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野田先生の補正項から

法の無常(2)
2001年06月15日(金)

 世界には法則性があるのだろうが、その法則性はきわめて複雑なもので、われわれはその全貌を知りえないのだと、なんとなく思っている。
 たとえば、気象についての法則性がもっと詳しくわかれば、明日の天気はもっと正確に知ることができるようになるかもしれない。しかし、明日のお昼頃に出る雲の形がラクダさんに似ているかゾウさんに似ているかは、永遠に予測できないと思う。雲の形は非線形な現象だし、しかも要因の数が多すぎるので、単純な法則は成り立たないと思うのだ。
 われわれが知っている法則は、世界に成り立っている実際の法則(そんなものがあるとすればだが)の荒っぽい近似写像なのだろう。自然科学の法則もそうだし、仏教の法もそうなので、要するに、われわれの主観の側にある認知枠であって、客観世界の「真理」ではないのだ。だとすると、仏法と同じく、自然科学の法則だって無常なのだ。実際、19世紀までは古典力学という認知枠で世界を見ていたが、20世紀になると相対論や量子力学でも世界を見るようになった。「19世紀にも相対論や量子力学の法則は成り立っていた。ただ、人がそれを知らなかっただけだ」と主張する人がいるかもしれないが、だからどうなのだ。そうだとしても、19世紀の人は古典力学という認知枠でしか世界を見ることができなかったのだから、相対論や量子力学はその時代には存在しないのと同然なのだ。知らない認知枠で世界を見ることはできないからね。
 仏法もそうなので、ゴータマが言葉にして、それをわれわれが学んで、ゴータマが「保持していた(dharma=法)」認知枠をわれわれが手に入れて、そうして世界を見ると、ゴータマが見ていたように世界が見えるわけだが、それ以前には世界は違った風に見えていた。じゃあ、迷いの時代の世界と悟りの時代の世界と、どちらが本当の世界かというと、どちらもその時代の認知枠から見れば本当の世界で、迷いだから間違っているわけでもないし悟りだから正しいわけでもない。ただ、昨日書いたように、悟りの世界を作り出す認知枠(法)は、道徳的生活を可能にするので、われわれの生活がイージーになるのだ。
 法の無常を認めるということは、複数のパラダイムの存在を認めるというのと同じことで、宗教に関していえば寛容につながる。「唯一絶対の永遠不変の法」などというものをふりかざしてしまうと、やがて信じない人を火あぶりにしたくなるだろう。



精神鑑定
2001年06月16日(土)

 むかし『家庭裁判所月報』に論文を書いたことがあるのだが、精神鑑定をするとき、記述精神医学に則ってすべきであって、力動精神医学の知識を持ち込んではいけないと信じている。
 といっても、精神科医以外にはなんの話か皆目わからないだろう。記述精神医学というのは、症状を記載して、そこから病名分類をする、ふつうの精神医学だ。妄想があって幻聴があって、しかも意識清明なら、精神分裂病(統合失調症)だけれど、意識混濁があればせん妄だとか、抑うつ気分があって午前中それが強く午後になるとマシで、早朝覚醒があればうつ病だとか、抑うつ気分はあるけれど日内変動がはっきりしないと神経症じゃないかとか、内科学と同じ論理で診断をする。これはそれなりに科学的だ。定説として、重度の精神分裂病(統合失調症)や、意識混濁をともなうせん妄状態では、責任能力がないということになっているので、診断がつけば、そこから責任能力について判断ができることになっている。
 これに対して、力動精神医学というのは、いわゆる深層心理学で、とくにフロイトの流れの精神分析学の影響を受けた精神医学だ。これは、子ども時代の体験から現在の行動を説明しようとしたり、無意識の中に想定された葛藤から現在の行動を説明したりする。たとえば、「子ども時代の子育てが間違っていた結果、性格にひずみが生じて、その結果、現在犯罪を犯した」というような理屈をこねる。しかし、そうだとすると、犯罪は本人の責任じゃなくて、間違った子育てをした親の責任だということになる。この方法を適用すると、ほとんどのケースが責任無能力になってしまう。
 力動精神医学は科学ではない。それは、そうであるともそうでないとも証明できない思弁であるにすぎない。そういうものを精神鑑定の根拠にしてはならない。しかし、裁判官はそういうことを知らないかもしれないので、だまされてしまう危険がある。困ったことに、そういう傾向の鑑定文が存在するようだ。原文を読んだわけではなくて、新聞や雑誌が言うところから想像しているだけだが。
 アドラー心理学だって、力動精神医学の一種なので、私が鑑定書を書くときには、いっさいアドラー心理学の知識を持ち込まない。オーソドックスな記述精神医学だけで書く。それは当然のことだと思っていたが、そう思わない非常識な精神科医がいるようだ。



