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言葉使い    野田俊作

三回忌
2002年11月28日(木)

 父の三回忌で親戚が集まった。早いもので、もう2年になるんだ。若いころには存在感のある親父だったが、晩年は好きなことをして仙人のように飄々として生きていたので、亡くなってもあまり喪失感がない。焚火の火がだんだん細くなって、いつしかフッと消えたようなものだ。
 いつも来る和尚が、葬式が入ったとかで、その息子の若和尚が来た。はりきっているのか、お説教をするという。いつもはそんなのはないぜ。参ったね。浄土宗なので、「南無阿弥陀仏」のお話で、「南無というのは『おまかせする』という意味で、仏様にすべておまかせして、現状に不満を言わないということです」と言う。おいおい、ゴータマちゃんの遺言は、「すべてのものは移りゆく。おこたらず努めよ」なんだぜ。現状に満足したんじゃ仏教徒じゃないと思う。法然上人がおっしゃる他力本願だって、現状に満足するってことではないと思うな。……とまあ思ったが、檀家が坊さんに反論するわけにもいかないので、「はあはあ」と聞いていた。
 法事が終わって食事をしながら、弟だの従妹だのの話題は、やれ心臓が悪いの、一過性脳虚血発作があって通院しているだのと、シケた話題ばかりだ。あんた方、私よりも若いんだぜ。むしろ母や叔母さんたちの方が元気だ。戦争中に子ども時代を送った人々は、粗食のおかげでかえって健康なのかもしれない。



高知の酒宴
2002年11月29日(金)

 夕方高知に着いて、さっそく酒宴だ。もっとも私はほとんど飲まない。まったく飲まないのも愛想がなさすぎるので、日本酒を杯に3杯だけいただいた。高知の人々は、もちろん、浴びるように飲む。人が酩酊してゆく過程をシラフで見ているのは、私にとってはおそらくはじめての体験で、とても興味深かった。
 いつもは、同じ調子で浴びるほど飲む。全国を旅して暮らしているが、二日酔いになるのは高知と沖縄くらいだ。飲む量の桁が違う。しかし、飲まないでもつきあえることがわかった。これは収穫かもしれない。
 高知の料理はおいしい。高知駅の近くの、たぶん廿代町だと思うが、浪漫亭という店で食事をした。ものすごい量のごちそうだったが、ほとんどすべていただいた。高知の人々と一緒に食べるので、いっそうおいしい気がする。私は高知人の気質がとても好きなんだ。嫌いな人は嫌いだと思うけれどね。



言葉使い
2002年11月30日(土)

 高知に来る途中で宮田光雄『ナチ・ドイツと言語』(岩波新書)を買った。ものすごく面白くて、一気に読んでしまった。以下のような章立てになっている。

独裁者の言語 ― ヒトラーの政治宗教
映像の言語 ― 党大会映画『意思の勝利』
教育の言語 ― ヒトラーの歴史教科書
地下の言語 ― ジョークの中のヒトラー
深層の言語 ― 悪夢の中の《第三帝国》
 私にとって興味深かったのは以下のような点だ。
 こうしたヒトラーの言語は、政治的現実をカモフラージュすることにも役立った。ナチ治下の残虐な政策や行き過ぎた暴力行為も、婉曲語法によって偽装される。たとえば「民族的体躯の健全化」という一見無害な言い回しの背後には、遺伝的疾患を持つ者の強制断種が隠されていた。オイタナジー(=安楽死)という外来語は、無力な精神障害者の殺害を偽るものであった。よく知られているように、《最終的解決》という用語によって数百万に及ぶユダヤ人の大量虐殺が意味されていた。(p.10)
 1985年にカナダのモントリオールで国際アドラー心理学会総会があって、そのときドイツの代議員がついうっかり final solution(最終的解決)という言葉を使った。アメリカのユダヤ系の代議員が青ざめて、次いで一斉に退席した。ドイツの会長が陳謝して、その騒ぎは収まった。今でもユダヤ人にとってその言葉はトラウマティックな作用を及ぼすのだ。
 こうしたナチ教科書の伝える傾向的な《ヒトラー像》の特徴をとり出してみよう。それはフィーリップ・ブーラーによる『ドイツの戦い―ドイツ青年のための読本』によくあらわれている。(中略)その一部を引いてみよう。

