Q
先日貧血で倒れて血液検査をしたらヘモグロビン値が8まで下がっていることがわかりました。他のものも全体的に下がっているとのことで、今病院で原因を調べているところです。もともと数値が低くてふらつきや倦怠感や頭痛などがあります。効くかもしれないEMXを試してみたんですがどうでしょうか?
A
こんなん効かへん。EMXという「もの」は賛成なんです。僕、儲かりますから。そもそも貧血と申しますものは、大きく分けると3とおりに分かれます。一番ありふれているのが「鉄欠乏性貧血」といって、体のどこかへ血液(鉄)が出ていくんです。出ていく先は普通女の人の場合は生理出血で、男の人の場合は腸消化管の出血、下血ね。それが一番普通なんです。だから「鉄欠乏性貧血」だなあと思うと、「ヘモグロビン値8」と書いてあるから鉄欠乏性なんですけど、まあ生理に関する婦人科系の検査をするかもしれません。一番考えそうなのは子宮筋腫ですけど。それから消化器の検査で便の潜血反応を見て、胃のレントゲン写真とか腸の写真とか撮ってみてから考えるかもしれません。鉄欠乏性貧血であれば、恐るにたらずで、生理が多すぎて鉄欠乏性貧血になっている場合には、ヘモグロビン値8まで下がっていて、しばらく鉄剤の治療をしてあかんかったら、子宮を取ってしまおうかな。ま、年齢によるけど。もうすぐ生理が終わるんだったら逃げ切るまでつきあおうと思し、あかんかったら子どもを産むまでごまかそうと思うし、子ども産んでしまったらいりませんから、「ください」と言ってもらうけど、まあそのへんは婦人科の先生のご判断なんです。消化管出血はときどき恐いヤツがあります。癌ね。それだとまあ手術を考えます。けっこう消化管の出血も気がつかないんです。このごろの洋式トイレでは自分の排泄物をしげしげと見られないじゃないですか。昔、外科の教授が言っていたんですけど、ドイツのトイレは前のほうに穴があるんです。流れる穴が。フランスのトイレは後ろのほうにあるんですよ。日本はフランス式なんですけど、排泄したらすぐ水の中へポッと入っちゃって臭いがしないという大変合理的なんです。ドイツのは後ろのほうへボッチャンと溜まってね、ドイツ人はそこをきっとしげしげと見るんですよ。「今日の様子はこうだ」と科学的なんです。「科学と合理はこう違う」という講義をしていたんですけど、ドイツ式のトイレは日本になくて、皆さんあまり便をしげしげとご覧にならないから、けっこう黒くなってても気がつかないんです。出血すると黒くなりますからね。その可能性があります。これが鉄欠乏性貧血で、だいたい出血だろうと思う。もう1つは、溶血性貧血といって、これは珍しい。先天的なものが大変多いんですけど、中に薬物性のものがあるんです。ある種のお薬でもって血液が溶けちゃってなくなります。これは血液検査をしますと黄疸の症状が出ますので、白目が黄色いとか言われると溶血性貧血かなと思います。もう1つはめちゃめちゃ恐いのが再生不良性貧血で、これは赤血球の癌です。白血病みたいに赤血球も癌になりますので、そのために貧血が起こるということがあります。
だいたい貧血というとこれぐらいなんです。でもたぶん鉄欠乏性貧血だと思います。とすると、血液が出ていっているわけですよ。それを薬を飲んだら止まらないよ。EMXを飲んだって止まらない。再生不良貧血で抗癌剤でもお使いになっているんであれば、EMXをお飲みになりますと、抗癌剤の副作用防止にはなりますから、いいかと思います。
で、EMXを今年から大々的に売ろうと気が変わりました。長いこと使いまして、副作用は何もないし、今まで末期癌とかアトピーとかに使っていたんですけど、1つ凄い良い副作用が見つかったんです。体臭が消えるんですよ。うちの父親が晩年、心臓かなんか悪くなったりしていて、本人は「あれは肝癌だ」と言うから、「まあ飲むか」と言って飲んでいたら、老人臭がフッと消えて、お袋さんが大変喜んで「これいいわ」と言っていたから、加齢臭消えるならこれで売ろうと、密かにゆうているけど。密かでもない、ゆうてるから。確かに体臭は消えますので、もしもそんなのでお悩みの方は別に診察せんでも売りますから。清涼飲料水ですから、ものは。
Q
小学校1年生の息子がいます。勉強が嫌いで入学当初から宿題をほとんどしていませんでした。最近は自分でも「宿題はせなあかん」と思ってきているようですが、学校から帰ってきたらゲームをしたり友だちと遊んで、夜には疲れている状態です。「宿題はどうするん?」と聞くと、「あー俺は疲れてるんや。もう宿題はわからへん。俺はアホや」と怒りだし、最終的には「お母さん、答えを教えて」という状態になり、イヤな雰囲気で宿題をやっている日が続いています。宿題は子どもの課題ですが、このような息子にはどう接すればいいですか?
