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野田先生の補正項から

 今日はこちらでお読みください。↓

http://www2.oninet.ne.jp/kaidaiji/dai1keiji-07-19.html

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論理的に正しいと言うことは?

Q 
 自分が理解したと思うことがもう1つ信用できません。論理的に正しいということがわかるとは、どういうことでしょうか?ちなみに数学は苦手です。

A
 まずいな。あのー、さっき言ってたけど、「論理」は「世界の因果性」を写しているものだと思う。ということは、論理の役割は未来を予測することなんです。今起こっていることから次に何が起こるか当てたいんです。考えてきっとこうなるだろうなと思って、当たれば正しく理解しているんです。違えば正しく理解してないんです。これが一番良い方法でしょ。実験的検証と言いますね。これが結構当たらないんです。僕ら理系の学生だった人は、卒業すると研究室で実験しないといけないことになりまして、実験する前に、「きっとこうやったらこうなってこうなって、あら論文書けたってこう思って実験したら、全然結果は違うんですよ。だから結構理屈は当たらないんですよ。僕らが持っている論理というのは、とっても世界の荒っぽいスケッチだと思う。物理学や生物学という学問ですら、起こっていることの荒っぽいスケッチで近似値で、やってみると結構当たらないと思うんです。まして心理学のような扱っている対象が微妙だと、人間の心なんかについて予測をしてもかなり当たらないんです。かなり当たらないから、当たらないときは「私の考えが間違っていたんだ」と思うべきです、実験結果が間違っていたと思わないで。そういうふうにまあ一応考えて納得したということは、その納得した結果がほんとかどうか現場へ帰って確かめないといけない。もっとも、その「理解した」という言葉がわりと曖昧に使われていて、今私は物事の論理関係がわかって未来が予測できることだと言いました。これ凄い大事なお話で、過去に起こったことを納得するのは、理解したと言わないことにするんです。あとで付ける理屈はどうにでも付くから。終わってから「あれはこうだった」と言うのは、僕らは腑に落ちたりするけど、過去のことは確かめようがないんですよ。だからこんなのは科学的話題にならないんです。科学的話題になるのは、まだ起こってないことについて予測した結果それが正しく当たれば正しく理解しているし、まだ起こってないことが思っているように起こらなかったら正しく予測してないというような場合だけ実験できるわけじゃない。だから「あのときはああだったんだな」とかそういうのは確かめようがない、本来。

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野田先生の補正項から

サメ騒動
2001年08月09日(木)

 パラオではサメをたくさん見た。ダイバーはサメを見るのが好きだ。他の魚とは違う神秘的な美しさがある。ダイバーがサメに襲われることはまずない。サメによく襲われるのはサーファーだ。水面でバチャバチャやっているのが、オットセイだの弱った魚だのに見えて、間違って襲うのだそうだ。そうはいうものの、潜っているときに、すぐ近くをサメが通りかかって、ちょっとこっちを見たりすると、思わず目を合わせないようにしてしまったりして、まったく怖くないわけではないが、そこがまたいい。
 パラオから帰ってくると、山陰地方の海岸にシュモクザメの群があらわれたとニュースで言っている。私などのセンスでは、「それは見に行かなければ!」なのだ。シュモクザメのことをダイバーはハンマーヘッド・シャークと英語でいうことが多いのだが、とても人気のある魚種だ。それが群でいるとなると、見逃す手はない。インターネットで、どこかのダイビングショップが見物ツアーを企画していないか探したが、残念ながら見つからなかった。いつもいくショップの社長をそそのかしてみようかな。
 ところが、陸の上の人々はサメが好きじゃないみたいで、海水浴場を閉鎖してみたり、ヘリコプターで監視したり、はては水産高校の練習船がハエナワでサメを捕獲しようとしている。『ジョーズ』なんて映画の見すぎじゃないか。海水浴場をネットで区切ればいいだけのことじゃないか。ころすことはないと思うな。平時はやかましく自然保護を言っているのに、ちょっと気に入らない動物がやってくると敵視するというのは、矛盾していないか。
 先ほども書いたように、サメは、基本的には危険な動物ではないと思う。サーファーや海水浴客が自衛さえすれば、事故はおこらない。仮にサメが危険な動物であったとしても、海ではサメの方が先住民なんだぜ。しかも向こうは生活がかかっているんだ。人間は海に遊びに行くだけじゃないか。たまに遊びに行くだけの人間の都合で、まじめに働いている(?)サメを駆除するってのは、あまりにも自己中心的じゃないですか?



