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親への「言葉がけ」

Q 
 主人(養護=支援学校の教職員)が仕事のことで悩んでいるとき、子どもとのかかわりでなく親とのかかわり合いで、どのような言葉をかけたらいいでしょうか?

A
 あのー、「言葉がけ」っていう考えをあんまりしないでおこうと、「パセージ」を作ったときに思ったんです。むしろ、「問いかけ」をしようって。あのー、話を聞こうって思うんです。上手に問いかけて丁寧にお話を聞けば、たぶん人間は自分の問題を自分で解決する方向へお話をなさるだろう。「今日どんなことがあったの?」「今日こんなことがあって」と言ったら、「どんなふうに考えた?」「どうしようと思う?」「どうしたらよかった?」とかいうような「開いた質問」をしていくのが一番賢いやり方じゃないかしら。現場のことをよく知らない奥さんに「大丈夫よ」と言われても、「何を根拠に大丈夫なのよ」と思われるだけだから、「言葉がけ」っていう考え方をやめて「問いかけ」っていう考え方になさってはいかがですか?

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野田先生の補正項から

右傾化してるんだ
2001年08月18日(土)

 「新しい歴史教科書をつくる会」の歴史教科書の話の続きだが、名城大学の伊藤俊一さんという日本史の先生が「愚一記」という日記を公開してされていて、そこで、問題の教科書を批判してされている。伊藤さんは、その本に初歩的な誤りが多いことや、読み物としては読めても教科書には適さないことを指摘されたうえで(詳しくは伊藤さんのホームページをご覧ください)、次のように結論される。

 要はこの教科書問題は、政治的なサヨク・ウヨクの問題と、素人の方々によって書かれた教科書の出来・不出来の問題が不幸な結合をしていて、文部省はウヨク的教科書も通さねばならないから、普通に検定をすれば1000を越えるような(←あくまで概算です(^^;)修正意見をつけねばならないのに、それでは10~30箇所程度の他書と比べて採択妨害と取られかねないから150箇所程度(←正確には137箇所でした。+扶桑社の自主訂正9箇所)で目をつぶって通し、私がここで誤りが多過ぎる不良教科書だと指摘すれば、まちがってサヨクのレッテルを張られかねないという構図に陥っている。(8月17日)

 正鵠を射た(せいこくをいた)ご意見だと思う。

 私が関心を持ったのは、「誤りが多過ぎる不良教科書だと指摘すれば、まちがってサヨクのレッテルを張られかねないという構図」だ。へえ、そんな時代になったんだ。私が若いころは反対で、ヒダリ側の文献の不正確さを指摘すると「右翼反動だ」などと言ってボコボコにやられたりしたもんだ。日本はずいぶん右傾化しているんだな。
 そう言えば、小泉首相が8月15日に靖国神社に参拝しなかったことを非難して、「15日でなければ価値がない」と言っている議員たちがいたし、彼らは実際に15日に参拝していたようだ。13日だって15日だっていいじゃないか。そういうことにこだわるって呪術的だよ。もっとも、しばしば私も呪術的なことにこだわるが、そのこだわりを他人に強要しようとはまったく思わない。科学的思考を万人に普及することには賛成だが、呪術的思考は個人的な趣味にしておいたほうがいい。
 ミギもヒダリも、自分たちの呪術的思考を普遍化しようというところに問題があるのかな。「つくる会」の教科書も、そういうことなんだろう。伊藤さんは、その前に科学的に正確な教科書を書くべきだと主張されるわけだ。もっともなことだ。



右傾化してるんだ(2)
2001年08月19日(日)

 先日、新潟県長岡市で仕事があって、予習のために、司馬遼太郎『峠』を読んだ。小説は読まないことにしているのに、なにかと口実を設けては読む。まるでアルコール依存者のようだ。

