被疑者の人権
2001年07月06日(金)
先日、沖縄で米兵が日本の女性を「れいぷ」した。日本の警察が逮捕状をとったが、アメリカ側はなかなか加害者を引き渡さなかった。アメリカが引渡しを渋ったのは、アメリカの刑事訴訟法だと、警察の取調べ時に弁護士と通訳を同席させなければならないのだが、日本の刑事訴訟法では、被疑者が検察へ送致されてからでないと弁護士が接見できないことになっていて、アメリカ風のセンスで言うと、日本式取調べは「人権侵害」になるという理由によるそうだ。
私の友人たちの多くは、かなり怒っていた。「日本の国土で日本国民をれいぷしたのだから、何国人であっても、日本の警察が裁くのが当然だ」というわけだ。多くの日本国民も、同じような意見だと思うし、私だってそれはそうだと思う。
ある人たちは、これに加えて、「日本人(=被害者)の人権を侵害したのだから、米兵(=加害者)の人権ばかり言うのはおかしい」と言うが、これは間違った議論だと思う。
人権とは、第一義的には憲法で保障された基本的人権を指します。憲法における人権保障とは、国家による不当な抑圧から個々人の生命、自由、財産などを守る制度であって、本来それ以上でもそれ以下でもありません。人権問題とは、原則として「公対個」の関係、即ち対国家、対地方自治体の局面においてのみ表在化するのです。
したがって加害者、つまり捜査段階では被疑者、公判段階では被告人、処罰段階では受刑者は、国家権力によって嫌疑をかけられ、身柄を拘束され、取り調べられ、裁判を受け、刑罰を科せられ、場合によっては縊り殺されるわけですから、その処遇が人権問題であることは論を待ちません。ところが、被害者や被害者の遺族の立場は、直接的には対公権力の関係にありませんから、人権問題の領域にあるとはいえないのです。
宮崎哲弥編著『人権を疑え!』(洋泉社新書 )p.66
このように、原理的に、加害者には人権問題があるが、被害者には人権問題はないのだ。
さらに、この本によれば、人権というのは要するに約束事で、たとえば右側通行のようなものだ。別に左側通行でもいいのだけれど、日本では人は右側を歩くことになっている。同じように、日本では警察の取調べ時には弁護士を同席させなくてもいいことになっているが、アメリカでは弁護士を同席させないと人権侵害していると考える。どちらが正しいわけでもなくて、単におのおのの国の約束事であるにすぎない。
ところが、「人権外交」の好きなアメリカ人は、自分たちの人権の概念を世界中に妥当するものだと思い込んでいて、それで今回のようなことになる。そう考えると、今回の日米の行き違いは、たとえば日本人の多くが、共産主義諸国やイスラム教諸国での「人権侵害」に嫌悪感をおぼえるのと、構造は同じだ。ふつう日本人は、そういう国々での、拷問や、古風で残虐な処刑法について、人権侵害だと思っている。アメリカ人は、今回の米兵の取調べについて、それと同じような感覚で嫌悪感をおぼえているのだ。それはそれで理解できないことはない。理解はできるが、彼らの人権感覚を、今の場合、主張するのは、お門違いだとも思う。同様に、共産主義諸国やイスラム教諸国でのいわゆる「人権侵害」についてわれわれが批判するのは、向こうから見れば、今の場合と同じで、お門違いなんだなと言うこともわかる。
絵を買う
2001年07月08日(日)
駅に屋台を出して中島潔という画家の絵のコピーを売っている老人がいて、立ち話をしているうちに、つい3枚も買ってしまった。額つきで4千5百円だから、高い買い物ではないと思う。
父が生きていたら私のことを馬鹿にするだろうと思う。高校生のころだと思うが、「お前はどんな画家が好きか?」と聞かれて、「(横山)大観かな」と答えたら、「あんな看板絵描きのどこがいいんだ」と言われて、ヘコんだことがある。たしかに、父は絵がうまいし、絵のことをよくわかっていたように思う。母も日本画を描く。祖母も描いたし、叔父は、もう亡くなったが、清水要樹というプロの日本画家だ。その中で育つと、聴覚型で音楽のことはよくわかるが、絵はあまり得意じゃない私は、自分の好みをあまり信じなくなってしまった。
