12,子貢曰く、我、人の諸(これ)を我に加えんことを欲せざるは、吾もまた諸を人に加うることなからんと欲す。子曰く、賜よ、爾(なんじ)の及ぶ所に非ざるなり。
子貢が言った。「私は、他人が自分にしかけてほしくないことは、私も他人にしかけないようにしたい」。先生は言われた。「賜(子貢)よ、お前にできることではない」。
※浩→頭脳明晰な子貢は、理屈として孔子の説く「忠恕」の徳を深く理解していたので、孔子に向かって「自分がしてほしくないことは、他人にもしないようにしたいものです」と語った。孔子は子貢の「忠恕」の理解が十分に正しいことを認めたが、徳というものは理解するよりも実践することのほうが遥かに遠く難しいことを理論優位の子貢に教えたかったのです。そこで、孔子は「他人を自分と同等に敬う忠恕の徳の実践は、お前に簡単にできることではないぞ」と注意を促しました。
「衛霊公篇」に有名なフレーズがあります。「子貢問うて曰く、一言にしてもって身を終るまで之を行うべきものありや。子曰く、それ恕か。己の欲せざるところを、人に施すことなかれ」と。ここと関連づけて読めば、上の解釈でよく納得できますが、吉川幸次郎先生はこれとは違う古注の解釈を採用されました。「加」を「くわえる」と読まないで「しのぐ」と読んでいます。これならば、物質的・精神的な暴力、ないしは圧力を人に加えるという意味になるそうです。この解釈に従えば、「私は、人が私に暴力を加えることを欲しない。それとともに、私も人に暴力を加えることを欲しない」と子貢が言ったことになって、ずいぶん意味が違います。人からしてほしくないことは自分も人にしないというのは、『聖書』では「何ごとも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ」(マタイ7-12)となっていて対照的です。東洋と西洋の考え方の差があります。
アドラー心理学では、自分の「私的感覚」と他の人の「私的感覚」は違うので、自分が望むことをはたして他者が同じように望んでいるか疑問です。そこで、自分の考えでいきなり行為を起こさないで、まず「してほしいかどうか」確認します。昔、野田先生から聞いたことがあります。海で溺れている人を見つけた漁師さんが、いきなりその溺れている人を助けないで、「助けてほしいか?」と聞いて、「助けて」と答えたから助けたそうです。
相談に関しては、「ニードのないところにカウンセリングなし」という原則があります。ニードの有無の確認なしにいきなり手助けをするのは「お節介」です、英語には便利な表現がありますね。May I help you?と。最近の日本語で不思議に思うは、例えば、「もう帰ってもらっていいですか?」とか「それ、やめてもらっていいですか?」という言い方です。これは、「もうお帰りいただけませんか?」とか「やめていただけませんか?」と言うほうが自然に感じます。自分の行為について「~してもいいですか?」とは言いますが、他人に促すのに「~してもらっていいですか?」は何か変です。
第46課 同時進行の表現、意向・意図の表現
<おさらい>
「のどの調子が良くなくて、風邪を引きそうで心配です」と言われて、
「無理をしたらいけません。のどが痛ければ薬をお飲みください」
ムリルr ハミョン アン ドェヨ。モギ アプ’ミョン ヨグr トゥセヨ
무리를 하면 안 돼요. 목이 아프면 약을 드세요.
ありがとうございます。
감사합니다.
<同時進行の表現>
#キーフレーズ
少し休みながら気持ちを整理するつもりです。
チョm シュイミョンソ センガグr チョンリハrレヨ
좀 쉬면서 생각을 정리할래요.
#公式:同時進行「~(し)ながら」
・「語幹 + 면서 /으면서」(パッチム型)
・パッチムㄹは取らないでそのまま「 +면서」
@休む=쉬다 休みながら=쉬면서
本を読みながらジュースを飲んでいます。
チェグr イルグミョンソ チュスルr マショヨ
책을 읽으면서 주스를 마서요.
<意向の表現>
#キーフレーズ
ウナさんがやめたら僕もやめるつもりです。
ウナ ッシガ クマンドゥミョン ナド クマンドゥrレヨ
은아 씨가 그만두면 나도 그만둘래요.
