Q
主人に反対されながらも講演に来ました。相手を変わらせることはできないけど、自分自身は変わることができて、家の中の雰囲気が良くなったような気がします。
A
ご主人が反対されるのは、アドラーが憎いからではない。ご主人はアドラーを知らないから。ご主人が憎いのは奥さんです。なぜ憎いかというと、今までの歴史があるから。その歴史の業(ごう)が全部なくなるまでは憎まれる。
どうやってなくなるか。ご主人に向かってアドラー心理学を使うのはきっと難しいと思います。使うのにやさしい順があるんです。子どもに向かってするのが一番やさしい。配偶者に向かってがその次で、自分の親に向かってが一番難しい。だから、まず子どもに向かってしっかりやりましょう。そうなると子どもとお母さんとは良い関係でつきあえるようになって、ご主人の地位が家の中でなくなるでしょう。みんなワーッと楽しそうにしているとき、ご主人が帰ってきたら「シーン」。そのときご主人は困惑行動をする。困ったのであがきます。怒鳴ってみたり、おみやげ持って帰ってきたり、いろいろやる。困惑行動が出てきたら、もう勝ったも同然です。どうやったら子どもを自分の側につけられるか、ご主人が工夫しだしたら、もうあとは知らぬふり。アドラーの本をそのへんに置いておく。あるときご主人が「お前、そのやり方はアドラーじゃないだろう」と言う。
困惑行動が出るのを待つのを、カウンセリングではよくやります。お客さんがいよいよ困って妙なことをやりだすのを待つ。難しいケースの場合にね。困ってムチャクチャやりだしたときに、「ああ、この人は今までやり方から脱却しようと思っているな」と思う。ご主人がいよいよせっぱ詰まって、家に自分の椅子がないなと思うところまで、しっかり他のメンバーと仲良くしてください。(野田俊作)
情報漏洩委員
2002年02月12日(火)
日本アドラー心理学会の役員は、インターネットの某所に秘密の会議室を持っていて、年中その場所で話しあっている。そこで話しあわれたことのほとんどは、役員でない一般会員に知らされない。知らせるほど大切なことはちゃんと知らされるので、知らせるほどでない些細な事項たちが知らされないのにすぎないのだが。もちろん、会員が「知らせろ」と請求すれば、どんなことでもすぐに知らせる。ただ、知らせたところで多くの会員はただ面倒に感じるだけだろう。知らされて面倒に感じるような無数の些細な事柄があり、それを処理しないと組織は動かない。
日本アドラー心理学会のような小さな組織でさえこうなのだから、たとえば日本国というような大きな組織では、もっともっと多くの事柄が、誰も知らないところで話し合われ処理されているはずだ。われわれの学会では、すべての話し合いを知っている人が何人かいる(私はすべては知らない。役員会のメンバーではなく、事務局のメンバーなので、すでに決定されたことは知っているべきだが、まだ決定されていない事項の細目を知っている必要がない)。しかし、国家では、すべての話し合いを知っている人は誰もいないだろう。
このように、一部の人間が閉鎖的にものごとを決めていると、一般民衆は政治に無関心になって「お任せしますからよろしくね」と言っているか、あるいはパラノイア的になって「政治家はきっと悪いことをたくらんでいるに違いない」と疑うか、いずれかの反応をすると思う。運営がうまくいっている間は無関心派が多数だろうし、うまくいかなくなるとパラノイア派が増えるだろう。無関心もパラノイアも具合が悪いと思うのだ。大衆が、ふだんからある程度の関心を政治に対して持っていてくれるのが、役員としてもやりやすい。そうすれば、パラノイア的にすべてを疑う人物も減る。
そこで、国家は、一方で内閣官房長官が記者会見をしたりして表側から情報を公開し、一方で「情報漏洩」という形で裏側から情報を漏らす。どういうルートで漏れるのかよく知らないのだが、新聞や週刊誌に、政府高官しか知らないはずのことが書かれたりする。あれは、誰かが不用意にポロッとしゃべったものじゃなくて、ちゃんと指揮系統があって、漏らすべき情報を厳選して漏らしているに違いない。これは日本アドラー心理学会やその他の小組織でも見習うべきだな。役員会で「情報漏洩委員」というのを任命して、公式には言えないたぐいの情報を漏らす。その中にはガセネタや役員の私生活にかかわることなどもすこし混ぜておく。「会長と事務局長がなんだか知らないが激論した」だの「某理事は次期会長を狙っている」だの、真偽とりまぜて情報漏洩すれば、大衆の政治への関心があがるんじゃないかな。
