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野田先生の補正項から

森総理大臣はなぜ嫌われる(た)か
2001年02月16日(金)

 森総理大臣が、またもやマスコミに非難されている(た)。彼ほど国民の神経を逆撫でし、生理的に嫌われる総理大臣も珍しいんじゃないか。
 ハワイ沖で、日本の水産高校の練習船がアメリカの原子力潜水艦に「撃沈」されてしまったのだが、その報告を受けたとき、森氏は神奈川県のゴルフ場にいて、帰ろうとしなかったという。その後、記者に向かって、「私が右往左往したら、かえって命令も指揮もできない」という趣旨のことを言ったとも言う。
 理屈だけを言うなら、森氏の言うとおりだと思う。情報化が進んでいるので、日本中どこにいても同じだ。一昨年、沖縄県の八重山群島の小浜島の波止場で、パソコンを携帯電話につないで、勤務先からのメールを読んでいるとき、つくづくそう思った。小浜島に住んで、大阪の会社を経営することだって、やろうと思えばできる世の中になった。森氏も、例えばアメリカ大統領に電話をかけることだって、ゴルフ場にいながらにして、やろうと思えばできただろう。
 理屈は森氏の言うとおりなのだが、国民の道徳観念は情報革命以前に形成されているので、危機が起こったときに、何はともあれ指導者が駆けつけてこないことには、むかついてしまうのだ。さらに、駆けつけてこないだけではなくて、遊んでいたとなると、真面目な日本人は絶対に許してくれないのだ。さらにさらに、道徳観念を逆撫でする理屈で言い訳するとなると、もう決して許されないのだ。
 ここ数日考えているように、道徳観念なり美意識なりの周囲に、怒りや恐怖心や嫌悪感などの陰性感情の障壁が立っていて、それでもって、そうはっきり意識していなくても、不道徳なことや醜いことをしないでおくようにプログラムされているらしい。しかし、この仕組みには、ちょっと考えただけでも、問題が2つある。
 1つは、これが人ごとに違うことだ。森氏がゴルフを続けたことに国民は嫌悪感を持ったが、森氏自身は持たなかった。国民の道徳観念と森氏の道徳観念とは違うのであろう。この点では、森氏は、外国人女性を殺したと疑われている男よりもさらに「人間離れ」している。しかし、価値観は相対的なので、森氏が間違っているとは言えない。正しいとも言えないがね。多数決は、道徳的正当性の根拠にはならない。じゃあ、何が正しいのかというと、今やそれがよくわからなくなっているのだ。
 2つ目の問題は、陰性感情の障壁は、自分の行動を律するには便利かもしれないが、他人の行動を批判するときに、陰性感情をともなって攻撃することになってしまい、理性的な話し合いが成立しにくくなることだ。罰による育児や教育の効果で陰性感情の障壁ができたのであれば、罰をやめればなくなるはずだが、そうでもないようで、先天的に、ある行動はして、ある行動はしないように、感情を使って制御するプログラムが仕込まれているようだ。生後、どういう行動にそれを適用するかを決めていくだけのように思う。だから、罰を使って育児教育しようがしなかろうが、道徳観念というものがある限り、それに反する者への怒りや憎しみもあるようで、人間はなかなか理性的に話し合うことが難しい。これは、とても困ったことだ。



感動する物語を
2001年02月17日(土)

