけれどね。

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野田先生の補正項から

矢野敦雄先生のこと
2001年01月28日(日)

 もう亡くなられたのだが、矢野敦雄先生は、私が大学を出て微研(大阪大学微生物病研究所)内科にいたときの、スーパーヴァイザーだった。変わった医者で、ご自分の慢性肝炎がなかなか治らなかったのが、断食療法をしたところ、血液化学検査の数値がよくなったので、断食療法の信奉者になられた。しかし、狂信的な民間療法家というタイプではなくて、冷静な科学者の目で、断食や、その他の伝統的な治療法を再検討されようとしていたように思う。

 矢野先生は言う。「人間の身体は、原始時代の生活に合わせて設計されている。だから、原始時代の人がどういう暮らしをしていたかを考えると、よい生活というのはどういうことか、自然にわかる」。矢野先生のことを思い出したのは、昨日、一日の生活リズムが狂ってしまった話をしたことからの連想だ。矢野先生は栄養内科の専門家だったから、おもに食べ物についておっしゃっていたのだと思う。今は私は精神科医だから、たとえば生活リズムのことだと思って、先生の教えを理解している。

 先生の視点は、コロンブスの卵で、言われれば、ほとんどの医者が納得すると思うが、言われないとなかなか気がつかない。最初のホモ・サピエンスが出現したときから現在まで、進化論的な時間として考えれば、ほんの一瞬のことなのだ。遺伝子のレベルでは、人間はまったく進化していない。その遺伝子は、最初のホモ・サピエンスの生活に適応した形で設計されているのだ。食物もそうだし、生活リズムもそうだし、その他、あらゆることが、原始時代の生活をしたときに、もっとも都合がいいように、それは設計されている。だから、原始的な生活をすれば、身体はもっとも適応的に、健康に、機能するはずだ。

 また、矢野先生は言う。「内科の治療法は、結局三種類しかない。口から何を入れるかと、目や耳から何を入れるかと、身体をどう動かすかだ」。これも至言だと思う。病巣を切除する外科治療はともかくとして、内科的あるいは精神科的な治療とは、何を食べるか食べないか、どういう情報を得るか、身体を運動させるのか安静にするのか、の三ヶ条に尽きている。

 食べ物の中には、薬も含まれている。薬というのは、所詮、特殊な食べ物であるにすぎないし、食べ物はすべてある種の薬なのだ。そうわかってから、私は、薬に特別の期待もしなくなったし、また、薬を毛嫌いすることもなくなった。薬は、要するに、食べ物の一種なのだ。また、食べ物はすべて薬なので、食べすぎると毒になる。また、病状(あるいは身体や精神の状態)にあわせて、食べていいものといけないものがあるのだ。

 「耳や目から何を入れるか」というのは、まさに今の私の仕事で、情報が人間を変えていく。人間をコンピュータにたとえると、処理する情報によって、ソフトウエアが変化する。心理学用語でいう「学習」というのは、単に知識を蓄積することではなくて、データベース・ソフトのプログラムを情報によって変えることだ。さらに、学習によって、ハードウエアさえ変化する。脳は、処理する情報によって変わる。脳が変わると、それを支える身体も変わる。だから、情報でもって、健康になったり病気になったりする。「気の病」だけではなくて、実際の「身体の病」も起こってくる。その後、私が、心身医学に関心を持ち、やがて精神医学に転向して心理療法の専門家をめざすのは、矢野先生のこの言葉と関係がある。

 矢野先生は、ある種のバランス感覚にすぐれた方だったので、一部の食養絶対主義の医者たちのことを、「断食さえすればなんでも治ると思っている」とか、「あんな草根木皮みたいなものばかり食っていたのでは、ほんとうの健康にはなれない」とか、よくおっしゃっていた。断食は簡単だし、飽食も簡単だ。しかし、その中間にある適正な食事を持続することはきわめて難しい。

 運動についてもそうで、まったくしないか、あるいは身体を痛めるほど思い切りするか、どちらかを人間は選びたがる。そうではない、バランスのとれた量の運動を続けることが問題なのだと思う。それはそうなのだが、では具体的にどのような運動をするのかということについては、それほど考えられていなかったようだ。今われわれが「体育」と言っているものは、かなり身体に悪いように、私は思っている。ほんとうの意味で「体を育てる」には、どのような運動をすればいいのかは、これから医学が研究していかなければならない課題だ。

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野田先生の補正項から

言葉は通じるか
2001年01月12日(金)

