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悪夢    野田俊作

悪夢
2002年01月29日(火)

 朝、起きがけに、悪夢を見た。卒後研修を受けた大学病院が舞台だ。年齢は、だから25歳くらいか。新米の医者だ。正月から、あれこれ忙しくて、いけないと思いながら出勤できなかった。夢の中の今日は、1月10日過ぎだ。出勤して医局に入って挨拶すると、先輩たちはこちらを見るが、挨拶を返してくれない。完全に無視されている感じだ。ちゃんと理由は言って休んでいたのだが、やはり怒っているみたいだ。困ったな。白衣を着て病棟へ行く。私の受け持ち患者はいるかな、と見ると、一人もいない。外来担当医が私に患者を回してくれないのだ。干されている。そこへ教授がやってきて、「お前、この上、来週からスペインへ行くんだって?」と怒る。学会でスペインへ行くことになっている。言い訳しようとするが、思いつかない。
 気分悪く目覚めた。病院勤務は15年間したが、こんなことは実際にはなかった。しかし、夢の中では、とてもリアルに不適応を起こしている。医師としても自信がなくなっているし、研究者としても、自分でイカサマだなと思っている。アドラー心理学では、こういう夢は、「こんなことになると大変だから、しっかり働くんですよ」という無意識からの警告だと解釈する。実際、そうして生きてきたし、これからもそうして生きていくだろう。
 それはそれでいいのだが、人格は複数あるとこのごろ考えているので、そういう立場から考えると、私の中にそういう自信のない、オドオドした人格(ペルソナ)があるのが面白い。子どもの頃から「自信満々だ」とか「なんでもキッパリ言い切りすぎだ」とか「もうちょっと謙虚になったら」とか、さんざん助言されてきた。しかし、一向に直っていない。傲岸不遜な人格だ。ところが、夢の中のような状況になると、崩れ落ちそうなくらい気弱な自分が出てくる。実際にはそんなことはなかったのに、その人格は確かに存在する。なぜなんだろう。ともあれ、そのことを無意識的には知っているから、そういう状況にならないように、「勤勉に働き、有能さを披露する」という形で自分の行動を制御することによって、余計者扱いしないようたえず環境に働きかけることで、自分にとって快適な自分と快適な環境とを作り出しているんだな。この解釈って、性格診断理論の新しい展開になるかもしれない。と、このように、ころんでもタダでは起きない私。
 子どもの頃から威張っていたことの証拠写真を掲示しておく。左側にいるのは祖母だ。

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「死」について

Q 
 「死」について何かスピリチュアルなお話をお願いします。

A
 スピリチュアルは話はありません。なんでないかというと、死ぬということだけを取り出して考えることができないから。道元禅師は「生死(しょうじ)輪廻」と言う。生だけ死だけを絶対言わない。生きることと死ぬことは同じことの連続です。無理やり「こっちが生きている、あっちが死んでいる」と言っているだけで、人間の自然の新陳代謝です。われわれは、一方通行的に「原因から結果へ」流れている、「過去から未来へ」流れていると考えがちだが、ほんとは違う。グルグル循環しているんです。輪廻です。生物学ではメタボリズムとカタボリズム。外から取り込む運動と外へ排泄する運動がグルグル回っている。排泄したものが植物へ取り込まれ、植物を動物が食べてまた排泄して……という具合に、全体の大きな循環の中にわれわれもいる。それが僕らの生死です。僕らはたまたま生きているように思っているが、それはたまたまこんな形に分子が集まっているからです。酸素、窒素、リンからできていて、それがたまたま今こんな形を取って、メタボとカタボで取り込むものと排泄するものとバランスを保っている。そのうちバランスを保たなくなったら、全体が排泄物となる。ハゲタカの餌となり医学生の餌食になり鳥辺山(京都の火葬場)の煙と消える。いずれにしても無機的な世界へ帰っていく。
 じゃあ、帰っていったら終わりか。それもまた何かの形で生命の中に取り込まれる。地球全体を1つのシステムとして見れば何も起こってない。そういう大きな分子の循環が起こっているだけ。そこには生もなければ死もない。個人の側から見るから生きているとも死んでいるとも思うが。もうちょっと大きく見ると、私が完全に死ぬわけではない。私の遺伝子は子どもに移した。跡形なく移ったからもういい。タンパク質やリンやカルシウムはカタボで世界へ帰っていって、雀になったりカラスになったりエンドウ豆になったりするから、それでいい。
 私の魂は?これはわからん。でもなるべく早く終わってくれたほうがいい。そんなに長く生きて何するのよ。だいぶ退屈してきているんで、魂が消えてくれたほうがいい。(こんなことをおっしゃって……2020年12月に極楽往生なさいました。ご冥福をお祈りいたしますが、私たち生徒にはもっと長生きしていただきたかったです)。(野田俊作)

