Q0326
同じ親が育てていて環境はほとんど変わらないのに、不適切な行動をとる子と、適切な行動をとる子ができるのはどうしてでしょうか?
A0326
きょうだい競合です。親という1つの賞品をめぐって子どもたちが競争関係にある。自分以外のきょうだいが、賞賛をたくさん手に入れるので、自分がいくら努力しても、他のきょうだいほどたくさんの賞賛を得ることができないと思うと、注目、あるいは権力という、より不適切な目標を中心にして行動する子どもができてきます。
もしも、きょうだい全員が不適切な行動をする場合、これは「家族の価値」(両親が共通して持っているかあるいは対立している価値観)に問題があります。例えば、両親ともに犯罪者の家庭だと、犯罪的な価値観を当然身につけやすく、全員が不適切な、反社会的な行動に走りやすくなるでしょう。
しかし、きょうだいの内の1人だけ、あるいは、ごく少数が不適切な行動をし、大多数は大丈夫だという場合には、家族の価値でなく、「家族の雰囲気」(親の問題解決の方法)の側に問題があります。
何が正しく何が誤っているかは理解されているが、家族の雰囲気がきょうだいの競争をあおる雰囲気であるために、子どもたちが競争をして、ある者は勝ちある者は負け、その負け組が不適切な行動を始めるわけです。(回答・野田俊作先生)
11,子曰く、礼と云い、礼と云う、玉帛(ぎょくはく)を云わんや。楽と云い楽と云う、鐘鼓(しょうこ)を云わんや。
先生が言われた。「礼だ礼だとやかましく言うが、何も神(祖先)に捧げる玉や絹ばかりが礼ではなかろう。音楽だ音楽だとやかましく言うが、鍾や太鼓を鳴らすばかりが音楽ではなかろう」。
※浩→「礼楽の形式」よりも「礼楽の本質(精神性)」のほうがより重要であることを簡潔に述べています。神への捧げものや実際の音楽演奏だけが礼楽の道ではないということで、弟子たち、特に子張・子夏・子遊などの若い弟子たちは、とかく本質(=礼楽の精神)を忘れているので、戒めたのでしょう。
「礼」は、秩序ある善意あるいは愛情の象徴的表現で、「楽」は、秩序ある調和の象徴的表現です。象徴的表現ということは「道具」がいります。礼の道具はまず、「玉(ぎょく)」と「帛(はく)」(玉を載せる布)で、音楽の道具(=楽器)はまず鐘・太鼓です。重要なのはそれらによって象徴される精神です。
昔、水前寺清子さんが「ボロは着てても心は錦、どんな花よりきれいだよ、若いときゃ二度ない、どんとやれ男なら、人のやれないことをやれ」と元気良く歌っていました。「いっぽんどっこの歌」でしたか。彼女は熊本出身で、“女村田”という愛称もありました。浪曲演歌の大御所・村田英雄さんを思わせるパワーが魅力です。節々の端が「ぃよっ!」とか「ぃやっ!」とかで終わるのが特徴的でした。熊本と言えば、筆者は、民謡の「おてもやん」が大好きです。ところが、熊本方言で歌われているので、意味がほとんどわかりません。
おてもやん あんたこの頃嫁入りしたではないかいな (おてもさん、あなた最近結婚したんじゃないの?) 嫁入りしたこたしたばってん (結婚したことはしたけれど) ご亭どんがぐしゃっぺだるけん、まあだ杯ゃせんだった (旦那が天然痘跡が残っていてブ男なので)、まだ三々九度の杯はしてないの) 村役(むらやく)鳶役(とびやく)肝入り(きもいり)どん (村の役付きさんや火消しの頭や仲人さん) あん人たちのおらすけんで あとはどうなっときゃあなろたい (いろんな世話役がいらっしゃるので、あとはうまくとりなしてくれるでしょ) 川端町つぁんきゃあめぐろたい (それより、川端町の方に回って歩きましょう♪) 春日ほうぶらどんたちゃ 尻ひっぴゃーで 花ざかり花ざかり (春日のかぼちゃのような男たちが裾を引っ張ったりして、私は人生の花盛りなの♪) ピーチクパーチクひばりの子 玄白なすびのいがいがどん (ひばりのように浮かれっぱなしの男や、野暮ったいイガグリ男たちは私の趣味ではないからね!)