 「1918年11月9日から、ドイツにとって、もっともみじめな恥辱の時代が始まった。国家の裏切り者と脱走兵たちとの氾濫が政治生活の表面に残したのは、《価値なき輩》の支配だった。彼らは、すべての者を富ませると約束して、何百万の人々から日々のパンを奪った。彼らは、自由を口にしつつ国民を鉄鎖と奴隷の状態につないだ。……この抑圧と絶望と苦難の荒野の中で、一つの声が起こった。アードルフ・ヒトラーは、新しい世界観を告知した」。

 ここで用いられている情動的な文体は、誇張されたアンティテーゼ、最上級的概念、絵画的な言葉で彩られている。とくに聖書的イメージを呼び起こす「荒野の中の声」、「告知」(=宣教)という言葉は、語られていることへの信仰的献身を訴えかける。こうして若い聞き手ないし読者は、扇動の言葉に圧倒される。この本の最後の章は、「勝利の信念」と題されている。

 「暗黒と恐怖からのドイツ再生の物語の上には、光り輝く文字でアードルフ・ヒトラーという一つの名前が立っている。はじめに未知の無名の一人の人物が自分の使命を信じた。この信仰こそ彼のすべての行動の内的な原動力であった。彼がその内面に焼き尽くす炎を感じない時はなかった。その炎は、多くの日々や眠れない夜々を越え、多くの歳月を越え、数かぎりない抵抗や幻滅、挫折した希望を乗り越えて前進させた力だった」。(pp.105-106)

 毛沢東の時代の中国や、現代の北朝鮮には、こういう風な扇情的な文書がたくさんある。民衆は(特に子どもは)こういうような文章にだまされるのだ。日本でも、ある巨大宗教団体の文体は、こういう臭いがあるな。
 このような独裁者とその手先の言葉の使い方も勉強になったが、第3章にアードルフ・ライヒヴァインという教育者が、ヒトラー治下でも真に自由主義的な教育を実践したことが報告されていて、とても感動的だった。この人については、きちんと調べてみようと思う。しかし、ドイツ語で書いた文献しかないと困るな。せめて英語で書かれたものはないかな。
 余談だが、最近、ある人の言葉使いをめぐって、仲間内ですこし話題になっている。その人は、人間的にはいい人なのだが、言語感覚が悪いのか、アドラー心理学について語るときに、いささか不適切な用語法を使う。ひとつのことを言いあらわすのでも、さまざま表現法がある。ヒトラー一味はそのことにきわめて敏感で、邪悪な内容を崇高な用語法で飾って国民の指示を得た。逆に、いい内容のことでも、人々に悪印象を持たせるような言葉で語れば、支持を失ってしまう。そういう人に、どうすれば適切な言葉使いを教えることができるのか、その方法について苦労している。

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きょうだい喧嘩と“課題の分離”

Q
 子どもたちがきょうだい喧嘩をしているときほとんどタッチしていませんが、相手を罵ったりしたときに、「うちの子にそんなこと言わないで」と、楽しみながら口出しすることがあります。2人がイヤそうな様子にも見えないので言っていますが、続けてももいいのかなと思ったりします。

