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金八先生の武田鉄也さん

1979年に、「3年B組金八先生」に、始まり、2011年の金八先生が退職するまでのシリーズは、国会議員に転進した元歌手の三原じゅんこさんや中学生妊婦の役だった杉田かおるさんとか元生徒さんが、多く出演しました。

また、当時まり子さんと同じ事務所の直江喜一さんは、俳優部門として、このドラマでデビューしました。直江さんは、一時俳優業を辞めたけれど、また復帰しました。

3年B組というドラマは、中学校における様々な問題を取り上げたものだけれども、生徒役の若い俳優さんにとって、金八の武田鉄也さんは、先生で、収録現場は教室かつ学び屋でした。

武田さんは、もともと海援隊というフォークグループから始まり、「送る言葉」が、ヒットして先生役があたり役だったけれど、先生役を退職してからは、朝ドラで福沢諭吉さんをやり、次は水戸黄門になり、年相応の役で今も活躍中です。

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金八先生の時は、最初は、佐々木君で次は加藤優君という問題のある生徒役で出演していました。

最後の金八先生のファイナルの退職の時も出演し、先生あの時は問題児だったけれど、今は立派な大人になったんだよという感じでした。直江さんは、一旦芸能界を離れた時、建築会社に就職して、その後、建築関係の資格を取って建築の営業の仕事をしています。

直江さんがまた、テレビに出るきっかけになったのは、女医兼タレントの西川史子さんの誘いがあったからです。今では建築会社の営業の傍ら時々、芸能活動をしています。

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当時、金八先生の教え子役の現役俳優さんと元俳優さん達が、武田鉄也さんのために、3年B組の同窓会を兼ねた誕生会をし、直江喜一さんやつちやかおりさんも出席しました。

その時、2016年の2月になくなった元プロデューサーの柳井満の写真が会場にあり、改めて金八先生とその生徒、裏方さんの絆を感じました。

柳井さんは、金八先生の生徒役のオーディションに関わっていた人であり、生徒役をしていた俳優さんは、ドラマを通じて人間として役者として多くのことを学んだことを今でも忘れていない、ドラマのクラスメートとの絆もありました。

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まり子さんのファンクラブ会報は、81年の秋ころから所属事務所タレントの統合版となりましたが、直江喜一さんも「悲しきティーン・エイジャー」でレコードデビューやファンの集いなどの記事があるようです。

金八先生は、自分が学園ドラマ視聴から離れていたので、ほんの少ししか見ていませんが、自分の見ていた時代の学園物がスポーツのサークルが中心に描かれ、毎回何らかのトラブルとドタバタに終始するような内容が大半だったので、それと比べるとシリアスな描写が多い感じがしました。もちろん、描かれる対象が中学生と高校生という違いもありますが、何だか今まで自分が見ていたものはファンタジーだったのかとも思いました。

まり子さんの出演していた学園ドラマ「気になる天使たち」とも、同時期の放送なのですね。

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(No subject)

おはようございます 僕は今 オーストラリアのアデレードというところにいます 海外からの投稿は初めてです しかも海中15メートルのところにいます 地球温暖化によるサンゴの減少について 調べている人に 無理やり連れてこられました たぶん誘拐だと思います 間違いないです 三日間ずっと小型潜水艇の中に フィレオフィッシの匂いが立ち込めています 日本に帰ったら 真っ先にエステーの ムシューダを購入します そのあしで職場の ビブリア古書堂に もどります そこで全てをお話しします ブヒ吉より

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アデレードの気候というサイト見てました。向こうは今、秋なんですね。
http://www.australia.com/ja-jp/facts/weather/adelaide-weather.html

みなさんは、GWいかがお過ごしですか?関東地方も、明日は夏日くらいに気温が上がるようです。

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後から知った人です

まり子さんをリアルに応援した世代ではありません。ただ、テレビや動画サイトで、若い時の美しい歌声と容姿に興味を持ち、後で、知った人です。

20世紀には様々な出来事があり、70年代と80年代の文化に興味を持っていたので、往年の出来事について投稿しています。60年代も含めて(年齢や性別は内緒です。)

管理人に、迷惑をかけないように、事件やトラウマになるようなことは、取り上げないよう気をつけています。

また、誰かさんが興味のある動画をだしたら、投稿します。

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こんばんは。当サイトを始めたときは、まり子さんについての動画もまだまだネット上には少なくて、ファンの皆さんも探すのに苦労されていたようです。

