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論語でジャーナル

13,子夏曰わく、仕(つか)えて優なれば則ち学ぶ。学びて優なれば則ち仕う。

 子夏が言った。「官吏として主君に仕えて余力があれば学問をする。学問をして余力があれば仕官をする」。

※浩→「仕」は役人となって奉仕すること。「優」は余裕ができること。「ゆたか」と訓読みできる。役人として奉仕しながら、余裕ができたら学問をせよ。そういえば、「学校」の英語はschoolで、これはギリシャ語のscholēが語源です。「閑暇」「ひま」という意味で、古代ギリシアで自然哲学から始まるギリシャ哲学の形成に寄与した時間的な「ゆとり」のことです。日本でも、戦前の貧しい時代には、子どもはまず家計を支えるために働かされました。経済的に余裕がある家の子が学校で学べたのです。ですから、学校へ行ける子は本気で学んだはずです。今は、学びたくない子が、親の見栄などのために強制的に学校へ行かされていたりします。
 前半の「仕えて優なれば則ち学ぶ」は「学而編」の「行う余力有らば、則ち以て文を学ぶ」にもとづいています。後半は、孔子の言葉にはないので、子夏が付け加えたのでしょう。孔子の言葉が弟子たちによって拡張され敷衍されていく過程がわかります。
 子夏の言葉はここで終わりです。次からは子遊、曽子などの言葉が続きます。
 そういえば、私自身の定年後の生活は、これに近かったように感じます。有り余る時間をアドラー心理学の学習継続に使い、余力を非常勤のお勤めに使ってきました。バランスとしては学習継続のほうが重く、お勤めは軽いようです。これはお勤めの土台がしっかりしているということですから、とても好都合です。現在現職の先生方とは真逆かもしれません。現場の先生方は雑務(と言っては失礼かも)に翻弄されて、ご自分の専門領域はもちろん趣味など余力を活用する暇などないのが現状のようです。これれはゆとりのある教育の実践は難しいでしょう。文部科学行政で真摯に対応しないと、この国の将来は危ういです。昨日のニュースで、自動車の輸出量で中国が日本を抜いて世界一位になったと報道していました。「経済大国」は沈みつつあるのでしょうか?

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発達検査

Q0374
 保護司さんが、「子どもの発達が気になって」とか、「学校で怠惰で困ります」と言って相談に来られます。その際、発達検査を依頼される方もいらっしゃいます。「発達検査をしましょう」と持ちかける心理士もいます。子どもの行動など育児相談に発達検査は必要ですか?その結果をどう活用できますか?

A0374
 発達検査は必要です。心理テストよりもずっと信頼できます。だって、発達検査ってごく簡単なんです。ある年齢の子ができるかどうかを見ているだけですから。発達検査の問題点は、それを価値として判断することです。今10歳の子が8歳のことしかできないとしたら、その子は劣っていると思うことか。逆に、10歳の子が12歳の子にできることをしたらすぐれていると思うことか。違う。ただ早いか遅いかだけのこと。最終的には、みんな大人になります。早くなるかゆっくりなるかだけの問題で、すぐれているとか劣っているとかの価値的な問題じゃないんだけど、世の中の人たちがそう考えないのが問題です。これは発達検査の罪ではない。みんなの偏見の罪です。だから、発達検査はすべきです。なんですべきかというと、クラシフィケーションです。その子に適切な教育を施すためです。体は10歳で発達が8歳の子に、10歳の教育を施したら、差別です。その子がついていけないのがわかりきっているんだから。だから8歳の教育を施すべきで、それが適切な教育だと思います。そこに、「この子は10歳なのになんで8歳の教育なんですか?差別でしょ」と、世の中の人が間違った言葉を使うから、問題が起こっている。これは発達検査の罪ではない。競合的な社会の罪なんです。コンペティティブな社会で、他人とこの子とを比較して、他の子よりもすぐれているか劣っているかを裁きたい。この態度そのものが間違っていて、人間は1人1人特有の人生を生きていて、特有の発達をしますから、早いからといってすぐれているわけでもないし、遅いからといって劣っているわけでもない。それを、早いからすぐれている、遅いから劣っているという、偏見を世の中にばらまいていることの問題です。
 障害児教育については、この偏見が大変なんです。一番正直に言えば、障害のある子を普通のクラスで教育するのは差別です。その子にはその子に合った教育をしてあげるのが、われわれの義務だし、またその子の権利だもの。また、普通のクラスの先生には、障害児を教育する責任はないと思います。それは、障害児についての訓練を受けた、特殊な知識や技能のある先生がすべきです。これが科学的な冷静な理屈ですが、親も教師もそう思っていない。みんなと同じクラスにいるのが平等で、別のクラスに送るのは差別だと言う。その結果、結局子どもたちが不幸になっている。ですから、この話はもう1回頭を冷やして冷静に考え直したほうがいいと思います。(回答・野田俊作先生)