A
 この人が今までどれくらいアドラー心理学を学んだ人か、どれくらい実践できているかでもって、答えがかなり違うと思う。
 『パセージ』では、子どもを「勇気づけよう」と書いてある。勇気づけるには、「ありがとうとおっしゃい」と書いてある。「嬉しいと言ってください」と書いてある。「よくできたね、偉いね、頑張ったねと言うと、それは勇気くじきになりますよ」と書いてある。 お母さんたちはそれを学んで、そうか、今まで、「偉いね」「頑張ったね」と言ってきた。これからは、「ありがとう」「嬉しい」にしようと思う。そうすると、初めのうち子どもは、「うちの母ちゃん前よりようなった」と思う。そのうちネタがバレて、「ありがとう」「嬉しい」と言うのは、実はわれわれを操る言葉だというのがはっきりとバレてしまうことがある。それだと勇気づけにならない。
 その「ありがとう」「嬉しい」から、うまく勇気づける親になることもある。あれは川を渡る船みたいなものです。縦の関係、古い伝統的な育児からアドラー心理学的な、横の関係へ渡っていく1つの船です。その船で渡れる人もあるけど、船に乗ったけどやっぱりこっち側へ帰ってくる人もある。
 アドラー心理学が学んでもらおうとしているのは、決して口先の言い方に留まることではない。「お願い口調で言いなさい」と書いてある。目ざしたいのは“真心アドラー”です。「こっち来なさい」と言わないで、「ちょっとこっちへ来てもらえませんか」と言ったって、やっぱり支配かもしれない。やっぱり縦の関係かもしれない。ほんとに横の関係が成熟して親子間がいい友だちになると、そうすると「ちょっとこっちへおいでよ」と言ったってちっともイヤじゃないかもしれない「頑張ったね」と言ってもイヤじゃないかもしれない。この親は私を操作して自分の好みの大人にしようと思っているのではないということが、子どもにはっきりわかっていれば。
 子どもがきょうだいを喧嘩をしているときに、「うちの子にそんなこと言わないで」と口出しをするというのが縦関係なのか横関係なのか、子どもを結局どうしようとしているのか、そのへんがはっきりわからないと何にも言えない。あくまで言えることは、パセージや基礎講座で大量に学ぶテクニック、「お願い口調」がどうしたとか、「主張性」が良くて「攻撃性」は良くないとか、「勇気づけ」しないといけないというのは、全部「船」で、向こう岸へ渡るためのもので、乗ったからといって渡れるものとも限らない。船に乗ったけど、こっち岸につないだままの人もいる。向こう岸へ渡ったら捨ててもいいのに、この船のおかげで助かったからといって、ずっと担いで歩くこともない。本来の目標を見失わないように。
 アドラー心理学が作り上げようとしているのは、対等な協力的な人間関係です。親と子どもが完全に平等で対等であるような関係。親が子どもをそういう意味では一切支配しないような関係。仲間として協力していく関係。友だちである関係、頼りになる友だち、知識があって経験のある友だち、という立場に自分が入れること。恐い人じゃなくなること。相談に乗ってもらえる人にであること。これが目標です。
 この「きょうだい喧嘩の話」は、「課題の分離」ということと関係があるんです。「子どもたちの人生に立ち入らないでおきましょう」。「子どもたちには喧嘩する権利があるから喧嘩してもらいましょう」と思う。あるいは、「学校へ行かない権利があるから登校拒否してもらいましょう。いつまでも寝ている権利があるからいつまでも寝てもらいましょう」と言うと、それははっきり言えば放任育児ですよ。