 主人公の河井継之助は幕末の長岡藩の武士で、陽明学かぶれであった。家老となったのだが、薩長の倒幕軍がおこると、彼なりに熟慮した結果、抵抗することにした。その結果、長岡藩を滅ぼしてしまう。彼がなぜ抵抗することにしたかというと、朱子学風の大義名分論によってではなくて、陽明学風の「行動の美学」にもとづいて判断したからだと、司馬の小説からは読み取れる。マクロの正義(あるいは損得)から説きおこしてミクロの行動を決めるのではなく、ミクロの美学(あるいは倫理)から説きおこしてマクロの政策を決めるのだ。『峠』の河井像には、司馬の解釈が入っているので、ほんとうはどうなんだかわからないが。
 日本人は、陽明学徒風の人物が好きだ。「朝に道を聞かば夕に死すとも可なり」だの、「みずから省みてなおければ、千万人といえどもわれ行かん」だのといった、儒教ファンダメンタリズム(=根本主義。1920年代、アメリカ・プロテスタント諸教派内に起こった論争的保守的運動)に凝り固まって、身辺潔白に暮らし、思うことを歯に衣着せずはっきり言い、常に行動的で、必要があれば攻撃的ないし反体制的になる、そういう人物と出会うと、ころっと参って、手もなく信用してしまう。河井もそういう人物だったのだろう。長岡の人々は、冷静に考えたら、河井の言うことを聞いたら国が滅びるかもしれないことがわかっただろうに、彼の人物に惚れてそういう可能性を見落としてしまったわけだ。
 小泉首相も、そういう風な人物だ。これまでの総理大臣は、朱子学風で、鷹揚に構えていて、マクロからしかものを考えなかったので、国益はそれなりに保たれた。また、人物としての魅力に乏しくて、ときにひどくうさん臭かったから、国民はいつも冷静で、その結果、国はそれなりに安全だった。小泉氏が国を危険に陥れるかどうかわからないが、靖国神社参拝でもわかるように、彼は自分のミクロな行動の美学をなにより優先するので、気をつけないとマクロのレベルでとんでもないことがおこりそうだ。しかも、彼は陽明学徒風にかっこよくて、国民は熱狂している。冷静になって、しっかり考えないと、危ないかもしれない。
 ともあれ、『峠』を読んで、ひとつには、陽明学というのは個人の行動規範としてはそれなりに評価できるかもしれないが、政治原理としては問題があるのかもしれないことと、ひとつには、「かっこいい指導者には気をつけないと国が滅びる」ということと、このふたつのことを学んだのは、収穫だった。

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カウンセラー勉強のための本

Q684
 カウンセラーの勉強をするために読んでおいたほうがよい本などを教えてください。

A684
 アドラーのカウンセラーの勉強は本を読んでもできない。それでもどうしても本を読むなら、例えば『アドレリアン』のバックナンバーに、私が書いたカウンセリングに関する論文が載っているので、そういうのを読むことですね。『野田俊作論文集』にもいくつか載っていますが、あれ以後にもいくつか書きましたからね。そんなのかな。いくつか本にまとまったものがあるけど、あれ読んだからといってカウンセリングできるようになるとは思わない。カウンセリングというのは職人芸ですから、本読んでできるようになるとは思わないんです。習ってしまってから整理のために本を読むというのはできると思う。習う前に本読んでもあんまり役に立たないし、ひょっとしたら邪魔になるかもしれない。

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野田先生の補正項から

サルは絵を描かない
2001年08月16日(木)

 この間からなんとなく考えているのだが、サルは絵を描かないように思う。サルの心理学についてちゃんと勉強したわけではないのでわからないけれど、今まで、サルが絵を描くという話を聞いたことがない。
 サルは絵文字が識別できるようになるのだそうだ。絵文字が識別できるのに、どうして絵を描かないのだろう。いや、単独の絵文字を他の絵文字と区別するだけのことなら、刺激弁別に過ぎないから、魚だって学習する。水族館のイシダイが数字を識別しているのを見たことがある。(もっとも、サルは絵文字を区別できるだけではなくて、絵文字を文法に従って組み立てられるので、イシダイよりはよほど賢いようだが)。
 そもそも、サルは絵を認知できているのだろうか。つまり、絵と、そこに描かれている実物を、対応させて認知しているのだろうか。わが家にネコが2匹いるが、彼女らは絵は認知できていないように思う。たとえば、魚の絵や魚の写真を見せても、魚だとは思わないようだ。TVで魚が泳いでいると、いくらか関心を示すが、それも、魚だと認知しているかどうか怪しくて、形態とは関係なく動くものに興味をもっているだけかもしれない。厳密な実験をしたわけではなくて、素朴な観察データにすぎないが、たぶん当たっていると思う。サルも同じレベルなのだろうか。
 もしサルが、絵を描かないだけでなく、絵と実物との対応を認知できないなら、人間とは脳の構造が根本的に違っていることになる。逆に言うと、人間の脳は、絵を描くとか、絵と実物の対応を認知できるとかいう点で、他の動物とは違った特質をもっていることになる。絵を見て実物と対応づける力は、実物から抽象的な特質を引き出す力だ。これは、人間の抽象的思考能力の基礎になっていると思う。
 そのことは、おそらく諸刃の剣で、「世界を絵として認識できる」ということは、「絵としてしか世界を認識できない」ということでもある。絵は、あくまで地図であって現場でない。人間の間違いが、しばしば、世界を絵として認識することと関係しているように思う。すなわち、地図を現場だと思い込むことに起因しているように思う。
 サルが絵を描かないということについて、私は最近不思議に思ったのだが、きっと誰かが昔に研究しているんだろうな。探してみよう。



