因果性(2)
2001年04月01日(日)
科学が成功したのは、観察できる事象だけをとりあげて、その間の因果性を論じたからだ。とはいえ、事象1と事象2の間の因果連鎖に、観察できない「もの」が介在することを想定することはある。それを「仮説構成体」という。
仮説が立てられたときには観察できなかった仮説構成体が、やがて技術の進歩で観察できるようになった例もある。そうなると、もはや仮説構成体ではなくなって、実体になる。たとえば、メンデルが遺伝の法則を発見したとき、遺伝子そのものは観察できなかったので、仮説構成体だったが、やがて技術の進歩で観察できるようになったので、今では仮説構成体ではない。
こういうのはいいのだが、将来ともに観察できそうにない仮設構成体を許容してもいいものだろうか。精神についての科学(たとえば心理学)では、将来ともに観察できそうにない仮説構成体を乱用する傾向がある。これは危険だと思う。たとえば「自我」とか「自己」とかいうのは、観察できない仮説構成体だし、今後とも観察できそうにない。こういうものを許容すると、いつしかそれが実体であるかのように思い込まれて、本来の論理構造から離れたところで乱用される怖れがじゅうぶんにある。以前に触れたことがある「心的外傷(心の傷)」もそうだ。それそのものは決して観察できないので、実体ではない。こういうものは話題にしないで理論を組み立てたい。私が専門分野でしようとしていることはそれなのだ。
ここでは専門の話はしないことにしているので、以上は前フリだ。昨日、仏教の因果論について、それが科学と同じかどうかわからないという話をした。「善因楽果、悪因苦果」は科学的な認識ではなくて、信仰だと思う。これはいいのだが、十二支縁起の「無明あれば苦あり、無明なければ苦なし」と、四諦の「渇愛あれば苦あり、渇愛なければ苦なし」は、よくわからないと言った。
苦・楽は観察可能であるとして、無明と渇愛はどうか。無明というのは、「あること」についての無知のことであるとすれば、「そのこと」を知っているかどうかを確認することができるから、観察可能だ。一方、渇愛というのは原語は「渇き」ということで、水を求めるように「あること」を求めていることだが、その「あること」とは、古い注釈によれば、「生きること」や「死ぬこと」なのだそうだ。「生きることを求めていますか」と質問して「はい、求めています」というほうは信頼できそうだが、「いいえ、求めていません」というのは、信頼できるのだろうか。だって、求めていなくても、生きているわけでしょう。どうもデータの信憑性が薄いように思えて、観察可能ではないんじゃないかと思う。だから、十二支縁起のほうは科学に近くて、四諦のほうはあまり科学に近くないようだ。
しかし、十二支縁起のほうは、途中にわけのわからない仮設構成体がズラズラと挿入される。こういう点で、どうも科学とは言いがたい。きわめて思弁的なのだ。つまり、結論として、仏教の因果論と科学の因果論は、一見似ているようだが、実はまったく違うものなのだと思う。
このことは、仏教の価値を貶めるものではない。そもそも、科学が尊いとは、私は思っていないのだ。科学は、「観察可能な世界について予測し制御しようとするとき」便利な道具だ。仏教は、世界を制御しようとしているわけではない。そうではなくて、実存的な苦を逃れる方法を教えているものだ。
つまり、科学と仏教とは、違うゲームなのだ。サッカーとテニスが違うくらい違うかもしれない。事象の間の因果性を前提にするとか、事象間の因果性が言語的な論理に写像されていると仮定するとか、そういう点は似ているが、それはサッカーもテニスもボールを使うという程度の類似にすぎないのかもしれない。
ある種の仏教者は、仏教は、たとえばキリスト教に較べて、科学的だから優れているというような主張をするが、それは、箸を使う日本人は手で食べるインド人より優れているという主張と同じような、一種の差別的偏見だ。科学は、「観察可能な世界について予測し制御しようとするとき」便利な道具であって、宗教は、そういう対象のために存在するわけではないので、科学に似ているから優れた宗教だとはいえない。だいいち、仏教は、上に考察したように、科学とそれほど似ていないかもしれない。
