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論語でジャーナル

24,子貢問いて曰く、君子も亦(ま)た悪(にく)むこと有りや。子曰く、悪むこと有り。人の悪を称する者を悪む。下流に居て上(かみ)を訕(そし)る者を悪む。勇にして礼なき者を悪む。果敢にして窒(ふさ)がる者を悪む。曰く、賜(し)も亦た悪むこと有るか。徼(かす)めて以て知と為す者を悪む。不孫(ふそん)にして以て勇と為す者を悪む。訐(あば)いて以て直と為す者を悪む。

 子貢がおたずねした。「君子でも憎悪がありますか?」。先生が言われた。「君子にも憎悪の感情はある。1)君子は他人の悪を言い立てる人を憎む。2)下位の者が上位の者を非難する人を憎む。3)勇気はあるが礼儀をわきまえない人を憎む。4)自己の主張を通し、頑固で他人の意見を入れない人を憎む」。先生がたずねられた。「子貢よ、お前にも憎悪があるのか?」。子貢がお答えした。「5)他人の意見を剽窃(ひょうせつ:自分のものにする)して知識人ぶっている人を憎みます。6)傲慢であることを勇気と勘違いしている人を憎みます。7)他人の秘密にしておきたいことを暴き立てて、正直であると勘違いしている人を憎みます」。

※浩→君子がどのようなときに憎悪の感情(義憤?)を感じるのかを、孔子と子貢との対話を通して知ることができます。孔子は、他人の短所や欠点ばかりを触れ回っているような小人を憎み、立場の違いを無視して上位の人物(君主)を誹謗する人物を憎み、礼節や謙譲をわきまえない自己中心的な無礼者を憎んでいたと考えることができます。
 自己点検をしてみましょうか。
1):人のことを悪く言いたくなったら自分はどうかをまず点検してみる。たいていの場合、言えなくなります。
2)非難か諫言か区別する。
3)これは親から厳しく躾けられました。自分はときどき「礼儀」に敏感になりすぎて“慇懃無礼”にもなりました。
4)これはK先生とのやりとりでかなり改善されたと思います。
5)これはしょっちゅうやっています。「講釈師、見てきたような嘘をつき」です。
6)これはアリストテレスの「中庸」でクリアしています。
7)メディアの過剰の報道にいつも憤慨しています。たとえ有名人であっても、もうちょっと「そっと」してあげればいいのに、と思っています。

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家庭でルールを作りたいが集まってくれない

Q0338
 家の中でルール作りをしたいと思うが、みんなが集まってくれないんですが……。

A0338
 親たちはルール作りの必要を感じるが、子どもたちやご主人は感じない。これは機が熟していないのだと思う。ルールは、みんなが必要だと感じたときにならないと作れない。
 ある保育園でルールなしで出発しました。あるとき子どもが2階からおもちゃを投げたら、保護者の肩に当たった。園長先生は、3歳以上の全園児を集めた。「こんなことがあった。2階からおもちゃを投げたらお母さんに当たって痛かった。どうしたらいいと思う?」と聞いた。子どもたちは、「2階からものを投げないようにしよう」というルールを自ら作った。このルールは守られました。問題意識のないところで、あらかじめ「こんなことが起こったらいけない」とルールを作っておこうではダメ。必要に応じて作られ最小限でなければならない。(回答・野田俊作先生)

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論語でジャーナル

23,子路曰く、君子勇を尚(たっと)ぶか。子曰く、君子義を以て上(かみ)と為す。君子勇有りて義なければ乱を為す。小人勇有りて義なければ盗を為す。

 子路がおたずねした。「君子は勇気を尊重しますか?」。先生が言われた。「君子は勇気よりも正義を第一にする。君子に勇気だけがあって正義に欠けているときは内乱を起こす。小人に勇気だけがあって正義が欠けていると、盗賊を働く」。

