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論語でジャーナル

第17 陽貨篇

1,陽貨、孔子を見(まみ)んと欲す。孔子見えず。孔子に豚(いのこ)を帰(おく)る。孔子その亡きを時として往きてこれを拝す。諸(これ)に塗(みち)に遇(あ)う。孔子に謂いて曰く、来たれ。予(われ)爾(なんじ)と言(かた)らん。曰く、その宝を懐きてその邦を迷わす、仁と謂うべきか。曰く、不可。事に従うことを好みて亟(しばしば)時を失う、知と謂うべきか。曰く、不可なり。日月(じつげつ)逝(ゆ)く、歳(とし)我と与(とも)にせず。孔子曰く、諾(だく)。吾将(まさ)に仕えんとす。

 陽貨が孔子に面会を申し込んだが、孔子は会わなかった。陽貨は子豚を進物として贈ったが、孔子は会いたくないので陽貨の留守をねらって返礼に出かけたが、途中で陽貨に出くわしてしまった。陽貨は孔子に重々しい調子で話しかけた。「さあ、私のもとに来なさい。私とともに語り合おう。あなたは宝石のような立派な才能を懐きながら、政治の地位につかず、国に混迷を与えいる。これを仁と言えるのか?」。孔子は答えて言われた。「仁とは言えない」。陽貨はさらにたずねた「好んで国事に奔走しつつ、しばしば好機を見過ごしている、これを知と言えるだろうか?」。孔子は答えた。「知とは言えない」。陽貨はすかさず言った。「月日はどんどん過ぎていき、歳月は、私を待ってはくれない」。孔子は答えた。「そのとおりです。私も近いうちにあなたにお仕えしましょう」。

※浩→陽貨(陽虎)は、魯国の家老・季氏の家臣でしたが、主人の季氏をもしのぐ権勢をを持ち、下剋上の代表として、応仁の乱の松永弾正的な人物であった、と、吉川孝次郎先生。孔子58歳のとき、ついに謀反を起こし、主人の季氏ばかりでなく、魯の皇室に対しても弓を引き、それに失敗すると、魯の皇室の重要な宝物である玉と弓を持ち出して、国外へ逃亡した。まだ謀反を起こす前に、この大悪人が、孔子を自分の家臣として召し抱えたいと会見を申し込んだのですが断られました。そこで一計を案じて、進物として子豚を届けました。大夫から士に進物を贈ると、士はその家に出向いて答礼をしなければならないという風習があることを利用して、面会に応じない孔子に、無理にでも会おうとして、陽貨がこの計画を立てたのです。孔子もまた相手の策略を逆用して、陽貨の留守をねらって、答礼に出かけようとして、途中で運悪く陽貨に出会ってしまいました。陰謀家の陽貨は、留守の噂を流して孔子をおびき寄せたのかもしれません。陽貨は忠節・義理の徳に背いた計算高い政治家ではありましたが、知略と武勇に優れた英傑でもあり、さしもの孔子も陽貨からの直々の申し出を厳しくはねつけることはできなかったのでしょう。主君への忠義を重視する孔子でしたが、陽貨の類稀な為政者としての才覚については認めていたという説もあるそうです。目下の孔子に向かって陽貨のほうから話しかけています。ここからは貝塚先生の解釈が面白いです。この陽貨の話しかけは、孔子一門において師匠が弟子に物語りする形式を使っています。さすが一世の政治家らしい機転の利かせ方で、孔子はすっかりあっけに取られてしまったのでしょう。結局、切り返すどころが、「いずれ時を見て仕官する」みたいなことを言ってしまいました。実際には仕官することはなかったそうです。
 有能な人材を採用しようとするときのヒントになりそうです。孔子ほどの人格者で高名な人が、こういう対処をしていたことに、むしろ驚きと親近感を覚えます。私は、以前、ある高校でスクールカウンセラーを務めていましたが、相棒が他校へ転勤したことで、1人になったため、年度が替わって間もなく、5月くらいに管理職に辞意を表明しました。当然引き留められましたが、こちらの辞意は固く、粘りましたが、ふと、その管理職の前任校に筆者のかつての同僚が校長になっていていろいろ世話になったと聞いて、そのかつての同僚への懐かしさが助けて、任を継続することにしました。それでも、結局その年度中は持たないで、秋ごろには辞めました。現在はというと、10月に一旦現職を辞して、1回だけ出勤しないでいました。やがて校長から復帰を求められ、私を必要とされる熱意溢れる先生方の支持もあって、その月末に復帰しました。私が不満を抱いた事態はほとんど未解決のままですが、やはり私を必要とされる方々を無視できなくて、勤務を継続しています。この年度末にまた「継続か辞任か」の選択をすることになりそうです。