あれから14年経ちますが、その後BSやCS放送で過去のTV番組の放映が充実したことや、パソコンの普及率が高くなって誰でも手軽に動画を上げることができ、いまではたいへんな数が上がっていますね。

そういうことで、リアルタイムは知らないけれど、さくさんのように「まり子さんを発見」して、興味を持たれる方が少なからずいます。そこから、現在のまり子さんのお仕事などにまで興味関心が繋がるということですね。まり子さんも、ご自分の芸能活動時代を評価してくれる声があることは、喜ばれているはずです。

掲示板のことでは、話題がいろいろ広がることは楽しいですが、投稿数が多いと他の方が困惑されることもあると思いますので、その点はご配慮願います。

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(No subject)

おがさんは 勇気ある人です
僕があの日断定した理由を伝えます
僕は おがさんを 今から2ヶ月ぐらい前 江戸時代の歴史を
語った時 おがさんは 僕より上の世代だと 漠然と思いました
そして あの書き込んだ日 この掲示板を見てたとき
一週間まえのセミナーで 真理子先生の 言ったことを想いだしました
 以下次号 とても疲れました ブヒ吉より 以下次号

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親と言うと、子どもにいろいろと細かく言う人もいれば、放任主義の人もいます。自分の高校時代の友人は、親が放任主義だったので自由にしていたようですが、反面独立心も大変強かったです。私は、その逆ですけどね。

坪田先生も家族の話題を折に触れて、ご自分の公式サイトメッセージに書かれたり、セミナーのときに話されますね。そんな話を聞いたとき、自分の家族に対する接し方とかを考えるわけです。

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(No subject)

おがさんは 真理子先生の お父さんだと思います 細かくて うっとうしい ことばで 真理子先生を 刺激しているのだと思います ブヒ吉より たぶん間違いないと思います 名乗り出てください

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果たしてどんな人なのか、自分も気になります。というか、ファンになった動機とかも聞きたいところです。

当サイトも再来月で14年ですが、「倉田まり子」というひとつのテーマで、掲示板も同じ年だけ続けています。テーマはひとつですが、みなさんの書き込みを読ませていただくと、ものごとにはいろいろな広がりがあるということ実感しています。

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こんばんは。ご本人から、書き込みがありましたね。

私たちファンの世代は、だいたい40歳代後半以降が多いので、親も70歳80歳代となります。この世代では、私たちに比べIT機器(パソコン、携帯電話、スマホ)の使いこなしができる人がぐっと下がります。自分の父親も80歳代後半ですが、携帯の会話がやっとです。

高齢社会になってゆくことを日々感じています。皆さんも実感されているのではないでしょうか。

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ペギー葉山さんの逝去

60年代に少年少女時代を過ごした人の親世代が良く知っている歌手のペギー葉山さんがが、肺炎のために逝去しました。

「学生時代」とかサウンドオブミュージックの「ドレミの歌」で親しまれていました。1974年(昭和49年)から1975年(昭和50年)のNHKの「うたはともだち」とか「ひらけ!ポンキッキ」の躾のコーナーとかお子様向けの番組にも出演していました。

他に、「ウルトラマンタロウ」の主人公の母親役としても出演していました。

今年に入ってから、訃報を聞くたびに、昭和の顔が一人また一人といなくなり、昭和の歴史の一つが終わりを告げました。

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このベテラン歌手は、まり子さん達からするとこの人の親世代のような歌手です。亡くなる前の2月に、キングの歌謡歌手の音楽パレードというイベントに参加して、あの時は元気な姿を見せていたと、仲間の歌手は言っていました。

日本歌手協会役員になって、プロ歌手の権利の保護や地位の向上に貢献しました。それと、元夫の故・根上淳の介護の苦労を基にした講演活動をしたことでも有名でした。

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歌手の方や俳優の方など、訃報が続きますね。

私がペギーさんで印象深かったのは、「ウルトラマンタロウ」でのウルトラの母の化身(同時に主人公の東光太郎の母のイメージ)でした。ペギーさんの夫である俳優の根上淳さんは、「帰ってきたウルトラマン」のMATチーム2代目隊長役で有名でした。さらに「タロウ」の主題歌を歌った武村太郎さんは、まり子さんが後に入る芸能事務所に当時所属していたそうです。