民主主義というのは面白いシステムだ。きれいな表側だけでは動かなくて、情報漏洩だの、その逆の諜報活動だの、そういうことがあってはじめて動く。そういうことについては、ちゃんとした研究があるんだろうか。
このごろの若い者は
2002年02月13日(水)
パートナーさん(以下P):「このごろの若い者は」って、大昔から言うでしょう。
私:古代エジプトのパピルスにも書いてあるそうですね。
P:でも、人類は進歩して賢くなったじゃない。
私:そうなのかなあ、私はだんだんバカになっているように思っているんだけれど。
P:大学を出る人が増えたし、科学だって進歩したし。
私:船釣りに行くとね、船頭さんが賢いんだ。登山して樵(きこり)さんに会うと、あの人たちも賢いしね。
P:それはそうね。
私:大学で伝達されているのは知識で、漁師さんや樵さんが伝承していたのは知恵で、時代が進むにしたがって、知恵がなくなって、知識だけが増えたと思う。これが、人類がだんだん堕落していると私が思う第一の理由です。
P:第一ということは、第二以下もあるわけね。
私:第三までありますが、第二は、倫理的な問題です。「世界ウルルン滞在記」なんていうTV番組に出てくる南の島のおじさんとかって、とても礼儀正しく誠実じゃないですか。
P:それはほんとうにそうね。
私:今の日本の若者だけじゃなくて、われわれの世代の人間だって、ああいうプリミティブな暮らしをしている人に較べると、倫理的に堕落していると思う。
P:道徳がないってこと?
私:ええと、私は、「道徳」というのは権力者が民衆に押しつける行為基準、「倫理」というのは超越的な基礎を持った、したがって権力者に押しつけられたんじゃない、行為基準、というように用語を使い分けているので、道徳ではなく倫理です。政府は道徳再武装をめざしているみたいだけれど、それでは問題解決にならない。
P:「超越的」っていうのは、宗教的ってこと?
私:いや、そうでもないんです。むかしの農村みたいに、小さな人口の単位が何世代も同じ場所に定住していた時代があったじゃないですか。そういうとき、個人がどう振舞うかは、ムラの伝統で自動的に決まっていて、誰もその伝統を疑わなかったし、その伝統の根拠を尋ねなかったでしょ。そのとき、その伝統の根拠は「超越的」だって、私は言います。「いったい、どうしてそうしないといけないの?」って尋ねて、「それはね」と、理性が納得する答えが出せるのなら超越的じゃない。
P:でも、伝統的にある振舞い方が決められていても、因習かもしれないじゃない。だから、「なぜそんなことをしなければいけないんだ?」って問うていかなければならないんじゃないの?
私:みんなそう言いますね。それがモダニズムというもので、倫理を堕落させた原因なんです。倫理には根拠はないんですよ。それは、第三の問題とも関係しています。第三の問題は、宗教が堕落していること。古代人のアニミズム宗教は、自然と調和して生きる方法で、とても高貴な宗教だったと思う。生活の仕方が変わって、狩猟採取生活から農耕生活になると、自然との直の触れ合いがなくなって、アニミズム宗教は没落し、シャーマニズム宗教になるように思う。縄文式時代はアニミズムで弥生式時代はシャーマニズムだということだ。
P:だから卑弥呼が出てくるのね。
私:そうなんでしょうね。さらに、農耕生活から都市生活になると、自然との関係はまったくなくなって、養老孟司先生風に言うと、「都会とは、要するに脳の産物である。あらゆる人工物は、脳機能の表出、つまり脳の産物に他ならない。都会では、人工物以外のものを見かけることは困難である。そこでは自然、すなわち植物や地面ですら、人為的に、すなわち脳によって、配置される。われわれの遠い祖先は、自然の洞窟に住んでいた。まさしく『自然の中に』住んでいたわけだが、現代人はいわば脳の中に住む」(養老猛司『唯脳論』ちくま学芸文庫,p.7)ということになって、宗教も「脳の産物」になる。仏教とかキリスト教とかイスラム教とかいった、ソフィスティケートされた抽象的な宗教になるわけだ。
P:だんだん高級な宗教になるということじゃないの?