A
いくつが方法がありますね。僕、まず話をします。冷静になって深呼吸をして、「宿題についてどう思う?」っていう話をします。こっちは結論はないんですよ。小学校1年生が宿題をしなかったからといって、人生は破滅せん。3年生4年生になってしなくても破滅せん。ひょっとしたら高校生までいっこもせんかっても破滅せん。それでもって人生真っ暗にならない。それで学校の成績が悪いからゆうて人生破滅せん。そうして高校まで行っちゃえば、高校は出席さえしていればきっと卒業させてくれますから、そんなにびっくりすることは何もないです。宿題を一生懸命やったからといって、人生に明るい未来が開けるとも限らん。宿題を一生懸命やったら宿題というものに無駄な時間を使ったかもしれんから、わからん。それは子どもの選択次第なんですよ。宿題をしてお勉強をして賢い子になっていくか、宿題をしないでお勉強をしないで大らかな子になっていくかは、子ども自身が選べばいいことだと最初思っておいてから話し合いをします。だいたい話し合いをするというと、「こっちの思う壺にはめる」という意味になっています、実際はね。だから、ある結論以外の結論を子どもが出すと怒るんです。それだったら話し合いと違うんです。それは押しつけているんです。子どもが結局選択することだとわかってから話し合いをします。「子どもの課題」だということは、子どもと話し合いをしてはいけないという意味ではないんです。子どもの課題についてたくさん話し合いをすればいい。子どもの課題だから、最終的にどうしろと言わなきゃいいんです。いろんなことをやっぱり情報交換をする。いろんなことを情報共有するというのは必要なことだと思いませんか?人間が一緒に暮らすというのは、さまざまなことをお互いどうしが知っているということじゃないですか。だから、「宿題についてどう思う?」って訊いて、それで「せん」と言ったら、「あ、そう」って言って、その日はもうそれでよろしい。子どもは少なくとも宿題について考えることは始めると思うんです。1週間ほどして、また機嫌のいいときに、「宿題どう思う?」って訊いて、「せん」と言ったら、「そうか」と言って、また1週間たったら「宿題どう?」って訊いて、「せん」と言ったら「そうか」と言ってしばらく半年くらいときどき話をしてみて、やっぱり「せん」なら、この子は人生の方向を決めたなと思う。それはそれで応援しよう。宿題せん息子には宿題せん息子のいいところあり、宿題する息子には宿題する息子のいいところあり。将来のもの凄い大ものが、小学校でコツコツ宿題をやっていたとは思えないんです。だいたい宿題をコツコツやるヤツは、将来小粒で堅実な人生を送るだろうけれど、びっくりするような大ものにならないですよ。「この子は宿題もせんか。偉い子やね」と、こう思って喜ぶということをすれば子どもはほんとに大ものになるでしょう。例えば、明治維新の坂本龍馬とか西郷隆盛とかは宿題やってたタイプと違うで、あれは。織田信長とかも宿題やってたタイプと違うで。宿題しないということは、将来もの凄い大ものになる可能性がある。まあ、「穴馬」ですから、当たったら大きいけどね(爆笑)。楽しいじゃないですか、穴馬買うのも。そう思いましょう。そうするとのんびり暮らせるでしょう。のんびりしている親が子どもにとっては一番よろしい。うちも穴馬1人いるんですが、なかなか芽は出ませんねえ。いつになったら勝つんやろ。まあええわ。
Q
「アスミ」から日々瞑想のお許しをいただいています。本日は「人情の機微」について教えてください。センシティブ=他人の気持ちがわかる、センシブル=自分の気持ちに敏感、と説明されたのですがよくわかりません。「アスミ」でも、他人がどう思うかはエゴで、自分の感じに気づくことが結果として他人の気持ちがわかることだと逆説的な説明をされていますが、いまいちよくわかりません。今生での私の大きな課題であると思います。よろしくお願いします。
A