時機相応
2001年03月26日(月)
正岡子規が「貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集にこれあり候」と書いていて、実際私も、古今集の歌の大部分はくだらないと思うのだが、平安時代にはそういう歌もくだらなくなかったわけだ。美意識というものも相対的で、今どきは「実感」というものを重んじるので、恋をしているわけでもないのに恋わずらいの歌をよむ古今集の歌人たちを下手な歌よみだとも思い、そういう歌をくだらないとも感じるが、古今集の時代の歌人は、恋をしてやっとそれを歌によめる現代の歌人を下手な歌よみだと思い、そういう歌をくだらないと思うだろう。
だから、モーツァルトが「面白い音」のために音楽を書こうが、ワーグナーが芝居の隈取に音楽を書こうが、価値相対論に立てば、必ずしもくだらないわけではないし、ある状況下ではそれなりの意味なり価値なりがあることになる。その意味なり価値なりは、その時代の文化全体の文脈の中で決まってくるわけで、個々の作品が独立に意味や価値を担っているわけではない。「個々の作品は単語で、文化全体が文だ」と思えばいい。
芸術だけではなくて、思想や宗教だってそうなので、例えば浄土教は鎌倉時代には意味があったが、現代の文化の文脈の中では意味を失っている。だって、地獄にも極楽にも阿弥陀仏にも、現代の民衆はリアリティを感じないのだもの。
立川武蔵氏は、著書『ブッダの哲学―現代思想としての仏教』(法蔵館)の中で、浄土教の宗教哲学的な意味を、中観(ちゅうがん)哲学の立場から掘り下げられて、なかなか深いなと感心するのだが、しかし鎌倉時代の浄土教に関して言えば、それは一文不知の民衆のための宗教であって、中観のようなエリートの宗教ではなかったのだ。自らの宿業(しゅくごう)の深さにおびえ、実感として地獄を怖れ、聖道門の修行についてゆけぬ自分に絶望したはてに、口称念仏を頼みにするしかない民衆が大勢いて、そこで法然や親鸞の教えが意味を持ったのだ。でも、今、そういう民衆はどこにもいない。それでも浄土教が今も存続しているのは、今でも百人一首で古今集の歌が聞こえてくるようなもので、そこに魂がこもっているわけではない。
イスラム教だって、あるいはそうなのかもしれない。マホメットが生きていた時代には意味があったさまざまの戒律や儀式が、現代では意味を失っているかもしれないのだ。しかし、それも存続している。そこに魂を込めようとするイスラム原理主義は、だからひどいアナクロニズム(時代錯誤)に陥ってしまう。弟子に古今風の歌を強制する短歌の師匠のようなものだ。
子規はムキになって古今集を攻撃し、ムキになって万葉集を擁護するが、芸術の話だから、いくら過激な言い方をしてもころし合いにまではならない。しかし、宗教ではそうはいかない。「親鸞は下手な宗祖にて真宗はくだらぬ宗派にこれあり候」というと、今でも怒る人は大勢いるだろうし、「マホメットは下手な教祖にてイスラム教はくだらぬ宗教にこれあり候」などと言うと、ころされるかもしれない。
しかし、短歌でも宗教でも同じなので、文化的な文脈全体の中で意味を帯びたり帯びなかったりするのだと考えて、永遠普遍の真理だなどと主張しないほうがいい。芸術も宗教も時機相応、すなわち、それが作られたときの時代の流れや民衆の求めに対応しているのだということだ。
因果性
2001年03月31日(土)
事象1 → 観察
↓ ↓
因果連鎖 論理操作←仮説
↓ ↓
事象2 → 予測
科学は、上図のような構造をしていると思っている。すなわち、ある事象を観察して、それにもとづいて論理的に考え、ある予測を立てる。そうしておいてから、その予測に相当する事象が実際に起こっているかどうかを観察する。繰り返し観察して、予測がかならず当たるとすると、その論理操作を支えていた仮説が検証されたと考える。