私:今は、仏教やキリスト教よりもっと「高級」な「科学技術教」になって、物質的繁栄だけを約束する宗教が全盛だ。古代人のアニミズムは、漁師の知恵と同じで、知恵なんだ。知恵のある暮らしとアニミズムやシャーマニズムとはワンセットなんだよ。一方、大学で伝達される知識と物質万能主義はワンセットなんだ。
P:でも、むかしは結核とかがあって、たくさんの人が死んだでしょう。
私:そうですね。ミクロに、ある人だけを見ると、病気で死ななくなったのはいいことだね、たしかに。けれど、エコロジカルに見るとどうなんだろうね。私も医者だから、これ以上は言えないけれど。
P:危険思想ね。で、結局、あなたは、原始時代に還れという主張なの?
私:それが可能ならね。縄文式時代の暮らしにむかって、ゆっくりと時間をかけて戻っていくのがいいと思う。
P:ナウシカ主義者ね、あなたは。
私:『風の谷のナウシカ』ね、そうかもしれない。
Q
子どもが不登校で、目下、昼夜逆転しているんですが……。
A
あまりびっくりしなくていい。なんで昼夜逆転するかというと、昼間起きててもしょうがないからです。親が仏頂面しているのを見てるとうっとおしいでしょ。だから向こうも気を使って、昼間寝ていて、お互いなるべく顔を合わさないようにしている。ですから、親のほうも協力して、なるべく顔を合わせないようにしたほうがいい。
「相談があったり頼むことがあったらいつでも言ってきてくださいね」といっぺん伝えてください。「どんな相談にも乗るぞ」と。そのとき親の好みで答えを決めないで、子どもとの関係が一番良くなるように、仲良くなるようにということを一番優先するように答えを決める。「この子のために」という発想を捨ててください。親子が仲良く協力して暮らせるためにこうしたほうがいいという方向で答えを考えようということだけ決めて、「言うことがあったら言ってね」と言って、あとは待ちましょう。釣りと一緒です。餌をつけて降ろしたら、「まだかな?まだかな?」と言っても魚は来ない。初め魚は臆病です。喰ってくるまでに時間がかかる。(野田俊作)
パソコンの稀な使用法
2002年02月08日(金)
ちょっと恥ずかしい話なのかもしれない。
自分でMDに録音した音楽や講演をパソコンに取り込んで、それをCD-Rに焼けないかなと思った。WAVファイルからCD-Rに焼くところはわかるのだが、MDをマイク端子から取り込んでWAVファイルにするところがわからない。本がないかと書店で探したが、単行本は見つからなかった。ようやく雑誌の特集号を2種類ほど見つけたが、それらは要するにDirectCDだとかWinCDRだとかいった高価なソフトの宣伝みたいなものだ。それらを買うと10000円以上もするし、仕様もちょっと重厚長大すぎる気がする。そこで、インターネットに何かないかなと探し回って、ようやく500円のシェアウエアを見つけた。これでどうやら自力でMDからCD-Rに変換できることになった。ここまで一週間ほどかかったし、費用も2000円以上かかっている。かなりのエネルギー消費だ。
言いたいのは、世間で普通にはしないことをパソコンにさせようとすると、情報集めが難しいということだ。ワードやエクセルのことなら腐るほど本が出ている。既成のCDやMPEGファイルをCD-Rに焼くのだってかなりの本が出ている。しかし、自分が録音した音楽や講演をCD-Rに焼こうと思う人はあまりいないみたいで、情報が見つけ出しにくい。そりゃそうかもしれないね、MDのままで聞いていてもいいもの。でも、状況によってはCD-Rにしておいたほうが便利なこともあるのだ。
もうひとつ、まだ見つけていない情報がある。パラオで三保先生の水中ビデオ画像のいくらかを、私が持っていったパソコンにいただいた。マンタやブルー・マーリンやマダラトビエイがとても美しく撮れている。これをスチール画像にしたいのだが、やり方がわからない。ビデオカメラにテープで入っている画像をスチールにする方法は知っている。AVIファイルをデジタルビデオのテープに落とす方法も知っているので、いったんテープに落として、そこからスチール画像を作ることはできるのだが、ちょっと馬鹿げている。AVIファイルから直接静止画を取りたいのだが、やりかたがわからない。探していればそのうちわかるのだろうが、面倒なことだ。