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論語でジャーナル

12,子游曰わく、子夏の門人小子(しょうし)、酒掃(さいそう)応対進退に当たりては則ち可なり。抑(そもそ)も末(すえ)なり。之を本(もと)づくれば則ち無し、これを如何(いかん)。子夏これを聞きて曰わく、噫(ああ)、言游(げんゆう)過(あやま)てり。君子の道は孰(いず)れをか先ず伝え、孰れをか後に倦(う)まん(/倦えん=つたえん)。諸(これ)を草木の区して以て別あるに譬(たと)うべし。君子の道は焉んぞ誣(し)うべけんや。始め有り卒(お)わり有る者は、それ唯(た)だ聖人か。

 子游が言った、「子夏の門下の若者たちは、拭き掃除や客の応対、儀式の動作については優れている。しかし、それらは末梢的なことで、根本的なことは何もできない。これは、どんなものだろうか?」。子夏はそれを伝え聞いて言った。「ああ(嘆息)、子游は間違っている。君子の道は何を先に教えて何を後に(いやというほど)教えるか、ちゃんと順序がある(見分けることだ)。それは、ちょうど草木の種類によって育て方が違うようなものである。君子の道もどうして同じ教え方をすべての人に押し付けられようか。始めから終わりまで同じ一つのやり方ができるのは、(君子を越える)聖人だけだろうね(初歩は教育の課程として必須なのである)」。

※浩→「酒掃(さいそう)」は拭き掃除。「言遊」は子遊、本名・言偃。「倦」を吉川先生は「うまん」(いやというほど教える)、貝塚先生は「つたえん」と読まれる。「誣(し)う」は吉川先生は「ごまかす」と、貝塚先生は「同じことを押しつける」と読まれる。
 子游と子夏の学派の対立から生まれる相互の批判がここに現れています。孔子の教えは偉大で、いろいろな方向を抱擁していました。孔子の死後、弟子たちは、師のいずれかの方向を一方的に延長したために、早くも摩擦が起こります。それがのちに知識と経験を重んずる漢唐学派と、実践と直観を重んずる宋明学派とに分岐するきっかけであったと言われます。
 偉大なリーダーが亡くなって弟子の時代になると、学派の分裂や対立がどこでも生じます。キリスト教では、「正統」と「異端」などと呼ばれました。これはローマ帝国末期の教父時代のことでした。私は大学の卒業論文に「アウグスティヌス」を選びましたので、そのあたりのことを自力で少し学びました。もちろんカトリック教会に大いに依存しましたが。1960年の大学1年生のとき、縁があって洗礼を受けました。洗礼名はなんと「アントニオ」なんですよ。パドヴァの聖アントニオが由来です。この聖人の祝日が6月13日で私の誕生日の19日に近いこともあって、とても親しみを感じまていした。洗礼を施してくださったのはヴァン・デ・ワーレ神父様で、ベルギー出身の包容力の大きい温かみのあふれる神父様でした。日本語がとてもお上手でした。でも、当時、祈禱文はすべてラテン語のままで、私たちは意味もよくわからないまま、祈禱書のルビをそのまま読んでいました。今でも覚えています。ドミヌス・ヴォビスクム。エト・クム・スピリト・トゥオ。意味は、「主はあたたとともに」「また司祭とともに」という、司祭と信者の応答です。大学卒業後は各地を歴任したため教会から遠ざかり、次第に信仰からも離れていきました。 アウグスティヌスはキリスト教徒の母モニカ(聖人)と異教徒の父パトリキウスの子として、北アフリカのタガステ(現在、アルジェリアのスーク・アフラース)に生まれました。キリスト教に回心する前は、一時期、善悪二元論のマニ教を信奉していました。キケロの『ホルテンシウス』を読んで哲学に関心を持ち、マニ教と距離を置くようになります。その後、ネオプラトニズム(新プラトン主義)を知って、ますますマニ教に幻滅を感じます。ローマ帝国の首都・ローマに383年に行き、384年には、宮廷所在地ミラノで弁論術の教師をしているうち、ミラノの司教アンブロジウスと母モニカの影響で、387年に息子アデオダトゥスとともに洗礼を受けて、キリスト教徒となります。それまで頽廃的な生活にも陥っていましたが、受洗前の386年、ミラノの自宅で隣家の子どもから「Tolle, lege(取って読め)」という声を聞いて、近くにあったパウロの書簡「ローマの信徒への手紙(ローマ人への手紙)」第13章13-14節の「主イエス・キリストを身にまとえ、肉欲をみたすことに心を向けてはならない」を読んで回心したと言われます。387年、母モニカがオスティアで没したのちアフリカに帰って、息子や仲間と共に一種の修道院生活を送りました。このとき彼が定めた規則は「アウグスティヌスの戒則」と言われ、キリスト教修道会規則の一つとなりました(聖アウグスチノ修道会は、アウグスティヌスの定めた戒則を基に修道生活を送っていた修道士たちが13世紀に合同してできた修道会)。391年、北アフリカの都市ヒッポ(当時、カルタゴに次ぐアフリカ第2の都市)の教会の司祭に、さらに396年には司教に選出され、そのとき初めて聖職者としての叙階を受けます。410年、ゴート族によるローマ陥落を機に噴出した異教徒によるキリスト教への非難に対して、天地創造以来の「神の国」と「地の国」の二つの国の歴史による普遍史の大著『神の国』によって応えます。これはアウグスティヌスの後期を代表する著作です。430年、ヨーロッパからジブラルタル海峡を渡って北アフリカに侵入したゲルマン人の一族ヴァンダル人によってヒッポが包囲される中、ローマ帝国の落日と合わせるかのように、古代思想の巨人は8月28日にこの世を去ります。彼の思想は、その後のローマ・カトリック教の発展の礎となりました。
 アドラー心理学でも派閥があるようですが、近年は偉大なリーダー・野田俊作先生のご逝去により、今後アドラー心理学会などで分裂対立が起こらないことを祈りつつ、日々の学びと実践につとめていきます。