一つ山越え も一つ山越え あの山越えて 私はあんたに惚れとるばい 惚れとるばってん 言われんたい おいおい彼岸も近まれば 若者(わきゃもん)衆も寄らすけん 熊本(くまんどん)の夜聴聞詣(よじゃもんみゃ)りに ※夜説教を聞くこと ゆるゆる話も きゃあしゅうたい(ついでだからやりましょう) 男振りには惚れんばな 煙草入れの銀金具が それがそもそも因縁たい あかちゃかべっちゃかちゃかちゃかちゃ
おてもやんは、見かけだけでなく、煙草入れの銀金具が素敵だとかそういう男っぷりに惚れる女性のようです。なかなか粋な女性です。「おてもやん」については、肥後(熊本)の若い女性の通称とも、明治の終わりに実在した人物とも言われているそうですが、真相は定かではありません。作詞、作曲、 振付けは慶應元年生まれの永田稲(イネ)さんだと伝えられています。
Q0325
年齢によって不適切な行動の目的は変わるんですか?
A0325
ある程度そういうことはあります。今回の5つの段階(「ほめられたい」を含む)は、だいたい10歳くらいまでの子どもをモデルにしています。中学、高校になると、いくつか付加的な目標ができます。
例えば興奮する。ハイになるという目的。バイクに乗り回って興奮するとか。あるいは、その時期に非常に重要なのが、友だちと一緒にいるという目的。一緒にいて深い関係を持つというような目標が、不適切な行動の主な目的になることがあります。
しかし、結局5つの目標に到達します。例えば高校生の息子が、親の望まない友だちとつきあっている。「あんな友だちとつきあうのはおやめなさい」と親が言う。子どもはかまわずつきあっているということになると、親子の関係は権力闘争です。親の言うとおりにつきあうのをやめると負け、つきあい続けると勝ちという権力闘争です。
副次的な思春期的な目標ができても、親との対人関係を見る限りでは、5つの段階で説明はつくと思います。小学校に入ったとたんに無気力な子はいない。中学校に入ったとたんに無気力な子はいる。
回復するときは、必ずしも逆の順番をたどるとは限らない。無気力から突然「貢献」にジャンプすることもあります。
ある子どもは、高校1年生になって1週目に登校拒否を始め、ほぼ3年間家の中で無気力状態で閉じこもっていました。何度か就職もしたが続かなかった。ある飲食店に勤めたとき、経営者に非常に気に入られて、「君はこの店になくてはならない存在だ」と言われた。このとき、彼は変わった。生まれて初めて自分が必要とされていること、貢献感を持つことができました。そのとき、彼はまったく健康なパーソナリティーにジャンプしました。
そのように、無気力の状態から貢献を中心にする健康なパーソナリティーへ突然変わることもあります。途中一度も権力闘争とか復讐とかの時期を逆に通ることはなかった。(回答・野田俊作先生)
10,子、伯魚(はくぎょ)に謂いて曰く、女(なんじ)周南(しゅうなん)、召南(しょうなん)を為(まな)びたるか。人にして周南、召南を為ばずんば、それ猶(なお)正しく牆(かき)に面して立てるがごときか。
先生が息子の伯魚に言われた。「お前は「詩経」の周南・召南の部を学んだことがあるか?人間として周南・召南の部を学ばないと、まるで塀(垣)を目の前にして立っているようなものだ(目隠しされたようで何も周囲が見えず、身動きがとれないということになる)」
※浩→孔子が息子の伯魚(孔鯉)に詩の価値・効用について語っています。『詩経』の持つ重要性を教えるために、身近な例え話を用いて語りかけています。「周南」「召南」の巻は『詩経国風』十五巻の初めにある二巻で、最も純粋は愛情のうた、おおむね男女の愛情をうたった詩です。時あたかも伯魚は、結婚しようとしていたという説があります。
ことに結婚しようとする人間として、この優れた愛情の文学を学ばないとすれば、ちょうど壁に向いて立っているようなもので、目隠しされたのと同じだと、孔子は言っています。「為」を「まなぶ」と読んでいます。ここで、その詩の一例をご紹介します。
窈窕の章:淑女を歌う(詩経国風:周南)
關雎(壺齋散人注)
關關雎鳩 關關(かんかん)たる雎鳩(しょきゅう)は
在河之洲 河の洲にあり
窈窕淑女 窈窕(ようちょう)たる淑女は
君子好逑 君子の好逑
參差行菜 參差たる行菜は
