今日はこちらでお読みください。↓
http://www2.oninet.ne.jp/kaidaiji/dai1keiji-10-3.html
Q
「アドラー心理学は意志の強い人のための心理学ですか?」と言われることがあります。私もそう思いますが、どのようにお答えしたらいいでしょうか?
A
実は全員意志が強いんですよ、人間は。意志が弱いふりをするんです。そのほうが便利だから。本当は、すべての人は人間の行動を完全に主体的に、つまり個人が心身を動かす。「私が全部決めている」と言うといろいろ具合が悪い。何かに決めさせられているとか、感情に流されているとか、環境の被害者だとか言うほうが便利じゃないですか。だからそんなふうに酔っているんですよ。ライフスタイルそのものがそういうふりをする。「私は被害者だ」というのを全面的に押し出している人がいます。僕らはそんなことはないけど、ある程度は被害者でいたほうがいい。何がいいか?責任を取らなくていいから。全部自分が決めいたら全部自分の責任じゃない。だからアドラー心理学は意志の強い人のための心理学ではありません。アドラー心理学は普通の人間のための心理学なんですが、気に入らない人がいっぱいいるんです。なんで気に入らないか?アドラー心理学を認めると責任を取って生きなきゃならないから。「アドラー心理学はなぜ流行らないのですか?」と時々聞かれるんですが、流行らないと思うわ、これ。だって何も人のせいにできなくなるもの。(回答・野田俊作先生)
Q
少し混乱しているので教えてください。夫婦が互いに欲のために暮らすことと協力して暮らすことの違いについて。
A
協力して暮らすのは欲のためですよ。僕たちは結局「愛」は得られない。その「愛」という言葉をアドラー心理学が使わなかったのは、愛は今のままでは絶対に不可能だから。愛というのはもう死語なんです。いや、そもそも初めからなかったんです。僕たちが「愛」という夢を見ていただけで、「欲」に「愛」という名前をつけて、「これは欲とは違うよ」と言っていたんですよ。(浩→そういえば「愛欲」という言葉があります)だからほんとは愛なんかないんです。全然ないんです。今後もないんです。永久にない、いや、あるかもしれないけど、今はない。僕たちにあるのは「共同体感覚」だけなんです。共同体感覚って何かというと、「自分の欲のために共存共栄を図ること」ね。お商売してお客さんに良い品物を差し上げないといけませんと思うことね。だから奥さんがお客さんに良い品物を差し上げないといけませんねと思って、旦那とつきあうことね。旦那がお客さんに良い品物を差し上げないといけませんねと思って奥さんとつきあうことね。そこでアドラーが共同体「感覚」という情緒的な言葉を使ったのは、実はそこで「ある感じ」が生まれるからだと思うわけです。良い人間関係があって良い協力関係ができると、そこに「チーム意識」というか何か深いもの、普通その何か別の意味で「愛」と呼ばれているもの、「濃い仲間意識」ができてくると思うんです。それは夫婦でなくてもできるんです。例えば、登山の仲間、山仲間ってできるんですよ。生死を共にするから。垂直な崖にロープを掛けて登っている人たちがいるじゃないですか。もしも誰かが遭難して死にかかると誰かが助けるんです。みんなお互い同士が命の恩人なんですよ。岩を踏み外してワーッと落ちたとき、上からバーンとロープで支えてくれた人がいて、「君がいなければ僕は今ごろ死んでいた」と、みんながお互いどうし言い合っているから、無茶苦茶強い絆で結ばれるんです。それから戦争の戦友ね。今でもおじいちゃんたちは昔の「何とか連隊」の同窓会をやるじゃないですか。あれ、なんでやるかというと、やっぱり生死を共にして、「あのとき死んでいたのにお互いよく生き残ってきたな」というほんとに協力した体験があるからです。夫婦もそれと同じように、難しいお姑さんに対して、夫婦共同で相談し、いろいろ一致してやっていったとか、子育てで協力したとか、会社をクビにされたけど、2人で何とか生き残ったとかいうような、生死を共にする体験ね、苦楽を共にする体験があると、みんなが思っていたのと違うレベルの信じ合いとかいうものができてくるだろうと思うんです。それがアドラーが共同体感覚と言ったもんなんですよ。でもアドラーが「感覚」の側から話をしたのは間違いだと僕らは思うんです。アドラーがそういう言葉を使ったからしょうがないから使っているけど。