精神鑑定(2)
2001年06月17日(日)

 昨日の話の切り出しはちょっと唐突すぎたなと反省している。最近、アメリカの影響なのか、刑事事件で弁護士たちが精神鑑定を武器に使いすぎる風潮があるように思うし、さらには犯人がみずから精神病を口実に責任無能力を言い立てる事件さえあって、困ったことだと思っている。そこに力動精神医学的な、非科学的でしかも安易に責任無能力という結論を出してしまう鑑定が合体すると、どうしようもないことになるのではないかと心配して、昨日のようなことを書いた。
 力動精神医学の悪口を言ったついでに、彼らの人格障害の診断の問題点についても言いたいことを言っておこう。精神鑑定と直接の関係はないのだが、鑑定でこういう診断名がつくと新聞が書くし、書くと「そういう病気があるんだ」と人々が思うし、そうなると社会的影響もあるから、一応は専門家の端くれとして書いておいてもいいかなと思う。
 「境界型人格障害 borderline personality disorder」だの「自己愛人格障害 narcissistic personality disorder」だのといった診断名がときどき話題になる。これらの出典はアメリカ精神医学会が定めた『精神科診断統計マニュアル(DSM)』なのだが、その制定の際に、激しい議論になった診断名だ。というのは、両方とも、フロイト系統の力動精神病理学に立脚していて、フロイトの考え方を認めない精神科医には、たえられないほど非科学的な名称だからだ。境界型については、「安定性不安定人格障害 stable instability personality disorder」という、なんだか洒落みたいな、しかし本質をなかなかよく言い当てている代替案もあったのだが、結局は多数決でフロイト派が勝ってしまった。
 アメリカではフロイトの系統の精神病理学者が多数派なので、仕方がないといえば仕方がないのだが、なんでも対米追従の日本人は、ほとんど無反省にDSMを診断基準として採用して使っている。そうしているうちに、境界型人格障害だの自己愛人格障害だのといった概念が社会に流布して、あたかもそういうものが実際に存在しているかのように人々が思い込み、若い精神科医たちも、症候群としてそういうものを認めるだけでなく、その背後にあるフロイト流の力動精神病理まで事実として認めてしまう傾向があるように思う。これは、かなり困ったことではないかと思っている。
 アドラー派は、創始者以来遺伝的にフロイト嫌いなので、私が言うことには極端な偏向があるのは認める。しかし、こういうことを誰かが言っておくと、議論のネタになっていいんじゃないか。



法の無常(3)
2001年06月18日(月)

 いちおう仏教学科に在籍したこともある身としては、言いたい放題を言うのではなく、ちゃんと経証(聖言量)をあげるべきだと思う。私が「法の無常」ということを言うのは、チベットの学僧タルマリンチェンの『宝性論』への注釈(Rgyal tshab Darma rin chen: "Theg pa chen po rgyud bla mahi tika")に、次のようにあるのによっている。

 法身は二種であると知らるべきである。すなわち、1)本性清浄にして客塵の垢れをことごとく清浄にした善無垢の法界を現観した真実証智としての法身と、2)教法として法界より等流しての法身である。(小川一乗『仏性思想』文栄堂 p.35)

 「な、なんなんだぁ、これ!?」という声がたくさん聞こえてきそうだ。ごめんね、チベット人の書く文って、こんな風なんです。慣れると、どうってことないんだけどね。

 1の、「真実証智法身」というのは、ブッダが「保持するもの(dharma)」としての智慧のことであり、2の「等流法身」というのは、その智慧が言葉になった教法のことだ。この解釈は、私の恣意ではなく、タルマリンチェンのこの本に注釈をされている小川一乗先生も、

 宝性論において、「如来の法身」といわれるときの法身とは、本性清浄なる如来の智慧そのものとしての法身と、その智慧の世界としての法界より等流してわれわれの認識対象となっている思想言語において具体的に与えられている教法としての法身ということである。(前掲書 p.35)

 と書かれているので、私と同意見だ。日本仏教では、「法身」というと、「宇宙に満ちあふれる真理」みたいな感じでとらえられることが多いのだが、チベット仏教では、真理(善無垢の法界)についてのブッダの正しい理解(現観した真実証智)と、それを言葉で説明した教法というように、きわめて具体的に理解されている。そうなると、ブッダの身体は無常なので、その理解も身体が消滅すると同時に消滅するし、教法は伝承する人がいなくなると消滅する。だから、「法は無常」なのだ。
 次に、「法とは縁起である」という主張については、「縁起を見るものは法を見る」という古い経典の文句で十分な気もするが、せっかくチベットの文献を引いているので、聖言量をタルマリンチェンからも引いておく。