 日本人は、「ほんとうのところは言葉では言えない」とよく言う。これは、出典をたどると、たとえば『法華経』の方便品(ほうべんぽん)に「やみなん、舎利弗よ、また説くべからず。所以(ゆえん)はいかん。仏の成就せるところは、第一の稀有(けう)なる難解の法にして、ただ仏と仏とのみ、すなわちよく諸法の実相をきわめつくせばなり」と書いてあったり、『中論頌』に、「諸法実相とは心行言語断じ、生なくまた滅なく、寂滅なること涅槃のごとし」などと書いてあるところだろう。ここから、「ほんとうのところは、神秘的直感でもって直接知するしかないのだ」ということになって、言語軽視がはじまったのだと思う。

 ところが同時に、『中論頌』には、「もし俗諦(=言語)によらざれば、第一義(=真理)をえず」と書いてある。インド人の理解は、こちらのほうに重点があったように思う。言葉を厳密に使うことでもって、語りえない真理を、すくなくとも指し示すことはできると考えたようで、だから論理学が発達したのだろう。

 仏教のことはまあいいとして、言葉は「ほんとうのところ」を言い表せるのか?「ほんとうのところ」というのが何であるのかが問題だ。ヴィトゲンシュタインは、言語は世界の写像だと思っていたので、なにはともあれ世界というものが想定されていた。だから、観察不能な事象については、それが存在するとも言えないかわりに存在しないとも言えず、それで「語りえないものについては沈黙しなければならない」ことになるのだろう。

 しかし、世界は、初期ヴィトゲンシュタインが思っていたのと違って、コミュニケーションの中で構成されているのだと思う。つまり、「体験の共有」が問題であって、体験が共有されていれば、それを言葉で言い合うことは可能であろう。たとえば、相手が映画の話をしていて、私はそれを見たことがないとすると、いくら相手がていねいに説明してくれても「ほんとうのところ」はわからないと思う。しかし、私もその映画を見ていれば、相手の説明はよく理解できるだろう。

 もっとも、言葉が通じているからといって、たとえば映画を同じように見たわけではない。対象が同一かどうかが問題ではなくて、「対象と言語との対応関係」が同一かどうかが問題なのだ。構造主義だな。ちょっと時代遅れかもしれない。



音楽は通じるか
2001年01月13日(土)

 昨日、「言葉は通じるか」という話をしたのは、バッハは貴族のために語り、ベートーベンは都市ブルジョアジーのために語り、バルトークは現代の都市インテリ層のために語ったということの流れだ。

 つまり、バッハとかベートーベンとかと私とは、体験を共有していない。「同じ映画を見ていない」のだ。彼らと体験を共有していた社会階層は、絶滅してしまった。だから、彼らの作品は危険じゃない。それがどんなにドラマティックなものでも、たかだか「舞台の上の芝居」でしかない。われわれを巻き込むことはないのだ。だからクラシック音楽とよばれる。

 バルトークが体験を共有している階層は今でも健在で、その一人である私は、彼が持っている危機意識を共有できてしまって、それで彼の音楽にはリアリティを感じてしまうのだ。しかし、都市インテリ層という社会階級も早晩絶滅すると思う。そうなれば、バルトークも立派にクラシック音楽の仲間入りだ。もうそれは起こりかけているように思う。演奏会でも放送でも気軽に取り上げられるようになったもの。

 どうして私がポピュラー音楽に関心を持たないかというと、やはり体験を共有してないためだと思う。ポピュラー音楽を支える社会階層というものがあって、それに私は所属していないのだろう。だから、言葉が通じないのだ。

 ポピュラー音楽とひとくくりにするのはいささか乱暴で、先日、あるロック・ファンで演歌嫌いの友人が、「年寄りたちがいなくなると、演歌は滅びますよね。若い人は演歌を聴かないから」と言ったので、「それは、あなたが都会暮らしをしているからですね。地方に行くと、若い人の演歌ファンもたくさんいますよ」と答えた。だって、地方には、演歌を支える社会階層が健在だもの。つまり、第一次産業従事者たちが、演歌を支えている人たちだと思うのです。日本の工業化で、すくなくとも都市部では、その階層の人口が減って、それで演歌が「通じ」なくなっているにすぎないのだと思う。



時代精神
2001年01月23日(火)

 クラシック音楽を聴いていて思うのだが、たとえば、バッハとヘンデルはたしかに違う。モーツァルトとベートーベンも違う。ブラームスとワグナーも違う。では、バッハとヘンデルの違いと、バッハとベートーベンの違いと、どちらが大きいかというと、当然、バッハとベートーベンの違いのほうが大きい。分散分析風にいうと、群間変動は群内変動よりもはるかに大きい。だから、知らない作曲家の作品でも、だいたいいつの時代のものか、聴いた瞬間にわかる。

 どうしてそういうことになるかというと、作曲家が聴衆とどういう相互作用をするか、あるいは他の音楽家とどういう相互作用をするかで決まってくるわけだろう。つまり、ある作曲家の作品を、聴衆が支持するか、あるいは他の音楽家が支持するかしないと、その作曲家は作曲を続ける意欲を失うだろう。逆に、作曲家が書き続けたということは、聴衆が支持したか、たとえ聴衆にはそっぽを向かれても、演奏家とか他の作曲家とか、プロたちが支持したということだろう。