だから僕たちは「協力関係を作るんだ。苦楽を共にする協力関係をどうやって作っていくか」、「関係」が先にあってから「感じ」があとからなんです。ディンクメイヤーという人が「愛は良い人間関係の副産物だ」と言いました。先に関係があるんです。憎しみ合ったままでもいいから良い人間関係を作ってくださいと。「私たちは愛がないから結婚生活を続けられません」と言うが、愛は初めからなかったし今後もないです。あなた方が作れるのは愛ではなくて関係です。関係は随意運動です。愛は不随意運動です。不随意運動は僕らの意志の力で作ることはできませんが、関係は随意運動で、旦那が帰ってきたときににこやかに「お帰りなさい」と言う程度です。夫の嫌いな椎茸を無理やり食べさせようとしないことです。そういうことを良い関係と言うんです。良い関係を作るというのは、理解と訓練で、努力で作れることです。それを作っていくと、こちらが良い関係を作り始めると向こうも作ってくれるでしょう。もちろん向こうもアドラー心理学を学んで理解と訓練をしてくれれば、良い関係を作る努力をしてくれるでしょう。そうして良い関係が継続していくと、ものの見方が変わっていって夫婦についての感じ方、毎日の暮らしの実感が変わっていくときが来るでしょう。それを愛と言えるかどうかというのは、それはわからん。何しろ「愛」という言葉が無茶苦茶曖昧に使われているので、何のことかわからないから、それを愛と言えるかどうかわからないけど、それは共同体感覚なんです。共同体感覚というのはそういうふうなもんだと思う。(回答・野田俊作先生)
Q
何らかの事情で、例えば夫の単身赴任などで長い間離ればなれで暮らさないといけない夫婦の場合は、遊んだり一緒に働いたり話し合ったりできず、どのように受け止めたらいいでしょうか?
A
どこへ単身赴任しているんでしょうかね?アラビアかね。帰ってこないの?普通いくら単身赴任といっても電話もすりゃメールもすりゃ、ひょっとしたら手紙も書きゃあ、このごろテレビ電話もありますしね、何でもあるわけで、いくらでもコミュニケーションできるわけじゃないですか。普通、いくら離れていると言っても、月に1回くらいは帰ってくるでしょ。週1回だって帰ってくるかもしれない。だからこの質問はあまり適切ではなかろうと思うんですが、どうですか?アラビアの奥に石油を掘りに行っているのならしょうがない。そんな場合は、ついて行きなよ、どっちかというと。どんなことになってても、時々は一緒に遊べるし、たくさんのコミュニケーションはできると思うんですよ。むしろ離れていても、例えばメールとかひょっとしたら紙に書いた手紙とかいうのは、毎日顔を合わせてお話しているよりもコミュニケーションの形としては濃厚になるかもしれない。それは工夫次第ね。「今更手紙でもないでしょ」と言うかもしれないけど、ロマンティックよ、手紙は。そのへんちょっと工夫してみてください。(回答・野田俊作先生)
Q
今日のお話の中で、すべての人間の行動は目標追求のためで私利私欲にもとづいている。回心しない限りそこから逃れられないと伺ったように思います。もしその受け止め方が間違っていなければ、回心できていない私は行動を選択するときどうすれば共同体感覚を持った行動がとれるのでしょうか?よろしくお願いいたします。
A
古典的なアドラー心理学がたどり着いた結論は、「私利私欲である目標追求を持ったままでその行動が共同体にとって有益であることを選べ」、というのがアドラーの言ったことなんですよ。僕が「共存共栄」という言葉を使うのは、いつも譬えに出すのは商売のことで、私の亡くなった祖母は、桐の材木を扱って、外国・中国からとか東北地方からとかから桐を大阪へ持ってきてそれを製材して、箪笥屋さんとか下駄屋さんとかへ卸す問屋さんを連れ合いがやっていたその連れ合いが早く死んで、あと女手ひとつで商売をしていたオバサンなので、いつも私に「大阪商人鑑(あきんどかがみ)」を話してくれていました。東京アドラーギルドでは売っていて大阪アドラーギルドでは売っていない日めくりカレンダーなんですけど。僕がなんであれを大阪で売りたくないかというと、バアチャンの声が聞こえるからなんです。そのバアチャンは「お金もらうお客さんにはええ品物さしあげなあきまへん」とこう言うんです。僕はいつもそう思うんです。皆さん方からお金をいただいているから、そのお金以上に、皆さん方が支払った以上にいいものを差し上げないと、まあお客は続かなくなるしね。