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公開カウンセリング@東京    野田俊作

公開カウンセリング@東京
2002年01月26日(土)

 東京のオフィスで公開カウンセリングをした。私にとっては、きわめて感動的な一日だった。
 むかし、ある組織によばれて、東京で公開カウンセリングをしていたことがある。けれど、その組織はアドラー心理学を大切にしてくれなくて、さまざま困ったことがおこった。結局その組織(ヒューマンギルドだな←浩)とは、あれこれトラブルがあった末に、縁が切れてしまった。
 しかし、東日本にも熱心にアドラー心理学を学ぼうとしている人々がいたので、見捨ててしまうわけにもいかず、自分で東京にオフィスをかまえることにした。すぐに公開カウンセリングを再開することはできなかった。傷跡が大きすぎたんだね。まず、正しいアドラー心理学を東日本の人々に伝える必要があった。それまでは、多かれ少なかれ、間違ったことを教えられていたのだ。正しいアドラー心理学が伝達されると、次に、私がいない間にバックアップをしてくれるカウンセラーたちを養成する必要があった。これもなんとか実現した。そうして、何年かかかってようやく地盤が整備されて、公開カウンセリングをはじめることができるようになった。
 50人ほどの聴衆の前で、3件のカウンセリングをした。他の流派の人は驚くだろうが、アドラー派は、アドラー自身のころからこういうことをしてきた。一人の問題をみんなで考え、みんなで支え、みんなで解決するのが、アドラーの思想だ。そういう雰囲気が、以前、他の組織で公開カウンセリングをしていた時代にはなかった。あの頃は、なんだか見世物みたいな気がした。面白半分で見物されていたように感じた。でも、今は違う。みんながお互いを支えあう、アドラーの言葉でいう『共同体感覚(Gemeinschaftsgefühl)』が東京でもようやく実現した。これはすごいことだよ。



おさかな天国/指輪物語その後
2002年01月27日(日)

 先日(01/23)書いた「さかな、さかな、さかなぁ」の「さかなの歌」について、大東文化大学の経済学者の中村宗悦さんの日記ホームページ1月26日に言及があった。ほんとうの題名は「おさかな天国」(井上輝彦作詞,柴夜俊彦作曲,石上智明編曲,柴矢裕美唄)というのだそうだ。そこには、その歌についてのリンク集も紹介されていた。一部にオタク的ファンがいるようだ。しかし、こんなマイナーな歌についてふだん無関係な二人の人間が同時に言及するというのは、ちょっと神秘的なシンクロニシティだね。宝くじ買おうかな。当たるかもしれない。
 昨日、東京でこの歌の話をしていた。関西出身の人間はみんな知っているのだが(大阪・京都・広島の出身者がいた)、東日本出身の人は知らない。ただ一人、愛知県出身で関東で働いていた人が、東京都下のあるスーパーマーケットで聞いたという。しかし、リンク集によると、東京の「全魚連・中央シーフードセンター」というところが配布しているようだし、札幌で聞いたという情報もある。だから、東日本でまったく聞けないわけではないようだが、関西とはポピュラリティがまるで違うみたいだ。
 今日はめずらしく休日で(土日は稼ぎ時なのだ)家でブラブラしていた。『指輪物語』は、東京への往復に読んだ分やら今日読んだ分やらで、ようやくフロド・バギンズは庄(Shire)から離れて旅に出た。その寸前に、マゴットというお百姓じいさんが出てきて、この人の英語がなんともいえず奇妙なので面白かったから、紹介しておく。

'Good Afternoon, Mr. Maggot!' said Pippin.

The farmer looked at him closely. "Well, if it isn't Master Pippin -- Mr. Peregrin Took, I should say!' he cried, changing from a scowl to a grin. 'It's a long time since I saw you round here. It's lucky for you that I know you. I was just going out to set my dogs on any strangers. There are some funny things going on today. Of course, we do get queer folk wandering in these parts at times. Too near the River,' he said, shaking his head. 'But this fellow was the most outlandish I have ever set eyes on. He won't cross my land without leave a second time, not if I can stop it.'

'What fellow do you mean?' asked Pippin.