最近発売されたいくつかの週刊誌のペギー葉山さんの記事を読みましたが、ペギーという名は進駐軍での仕事をする際に外人に通りの良いニックネーム的な芸名が必要だったからだそうです。

そんな洋楽にたいへん親しんだ経歴が、後々日本の人々に分かりやすい日本語で洋楽を歌うという形で、音楽活動をされました。レッツゴーヤングのまり子さんが在籍した時代の前後は、同じように外国の曲を分かりやすく取り入れる番組内容でした。ペギーさんのような先駆者の方々がいたからこそ、繋がって行ったのではないでしょうか。

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グリコポッキーのポスターの共演

あるオークションで、出品されていたポッキーのポスターに、ピンク色のワンピースを着ていたまり子さんと松田(旧姓・熊谷)美由紀さんの仲良しポスターがありました。当時の松田美由紀さんは、まだ18歳で、青のストライプのブラウスと黄色の上下を着ていました。

松田優作さんの代表作の「探偵物語」で、優作さんの工藤俊作とゲスト出演をしたのをきっかけに1983年の昭和58年に結婚、この時まだ22歳で、長男の龍平さんを同年に出産し、1985年の昭和60年には、次男の翔太さんを出産しました。

この間、美由紀さんは3人目の娘を含めて育児に専念していましたが、夫の優作さんが、1989年の平成元年の11月16日に癌で亡くなしました。

この時、美由紀さんは、自分が子供のを養っていかなければという責任感と夫の遺志を引き継ぐために、女優業を続けていき、優作さんの没後10周年に、「オフィス作」という事務所を設立して、女優兼社長をし、俳優活動をしている子供達だけでなく、他の人のマネージメントもするようになりました。

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ポッキーのポスターは、ときどき出品されてますね。当サイトの「企業広告」にて、ロケ風景などのポッキーのPR資料があります。
http://marikostroom.o.oo7.jp/page014.html

HOW!ワンダフルのヒットは、このCMとのタイアップがあったのは疑いの余地は無いですね。ポッキーのCM自体が、アイドル登竜門的な時代が確かにありました。

8年前に山中湖に行った帰りに入った地元料理のお店で、松田美由紀さんのサインが飾ってありました。TVの旅行グルメ関係のロケをされたのかもしれません。夫の松田優作さんというと、とにかく目立つその体躯と存在感が強烈でした。まだ存命だったら、現在どのような俳優人生を送ってるか考えてしまいます。

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プリンプリン物語の映像発見

1979年4月2日から1982年の3月19日に、NHKで放送されていた人形劇で、最初のころは、ビデオテープの事情で、第1話と1981年から1982年分しか残っていませんでした。

それが、最近になって、かつての人形操作のスタッフや元プロデュサーが撮りだめしていたビデオテープが見つかったことで、未保存分がようやく日の目をみることができました。

主人公の女の子のプリンプリンを石川ひとみさんがやっていたわけなんですが、「まちぶせ」でヒットするまで、夢のあるキャラクターの声と劇中歌で、穴埋めしていた気がします。

実はこの物語は、まり子さんのデビュー年と偶然重なっているだけでなく、NHKで制作された最後の平日放送の人形劇でした。

人形劇は、声優さんと人形操作の人の息が合っていないとなかなかできないものです。友永詔三さんのデザインした人形達は、プリンプリンの可愛らしさはもちろんのこと、個性あるキャラクターも印象に残りました。

人形劇というと、文楽とか人形浄瑠璃が、原点で、NHKではプリンプリン以前は、「八犬伝」の伝記や「三国志」の中国物がありましたが、ビデオテープの使いまわしの事情で作品の大半が残存していないのが現状です。

それでも、こうした人形劇も番組当時のスタッフが録画していた貴重なビデオテープの発掘で見つかっており、これからも、NHKのアーカイブスが、一般からのビデオ資料の提供を呼びかけています。

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60年代に、子供時代を過ごした人達には、「ひょっこりひょうたん島」を見た人は結構多いと思います。プリンプリンとのコラボは、オサラムームー島へ向かうプリンプリンの一行がガバチョ様に会うシーンがありました。

