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教師と生徒とクラス

Q
 学校教育で教師と子どもの関係にクラスが絡んでくるようなことは家庭内でのきょうだい関係では考えられませんか?子どもが多いので、それぞれに関わるときに他の子の視線や育児、他の子の同様のケースにどう対応したらいいか?不公平になっていないかといったことが気になります。

A
 子どもが10人くらいいると関わってきます。家庭が学校よりマシなのは年齢差があるんです、きょうだいは。だから自然に序列を作るんです。クラスは同じ年齢の子でできているので、もっとずっと複雑なんです。だから、家庭ではなるべくモデルは単純なほうが扱いやすいから、親と子と2人関係で考えるほうが便利です。きょうだいの関係もあるだろうけど。
 学校では教師と子どもの2人関係で考えると、だいたい問題はかえってこじれるんです。クラスとの関係のほうが力が大きいから。だから、教師と生徒の関係を考えることでもってクラスとの関係を良くしたい。問題のある子とクラスの関係を良くしたい。(回答・野田俊作先生)

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常習的に暴力を振るう子

Q 
 小学校3年生男子、毎日のように人に暴力を振るう。時には注意した女の子にグーで殴ることもある。サッカーで相手を押し倒したり、わざと蹴ったり、近くからわざとボールを蹴って当てたりする。休み時間終了後はいつも喧嘩の後片づけに追われる。解決しようとしているとき、必ず言い逃れをして素直に自分の間違いを認めない。特にある1人の男の子に執拗に暴力を繰り返す。同じようにやんちゃだが立場的に弱い子にです。謝ってもまた同じことを繰り返し、他の人からも恐れられている。

A
この子、どんないいところがありますか?いつも子どもとつきあうときには、子どもの長所からつきあうべきだと思います。問題点にいくら注目しても何も解決しない。この子、どんないいところがありますか?そのいいところを他の子のためにどんなふうに使うことができますか?だから、その子のいいところを見つけることができれば、それを本人に、「あなたのここのところはすごくいいところなんだけど、それをみんなのためにどんなふうに使えるかな?」と言ってみればいい。「暴力はやめなさい。人を殴ってはいけません」と言っている限り同じことが続きます。不適切な行動を解決しようというような対処が不適切な行動を続かせている。そうでなかったら消えているはずだから。(回答・野田俊作先生)

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問いかけても真面目に答えてくれない生徒

Q
 260人くらいの規模の小学校の教師をしています。今の学校の子どもたちに「あなたにはできることは何かな?」と問いかけても、真面目に考えてくれるとは思えません。自己中心で勝手なことばかりしています。真面目に考えてくれるまでには、子どもたちとある程度良い関係ができてないと難しいと思います。今日お話になったことを地道にやっていけば問いかけに答えてくれるようになるのでしょうか?そのあたりをもう少し詳しく教えてください。

A
 一番最初に考えることは、「真面目に考えてくれるとは思いません」という言い方をやめることです。こっちが悲観的だったら何も起こりません。絶対真面目に答えてくれるはずだと思ってないとね。人間には気迫というものがあって、気力というものがあって、パワーというものがあって、そういうものを持っているか持っていないかで何もかも違います。「この子たち、どうせ私がどんなに一生懸命やったって絶対答えてくれない」と思っている教師に答えてくれるわけがない。「絶対に答えてくれる」と思っている教師には答えてくれるでしょう。それは結局教師の気迫なんです。リーダーシップということを忘れていると思うんですよ。リーダーシップというのは、決して強権でもなければ暴力でもなくて、僕らの持っている理想であり夢であり気迫なんです。僕たちが良いクラスとか良い学校とかのはっきりしたイメージを持って、「それに向かって行こうね」という決心があれば、絶対子どもたちはついてくる。なぜかというと、人間は人の役に立ちたいから。人間はみんなで一緒にいたいから。人間はみんなから感謝されたいから。これは僕たちが忘れかけていることなんです。世界全体が忘れかけていることなんです。アメリカの金融バブルがはじけました。なんで金融バブルなんかが起こったのかというと、お金儲けはいいことで、いいことはお金儲けだと思ったから。お金儲けは悪いことではないけれど、お金儲けは人間の幸せを作らない。何が人間の幸せを作るか?困難な目標に向かってみんなで協力してそれを達成したこと。仲間が一緒にやったなということが人間の幸せを作ると思いませんか?それは学校のクラスでもそうなので、みんなで一緒に難しいことができたねということが、幸福を作るんです。それは別にスポーツだけじゃない。あらゆることについて。ガサガサしてて荒れてたクラスが、「みんなの課題として静かに授業を受けて楽しく勉強できる環境を作ろうね」と言って、それが1学期の間に達成できたら、そのことがみんなを幸福にするんですよ。人間は一度そのことを体験すると、もう大丈夫です。それから先必ず協力できるようになります。だから今まで一度も体験してないのかもしれない。でもそれを体験させるのは教師の目標であり、熱情であり、努力です。(回答・野田俊作先生)

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民主主義とアナーキズム

Q 
 今日はクラスの指導についてのお話だったので民主主義を強調されていたように思います。民主主義とアナーキズムについて、学校現場での対応、違いを教えていただけませんか?