行きたくないヨーロッパ
2001年08月10日(金)

 秘書が、「近くのホテルでビア・バイキングというのをやっていて、フラメンコ・ダンスがあるそうだから、仕事がひけたあと行きませんか?」と言う。私に言い寄っているわけではなくて、他のスタッフも誘っているようだ。残念!。「フラメンコ」と聞いて、悪い予感がした。フラメンコそのものは嫌いではないが、ホテルでアトラクションにやるフラメンコなんて、ひどいんじゃないかと思ったのだ。それに、ここのところ飲みすぎているしな。渋っていると、秘書が「でも、ステーキが食べられるんだそうですよ」と言った。この言葉にクラクラきて、行くことにした。
 予想どおり、ひどい演奏だった。ペンギンさんの踊りみたいなダンスだし、ギターは駅前で歌っている若者並みだし、歌は、ダリウス・ミョーの音楽みたいに、ギターとは違う調で演奏されていた。スペイン語はカタカナで書いてあったしね。耐えられないので、トイレに逃げ出して、演奏が終わるまで外にいた。終わったらしいので帰ると、どこかのおじさんたちが「アンコール!」と叫んでいる。バカ言うんじゃありませんよ。でも、バンドは調子に乗ってもう一曲演奏して、私はもうしばらく悶絶しなければならなかった。
 ステーキは、予想に反して、バイキングではなくて、引換券があって、小さなのが一切れ当たっただけだった。八つ当たり気味につけ加えると、ビールは私の好きな銘柄ではなくて、どちらかというと嫌いな銘柄のものだった。プンプン。
 それはそれとして、一緒に行った男性スタッフが、「スペインへ行きたいねえ」と言う。すっかりヘソを曲げていた私は、「行きたくない」と言った。しばらくすると東ヨーロッパの話になって、「プラハに行きたいねえ」と言う。「行きたくない」と私は言った。
 ヨーロッパへは何度か行ったことがある。そこで何がおこるかは、もう知っている。今さらもう一度行ったって、ああいう街を歩いて、ああいうレストランでああいうものを食べて、城跡で類型的に懐古して(注)、それでおしまいなことは、あらかじめわかっている。そんな時間と金があったら、たとえばタヒチ諸島へ行ってダイビングしたり、ネパールへ行ってトレッキングしたり、ブラジルへ行ってピラニアを釣ったりしたい。
 私が言いたいのは、50歳をすぎると、あと何年生きていられるか、あと何年元気でいられるかを、計算しながら暮らさなければならないということだ。プラハへは、元気なら70代になってからだって行ける。しかし、タヒチやヒマラヤは、そうはいかないかもしれない。先でできなくなるかもしれないことを、今しておきたいのだ。たしかにヨーロッパはいいところだが、今は行かなくてもいい。78歳くらいになって行って、30代ではじめて訪れた日々のことをなつかしく思い出しながら、ウィーンのアンバサダー・ホテルのカフェでクリームの入ったコーヒーを飲んでみたり、夜は『メリー・ウィドウ』でも見に行ったりすればいいんだ。50代には50代のことをするさ。

 (注)「城跡に類型的に懐古してその後われら町に降りゆく」という短歌からの引用。高校時代の恩師、中川信三郎先生の御作であろうと思われる。先生が授業中に黒板に書かれたのだが、御自作だとおっしゃったかどうか記憶にない。広島で詠まれた歌だそうだ。



エスペラントとアドラー心理学
2001年08月11日(土)