 アドラー心理学はまず第1段階として放任育児を勧めている。なぜかと言うと、われわれの対象にしているお母さんは、ほとんど手のかけすぎだから。愛情が余りすぎて、手をかけすぎているお母さんだから、子どもはすっかり砂糖漬けになっているから、まずお砂糖を抜かないことには何もできないから、しばらく手をかけない課題の分離をやる。
 では課題の分離が完全にできたら、それがアドラー心理学育児か?違う。それでは育児不在だ。アドラー心理学の育児はどんな育児かというと、「共同の課題」の育児です。「家族をみんなで協力して作っていこうね」ということが、親にも子どもにもちゃんとわかること。この世の中で生きていくためには、人間は力を合わせないと生きていけないよということが、絶えず学べるようなこと。子どもが協力してくれたことにほんとの意味で感謝できること。子どもが自分のやったことの責任をちゃんと取ること。子どもが自由に選択できること。等々。
 アドラー心理学の新しい育児のイメージがある。課題の分離は、あくまでそこへ渡っていくための経過措置です。だから、課題の分離を目標にしないでほしい。課題の分離を通らないとアドラー育児へ行けない。あれもやっぱり船です。もっとも、課題の分離という船は捨てないでほしい。アドラー育児ができた。ではもう1回お節介に戻ろうというのはどうかと思う。
 子どもがきょうだい喧嘩をしているときに、課題の分離だけからは考えられない。ほんとは子どもたちに暴力を使わないで、感情を使わないで問題を解決するということを学んでもらわないといけないという課題がある。話し合いでいろんなことを解決するということを学べば、子どもたちは喧嘩しなくなる。
 子どもの年齢にもよる。小学校3,4年生くらいまでの子どもは喧嘩してもらっておくほうがいい。小さいときに喧嘩していない子は、喧嘩の仕方を十分学んでいないので人に怪我をさせるから。ある程度暴力の行使を小さいときに学んでもらっておいたほうが、ムチャクチャ危ないことをしないからそのほうがいい。それはそうなのだが、いつまでもそれではいけないので、言葉を使った問題解決を学んでもらう。
 それはどうすればいいか?両親が子どもとの関係の中で感情的にならないこと。子どもを強圧的に抑えないこと。いつも粘り強く粘り強く交渉することをモデルとして示すこと。“ひと言ピシャッと言ったらあと絶対聞く耳持たない親”でいる限り、子どもも暴力的です。いつまでもいつまでも繰り返し討論し煮詰めていくというようなモデルを示さないといけない。
 ということは、結局、親が変わらないといけない。親が変わるのは難しい。子どもたちはアドラー育児を受けうるが、親は古い育児で育ってしまった。骨がらみ古いスタイルの暮らし方を身につけてしまっているので、そこから抜け出すためにはだいぶトレーニングがいる。トレーニングしても最終的に抜け出せない。この世にいるうちにアドラー悟りが開けて、まったく努力しなくてもアドラーふうに生きるということはないので、いつも気をつけてチェックしないといけない。油断したらすぐ古いスタイルが出てしまう。私は人を支配していないか、感情(主にマイナス感情)でもって動いていないか。いろんなことを意識してチェックしていく。そうしていく中で、お父さんお母さんのやり方は素敵だなと思えば、取り入れて暴力的な喧嘩をしなくなるでしょう。(野田俊作)