 かの如来と呼ばれているものの相続である本性清浄分と、有情の相続である本性清浄分との両者には、青色と金色の如き差別のないことを意趣して、“一切有情は如来蔵を有する”と明らかに釈されたのであるから、従って、如来が有情の相続の中に内在すると主張するのははなはだしい非仏教的な見解である。(前掲書 p.36)

 ごめんね、これもわけのわからない文に見えるだろうね。要するに、「ブッダにもわれわれにも、同じように『本性清浄分』というものがあるので、そういう点で、われわれとブッダの本質は同じだ」と主張しているのだ。じゃあ、「本性清浄分」って何なんだろう。これがわからないとどうにもならない。小川先生は、次のように注釈される。

 “本性として”とは、“本来的に、もとより”という意味であり、“清浄である”とは、”縁起的存在であり、その本質は空性である”という意味である。従って、「心性清浄」ということに対する大乗仏教としての説明は、“およそ心といわれるほどのものは縁起せるものであり、本来的には空・無我である”ということであらねばならないであろう。(前掲書 p.18)

 これはきわめて妥当な解釈だと思う。だから、ブッダの精神も縁起の中にあり、われわれの精神も縁起の中にある。その点ではブッダもわれわれも変わりがない。ただ、ブッダは、「本性清浄にして客塵の垢れをことごとく清浄にした善無垢の法界を現観した真実証智」を持っているが、われわれは持っていない。つまり、ブッダはみずからが縁起の中にある空なる存在であることを知っているが、われわれは知らない。こうして、ブッダの属性(=保持しているもの)としての法は「本性清浄=一切法縁起生=一切法自性空」についての如実智であることになる。証明終わり。

 ところで、先の引用中に「如来が有情の相続の中に内在すると主張するのははなはだしい非仏教的な見解である」とある一節は、なかなか素敵だ。日本仏教はそう信じてやってきたのだが、チベット仏教徒から見ると「はなはだしい非仏教的な見解」に凝り固まっているんだ。

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野田先生の質疑応答

Q673
 死にゆく人が子どもである場合、子どもの年齢によっても違うと思いますが、その子どもに対する勇気づけ、親に対する勇気づけについてお聞かせいただけますか?

A673
 昔ねえ学生時代に体験があるんだけど、学生の実習で小児科へ行ったんです。脳腫瘍の12歳の女の子がいて、僕は学生ですが先生のフリをしていくんです。向こうは学生だと知っていますから、「2週間あなたのところへ来ます」と言ったら、「先生お願いがあるんです。私は癌でもうすぐ死ぬの」と言う。「知ってます」と言ったら、「親がそのことをたぶん知らないから親にそのことを言わないでね」と言うの。そのとき、小児科ってイヤな仕事だと思ったんです。小児科は絶対しないでおこうという決心をする契機なったんですが、その年齢の子どもって、自分が死ぬことにそんなに動揺しないんです。死ぬということをほんとの意味でリアリティーを持って捉えていないのかしら。われわれが死ぬことに対して動揺するように子どもたちはしないと思う。まわりの親が動揺すれば子どももしますけどね。だから子どもに対する勇気づけって、あんまり考えなくていいんじゃないかと思う。われわれの時代の親たちや医療従事者がセンチメンタルになりすぎているだけだと思う。それから親に対しても、子どもが死ぬのは気の毒なことではあるけれど、むしろ子どもが全員大人になるほうが不思議なことなんだというのをもう1回思い出してほしいんです。乳幼児死亡率がとても高くて、10人子どもが生まれて2人が大人になるというのが、ついこの間まで普通のことだったんです。ところが公衆衛生と小児医療の発達で、今は生まれた子どもが全員大人になって当たり前だと、僕らが思い込みすぎているんですけど、そうじゃないんだって。本来子どもっていうのはそうやって死んでいくように、そもそも遺伝子が主として設計されているわけ。やっぱりエラーがあるんです、変な言い方だけど。子どもは全員うまく生きていけるように完成品としてできてくるわけでなくて、強い子もあれば弱い子もある。弱い子が死んでいくというのは、われわれの力を超えた自然の法則なんです。そこに対して僕たちもうちょっと謙虚になったほうがいいと思うの。これもやっぱり権利意識ね。子どもの生きる権利だとか、人間の生きる権利だとか、誰に向かって主張しているんだ?それを。自然の摂理に向かってそんなもん主張できませんぜ。そのへんが現代の僕らの思想の偏差なんですよ。だから私も、これは子どもが難病だったりその他の原因で死んでしまった子どもの親たちによくつきあうんだけど、まず死んでいくということを受け入れてほしいんです。その子たちが遅かれ早かれ死んでいくだろうって。で、死んでいくその日まであなたにできることがあるだろうと。延ばすことだけが親が子どもにできることはないんですよ。毎日の暮らしをどうしていくかが親にできることだと思う。生き残っている子だってそうなんです。僕ら凄い油断して毎日暮らしていて、今日のように明日があり明日のようにあさってがあると思い込んでいるんです。そんなことないかもよ。今朝あなたがたは子どもさんと一緒にご飯を食べたでしょうが、今日帰ったら子どもたちは死んでるかもよ。そうなんですよ。いつどんなことがあるかわからないんです。だから逆に言うと、1回1回ごとの食事だとかお話だとか一緒にお風呂に入るとかが貴重な時間なんです。そういう思い出し方をしてほしいんです。こういうのを言葉のとても正確な意味で“一期一会”と言うんです。1回だけ会うというのは、実は遠いところから来た人と会うわけじゃなくて、毎日出会っている人たちとたった今会って、次の瞬間には別れるかもしれない定めの中に人間がいるから、だからもうちょっと大切に暮らしたいんです。そうすると、子どもが今から死んでいくとか、今から死んでいかないで元気なのと何も関係ないじゃない。自分が死ぬことについて午前中に言いました。私が死ぬということに対する備えはいつもしておくんだ。家はきれいに片づけておくし、手紙はちゃんと書くし、会いたい人とも会っておこう。それは、これから死ぬからと急にバタバタとやることじゃないんだ。となると、家族が死んでいくからといって急にバタバタやることはないんで、普段丁寧におつきあいなさればいいんだと思いますし、これから死んでいくからといって何か特別しないといけないとしたら、普段の覚悟が足りないわけね。いつも丁寧に勇気づけてつきあえればいいと思うから、死にゆく人が子どもであろうと、じいさんばあさんであろうと何も変わりないと思う。