左右流之 左右に之を流(もと)む
窈窕淑女 窈窕たる淑女は
寤寐求之 寤めても寐ねても之を求む
求之不得 之を求むれども得ざれば
寤寐思服 寤めても寐ねても思服す
悠哉悠哉 悠なる哉 悠なる哉
輾轉反側 輾轉反側す
參差行菜 參差たる行菜は
左右采之 左右に之を采る
窈窕淑女 窈窕たる淑女は
琴瑟友之 琴瑟(きんしつ)もて之を友とせん
參差行菜 參差たる行菜は
左右撰之 左右に之を撰(えら)ぶ
窈窕淑女 窈窕たる淑女は
鍾鼓樂之 鍾鼓もて之を樂しましめん
和やかに鳴きあうミサゴの夫婦が川の中州にいる、窈窕(ようちょう)たる淑女は、ミサゴの妻のように、君子の妻とするに相応しいものだ
生い茂った水菜は左右に求めて食卓を飾るべきものだ、窈窕たる淑女は、目覚めていても寝ていても、求めに求めて伴侶にすべきものだ
窈窕たる淑女を求めて得ることができないならば、目覚めていても寝ていても残念に思うべきだ、ああ残念のあまり、身のもだえる思いがする
生い茂った水菜は左右に摘んで食卓を飾るべきものだ、窈窕たる淑女は、琴瑟(きんしつ)を以てもてなすべきものだ
生い茂った水菜は左右に選び取って食卓を飾るべきものだ、窈窕たる淑女は、鍾鼓を以て楽しんでもらうべきものだ
この詩は、配偶者を求めて歌っていることから、中国人にとっては古来、婚礼の席で歌うべきめでたい歌だとされてきたそうです。
「關關(かんかん)」とは毛伝に和声をさすとある、ミサゴの夫婦が互いに応じあって声を交わすさまを表しているのであろう、ミサゴに限らず鳥は夫婦仲が良いものであるから、人の婚礼のめでたさを飾るのに相応しい。また「窈窕」とは、つつしみ深い美しさをさす、中国人にとって、女性としてあるべき理想を表わした言葉であった、だから詩の中では、そのような婦人は寝ていても覚めていても求めるべきだと言っています。
『詩経国風』に出てくる十五の国・地方のうち、最初に位置するのは周南である。周南は次に出てくる召南とともに、周の南の地域の歌謡を集めたものだとされます。周の始祖后稷(こうしょく)から数代を経たとき、周は故地を分かちて、周公と召公とにそれぞれ治めさせた。いずれも今の陝西省の地域です。周は後に華北全体を覆う大帝国となりますが、その中でも陝西省にあった周と召とは、国家の中核をなすところだったのです。
この周南篇に収められた作品は、いづれをとってみても、高い格調を感じさせる。中でも冒頭を飾る「關雎(かんしょ)」は「窈窕の章」とも称され、古来漢詩の精髄とも見なされてきたもので、蘇軾(そしょく)もあの「赤壁の賦」を、この歌への言及を以て始めているとか。
Q0323 健康なパーソナリティーの項目
健康なパーソナリティーの項目をたくさんか挙げられましたが、それらの1つでも欠けていたらいけないのですか?
A0323
われわれは積極的に健康の定義をしたい。これはスポーツのトレーナーと同じです。普通われわれは元気に暮らしているが、スポーツのトレーナーはもっと元気にならないか、もっと身体的な能力、例えば走る能力、飛ぶ能力が大きくならないかを考えます。それと同じように、われわれはもっと健康にならないか、ある程度満たしていない人も、そこそこ健康に暮らしているわけですが、もっと健康にならないか考えて、実現可能な理想をいくつか申しあげました。(回答・野田俊作先生)
Q0324
不適切な行動ばかりで、適切な行動をしていないように思える子どもがいる。これはどう考えたらいいですか?
A0324
適切な行動は目立たないものです。例えば、朝起きてくる、家族と一緒にご飯を食べる、学校へ行く、ちゃんと家に帰ってくる、遅くなって帰ってくる、ゆっくり遊んでくる、夜にはお風呂に入る、これらはすべて適切な行動です。
当たり前だと思われている行動、家族の日常生活、あるいは学校の日常生活の中で、ごく当たり前のこと、子どもがちゃんとやっていることが適切な行動です。
ですから、朝起きてきたら声をかけてほしい。「起こさないでもひとりで起きたね」。「助かったよ、ありがとう」と言ってほしい。あるいは学校から元気に帰ったら、「元気に帰ってきてくれて嬉しい」と言ってほしい。丁寧に声をかけてほしい。
適切な行動というのは、何か特別にびっくりするようなことではなくて、毎日毎日の基礎的な活動のことなのです。(回答・野田俊作先生)