Q
スピリチュアルということについてもう少し説明してください。
A
あのー、商標ですからねえ、あれみたいなもんなんですよ、「オロナミンC」。商標ですから、説明してくださいと言われても困るんです。西洋人は、ジョルダーノ・ブルーノ(1548年~1600年:ドミニコ会の修道士。古代文献から学んだ地動説を説いたため、1600年にローマ教会によって異端として処刑された)が処刑されたときに、世界をスピリチュアルに捉えることをやめたんです。スピリチュアルという言葉をデカルトが代わりに「自我=エゴ」という言葉に置き換えたんです。スピリットについて話をするのをやめたんです。だいたいスピリットというのは、キリスト教の中でも怪しい、うさん臭い考え方なんです。「父と子と精霊…」の「父」はわかるんです。「子」も一応わかるんですが、スピリット= 精霊がもひとつよくわからないやつなんです。なんかね、サラミソーセージが死んでね、天国は行ったんですよ。天国の入り口にヨゼフね、キリストのパパがいて、「私は天国へ行っていいですか?」と言ったら「お前なんか知らんからわからん。マリアのところへ行って訊いて」と言った。マリアのところへサラミソーセージが行って、「私は天国へ入っていいですか」と言ったら……やめとこ、下品だから。とにかく、スピリットというのはあるときから西洋社会では取り扱いに困った概念なんです。近代科学ができて、そういう霊現象・超常現象、人々に霊が降りるとか、精霊に満たされちゃうとかいうことが起こるととても困ったんです。正統の教会はそういうのを凄くイヤがったんです。アメリカで看護師さんが、黒人だかブラックさんだかアフリカーノかなアフロアメリカンかなんか知らんけど、黒い看護師さんがわりと多いんです。「教会へ連れて行ってあげる」と言うから、ペッテコステという宗派の教会へ行きました。そこへ精霊が降りるんです。いわゆる「スピリチュアル」という歌をみんなでワーッと歌っているんです。日曜の礼拝が5時間くらいあるんです。3時間くらいで、精霊がガーッと降りてエクスタシーになって「ガオーッ」と叫んだり、メチャメチャ。これはローマ教皇がイヤがるわ。でも黒人たちのところへはまだ精霊は降りているんですけど、あれは一応裏社会になっちゃったんです。それでずっと400年くらいスピリチュアルという単語は、1つのタブーを表していたんです。それが今度復活してきたときに、最初に人々がこの言葉に込めたのは「世界が命に満ちている」ということ。ジョルダーノ・ブルーノが考えたこと。最初に何気なくブルーノを出しておきましたが、ブルーノという人が、「あなたはもはやおわかりでしょうが、すべてのものは宇宙の中に存在し、宇宙はすべてのものの中に存在するのです。われわれは宇宙の中に存在し宇宙はわれわれの中に存在するんです」と言いました。こういう世界と自分が一体化しているようなイメージを彼が持っていて、生命が世界に満ちあふれているようなイメージを持っていて、そこへ帰りたいんです。ブルーノがもしも火あぶりにならなくてカトリック教会がブルーノを火あぶりにしなくて、彼が迫害されなかったら、この400年はたぶん変わっていたと思う。ブルーノが火あぶりにされたために、ガリレイもデカルトもニュートンも凄い軌道修正して、スピリチュアルなことを一切言わないことにしましたから、ギューッと曲がっちゃった西洋の軌道をもう1回元に戻したんです。命に溢れた世界を思い出したいんです。
Q
デカルトの自我の考えからニーチェの自己、アドラーの個人の捉え方はメタ理論ということになるでしょうか?ということはそのまた上位のメタ理論があるということでしょうか?まったく余談ですが、ガイヤセッションという言葉を聞かれたことがありますか?
A
ノー!僕、「ガイヤ」という言葉がついた途端にアレルギー起こすから、ノー!あれはある人たちがある思いをこめてあのギリシャ語を掘り出したんですよ。あのギリシャ語自体に、ギリシャ語の時点である方向性がありますからイヤなんです。メタ理論というのが何のことかよーわかんないですけど、今ちょうどベイトソンの「メタ」についての研究を始めていて、ベイトソンは「メタ」というのを「メタリングゥイスティック」と「メタコムニカート」というふうに分けていて、あれは凄い素敵なアイディアだと思うんです。2つだけと違う、まだあると今思っている最中なので、もうちょっと賢くなってからまた答えることもあるでしょうから、保留。
Q
全体をシステムとすると、そこに意味があるかどうか考えると別に意味がなくてもよいように思いますが、そこから先は個人の選択ということですか?