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野田先生の補正項から

いまどきの娘
2001年06月12日(火)

 私にはふたりの実の娘がいて、今はいっしょに暮らしていないが、ときどきやってくる。ふたりとも、とてつもない理系女で、上の娘(26歳)はマックに画像ソフトを満載してDTP関係の仕事を渡り歩いていたが、不景気で定職を失い、今はバイトでおじさんのためのパソコン教室の講師をしているようだ。下の娘(23歳)はC++で書いた夢を見るような人で、プログラミングが大好きみたいだが、これまた就職に失敗して、気の毒にコンピュータと関係のないバイトで暮らしている。彼女たちの会話は、パソコン大好きおじさんの私にも、ときどき意味不明だ。文系出身のお父さんだと、たいへんだろうね。彼女らが私のところにやってくるときは、どうせおねだりで、今日もやってきて、外付けハードディスクをねだりとられた。
 男の子たちがくすんでいるのに較べて、女の子たちは元気だ。時代の雰囲気なんだね。上の方で女の大臣が元気なように、下々では娘たちが元気だ。男の子たちは、男性への伝統的な期待の重さに押しつぶされてもおり、うちの娘みたいな理系女に「なんだ、こんなことも知らないの?」と軽蔑されてしょげてもおり、ちょっと性的に元気だと「セクハラだ」と言われて窮してもおり、すっかり去勢されてしまったみたいだ。まあ、一昔前の男尊女卑時代のつけを払わされているわけで、しばらくはしかたがないのだろうが、彼らに責任があるわけではないので、気の毒ではある。



日記才人
2001年06月13日(水)

 数日前から日記才人(「にっきさいと」と読む)に登録したので、下のほうに「投票ボタン」がついている。日記才人というのは日記ホームページのリンク集で、まあいわば、日記専門のYahooというところだ。詳しくは日記才人へ直接行って調べていただくとして、気が向けば投票してください。
 すでに日記才人を知っている人からは、「野田さん、どうして日記才人に入ったのですか?」と、やや咎めるような口調で聞かれる。それもわからないではない。老舗のお菓子屋さんがデパートに出店したような感じで受けとられているのだと思う。たしかに、書くときにいくらか意識してしまう。「お得意さん」だけにアドレスを知らせている間はまったく気楽に書いていたのだが、「一見(いちげん)さん」が読むだろうと思うと、なんだか力が入る。これは、よくない副作用だ。仲間内で書いているときと同じ感じで書きつづけたいと思っている。そうでないと、デパートに出店したお菓子屋の味が落ちるとの同じことがおこってしまう。リラックス、リラックス。
 ところで、昨日会った上の娘はホームページを7つ持っていると言っていた。遺伝なんだな。私は、個人用のが3つと、アドラー心理学の仕事関係のを4つ面倒をみている。仕事用のはともかくとして、個人用のは、ここがいちばん開放的で、「旅のページ」はそっと置いてあるだけ、もうひとつのは完全に沢仲間の連絡用だ。どうしてもこうなってしまう。みんなに見てほしい情報もあるし、知り合いにしか知らせたくない情報もある。聞いてみると、娘も同じような構造にしているそうだ。積極的にホームページを利用している人の多くがこうしているのかもしれない。
 日記才人に登録することでこのページをより開放的にしたのは、日本アドラー心理学会が方向転換をして、アドラー心理学をより広い世界に普及していくと決めたことといくらか関係がある。「アドラー心理学学習者はこんなことを考えているんだ」と知ってもらうことが、あるいは役に立つかもしれないと思ったので。まあ、それだけが理由ではなくて、自己顕示欲を満足させるのも理由かもしれないがね。