 陰性感情の障壁があって、そのおかげで、いちいち考えなくても道徳的な行動ができることはわかった。一方、それを踏み越えることに喜びを覚える美意識があることもわかった。森鴎外が言ったように、道徳観念と美意識は、ときに矛盾するのだ。それが人間の自然(=nature=本性)なのだから、仕方がない。美意識を道徳観念と常に関係づけたのでは、窮屈でしょうがない。
 しかし、道徳観念と矛盾する美意識を、手放しで礼賛するわけにもいかない。悪徳の栄えというか、悪の華というか、フランス式の退廃は、それはそれでいいものではあるが、それだけでは困ると思うのだ。道徳観念についても美意識についても、陽性感情をともなうような領域もあるわけで、その部分も一方で宣揚されていないと、バランスがとれない。わかりやすく言うと、感動する物語が必要なんだ。
 「性」についても「暴力」についても、情報統制することに私はあまり賛成できない。情報統制すればするほど、それをかいぐぐって知りたいと思うものだから。有害図書でも何でも出版すればいいんだ。ただ、その一方で、有益図書の出版を奨励しないといけない。現代芸術の問題点は、妙に皮肉っぽく構えて、感動するような物語を語ることに躊躇を覚えるところにあるように思う。司馬遼太郎だの宮城谷昌光だのといった、ひたすら明るく感動的な物語を、もっともっと作らなければいけない。
 特に、性と暴力について、性の美しさとか、正しく制御された暴力のすがすがしさを、子どもたちに教えていかなければならないと思う。そういう物語は、まだそんなにたくさんないように思う。

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野田先生の補正項より

武道は人間を暴力的にするか
2001年02月15日(木)

 臨床心理学は、20世紀の間、「性」と「暴力」という2つの問題のまわりをうろうろしていた。「食」だって「仕事」だって「老化」だって問題ではあったのだが、それらよりも「性」と「暴力」について、はるかに多くの研究があると思う。これには2つの要因があるだろう。1つは、臨床心理学の黎明期に、フロイトが「性」と「暴力」を極端に強調したことだ。微分方程式の初期値みたいなもので、後々まで影響が残ったのだ。
 もう1つは、20世紀の文明がもてあました問題だったことだ。「性」は、例えば江戸時代の日本だったら、それほど問題にしなくてもすんだかもしれない。性に関して、今よりうんと大らかだったからね。性に対して抑圧的なキリスト教文明が、性の問題をこじれさせている。「暴力」も、戦国時代だったら、問題ではなかったかもしれない。それどころか、当時は、粗暴であることは、社会適応の1つの条件ですらあったかもしれない。
 性については、昨日すこし書いたので、今日は暴力のことを書いてみる。どうすれば暴力的でない子どもを育てることができるか。それは、「制御された暴力」すなわち武道を習わせることだと思う。空手とか柔道とか合気道とか。ある程度強くなると、暴力を乱用することが少なくなると思う。「暴力はいけません」と、非武装中立論に凝り固まって教育するよりも、はるかに効果的だろう。
 いまだに非武装中立論に凝り固まっている左翼政党があるものだから、国が非武装なら個人も非武装でなければならず、武道を習わせるなんて右翼だと言う人もいる。国のことはさておき、個人の非武装中立については、昔、少林寺拳法の創始者の宗道臣氏が、「女性を連れて歩いていて、突然暴漢が襲ってきたとき、君は非暴力で、女性が乱暴されるのを黙って見ているのか?」と言うのを聞いて悟るところがあった。自分を守るためには、暴力よりも、逃げるとか、謝るとか、あるいは何発か殴られるとかいった、いくつか別の案があるし、どれも暴力をふるい返すよりはいいアイデアであることが多い。しかし、他人を守るためには、暴力しか解決法がなくて、暴力を使うしか仕方がないときもあるかもしれない。
 それで、実際に合気道を習い始めたのだが、習ってみると、別のこともわかってきた。それは、暴力を制御するということだ。フロイトが、「イド(無意識?衝動?)あるところにエゴ(意識?理性?)あらしめよ」と言ったが、まさにそういう感じで、それまで暴力についてあまり考えてみたことがなかったのが、考えることが多くなり、それにともなって、暴力的衝動が少しずつ意識の制御下に入ってきて、最終的には、少なくとも「われを忘れて」暴力をふるったりする可能性は、絶対になくなった(まあ、もともとそれほどあったわけではないが)。もし、暴力をふるうことがあるとすれば、先ほどの宗道臣氏の例のように、他の解決案を探したが、暴力しかないと理性が判断したときだけだろう。つまり、暴力は理性の制御下に入ったわけだ。
 性だってそうで、性について教えてくれる道場でもあって、週に1回なり2回なり稽古に通って、汗まみれになって実習し、やがて上達して段位でももらうことができるなら、完全に理性の制御下に入るだろう。しかし、これはさしあたって実現不可能な解決策だ。
 しかし、暴力は、武道という形で、実習中心に教育できる。上手に教育すれば、子どもは非暴力的になるだろう。確かにある種の武道家は右翼的な傾向もあるし、ある種の武道家の弟子になると、かえって暴力的な傾向が強まることもあるかもしれない。しかし、それは個別の武道家の問題であって、武道そのものの問題ではない。
 「性」も「暴力」も、臨床心理学が格闘してきたテーマなのだが、考えて出てきた答えが「実習」という身体的な訓練であるということは、ちょっとがっかりしてしまう。どちらも、話し合いを超えたところで起こる身体的な出来事なんだね。つまり、動物的な出来事で、すべてではないけれど、ある部分が心理学の守備範囲の向こう側にあるんだ。だから、カウンセリングだけでは解決しないということだ。

