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運動会の日の雨    野田俊作

運動会の日の雨
2001年09月30日(日)

 大分県別府市に来ている。講演に来たのだが、朝からひどい雨だ。主催者に「雨で残念ですね」と言うと、「いいえ、雨で喜んでいます。雨乞いしていたんですよ」と言う。ああ、そうか、運動会だな。
 私の講演の聴衆は、お母さん方と学校の先生が多い。だから、運動会があると来られない。雨が降って運動会が中止になると、来る人が増えるのだ。30人ほどの事前申し込みしかなかったのだが、蓋を開けてみると70人近く来てくださった。子どもたちにはちょっと申し訳なかったけれど、たくさんの方に聞いていただけて、喜んでいる。
 考えてみると、秋の運動会シーズンには、お呼びがあまりかからない。農村部だと、田植えと稲刈りのころも駄目だ。このごろは兼業農家がほとんどなので、休日に農作業をするようだ。沖縄県は夏場は台風の恐れがあってお呼びがないし、雪国は積雪期にはお呼びがない。なんとなく年間リズムがあるのだ。
 ところで、別府市コミュニティ・センターというところで話をしたのだが、すばらしい施設だ。むかしの芝居小屋をかたどった建物で、外側だけではなく、内部も芝居小屋そのままだ。桟敷席があって花道があって、歌舞伎の浮世絵の中にいるようだ。もちろん、近代的な設備が整っているが、表からは見えないようにしてある。こういうところで、劇や音楽を鑑賞してみたいなと思う。
 箱物行政が作った文化会館などは、味も素っ気もない無機的な建物が多い。せっかく高いお金を使って作るのだから、もうちょっとまともなものを作ってもらいたいものだ。文化会館だけじゃなくて、役所関係の建物がすべて品(ひん)がない。民間の建物のモデルになるような、日本の自然に溶け込んだナチュラルな建物を、まず行政が建てないといけないと思う。20世紀には、自然と伝統をあまりにも破壊しすぎた。21世紀は、いいものをいい形で保存する時代にしないとね。



仲秋の名月
2001年10月01日(月)

 今日は旧暦八月十五夜だ。大阪は昼間は曇っていたが、夕方から晴れてきて、パートナーさんとウォーキングに出かけた午後十時前はすっかり晴れ渡っていた。満月は青く南天にかかっていた。北天にはわずかに雲があるが、南天は虚空だけしかなく、月は小さく明るかった。

 歩いているうちに、万葉集の中にある

夕闇は道たづたづし月待ちて行かせわが背子そのまにも見む

 という歌を思い出した。女の家へ男が通ってきて、夕方になって去ろうとする。夜にやってくるんじゃないんだ。朝から来て夕方帰るのか、それとも前の日から来ていたのか。たぶん、前の晩に来て、「居続け」なんだろうな。ともあれ、女は、「夕闇は道がたどたどしいでしょうから、月が出るのを待ってお帰りなさい、いとしいお方。その間も私はあなたのことを見ていましょう」と歌う。なかなか濃厚な語調の歌だ。
 色っぽい文学だけじゃなくて、道元の『正法眼蔵』の中の「諸法実相」の巻の、中国に留学していた時代の、師匠の如浄のある夜の説法のことを回顧している場面を思い出していた。その締めくくりに、

 それよりこのかた、日本寛元元年癸卯(きぼう)にいたるに、終始一十八年、すみやかに風光のなかにすぎぬ。天童よりこのやまにいたるに、いくそばくの山水とおぼえざれども、美言奇句の実相なる、身心骨髄に銘じきたれり。かのときの普説入道は、衆家おほくわすれがたしと思へり。この夜は、微月わずかに楼閣よりもりきたり、杜鵑(ほととぎす)しきりになくといへども、静閑の夜なりき。

 と書いてある。季節は、前のほうに「春三月」と書いてあるので、新暦だと五月ごろだし、月も満月ではないようだ。だから、今の月とは違っている。しかし、美しい文章なので、月を見ると出てきてしまう。
 構成主義(constructivism)風に言うと、そういう文章が私の見え方を決めているので、言語が先にあって現象が後からある。きっとそうだと思う。月が見えて詩が出てきているのではなくて、詩がまずあって、それが月の見え方を決めている。実感としてそう思う。
 先日、白川静・渡部昇一『知の愉しみ知の力』(致知出版社)という対談を読んだ。その中で、漢文教育の必要性が説かれている。