これは、25回目の放送分で、当初は未保存でしたが、人形操作担当者の取りためテープの中から見つかりました。

ひょうたん島にしても、プリンプリンにしても、人形制作や人形操作、音楽や台本制作、声優陣、人形劇にはそれぞれの職人の技がありました。

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石川ひとみさんはプリンプリン物語で、まり子さんはレッツゴーヤングと、NHKで別々のお仕事で活躍されていました。おふたりはレッツヤンで何度か共演されて、後にひとみさんはレギュラー司会者にもなりましたね。

VTRを番組関係者が録画されていたという朗報がありましたが、レッッヤンでもそういうことがあればと期待しています。ただ、歌番組は回ごとの出演歌手の許諾という壁があるので、公開への道のりはドラマ関係よりかなり難しいと思われます。

NHKの人形劇というと、自分は「ひょうたん島」や「ネコジャラ市の11人」は多少見ていたのですが、それ以降は卒業してしまいました。中学生になると、帰宅時間が遅くなることもあり、帯番組の視聴が難しくなったのが理由です。

プリンプリン物語もここ何年かいくつかのエピソードを見たことがありますが、けっこう社会風刺ネタをところどころに織り込んでいたり、大人でないと分からない演出があり、作り手の「こども番組で終わらせないぞ」的な意気込みを感じ興味深いです。

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体育のコント

小林幸子さんが体育の先生で、河合奈保子さん、石川ひとみさん、まり子さんと新沼謙治さんが、生徒というコントがありました。特に、新沼さんは、三つ編みの女学生の鬘と大き目のセーラー服で、他の人たちは、体育着とは違う格好をしていました。

特に、笑わせどころは、新沼さんが何かと口実を付けて体育の授業を休もうとしたら、幸子さんが、それでもやりなさいと無理強いするシーンでした。

マット運動の実技や簡単な組体操の演技、他の人たちの足をつい引っ張ってしまう新沼さんが鬘を落としたり、幸子さんから注意を何度も受けてしまうコントは、実力派の演歌歌手とは違う一面を見ることができる楽しいものでした。

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ユーチューブに上がってますね。ひとみさんが司会をしていた、ドレミファドンのコントだと思われます。ヤンヤン歌うスタジオとか、ドリフターズの番組みたいなコントシーンがあるのが、この時代は定番でしたね。運動能力を試される内容もあり、みなさんたいへんだったと思います。

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24時間テレビ

第4回の1981年の昭和56年に、まり子さんが、桜田淳子さんと一緒に、ピンクレディーの「2001年の愛の詩」を歌唱していました。

この24時間テレビは、「愛は地球を救う」をキャッチフレーズに、全国から寄せられた善意で、福祉車両や福祉用品の贈呈、災害復興や環境保全の活動を行っており、今ではチャリティー委員会が公益財団法人をして認められています。

今の番組は、ジャニーズタレント中心で、難病や障がいを持つ人を題材にした「24時間ドラマ」でも、活躍しています。

それと、障がいを持つ人や難病との闘病生活を送る患者と家族のドキュメントが、多く取り上げられるようになりました。

また、第15回の1992年の平成4年から始まった24時間のチャリティーマラソンでは、番組開始とともに、スタートして足の痛みをこらえながら番組終了までに、メイン会場にゴールするタレントの頑張りも目玉になりましたし、番組フィナーレは、加山雄三さんと谷村新司さんの「サライ」で締めくくるも恒例になりました。(ただ、これも加山さんと谷村さんの存命次第)

その他にも、番組特製のTシャツであるチャリTシャツも、ユニークなデザインとシャツのカラーが選べるようになりました。

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この番組は、全部見切るものではないので、見ているものは、24時間テレビのジャニーズタレントが出演するドラマです。

難病や障がいと闘病する人、その家族を取り上げたドラマ、一部フィクションが入っているにせよ、その中で印象に残った作品は、2014年放送の「はなちゃんのみそ汁」です。夫は新聞記者、乳がんを患って余命いくばくもない母親が小さなはなちゃんに、自分のことは自分でできるよう料理を教えた物語です。

はなに料理を教えた母親は亡くなりましたが、ブログを基にした「早寝早起き玄米生活」の本が反響を呼び、ドラマだけでなく、映画(2015年)にもなりました。

あとは、2016年の「盲目のヨシノリ先生」というドラマです。網膜はく離で、視覚障がいになった新井淑則さんが、普通の中学校の教壇に復帰したいという思いが印象に残りました。