法の無常
2001年06月14日(木)

 私の東京の事務所のスタッフが、どういうわけか仏教に凝って、ひとりはスリランカ人の長老に、もうひとりはチベット人の尊者に弟子入りしてしまった。私が上京すると、つかまえて、さかんに質問する。系統の違う師匠の話を聴くと混乱するのではないかと思うのだが、まあ、初歩的なことならいいだろうと思って答えている。
 今、彼女らがこだわっているのは「縁起」だが、縁起というのが外的世界に成立する法則なのか、あるいは個人の認知枠 frame of reference なのかと問う。私は、「もし縁起が外的世界に成り立つ法則だとすると、永遠不変の真理になってしまって、あまり仏教らしくない。そうではなくて、個人の認知枠として理解すると、諸行無常などの他の法則と無矛盾になる」と答えた。
 なぜこんな妙な議論をするかというと、それはこういうことだ。和辻哲郎『原始仏教の実践哲学』(岩波書店)に次のような一節がある。

 「法」は過ぎ行かざるもの、超時間的に妥当するものである、従ってそれは自性を持せねばならぬ。たとえば「無常」という法はそれ自身は無常でなくして自性を持し、一切の有者を過ぎ行くものとして理解せしむる「軌」となる。(p.114)

 すなわち、人間や世界は無常で、たえず移り変わっていき、不変なものはなにもないが、「不変なものはなにもない」という「法」自体は永久不変なもので、時間的にも空間的にも、どこででも妥当する「真理」だというのだ。これを、松本史朗先生が『縁起と空』(大蔵出版)の中で批判して、次のように書かれる。

 さて博士は仏教学者の常として法 dharma の語義をも問題とされるが、すでに述べたように法は普遍、常住でなければならないという発想が、法に関する博士の全理解を誤らせている。──(中略)──私は「法」の語義に関する諸学者の理解のうち最悪のものは、「法」は“真理”を意味し、かつ“個物”をも意味する、というものだと思っている。この解釈では、真理(理)が個物(事)に貫通するという内在主義、華厳哲学がすぐにでも完成する。──(中略)──今、仏教書や仏教学の解説書には「真理」ということばが満ちあふれている。それは、この語や「理」という語が中国や日本の思想史の中でいかなる役割を果たしてきたかを知らないで、または知りつつもそれを仏教思想の極致と考えて、用いるのであろうが、この「真理」という考え方こそ、仏教を永く非仏教と化してきた最大の功労者なのだ。(p.26)

 サンスクリットでは、法 dharma というのは、「保たれたもの」という意味で、だから仏法 bauddha dharma というと、「仏が保っていたもの」であり、具体的には「仏の考え方」のことだ。つまり、ゴータマの認知枠だ。もっとも、ゴータマの考え方そのものはわからないので、われわれにわかるのは、ゴータマが説法して外在化した言葉だけだ。だから、より具体的には、仏法とは仏説のことだ。チベット仏教では、実際にこう解釈しているそうだ。
 だから、「令法久住」(法をいつまでも存続させる)ということが問題になるのだし、正法・像法・末法というようなことが問題になるのだ。法は、言葉であり認知枠であるから無常なのだ。
 法が認知枠だという考え方の別の論拠は次のようなことだ。世界理解の枠組みには、論理的に、次の4種があるように思う。
1.決定論:すべてが因果的に決定されていて、自由意志はない。
2.偶然論:世界はただ偶然で動いており原因もなければ結果もない。
3.絶対神論:神がすべてを決定している。
4.縁起論:個人の自由意志を認めつつ、因果性も認める。
 この4種は、実際に古い経典に出てくる。縁起は、他の3つとの対照のもとに考えなければならない。じゃあ、なぜゴータマが縁起説を選んだのかというと、他の3つでは道徳の根拠にならないからだ。なるほどそうだね。決定論だと、私が何をしたって、行為そのものが過去の原因の必然的結果であって、私の自由意志による行為ではないわけだから、決心して善行することもできないし決心して悪行することもできない。偶然論だと、何をしたところで結末はそれとは関係なく返ってくるわけだから、悪行をしても何も悪い結末はおこらないことになる。絶対神論は、神に対して特殊な儀式でもって交渉することが結末を決めるのであって、現実世界で善行をするか悪行をするかが結末を決めることにならない。だから、縁起論だけが、道徳の根拠として可能なのだ。
 つまり、世界が実際にどういう法則で動いているかにかかかわりなく、世界を縁起説という認知枠でもって理解することが、われわれが道徳的に生きることが可能になる唯一の道であることになる。