大人になってから、富山で、篁牛人(たかむらぎゅうじん)という画家の美術館へ行って、作品集を買って帰ったら、父が、「これはいい絵だ。お前も絵がわかるようになったな」と言った。わかるわけになったわけじゃない。広重も大観も牛人も、どういいのかどう悪いのかはわかっていなくて、ただ気に入っているだけのことだ。「筋」がないのだ。好みに「筋」があると、わかっていると言っていいと思うが、ただ行き当たりばったりに好きだの嫌いだの言っていたのでは、わかっているとは言えない。
それは今だってそうなんで、中島潔の絵が、さしあたっては気に入っているが、これは私が絵がわかるようになったからじゃない。ただ、老人との話の都合もあって、衝動的に買っただけのことだ。ともあれ、父の呪いへの厄除けに、父の絵とならべて、しばらく壁にかけておこう。
Q
お見舞いに行ったときに、癌で意識のあるときと意識のないとき、付き添っている方と会話するときに気をつけることや勇気づけることがまったく浮かんでこないのですが、どんなになればいいのでしょうか?
A
意識のある患者さんではないんだね。あ、意識のある人か。僕は、癌であろうが何であろうがお見舞いに行ったら、「こんにちは。どうですか?」と言って、それからあとは「世間話」をするんじゃない。昔の知り合いだったら、「あんな昔、あそこへ行きましたねえ」と言うし、まあ「最近こんなことがありました」と言うかもしれんし、自分の報告をするかもしれんし、相手と共通の思い出をするかもしれんし、そんなんじゃないですか。自分が入院してたら、あんまりたずねてくる人に、「お体の具合はどうですか?食欲はありますか?熱はありませんか?便通はどうですか?」と訊かれたら、さっき主治医もそんなん訊いたから「もうあんたに言わんでもよろしい」と思うじゃない。だから体調のこととかお話することもないし、これから先のこと言うと、そのことについて僕らが何もしてあげられない。だからまあ思い出話するじゃないですか。普通元気な人と会いに行ったときと一緒じゃない?「また今度どこどこ行きましょうねえ」と言うかもしれん。癌の人に向かっても言うかもしれん。「退院されたら一緒にちょっと旅行行きませんか?」と言うかもしれない、退院できんなと思っていても。向こうも退院できんかもしれんと思うけど、「そうですね、一緒に行きたいですね」と言って、それで傷つくわけでもなかろう。ということは、そのうち死ぬだろうということを計算に入れては、することがないということじゃないですか。いつも僕そう思うんですよ。なぜみんなが死ぬことをそんなに怯えるのか。死ぬことを計算に入れないと話ができなくなるのか。自分の死についてなんべんも考えてほしいんです。死ぬ3週間前に何をするか?3週間前に何をするかわかったら、計算に入れなくてよくなるじゃないですか。だから普通に友だちと会いに行くときにするようにするでしょう。それから、「意識がない」というのが「聞こえない」という意味かどうかわからない。けっこう聞こえているんですよ。普通、外科的な意識混濁というのは聞こえてないのかなあ、どうかなあ?精神科で意識がないように見える状態になる病気がいくつかありまして、例えば、緊張病勢混迷とかいって統合失調症の一種で、完全に凝り固まって動かなくなって意識がないように見える病気があるんです。あるいは昔ヒステリーといった解離性障害で失神したみたいに見えて意識がないみたいに見える病気があるんです。あれね、そばで悪口言うと、全部覚えているの。だから、外から見て意識がないように見えるからといって聞こえてないと思わないほうがだいたい普通は安全ですので、その人も聞いているものだと思ってお話なさったほうがいいんじゃない。
Q
最近私は、いつも自分が他人にどう思われるか気にしているなあと気がつきます。(ああ、いいことですね。)そういう私利私欲を捨てて生きたいと思います。(そんなんやめたほうがいい。)自分というものを見失わなわずに、人のために生きるにはどうしていけばよいでしょうか?