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沖縄の位置    野田俊作

沖縄の位置
2002年11月22日(金)

 夕方の飛行機で沖縄に来た。さっそく沖縄の仲間たちと宴会をしたが、私はアルコールなしだ。ウーロン茶もカフェインが入っているので避けて、沖縄名物ウッチン茶をいただいた。ウッチンとは欝金(うこん)あるいはターメリックのことだ。沖縄の人はお酒を飲んだ後にこれを飲む。肝臓にいいのだそうだ。今日はお酒も飲まないでウッチン茶だけを飲む。さぞや肝臓がよくなることだろう。
 ウッチン茶の他にも沖縄にはめずらしい飲み物がたくさんある。サンピン茶というのは香片茶という字を中国語読みしたものだそうで、内地でいうジャスミン茶みたいなものだ。ジュース類もさまざまあって、シークワーサ(柑橘類の一種)ジュースとかグアバジュースだとか、はてはゴーヤ(苦瓜)ジュースなんてものまである。なんだか日本離れしている。ここは日本の最南端ではなく、東南アジアの最北端だと、沖縄の随筆家、宮里千里が書いているが、たしかにここはアジアに近い。
 9時には解放してもらってホテルに帰った。前回来たときはアメリカのアフガニスタン攻撃の前夜で、ホテルには怪しいアメリカ人がいっぱいいたが、今回も何人かのアメリカ人がいて、フロントの傍にあるインターネットのターミナルの前で議論している。イラクに対して早くも臨戦態勢ということだろうか。
 イラクが終わると、次は北朝鮮に攻め込むって言うんじゃないだろうね。関西空港で、辺真一『金正日延命工作全情報』(小学館文庫)を買って飛行機の中で読んでいたので、連想がそっちへ行ってしまった。北朝鮮と戦争するとなると、沖縄は大変なことになるよ。北朝鮮は沖縄にミサイルを撃ち込むかもしれない。そういう点でも、ここはアジアに近い。
 仮にアメリカが北朝鮮攻撃を決めたとして、今の日本人はどうするんだろう。拉致被害者たちのことでかなり北朝鮮に関する感情が悪くなっているから、大きな反対運動は起こらないかもしれない。なんだか先行きが不安だ。