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「これでいいのだ」

Q0314
 「これでいいのだ」というものをつかむにはどうすればいいでしょうか?

A0314
 そういうふうにするんです。思い上がって暮らすんです。
 それから、自己勇気づけです。自分を勇気づけるときには思いきりほめるんです。「偉い!」「頑張った」「天才かも」と、普通は絶対に他人に対して使ってはいけない言葉をいっぱい自分に向かって使うんです。なぜなら、自分と自分との間には縦関係は作れないから。どんなにほめ言葉を使っても大丈夫ですから、思いきりほめる。「何て僕は賢いんだろう」「すごく頑張ったな」と、いつも心密かに思うんです。誰にも迷惑はかからないから。密かに思ってフフフと笑っていたら。思い上がって暮らすこと。(回答・野田俊作先生)

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論語でジャーナル

14,邦君(ほうくん)の妻、君これを称して夫人(ふじん)と曰う。夫人自ら称して小童(しょうどう)と曰う。邦人これを称して君夫人(くんふじん)と曰う。異邦に称して寡小君(かしょうくん)と曰う。異邦の人これを称して亦(ま)た君夫人と曰う。

 一国の君主の妻のことは、君主がこれを呼んで「夫人」と言う。夫人が自分を称して「小童」と言う。国民が夫人を称して「君夫人」と言い、外国に向かって言うときには「寡小君」と言う。外国人が夫人を呼ぶときにはやはり「君夫人」と言う。

※浩→「邦君」は諸侯、「妻」はその正妻。その女性を君主が呼ぶときには「夫人」と言う。仮に「奥方」と訳せば、妻その人に向かっても「奥方」と呼び、他人に対しても「奥方がこう言う、こうする、こう考える」と言う。またその女性が自分自身の一人称としては、つまらぬ子どもを意味する「小童」を用いる。国民は彼女を「君夫人」、「殿の奥方」と呼ぶ。ただし、それは同国人相互の会話で、外国人に対しては「寡少君」、「うちのつたない副君主」と言う。逆に外国人がこちらの国の奥方を呼ぶ場合、これはまた「君夫人」「殿の奥方」と呼ぶ。
 1人の人物が、場合場合によって、いかなる呼び方をされ、またするかは、今の日本語でも、お父上、お父さん、父、と、場合によって呼び方を替えます。
 『論語』の中に突然孤立してこういうことが抱えているのは、奇異の感がする、と吉川先生は述べられています。おそらく、この篇の最後のことでもあり、他の書物の竹簡の簡の破れた頁が、ここに間違って綴じ合わされたのだろう、と、こういう解釈が面白いです。日本語は一人称も二人称も多種の呼び方があります。三人称は少ないですか。「彼」「彼女」「あの人」「あいつ」「彼ら」「彼女ら」「あれ」「あれら」、と、単数複数合わせてこれくらいでしょうか。英語は、一人称単数はI、二人称単数はyou、三人称単数はit、複数はthey。フランス語は、一人称はJe、二人称はvouとtu、三人称はilとelle。あとは知りません。おっと、中国語がありました。一人称単数は、「wo3我」、二人称単数は「ni3你 」、三人称単数は「ta1他」「ta1她」「ta1它」です。
 日本の親族名称は、家族の最年少からの呼び方で呼ぶのが普通です。例えば、1人の女性の場合、独身時代は、「~ちゃん」から「~さん」と呼ばれ、結婚して子どもができるまでは配偶者からたぶん名前で呼ばれたのでしょう。まさかいきなり「おい!」はないでしょう。子どもができたら、子どもが「お母さん」と呼ぶのは当たり前ですが、不思議なことに夫からも「お母さん」と呼ばれるようになります。そして、孫ができると、孫からは当然「おばあちゃん」と呼ばれますが、夫からも「ばあさん」と呼ばれます。こういう呼び方は子育てをする上で望ましくない、と、野田先生もおっしゃいました。家族の主役は夫婦であるのが健全なのだそうです。日本では夫婦よりも「親子関係」が柱になっているようで、子育てにとっては具合が悪いのです。やはり、夫婦は互いの名前で呼び合うのが好都合でしょう。子どもというのは、その一家にとっては、親離れして独立していくまでの“同居人”だと考えたほうがいいのだそうです。夫婦は、子どもたちが独立すると、やがて2人きりの新婚時代に戻ることになります。もしも、夫婦の絆よりも親子の絆のほうを優先していたら、それが切れたとき、家にはまるで“見知らぬ男女”が同居しているような淋しい空気が漂っているでしょう。現実として、子育てには甚大なエネルギーを費やしますが、子どもが思春期になったころから、そろそろ親子よりも夫婦のほうにエネルギーを振り向けていくことを考えて実践していくほうが、老後の夫婦にとってしあわせな暮らし方ではないでしょうか。と、全部、野田先生の受け売りでした。
 「季子篇」はこれでおしまい。次回からは「陽貨篇」です。