A
自分が他人にどう思われるかを気にしていること自体は悪いことじゃないんです。自分が他人にどう思われるかを気にしないで生きてる人も悪い人じゃないんです。どっちもライフスタイルで、ライフスタイルそのものは善でも悪でもないんです。問題はそれを有効に使うか無益に使うかなんです。他人が自分のことをどう考えているかを気にしていることでもって、いつも人に対して細やかな配慮ができるし、人を傷つけないで生きられるし、それはいいことなんですよ。逆にそれは、そのために自分の意志を貫けなかったり、ほんとに言うべきことを言えなかったり、言ってはいけないことを言ったり、言わないけどちょっと消極的になったり臆病になったりしてると、それは良くない面なんです。ライフスタイルを知るというのは、ライフスタイルを取り替えることじゃないんです。取り替えたら自分じゃなくなるもん。ライフスタイルを知るというのは、「ライフスタイルは私じゃないことを知ること」なんです。ライフスタイルは私の「道具」なんですよ。私の手が私でないように、私の足が私でないように、ライフスタイルも私じゃないんです。性格だとかライフスタイルが私だと思い込みすぎているんです。私が使う道具のうちの1つに過ぎないとはっきりと目覚めていれば、ライフスタイルの言うとおりに動くこともできるし、言うとおりに動かないこともできます。ボーッとしているとだいたいライフスタイルの言うとおりに動くんです。だからライフスタイルの言うとおりに動かないこともできるということを知ってほしい。ライフスタイルは「私:わたくし」ではありませんので、私は無意識的にのんべんだらりと暮らしていると、こういうふうに絶えず他人がどう自分を評価するかを気にして暮らすんだと知って、今はそのとおりに動いていいのかな?それともここでは自分の意志をちょっと、「他人がどう思おうと言うぞ」という方向でやってみるかなと考えて、時にライフスタイルと違うことをやってみる。そうしたら人間が自由になるじゃないですか。
外傷神経症(5)
2001年06月29日(金)
アメリカ精神医学会が『診断統計マニュアル(DSM)』を決めたときの基本的な方針は、観察可能な症状だけから疾患を定義することだった。逆にいうと、心の中に想定される見えない精神病理を疾患分類の基準にしないということだ。つまり、DSMは、きわめて行動科学的なのだ。だから、外傷後ストレス障害(PTSD)も、心の中の見えない精神病理をいっさい想定しないで、観察できるできごとだけから、行動科学的に定義されている。つまり、「心の傷」というような観察不可能な精神病理学的な思弁をいっさい排除して定義されているのだ。
それなのに、ある心理学者たちが、勝手に「PTSDとは心の傷だ」と言った。これは、DSMの精神をふみにじるやり方だ。せっかく科学的に疾患分類をしたのに、そこに根拠のない思弁をかぶせて、それがあたかも事実のあるかのように宣伝したのだ。残念なことに、世の中ではそれが常識になってしまった。私は、外傷神経症としてのPTSDの存在は認める。しかし、心の傷の存在は認めない。心の傷は、フロイト系統の特定の臨床心理学が主張しているドグマであるにすぎない。
このドグマがどうして具合が悪いかというと、必然的に、「子どもに心の傷をつけないようにしよう」という方針が導き出されて、子どもを過保護にし、結果的にかえって状態を悪化させるからだ。このことはずいぶん前にわかっている。『スポック博士の育児書』という本があって、これがフロイト系統の「心の傷論」で書かれている。すなわち、子どもに「心の傷」をつけないことをモットーに子育てすることを勧める。スポックとその賛同者がその方針で実際に育児指導をしたことがあるのだが、その結果、子どもの発達は遅れ、思春期になって神経症的な子どもが多く出たという統計がある。このデータはもちろん発表されなかったが、ちゃんとそれをすっぱ抜いた人がいて、本[1]になって出版されている。