なんでこんなわかりやすい話がわからんのやろ。傷つきやすい人ってわがままなんです。何か人に言われて傷ついて気にしている人というのは、何を気にしているかというと、自分の地位や名誉や財産や安全を気にしているんじゃないですか。「あの人バカね」と言われて、「ああっ」と傷ついている人は、結局「誰が可愛いか」というと自分が可愛いんです。傷つきやすさというのは、実は私利私欲の裏返しだということをわかってほしいんです。それが人の気持ちがわかることじゃない?そういう人たちに限って人の気持ちは全然わからないんです。「私の気持ちをわかってよ」と言う人に限って、人の気持ちをわかる気はまったくない。そう思いません?そういう自分の傷つきやすさを武器にして、「私の気持ちをわかってよ」と言って、相手のやり方や言い方に注文をつけることも、やっぱりアドラーの言う劣等コンプレックスの一種です。それを慢性的にやる人のことを神経症者と言います。神経症の人って無茶苦茶敏感で傷つきやすいと世の中の人は思っているけど、僕は神経症の人に無茶苦茶言うのが好きなんです。だってあの人たちは全然傷つかないもん、実は。ただその武器としてやってるだけで、ほんとは無茶苦茶鈍感で何言っても大丈夫だから、言いたい放題言っているんです。「傷ついた。ひどい」と言うから、「うんうん、ひどいよ私は。だってあなたに僕がバカだの卑怯者だと言っても、もしほんとに卑怯者なら言う前から卑怯者で、卑怯者でないなら言う前から卑怯者じゃないし、言われたあとも卑怯者じゃないんだから、何言ってもかまわないんじゃないですか」と開き直っちゃうんですけど。そういう自分の傷つきやすさを武器にして生きているというのは、ハートがちゃんと開いていない証拠です。他の人たちとの繋がりを感じる力がないから。私のすることは、いつもすべての人に影響を与えるんです。僕が何したってすべての人に影響を与えるんです。組み込まれているというのはそんな意味です。私が今1つ呼吸したらあなた方の酸素をちょっとだけ奪ったんです。今こんなところにいるから気にしないけど、私が宇宙船に閉じ込められていたら、「そんな大きな息するな」と絶対怒るよ。私のすることがいつも他人に影響を与えるんです。そのことにビクビク、オドオドするんじゃなくて、自分の保身のためじゃなく、相手の安全のために、相手への貢献のために気がついている状態をセンシティブと言うんです。自分が助かるためじゃなくて。だからセンシティブになりたいと思うんです。それが共同体感覚の1つの側面だと思います。だから凄いわかりやすいです。自分のために敏感なのがセンシブルで、他人のために敏感なのがセンシティブです。自分の利益のために敏感なのがセンシブルで、他人の利益のために敏感なのがセンシティブです。
Q
今日のお話、とても心にしみました。(ありがとうございます。)小学校5年生の息子がいますが、彼のクラスの担任の先生の話を息子からチラホラ聞きます。日直のときに1つ仕事をしていなくて、「今日の日直最低やな」と言われたとか、「天気予報で雨の予報を見て、傘を持って行ったら結局雨が降らなくて、傘が教室まで届けられたら、その傘を先生に投げられたんや」ということを息子から聞きました。「今日の日直最低や」ということは「お前は最低や」というメッセージを子どもに与えると申しますか、傘を投げたか落としたかわりませんが、その行為は分別のある大人の、ましてや教職にある人が言ったり行なったりすべきことではないと思い、自分の子どもだけでなく、これから出会うであろう子どもたちのためにもやっぱり放っておけないと熱くなりました。でもお友だちに愚痴ったりすると、「やはり親が何とかするのでなくて、子ども自身が先生やまわりの人たちとうまくやることを学んでいくほうがよく、先生を変えようとするのは無理かなあ」という話を聞き、また子どもにも話すと、「もしかしたらそっちが正しいかもな」という答えで、担任の先生のことを相談するというのを思い留まりました。今回のお話を聞いて、やはり先生が良い影響をどれだけ与えられるか、勝負と違うと思ったり、先生自身には大きなお世話なのか、心が揺れます。どこに中心を持っていけばいいでしょうか?