現代風の演出
2002年11月23日(土)

 沖縄での仕事を終わって、夕方の飛行機で石垣島に来た。オペラのDVDを持ってきていて、ホテルでノートパソコンで見ている。昼間は仕事で夜は宴会というのが普通のスケジュールなのだが、お酒を飲まなくなったために、宴会が終わってホテルに入ってもシラフで困ってしまうので、DVDを持ってきた。ワーグナーの『ニュルンベルグのマイスタージンガー』(ベルリン・ドイツ・オペラ+ラファエル・クーベリック・デ・ブルゴス指揮)なのだが、舞台衣装が現代的だ。たとえば、靴屋の親方で名歌手のハンス・ザックスはメガネをかけていて、会議にはスーツ姿であらわれるし、普段は作業ズボンに革の前掛けをしていて、現代のドイツの靴屋さんと同じ感じだ。実際には15世紀だか16世紀だかの人だと思う。
 最近はこういう演出が流行っているようだ。私が見たものだけでもいくつもある。たとえば、リヨン歌劇場のオッフェンバック『天国と地獄』、同じリヨン歌劇場のドニゼッティ『愛の妙薬』など。こういう演出をするということは、演出家にそうとう自信があるからだと思う。しかし、大時代的な衣装よりも現代の衣装のほうが、われわれに訴えかける力がはるかに強い。地獄へ連れて行かれて退屈しているユリディス(エウリディーチェ)がテレビを見ながらリモコンで次々とチャンネルを変える、などというのはよく考えられている。
 もっとも、衣装や舞台装置に金をかけられないという財政事情があるのかもしれない。仮にそうだとしても、その結果、おもしろい演出が考え出されたのだから、「ひょうたんから駒」ということかな。



沖縄の人々
2002年11月24日(日)

 石垣島では、ライフスタイル(性格)を自己診断するワークショップをした。前に沖縄本島でしたことがあるのだが、「対人関係をより重視するか/課題達成をより重視するか」という軸で分けてみると、沖縄本島では対人関係重視型が圧倒的に多く、課題達成重視型はきわめて少なかった。対人関係重視型:課題達成重視型=5:1くらいかな。関西では2:1くらいだ。新潟県でおなじワークをしたら、3:2くらいで、関西人よりも課題達成重視型が多かった。さて、石垣島はどうだろう。やってみると、5:2くらいだ。あれ、これだけ人情の厚い世界なのにおかしいなと思って、課題達成型の構成人員を見ると、どうもナイチャー(内地出身者)が多いみたいだ。やっぱりね。
 沖縄は人情が厚い土地柄なので、人間関係を軽視して自分が課題を達成できるかどうかを主に考えるような子どもは、家庭や学校で矯正を受けて、いつしか対人関係重視型に変わってしまうのだと思う。まさか遺伝じゃないと思うんだが。
 ともあれ、誰かこれを論文にしないかな。全国を回って、同じワークをして、地域別の分布を調べると、面白い論文になるのではないかと思う。