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親はどうあるべきか

Q0313 
 親がどうあるべきか迷っています。どうしたらいいのでしょうか?

A0313
 あるがままにあればよい。働き者の親は働き者の親、怠け者の親は怠け者の親、明るい親は明るい親、暗い親は暗い親で、自分以外の人に変われないじゃないですか。親だからどうこうしようと私はあまり思わない。
 そもそもアドラー心理学は、「親」のあり方を教えていない。「人間」のあり方を教えている。「子どもと親子関係を」と、言葉としてはそう言っているけど、親子関係を問題にしているんじゃなくて、人間の仲間として一緒に暮らせるようになってほしいと思っている。だから、「親として」という発想はやめたほうがいい。
 人間としてどうあるべきか。そんなん、あるがまましかしょうがないじゃない。自分の持っているものを、何を持っているか何を持っていないかを問題にするんじゃなくて、持っている力を発見して、その持っている力を有効に使う練習をしなきゃいけない。
 私、持っていないものがたくさんあります。例えば、器用じゃない。わりと不器用で、細かい仕事なんかさせるとペケ。だから、なるべくそういうのは遠ざかって暮らすことにしている。誰かに頼って暮らします。それから計算がダメ。おそろしくダメ。絶対に窓口でお金を受け取らない。わけがわからなくなる。電卓なんかでピッピッとやったら、5回に2回は同じ答えで、3回くらいは違う。きっとこの2回だろうと思って書いておいたら、誰かがあとで検算して、その2回も間違っていたりする。まったく計算はダメ。そのダメなものを何とかしようとしてもそれはできるかもしれないけど、非能率でしょう。それよりも自分の持っている力を伸ばすほうがずっと簡単だし楽しいし、他の人の役に立つと思う。スーパーマンになろうと思わないで、自分がすでに持っているプラスの性質を見つけ出して、それを伸ばしてください。(回答・野田俊作先生)

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論語でジャーナル

13,陳亢(ちんこう)、伯魚(はくぎょ)に問いて曰く、子もまた異聞(いぶん)あるか。対(こた)えて曰く、未だし。嘗て独り立てり。鯉(り)趨(はし)りて庭を過ぐ。曰く、詩を学びたるか。対えて曰く、未だし。詩を学ばずんば、以て言うこと無し。鯉退きて詩を学ぶ。他日、また独り立てり。鯉趨りて庭を過ぐ。曰く、礼を学びたるか。対えて曰く、未だし。礼を学ばずんば、以て立つこと無し。鯉退きて礼を学ぶ。この二者を聞けり。陳亢退きて喜びて曰く、一を問いて三を得たり。詩を聞き、礼を聞き、また君子のその子(こ)を遠ざくるを聞くなり。