 白川 中国の詩文というようなものは、若い文学者の作品と違って一種の老熟性があります。(中略)これはいわゆる成人の学、大人の文学と言っていいでしょうな。その意味では、漢文は適齢になったならばなるべく早い機会に接したほうがいい。そうすれば自分が大人の世界に入っていけるわけです。それがないと、いつまでも脱皮できずに甘えが残ってしまう。(中略)大人になるには漢文の教育が一番です。(pp.140-141)

 ここで白川先生がおっしゃるのも、実はそういうことで、漢籍を読んでいるのと読んでいないのとで、世界の見え方が違うのだ。さいわい、私の父は漢籍を読む人で、家に明治書院の「新釈漢文大系」だの岩波書店の「中国詩人選集」だのがあって、中学校上級生のころからそういうのを読んでいた。最終的に、私は中国思想よりも仏教を選んだが、それはそれとして、「大人の文学」を若いころに読んだことは、漢文的言語の獲得を通して、世界の見え方を変えていると思う。

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成績の良かった中3女子の不登校

Q 
登校拒否に陥っている中3の女の子がいます。小さいころから学業優秀でいわゆる良い子でした。対人関係で緊張が高く、評価を気にするところが強い子でした。

A 勉強が良くできて、評価を気にするというのは、「賞賛」ということを目標に暮らしているタイプの子なんでしょう。人からほめてもらう、人から良く思われることを目標に暮らしている子は、行動が建設的なものであっても、つまり勉強が良くできるということであっても、それは(厳しく言えば)異常行動なんです。だから、子どもをほめて育てたくない。子どもをほめて育てると、その子は賞賛を求めて行動するタイプの子になる。
 その上に対人緊張が強いということは、一方で罰もあったんだ。アメとムチ。一方で脅しをやって、親や教師の望む基準に達したらほめるという教育をしたせいです。

Q 今は何事にも自信が持てず、肯定的な受け止め方ができにくくなっています。今、家族はそんな彼女に対して、気遣いながら生活しているようです。悪い言い方をすれば、腫れ物に触るよう。

