19,子曰く、予(われ)言うこと無からんと欲す。子貢曰く、子如(も)し言わずんば、則ち小子何をか述べん。子曰く、天何をか言わんや。四時(しじ)行われ、百物(ひゃくぶつ)生ず。天何をか言わんや。
先生が言われた。「私はもう何も語るまいと思う」。子貢が言った。「先生がもし何も語ってくださらないと、私たち弟子は何にもとづいて語りましょうか」。先生は言われた。「天は何か言うだろうか。天の運行によって四季は自然に運行し、四季の移り変わりによって万物も生育している。天は何を語るだろうか」。
※浩→魯に帰国した晩年の孔子が、ある日突然、「これから君たちに何も話をしてやらないことにした」と言い、弟子たちがびっくり仰天しています。秀才の子貢は慌てて、取り消してほしいと願いました。孔子が何も語らないという理由は、世界の根本原理は、孔子の言葉の中にではなく「天命の示す摂理」にあるからで、孔子はすべての疑問を孔子の言葉に頼って解決しようとする弟子たちの態度を戒めたのです。天は何も語ってはくれないが、規則正しい天候の周期と万物の生成の中には「事物の摂理・本質」が内在している、教育者としての孔子はそのことを弟子たちに伝えたかったのでしょうが、秀才の子貢でさえ、このことがよくわかっていなかったのでしょう。
『易』に、「言は意を尽くさず」とあるように、言語は実体の部分的な指摘でしかない。さらに、言語の指摘が実体を懸命に追跡し懸命に模写しようとすればするほど、指摘に漏れた覆われざる部分が増加する、そういうおそれが孔子にあったのでしょう。納得です。アドラー心理学の基本前提(理論)に「認知論(今は“仮想論”)」というのがあります。「認知論」という名称が「仮想論」になったのは、アドラーの原点に戻って表現を変えたのだそうですが、その違いは次のように説明されました。
まず、「外界」があって、人がそれを「知覚」します。その「知覚像」に「言葉」がくっついて「意味づけ」することを「認知」と言いました。
「仮想」はどう考えるか?まず、漠然とした「外界」(カオスでしょうか)があって、人は「言語」でもって外界の部分部分を切り取って、自分の主観的世界を形成するのだそうです。その世界は「実物」の世界でなく、「仮想」の世界です。そして「言語」でできていますから、「言葉」を正確に使わないと世界が正しく見えないです。「言葉の限界が世界の限界だ」と言ったのは論理実証主義のウイットゲンシュタインでした。主観的世界よりも「外界」のほうが広いですから、当然、人知の及ばない未知の世界が存在するはずです。このことが孔子の言う、「言語は実体の部分的な指摘でしかない。さらに、言語の指摘が実体を懸命に追跡し懸命に模写しようとすればするほど、指摘に漏れた覆われざる部分が増加する」ということなのでしょう。仮想論のおさらいになりました。感謝です!
Q0333
相手が攻撃的になったり、復讐的になったりしたときにはどうすればいいんでしょうか?
A0333
われわれがいかに主張的であろうと努めても、相手が攻撃的になり、復讐的になるときがあります。そのときには相手は、権力闘争を仕掛けているのです。相手が権力闘争を仕掛け、こちら同じように攻撃的になりたい気持ちがあるときの対応は、そこから降りることです。その場をとにかく離れて、一旦「非主張的」になって、自分が冷静でいられるように、すべてのコミュニケーションを打ち切ることです。復讐的に打ち切らないで、非主張的に打ち切ってください。そしてしばらく時間をおいて、冷静に話せるかどうか、自分自身に確かめ、また相手にも「さっきのお話について、さっきは感情的になってしまったから、少しお話がしにくかったんだけど、もう一度冷静に聞いていただけますか?」というふうに問いかけてみて、冷静に話ができる状態を作ってから話をするのがいいと思います。
攻撃的なコミュニケーションを続行すると、最終的には必ずどちらかが復讐的になって、悪い後味を残して、2人の関係全体を悪くします。(回答・野田俊作先生)
18,子曰く、紫の朱を奪うを悪(にく)む。鄭声(ていせい)の雅楽を乱るを悪む。利口の邦家(ほうか)を覆(くつがえ)すを悪む。
先生が言われた。「混合色の紫が、原色の朱の美しさを圧倒することを私は憎む。扇情的な鄭の音楽が調和の取れた古典音楽を混乱させることを私は憎む。まことしやか(小利口)な表面だけの弁舌が、国家を転覆させることを私は憎む」。