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息子の友だちのお母さんをアドラーに…

Q 
 小学校4年生の男の子がいます。仲良しの男の子と塾へ行っていますが、2人とも気分的には勉強が嫌いで、いつでもやめたいと思っている。お友だちのお母さんが普通のお母さんで、アドラーママじゃないので…
Aそうか、アドラーは普通じゃないのか(笑)。
Q「勉強はちっともしないんだから、塾は絶対やめてはダメ」とその子が言われているので、うちの息子も彼につきあって毎週通っています。2人ともブツブツ言いながら通っています。その子の母親をアドラーに改造するのは良くないでしょうか。
A
 いいことなんですが改造されないでしょうね、きっと。日本中のお母さんをアドラーに改造したいものだと私は思っているんだけど、こっちは思っているけど向こうはそういう商品を買わないでしょう。
 押し売りすると結局ダメみたいです。私は押し売りしたことはない。学校の先生なんかが変にカウンセリングを勉強するんですよ。私は先生がカウンセリングを勉強するのを反対しようかと思っている。先生が、望んでもいないお母さんに学んだことを押しつけるでしょう。そうすると、お母さんはいっそう意固地になるか、先生に脅されてその方向で行ったら、かえって中途半端な育児になって具合が悪い。「アドラーを今学んでおかないと、息子さんは将来非行少年になるか精神病者になるでしょう」と、押し売りすれば売れるでしょうが、そいういう姿勢で学ばれても身につかないと思うし、身についても中途半端な変なところだけ身について、変な母親になるだろうと思う。
 子どもを殴る親がいます。その人が変に心理学を勉強すると、殴ろうと思ったとき心理学が止めるんです。「子どもを殴ってはいけない」。子どものほうは、「さあ殴られる」と思ったらお母さんは止まっている。すごく不気味です。「なんで止まってるんだろう」。その母親は、昔、子どもを殴った母親よりも子どもにとってはもっと扱いにくい。それだったら、いっそ気前よく殴ってくれるほうがいい(笑)。徹底してアドラーをやって子どもを罰するのを全部やめるのがベストです。その次にいいのは、子どもを殴っている母親。殴るのやら殴らんのやらわからん中途半端で止まっているとか、時には殴りときには殴らないとか、殴ろうとして止まって、怒りながら口先だけ「ごめんね」と言うとか、そういうややこしいコミュニケーションはやめてほしい。
 もしもどうしてもアドラーの宣伝をしたかったら、お宅の坊ちゃんとしっかりつきあうしか手がない。ブツブツ言いながらでも塾へ行っているとか、友だちが行っているなら僕も一緒に行ってあげるというのはいいことだと思う。
 アドラー心理学は、子どもを快適な環境で暮らさせようと(だけ)は思っていない。一生にはつらいことがいっぱいある。子どもたちを快適な環境で暮らさせたら、つらいことを乗り越える力がなくなる。塾がイヤで学校がイヤで先生が嫌いというのは、子どもを鍛えて強くするいいチャンスでしょう。この子どもはそれに耐えてくれているから、耐えてくれていることに対して勇気づけしたい。「嫌いなのに毎日よく行くね。感心しちゃう」と言ってあげたい。「あなたを見ていると頼もしいし、誇りに思う」と言ってあげたい。そうすると子どもは「そうか」と思って、もう少し気軽に塾へ行くでしょう。
 そうやって子どもとの関係がほんとの意味で良くなっていけば、そのお友だちのお母さんも聞きに来るかもしれない。「あんたとこうまいこと躾けているね。どうしているの?」。そしたら「実はね…」と教えてあげる。実績を見せないといけない。口先だけでアドラーを言ってても、まだ自分の息子とちゃんとアドラーでつきあってないと思う。
 『スポック博士の育児書』とか「親業」は、アドラー心理学と違って、子どもを楽にしてやろうと思っています。アドラー心理学ももちろん苦しめようと思っているわけではない。思わなくてもこの世にはつらいこと苦しいことがいっぱいある。昨日まで幸せに暮らしていたのに、突然地震や大雨が来てみんな潰れる世の中です。そのとき、人間のほうが潰れるか潰れないかは人間の強さによる。今までつらい目に全然遭ってこなかった人は潰れるでしょう。
 赤ちゃんをつらい目に遭わせないために保育器で育てるとします。快適な温度で、お腹がすいたらミルクが出てくる。おしめが濡れたらすぐロボットが取り替えてくれる。何にも苦労しないで20歳まで育てたら、植物人間です。何にもできない人になっている。
 赤ちゃんの状況は(実は)つらいんです。自分でおしめを替えられない。自分でお腹いっぱいにならない。何とか大きくなってお父さんやお母さんみたいに歩けて、自分でご飯を食べられて、自分でトイレへ行けるようになりたいものだと願う。つまり劣等感がある。その劣等感を克服する力で賢くなっていく。子どもを快適にすると、劣等感が小さくなって克服しなくていいから成長しない。
 今、塾へ行くのは大変だと思うけど、子どもが成長するチャンスで、たくさん勇気づけたい。お勉強も大事だけど、友だちと一緒にいる力はすごく大事です。友だちがつらいときに一緒につらい目に遭ってあげるのが本当の友だちでしょう。雨の日の友だちが本当の友だちね(浩→A friend in need is a friend indeed)。晴れていて天気のいいときは誰でも仲良く一緒にいられる。つらくなったときに一緒にいないと何にもならない。
 遠藤周作の『沈黙』という怖い小説があります。読まないほうがいいよ。夜、寝られなくなるから。キリシタン迫害の話です。キリシタンの男が出てくるが、この人は心が弱い人で、ポルトガル人の神父を何度も何度も裏切るんです。「俺だってキリシタンが認められて迫害されていないときだったらいい信者でいられて天国へ行けた。今みたいに迫害されているから裏切らないとしょうがない」。国が認めているときにキリスト教徒でいる人は、ほんとのキリスト教徒かどうかわからない。キリスト教徒でいるか死ぬかどっちか選ぶ。生き残りたかったらキリスト教をやめる、キリスト教をやるなら死ぬという状況でキリスト教徒なら本物です。
 友だちが苦しいときに、自分だけが逃げ出して楽しようというのは友だちじゃない。「あなたはすごくいい友だちだし、すごく尊敬できる」と言ってあげないといけない。
 子どもがどれだけちゃんと大人になれるかは、勇気づけの力による。勇気づけとほめるのと違うのは、子どもがつらがっているとき勇気づけできる。そのときこそ勇気づけしないといけない。子どもが喜んでいるときはしなくていい。もうそのことで勇気づけられているから。点数が悪かったとか、お勉強が嫌いなのにやっているとか、子どもの気分が悪いときは勇気づけする。これはまさに勇気づけする場面です。(野田俊作)