新井さんは、周囲から特別支援学校でないと無理だといわれていましたが、本人の強い情熱と補助教員のサポートのお陰で、復帰することができました。

視覚障がい者は、かつてはマッサージの仕事以外選択肢がなかったのですが、点字や音声の反応、盲導犬のお陰で、行動範囲が広がりました。

それでも、残念だと思うことは、視覚障がいの人が、駅のプラットフォームから転落して亡くなる事故や、歩道を渡っている時に、車に引かれる事故が後をたたないことです。

まだ、世の中の視覚障がい者に対する周囲の配慮が、足りないと感じます。

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24時間テレビは、メインの会場のほかに全国各地の商業施設集会所などで、タレントの方々がPRする形をとっていました。まり子さんも番組の黄色いTシャツを着て、デパートなどで他のタレントさんと出演し、その後メイン会場で並ばれていた映像は覚えています。

始まった当初は、手塚治虫のアニメスペシャルなどが話題に上っていました。この番組は、欧米の本来のチャリティとは体裁が異なりますが、見ている人の意識が変わる「きっかけ」になっていると思います。

駅にエスカレーターやエレベーターが、設置されることが多くなりました。高齢者がこれから増えてゆく日本では、段差や傾斜を減らすなど、まだまだ必要なことが多いです。

みなさんが障がい者の方を助けられるときは、必ず一言声をかけてください。視覚障がい者の方、や車いすを使ってる人にとって、黙って手を引かれたりいきなり車椅子を押されることはたいへん怖いことです。

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ユーチューブに24時間テレビの最近アップされた動画がありますね。「石川ひとみ 桜田淳子 倉田まり子」で、探せるはずです。まり子さんの髪型からすると1981年だと思いますので、日本青年館のコンサートから1週間後くらいなのでしょう。なかなか素晴らしいスリーショットと歌声が堪能できます。

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「ファン見殺しクイズ」について

これは、若かりしビートたけしさんときよしさんが、レギュラーをやっていた「ツービート 笑ってゴマかせ!」の名物コーナーがかつてありました。ゲスト歌手と我こそはと思う親衛隊の一員が人間ルーレットになって楽しむゲームです。

16枚のパネルの中から選んで、ゲスト歌手が答えていき、見事ルーレットを1周して100点を得れば、ファンの方は5万円をゲットすることができるが、達成できなければルーレットの回転が止まらないという罰ゲームつきでした。

石川ひとみさんや岩崎宏美さんだけでなく、まり子さんも出ていたこのゲームです。まり子さんのファンの方も、人間ルーレットになって参加していましたが、その後の結果がどうかはわかりませんでした。

まり子さんは、レッツゴーヤングの20歳記念の時に、「春咲小紅」を歌っていた時の金のリボンつきの赤のミニスカドレスと揃いの赤のスパッツの姿で出ていました。

この後、「恋はAmiAmi」を歌っていました。

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TBSの「ツービート 笑ってゴマかせ!」での一幕ですが、放送時に観ていました。ファンの人が体を張ってクイズに挑むシーンには、驚いたものです。クイズ自体が「たけし」的なんで、意地悪く及第点とはならず親衛隊の方は回転盤でクルクル回ることになりました。

翌年、なぜか同コンセプトの「わっ!ツービートだっ!」が他局の日本テレビで始まり、やはりファンの人が正解が困難なクイズの犠牲になるシーンがありました。そのとき、まり子さんが歌った曲は、「カナリヤ」でした。

自分が見ていた時は、ここまでやる「ファン魂」に驚いたものです。そんなときの気持ちが、今ファンサイトを運営してる原動力になったのかもしれません。

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かつての音楽賞レース

まり子さんが、「How!ワンダフル」で最優秀新人賞をゲットした時の1979年は、いろんなハプニングがありました。

日本武道館時代のFNS音楽祭では、お母さんが、思わず、片方の靴を落としてしまい、関係者の方が拾ってくれたこと。

全日本歌謡祭で、関口宏さんが、電話で、最優秀新人賞を告げたときに、長崎から友人が駆けつけてくれたこと。

日本歌謡大賞では、泣いていたまり子さんに対して関係者が、ハンカチをそっと差し出してくれたこと。

昔の音楽賞レースでは、家族や友人、関係者がありったけの花束を抱えて持ってきたり、受賞歌手が泣いて歌える状態ではなかったということはしょっちゅうありました。

特に、70年代と80年代の音楽賞レースは、若手からベテランまで、そうそうたる顔ぶれが揃っていて、活気を感じました。

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昔に比べるとレコード大賞と有線大賞がメインになって、昔に比べると音楽賞の特番が少なくなってしまいました。