 つまり、バッハはひとりで書いていたわけではないので、彼の音楽を楽しみ、あるいは批判する相手というものがいて、その相手との関係の中で書いていたわけだ。もしバッハがベートーベンの時代に生まれたら、断言できるが、彼はベートーベン風の音楽を書いただろう。

 芸術はそうなのだが、それ以外のものはどうか。たとえば科学はどうか。ある科学者がある研究をするのは、やはりそれを受け取る相手がいるわけで、その人たちとの関係の中で研究している。だから、「科学的真理」というのも、実は社会的に構成されたものなのだと言っていいのだろうか。このことは、もうすこし考えてみる必要がある。

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知的障害生徒の職業指導

Q 
 知的障害の生徒の職業教育について悩んでいます。社会の要請は、なるべく働いてもらい、福祉にかかるお金を減らしたいようです。現実的には、ビルのお掃除、スーパーの裏方、パソコンのデータ入力などが主です。それに沿った力がつくように、学校の授業を変えなさいと言われています。社会に合わせるだけでよいのか考えてしまいます。

A
 良いわけはないけれど、もしも「社会に合わせるだけで良くない」と言ったら、社会を変えないといけない。社会を変えるには、今クラスにいる子どもたちには間に合わない。僕、いつも不登校の問題を考えながら、不登校を何とかするためには社会を変えないといけない、学校制度を変えないといけない。学校制度を作りだしている社会を変えないといけない。社会を変えないといけないから、そう努力をするよ。未来を作るために頑張るけど、その未来は私が生きてるうちにはたぶん来ないんですよ。50年とかの時間で来るかもしれないと思うんです。来るのは来ると思うの。例えばそのー、明治になる20年前に、明治政府についてイメージできた人は誰もいなかったんです。天才・坂本龍馬がどっかの船の中で「船中八策」を書いたときに、おぼろげに初めてイメージができたけど、誰も信じなかったんですよ。薩摩の殿様も長州の殿様も、将軍様に辞めてもらって自分が将軍になろうと思ってたんですよ。でも実際に明治の世界が来たんです。そのように新しい世界が来るときってのを誰も予測しないけれども、突然来ると思う。来ると思うけど、それは先だと思う。今のところまだまだ元禄かなんかの時代で、文化文政時代かなんかで、もうちょっと先なんですよ。このままで良くないですが、じゃあこの子たちにどうするのか?この子たちにはパソコンの入力するとかお掃除するとか教えないとしょうがないじゃないですか。いつも僕は現実主義者で理想主義者なんです。理想にだけ突っ走って現実を無視してしまうと、まったく無力になるし、それから理想を無視して現実だけに巣くうとどこへも行かなくなるじゃないですか。だからいつも全体がもっと良い方向に向かうための努力は続けるべきだと思いますが、一方で目の前にいる自分のクライエント、生徒であれ患者さんであれを援助するための最大の努力はすべきだと思う。

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鬱、統合失調症は治るか?

Q
 妹が精神病院に措置入院になりました。診断上は、鬱、抑鬱?統合失調症のアイの子なのかなあ。面会に行って話しているぶんには普通の人なのですが、薬やカウンセリングで治るものなのでしょうか?

