ある晴れた真夏日
気が付くと道端にいた
誰かに蹴飛ばされて
とこり とこり とこ
転がって
ここに来たのだ
仕方ない
何もない田舎道
ここでじっといるとしよう
はるか頭上を
アゲハチョウが羽ばたいていく
綺麗だな 夏の蝶は
道端に落ちている
僕のことなんか
眼に入らないだろうな
あっ 何人か人が来た
「危ないっ」と
僕は声に出して叫んだと思う
今度は靴で弾かれた
ぴしゃっ
僕みたいな道端にいるものも
楽じゃないな
嫌なことがあっても
じっと我慢して
道にとどまっている
自分の信念は曲げない
ひたすら耐えるしかない僕は
道端の石ころだ
明日はどの子が蹴飛ばすだろう
明日はどの子が拾うだろう
そして僕を安全な家へと
持ち帰っておくれ
仏壇に供えておくれ
いつか誰かが優しく
手に取ってくれるかもしれない
頬ずりして
愛でてくれるかもしれない
そう願う僕は
やっぱりまだ道端の石ころなんだ
がっこうのかえりみち
たいようくんとふたりきり
たいようくんがあるくのやめた
なんだろう?
いきなりこっちをむいて
まっかなかおで
なきそうなかおで
「すきっ!」っていわれた
そっとこゆびとこゆびで
てをつないでくれた
「わたしもすき」
やっとこえがでた
はずかしいけどすごくうれしい
いつのまにかこゆびから
てのひらとてのひらで
てをつないであるいてる
じかんよとまって
ふたりだけのかえりみち
明けても暮れても
草むしりばかり
野菜畑で
駐車場で
生い茂る雑草を汗みどろになって
ただひたすら刈り取っている
思考は停止したままで
花も果実も野菜も育たないが
雑草だけは情け容赦なく生い茂る
どこかムダ毛処理と似ている
不毛な作業を延々と行なっている
これが現実なのだと割り切って
温室育ちの万年青は
歳を取っても変わらない
厭世的な理想主義者
幼い反抗心を抱いたまま
桃源郷を夢みて不毛の地へ
景色はいつまで経っても変わらない
どんより重たい雲が垂れ込める
相応しい言葉を探すも見つからない
雑草と虫たちとの格闘に終始する
虫たちの命に想いを馳せることもない
しばらくは除草の日々が続きそうだ
これが夏の風物詩?だと割り切って
草を刈って刈って刈りまくるぞ
何故、離れるのか
何故、一緒に眠らないのか
私の魂よ
何故、君だけが自由で
何故、私だけが叫ぶ
さよならも言わないで
涙も流さずに
何処へ行ってしまうのか
こんなに求めているのに
何故、眠るのか
何故、一緒に来ないのか
私の肉体よ
何故、拒むのか
何故、黙っているのか
声も届かず、目は閉じたまま
どんな夢を見ているのか
私にも見せないで
近くにいるというのに
古城に夜が来ないまま、私が夜になり
古城は朝も知らぬまま、私が朝になる
何故、一つでいられたのか
何故、巡り会えたのか
此処でこの手を離しても
また会える時が来たなら
その時はきっと思い出そう
そして再び歩き出そう
もう一人の私と共に
さらば古城を離れ行く舟の
君こそが私にとって
かけがえのない
たった一つの
実家の本の虫干しをしなけりゃならない
気をつけなければ
死番虫のせいなのか
私たちの扱いが荒かったのか
糸綴じ本の糸が緩んで
ばらばらになってしまうことがあるから
ずっとあると思っていた
私たちの歴史の本が
離されることはないと思っていたページたちが
いとも容易く離れていくことがあるから
必要ならば破れていない部分を切り開き
これまで懸命に繋ぎ止めていた糸を切って
新しい糸で
また新たに綴じ直し
しっかり締めなければならない
残された私たちの手で
死番虫よ
私たちの紡ぐ歴史はお前と共にあるけれど