更に、若い新人賞の歌手の名前と歌っている曲を覚えられなくなりましたし、今の若い歌手やグループが何を歌っているのかさえ、なかなか覚えられなくて、覚えられたとしてもほんの数曲というのが現状です。

2016年の音楽賞レースで、グランプリをとった西野カナさんは、「あなたの好きなところ」、「Dear Bride」が印象に残りました。特にレコード大賞の時のジーンズの縫い合わせドレスが素敵でした。

それと、今の音楽賞レースでは、泣く人が少なくなりました。
それだけでなく、家族や友人、関係者のどさくさも少なくなり、ずいぶんおとなしくなったなあという気がしました。

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まり子さんが新人の時には、多くの歌謡祭があり、そこでたくさんのドラマが生まれました。それら番組自体も大変豪華な作りで、まり子さんが華やかな衣装で「HOW!ワンダフル」を歌う姿が思い返されます。

歌謡祭での最高峰は「日本レコード大賞」で、NHK紅白歌合戦と同じく大晦日生放送という時代では、レコ大に出て引き続き紅白に出演することは、歌手にとってたいへんなステータスでした。

そのレコ大も、音楽メディアがレコードからCDに代わると次第に形骸化して、今では「芸能事務所の持ち回り」とか言われるようになり、存在意義が疑問視されるようになってしまいました。

シンガーがアーティストという呼び名になって、各個人の自由な表現の場が次第に増えてきた感があります。動画サイトに自作の曲をアップして、デビューということもできますしね。

おじさん世代には、歌手の名前が横文字だと、個人かグループかもわからなかったりします。昔の曲には、優れた作詞家によって、文学的表現というか情景の描写が印象深いものが多かったように思います。

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追記補足

 YouTubeは、2VEfoxy6Vz0です。「ぐるーヴ」はハリウッドスターでもある、イ・ジョンホンさんの特集編でした。

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動画探してみたのですが、すでに無いのか見つかりませんでした。番組公式サイトのタイトルは、「Japan ぐるーヴ体感!エンタメ情報 イ・ビョンホン来日公演特集!最新映画・イベント情報も!」のようです。

30分番組で、グラジュエイションの一節でも流れたとしたら、番組担当者の特別な思いがあるのかななんて想像してしまいます。

イ・ビョンホン氏は、ハリウッド話題作にいろいろと出演してますね。たいしたものです。

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「グラジュエイション」だったかと。

 今日午前1時からBS朝日で放送の音楽情報番組「ぐるーヴ」のオープニングで2フレーズか3フレーズ、♪グラジュエイション、グラジュエイションと、バックでかかっていた様な。最初、「良く聴く曲だなあ〜、カーペンターズ?、え、いやいや、え、え〜」との心境に(もしかしたら勘違いかもしれませんが!)
 それからコネリーさんへの問い掛けで、YouTubeで「グラジュエイション 倉田まり子(1979)」の題名で
16年7月12日公開で、徳光さんと辺見えみりさんの司会の過去の年のヒット曲をランキング形式で取り上げ「貴重映像」を使い紹介する音楽番組で、昭和54年の特集で<第7位>として「グラジュエイション」が流されました。第5回日本テレビ音楽祭の映像でワンコーラス謳う映像が放送された内容。映像がスタジオのゲストの方に切り替わると、東幹久さんが拍手を、片平なぎささんが「そうそうこの曲、納得、納得」といった風に小首を縦に4〜5回振っている光景に。こんな事が有ったのですね。それと「週刊新潮」ですか、「まり子さん、今こんなお仕事されてますよ」といった切り口の記事を掲載していたのですね。いずれについても反響はどうだったのか、知りたい所です。

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テレビ番組で、懐かしい映像が突然映し出されるということが、ときどきありますね。見たことがあるものでも、思わず「おおっ」と感嘆することがしばしばあります。