'Then you haven't seen him?' said the farmer. 'He went up the lane towards the causeway not a long while back. He was a funny customer and asking funny questions. But perhaps you'll come along inside, and we'll pass the news more comfortable. I've a drop of good ale on tap, if you and your friends are willing, Mr. Took. ("The Fellow of the Ring", p.90)



紙筒スピーカ
2002年01月28日(月)

 『通販生活』という雑誌に紙の筒でできたスピーカが出ていて、糸井重里が激賞している。ほしいのだが、4万円近くして、ちょっと高い。そんな話をある人にしていたら、なんとプレゼントしてくださるとおっしゃるではないか。まあ、なんてありがたいことだろう。
 今日、それがやってきた。さっそくパソコンにつないでインターネット・ラジオを聴いてみた。今まで使っていた、パソコンの付属品でついてきたスピーカと較べると、アヒルとウグイスくらい音が違う。クラシックもいいし、ニューエイジ・ミュージックもいい。小さいのに、低音のドスが効いているし、高音も素直に伸びる。そりゃ、何十万もする高級機とは比較にならないかもしれないが、コストパーフォーマンスはきわめていいと思う。
 こうして人から物をもらうのは、かつて、とても苦手だった。頼藤和寛がそういう私を見て、MCカートリッジ(レコードの針の一種。20万円以上する)をくれたことがあった。遠慮する私に、「人から物をもらったり、人の世話になったりすることができないと、ちゃんとした大人になれんよ。練習だと思ってもらっておきな」と彼は言った。それ以来、ちょっと成長したのか、物をいただくことに抵抗が少なくなった。現に、そのスピーカで音楽を鳴らしながら、別の友人からいただいたレンコンをキンピラにして食べている。
 最初、ディスプレイの傍に置いたら、磁力が強力すぎて、画像が変になった。それで、もう一段上にあげている。フラットスキャナーとフィルムスキャナーがあるが、どちらも磁力にはそう影響を受けないようだ。

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Quality of Life

Q
 QOL(=生きることの質)を問うことが大切だということですが、問うことでかえって生に執着させてしまうように思うのですがいかがでしょうか?

A
 Quality of Life。これは割と明確に定義された概念です。質というよりも、身のまわりのことを自分でできるかどうか、食事できるかどうか、家族とお話できるかどうか、散歩できるかどうか、自動車に乗れるかどうか、2階へ自分で上がれるかどうか、身体の生活を遂行する上でできる力のことを主に言う。これを保証したい。
 精神的な質を医学は保障できない。精神医学であっても。その人が幸せに暮すかどうかは医学側の問題ではない。その人が歩けるかどうか、2階へ自力で上がれるかどうか、トイレを自分でできるかはかなり医学上の問題です。
 そういう人間が、人間としての尊厳を保てるさまざまの生活上の工夫ができるように、それと、命の長さを犠牲にしてでも自分で生活して、自分で社会人らしく暮らせるほうを選ぶように、というのが今の考え方です。昔は、寝たきりになろうが点滴だらけになろうが長生きするほうを選んでいた。問題なく。それがそうでなくなったのは、医学のちょっとした革命です。(野田俊作)

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着信メロディ    野田俊作

着信メロディ
2002年01月23日(水)

 昨日「朝早く眼が醒めて困るということはない」と書いたばかりなのに、朝早く目が醒めてしまった。仕方がないので起き出して、書き物をしていた。ものを書く仕事は、よほど急ぐものでないかぎり、午前中だけにして、午後からは別のことをする。今日も、早くも午前11時ごろには煮詰まってしまったので、まじめな仕事はやめにして、携帯電話の着信メロディを作ったりしていた。
 スーパーマーケットの魚売り場でかかっている歌がある。関西ではどこのスーパーマーケットでもかかっている。中央卸売市場だかなんだか、魚屋さんの元締めみたいな組織が作った歌なんだそうだ。「さかな、さかな、さかなぁ、さかなぁを食べるとぉ」という、きわめて特徴のあるサビがついているので、覚えている人が多いんじゃないか。先日その歌を入れた。ところが、買い物にいって実際に聞いてみると、ある部分の伴奏の特徴を聞き逃していることに気がついた。それがずっと気になっていたので、伴奏を作りなおした。
 私の携帯電話は内蔵電話帳をグループ別に整理できる。「野田一族」だとか「アドラー一味」だとかいうグループがある。しかも、グループごとに着信メロディを変えることができる。こういうのって、きっとどこのメーカーの携帯電話にもついているありふれた機能なんだろうな。でも、周囲に使っている人をみたことがない。みんなオジンとオバンばかりなんだ。「さかなの歌」は、電話帳に載っていない、しかも番号不通知の電話に使っている。それまでは「インターナショナル」を使っていた。ところが、道端で鳴ったとき、となりにお巡りさんが立っていた。ムッとこっちを見られて、ちょっといやな感じだったので、じゃあ「さかなの歌」だったらどうだい、と思ったのだ。いまどき、「インターナショナル」で反応するお巡りさんがいそうにはあまり思えないので、私の思い過ごしだと思う。だって、若い人に「インターナショナル」を聞かせても、誰も知らないもんね。