大阪教育大学付属小学校事件でも、「子どもが心の傷を負わないように保護しよう」という動きが盛り上がっている。これは、今までのデータから見て、有害な動き方だ。もちろん、子どもに「心の傷」を負わせろと主張しているのではない。まずは、自然のままに放置するのがいいと主張しているのだ。今までの校舎で今までどおり授業をして、様子を見ればいい。その結果、神経症的な反応をする子どもがいれば、薬物療法を含む適切な治療をほどこせばいいのだ。
[1] E. Fuller Torrey: "Freudian Fraud", HarperPerennial, New York, 1992
夏日
2001年07月01日(日)
今年もいよいよ暑くなってきた。寒さには強いが暑さには弱い。しかも、今年は、パートナーさんは「脱クーラー運動」を提唱していて、帰宅するとクーラーがない。クーラーがないのは、どこからどう考えてもいいことなのだが、暑い。この「どこからどう考えてもいいこと」であるのが、つらい。
コンピュータのしつけ(3)
2001年07月03日(火)
以前に、ノートパソコンのしつけの話を書いたが(5月11日)、今度はデスクトップ・パソコンの動作が次第におかしくなって、とうとう辛抱できないほどクレイジーになったので、リカバリすることにした。Windows Me マシンで、昨年10月に購入して、リカバリは2回目だ。ちょっといくらなんでも頻度が高すぎる気がする。たしかに周辺機器はいっぱいぶらさげているが、そんなに怪しい使い方をしているとは思わないのだが。
ともかく、バックアップをとって、システムを入れなおした。あれこれアプリケーションを載せては、調子を見て、ちゃんと動けば「システムの復元ポイント」を記録して、次に進む。こうして、調子が悪くなるまで次々とアプリケーションを載せていく。Windows Me の「システムの復元」というのは便利な機能だが、しかし、こういう機能がないと安心できないのはいいことではない。しょっちゅう壊れるってことを想定した機能じゃないか、これって。
半日かかって、とうとう犯人を摘発できた。プリンタ・ドライバとCD-Rを焼くソフトとをいっしょに載せると調子が悪くなるのだ。プリンタは使わないわけにはいかないので、CD-Rの方を断念することにする。しかし、いつまでも断念しているわけにもいかないので、なにか対策を考えないといけないな。
でも、こういう作業って、ふつうのユーザーはしないよね。しないで、どうしてやっていけるんだろう。やっぱり私の使い方が荒いんだろうか。
ま、それはそれとして、せっかくリカバリするので、「おまけソフト」をほとんど載せないことにした。このごろのパソコンは、購入から廃棄までの間に一度も使わないようなソフトが満載されている。その分の料金も払わされているわけだから、ほんとうは「おまけ」じゃないんだけれど。そういうのを山ほど積んでいるのを、私は好きじゃない。パソコンの中を隅々まで知っていて、隅々まで使っているのが好きなので、わけのわからない界隈があるのはいやなのだ。みんなは、こんなことは気にしないのだろうか。
家族の病気
2001年07月04日(水)
私はいちおう医者なので、家族が病気になると、診察してくれるように期待される。これが困るんだね。私の父も医者だったが、彼は家族の診察はいっさいしなかった。それも見識だと思う。もっとも、母はそのことをいつも怒っていた。私は意気地がないので、父みたいに敢然とつっぱねることができないで、つい引き受けてしまう。そうして、困ってしまう。困る理由はいくつかある。
第一に、ご家庭で必需品の小児科や婦人科は、あまりよく知らない。このごろは小児科の年齢の子どもがいないのでいいのだが、むかし、子どもが小さいころは、小児科疾患の相談をよく受けた。たしかに学校では習ったけれど、小児科は病気がたくさんあって、とても覚えておれないんだよ。誤診するとすぐに死ぬしね。たのむから、小児科の先生のところへ行っておくれ。婦人科ねえ、これもさっぱりわからない。内診はしてあげてもいいけれど、したってなんにもわかるわけじゃないよ。なにしろ、やったことがないんだから。いい婦人科医をみつけることだ。え、どんな病気ならわかるかって。精神科ならわかるけれど、分裂病(統合失調症)、それともアルツハイマー病がいいかな。