A この女の子は、家の中で女王様になったんだ。

Q そのような対応が、彼女に本当にプラスになるのか疑問です。かといって代替案が思い浮かびません。何か良いアドバイスをお願いします。

A 家族の人に直接言わないとしょうがないけど、一般論としてお話しましょう。
 これはあるお母さんの相談です。息子は27歳。一応大学へ入ったんだけど、中退してしまってクサッていた。クサッていてもしょうがないと、働きに行った。でも、この人のやることは極端で、「うんと稼げる仕事を」と肉体労働をやった。3か月くらいやって、腰の骨も曲がって死にそうになった。やめて、今度はうちの中に閉じこもって暴れだした。「俺は不幸だ。何とかしろ。俺はいったいどうしたらいいんだ」。その時点で相談に来ました。
 お母さんは、「何とか息子を助けたい」と言う。私(野田)は、「そんな息子は助けられません」と言った。さらに、「そいつが馬鹿なんだから、馬鹿な相手をしてもしょうがないから見捨てなさい。27歳にもなっていっぺん働きに出て食っていけるヤツなんだから、そんなヤツの面倒を見ることはないから、そんなヤツを助けるようとしないほうがいい」と言うと、「そんなむごいことはできない」「助けようとするほうがよっぽどむごい。できるだけその子とのコミュニケーションを減らしなさい。飯くらいは食わして、命だけ保障して、それ以外何にもしないように。あなたは、できるだけ家にいないように、外へ遊びに行きなさい。友だちとチャラチャラ遊んで暮らしなさい」「そんなことをしたら息子は怒ります」「怒らせておきなさい」「お母さんは気持ちをわかってくれないと言います」「お前の気持ちなんかわかる気はないと言いなさい」「冷たい親だと言います」「そうよ、冷たい親よ、と言いなさい」……。
 子どもがある年齢に達すると助けなくていいですよ。登校拒否してどうじゃら、対人恐怖がどうじゃらと言って、その人たちを助けようとすると何が起こるかというと、「私が不幸であれば、人々は私を大切にしてくれる」ということを学ぶ。「私が幸せになったとたんに、みんな私から関心をなくしてしまう」ということも、たぶん学ぶ。だから彼女に興味を持たないほうがいい。1人で悩んでいてもらおう。人間には悩む権利があるから。
 昔、私の息子が悩む権利を主張したことがあります。「まあ、悩んでいるではありませんか。お父さんに相談しますか」「いや別に」「じゃあ、しばらく悩んでいますか?」「悩んでいる」。なんで悩んでいるのかわからなかったが、最近、他の筋から理由がわかった。わかったからといってどうしようもないが、どうも、私の別れた奥さんつまり、彼の母親と喧嘩したみたい。それが理由みたい。当分悩んでもらおうと思う。人には悩む権利があるから。「相談してみるか?」と聞いたら、「相談しない」と言う。それなら彼の悩む権利を最大限保障しないといけないから、それが親の勤めです。当分悩んでいてもらうことにします。これって勇気がいります。子どもを悩ませておくのは。
 世間の親は、何とかしようとする。何とかしようという心は、いったい何だろう。悩んでいる子どもを助けたいというのは、実は子どもを助けたいのではない。実は私が助かりたいのだ。子どもが悩んでいるのを見るのはつらいから、そのつらさから出たい。そのつらさというのは、子どもの課題じゃなくて親の課題です。親の課題を解決するために、子どもの行動を変えたい。これが一番タチの悪い支配性です。こうやって、実は自分が助かりたいのに、相手を助けるような顔をして相手を変えるのを、アドラーは“人生のウソ”と言った。人生のウソから脱却したい。正直でいたい。
 私は、やっぱり子どもが悩んでいるのはイヤですから、私のエゴで助けたいと思って、「助けたいんですが…」と言いましたが、敵は見破って断りました。
 さて、悩んでいる子がいてその子を助けることができないとき、親にできる選択肢は、「暗く暮らす」という選択と、「明るく暮らす」選択があるんです。私は、迷わず明るく暮らします。子どもを悩ませたまま、明るく暮らします。(野田俊作)

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催眠と受験    野田俊作

町内の風景
2001年09月27日(木)

 涼しくなったので、数日前からパートナーさんと一緒にウォーキングをしている。夜の9時ごろ歩き始めて、今のところは町内を一周して、30分ほどで帰ってくる。私が住んでいるあたりは奈良時代(!)からの街道筋で、古い(おそらく江戸時代の)家並みが続く界隈がある。道はやわらかく湾曲を繰り返して続いていく。
 なんでも、奈良時代の一級国道(?)は一直線だったそうだ。ここも奈良時代の一級国道なのだが、いまは一直線ではない。ある時代に、湾曲した経路に作り直されたのだろう。もし、一直線の道を、わざわざ湾曲した道に作り直したのだとしたら、あきらかに意図がある。
 美学的な意図でないことは確かだな。そんなもので大工事をしたりしないもの。経済的な意図か軍事的な意図だ。おそらく、軍事的な意図ではないかな。ここらあたりでは、何度も戦争があった。有名なのは、南北朝の騒乱だ。楠木正成が、ここからもうすこし南へ行ったところに割拠していたしね。道を湾曲させておくと、見通しが悪くなって、きっと戦争のときに味方に有利になるのだろう。
 なんとなくそんなことを考えながら歩いている。もともとがどういう意図であるにせよ、やわらかにくねって続く街道の風景は美しい。



催眠と受験
2001年09月28日(金)