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野田先生の補正項から

性犯罪の予防と被害者の治療
2001年02月14日(水)

 最近、多数の外国人女性に暴行を働き、さらにその中の1人をころしてしまったという嫌疑がかけられている男について、TVや新聞が毎日のように報道している。これなど、私が嫌悪感を覚える話題の1つだ。卑劣だからね。しかし、容疑者はそれが行為できたということは、彼はこの嫌悪感を持っていなかったのだろうか。
 いや、持っていたのかもしれない。持っていながらそれを「乗り越える」ことに、不道徳な喜びを感じるということだってありうるから。「猟奇的」というやつだね。そのほうが彼が一切の罪悪感を持っていなかったというよりも、ありそうなことだ。本当のところは確かめることができないので、罪悪感があったということにして話を進めよう。
 そうだとすると、子どものころに、逸脱的な性行動を禁止して、それに嫌悪感を植えつけるという教育法は、あまり効果がないかもしれないことになる。禁止があるから、禁を犯すことに喜びを覚える者も出てくるわけだし、禁止が強くなればなるほど、禁を破ることの喜びも大きくなるだろう。禁止を強くすると、成人して性犯罪者になる人の数は減るかもしれないが、性犯罪を犯す人のほうは、いっそう凶悪になるだろう。つまり、禁止が弱いと多数の軽微犯、禁止が強いと少数の凶悪犯、ということだ。これは、性犯罪だけじゃなくて、犯罪一般に成り立つように思う。
 だから、罰でもって性教育をしてはダメなので、性は「いいこと」「楽しいこと」だと最初に定義しておいて、「では、どうしたらいいsex相手が探せるか。探し出せたら、どうしたらいいsexができるか」という教育をしないといけないわけだ。ただ、話だけじゃなくて、実習しないとあまり効果がないと思う。体験をともなわない言葉は、単なる観念の遊びだから。
 しかし、こういう教育はできないね。いったい、誰がどうやってするんだい?
 性犯罪の被害者の女性(男性でもいいが)についても、同じ原理が通用すると思う。彼女らが問題を抱えるとすれば、性行動について嫌悪的な体験があったので、性と嫌悪感が条件づけられてしまったのだ。嫌悪感で条件づけを受けると、いわゆる「回避条件づけ」になって、手がかり刺激(この場合は性行動)があると、ただちに逃げ出して、体験しないようにする。そのときには、嫌悪感や恐怖心や怒りなどの不快な体感があるだろう。これは、人間だけじゃなくて、ネズミでもハトでもそうするから、「心の傷」というほど立派なものではない。「うめぼし」と聞くと唾液が出るのと、あまり変わらない心理作用だ。
 だから、嫌悪場面(=性犯罪にあった思い出)について話をすればするほど、嫌悪条件づけをしていることになるから、反治療的だ。地震の被災者に「地震は怖かったですか?」と尋ねているのと同じことだ。「心の傷」論者の問題点はここだ。彼らは、外傷的な性体験を語らせようとする傾向がある。それも、繰り返し繰り返し。これは、むごいよ。
 そうではなくて、リラックスした状況で、少しずつ性行動に近づいて、やがて美しく楽しい性体験を繰り返すことができれば、嫌悪感は消えるだろう。「系統的脱感作」という、古典的な行動療法だ。この場合も、性教育と同じで、話をするだけじゃなくて、実際に、よい性行動を実体験する必要があるだろう。体験のないことについての話し合いは、言葉が実物を伴っていないので、ほとんど無意味だから。
 しかし、この治療はできないね。それこそ、いったい、誰がするんだい?