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漢文    野田俊作

漢文
2002年11月19日(火)

 松本史朗『禅思想の批判的研究』をすこしずつ読んでいるのだが、原典引用のやたら多い論文ばかり掲載されていて、なかなかはかどらない。漢訳経典の引用があって、対応するサンスクリットの原典が残っていればそれも引用され、チベット語訳しかなければそれが引用される。和訳がついていることもあるし、ついていないこともある。漢文も返り点は打っていない。不親切なことだが、素人向けの本じゃないので仕方がない。
 それらの引用文を読み較べていると、漢訳が圧倒的にわかりやすい。和訳はとてもゴタゴタして、一読しても意味が理解できないことが多い。サンスクリットは読むのに手間がかかるが、日本語よりはよほど論理的なので、構造がわかればよくわかる。チベット語はサンスクリットの逐語訳に近いので、サンスクリットと同じことだ。むしろ、サンスクリットよりも論理構造がわかりやすいこともある。日本語を含めて、これらは読解に頭を使うが、漢文は、頭からお経のように(お経だが)読むと、なんとなくわかってしまう。
 この「なんとなくわかってしまう」ところが問題なんだ。訓読すると、しだいにわからなくなって、それを現代日本語に直そうとすると、形容語がどの部分を修飾しているかとか、文と文の関係がどうなっているのかとかが、きわめてあいまいであることがわかる。中国語は語尾変化がないし、従属接続詞などもそう発達していないし、論理的な内容を表現するのに向いていない。そこで、サンスクリットやチベット語をもう一度読むと、「ああ、こういうことか」と納得できる。
 これは恐ろしいことで、日本人は1千年以上も漢訳経典だけで仏教を理解してきたわけだ。漢文はどのようにでも読めるので、たとえば親鸞などは、中国語として読めば決してそうは読めないような訓読をして、自分の理論を発展させている。中国人は母国語だからマシかというと、そうでもなくて、先日ちょっと触れた天台大師なども、中国語としても無理だし、ましてサンスクリット原典を読んでいればけっしてしなかったであろうような誤読をしている。「諸法実相」だの「十如是」だのといった天台宗・日蓮宗の重要な教義は、誤読の産物なのだ。
 しかし、いまさら浄土真宗だの日蓮宗だのの教義を変更するわけにもいかないだろう。仏教学者は寺院子弟が多いので、そのあたりの折り合いは大変だろうな。むかし仏教大学の通信教育を受けていたときも、左脳は南伝仏教やチベット仏教、右脳は法然上人ファンの専門家がたくさんいた。これからどうしていくのだろうね。まあ、私は仏教教団とはなにも関係がないので、かまわないのだが。しかし、サンスクリットやチベット語の原典で仏典を読んでいくと、既成教団からどんどん離れていってしまう。かといって、南伝仏教やチベット仏教に改宗する気にもなれないし。日本仏教には日本仏教の長い伝統と文化があって、それも嫌いではないもので。



漢文(2)
2002年11月20日(水)

 漢文は口調がいいので記憶しやすい。たとえば、五蘊(人間の5つの属性)として色・受・想・行・識を数えるが、「しき・じゅ・そう・ぎょう・しき」というのは、とても覚えやすい。ところが、サンスクリットで言うと、「ルーパ・ヴェーダナー・サンジュニャー・サンスカーラ・ヴィジュニャーナ」ということになって、おそろしく口調が悪い。これではなかなか暗記できない。
 しかも、漢文は、日本語みたいにテニオハのある言語から見ると、要点だけが列挙してあるみたいなものなので、たとえば般若心経の「無色無受想行識、無眼耳鼻舌身意、無色声香味蝕法、無眼界乃至無意識界、無無明亦無無明尽、乃至無老死亦無老死尽、無苦集滅道」あたりを暗記しておくと、仏教学概論の試験くらいなら通るかもしれない。
 さらに、仏教に関して言えば、法数(ほっすう)というものがあって、五蘊もそのひとつだが、三宝だの四諦だの五戒だの六波羅蜜だのと、基礎的な概念を箇条書きにして整理してある。上で出た「眼耳鼻舌身意」は六根だし「色声香味蝕法」は六界だ。こうして、徹底的に暗記用にできている。これはたぶん仏教だけじゃなくて、中国の学問がすべてこのようにして整理されていたのではないかと思う。だから現代でも「三つの代表」というような言い方が出てくるわけだ。
 いい点としては、とても整理されたシステムとして学問が頭に入るが、悪い点としては、「語録主義」というか「教条主義」というか、文脈を無視して言葉を使う癖がつくんじゃないか。日本でも、かつての文化人は漢文で考えていた。たぶん第2次大戦の前まではそうだったんじゃないか。その結果、今から見ると、えらく硬直した議論をすることがあったと思う。
 今、われわれは英語で考える。すべての文を英語で考えることはしないかもしれないけれど、たとえば「文明」っていうのはシヴィライゼーションで「文化」っていうのはカルチャーだ、くらいのことは、読書人であれば当然知っている。漢字で書いているけれど、実は頭の中は英語だ。そのことが日本人の考え方をどう変化させたのか。昔の人よりも記憶力が悪くなったのは確かだが、「語録主義」から抜け出していくらか柔軟になったかというと、そうでもないような気もする。語録主義は漢文とは関係がない、もっと人間の本性に近いものなのかな?

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