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野田先生の質疑応答

Q672 骨髄移植と骨髄バンクについて教えてください。テレビで骨髄バンクのコマーシャルを見るたびに自分が呼びかけられているように感じるのですが、骨髄移植と臓器移植の区別があまりついていません。よろしくお願いします。

A672
 まあ骨髄でなくても輸血も臓器移植なんですよ。輸血をあまり臓器移植と思う人はいないけど、でも原理的には臓器移植なんです。それから角膜移植なんかも臓器移植なんです。僕、臓器移植、基本的に反対論者なんです。個人的見解としてね。それは医療に対する考え方なんですけど、医療というのは人間の自然治癒力というものをアテにしているんです。その自然治癒力が働くように手助けをするのが医療で、自然治癒力を超えたことなんてどうせできないんです、現代の医療でもね。自然治癒力との関係でいつも医療を考えるべきだと思うんです。例えば子宮筋腫で出血が多くなっている人の子宮を手術して取ると、そうすると治るんだけど、なぜ治るかというと、造血機能があって血液を増やすからです。収支のバランスがとれるから治るんで、子宮を取るというのは病巣摘出することよりもむしろ自然治癒力が快復するようにしているわけですから、この手術OKなんです。じゃあ子宮癌の末期で、転移あるのに取ったら治るかというと、治らないかもしれないんです。というのは、それは病巣を取ったけど、自然治癒力ということを考えてないと治らないんですよね。じゃあ臓器移植はどうかなと考えると、臓器移植というのは多くの場合、自然治癒力というものを手助けして最終的に自分の力で生きていけるようにというところへ持っていけない状態が多いと思う、今のところ。予後調査をしても、自然治癒力の快復までいかないということになると、もの凄い膨大なお金をかけて臓器移植をする価値があるのかしら?臓器移植というのは、多くとは言わないけど、ある場合には子どもが先天性の心臓病かなんかで、心臓移植をしたら助かるというので、親が8千万円とか1億とかの募金を募ってどうたらこうたらと、そこにまた募金詐欺があったりして心臓移植しなくていい人に心臓移植しないといけないと言ってお金を集めて、どっかへ消えるとかいうような事件がだいぶあるようなんですけど、そんだけやっても子どもの命は実はそんなに延びないと思うんです。手術の予後を見て。しかもそこにお金もかかるし手間もかかるし、いろんな人たちのエネルギーをつぎ込んでいるし、結局その子を生かしたいと思っているは親のエゴでしょ。親のエゴというものを生命尊重とか生きる権利だとかいう言葉で美化しているだけだと思うんですよ。僕はなんと「生きる権利否定者」ですから、そういう点で臓器移植にあまり賛成じゃないんです。でも、輸血に対してはそんなに拒否的じゃないんです。なぜなら、交通事故かなんかで大量出血したのを輸血して一時的に補うとか、手術中の体力出血を輸血して補うとかいうのは、これは自然治癒力を回復するために必要な措置じゃないですか。だからOKなんですけど、例えば、昭和天皇が亡くなられるときに自衛隊員なんか呼んで、もともとあった血の何百倍かの輸血をしました。あんなん凄いバカげていると思うの。自然治癒力が回復しないに決まっている患者さんに輸血してもしょうがないじゃないですか。だからそこらの医療が手を引くことを考えなきゃいけないけど、これは医者の側で考えられないんですよ。医者がここまでしかしませんとかこっから先は治療しませんと言うと、世の中が騒ぐんです。世の中の側で考えてもらわないといけない。そういう視野から骨髄移植を考えると、骨髄移植というのはある場合には自然治癒力を回復させる力があります。抗癌剤でもって今、白血病が治癒するところまで来ました、とうとう。抗癌剤が人間の生命を本質的に自然治癒力が働くところまで使える珍しい病気なんです。他の癌はみんな固形なので、固形のところまで届かなくてみんな困ったりするんですけど、白血病は細胞一個一個が癌で、それが血液中に浮かんでいるもんだから、全部攻撃してもいけるんだけど、全部攻撃しちゃうと同時に骨髄とかがやられちゃうのね。そこで自然治癒力を回復させるために骨髄移植をするということが可能なので、骨髄移植はそれほど反対じゃないんです。ただこれも例によって人間の欲望と関係があって、自然治癒力が期待できないケースにまでやってないことはないんです。ただ僕らはそこを監視できないんです、輸血とおんなじで。だから骨髄はあげてもいいなと思う人は、是非あげてください。白血病で助かる人たちが実際いますから。