 ときどき頼まれて、催眠でもって受験の手伝いをすることがある。「普段はよく勉強しているのだが、試験当日になると緊張してしまって実力が出せない」というタイプの人にしか使えない治療法なのだが、効果は抜群にある。
 まず、その人の中の「賢いペルソナ」を探し出す。これはちょっとコツがある。受験当日は、「緊張しやすい自我」ではなくて「賢いペルソナ」が出てくるように後催眠暗示をかける。その後、多くの場合は、「この催眠の中身は忘れてしまうでしょう」と言って催眠から出てもらう。その方が自我が混乱しないからだ。こうしておくと、受験当日は、なぜかとても落ちついていて、実力が十分に発揮できるのだ。
 「催眠でもって試験に合格するなんて、インチキじゃないか」と思われるかもしれない。しかし、受験者の実力を百パーセント発揮できるようにしているだけで、その人がもともと覚えていないものは出てこない。普段サボっている人は、いくら催眠をかけても、なにも出てこない。だから、このやり方はフェアだと思う。
 ちょっと別の話だが、むかし、ある大学の入学試験問題が漏洩したことがある。なんでも刑務所で印刷していたのが、囚人がうまく持ち出したのだったと思う。それを、受験する年齢の子どもがいる親の家を回って、何百万円かで売りつけたのだ。実際にそれを買った親が数人いて、その子どもたちは合格してしまった。
 ここまではよくありそうな話だが、この話の面白さは、このことが発覚したのが、その子どもたちが4回生になってからだったという点にある。1回生の時に発覚したのであれば、教授会は迷わずこの子たちをクビにしたと思うのだが、4回生になってからなので、困ったことになった。結局、教授会は「おとがめなし」という決定をした。本当か嘘か知らないが、教授会が言うには、「入学後の成績を見ると、落ちこぼれずについてこれているので、入試が不正であったからといって、実力がなかったわけではない」ということだった。
 教授会が言うのが本当だとすると、たとえば不正入試した子どもたちが、もし試験問題をあらかじめ見なかったら不合格になったかもしれないが、その不合格は、ある意味で不当だということになる。だって、その大学で学ぶだけの実力のある子どもを入学させなかったことになるのだから。まあ、これは屁理屈だけれどね。
 不正入試の話をしたいわけではなくて、「自我」でなければ受験資格がないか、「ペルソナ」で受験してもいいか、という話をしたいのだ。子どもたちのペルソナを呼び出して受験させるのは、定員のある試験の場合は、ややフェアさを欠くかもしれないが、定員がない試験の場合は、その子どもが合格することで他の子どもが不合格になるわけではないから、公正だと言ってもいいのではないか。
 不正入試が不正入試であるのは、一部の子どもにだけ問題をあらかじめ見せるからだ。すべての子どもに問題を見せれば不正ではない。同様に、すべての子どもに催眠をかけて受験させるなら、定員のある試験でも不正ではないな。ひょっとしたら、そういう時代が来るかもしれない。エリクソン催眠の教育への応用は、アメリカでは話題になりはじめているようだから。



アドラー心理学と催眠
2001年09月29日(土)

 このところエリクソン催眠の話を書いているが、「催眠」という言葉は、きわめてうさん臭く響くようだ。ある人から、「野田さんは『臨床心理学は科学でないといけない』という持論を変えたのか?」と言われた。そんなことはないよ。エリクソン催眠に関する、私の「科学的」解釈を書いておく。
 人間の心は、外から入る情報で、状態がコロコロ変わる。たとえば、いいことを言われると喜ぶし、いやなことを言われると落ち込む。このとき、入力によって別の人格が動きだすのか、人格は一つしかなくて、それでもってあらゆる入力を処理するのか、どちらなんだろう。状況によって人格が変わると考えるのが、ミルトン・エリクソンの考え方だと思う。つまり、入力の種類でもって、それに対応したサブルーチン(人格)を呼び出すのだ。
 ふつう出会うようなありふれた入力に対しては、私が「自我」とよぶサブルーチンが呼び出されて使われる。ある種の入力に対しては、自我ではないサブルーチン(私は「ペルソナ」と呼んでいる)が呼び出されるのだが、そのサブルーチンもまた、自我と同じように、過去に学習されて形成されたものだ。だから、その人自身の一部なのであって、どんなに自我と似ていなくても、他から憑依したものではない。つまり、心霊現象やチャネリングじゃないんだ。ほら、ちょっと科学的になってきただろ。
 たとえば、夫婦喧嘩を思い出してほしい。喧嘩になると、それまで忘れていた記憶がよみがえってきて、「あなたは、あのときはあんなひどいことを言った、あんなむごいことをした」と言いつのる。それを聞くと、相手にも、それまで忘れていた記憶がよみがえって反論する。そうしてエスカレートして、ひどいことを言いあう。頭は「こんなことは言ってはいけない」とわかっているのに、口が勝手にひどいことを言うような気がする。こんなとき、自我は眠ってしまって、喧嘩用のペルソナが出てきているのだ。つまり、ペルソナが交代するのは、催眠状態のときだけの話ではなく、ごく普通に見られる現象なのだ。
 「記憶が変わる」というのは、アドラー心理学の考え方では、人格が変わったということだ。普通「性格(ライフスタイル)」と呼んでいるのは、自我の性格のことであるようで、ペルソナたちは、それとは違う性格をもっているようだ。もっとも、アドラー心理学者の間には、すべてを一貫するひとつの性格があるのだと考える古典学説墨守派もいると思うが、その考え方よりも、複数の性格をもっていると考える方が、より単純でより強力な理論を作れると思う。
 もちろん、それらを使う無意識的自己はひとつしかなく、その方向性はたえず一貫している。ひとつの目的のためにさまざまの人格を使い分けるのだ。ときどき人格の選択を間違って、無意識的な目標と反対の方へつっぱしることがある。こういうとき、本来の目標は何だったのかを思い出してもらい、現在のペルソナがその目的に合致しているかどうかを検討してもらう。アドラー心理学だと、そこでペルソナの性格を変えようとするのだが、エリクソン催眠だと、別の、もっと目的に適合したペルソナがないかどうか探して、もしあればそれを使ってもらう。こう考えると、アドラー心理学もエリクソン催眠も、理論は同じで、技法が違うだけなのだ。まあ、私が辻褄あわせで、理論が同じになるようにエリクソン催眠を解釈したのだから、あたりまえだけれどね。