A
全体をシステムとすると意味はあるよ。そんなもの、僕らが判断することじゃないもん。世界が存在するということには意味があるでしょう。だってそこに意味がないというふうになんでわれわれが決める権利があるの?僕らの赤血球が僕らに向かって「あんた生きてる意味ないで」と言うたって、「何言うてんねん、お前!」と、そういうことじゃないですか。僕らが全体の意味について判断する権限がないですよ。だから世界が生命を持って存在しているとすれば、われわれはくつろいでいいわけだ。世界には意味があるから。あとは僕らが世界の意味の中で自分の人生をまっとうできるかどうかなんです。肝細胞として生まれたものは肝細胞として生き、骨の細胞として生まれたものは骨の細胞として生きればいいわけで、「じゃあ私は何なのよ?」というのを世界の全体の流れの中で考えればいい。だから私は「自分は何なのね」と思いますので、子どもたちを今の社会に適応させる仕事はやらないことにしたんです。この間東京で、ついうっかりボケてたんですね、頭が痛かったのかな?風邪か?なんか他人のせいにしてるんですけど、夫婦和合の話をして、あとで凄い後悔したんです。帰りの新幹線の中で、「俺は間違ったことをした」と。壊れかけた夫婦なんか壊れりゃいいんだと思って。子どものために仲良くするという発想は腐っているぞと。無理に壊すほうに協力いたしませんが、そこのところに小細工するというのはどうも違うでと。デカルト・パラダイムやで、あれは。そう思いまして、その録音したMDは大阪へ持って帰ったんですが、ゴミ箱へ捨てたから回収されゴミ処理場できっと焼かれたでしょう。消去してその上から別のもの、「ベイトソン・ゼミナール」かなんか入れて資源リサイクルしようかと思ったけど、汚れているから汚れた上に乗せてはいかんと思いまして、燃やしました、はい。私は私の役割をしっかり勤めて生きていこうと思います。
Q
子どもたちはシステム論を理論から学ぶでしょうか?体験から学ぶでしょうか?
A
僕らは科学を理論から学びましたか?体験から学びましたか?もちろん両方で学びました。人間の学習は認知的な学習と、連合学習(=実際やってみる学習)と、モデル学習(=他人のやっているのを見たりしてやる学習)とぐらいからできていますから、PASSAGEに書いてあるでしょ。人間は学校へ行ったら先生のお話も聞きますし、教科書も読みますが、実際に「朝顔の成長を観察してください」と言われるわけで、そんなのを観察しもするでしょう。この次の時代には新しいカリキュラムをみんなが作っていって、その学び方を研究していくことになると思う。だって、今の学校教育だって300年とか400年かかってできた教育法なんですね。1つ1つみんなたくさんの教師たちが工夫してできあがっていって、それでデカルト・パラダイムを骨がらみで教えることにどうやら成功したようです。だからこの次もやっぱり時間がかかると思う。今僕たちは極端に忙しい世界に生きているんです。今何となく浅田次郎という小説家が私に「読め読め」と言うので読んでたんですけど、明治の初めにね幕府が崩壊して、お侍さんたちがどうやって生きていったかというのを書いた短編集があるんです。その中に、陸軍の軍人さんになって時計を持たされる侍の話があるんです。それで例えば「6時30分に来い」と言われても、彼らには全然ピンとこないんです。だって、昔は「いっとき」というのは、子(ね)の刻とか丑の刻とか暮れ六つというのは2時間単位なんです。「しばらく待ってください」と言われたら2時間くらい待てという意味なんです。例えば、「暮れ六つごろ会います」と言われたら、プラスマイナス1時間ぐらいの誤差があるんです。みな時計を持ってないから。それで何の問題もなく暮らしていたのが、軍隊ですから秒単位で全部決めなきゃいけないので、それで失敗する話があるんです。われわれは急ぎすぎていると思うんです。アイザック・ニュートンが『自然哲学の数学的原理・プリンキピア』という本を書いてからワットが蒸気機関を動かすまでに、120年ぐらいかかっているんです。ワットの蒸気機関からライト兄弟の飛行機が飛ぶまで200年近くとか150年ぐらいかかっているんです。とってもゆっくり発達していたの。この次もとってもゆっくり次の時代へ行くと思うんです。何もかもインスタントでできると、僕らは思い込んできたけど、「考え」はそんなに速く動かないわ。私は仏教学というものを勉強いたしまして、私のテーマは「空(くう)」という思想の変遷だったんですけど、最初に「空」を言った人がナーガールジュナという人で、だいたい2世紀ぐらいの人なんです。それにずーーーっとみんなが注釈を書き続けて、最後の注釈が1400年くらいにチベットのツォンカパという人が書いたのがたぶん決定版だと思う。1300年間くらい、師匠から弟子へ弟子から師匠へとずーーーっと討論を繰り返し注釈をつけていってやっと最後決着がつくというスケールでしか、人間は考えられない。インターネットがあろうが携帯電話があろうが、そのテンポでしか頭は動きません。だからそんなに慌てて新しい時代をイメージしなくても、みんなでのんびりゆっくりと相談していけばいいんじゃない?