パソコンのように、極度に汎用的な道具を人類は持ったことがない。それに無数の人々がとりついて、さまざまの新機能を発揮するように周辺機器やソフトの開発をする。その全体像は、もう誰にも見えない。しかも次々と新しい使用法が発見されていく。出版はその速度と範囲についていけない。それで、パソコンをちょっと変わった使い方をしようとすると、情報集めが難しいことになる。インターネットに頼るしかないのだが、まだじゅうぶん便利ではない。過渡期だからしかたがないのかな。
洋服を買う
2002年02月09日(土)
東京にいた。講演をしたあと、質問を受けつけたら、私の服を買うとき、パートナーさんと一緒に買いに行くのかどうか、と尋ねた人があった。なぜそういうことに関心をもたれたのかわからないが、いちおうお答えしておいた。
ネクタイ以外のすべての服は自分ひとりで買いに行く。下着もシャツも上着もだ。ただフォーマルスーツだけは、パートナーさんと一緒に買いに行くこともある。なぜなのだかわからない。パートナーさんが服を買うのについて行くこともない。ただ、私がプレゼントするときだけは一緒に行く。ネクタイは、プレゼントしてくださる方が多いのだ。皆さん私の好みをよくご存知で、いつも気に入るのをいただく。だから買う暇がない。
このパターンは、今のパートナーさんと一緒に暮らすようになってからだ。以前に結婚していたときは、大部分を奥さんが買っていた。別居して一人になったとき、当然のことながら一人で買いに行くようになって、それ以来その習慣が続いている。自分の身の回りのことは、できるだけ自分で世話したい。女に頼らないと生きていけない男ではいたくない。つっぱっているわけではなく、自然にそう思っている。
パソコンの稀な使用法(2)
2002年02月10日(日)
一昨日、AVIファイルからスチール画像を取り込むソフトがないという話を書いたら、早速ある未知の方からメールをいただいて、当該ソフトのインターネット上の所在を教えていただいた。感謝にたえない。今回のエネルギー投資は日記を書いただけだ(^_^)。
それはそれとして、パソコンをクリエイティブに使おうとすると、たちまち困ってしまう。クリエイティブといっても、新発明じゃなくて、すでにこの世界のどこかで誰かが使っているような使い方であるに違いないのだが、そのためのハードなりソフトなりに到達する道のりが遠い。みんなはそんな風に感じないのだろうか。あまり特殊な使い方をしようとしないのかな。
きっかけ
2002年02月11日(月)
日本アドラー心理学会近畿地方会があって、その懇親会でのこと。しばらく前に、ある女性に、宮城谷昌光『海辺の小さな町』(朝日文庫)という小説を貸した。彼女が借りたいと言ったわけではなく、私が「読みませんか」と押しつけたのだ。宮城谷昌光は古代中国を舞台にした小説をたくさん書いているが、この本はそういうテーマではなくて、半ば自伝的な、大学の写真部の青年たちの物語だ。彼女もむかし写真部だったのだが、長らく写真をやめていたのを、最近復活した。それで、面白がるかなと思い、貸したのだ。
さて、懇親会で、「あの本は読みましたが、貸してくださったのはどういう目的ですか?」と彼女は聞く。「えっ?」と私。「さぼっていないで、もっとたくさん写真を撮れという意味かな、とか」と彼女。「いや、そんなのじゃなくて、きっかけを作りたかっただけ」と私。「えっ?」と彼女。
「きっかけを作る」というのは、たとえば高校生のころ、好きな女の子がいると、本を貸したりして仲良くなるきっかけを作るという意味だ。ところが、彼女には、この考え方が通じない。女子中・女子高・女子大卒で、男の子と一緒に青春時代をすごしたことがないのだ。「そう言えば、うちの娘に、男の子たちがCDを貸してくれますね」と彼女は言う。「CDを貸す」という「記号」の意味は、彼女には読み取れていない。娘さんはちゃんと読み取っているのだろうか。CDを貸した彼に共感して、ちょっと心配になってしまった。共学にいるのなら、娘さんはちゃんと読み取れているだろう。
アドラー心理学を学んでいる人の写真好きが「F100クラブ」というのを作っている。F100というのは、ニコンF100のことだ。F5でもF80でも入会できるけれど、F100を持っている人が圧倒的に多いので、F100クラブという。会費もないし例会もないし、ニコンの他にコンタックスやライカを持っていても、裁判にかけられることもない(ニコン信者の会というホームページに、ニコン以外のカメラに色目を使った人の裁判がある)。みんなでニコンを共有していると、レンズの貸し借りができるので便利だ。それも「きっかけ」になるしね。撮影会でもすればもっと「きっかけ」になるな、そう言えば。