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論語でジャーナル

11,子夏曰わく、大徳は閑(のり)を踰(こ)えず。小徳は出入して可なり。

 子夏が言った。「大きな道徳については、細かな規制・法律を逸脱してはいけない。小さな徳は、その範囲を少々越えてもかまわない」。

※浩→「閑」は「牧場周辺の柵」から転じて「法則・規則」のこと。仁や忠孝のような主要な徳については、細かな規制を踏み越えてはいけないが、身近なこまごまとした礼儀などの小さな徳については、その範囲を少々乗り越えても大丈夫だと言っています。子夏は、門人たちがあまり小さい徳、つまり細々した礼についてやかましく言って教条主義(形式主義)に陥ることを警戒して、大きな徳や道を実践するための「最低限守るべき規則」を意識して自分の行動を判断すればよいと教えています。
 私が2番目(昭和44年度)に赴任した工業高校では、まだ生徒たちとの年齢差が少なく、ほとんど“友だち感覚”でつきあっていました。その中でも、担任をした工芸科(のちにインテリア科と改名)のF君と、その親友・N君と特に仲良くなりました。彼らは、お勉強のほうは、まあ標準というところでしたが、私が顧問をした「放送部」で大活躍していました。彼らと私は音楽の趣味も一致していて、当時、イージーリスニング・ミュージックが大流行していて、特にポール・モーリア楽団とレイモン・ルフェーブル楽団がダントツで、FM放送でエアチェックしたヒット曲をお互いシェアして楽しんでいました。学校行事でマイクを使用する場合は、この学校ではその関連業務を一切放送部に任されていました。彼らは自分のクラスから離れて、ある場合は「放送室」で、ある場合はグランドや集会所(当時、体育館はなかった)で放送スタッフとして活躍していました。顧問の私は、入学試験のときは、受験室監督でなく放送室でアナウンサーをしていました。高梁工業高校、素晴らしい学校でした。放送室を管理する電気科の特にI先生が、私と放送部を絶対的に信頼してくださったこともあります。時々、昼休みや放課後に放送室内だけでモニターで流している音楽が、チャイムが入った途端に全校一斉放送に切り替わって、全校に流れて大慌てしたりしましたが、電気科の先生方は「笑って許して」くださっていました。F君やN君は、生活態度はとても真面目で、法律違反・校則違反をしたことはなかったですが、彼らが言うには、「僕たちは実は違反スレスレまでやっている。それでも十分範囲は広いので、そこからはみ出すことはほとんどない」と。まさに、「小徳は出入して可なり」です。彼らとはその後も現在に至るまでずっと年賀状のやり取りは続いていますが、数年前からN君とは途絶えています。このお正月の年賀状でF君にたずねたら、早速SNSで知らせてくれました。彼らも70歳になっています。元気な内に再会したいです。

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暴力・いじわるなどへの侵入的でない対応は?