A
 かつて権威主義的だったんです。第二次世界大戦以前の学校を考えると、かなり権威主義的教育をやりました。明治の初めに教育をしなきゃいけないと国が思った。それは、お殿様がいてお百姓さんがいた国から、政府があって、工場で働くとか軍隊に行くとかの暮らしができる人間をつくらなくてはいけなくて、そのためには知識もいるけど、何よりも「集団行動」ができるということ。朝の8時半に全員来てくださいねって、お昼まではみんな机について勉強してくださいねって、お昼休みは1時間の間にちゃんとご飯を食べてくださいねっていうのを、きちんとしないと成り立たなかった。江戸時代はそんなことはなかった。江戸時代は集団行動をしなくても、この国はのんびりと成り立っていたけど、明治になって西洋の植民地主義者たちと争って、この国を占領されないようにするためには、集団行動ができないといけない。集団行動ができることをすごく重視したので、かなり強圧的に集団行動ができるタイプの学校教育を作りました。それでも日本の学校教育は、西洋の学校教育よりもよっぽどマシみたいに思う。西洋には、ペスタロッチという人がいて「体罰をしない教育」を言っているけど、ということは体罰する教育がいっぱいあったわけですよ。「チップス先生さようなら」というイギリスの小説があって映画にもなりましたが、なかなか恐いですね。バチバチ叩くんですよ。そんなのがこの間までごく普通にありました。あれに比べれば日本の学教教育は戦前でもマシだったと思う。それでもそういう教育に対する反省がすごくあって、今度は極端な側に走った。人間って、1つダメだと反対側へ行くんです。それで今度は「躾けない教育」になった。それは「最後どうなるか」というイメージがないからだと思う。最後、この子たちが何をしていけばいいのか?何をしていけばいいのかというときに、家族とか社会とかあって、そのときに「国」を飛ばして「世界」へ行くんです。「日本の国」とか「国家」とか「民族」とかがすごく言いにくい言葉になっていて、そうなるとどうやって教えていいかわからない。「社会」って抽象的です。「人類」も抽象的です。でも「日本国」は具体的です。僕らは日本国をイメージできます。この間、野球の世界選手権がありました。世界選手権があったら皆日本国をイメージするでしょう。でも、人類はイメージしにくい。社会もイメージしくい。イメージしやすい、われわれの、領域で囲まれて何千年か人たちが暮らしてきたこの国の後継者になる子どもたちを育てるんだと思うと、民主主義であれ権威主義であれ、教師が何をやったらいいかわかるけど、そこをなくすと、何をやったらいいかわからない。何を結局教えればいいのか。この国をもっと良い形に守り育てていく、戦前の軍国主義もいけないけど、今の金権政治もいけません。もっとちゃんと国民の利益を思い、国が発展していくような、そういう政治が行われるようなそんな場所に守り育てていく。そのためにみんなが学ばなきゃいけない、みんなが行動しなきゃいけないんだをっていうことを教えたい。それが、今、学校教育がただの多数決民主主義、目標のない民主主義、結局どうしようかわからないで、目標の一致がないままで、ただ目先目先の出来事を「どっちが多いか」で決める民主主義になっている理由だと思う。それは学校だけじゃない。国会がそうです。各都道府県議会もそうです。日本中の議会が全部そうです。会社の重役会議もそうです。会社はまだちょっとマシです。会社は「金儲け」という目標だけははっきりしているから。自分の国というと、一体どこへ行こうとしているかよくわからない、私も。日本国は一体どこへ向かって動いているのかわからない。だから民主主義が機能しない。われわれがどこへ行こうとしているのかをもう1回意識し直すと、それに向かって、権威主義的か民主主義的かの選択ができるんです。そうでない、将来を見渡さない、目標を立てないのは全部放任主義的なんです。目先の快楽だけになりますから。(回答・野田俊作先生)

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授業が成り立たないクラスで生徒は?

Q 
 私の学校では、授業が成り立たなければ話し合いをして次はどうするか、原因は?とグジャグジャ言うことになっています。でも一方的で少しも役に立たず、やり直しを10回以上したというスペシャル悪クラスでした。野田先生のお話で、なぜ全体責任があるのかはわかったような気がしますが、今年も居残りがいっぱいあると思うとグッタリです。生徒の私にも何かできることはありますか?

A
  授業が成り立たなくなることについて、先生は何ができるか生徒は何ができるかを問うべきで、「なんでそんなことになったのか」原因を問うべきではないと思う。先生は「わかる授業」をすべきです。私はいつもこうやってクラスルームマネージメントの話をしますが、いくらクラスルームマネージメントが上手でも授業がヘタだと何にもならない。それは患者さんの話をとてもよく聞いてやさしいけど、手術が下手な外科医と一緒なんです。何の値打ちもない。まず授業の技術を上げることがすごく大事です。授業の技術については、今まで教育大学で「技術」というところに焦点を当てて研究している学者がすごく少なかった。僕らの世代の人たちから、授業の技術研究ということをやり始めて、黒板(白板)の使い方だとか、パワーポイントの作り方だとか、教科書の使い方だとか、中身じゃなくて「形式」の研究を学者がまじめにやるようになりました。そういうことはすごく大事だと思う。子どもたちが理解をし学問って面白いと思い、それは確かに人生に役に立つと思って学べるような授業があって、その上にクラスルームマネージメントがあるんだと思う。それが先生の仕事です。生徒のほうは、わからないところをどうやって学ぶかとか、騒いでいる子に何をしてあげられるとか、自分たちでクラスの自治というか目的をちゃんと考えて、先生も生徒もみんなが一致した目標を作って、そこへ原因を考えるんじゃなくて解決志向的に最後どうなればいいか、具体的にはどんなイメージに向かっていくのかわかり、それをステップ分けして、まず最初これをやろうとみんなで協力してやっていくべきなのでしょう。(回答・野田俊作先生)

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