通信販売
2002年01月24日(木)

 私のオフィス(アドラーギルド)のホームページでは、昨年秋から試験的に一部商品の通信販売をしていたが、具合がよさそうなので、全商品を通信販売することにしてCGIを作っていた。作っていたといっても、CGIレスキューというところのシェアウェアをほんのちょっと改造しただけなのだが、しかしなかなか厄介だったよ。CGIレスキューさんのCGIは、とてもよくできている。しかし、通信販売のような仕事は、自分のところの仕様にあわせてカスタマイズしないといけないので、出来合いのCGIをそのまま使えないのだ。テキストで書かれた初期設定ファイルを書き直すだけですめば簡単なのだが、Perl言語で書かれたプログラム本体を何箇所か触る必要があった。人の書いたプログラムを読むのは、きわめて読みやすいPascal言語で書かれていてもいやなのに、Perl言語みたいな極端に読みにくい言語で書かれたプログラムを読み解くのは、とてもイライラする仕事だった。かなり苦労したが、どうやら動くようになった。クリックするだけで簡単に買い物ができるから、みんな衝動買いをしてくれないかな。そのためには、商品をもう少し充実しないといけないな。年度末に在庫をかかえるのはいやだから、4月になったら考えよう。



トーキングボード
2002年01月25日(金)

 エリクソン風の催眠治療をするとき、治療者は患者さんの意識と無意識の両方と対話する。意識については口で喋ってもらえばそれでいいのだが、問題は無意識とどうやって対話するかだ。普通は「イエスだと右手、ノーだと左手が自然にもちあがります」というように『観念運動』というものを使って対話するのだが、これだとイエスとノーしかない。もっと複雑な答えを求めたいとき、不自由なのだ。
 そこで考えたのが、『トーキングボード』というものだ。『ウイジャ盤』ともいうのだが、これはフランス語のouiとドイツ語のjaをつないだ単語だそうで、かなり怪しい名前だ。実際、19世紀くらいから、かなり怪しい目的(交霊術とかね)に使われてきたようだ。日本では『こっくりさん』に同じようなものを使う。『ウィジャ盤』も『こっくりさん』も怪しすぎるので、『トーキングボード』という名前で呼ぶことにした。これは、私が作った言葉ではなく、ちゃんとした英語だよ。
 なぜこんなものを知っているのかというと、父の本棚に催眠療法の本があって、そこに載っていたのを覚えていたのだ。読んだのは中学生の頃じゃないかな。自分が催眠療法をするようになって、それを思い出したのだ。ほぼ40年前の記憶だ。なにが役に立つかわからないね。
 交霊術に使うのと同じ道具ではあるが、使う目的が違う。人生の方針について、意識で考えてなかなか決められないとき、無意識がどう考えているかを尋ねるために使うのだ。たとえば、転職しようかどうしようか迷っている。考えても考えてもなかなか決められない。じゃあ、無意識はどう考えているのだろうか。そこで、トーキングボードを使う。板の上に「あいうえお」だの数字だの「はい」だの「いいえ」だのが書いてある。その上に、三角形ないしハート型で三本の足がついている板を乗せ、その板の上に手を置いて、観念運動を待つ。そのうち、三角形の板が動き出して、先端が文字を指さす。使い方自体は『こっくりさん』と同じだ。しかし、「うらない」をしているわけではないし、キツネだかなんだかの霊を降ろしているわけでもない。ただ、自分自身の無意識が考えていることを知ろうとしているのだ。
 そういう話を東京のオフィスのスタッフにしていたら、実際に作ってくれた。作ってくれた彼女は、特に工芸に堪能なわけではないそうだが、話を聞いているうちに作りたくなって、あれこれ試行錯誤しながら作ったのだそうだ。はじめて工作をした人が作ったとは信じられないほど出来がいい。仏様がついているのは、彼女が敬虔な仏教徒なので、そのためだ。今日、実際に使ってみた。とてもいい感じだ。数人の人生を変えてしまったかもしれない。
 20世紀は、こういうものを極力排除する思想、すなわち理性絶対のモダニズムが優勢だった。その結果は、あまりよくなかったと私は思っている。自然のバランスも崩したし、人間の心も荒廃させた。意識や理性も大事だけれど、無意識的なこと、動物的なこと、直感的なこと、そういうことも人間の精神にはあるのだから、大切に扱うべきだと思う。21世紀がそういうものに正当な評価を与える時代になるといいと思っている。しかし、邪教的神秘主義と紙一重なので、注意深く取り扱わないといけない。それがなかなか難しそうだ。

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