A
 「治るものなのでしょうか?」というの難しい、いつも。「治る」って何か定義しないといけないから。マンフレッド・ブロイラーというお医者さんがいます。マンフレッド先生のお父さんがオイゲン・ブロイラーというお医者さんで二代続いて精神科医なんですけど、先代さんは「精神分裂病」という病名を発明した人なんです。もの凄い偉いお医者さんです。スイスのある精神病院の経営をずっとやられていて、お父さんが一代目でマンフレッド先生が二代目。その病院はブルクヘルツという病院なんだけど、二代目のマンフレッド先生はそこに入院している精神分裂病、今の統合失調症の患者さんの「その後どうなったか」を調べたんです。スイスという国は人口流動性の低い国なんです。だからだいたいおんなじ村にずっと住んでいるんです。日本だとどんどん変わっちゃうけどね。だからこういう予後研究、「こういう病気はあとどうなっていくか」を調べるにはいい国なんですけど、わかったのは、1/3の人たちは統合失調症になったあと一直線に悪くなって、いわゆる「人格荒廃状態」と言って、人間としての精神の働きを失ってしまって、呆然と暮らす状態になってしまいます。それから1/3ぐらいの人は入院したり家で暮らしたり、また入院したり家で暮らしたりして、再発を繰り返しながら一生やっていく。まあ年取るとだんだんマシになるんですが。1/3ぐらいの人たちは一時混乱するけど、やがて良くなっていかれます。だいたい1/3ずつ上向きとずっと真ん中とどーんと下向きとあるんです。お薬がだいたい1950年ころか60年ころに出てくるんです。お薬ができる以前とできたあととを調べたら変わらないです。お薬ができても長期的な予後を見ると変わらないです。これは精神科医にとっては凄いショックだったんです。「薬は効く」という実感を持っていたんです。内科の薬なんて、肝臓の薬とかもらっても効いているのか効いていないのかわからないじゃないですか。でも精神科の薬はシャンと効くんです。「凄ーい」って言うくらい、飲んだら翌日にはシャンと効くのに、20年30年の予後を見ると変わらないんです。ただ症状が悪いときに抑える力があるだけです。だから入院しなくて済むんです。今まで入院しなきゃいけなかった人が外来治療で済む。家庭の中にいられなかった人が家庭の中にいられるようにはなるけれど、でも長期的には変わらない。
 だから、治るって何かというのを考えると、長期予後を見ると、これはお薬飲んでも変わらない。短期的に見ると、お薬をちゃんと合わせておけば、具合が悪くなったときそのお薬を飲むと、その程度、病気の悪くなる程度をうんと低く抑えられるから、社会内処遇、病院の中へ入らないで暮らせるということは言える。それが一点。
 それから二点目、カウンセリングについて。カウンセリングについては長らく絶望的だったんです。統合失調症はともかくとして、躁病は体の病気ですからカウンセリングで何とかなると僕らは思わないんですが、統合失調症はカウンセリングできないかなあと思っていたんですけど、最近、できなくはない。ただかなり面倒くさいカウンセリングになると思うんです。それはなんでわかってきたかというと、統合失調症の犯罪者がいるんです。このごろよくテレビで問題になるじゃないですか。精神鑑定した結果、責任能力ないとかいうことになって、じゃあ、あとどうなるかというと、あと精神病院へ行くんですよ。刑務所へ行く代わりに。今まで精神病院では、特別にその人たちを治療する施設がこの国なかったので、普通の病院で普通のことをしていたんですけど、これではいけないというので、50年かの議論の結果、賛成反対大激論の結果、つい最近新しい法律ができまして、それ専門の、犯罪者を入れて治療する精神病院ができました。それにともなって、精神科医たちは欧米諸国の特にイギリスのそういう施設、犯罪を犯した精神病者の処遇についてのお勉強を始めたんですけど、その中で統合失調症者に対してある種の認知行動療法が効くというのが、かなり言われてきているんです。ただそれは、入院処遇をして、その人たちに対する専門的なカウンセラーさんがいて、その人たちとかなり濃厚に面接をして初めて効くんです。だから、犯罪を犯したような人だと、今の精神科の人的資源をそこへ投入してやってもいいかなと思う。社会防衛のためにその人たちが妄想を持たないようにやってもいいかなと思うけど、犯罪を犯していないぐらいのタイプの人にそれだけのエネルギーを現在の精神医学がかけるだけのゆとりがないんですよ。だってこの国の病棟の約半分が精神病院なんです。全病棟の半分ぐらいが精神病院なんですよ。だいたい医者が今約30万ぐらいいると思うんですけど、精神科医は1万2千人ぐらいです。それだけで半分の病棟を診ていますから、受け持ち患者数が少ないところで7,80人、多いところで200人ぐらいの受け持ち患者を持っているんです。しかも臨床心理に関する資格制度がずっとトラブルの中にあって、そのために臨床心理的なアプローチに対して保険が出ないんです。だから病院は臨床心理の専門家を雇えないんです。だから、病院には心理テストをするのに最小限必要な心理スタッフしかいないし、精神科医のほうはもう手一杯忙しいし、そうなると、原理的には処遇は可能なんです。原理的にはカウンセリング可能ですが、現実的に無理なんです。カウンセリングができるのであれば、将来カウンセリングをするチャンスがあって、それでもって例えば妄想なんかは減るかもしれない。けれど現在としては、そういう犯罪を犯して何がなんでもその人たちを社会的に無害な方向へ導かないとみんなが困る場合に限ってのみできるぐらいの人的資源しかありません。とても精神医学は貧困なんです。しょうがない。だって現実がそうなんですから。みんな精神医学にそんなに金をかけたくないでしょ。国民の税金をそこへどんどん投入したくないじゃないですか。僕なんかムカつくんですけど、国民のホンネとしては「あんなん鍵かけて入れときゃいい」ので「治すことないやんか」と思うじゃない。それが一番安上がりですからね。そこへたくさんエネルギーを投入してくれるなら、たぶん長期予後に関しても良い影響があるかなと思いますが、まあ今のところ机上の空論です。残念ながら。

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