およそ論理操作というものは、かならず仮設にもとづいている。仮説は、「すべての事象1は事象2を引き起こす」という形をした全称命題で、実際におこった事象1と事象2とは、その全称命題の個別のケースへの適用だと考えられる。
話が抽象的なので、具体例をあげると、「すべての人は死ぬ」という仮説を立てて、個々の人を観察すると、人Aも死に、人Bも死に、人Cも死んだ。死ななかった人はひとりもいなかった。だから、「すべての人は死ぬ」という仮説は検証された。そうなると、人Nを観察すれば、「人Nはかならず死ぬであろう」と《科学的に》予測することができる。
このとき、事象1(人である)と事象2(死ぬ)との間には、因果連鎖があると考えられる。事象1が原因で事象2が結果だ。そうなると、仮説は、世界の因果関係の写像であることになる。このモデルは、まるで昔の行動主義者(S-R論者)のようにあらっぽいけれど、今の議論をするには充分だ。
さて、仏教も因果論だといわれている。仏教の因果論と科学の因果論は、同じものだろうか、違うものだろうか。仏教で因果応報といわれているのは、「善因楽果、悪因苦果」ということだ。すなわち、「私が善行をすると、かならず私は楽になるし、私が悪行をすると、私はかならず苦しくなる」ということだ。この仮説は検証できるだろうか。
できないのだ。悪いことをした人間がぬくぬくと幸福に暮らしているのも観察できるし、善いことばかりしている人が一向に報われないこともある。だから仏教徒は来生ということを考えて、「今生で報われなくても、かならず来生で報われるのだ」と主張するが、来生は観察不可能なので、この予測は科学的でない。
もっとも、「善因楽果、悪因苦果」というのは在家用の方便であるかもしれない。ゴータマ・ブッダは、出家と在家をはっきり区別して説法して、在家には「善い行いをすれば、来生は天に生じるであろう」と言ったのだが、出家には、もっと抽象的に、「これあればかれあり、これなければかれなし」と言った。彼がこれを言った文脈は、十二支縁起か四諦かどちらかで、もし十二支縁起だとすると、「無明あれば苦あり、無明なければ苦なし」だし、四諦だとすると、「渇愛あれば苦あり、渇愛なければ苦なし」である。
これが、科学的な意味での因果論なのかそうでないのかは、「無明」だとか「渇愛」だとか「苦」だとかを定義しないと、なんともいえない。いずれにしても、仏教には二種類の因果論が混在していて、「善因楽果、悪因苦果」と「これあればかれあり、これなければかれなし」とは、かなり性格の違ったものだということだ。
仏教と仏教学
2001年03月22日(木)
大学の通信過程で仏教学を勉強したことがある。仏教学というのは、仏教文献を対象にした文化科学だと思えばいい。文学作品を対象にした文化科学が文学で、歴史文献を対象にした文化科学が歴史学であるのと同じように、きわめてクールな学問だ。例えば、漢訳の『馬鳴菩薩伝』には異本があるがどれが古形かとかいうような文献学的な批判がまずある。『万葉集』の異本校訂とまったく同じ作業だ。次に確定した文献を使ってあるテーマの歴史的変遷をたどったりする。たとえば『高僧伝』という形式が原始仏教から大乗仏教までどのように変遷するか、というようなことだ。これは、『万葉集』に始まる勅撰和歌集の中で『挽歌』のあり方がどう変遷するか、というようなものだ。
要するに、信仰としての仏教とはまったく違うもので、ある人たちが「仏教学栄えて仏教滅ぶ」というのも、ある程度うなづける。なぜなら、態度が完全に客観的で、仏教の「外側から」仏教を分析しているからだ。仏教をまったく信じていなくても、仏教学のエキスパートになれる。日本の仏教学者の多くは僧侶だから、まったく信じていないわけではなかろうが。しかし、既成教団の弁護をする気はあまりなくて、例えば『法華経』の鳩摩羅什訳は誤訳が多いだの、『無量寿経』のある部分は中国で付加されたものでインドの原典にはないだの、既成教団の気に障ることを平気で言う。仏教学者の言うことをそのまま聞いていると、確かに既成教団は滅びるだろう。