※浩→ここで言う「君子」は治者つまり貴族のことで、「小人」は被治者つまり庶民を指しています。勇気第一と讃えられた直情的な子路に対して、勇気・腕力だけが抜きん出て強くなり過ぎると、君子でも小人でも道を踏み誤る恐れがあると訓戒を与えています。
 たびたび登場した「勇気」です。プラトンの「四元徳」は「知恵・勇気・節制・正義」プラトンは「主知主義」でしたから、何よりも「知恵」が大事です。二頭立ての馬車に喩えて、御者が「知恵」、二頭の馬が「勇気」と「節制」です。御者が二頭の馬をバランス良く制御して馬車を走らせるとき、「正義」が実現する、つまり、馬車は正しく走るということでした。孔子は、「正義」を第一としていて少しニュアンスが違うようです。アリストテレスはもう少し詳しく説明します。まず「徳」に2種類あり。「知性的徳」と「習性的(倫理的)徳」です。「知性的徳」に「知恵」と「思慮」があります。「知恵」は最も理想とする「観想」を楽しみます。「思慮」は「感情・欲望」を“中庸”であるように指導します。そうして「勇気」や「正義」や「友愛」などの「習性的(倫理的)徳」が実現します。「勇気(勇敢)」について、アリストテレスの『ニコマコス倫理学』では次のように書かれています。↓
 勇敢は「恐怖」ならびに「平然」に関しての中庸であることはすでに明らかにされた。ところで、われわれの恐れるところのものは、いうまでもなく、恐ろしいことがらであり、おそろしいことがらとは無条件的にいえばもろもろの悪しきことがらである。ひとびとが恐怖を「もろもろの悪しきことがらの予測」と定義している所以(ゆえん)である。われわれは、だから、あらゆる悪、たとえば不評・貧乏・病気・無友・死のごときを恐れるのであるが、勇敢な人間という場合、必ずしもこれらすべての悪しきことがらにかかわるものとは考えられない。
 なぜかというと、ことがらによっては、恐れるのが至当であり、またうるわしいことであるような、そして恐れないのは醜悪であるようなものもある。たとえば不評のごとき。これを恐れる人はよろしきひと、恥を知るひとであり、恐れないひとは恥知らずである。かようなひとを目して勇敢だと一部のひとびとのいうのは語の転用に基づく。けだし、かかる人間も勇敢なひとと何らかの類似を有してはいる。勇敢な人は恐れないひとなのであるから──。
 また、貧乏とか病気とか、総じておよそ自己の悪徳から生ぜず、自分自身に基づかないところのものは、思うに、恐るべきでないことがらである。これらに関して恐れるところがないからといって、かかるひとが勇敢なひとだということになるわけではない。われわれは類似に基づいてかかるひとをも勇敢だということになるわけではない。われわれは類似に基づいてかかるひとをも勇敢だといいはするにしても──。実際、戦いの危険のなかでは怯懦(きょうだ)でありながら、寛厚な人間で、金銭の喪失に対して全く平然としているといったようなひとびとも存在するのである。…………かくて、然るべきことがらを、然るべき目的のために、また然るべき仕方で、然るべきときに耐えかつ恐れるひと、またこれに準ずるごとき仕方で平然たるひとが勇敢なひとにほかならない。
 『ニコマコス倫理学』は大学で学び、私も在職中には、「倫理」や「現代社会」で生徒に教えてもきましたが、今、岩波文庫のページをめくると、あちこち、以前は難解だったところがすんなり理解できることに驚きます。
 もちろんアドラー心理学では、「勇気」「勇気づけ」は基本中の基本概念です、

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企業内での部下の失敗

Q0337
 企業内では部下の失敗は部内全体の失敗になりますが……。

A0337 1人の失敗を連帯責任として引き受けなければならないという構造はあまり良いルールではない。現にあるなら仕方ない。そのルールがあると、誰かの失敗は共同体に対して破壊的な行為になってしまう。共同体に対して破壊的な行為なら、みんなで共同の課題にし、解決について理性的・論理的に取り組むしか方法はない。(回答・野田俊作先生)

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論語でジャーナル

22,子曰く、飽(あ)くまで食らいて日を終え、心を用うる所なきは、難(かた)いかな。博奕(はくえき)なる者あらずや。これを為すは猶(なお)已(や)むに賢(まさ)れり。

 先生が言われた。「腹いっぱいに食べて一日を終わり、何事にも頭を働かせない、そんなのは困ったことだね。双六(すごろく)や、囲碁というのがあるではないか。それでもやるほうが、何もしないよりはまだましではないか」。

※浩→儒家は“無為”を嫌う「有為(人為)の思想」で、道家は“有為(人為)”を嫌う「無為の思想」です。孔子は、一日中何も頭を使わずに飽食をしている人を批判していて、何もしない無為よりも、まだ囲碁や双六などの遊びをしているほうがましだと言っています。特に孔子は、体力にも優れた活動家で、いつも何か働いたり考えたりしていないとい気がすまないのでしょう。ごろごろしている弟子を叱ったときの言葉でしょう。
 アドラー心理学で昔、性格(ライフスタイル)を知る手がかりとしていくつかのタイプをも受けていたことがあります。その当時は結構流行りましたが、そもそも人はそれぞれ“違う”ので、タイプ分けはナンセンスだということで、その後は言われなくなりました。ただ、何も手がかりのない状態からその人のライフスタイルを知るのは至難の業だということで、“手がかり”だということを忘れないで、その分類を参照すると便利なことはあります。孔子が「体力にも優れた活動家で、いつも何か働いたり考えたりしていないとい気がすまないのでしょう」と書かれていることから、「ドライバー」というタイプを思い出しました。「何かを達成しているとき自分はOKだ」というようなライフスタイルです。こういう人は、「無意味な時間」を過ごすことは苦痛なのでしょう。いつも何かをしていないといけない。私にもかつてはそういう傾向があったかもしれません。その後、『荘子』などを読んで、「無用の用」ということを学びました。一見何の役に立っていないような存在が意外なところで役立っているということです。「余白」とか「行間」とかの意味に通じるところがあるようです。最近、テレビのCSでアニメの「おいしんぼ」の再放送があって、録画してはちびちび見直しています。新聞社につとめる主人公の「山岡さん」は日頃はぐーたらしていて、勤務時間中でもしょっちゅう居眠りをしています。それが料理や食物のことになると、まさに天才的な才能を発揮します。あのぐーたらの時間にしんかりと「脳」を休ませているのかもしれません。「無用の長物」などと批判しないで、「無用の有用性」を活用できると、生活にゆとりができそうです。今、学校の先生方にはそれが許されない厳しい現状があります。良い教育ができるわけがない!

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