第二に、学生時代に、怖い病気から順番に考えるように、きびしくしつけられていて、それが骨がらみで習慣になっていることだ。え、なんだって。熱を出したって。白血病かな。膠原病かもしれないな。このごろは結核も増えているようだし。はい、お口をあけて。あ、のどが赤い。よかった、風邪だ。いや、油断はならないぞ。溶連菌感染かもしれない。こうして、とても心配になってしまう。なかなか「だいじょうぶだ」って言えない。
第三に、検査器具がないことだ。頭が痛いって。くも膜下出血だろうか、脳腫瘍だろうか。ともあれCTと脳波だな。血管造影の準備もしておかなくては。おっと、髄膜炎かもしれないから、脊髄穿刺(せんし)もいるな。もちろん、血液検査も必要だ。あれ、なにもないぞ。そりゃそうだよな、ここは自宅だもん。あのね、私はね、親父とか、私を教えてくれた教授たちと違って、軍医さんをやって前線にいた経験があるわけじゃないから、聴診器と血圧計だけでは診断はできないんだよ。検査の設備のある病院へ行きなよ。
第四に、なんでもない軽い病気のとき、「だいじょうぶ、放っておけばなおるから」と言うと、ひどい不信の目で見られることだ。患者さんだったら、保険請求のこともあるから、いらない検査もするし、いらない薬も出すさ。でも、ほんとうは、ある場合には、なにもしないでも治るんだ。だから、なにも出さない。そう私は考えているのだが、家族は信じてくれない。「冷たい」だの、「ちゃんと診てくれない」だのと言う。
昨日から、パートナーさんの娘が、めまいがして吐き気がすると言う。仕方がないので、それらしく診察して、それらしくありあわせの薬をのませている。内心はかなり複雑だ。
外傷神経症(3)
2001年06月22日(金)
文献[1]によれば、帰還兵士や「れいぷ」被害者のPTSD症状に対する治療としては、系統的脱感作(不安の対象になっている場面にすこしづつ慣れてゆく方法)やフラッディング(安全な状況で比較的長時間不安場面を思い出す方法)のような行動療法や、認知を操作する認知行動療法が有効で、支持的カウンセリング(いわゆるふつうのカウンセリング)はあまり効果がなく、恐怖場面を強く思い出させて情動表出させるような治療をすると症状が悪化するといわれている。これは、いかにもありそうなことだ。支持的カウンセリングは神経症一般に対して有効性が証明されていないし、「抑圧された感情」の発散を目的とする治療も一般に無効だといわれている。一方、有効性を立証されている行動療法や認知療法などは、多くの種類の神経症に対して有効であるといわれている。
また、同じ論文によると、「心的外傷となる出来事が発生した後の早期の段階で心理社会的介入を行い、その後のPTSDの発生を予防するというもくろみは、これまでのところその効果を確かめられていない」という。ここで言われている「心理社会的介入」というのは、具体的には心理的デブリーフィング(psychological debriefing)というもので、エンカウンター・グループ風に、被災者が集まって、「出来事の間に体験したことについて、思考、感情の表出を促しながら語り合い。認知処理を行うもの」だそうだ。この方法は、これをしなかった統制群との間に治療効果の差がないか、あるいはかえって悪化させた。そうだろうね。同様に、支持的カウンセリングによる早期介入も効果がないようだ。
大阪教育大学付属小学校の児童について言えば、だから、早期介入については、あまり考えなくていいということになる。つまり、普通どおりに授業をしてみて、それで症状が出る子どもがいれば、個別的に薬物療法なり認知行動療法なりといった神経症治療をほどこせばいいのだ。
[1] 飛鳥井望「PTSDの診断と治療および早期介入の有効性」『臨床精神医学』29(1):35-40,2000.