A
これからこんな先生を解雇させる運動をすべきだと思う。アメリカだと当然これはクビですよ。僕らは納税者なんです。われわれの税金で食べてる人たちなんです。だから彼らはわれわれのニードを満たす責任があるんです。だから当然クビにすべきです。それはやっぱり声を上げていかないといけないと思う。クラスの子の親たちが話し合って、「あの先生、やめてもらいましょう」って。それをみんながやりだせば、わりと簡単にやめされられます。教育は国家百年の計なんです。日本の国が栄えるか滅びるか、あるいは人類が栄えるか滅びるかは、何十パーセントかが小学校教育にかかっているんです。それなのにこんなに人格的に未成熟な人のところへ子どもたちを預けておくわけにはいかないと思う。これまでずーっと泣き寝入りしてきました。日本では先生は偉い人で、「教育にシロウトは口を出すな」という雰囲気が強かったけれど、口を出さなかった結果が、学校がこんなになっちゃってるんです。口を出したほうがいいと思う。医者は1970年代くらいにさかんに口を出されましてね、いろんな方に。特に朝日新聞がキャンペーンを張りまして、いろんなことについてすっぱ抜きをやりました。あれは医者にとっては無茶苦茶つらい出来事でしたけど、結局良かったです。だから今も医者ってもの凄いやりにくい職業だと思うんです。絶えず患者さんの監視の中にあって、うっかりわがままできない状況なんだけど、そのほうがいいです。学校もそうで、子どもを怒鳴った途端にクビが飛ぶというふうになったほうが正常だと思うから、クラスのお母さんたちと話をしたほうがいいと思う。で、「こんな教育者に任せておいていいのかしらん」と、新聞社でも弁護士でも何でも巻き込んでください。1つの学校でやれば広がるから。騒ぎを起こさないと、このことについて。あおっていこう、この際。
Q
自分の居場所、社会が求める居場所は、一生懸命頑張らなくても見つかるものでしょうか?いろんな選択の中で選んでいくんでしょうが、自分で自然にわかっていくものでしょうか?どうすれば見つかるでしょうか?