※浩→中国の古代では、赤などの原色を「正色」、紫などの混合色を「間色」とし、正色を尊びました。孔子は、移りゆく時代を感覚的に捉えて、さびしく挽歌を奏でています。新しいだけのまやかしが、厳格な調和を持った古典の世界をつぶしていくのを見るに堪えなかったのでしょう。過去への復帰を唱えると、『老子』になっていまいますが、孔子も「温故知新」と言っています。老子の場合はもっと極端に「原始」まで遡り原初に復帰することが「道」の実践であると考えました。私は、公私苦難の時節に『老子』を読み耽り、その逆説的人生観を試みることで救われた体験があります。『老子』に出会うきっかけを与えてくれたのは、備前高校時代に親交のあった窯業科(のちセラミック科)の若手教師・藤井良勝先生です。大阪出身の方で、やがて大阪府に転出されましたが、その後どうなさっているでしょう。もちろん、現在は定年退職されているはずです。当時、備前高校は普通科5クラスと工業科4クラスが合体する大規模校でした。ただ、普通科は全県学区で、隣町の邑久町(現・瀬戸内市)の邑久高校が学区制で、大学進学にはこちらのほうが向いていて、備前市からも進学希望者の多くが邑久高校へ行き、備前高校普通科は一段下に見られていました。いくつか事件もありましたが、前にも言いましたように職員の結束は強く、和気藹々とした職場でしたから勤め心地は抜群でした。窯業科(現・セラミック科)にはいわゆる“猛者(もさ)”とされそうな連中もけっこういて、授業にも一苦労しました。その窯業科の若き教師・藤井先生は、春風駘蕩という四字熟語がぴったりの好男子でした。校長がときどき全教室を巡視していました。やさしい藤井先生の授業は生徒たちもリラックスしていてか、けっこう騒がしかったようです。あるとき、廊下を校長が近づいてくるのに気づいた藤井先生は、生徒に改まって言いました。「頼む、静かにしてくれ。校長に見られたらわしがクビになる」と。すると、それまで騒がしかった教室が、瞬く間にシーンと鎮まりました。この先生が、生徒たちに愛されていることはこれでよくわかります。この先生が、『老子』を愛読されていて、私にも紹介してくれました。それ以後、私の愛読書になりました。ところが、ずーーーっとのちになって、野田先生から、老荘思想は土着思想だと教わって、ガーンとショックを受けました。孔子の思想はクリエイティブで、その土着化したものが老荘だとおっしゃるのです。その論拠は、「万物の根源」を認めているからです。老子は「万物の根源は道である」と説きます。それで、不本意ながらずっと遠ざけていましたが、「道」の解釈はさておいて、後編の「徳」の側には学ぶべきことが多々あります。その逆接的な“したたかな”生き方が、乱世を生き抜くには向いているのです。今の世の中は、どう見ても「乱世」です。
Q0332
主張的に表現すると、どんな要求でも通るのですか?
A0332
残念ながらそうではありません。主張的に要求すると、自分の要求が通る可能性は、攻撃的に要求する場合よりもたぶん増えます。
多くの人は誤解していて、攻撃的に要求したほうが要求が通るだろうというふうに思っていますが、実際にやってみると、主張的に要求したほうが、相手の側はその要求を聞いてあげたいという気持ちが増えて、かえってその要求は通りやすくなることがあります。それでも百パーセント通るわけではありません。なぜならば、人間の利害関係というものは、どこか対立するところがどうしても残ってしまうからです。
あらゆる努力をして、主張的であって、かつ要求を通すことができなかった場合には、攻撃的になるよりはその主張を一旦引っ込めて、のちほどまた工夫をして、別の言い方を考えてみて要求することをお勧めします。(回答・野田俊作先生)
17,子曰く、巧言令色、鮮(すく)なし仁。
先生が言われた。「弁舌爽やかに表情たっぷり。そんな人たちに、いかに本当の人間の乏しいことだろう」。
※浩→「学而篇」の第三章と同文です。「巧言」は巧みな弁舌、「令色」は豊かな表情。お世辞とか媚びとかの訳は誤訳だそうです。むしろお世辞や媚びとわかっているものは大害がない。そう見えないところが曲者だと、貝塚先生。『老子』には「真言は美ならず、美言は真ならず」とあります。『老子』から引用しておきます。↓
信言は美ならず、美言は信ならず。善なる者は弁ぜず、弁ずる者は善ならず。知る者は博からず、博き者は知らず。聖人は積まず。既(ことごと)く以って人の為にして己(おの)れ愈々(いよいよ)有し、既く以って人に与えて己れ愈々多し。天の道は利して而して害せず、聖人の道は為して而して争わず。