Q
システム論からは倫理性かな、とバランスをとる…超越的存在は一切関係ないとなると、倫理的な領域はどうなるか?
A
倫理というものは、どのみち科学からは直接は滅多に出てこないと思うんです。科学というものの向こう側に世界があって、世界の中で僕らが生み出されて、生み出されていることをみんなが学校で学び、親から学び、お互いどうし確認したときに、僕は「ラウエの縞模様」と言うんです。パンティーストッキングを2枚履いたときにできる縞。あれは「存在」しないんです。でも存在するんです。あんなふうにみんなの頭の中にできてくるだろうと思う。今までは倫理的な根拠を作るためにだいたい三説ありました。一節は天国地獄説で、審判者がいて死んだあと天国か地獄へ送り届けられる説なんです。この説は今たぶん魅力を失っていると思います。私はあんまり恐がりませんもの。でも、『法然上人四十八巻伝』なんて読んでいますと、熊谷直実という人が平敦盛という少年の首を斬るんです。その罪深さにおののいて、自分は絶対地獄に落ちると思ってノイローゼになって、法然上人のところへ行って、「私はたくさんの殺生をいたしましたが、私のような者が地獄へ落ちなくてすむでしょうか?」と言ったら、法然上人が「それは阿弥陀様のご本願であるので、念仏なされば必ず極楽往生しましょう」とおっしゃった。彼は刀を抜いて「もしも地獄へ落ちると言われたらもうしょうがないからこの場で死のうと思った。極楽へ行くと言うならこの場で出家します」と、その場で髪を切って坊さんになりました。彼なんかが持っていた地獄への恐怖というのは無茶苦茶リアルだった。中世の人が持っていたようなリアルティを僕らは持てないから、天国地獄説は今や倫理の根拠になりえない。もう1つは身分制度と関係がある。例えば、「君子はなんとかせず」と書いてあります。「君子は厨房に入らず」とかいっぱい書いてある。あれは中国のある階級の人たち、士大夫と呼ばれる人たちがそうであることの誇りとして、ある暮らし方をしようとしたんです。武士道というのもそうで、自分たちが武士であることを強調するためにある倫理観を守ろうとして暮らしたんです。ニーチェなんかがそれを凄い持ち上げるんです。そういう誇りのある人の倫理観、わかるけど、それって万人向きじゃない。君子であろうとか武士であろうとか思わないとダメなんで、そう思わない人間もいっぱいいて、だいたい犯罪するような人間はそう思わないに決まっているから、孔子聖人の教えは倫理的な根拠としてはあんまり強くない。実際、孔子の国・中国は極端な刑罰主義でした。犯罪した人をもの凄い刑罰に遭わせるのね。それでもって倫理性を保っていたでしょう。孔子聖人はあんまり役に立たない。もう1つが輪廻転生説で、因果応報説で、因果応報説というのは輪廻転生説をふまえないと成り立たないんです。というのは、この世で悪いことをしていて最後まで栄えるヤツもいるし、この世で善いことをしてても全然報われない人もいるから、それだと計算が合わないじゃないですか。それで、永遠の世界の中での輪廻転生ということを考えてはじめて成立する説なんです。たぶんねえ、この次の時代に僕たちが採用できるのは輪廻転生説だと思うんです。というのは、システム的にものを考えると、私のこの体と私の心を持った私は意味がないんです。システムに意味があるから。意味がないけど私は存在するわけで、1つの縞模様として存在するわけで、それが今の時代にある役割をするわけです。やがて私が消えますと、死にますと、次の時代に私の役割をすべき人が必要じゃないですか。それを世界が生み出すでしょうよ。そうやって私は転生するんですよ。別の体で別の心で、同じ役割で。私が世界をある方向へ向けておくことが、次の生存がやりやすくなる。あるいは次の世界の生存がやりやすくなる。そんなふうにしてすべてがネットワーク、編み目の中で関係し合っているから、だから私が倫理的でなければならないという、これはたぶん成り立つ根拠なんです。そういう方向で行けるんじゃないかな。