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論語でジャーナル

14,子曰く、道に聴きて塗(みち)に説くは、徳をこれ棄(す)つるなり。

 先生が言われた。「道端で聞きかじったことを、他人にもっともらしく説くのは、道徳を捨てるようなものである」。

※浩→孔子の弟子の中の才子に対しての訓戒でしょう。この時代には職業的なジャーナリストはいなかったでしょうに、あまりにも現代の評論家の弱点をついていると、貝塚先生は解説されます。コロナ禍での論評でもそうでした。
 孔子は、「一知半解」や「門前の小僧習わぬ経を読む」といった中途半端な知識による教育を否定的に見ていて、自分自身が正確に理解できていない聞きかじりの知識を他人に教えることは道徳に背くと言っています。これは、私なども十分気をつけないとやってしまいます。授業でも講演でも、「題材」を準備し、内容を吟味・精査して、前後の矛盾の有無をチェックして、筋の通ったものにしてから、本番でお話しないといけません。もちろん、ときどきしくじります。話し終わったあとで、間違えたことがあるのに気づいたり、一部を落としてしまったりです。そんなとき、しばらく落ち込みますが、それを次回以後の教訓として活かしていくようにしています。もともと完璧主義だった自分が、アドラー心理学に出会って、「不完全を受け入れる勇気」ということを教わって、少しだけ成長したかもしれません。まだまだです。

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社会は競合的だから…

 「禁句」があるためアップできません。↓でお読みください。

http://www2.oninet.ne.jp/kaidaiji/dai1keiji-12-6.html

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論語でジャーナル

13,子曰く、郷原(きょうげん)は徳の賊なり。

 先生が言われた。「えせ(偽者)君子は、道徳の盗人、あるいは冒涜である」。

※浩→徳の本質を重視する孔子は、外見や動作、服装だけを君子らしく見せかけて大衆を騙している人物を強く嫌悪しています。「郷原」の「原」を古注では「ゆるす」と読んで、誰にでも八方美人的な人間という意味です。新注では、俗にこびるにせ者の意味ですが、吉川先生は「えせ君子」と訳されていて、貝塚先生も絶賛されます。世の中には、芸術・学問・宗教・道徳の盗人がどれほど多いことかと言っているのですが、そう言われると私はドキッとします。日本では、「狂言師、見てきたような嘘を言い」と言われます。「見栄の大森」の私ですと、孔子先生にコテンパーにやられそうです。昔、備前高校でボート部の顧問をしていたころ、この部は大規模な部で、顧問が常に3人いました。その3人の顧問がよく、「誰が一番ええカッコ師か」、楽しい論争していました。この学校ではいろいろ事件もありましたが、職員どうしの結束が強くて、そのたびにワンームで乗り越えることができていました。自己弁護をしますと、その「見栄張り」も、世の中に役立つように活用することはできそうですし、実際はいくらかでもそうできている面もあります。全面否定する必要はないと思います。アドラー博士も「何を持っているかが重要ではなくて、持っているものをいかに使うかが重要だ」とおっしゃいます。

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職場での「ヨコの関係」

Q0327 
 ヨコの関係が大切なのはわかりましたけど、実際に職場で上司や部下の関係になると難しく感じますが……。

A0327
 実は自衛隊にアドレリアンが1人います。で、同じような質問が出たときに、私はこのように答えたんです。自衛隊のような組織では上下関係というか、指揮・命令の伝達系等が崩れますと、全員が死ぬわけです。ですから、誰が指揮者であり誰が部下であるかということは非常にはっきり区別され、指揮系統、命令系統が常にきっちりとしていなければなりません。
 自衛隊以外の組織、普通の会社のようなところでも、指揮命令系統ははっきりしていなければなりません。しかし、そのことと人間の価値とは別です。上司が部下にある指示をする、部下がそれに従うということは、それは役割の分業なんです。
 上司は大きな権限を持ちます。その代わりに大きな責任を持ちます。部下は小さな権限しか持ちませんが、責任の量も小さいわけです。そういう意味で、平等なわけです。
 その中での役割の分担なんです。役割の分担を人間の価値の上下と決して混同してはいけない。役割の分担についてはアドラー心理学ではOKだと、役割の分担があることが平等なんだと言います。
 もちろん、現代の日本の企業の中で、職制の上下が人間の価値の上下と混同されていることは認めます。それは非常に良くないことだと思います。職制の上下は職制の上下なんだとはっきり意識すべきです。職制の上下はあっても、人間としては、上司も部下もまったく平等です。上司は部下を尊敬しなければいけないし、部下は上司を尊敬しなければいけない。そして、協力して企業という組織、企業という利益共同体を維持していかなければならないと、発想の転換をする必要はあると思います。(回答・野田俊作先生)

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論語でジャーナル

12,子曰く、色厲(はげ)しくして内荏(やわ)らかなるは、諸(これ)を小人に譬(たと)うれば、それ猶(なお)穿窬(せんゆ)の盗のごときか。

 先生が言われた。「顔つきは厳めしいが、内面(心)はぐにゃぐにゃなのは、小人にたとえると、壁・塀に穴を開けるコソ泥のようなものだろうか」。

※浩→“巧言令色”を嫌った孔子が、ここでは表情だけ厳格で内面に信念がない人物を、小人の盗人になぞらえて厳しく非難しています。「穿」は壁に穴を掘ること、「窬」は蘠(かきね)に穴を掘ることです。
 私も「顔つきが厳めしい」時代がありました。でも、「心はぐにゃぐにゃ」ではなかったかもしれません。アドラー心理学に出会う前は、授業でもいよいよ窮したら怒鳴っていました。いよいよ極限状態に達した時期には転職も考えましたが、その後、大学の恩師に相談して「カウンセリング」という世界があることを知り、以後は知恵を絞って、暴力的対応に変わる技術を工夫するようになりました。
 それでも「見栄の大森」はずっと健在で、自分の外観はかなり気にし続けてきました。これも「中庸」が大切で、「華美になりすぎず」「不潔になりすぎず」を心がければいいのではないかと思っています。
 野田先生は、子どもさんたちに、「うちのお父さんは怒らないけど怖い」と言われていたそうです。どうしてかというと、「言ったことは必ず実行し、実行しないことははじめから言わない」からだそうです。

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