現代語訳→信頼に足る言葉には飾り気がなく、耳障りの良い言葉は信頼するに足りない。善人とは多くを語らないもので、おしゃべりな人は善人とは言えない。本当に知恵がある人は物知りではないし、物知りな人に大した知恵はない。そうして「道」を知った聖人は蓄えをせず、人々のために行動して大切なものを手に入れ、人々に何もかも与えてかえって心は豊かになる。天は万物を潤しながらも害を与える事はなく、聖人は他人と争わずに物事を成し遂げる。
乱世の処世訓としては『老子』は最適です。同じ「老荘思想」といっても、荘子の言う「聖人」は、俗世を離れた“仙人”のようですが、老子にはまだ野心が感じられます。それが無為自然の逆接的人生観です。儒家とは逆転の発想ですが、なお成功を希求しているところがしたたかな人生観でもあり、魅力も感じます。
ものの言い方ひとつとっても、虚飾は避けるとはいえ、ぶっきらぼうな言い方が良いのではないと思います。対人関係を円滑にする程度の修辞は必要だと思います。野田先生から、かつて、「トピック」「ロジック」「レトリック」ということを教わったことがあります。私は次のような質問を「ネット」でしました。↓
夏休み中にやった講演会で、2つ後味の悪い思いをしました。
1つは、中学の職員研修会です。ここでは、学級での生徒の問題行動をどう理解し、どう対処するかについて少しお話しました。最後の質問で、今までずっと問題行動の原因や背景をつぶさに究明することが解決につながると信じてきた。私の話では、原因究明は解決につながらないということだが、それは受け入れられない、というものです。
私は、ついつい、目的論というのは基本前提の1つで、いわば最初の思い込み。これを押しつける気はありません。1つの提案としてお話したのです。あとになって、どうも論破したような気がして自分で不愉快になりました。
このように、まず基本前提レベルで抵抗する人への対処法を教えてください。
もう一つは、幼稚園の職員研修です。「勇気づけのことばがけ」というテーマでワークをしました。その中で、開いた質問を使って情報収集をすると、感情的に巻き込まれることが少なく、クールに対応できるし、子どもの発言を制約することが少ないので、より援助的だとかいうことをお話ししました。ワーク後の食事の時に出た質問に、ある先生が、自分は園児に対してはクールにふるまえるが、我が子になるともっとホットに喜怒哀楽を出し切って、母性愛のままにふるまうとおっしゃいました。
「ああ、そうお考えですか?」くらいで逃げておいてもよかったのに、食事中というリラックスした雰囲気についつい、母性愛の疑わしさや、親からは愛情のつもりでも子どもには暑苦しいかもと、やはり論破してしまいました。勇気くじきをしたようで、とても後味が悪いのです。
野田先生からの回答です。↓
議論というものは、トピックとロジックとレトリックの3つのポイントを意識しておこなわないといけないと思っています。この場合、話題(トピック)は、基本前提に関連することで、これは絶対に譲れない領域です。基本前提以外のトピックであれば、譲れる部分もあります。たとえば、2番目のケースで、
>ある先生が、自分は園児に対してはクールにふるまえるが、我が子になるともっとホットに喜怒哀楽を出し切って、母性愛のままにふるまうとおっしゃいました。
というようなのは、技法がトピックですから、譲ってもいいと思います。将来、アドラー心理学が「変に技巧的になるよりも、母性愛のままにふるまうほうがいいのだ」と主張するようになる可能性は、ゼロではありません。しかし、アドラー心理学が、「行動の原因が大切だ」と主張するようになる可能性は、まったくゼロです。基本前提だけは、絶対に譲れません。しかし、技法は、譲れないことはないのです。2番目の事例だと、「なるほどね」くらいのことを言って、引き下がるかもしれません。
1番目のケースでは、目的論がトピックですが、相手は原因論者で、目的論と原因論は、理屈(ロジック)として、相互に排他的ですから、説得するとなると全面撃破になります。トピックとして譲れない上に、ロジックとしても排他的なんです。
排他的でないロジックもあって、たとえば、ロジャーズふうの「受容と共感」とアドラー心理学の治療関係とは、違う部分もあるけれど共通部分もあって、その共通部分を手がかりに、違う部分を明確にするという方法が可能です。たとえば、「あなたの意見には賛成だが、こういうことも追加したほうがいいのではないか」という言い方(レトリック)が可能です。
ロジャーズ派(以下R):相手の気持ちにもっと共感しないといけないと思います。
アドラー派(以下A):その通りだと思います。ところで、「気持ち」というのは、どういうことでしょうか?