それで徳光和夫氏司会の歌番組は、「速報!歌の大辞テン」だと思います。放送時のリアルタイムベスト10と、同時期の昭和ベスト10を取り上げるというユニークな歌番組でした。まり子さんの曲では、「グラジュエイション」と「HOW!ワンダフル」が取り上げられたことがあります。グラジュエイションのときは、残念ながら放送後に知りました。

この件は、一番最初に開設した掲示板に書いたような記憶があります。かれこれ10年ちょっと前のことですが、動画サイトもコンテンツが寂しい時期だったことや、レッツヤンの再放送も始まりかけていたことも相まって、ファンサイト主催者としては、気持ちが盛り上がってきた感があります。

一方、活字メディアのほうですが、季節の変わり目にあるような「あの人は今?」のようなものは、「載ってうれしい」という印象を持たれてるファンの方は少ないと思われます。現在の「坪田先生」として、ご本人が書かれてる就活関係の記事は別ですよ(笑)。

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2015年に逝去した川島なお美さん

かつて、まり子さんと同じ年月に、生まれた川島なお美さんが、2015年の9月に亡くなったことが印象に残っています。

女子大生の時にデビューをし、当時20代だった80年代の初期、まり子さん達と共に青春時代を謳歌していました。歌手、女優、バラエティーと幅の広い活動をし、何よりもワインを愛してやまない人でした。

私生活では、パティシエの鎧塚俊彦さんと結婚をし、左目が不自由な夫を支えてきましたが、残念ながら胆管癌で、息を引き取りました。亡くなる直前の川島さんは、かなり痩せていて痛々しく感じました。

川島さんに限らず、かけがえのない人の死は、一緒に青春時代を過ごしてきた人達に大きなショックを与えたものだと感じました。

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川島なお美さんというと、「女子大生タレント」の元祖的な存在だった印象があります。自分が大学生時代には、なお美さんの髪型や通称「ハマトラファッション」を周囲の女学生が影響を受けていたことが思い出されます。最後まで、芸能のお仕事にこだわっていたようですね。

まり子さんの出演ドラマ「気になる天使たち」の前身的番組の「ただいま放課後」にも、川島さんは出演していました。同番組には、「ぎんざNOW!」のハンダースのメンバーで昨年6月に62歳で亡くなった小林まさひろさんも出演していました。

最近は、自分たち世代に近い方の訃報を聞くことも珍しく無くなってきて、複雑な思いがします。

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そうえいば、2012年の4月18日の生前の更新内容に、

(33年前の4月21日、ラジオでは、「鶴光さんのオールナイトニッポン」と「アイアイゲーム」のアシスタント、キャニオンで歌手デビューした時の思い出、そしてデビューした時の1979年を振り返っていました。あの時は、文化放送のミセスDJのラジオの打ち合わせをしながら、時にワインを飲みながら、ピザを楽しむ様子が描かれていました。

もちろん、1979年の昭和54年は、インベーダーゲームが大流行、バスボンガール、デビュー同期のまり子さんのことや桑江知子さんのことにもふれており、今日に至るまで続けてこれたのは、皆さんのお陰、そして、これからも新たしいことに挑戦するという前向きな内容を感じました。

生前は、ダックスの雌犬を娘のように可愛がっていた、野球ではドラゴンズやジャイヤンツの応援をしてたし、料理が上手な人でした。それで最後の本人ブログは、2015年の9月23日のミュージカルの「クリスマスキャロル」の降板のお詫びでした。

それから、9月25日に、川島さんの所属事務所の太田プロダクションから、彼女は24日の19時55分に54歳でなくなったという知らせが入り、36年間の芸能生活にピリオドを打ちました。

なお、川島さんの代役は事務所の後輩で、「よめきんトリオ」で活躍していた渡辺めぐみさんがしました。渡辺さんは、松金よね子さんとKINYAさんで、「笑っていいとも!」の80年代期を盛り上げていた人の一人でした。

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まり子さんがデビューした1970年代からは、歌手から俳優に転向される人はけっこういました。若い時は若者向けのドラマがあるので、出演の機会は多いはずです。でも、年を経ると年齢が高い役の数自体が少なくなるので、小さなパイの奪い合いとなり、仕事として成り立たなくなってしまうこともあるようです。

川島さんも、年齢を経ても女優業に焦点を定めるためには、相当の苦労をされたはずです。ですから、仕事に対する責任感も強かったのでしょう。運命とは、残酷なものだと感じます。

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