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夫婦2人の家族会議

Q
 前に夫婦2人で会議を持っていたことがありますが、あまりイライラしなくなって最近は途絶えています。勇気づけ合う会議を持ちたいと思います。
 議長は発言できないのですが、夫婦2人だけのときはどうしたらいいですか?

A
 それはしょうがないですね。議長なし。ただ時間的な進行だけはしないといけない。
 夫婦仲良しのときは勇気づけ合う会議をしますが、夫婦がすごく仲悪いとき、メチャメチャもめてて離婚でもしようかというときは、特別な夫婦会議のやり方があるので教えます。それは、夫婦2人が背中合わせに座るんです。1人の持ち時間は15分で、1日に30分そのために使う。ジャンケンポンで先にしゃべるほうは、15分間一方的にしゃべる。どんなことをしゃべってもいい。どんなひどいことをしゃべってもいい。ものすごい勇気くじきをしてもいい。泣いてもいい。叫んでもいい。ただし、相手は反応してはいけない。ただ聞いているだけ。15分したらキッチンタイマーで「チン」。何がなんでもやめる。で、もう一方がしゃべる。もう一方は聞いたことに答えてもいいし、答えなくてもいい。全然違うことをしゃべってもいい。30分たったら終わり。終わったら、その夫婦は話をしてはいけない。一緒に暮らすけど。
 翌日またやる。翌日は昨日と逆さまの順番でやる。昨日の続きでもいいし、続きでなくてもいい。だいたい2週間やりますと、話のネタが全部切れます。どんな夫婦でも。何もしゃべることがなくなる。
 でもそれは、もめている夫婦にはすごく大きい体験になるんです。なぜなら、反論できなくて15分間聞くから、相手についての完全な情報を得る。「そうか、こいつこんなふうに考えていたんだ」ってわかる。そのあと、別れるかもう1回一緒に暮らすかの、一番大きなインフォメーションになる。向かい合って話し合いすると、どっちがしゃべってもいいことにすると、とにかく相手の言うことを遮ろう遮ろうとする。だから話を聞けない。
 もしモメたらそうやって喧嘩してください。毎日やってください。すっかり両方が言うことがなくなるまでやってください。(野田俊作)

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催眠と超能力    野田俊作

催眠と超能力
2001年09月25日(火)