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野田先生の補正項から

散髪嫌い
2001年06月08日(金)

 やたらに忙しくて散髪に行く暇がなかった。もっとも暇があっても、床屋はあまり好きでないので行かないのだが。なぜ好きでないかというと、少なくともふたつの理由がある。
 ひとつは身体を触られるのが嫌いだからだ。髪の毛だけでなくて、マッサージもそんなに好きじゃないし、洋服の寸法をとられるのさえ好きじゃない。くすぐったいとかそういう原始的な身体感覚のせいじゃなくて、受け身になるのが嫌いなんだと思う。自分がイニシアティブを持っていたいんだ、きっと。なんといったって、第一子だもんね。
 もうひとつの理由は、話しかけられるのがいやなんだ。若い理髪師さんがとくにいけない。「イチローよく打ちますね」だの「ゴルフしますか?」だの、こちらを喜ばせようという善意はわかるんだけれど、私に関心のないことばかり言う。あまり愛想なくするのも、まじめに働いている若者に悪いし、あいまいな返事をしてやりすごすのだが、かなり居心地が悪い。若い人とは関心のありかが違うんだ。いや、私が世間の標準からずれているだけかもしれない。
 さいわい、第二の問題のほうは、中年夫婦が二人で細々とやっている店をみつけて、幾分解決した。その店では、客のカルテを作っていて、趣味などを書いてあるので、「野田さん、どうですか、山に登ってますか?」で話は始まる。むこうはあまり関心がないかもしれないのだが、こちらは勝手に話をすればいいだけなので、そう苦しくはない。山だったら、一年中なんらかの形で関係しているので、話題には困らない。別に、床屋の親父さんに無理に聞かせたいこともないので、最小限の話しかしないのだが。
 しかし、第一の点は、その親父さんは仕事がとてもていねいなので、一向に解決しない。だから、どうにも我慢ができなくなるまで行かない。三ヶ月に一度くらいかなあ。お正月前に行って、それから一回しか行っていないように思う。
 そうしてすごしていると、数日前に辛抱ができなくなった。しかし、スケジュールが混んでいて、いつもの床屋に行く暇がない。ふと、通勤経路に「千円理髪」というのがあるのを思い出した。そこでそこへ行ってみたのだが、カットだけしかしてくれなくて、洗髪もないし顔剃りもないし整髪料もつけてくれない。十分足らずで終わってしまう。会話もほとんどない。ふたつの問題点が両方とも解決している。これからここにしようか、いつもの親父さんのところにしようか、ちょっと迷っている。いつもの床屋だと三千円で三ヶ月に一回、ここだと千円だから毎月きても同じ値段だしね。



札幌にて
2001年06月09日(土)

 仕事で札幌に来ている。たまたま「よさこいソーラン祭」というめずらしいものとぶつかった。仕事は午後からなので、午前中は大通り公園へ行って写真を撮った。この祭があることは知っていたので、思い切り入れ込んだカメラを持ってきた。180ミリF2.8のレンズをつけて、36枚撮りのリバーサルフィルム6本撮った。これは、私としては例外的な撮り方だ。いつもは風景写真なので、マニュアル一眼レフを三脚に乗せて、光を待ち続けて、ごくわずかの写真を撮る。3日山にいて、2本撮るかどうかだ。オートの一眼レフで乱写するなんて、何年に一度しかない。
 中学校のとき写真部だった。そのころ、「道」をテーマに写真を撮ろうと決めた。それ以来、40年間、道の写真を撮っている。私は、風景写真家でもないし、人物写真家でもなくて、道写真家だ。山の写真を撮るが、あれは実は山の道の写真だ。滝の写真も撮るが、あれは沢という道の写真だ。街の道も撮るし、村の道も撮る。水中写真も、海の道の写真だ。道の上でおこるできごとであれば、なんだって撮る。祭は道の上のできごとだ。だから、そういう風に撮る。市街戦があれば、きっと撮るだろう。幸か不幸か、市街戦に出くわしたことはないが。ともかく、道に対する特別な思い入れがある。詳しくは、もうひとつのホームページに書いたので、そちらを読んでいただきたい。
 だから、舞台で踊っているところは撮らない。道で踊っているところは撮るけれど、踊っていなくても、派手な衣装を着て、派手な化粧をして、ただ歩いているところも撮る。どちらかというと、そちらが多い。祭のとき、人々の表情はいい。人間は、被写体として、そんなに美しいものじゃないと、私は思っている。しかし、ある場合には、たとえようもなく美しい被写体になる。祭は、そういう場合のうちのひとつだ。とくに、男の子が美しい。女の子だって美しいけれど、男の子の美しさには及ばない。
 それにしても、この祭はいい。小学生もいるし、おばあちゃんもいる。若者もいるしおじさんもいる。みんなが、考えうるかぎりもっとも派手な衣装を着て、顔にあざとい化粧をして、鳴子を振って踊り狂う。華やいでいる。