A
まず自分のハートの力を信じることだと思います。まわりと人間とが繋がって、頭でマインドで自我でグジャグジャ考えなくても、填(は)まるところへきっと填まっていくんだと思ってよ。そう思うより思いようがないじゃないですか。一番最初に人間は社会的動物で、集団の中である役割を担うように初めから設計されているはずなんです。その役割を担うときに多様性というものがたぶんあって、うんと体を使う役割を担う人と、うんと頭を使う役割を担う人とか手先の役割を担う人とか、足を使う人とか眼を使う人とかいろいろあるはずなんです。それは子どもたちが育っていく中で、自己選択していくというふうにも言える。いろんなことをしながら、「自分は何かな」ということを探していくこともできるし、まわりが何となくそう仕向けていくということもできる。社会と個人との相互作用の中で、やがて決まっていくわけです。今までそんなふうにあんまり考えなかったと思うんです。例えば、学校の先生は「あんた成績が良いから医学部へ行きなさい」と言うんです。それはその人が必ずしも医者に向いているとは限らないんです。医学部へ行ったら、どう考えてもこいつ医者に向いてないという同級生がいました。誰とは言いませんが。その人たちが結局医者になっちゃうんですよ。で、例えば患者さんと会うのがイヤで、対人恐怖みたいで、人とちゃんと話なんかできなくて、1年か2年か臨床をやっていて、「どうしましょう」と教授のところへ相談に行ったりして、「精神科の先生のところへ相談に行っておいで」と言われて、精神科の先生のところへ行ったら、「あんた臨床できないから解剖かなんかやったら」と言われて、結局その人は解剖医か司法監察官かなんかになりまして、生きた人間を触るとロクなことがないから、死んだ人間を触るということになって、それで社会の中で役割を得るのかもしれないけれど、何となく向き不向きというものもできてきますね。あれは先天的なものじゃないと思うんですけど、そういうものがだんだん自然に決まってくるんだろう。でもやっぱり意識してないといけないと思うんです。だからいつも言うんですけど、子どもに「大きくなったらどんな仕事をしたいか」と問いかけてほしんです。「サラリーマンて言わないでちょうだい」って。OLとかいうのは、自分の運命を資本主義に手渡すことなんです。会社が自分の仕事を決めてくれるわけじゃない。営業やるのか経理やるのか総務やるのか、そんなのを自分の側で決められないんです。それを第一選択にしないでほしいの。銀行へ勤めたって電力会社へ勤めたって、自分の思うような仕事ができるかどうかわからないです。僕の学生時代の親友がいてね、彼は高分子化学というのをやってたんです、理学部で。それで高分子関係のある大企業に勤めました。大きな夢を持って勤めたんですけれど、その直後に石油ショックというのが来て、それからいろんな環境汚染問題が来て、そこの会社の製品も、環境汚染問題でちょっと突き上げられたりして、会社としては高分子関係の企業の縮小を図ったんです。他のほうへ業種転換してね。彼は大学を出てからもう30何年になるんですけど、結局この一生何をやったかというと、全国のいろんな工場へ赴任して、工場の労働者たち(工業高校を出た子たちが多い)の、あとに残す子とクビを切る子を決めるんです。「こいつ使える」というのだけ残して、使えない子をリストラリストに挙げて人事へ送るんです。そこの工場の仕事が終わったら、また次の工場へ行って、また次のクビ切りリストを作るんです。だからクビ切り役人を30年々かやっちゃって、彼が学生時代に持っていた理想の仕事が全然できなかったと言うんです。それはなんでかというと、彼が会社に魂を売ったからです。彼がもう少しやんちゃな人だと、例えばある時期に脱サラしちゃって、自分で小さな町工場でも作って、そこで彼なりの品物を作るというようなことをしたんでしょうが、彼はおとなしい人で大きな会社に身分保障されているほうを選んじゃったもんだから、凄い不本意な仕事をしたと思うんです。それが幸福か不幸か、私にはわかりませんけれど、うちの子どもにはあんまりそんなふうに生きてほしくないと思うんです。やっぱり世の中にうまく填まって、ほんとの意味で建設的な仕事をしてくれたほうがいいと思う、どんなことでもいいから。だから、「どんな仕事したい?」と言うときに、とうとう最後まで見つからなかったら「サラリーマンでもいいけど、もうちょっと他のものを考えなよ」と言って、まあ小学校上級生くらいから何度かいろんな機会に話をしたいと思うんです。そうするとそんなに難しくもなくたぶん見つかりもし、見つかってもいろいろ苦労もし、悩みもするでしょうけど、グルグルっとして自分の居場所へ填まるように填まり込むんじゃない?