 陳亢が(孔子の子の)伯魚にたずねた。「あなたは、父上から何か特別のことを教えられましたか?」と聞いた。伯魚はかしこまって答えた。「いいえ、別に。いつか父上が座敷に一人で立たれていたとき、私が中庭を小走りで通り過ぎようとしますと、父は呼び止めて、申しました。「詩を学んだか」と。「いいえ、まだです」と答えると、「詩を学ばなければ適切にものが言えない」と言われました。で、私は自分の部屋へ帰って詩を学びました。別の日に、父がまた一人で座敷に立たたれている前を通り過ぎますと、「礼を学んだか」と言いました。「いいえ、まだです」と答えますと、「礼を学ばなければ人格の形成ができない」と言いました。私は引き下がってから礼を学びました。この二つのことを父に教えられました」。陳亢は家へ帰ると喜んで言った。「今日は一つのことを質問して、三つのことを得た。詩のことを聞き、礼のことを聞き、また君子が自分の子どもを遠ざけて(甘やかさないで)教えられたことを聞かせてもらった」。

※浩→孔子の子どもである伯魚が、陳亢の質問に答えて、父親との関係・言葉のやりとりを回想している場面です。伯魚は孔子から特別な教えを授かったわけではなかったが、君子として必要不可欠な「詩経・礼節」を自然なやりとりの中で学び取っていたのです。このことを聞くことのできた陳亢は、「1つの質問から3つの大切な教えを得ることができた」と喜びました。
 伯魚(孔子の息子・孔鯉)は前484年、孔子69歳のとき死亡して、孔子を悲しませ、老年の孔子の孤独感はますます深まったと言われます。
 ところで、「君子は自分の子を遠ざけて教える」というのは、どういうことでしょうか?このことの説明としては、『孟子』に有名な文があります。「君子の子(こ)に教えざるは何ゆえぞや」という公孫丑の問いに、孟子は答えています。教育は正しさをもってしなければならない。親の私生活をよく知っている子どもは、「お父さんは正義正義と子には押しつけながら、自分は正義ばかりで生きていないじゃないか」と言うと、親子憎み合うことになる。だから、「古(いにしえ)は子を易(かえ)て之を教う」と、お互いの子を取り替えて教育した、と。孔子も、わが子は教えないというタテマエを守りながら、片言隻句(へんげんせきく)でよく子に教えていて、さすがだと貝塚先生は述べられています。
親はわが子には甘いか辛すぎるかで、偏りがちです。それにしても、子が親に先立つことほど不幸なことはないです。野田先生も思春期の愛息さんを亡くされました。息子さんのご存命中のエピソードをいくつかお聞きしましたが、お亡くなりになった詳しいご事情は黙して語られませんでした。今は、お浄土で再開されて、親子の楽しい会話がなされていることでしょう。
 歌舞伎には、忠義のためにわが子を犠牲にするお話があります。有名な「伽羅先代萩」では若君の乳母・政岡はわが子・千松に毒入り饅頭を食べさせて若君を守ります。「菅原伝授手習鑑」では三つ子の兄弟の長子・松王は菅原道真の一子・菅秀才が身分を隠して預けられている寺子屋へわが子・小太郎を寺入りさせて、やはり管秀才の身代わりにします。あれはお芝居で、観ている一時(いっとき)涙すればいいのですが、現実となるとそうはいきません。少し前では、戦時中にわが子の出征を「万歳!」と見送った親の心と重なります。「名誉の戦死」などという美句で自分をなだめたのでしょうか。悲しみを表に出すと、当時は「非国民」と責められました。ああいう「人命軽視」の世の中には二度としたくないです。

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