  蒲公英(たんぽぽ)の穂綿舞ひちる北国のまつりのあさの風の華やぎ

  汗がとぶ狂へる人はひたむきに短き夏を踊り暮らして



高田屋嘉兵衛の顔
2001年06月10日(日)

 札幌から函館に来た。朝早くの飛行機で来て、仕事は昼からなので、午前中は函館山の麓の「元町」というあたりをうろうろした。ここは旧市街で、古い建物が残っているし、博物館もいくつかある。その中に『北方歴史資料館』というのがあって、主に『菜の花の沖』で有名な高田屋嘉兵衛に関係した資料を展示してある。
 そこに、日本の浮世絵師が描いた彼の肖像と、ロシアに抑留されているときロシア人の画家が描いた肖像画とがあって、まるで別人のように印象が違う。日本人が描いたのは、太り気味で愛想のよいおっとりした人物に見えるが、ロシア人が描いた方は、やせて精悍で神経質な人物に見える。ロシアに抑留されたのは若いころで、日本人が肖像を描いたのは晩年だとしても、いくらなんでもこんなに人相が変わることはない。
 「江戸時代の浮世絵師は、金持ちの肖像画を描くときは、いかにも金持ちらしくふくよかに描く傾向があったので、解剖学にもとづいて描く西洋の画家が描いたほうが信頼できる」と解説に書いてあった。彼の銅像を作るときは、そういう理由で、ロシア人が描いたほうの、やせて精悍な顔立ちのものにしたのだそうだ。
 鎌倉時代の「似せ絵」は、とても似ていたのだそうだ。道元の死後、彼の肖像に弟子の懐奘が「あたかもいますがごとく」に仕えたと、ものの本に書いてあるのだが、似ていなければ「いますがごとく」には仕えられないだろう。嘉兵衛の子孫はどう思ったのだろう。



幕末太陽傳
2001年06月11日(月)

 昨夜は函館に泊まった。夜中にBS2で川島雄三監督の『幕末太陽傳』という映画をしていた。大昔の白黒映画だ。なんとなく見てしまったのだが、とほうもなく面白かった。
 主演はフランキー堺で、わけのわからない町人をやっている。この男が品川の女郎屋「相模屋」(歴史小説を読んでいる人なら「土蔵相模」という方がわかりやすい)に上がり込んで、さんざん遊んだのに支払いをせずに「居残り」になる。その男があれやこれや面白いことをするのだが、とても一口では説明できない。南田洋子と左幸子が売れっ子女郎を演じていて、とんでもないつかみ合いの喧嘩をするかと思うと、石原裕次郎が高杉晋作をやっていて、これまた「居残り」なのだが、若くてかわいい。小沢昭一が、なんだかわけのわからない役で出てきて、なんともいえずおかしい。音楽は黛敏郎だったりする。
 ストーリーもおかしいが、ディテールがものすごく凝っている。たとえば、店の前の街道がよく映るのだが、早馬が走ったり、刑場へ引かれる罪人が通ったり、伊勢参りと思われる一行がいたり、とうとうバグパイプを鳴らして行進するイギリス兵の一隊まであらわれたりする。あるいは、女郎屋の朝から就寝までのさまざまの行事が写っていてめずらしい。就寝の合図の拍子木を鳴らすのだが、これが毎回違ったリズムで鳴らされるところなど、人を食っている。フランキー堺扮する主人公は結核病みで、妙な装置を組み立てて薬を調合するのだが、この装置が、なんとなくありそうでなさそうで、とても面白い。その他、あれやこれや、細部にこまごまと工夫が凝らされている。ほとんど病的だ。
 主人公が結核病みで、命がそう長くなさそうだということが、すべての話の伏線になっている気がする。これは、あの時代(1957年、昭和34年)の雰囲気なのだろう。そのころ、私はまだ9歳だったから、時代の空気を吸っていなかったので、想像にすぎないのだが。実存主義真っ盛りの時代だもんね。ラストシーンで主人公が、「まだ死なねえぞぉ」と叫んで走り去っていくところなども、そういう時代の雰囲気の中で理解しないといけないんだろうな。
 今夜も川島監督の作品があるのだそうだが、もう帰宅していて、自宅には衛星放送は入らない。残念。そのうち、ビデオでもみつけよう。

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