「あんな4000円も取られて、つまらん話を聞かされてさっぱりやね」」と言われたら、次から来ませんがね。「ああ、良かったわ。野田さんの話それなりにお金かかるけども、また行こうね」というような話をせんといかんなと、これ私利私欲ね。結局お客来てほしいし、そのお客さんのお金から僕の給料が出、従業員の給料が出、僕のもらった給料からうちの娘の飯も出てくるし、僕の釣り竿も出てくるわけだ。たくさん稼ぎたいわけではないんですよ。お金持ちになりますとまた大変で、税務署との交渉もややこしくなりましょうし、まして不動産の1つも持ちますと、子孫どもが不動産をめぐって争うじゃない。心配もせんといけませんから、そんなに欲しくないけど、まあ娘の晩ご飯と僕の釣り竿くらいはあったほうがいいです。そういう私利私欲でやっている私の活動が、できるだけ世のため人のためになる方向にしよう。もちろん違う方向にだってできるわけで、自分の名誉とか名声のためだけに動くことだって、やろうと思えばできるけど、まあそっち向けにしないで、お客さんが一番喜んでくれる方向にしようと、ただ喜んでもらうだけじゃなくて、お客さんたちがいい暮らし、正しい暮らしをすることで、この世の中がちょっとでも良くなる方向にしよう、アドラー心理学がちょっとでも広まって、子どもたちが「ああそうだ、こんなふうにお話し合いをするんだな」って、「こんなふうに問題を解決するんだな」って学んで、で自分たちが結婚したら夫婦関係でそれを実戦して、自分たちの子どもにもそれを教えて、拡大再生産ができていくといいねと思って仕事をしているけど、なお根源的には私は私利私欲なんですよ。これがアドラー心理学がたどり着いた結論です。
スピリチュアルなアドラー心理学は、そこをなんとかポイと超えたいんです。その答えはスピリチュアルワークへ行ってちょうだい。言葉で言っちゃうとよくわからんのです。みんなが体験の中で自分で気がついてくれたほうがいい。ある時代にはわれわれが目標追求を落としてしまって暮らすことができた。お釈迦様は目標追求を落とされたみたいです。落としたらどうなったかというと、彼は生きている意味がなくなったんです。それで古いお経を丁寧に読みますと、お悟りが開ける前に、彼はありとあらゆる苦行をやって、苦行では悟らないと思ったので死のうと思ったんです。何やっても悟らんと。どんなことをやっても悟らないから死のうかねと思って、ナイランジャラーという川があるんですけど、その川を渡った。反対側の岸辺の木の根元で呆然としていたら、おねえちゃんが来て、スジャータちゃんというおねえちゃんが来てヨーグルトをくれて、それをついうっかり食べちゃったんです。おねえちゃんからものをもらったりしてはいけないんですよ、清い修行者は。でもどうでもよくなって、「どうでもよい」が大事です、どうでもよくなってつい食ったんです。それで「この世で最後のヨーグルトを食べたし、この世で最後のねえちゃんも見たし、あー死にましょうね」と思って、夜が更けて、朝になると明けの明星が見えて、明けの明星が明るい空にふわっと消えていったとたんに生きるすべての欲が落ちて、悟りが開けたんです。完全に目標追求がなくなったんです。このまま死のうかと思っていると、伝説によれば神様が現れたんです。「それはいけません。あなたは今悟りを開く方法を発見しました。今までとは違うやり方で悟りが開けるやり方がわかりましたから、それを人に教えるべきです」と言われた。彼としては死んでもよかったし、教えてもよかった。教えるのはいわゆる仏の慈悲からではないんです。退屈しのぎなんですよ。だって生きてるわけで、飯食っちゃったから生きてる。生きてたら時間がある。時間があったら何もしなくてもいいけど、何かしてもいいじゃない。聞きたい人が来たら教えてもいい。だから80歳になるまで彼は30いくつから40年以上、お説教を続けるんです。それは僕たちが想像しているような無償の愛じゃないんです。彼の暇つぶしなんですよ。でなかったらそれは悟りじゃないもの。そういう世界もあるだろうと思いますが、それは僕たちには今や遠い。無理。だから別の方法を使わないといけない。そのあたりは可能だと思うけれど、これは大きな文化全体の枠組みの中での次の時代の考え方の実験中なので、スピリチュアルワークに来ていただいたら、うまくいけばそこに乗れるかもしれない。ああそうかって。(回答・野田俊作先生)