 また新潟に来ていて、アドラー心理学の講義をしている。この講座は、富山大学の向後千春さんが受講してくれている。彼は、熱心なエスペランティストだ。それに較べて、私は、きわめて不熱心なエスペランティストだ。
 時間をどう使うかを、たえず考えている。たとえば、小説は好きだが読まないとか、映画も好きだが見ないとか、ヨーロッパは好きだが行かないとか、そういうことだ。エスペラントも、好きだがしないもののうちのひとつだ。すくなくとも、エスペラント運動にのめりこむことはしない。他にすることが多すぎるのでね。
 運動には参加しないが、日本エスペラント学会の会員は続けているし、たぶん今後も続けるだろう。ときどきエスペラントで書かれた本を読んだり、ときどきエスペラントで詩を書いたりはする。つまり、消費者としてしかエスペラントに参加していない。供給者としては参加したくないのだ。
 高校時代から大学時代にかけて、それでも、いくらか運動に参加したことがある。その時代に、ある先輩エスペランティストが、「エスペラントは思想があるのがいけない。思想なんか捨てて、エスペラントを使って金儲けができるようにならないと広まらない」と言うのを聞いて、ほんとうにそうだと思った。彼はもちろん反主流派で、創始者ザメンホフはもちろんのこと、現代でもほとんどのエスペランティストはそうは考えていない。しかし、私は彼に共鳴したので、思想運動としてのエスペラントには参加しないで、エスペラントが実用になることを生活の中で示せばそれでいいんだと思うようになった。エスペランテイストたちは寛容なので、そういう私を許してくれている。
 アドラー心理学も同じことだな。私はアドラー心理学運動に頭の先から足の先までのめりこんでいるが、そうでない人、消費者としてアドラー心理学を使う人、がいることは、ちっともかまわないし、かまわないどころか、それが正常なアドラー心理学の使用法だと思っている。
 かまわないのだが、誰かが思想運動としてのアドラー心理学をになっていないと、アドラー心理学の存続そのものが危うくなる。今のところ私にお鉢が回っているので、その間は熱心なアドラー心理学運動家でいようと思っている。お鉢が他の人にまわれば、私は消費者になるかもしれない。
 アドラー心理学に思想があることは、エスペラントに思想があることと同じほど、普及の邪魔になっている。だから、「アドラー心理学に思想があるのがいけない。思想なんか捨てて、アドラー心理学を技術として使って育児や教育や治療をしていれば、それでいいんだ」という人がいれば、それはそれでもっともだと思う。すくなくとも、そういう人たちに対して寛容であるべきだと思う。
 ただ、「アドラー心理学とはなにか」ということを正面から語るときには、アドラー以来、思想がその中核であり、理論や技法は理想実現のための手段であったということは言わなければならない。私がある人たちに腹を立てているのは、その人たちが思想抜きのアドラー心理学を講義したり本に書いたりするからだ。人に教えるのでなくて、自己使用するのであれば、それは干渉できないことだと私は思っている。彼らは、間違ったことを人に教えるのがいけないのだ。たしかに、純正さと寛容とを両立させるのは難しいことだが、供給者と消費者とを区別することで両立可能なのではないかと思っている。
 エスペラントとアドラー心理学は、19世紀末から20世紀初頭という同じ時代に、ドイツ語圏のユダヤ人という同じ文化状況の中で生まれた思想だけあって、とてもよく似ている。要するに、「人が他人を常に人として扱う」というユダヤ的な課題に、ザメンホフは国際共通語という手段で、アドラーは育児法の改革という手段で、アプローチしようとしたのだ。
 この思想とユダヤ教との関係とか、19世紀末から20世紀初頭にかけて、どんな人たちがどんな方法でこの理想にアタックしたかとかを、調べたいなとかねがね思っている。今はちょっと暇がないけれど、そのうち勉強してみよう。

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涙が出て困る

Q
 それほど感動したという自覚がなくても涙が出て困ることがあります。泣かないでいる方法はないでしょうか?

A
 なんかようわかりません。目が悪いんじゃないでしょうか。それでもないね。他のことを考える?でも、もったいないじゃないですか。せっかく感動して涙が出ているのを止めようなんて。そんなもったいないことを考えないで、しっかり泣いたらどうですか?だいたいみんな映画を見に行ったりして、高い金払って泣くんですから、手軽に泣けるというのは経済的でいいじゃないですか。なんでやめたいかようわからん。

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野田先生の補正項から

結界が破れる
2001年08月07日(火)