外傷神経症(4)
2001年06月24日(日)
講演していたら、「大阪教育大学付属小学校が校舎を建て替えるといっていることについてついてどう思いますか?」と質問された。
私の先生のバーナード・シャルマンが、こんな話をしていた。
いつも車の後ろを追いかける犬がいたのだが、あるとき車にぶつかって痛い目にあった。これでもう車の後を追いかけるのはやめるだろうと思っていたら、相変わらず車の後を追いかける。しかし、車にぶつかった場所には近寄らなくなった。
池田の事件も同じ感じがする。問題は教室という場所にはない。場所は、たしかに恐怖体験の手がかり刺激になりうる(つまり、教室は事件を思い出させる)かもしれないが、それは不合理な条件づけだから、脱感作したほうがいい。子どもたちが刺激弁別しなければならないのは、「悪い大人」と「よい大人」であって、「事件のあった場所」と「事件のない場所」ではない。ああして、「悪い思い出のあった場所には近づかない」ということを子どもに教えると、子どもの行動範囲がだんだん狭くなるじゃないか。神経症的な子どもは、家から外へ出れなくなるかもしれない。だいいち、それは、先ほどの犬と同じような、不合理な非理性的な判断だ。
「悪いおじさん」と「いいおじさん」を弁別させたいのだが、「悪いおじさん」はきわめて少ないので、「知らないおじさんには気をつけよう」というのも、正しい治療教育法ではない。そんなことをすると、子どもは、すべての成人男性に不信感をもつようになる。それに、「いいおじさん」と「悪いおじさん」の区別は、そんなに簡単ではない。だから、万が一悪いおじさんに出会ってしまったときの対処法(たとえば逃げるとか叫ぶとか)を教えたほうがいいんじゃないか?それがいちばん合理的な治療教育だと思う。
下見
2001年06月25日(月)
パートナーさんと一緒に映画『ホタル』を見にいった。この前、ひとりで見にいったのだが、よかったので誘ったのだ。いつもこんな風に、ひとりでまず見にいって、よかったら誘う。つまり、下見するわけだ。
先週は、新潟に仕事に行ったついでに、魚沼のいくつかの沢に入って釣りをしたが、釣りだけしていたのではなくて、あちこちの沢に入って、沢登りの下見をした。7月の下旬に仲間と来ようと思うのだが、参加者の力にあった沢を探したわけだ。さいわい、そう難しくなくて、しかも美しい沢をみつけた。
なんだか、いつもこんなことをしている。アドラー心理学だってそうかもしれない。いろんな心理学理論を下見して、いちばんいいと思ったのをみんなに教えているわけだから。いいのを見つけるためには、つまらないのをいくつも下見しなければならないが、それは仕方がない。積極的に行動すれば、かならず、いい映画や、いい沢や、いい理論に出会えると、経験から思っている。
サルティンバンコ
2001年06月26日(火)
夕方から「サルティンバンコ Saltimbanco」というサーカスを見にいった。パートナーさんと彼女の娘が出かけるのに便乗したのだ。入口で「場内へ飲み物や食べ物を持ち込むのは禁止です。場内で販売しているのをお求めください」と叫んでいる。なるほど場内に入ると、さっそく売店があって、飲食物を売っているが、この高いこと。ペットボトルのお茶が300円、ビールが500円だ。まあ、仕方ないかと思って、いくらかのものを買う。ビールを飲みながら見物していいのは、さすがサーカスだ。
ショーの内容は驚嘆すべきものであったが、それよりも私が感激したのは、音楽と照明の使い方だ。これは、言葉ではうまく説明できない。サーカスといっても、動物は出てこなくて、人間ばかりだ。綱渡りもあるし空中ブランコもあるが、それと同時に他のメンバーが下でさまざまのことをしている。その全体を音楽と照明でくくってある。舞台全体が、あちこちで別のことが起こりながらも、有機的な統一を保っている。モダンバレーを見にいっているのだとまず思っておいて、そこに曲芸がくっついているのだと思えばいい。
沢登りをするものとしては、ロープ一本や竿一本で、あんなに簡単に登ったり降りたり谷を渡ったりできれば便利なのになと、変な感想を持ちながら見ていた。