Q372
 小中学校の先生は、暴力・いじわるなどの不適切な行動があった場合、他の生徒を守る必要性、秩序を守る必要性があって、その場で指摘・注意をせざるをえないと思うのですが(野田:思いませんけど、この人は思うんですね)、いかにして侵入的にならずに、その生徒と関係を作っていけばいいのでしょうか?

A372
 お巡りさんは、道ばたで人を殴っているおっちゃんがいたら、当然止めに入るでしょう。「ちょっと待ちや」と言って。「何があったんやねん」と、当然聞きます。人間が他人に暴力をふるうのは、職業犯罪者でヤクザのおっちゃんなら、いきなり暴力をふるうこともあるでしょうけれど、素人衆が暴力をふるうと言うことは、何かいきさつがあったんです。やむにやまれず暴力をふるわざるをえないいきさつが何かあったんだと、普通、考えませんか?学校でも、札付きの非行少年で暴力をふるうことが喜びになっている子がいたら、話は別ですが、そうでなくて、ごく普通の生徒が喧嘩して、一方が一方を殴っているところへ、先生が通りかかったら、「まあ、ちょっと待ちーや。何があったか話してよ」と言いませんか?それが正しい介入だと思う。暴力をふるっているほうが「悪」、ふるわれているほうが「かわいそうな被害者」と決めつけるのが「裁く」ということです。それをやるから、あと、話がうまくいかない。最初から、相談的人間関係が成り立っていない。暴力をふるうということの心理的プロセスを考えてほしい。例えば、ある生徒が別の生徒を殴るのでも、夫が妻を殴るのでも、何もないのにいきなり、「ただいま-」にボーンと殴ったりしない。絶対にいきさつがある。いわゆるDVでも、夫には夫の言い分があります。人間にはその人なりの論理がある。その人なりに正しい理屈がある。その理屈を聞こうという姿勢がなかったら関係が持てないから、援助的になれない。いじめであれ、暴力であれ、今、間違った介入の仕方をしている。大人の子どもに対する虐待でも、夫の妻に対する暴力でも、最初から、暴力をふるうほうが悪と決めてから話が始まるでしょう。それでは絶対に解決しない。親が子どもを殴るのでも、それなりの理屈があって殴っていて、その人の持っている目標は、“キラキラした理想”なんです。その人にとっては良いことなんです。価値的にすぐれたことなんです。道徳的に正しいことなんです。ただそれを実現するのに、たまたま誤った方法を使っている。だからその「道徳的に正しいこと」は何なのか聞かせてもらわないといけない。「今やっている方法で、その目的が達成できると思いますか?」と聞かないといけない。一番の問題点は、今のあまりにも強い暴力アレルギーです。暴力アレルギーが結局暴力を再生産しているというパラドックスがあると思う。暴力はいけないと最初から決めてしまわないほうがいいと思う。暴力をふるわないといけないやむをえない事情があったんだと思ったほうが、賢いと思う。昔、裁判所に勤めていたとき、今で言うDVね、夫が妻を殴っているというケース、ときどき妻が夫を殴っているというケースもありましたが、そういうのをたくさん見ました。裁判所では調停員という人がいて、夫婦の関係調整に立ち会うんですが、暴力事件なんかあると、「野田先生立ち会いしてください。頭がおかしいかもしれんから」と言われて、「はいはい」と聞いていました。つくづく思いますが、やっぱい暴力をふるわれる妻は、暴力をふるわれるだけのことはある。あのおばはんを黙らせるには、殴るしかないと、旦那さんのほうに同情したりする。だから、いきさつはあるんです。「奥さん、その言い方したら、殴られますよ」って、助言をせざるをえないところがある。「もうちょっとものの言い方を工夫したほうがいいんじゃないですか」と。(回答・野田俊作先生)

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