文体の力
2001年08月17日(金)

 たまたま書店で、小森陽一他編『歴史教科書 何が問題か』(岩波書店)という本を買って、なんとなくパラパラと読んでいた。例の、「新しい歴史教科書をつくる会」というところが作った中学校用の歴史教科書に対する批判書だ。
 中に、「あれっ」と思う文体の文章があった。内容ではなくて、日本語の書き方が変わっているのだ。たとえば、次のような文体だ。

 さて、「自分の国の歴史に自信を失うということが、ずっとおこらない国だったが、ここ半世紀は必ずしもそうとはいえない時代になってきた」、と教科書の書き手はいいます。まさに底意にあふれたもの言いですが、確実なところ、なにをいいたいのでしょう?(中略)日本人が自信をもっていた時代として、教科書の書き手が超国家主義から侵略戦争にいたった時代を考えているのなら、それこそはアジアに大きい人間的悲惨をもたらしたのであったし――南京虐殺についてはこの教科書に数値をあげずに書かれ、朝鮮人慰安婦と七三一部隊については書かれていませんが――、日本人自身にも荒廃をもたらしました。
 その軍隊の犯罪を、日本人として学び反省することが、どうして日本の子供に自信を失わせ、その誇りをなくさせるのか?それが私にとってずっと理解できない、日本の新しいナショナリストたち、つまりこの教科書の書き手をもふくむ勢力の論点です。過去の歴史においておかした誤ちを認め、未来においてそういうことをやらない日本人へと、現在において自分をきたえることが、自信と誇りをかちとるための、なにより自然なやり方じゃないか、と私は思います。そうではないでしょうか? (pp.180-181)

 論理的であるべき問題を扱うにはあまりにも情緒的な文章だが、それはそれとして、「語りかけ」として実にいい。同じ問題を別の著者が書いているときの語り口は次のようで、これはふつうの日本語だ。

 かくして、日本人の傷痕を癒し、日本人が独立心を失ってしまうのを防ぐために、この教科書が提案するのは、占領期に切断された日本の歴史をつなぎなおそうということです。そしてそのために、「大東亜戦争」を罪悪感と反省の意識をもって振り返る姿勢から日本人を“解放”しようというのです。
 「つくる会」の論理を復元するなら、戦争に敗北して日本人が自信を失ってしまった以上、もう一度戦争をして勝たない限り、改めて自信を取り戻すことはできないことになります。その意味で、この教科書は、明確な「好戦史観」に貫かれた、きわめて危険な思想を中学生に教え込もうとしているといえます。当然のことながら、戦争をして勝たなければならない相手はアメリカですから、「つくる会」が夢見る戦争には現実性は一切ありません。だからこそ、彼らは必死で過去の「大東亜戦争」を肯定的に描き出そうとしているのです。(中略)このような論理に支えられて、「大東亜戦争」とそれに連なる一連の過去が、現在の批判から解放され、過去におけるひとつの必然として肯定されるにいたるのです。しかし、過去の考えに対する肯定をひたすら積み重ねることからは、未来への展望は決して開けません。この教科書は、敗戦後五十余年の歴史をすべて否定し、そして現在をも否定しています。けれども、そのような思考停止からは、未来に対する展望が生まれることはないのです。この教科書の最大の問題点は、ここにあるといっても過言ではありません。(p.93)

 これも論理に飛躍があって情緒的な文章だが、先の文章のような、語りかけてくる力がない。だから、論理的にきちんと反論してみようかなという気になる。しかし、先の文章は、文体の力で煙にまかれて、当方の論理的な力が働きにくくなる。誰が書いたのかというと、大江健三郎だ。文章の力というのはすごいな。飛躍の多い論理でも、つい説得されてしまいそうになる。

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野田先生の質疑応答

「沈痛、告知」
  ↓
http://www2.oninet.ne.jp/kaidaiji/dai1keiji-07-21.html

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