 このごろ、身の回りの機械がよく壊れる。たとえば、次のようなものだ。
 先日(07/16,07/27)報告したように DynaBookの液晶が破れた。今日、修理が終わったというので、引き取りに行った。消費税を入れて9万円以上払いましたよ。
 先日、縦走登山をしている間に、デジカメの液晶表面のガラスが割れた。落としたり、ショックを与えたりしたわけではない。ザックの中に入れておいて、出してみると割れていたのだ。さいわい動いたので、そのままパラオに持っていって、ハウジングに入れて水中写真を撮った。今日、修理に出した。
 先日、すさみに潜りに行ったとき(07/18)、ダイビング・コンピュータが発狂した。警告音が鳴り止まないのだ。修理に持っていくと、センサーが壊れたとのことである。パラオに行くまでに修理が間にあわないので、友人のを借りた。
 掛け時計が壊れた。この間まで遅れ気味なのに、急に進みだした。クォーツなのに、どうしてだろう。
 これは故障とはいえないが、腕時計が2つ同時に電池切れになった。
 これは、機械ではないが、パラオで友人の鼓膜が水圧で破れた。
 こうして並べるとなかなかのものでしょう。これらが偶然の一致だとは、人間は考えない。しかし、これらの間に因果性があるとも思えないので、なにかこれらを結果する単一の根本原因があるのだと考えたがる。そんな場合、日本人はしばしば人間の行為に原因帰属する。それも、「不注意だから」とかいうのではなくて、「私(ないしみんな)の行いが正しくなかったから」というような、道徳的行為の不足に原因を求める傾向がある。これは、儒教の影響だろうか。儒教では、自然災害は為政者の行為が道徳的でないからだと考えるのだそうだ。儒教文化圏の外側の人はどうだろう。西洋人に聞いてみなければ。
 インド人がどう考えるかは知っている。彼らは、「瞑想が足りないので結界が破れているのだ」と言うだろう。彼らは、世界の構造が人間の精神によって保たれていると考えている点では中国人と同じだが、道徳的行為ではなくて、内的な覚醒が問題だとする点では違っている。
 こういう原因帰属は不合理で非科学的だということは知っている。非科学的だということを知っていながら、ある程度、本気で信じてしまうのだ。そして、「しばらく生活を整えよう」と思ったりする。つまり、科学ではなくて迷信でもって行動するのだ。こういうのは、日本人ではどの程度一般的な現象であり、外国人ではどの程度なんだろう。



死者儀礼
2001年08月08日(水)

 最近ある友人が亡くなった。故人の希望とかで、お葬式を内々で出されたので、参列できなかった。その後お参りする機会がなかったが、初盆なので、この機会にお参りさせていただこうと奥様に電話でご都合を伺うと、「どなたのお参りもお断りさせていただいておりますので」と丁寧に断られてしまった。あらま、お葬式だけじゃなくて、その後も駄目なのか。まあ、故人の希望でもありご家族の意思でもあるなら、私が不服を言う筋合いではないが。
 話はすこし変わるが、先日、ある人から、「お仏壇にお参りするのは、仏様にお参りしているのか、ご先祖様にお参りしているのか」という質問があった。「そりゃあ、仏様ですよ。仏様に香華(こうげ)をたむけて礼拝供養して、その功徳を死者に回向(えこう)する、というのが図式ですね」と、わけ知り顔をして答えた。日本では、読経(どきょう)の最後に、法華経化城喩品(ほけきょうけじょうゆほん)の中の「願わくはこの功徳をもって普く(あまねく)一切に及ぼし、われ等と衆生と皆ともに仏道を成(じょう)ぜん」という偈文(げもん)を唱える宗派が多い。すなわち、「いま読経をしたトレーニング効果を、自分一人のものにしないで、一切の人々や生き物にシェアして、自分もみんなもいつか悟りを開いて仏になれるように」という意味だ。ということは、それまでの懺悔礼拝や読経は、すべて仏に向かっておこなわれていたわけであって、死者に対してではない。特定の死者の供養のために読経するときでも、読経の最後に、文は宗派ごとに違うが、功徳をその死者に回向するような願文をつけるので、やはり読経そのものは仏に対しておこなわれる儀礼なのだ。
 だとすると、わざわざ友人の家を訪れて、ご家族にご厄介をかけながら、そこの仏壇に向かって読経することはないので、どこであれ仏を礼拝供養して、最後に友人を特定した回向文を付けておけばいいわけだ。それはそうなのだが、やはりさびしい。仏教の理論以前にある、死者に向かう人間の(人間普遍的かどうかはわからないが、すくなくとも日本人の)心情としては、彼の遺骨に向かって直接に語りかけたいのだ。
 お断りしておくが、故人やご家族の考え方に不平があってこんなことを書いているわけではない。死とどうつきあうかはきわめて個人的な出来事であり、第三者である私がどうこういうべきものではない。それはそれとして、私の側の勝手でさびしがっているだけのことだ。

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