既成教団が滅びるのはかまわないが、滅びたあとに、「正しい仏教」が仏教学のおかげで復興されるのだろうか。それは無理だと思う。仏教学者は、スポーツ生理学者のようなもので、理屈はこねるがオリンピックには出られない。だから、既成教団が滅びると、仏教は滅びる。仏教学が滅ぼさなくても、日本の仏教はもう滅んでいるようなものだが。
ひむがしの野にかぎろひの
2001年03月23日(金)
ヴィトゲンシュタイン風に言うと、真・善・美は「語りえない」領域のことがらで、それについて文献学などのような客観的な方法でアプローチしようというのは、そもそもナンセンスだということになる。まあ、厳密に言えばそうなのかもしれないが、客観的な文化科学というものがまったく役に立たないというわけではない。それはそれなりに必要だとは思う。しかし、確かに、それだけでは問題は解けない。
1つ例を挙げてみると、これは仏教学ではなくて古典文学だが、『万葉集』に柿本人麻呂の
ひむがしの野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ
という歌がある。ところが、佐竹昭広『古語雑談』によれば、「本当にこういう歌だったという保証はどこにもない」(p.187)のだそうだ。人麻呂の歌の万葉仮名表記はいつもきわめて簡略で、この歌は、
東野炎立所見而返見為者月西渡
と書いてある。上の読みは賀茂真淵のものだそうだが、それ以前には、
あづま野のけぶりの立てる所見てかへり見すれば月傾きぬ
と読まれていたのだそうだ。佐竹氏は、「真淵の読みがあまりにも美しいために、疑問を残しながらも下手に手が出せないというのが正直なところである」と書いている。確かに、「あづま野の…」では、さえないことおびただしい。
真淵の解読は、文献研究と美意識が出会ったところに生まれたのだと思う。宗教についても同様で、文献研究は、宗教的直感と出会わないとただの形而上学(=むだばなし)になってしまう。昨日、仏教学の悪口を書いたが、文献いじりに堕している論文があまりにも多すぎるのだ。もちろん、中には、少数ではあっても、学問と直感とが調和した素晴らしい研究もあるが。
願はくは花のしたにて春しなむ
2001年03月24日(土)
白木蓮の花が咲いている。私はこの花が好きだ。
わづかに黄味を帯びたるもくれんの花蒼き空に飛び立たむとす
冬は2つの理由でつらい。1つは、渓流釣りができない。渓流釣りは3月に解禁になって10月に禁猟になる。その間、沢へ行けない。仕方がないので、山登りをするか海釣りをするかしているが、どちらも夢中になれない。
もう1つの理由は、風景写真だ。冬の間は写真を撮ろうという意欲がまったく湧かない。光がない。写真とは光で、光がなければどうしようもない。
白木蓮が咲くと春だ。渓流釣りも始まるし、風景写真も始まる。9月の終わりまで、生き生きと生きることができる。
西行法師は、桜の咲くころにしにたいという歌を読んで、実際に桜の下でしんだそうだが、私は白木蓮の咲く春の初めにしにたいと思う。あの花の色は、しぬのによい色だ。
みねのかすみふもとの草のうすみどり野山をかけて春めきにけり
これは南北朝時代の永福門院の歌だが、そういう季節になった。しみじみと嬉しい。
ヒューマニズムの適用範囲
2001年03月11日(日)
ヒューマニズム(人間中心主義)がルネサンス以後に果たした積極的な役割を、私は高く評価しているし、否定する気は毛頭ない。例えば、国家や法や制度や貨幣や会社や学校は人間の作ったものだから、人間がそれらを使うのであって、それらが人間を使ってはいけないと思う。これは、繰り返し思い出さないといけないことだ。
しかし、どのような思想にも、必ず適用範囲がある。ヒューマニズムも、どんな場合にも通用する普遍的な真理ではない。例えば、臓器移植や生殖医療や遺伝子治療などを正当化しているのは、ヒューマニズムだ。しかし、これは、ヒューマニズムの適用範囲の不当拡張だと思う。ヒューマニズムは、「《人間が作ったもの》が人間を使ってはいけないのであって、人間がそれを使うのだ」という思想であって、人間が作ったものではないもの、すなわち自然については、「自然が人間を使ってはいけないのであって、人間が自然を使うのだ」とは主張していないのだ。現代医療は、自然の領域を人間が支配しようとしている。ちょうど、合成化学が、一方では人間のために役に立ったが、一方では自然を破壊し、結局人間を破壊する方向に走るかもしれないのと同様に、現代医療も、長期的に見れば、自然のバランスを破壊し、最終的には人間の首を絞めるしめるかもしれない。