 むかし、大学のゼミで、エリクソン催眠を習った。エリクソン催眠というのは、ミルトン・エリクソン(Milton H. Erickson, 1901-1980)というアメリカの精神科医が開発した催眠の技法だ。ゼミの指導教官の高石昇先生がエリクソンのもとで学んでこられて、日本に紹介された。ふつうに話をしているうちに催眠に入れてしまうという、おそろしいテクニックだ。
 催眠トランスに入るというのは、奇妙な体験だ。ものの見え方や聞こえ方や触った感じが変わるし、考え方も変わるし、感情も変わる。性格全般に変わってしまう。いつもの自分(これを仮に『自我』とよぶことにする)とは違う人格なのに、しかも、それもまた自分だということがわかる。自我とは違う人格(これを仮に『ペルソナ』とよぶことにする)は、実はずっと昔から自分の中にあって、ときに意識的にその状態になってみたり、ときに無意識的にその状態になってしまったりする。つまり、人間は本来『多重人格』で、そのうちの主たるものが自我で、多くの場合は自我で暮らしているが、必要に応じて他のペルソナを使うようだ。
 何度もトランスに入っていると、いつもの自分である自我が、たくさんあるペルソナのうちの一つであるにすぎないことが実感され、まったく相対的なものだと思えてくる。自我のやり方にこだわることはないので、問題解決のためにもっとも適したペルソナになればいいのだ。エリクソンは、よく性的なたとえをする。職場で同僚といるときと、異性とベッドルームにいるときとは、同じ人格でなくてもいいのだ。
 私の中に、二つ、奇妙な人格がある。一つは、「なんとなく道がわかる」という能力を持ったペルソナで、たとえ知らない土地でも、どちらへ行くと目的地かわかるのだ。登山の時に重宝している。もう一つは、「おいしい食堂がわかる」という能力を持ったペルソナで、なんとなく店の前を見ているとわかるのだ。友人たちは、「どうしてわかるのだ?」と責めるので、「小人さんが見えるんだ」と言っているが、実際はもっと直感的なものだ。超能力というには、ちょっとチャチだな。たぶん、動物的な力なのだと思う。鳩の帰巣本能のようなものかな。残念なのは、予知能力を持つペルソナを持っていないことだ。私の祖母などは、予知能力を持っていたように思う。
 科学は自我が作ったものだから、自我以外のペルソナにおこる現象を知らない。だから、こういう話をすると「非科学的だ」と言われてしまうのだが、誰でも、催眠トランスに何度も入っていると、自分の中に、こういう力のあるペルソナを見つけるんじゃないかと思っている。



催眠と自由意志
2001年09月26日(水)

 「催眠を使って、人を思いのままに操作できるか?」とよく質問される。ある程度はできる。たとえば、ある女性がいて、私はその人と性的関係に入りたいと思っているとする。しかし、その女性は、それを拒否する。そこで、その女性に催眠をかけて、私と性的な関係に入るように暗示する。そうすると、承諾するかもしれない。しかし、催眠にかけても拒否する女性もいる。(実体験じゃないよ、たとえ話だよ)。
 シラフでは性的関係を拒否していたのに、催眠にかけると承諾した女性の場合、彼女の中に、私との性的な関係を望むペルソナがいたのだ。しかし、彼女の自我は私と性的な関係に入ることを拒否していた。シラフでも催眠下でも私との性的関係を拒否する女性は、私との性的関係を望むペルソナが一人もいないのだ。
 これは、人の「自由意志」という問題にかかわってくる話題だ。自由意志というのは、自我の意志をいうのか、それともペルソナたちの意志も含めてもいいのか。現在の社会では、自我の意志を自由意志というのであって、自我以外のペルソナの意志は自由意志とはいわない。しかし、今世紀は催眠の世紀になりそうな気がする。エリクソン催眠が一般常識になるのは、そう遠い未来ではない気がする。そうなると、人々は自由に催眠トランスに出入りして、さまざまのペルソナを使い分けるようになるかもしれない。そうなったとき、自我の意志だけを自由意志というのでは、困ったことになるかもしれない。
 自我は望まないがペルソナが望んで行為した場合にも自由意志を認めるということになると、責任も認めるということになる。私自身はむかしからそう思っているので、「ついうっかり」行為したことや、「われを忘れて」行為したことや、「酒の上で」行為したことについても、責任があると思っている。逆に、そう思うためには、自我以外のペルソナの自由意思能力を認めなければならない。
 そう考えるなら、催眠を使って、「人を思いのままに操作することはできない」と答えなければならなくなる。ペルソナもまたその人であり、ペルソナの行為もその人の自由意志にもとづくのであり、ペルソナの行為もその人の責任だからだ。これは、倫理学を根底からゆるがす考え方だな。

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