#公式:意向・意図の表現「~(する)つもりです」「~(し)ます」
・「語幹 + ㄹ래요/을래요」(パッチム型)
・パッチムㄹは「ㄹを取って +래요」
@やめる=그만두다 やめるつもりです=그만둘래요
※ただし、これを疑問の表現にして目上の人に使うと失礼になる。
@着る=입다 着るつもりです=입을래요
@開ける=열다 開けるつもりです=열래요
@準備する=준비하다 準備するつもりです=준비할래요
@読む=읽다 読むつもりです=읽을래요
@会う=만나다 会うつもりです=만날래요
<問題>
1,観光しながら写真を撮るつもりです。
@観光する=관광하다
@撮る=찍다
コヮンゴヮンハミョンソ サジヌr ッチグrレヨ
관광하면서 사진을 찍을래요.
2,毎日笑いながら暮らすつもりです。
@笑う=읏다
@暮らす=살다
メイr ウスミョンソ サrレヨ
매일 웃으면서 살래요.
<ワンポイント>
何が人気がありますか?
ムォガ インギガ イッソヨ?
뭐가 인기가 있어요?
何がおいしいですか?
ムォガ マシッソヨ?
뭐가 맛있어요?
何が面白いですか?
ムォガ チェミイッソヨ?
뭐가 재미있어요?
<間違えやすい発音>
母音のㅓとㅗ、激音카と濃音까
@コーヒー=커피 鼻血=코피
お茶を1杯飲みながら=차를 한잔 마시먼서
@한잔=ハンジャンn 한장=ハンジャンg
レポートを1枚書きました=리포트를 한장 썼어요.
他に、@娘=딸 月=달
<薬味> 양념
粉とうがらし=고춧가루 コチュ’ッカル
とうがらしみそ=고추장 コチュ’ジャン
にんにく=마늘 マヌr
しょうが=생강 センガン
塩辛=젓갈 チョッカr
<フィナーレ>
これいい映画です。ご覧ください。
イゴ チョウン ヨンファエヨ。 ポセヨ。
이거 좋은 영화예요. 보세요.
ケンテツさんはご覧になりましたか?
ケンテツ ッシヌン ポショッソヨ?
겐테쓰 씨는 보셨어요?
僕は泣きながら見ましたよ。
チョヌン ウrミョンソ ポヮッソヨ
저는 울면서 봤어요.
トモさんも見ますか?
トモ ッシド ポrレヨ?
도모 씨도 볼래요?
はい、見たいです。
ネ! ポゴシッポヨ
네! 보고 싶어요.
すみません…チケットがありません。
ミアネヨ…ティ’ケッシオpソヨ
미안해요… 티켓이없어요.
11,子曰く、吾(われ)未(いま)だ剛者を見ず。ある人対(こた)えて曰く、申棖(しんとう)あり。子曰く、棖(とう)は慾あり。焉(いずく)んぞ剛なるを得ん。
先生が言われた。「私は剛健な人物を見たことがない」。ある人が答えて言った。「(あなたの弟子の)申棖がいますよ」。先生は言われた。「棖には、欲がある。どうして剛健と言えるだろうか?(いや、言えない)」。
※浩→孔子にとっての剛者とは、ただ肉体的な腕力が強いものではなく、精神的な意志も合わせて堅固なものを言います。ある人(貴族でしょう)は、「申棖という剛力無双の屈強な勇者がいるじゃありませんか?」と孔子に言った。しかし、孔子にとっては、自分の欲望に打ち勝てない軟弱な精神の持ち主である申棖はいくら膂力(りょりょく=筋肉の力・腕力)に秀でた豪傑であっても)「真の剛者」ではなかったのです。
真の「強さ」についてあらためて考えさせられます。ただ肉体的に腕力が強いのではなく、精神的な意志を合わせて「剛」と言うということは、肉体的な力を否定しているわけではないです。『尚書』に、人間の3つの徳として「正直、剛の克(ちから)、柔の克」とあります。ここにも「剛」と「柔」は同列に並べられています。日本では、「気は優しくて力持ち」と言われてきました。
「欲」については、『礼記』「楽記篇」に、「人、生まれて静かなるは、天の性なり。物に感じて動くは、性の欲なり。それ物の人を感ずるは、窮まりなし。しかして人の好悪節(さだ)めなければ、すなわちこれ物至りて、人、物に化せらるるなり。人、物に化せらるる者は、天理を亡ぼして、人欲を窮むる者なり」とあり、これはのちの朱子学に引き継がれていきます。天理と人欲を相反する概念として扱っています。以上は、吉川幸次郎先生の解説です。