もっとも、「最終的に人間の首を絞める」という考え方がそもそもヒューマニズム的だ。たとえ人間の首を絞めなくても、自然のバランスを崩すのは良くないと、私は思う。人間は自然の一部であって、自然には従わなければならない。エコロジーとヒューマニズムとは、ある部分対立する思想なのだ。
形而上学嫌い
2001年03月18日(日)
私は、「人間は誠実でなければならない」と思っているようだ。あるとき、「なぜ誠実でなければならないのですか?」と質問されたことがあって、絶句してしまった。人が誠実でなければならないのは、私にとって自明なことだったから。今でも、なぜ人は誠実でなければならないのか、その道理を説明する方法を私は知らない。ただ、やみくもにそう信じているだけなのだ。誠実さ以外にも、やみくもに信じている道徳観念がたくさんありそうに思う。
フロイトなら、私がどうして誠実さにこだわるのかを、精神分析してくれるかもしれない。しかし、誠実さというのは価値観で、価値観は科学が説明しなくていいことだと思う。フロイトの分析結果は、理屈は通っているかもしれないが、私にとっても他の人にとっても何も役に立たない、奇妙な説明になるだろう。
価値観は、音楽にたとえると、調性感覚みたいなものだ。それはそのようにあるものとして、では音楽をどう組み立てればいいかを考えればいいのであって、調性感覚そのものを触ろうとすると、作曲理論の適用範囲を超えてしまって、理屈は通っているのだが聴くとおかしな音楽を作ることになってしまう。シェーンベルクが十二音技法について説明するのを読むと、とても説得力があるのだが、ではできた音楽に説得力があるかというと、それはないのだ。
心理学は、心理学に固有の領域のことしか説明できない。心理学の領域とは何かというと、今の心理学者(ただし一部の臨床心理学者を除く)は、「行動」だと言うと思う。「誠実さ」というような道徳観念は心理学が説明する領域の外にある。なぜなら、それそのものは観察できないから。科学である心理学は、観察できるものを対象にして話をしないといけない。観察できるものだけが「語りうるもの」なのだ。ヴィトゲンシュタインが言ったように、「語りうるもの」を明晰に語るためには、「語りえないもの」が何であるかをはっきり知って、それについては沈黙することだ。観察できないものは、科学にとっては「語りえないもの」なのだ。
フロイトもシェーンベルクも、形而上学に手を出しているのだと思う。知的な人間にとって、形而上学はたまらない誘惑だ。モヤモヤとして説明のつかないもの、直接に観察できないで、ただ「きざし」だけを観察できる世界に投げかけてくるもの、しかも人生や世界の本質に関わりがありそうなものに、筋の通った説明をつけることができたとき、便秘が解消したように人は喜ぶのだ。たとえば、フロイトが扱おうとしていた無意識なるものは、存在することは確かかもしれないが、直接に観察できないもので、ただ「きざし」を観察できる行動に投げかけてくるだけものだから、形而上学の対象であって科学の対象ではない。
形而上学の説明は、時として説得力に溢れている。しかし、その論証は、結局はそうであるともそうでないとも証明ができない思弁的なものだ。筋は通っているかもしれないが、しかし意味がない。なぜなら、記号が、指し示すものなしに使われているから。記号がただ面白く組み合わされているだけであって、何も意味していないのだ。
いまだに臨床心理学者の多くは形而上学の世界で遊んでいる。いいかげん、「語りえないもの」については沈黙することを学んだほうがいいと思う。
今日「も」こちらでご覧ください。↓
http://www2.oninet.ne.jp/kaidaiji/dai1keiji-05-30.html