R:感情です。
A:そうですね。思考も「気持ち」だと思いますが、どうでしょうか?
R:まあ、思考も「気持ち」ではあります。
A:「感じたり考えたり」したの結果、「こうしよう」と決めますね。つまり、「意思」をもつわけですね。「意思」も「気持ち」でしょうかね?
R:まあ、そう言えないこともないですね。
A:そうすると、「気持ち」というのは、思考や感情や意思のことなんだ。ところで、相手の思考や感情や意思を知るためには、どうすればいいんでしょうかね?
R:傾聴すればいいんです。
A:そうですね、まったく賛成です。
一番目のケースでは、こんなふうに、共通部分を手がかりにすることができませんので、全面対決になってしまいます。もし、全面対決しないとすれば、「双方の主張は、意見にすぎず、事実であるとはかぎらない」というレトリック、すなわち、「私はこんなふうに考えているのですが、あなたはそうお考えなのですね」式のレトリックしかないのではないかと思います。
全面対決も、場合によっては悪くないと思います。その場合には、相手はどうせ降伏しないので、他の聴衆をこちらに引き寄せることを目的に、厳密なロジックと華やかなレトリック(たとえば、「たとえ話」とか、相手の自己矛盾を突くとか)でもって攻撃します。講演会の後の質問や、講座の中での質問などで、私はしばしば攻撃的にこの方法を使っています。敵も増えますが、味方も増えます。敵と味方と、どちらがより増えるかは、むずかしい手加減がありそうですね。私は、敵を増やすのがうますぎるようです。昔、@niftyの心理学フォーラムで、フロイト派と論戦したことがありますが、
フロイト派:川を飛び越そうとしても、岸にパンツのゴムが引っかかっていて、引き戻されてしまう。
私:パンツを脱げばいいじゃないか。
と、ものすごいレトリックを使って、「固着」というアイデアについて論争したことがあります。敵は今でもフロイト派ですが、アドラーのファンは、この論戦でずいぶん増えたと思います。
東日本地方会である人が、「これまでは自分の感情に気がつかないままで、言い方や声の調子をやさしくしていたので、結局は芝居しているだけで、本当の自分じゃなくて、だんだん苦しくなった。今は、感情に気がつくようになって、自然にふるまえるようになったので、毎日楽しい」という意味のことをおっしゃっていました。
アドラー心理学の育児法への反発の多くが、「そんなの、人為的で、自然じゃないから、いやだ」というものです。一方、フロイト派のウィニコットが、good enough mother ということを言って、「自然のままの母親」を礼賛し、それに多くの母親が共感をおぼえています。
しかし、「自然」というのは、練習の末に身につくものだと思います。正しく学ぶと第2の天性となり、本人にとってきわめて「自然な」動きになると思います。
つまり、「母性愛」論者が怖れているのは、「不自然な育児」だと思います。私も「不自然な育児」には反対です。しかも、「母性愛」には反対ではありません。問題は、「野生の母性愛」は原始時代の生活に向けて作られているのです。それを、現代生活に向いた「現代の母性愛」に育てなければならないのです。
そこで、1)「母性愛」=「自然な育児」と置き換えます。2)「共同体感覚は生まれながらには可能性であるにすぎず、意識的に育成しなければならない」というアドラーの言葉を、「母性愛は生まれながらの可能性であるにすぎず、意識的に育成しなければならない」と置き換えます。3)相手がこれに賛成してくれれば、「では、どうすれば、原始的な可能性でしかない母性愛を、現代的な母性行動として実現させることができるでしょうか?」と問いかけることができて、相手をあまり怒らせないで、アドラー心理学の主張に耳を傾けてもらえそうに思います。
ともあれ、私は、議論するときには、トピックとロジックとレトリックの3つの点を点検して、喧嘩するのかしないのかを決めています。しかも、かなりの喧嘩好きです。心理臨床学会の発表で喧嘩しないように気をつけなければ。
たしかに、大森さんがなさった「論理的結末」風のレトリックもありえます。ドライカースはそれを愛用して、結局、味方よりも敵を多く作ったように思います。私は、相手のキーワードはそのまま認めて、その意味をすり替えるという、より心理療法家ふうのレトリックを好みますが、さて、これで嫌われなくてすむかどうか。