失うということを教えてくれる者だけれど
蒸し暑いこの国の夏に
お前たちは増え過ぎる
もういいだろう
お前たちが多くを貪り過ぎるから
遠くに見える木陰さえ
喪服の色に見えるのだ
ケーンと
雉はひと声鳴いて
蜜柑畑から飛び立ち
向こうの丘の藪に降りて
灰褐色の翼をたたんだ
空は丘に別れを告げるように
ずっと遠くまで青く
夏の終わりの太陽の下
無花果の樹と萱の茂みの間の
涼しい風の通り道に
立っていたのは誰だったのか
蜜柑畑で過労で倒れても
木陰で休んで何でもないと笑い
また働いた父だったのか
幼い私を見守りながら
額の汗を手甲で拭い
摘果作業をする母だったのか
電信柱の上に止まって
弁当を狙う烏に話し掛けながら
草取りをする祖母だったのか
あるいはまた
流れて行く白い雲を掴もうと
空に向かって手を伸ばす
幼い私だったのか
それから
幾つも
幾つも
幾つも年月は
過ぎて行ったけれど
ケーンと
雉はひと声鳴いて
蜜柑畑から飛び立つ
空は丘に別れを告げるように
ずっと遠くまで青く
みんなが行ってしまった国へ
白い雲が流れて行くから
私は今日もまた
涼しい風の通り道に立って
空に向かって思い切り
手を伸ばしてみる
アパートの駐車場
三輪車
ベルの音が夏空に近づく
ぼんやりとそれを聞いて
溶けゆくからだを脳みそで受けとめる
熱いのに寒いのは初めてだ
あべこべな身体で気づくのは
現実が本当のことだらけってこと
蝉が外で鳴いてたり
夏の匂いが今までしていたこと
君がそばにいたことも
脳みそが記憶の受け皿になっていて
少し壊れて
いくつかこぼれ落ちていっている
それでも平気
掛け布団を抱きしめて
もう行儀悪く寝れるんだ
身体があるってことなんだ
お久しぶりです、少し前にコロナウイルスにかかってしまいました。また陽性者が多くなっておりますのでみなさまもお気をつけください。
「雨の焼きそば屋」に感想と批評をありがとうございます。
まずご指摘されていた2つの欠陥を説明します。
五月一日祖母が亡くなった〜母から聞いたのは雨の水海道駅
つまり水海道駅に着いて、初めて祖母が亡くなったことを聞いたばかり。
葬儀の予定はこの後知らされました。葬儀云々の話になるとは。
またなぜ店を探したのかが書かれていないとの事ですが、
五月一日は日曜日〜水海道駅周辺は食事をする所を見つけるには
携帯で探すしかありません。その一軒が焼きそば屋でした。
ここには描かれていませんが、亡くなった祖母は専業主婦で、
祖父が家を建ててから、千葉を出ることはほぼありませんでした。
そのため、自分には祖父母の家で過ごした記憶しかないので、
思い出の店はありません。古い焼きそば屋を切り盛りするお婆さんが
自分の祖母の姿と重なり、また生活感溢れる店が祖父母の家とも
重なったのだと思います。炬燵に入る老夫婦の姿も含めて。
ただそこまで詩に盛り込むのはその時には考えておらず、
説明的で長くなりそうなので、余計なものを省いたかと思います。
「軒下の燕達」に感想をありがとうございます。
職場の軒下には燕の巣があり、毎年この時期になると、
燕が飛来して子育てに忙しい毎日を送っています。
その度に詩を書いています。燕を見るたびに家族を思いながら。
短い恋をした
蝉の寿命よりは長く
夏が終わる前に消えた
暑さがみせた幻影だったのかもしれない
それは恋と呼ぶには
現実的で生々しく
体に絡みついて離れないのに
突然のゲリラ豪雨にさらされて
呆気なく
流れていった
私は立ち尽くす
傘もなく濡れたまま
やがて雨はやみ
雲間から日がさしてきた
けれど濡れた頬にはまだ
雨粒は残ったまま