『論語』「顔淵篇」の、「顔淵仁を問う。子曰わく、『己に克ちて礼に復るを仁と為す。一日己に克ちて礼に復れば、天下仁に帰す。……」は有名なフレーズですが、あまりに禁欲的だとの批判もあるようです。アドラー心理学の「自己執着」と「共同体感覚」との対比に似ています。なお、『老子』では、逆説的に、「柔が剛に勝つ」ことになっています。
「之を歙(ちぢ)めんと欲すれば、必ず固(しばら)くこれを張る。之を弱めんと欲すれば、必ず固く之を強くす。之を廃(はい)せんと欲すれば、必ず固く之を興(おこ)す。之を奪わんと欲すれば、必ず固く之れに与う。是(これ)を微明(びめい)と謂(い)う。柔弱(じゅうじゃく)は剛強(ごうきょう)に勝つ。魚は淵(ふち)より脱(のが)るべからず。国の利器(りき)は、以(も)って人に示すべからず。
縮めてやろうと思うときには、しばらく羽をのばさせておくに限る。弱くしておこうお思うときには、しばらく威張らせておくに限る。廃(や)めにしてやろうと思うときには、しばらく勢いづけておくに限る。取り上げようと思うときには、しばらく与えておくに限る。これを底知れぬ英知と言う。すべて柔弱なものは剛強なものに勝つ。魚が淵から抜け出てはならぬように、治国に利器は人に示してはならない。以上は、福永光司先生の解説によります。(中国古典選10『老子 上』、朝日新聞社)
「権は見(しめ)すを欲せず……虚にして之を待つ」という『韓非子』の主張に近いそうです。「淵深く潜む魚のように治国の利器を秘匿して、他人に手の内を見せてはならぬ」という主張は、アドラー心理学への反撥を避けるために、われわれがとっている“隠れアドレリアン”の立場と似ているようで、参考になります。
<日本の交通機関>
東京の地下鉄:駅が深すぎる、エスカレーターが長すぎる
@深すぎる=太深 tài shēn @長すぎる=太长 tài cháng
「中国語の看板を見てください」
你可以看中文的牌子。 Nǐ kěyǐ kàn Zhōngwén de páizǐ
@電車が混み合っている=拥挤 yōngjǐ
@便利=方便 fāngbiàn @深夜便= yèbānchē
@ラッシュアワー=通勤高峰 tōngqín gāofēng
<謝る>
ごめんなさい。
对不起。Duì bu qǐ
すみません。
不好意思。Bù hǎo yìsī
申し訳ありません。
很抱歉。Hěn bàoqiàn
私のせいです。
是我不好。Shì wǒ bù hǎo
私が悪かったのです。
我错了。Wǒ cuò le
お許しください。
请原谅。Qiǐng yuánliàng
第七 所在を表す“在”zài
#公式=「物・人+“在”+場所」
今日の資料は私の鞄の中にあります。
今天的资料在我的包儿里。
Jīntiān de zīliào zài wǒ de bāor li.
#比較
A)「場所+“有”+(不定の)物・人」
机の上に財布が1つあります。
桌子上有一个钱包儿。
Zhuōzi shàng yŏu yī gè qiánbāor
B)「(特定の)物・人+“在”+場所」
あなたの財布は机の上にあります。
你的钱包儿在桌子上。
Nǐ de qiánbāor zài zhuōzi shàng
#応用
自転車の鍵はポケットの中にあります。
自行车的钥匙在口袋里。
Zìxíngchē de yàoshi zài kǒudài li.
<ピンイン> zh, ch, sh, r(反り舌音セット)
直 zhí まっすぐ, 尺 chǐ 尺, 诗 shī 詩,
日 rì 日, 值日 zhírì 当直する, 事实 shìshí 事実, 日食 rìshí 日食
日中の何代にもわたる友好を祈ります。
祝中日世代友好。Zhù Zhōng Rì shìdài yǒuhǎo
<場所を指し示す指示代詞>
@これ=这 zhè あれ=那 nà どれ=哪 nǎ
@近く(ここ)=这儿 zhèr/这里 zhèli
@遠く(あそこ)=那儿 nàr/那里 nàli
@疑問(どこ)=哪儿 nǎr/哪里 nǎli
↓
発音は[náli] の「 里」がもともと第三声のため
Come back to me.
「私へ帰る」×→「私の所へ帰る」○
回到我。Huídào wǒ × → 回到我这儿。 Huídào wǒ zhèr ○
(つづく)