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野田先生の補正項から

神経を逆撫でする
2001年02月13日(火)

 このところ、人々の神経を逆撫ですることばかり書いているような気がする。半分は意識的なんだけれど。
 どういうときに、人は、神経を逆撫でされた気がするのだろう。それは要するに、その人が持っている「自明の価値観」に反するようなことを見聞きしたときだ。私だって、そういうことがないことはない。例えば、生徒に怒鳴ったり殴りつけたりしている中学教師などという人種は、考えただけでも嫌悪感が走る。暴力で人を支配しようなんて、許せないと思うのだ。しかも、自分より弱いものを。
 しかし、なぜ嫌悪感だの不快感だの怒りなどが起こるのだろうか。実体験としては、私は教師に殴られるほうじゃなかった。うまく立ち回っていたからね。だから、暴力的な教師という手がかり刺激に対して、恐怖反応が条件づけられたというわけではない。もうちょっと俗っぽく言うと、教師に殴られた「心の傷」は、私にはないのだ。だから、私が暴力的な教師を見聞きするとムカつくのは、古典条件づけやオペラント条件づけのような、動物でも起こる非言語的な現象ではなくて、言語的な、認知心理学的な出来事だと思う。いつか、「弱いものを暴力で支配するのは卑劣だ」と学んだのだ。実体験なしに、抽象概念として最初は学んだのではないか(一番ありそうなのは、少年向けの小説だと思う。TV以前の世代だから)。その後、自分は暴力をふるわれなかったにしても、誰かがふるわれているのを見て、暴力をふるっている人を「卑劣だ」と意味づけたのだろう。そのときに、同時に嫌悪感もあったと思われる。こうして、「卑劣だ」という意味づけをキーワードとして、暴力をふるう人に嫌悪感が結びついたのだと思う。
 では、「卑劣だ」と意味づけることに、どうして体感としての嫌悪感が結びついたのか。これは、たぶん、暴力教師を見聞きしたのとも少年小説を読んだのとも別の体験にもとづいていると思う。ある種の行動の集合を「卑劣」という言葉でくくっているわけだから、その中のどれかに嫌悪感が条件づけられれば、他のものにも般化するのだろう。具体的にはどういう行動に最初に結びつけられたのか、私は覚えていない。
 ともあれ、反価値的な出来事に対して、「卑劣だ」などの言葉を手がかり刺激として、嫌悪感なり恐怖心なり怒りなどが、発達のある時期に結びつけられるわけだ。だから、(某国などは)「日の丸」と聞いただけで嫌悪感があったりするわけだ。これは、個人を、ある「自明性の枠」の中に閉じ込めるのに役に立っている。自分の価値観を離れた行動をしようとすると、たちまち感情反応が起こるので、考えなくても価値観の範囲内で行動するのだ。一種の警報装置だね。
 さて、私の話がなぜ人々の神経を逆撫でするかなのだが、それは、「社会通念になっている価値観を批判している」からだろう。「心の傷はない」だの「移植医療をやめたほうがいい」だの「日の丸をかかげて反政府デモを」だのというのは、非常識な発言だということになっている。しかし、たとえある人たちが嫌悪反応をしても、いちど理性的な検討にさらしておかないといけないことたちではないかと思うのだ。

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野田先生の補正項から

「生きる権利」

http://www2.oninet.ne.jp/kaidaiji/dai1keiji-05-25.html

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