4,子(し)、武城に之(ゆ)きて絃歌(げんか)の声を聞く。夫子(ふうし)莞爾(かんじ)として笑いて曰く、鷄を割くに焉(いずく)んぞ牛刀を用いん。子游対(こた)えて曰く、昔者(むかし)偃(えん)や諸(これ)を夫子に聞けり、曰く、君子道を学べば則ち人を愛し、小人道を学べば則ち使い易しと。子曰く、二三子(にさんし)よ、偃の言是(ぜ)なり。前言はこれに戯(たわむ)れしのみ。
先生が武城に行かれると、弦楽器の伴奏に合わせた歌が聞こえてきた。先生がにっこりと笑って言われた。「鶏をさばくのに、どうして大きな牛切り包丁を使うのだろうか?」。武城の城主・子游が申しあげた。「私は過去に先生からお聞きしまたことがあります。『君子が道を学ぶと民を愛すようになる。小人が道を学ぶと扱いやすくなる』と。先生は弟子たちをふり返って言われた。「諸君。子游の言うとおりだ。さっきの言葉は冗談だよ」。
※浩→「武城」は山東省費県にあたります。魯の都・曲阜から東南の辺境地です。この時代には、長江流域の新興覇者・呉、さらに少し遅れて越が北進してくる交通路で、魯の南方の重要な場所でした。孔子の弟子の子游(言偃)はそこの市長でした。
当時、「詩」は琴や簫(しょう)や鐘などの絃管打楽器の合奏を伴って歌われましたが、略式には琴(絃)の伴奏だけでした。孔子の学園でも琴の伴奏で詩を学習していたそうです。子游はこの小さい町においても、弦楽器を伴奏にしてコーラスをしていたのが、孔子の耳に入りました。それで、「小さな鶏を割くのに屠牛用の刀を用いる=小さな町に正式の礼楽の教育をする、とは大袈裟だね、と言ったのです。孔子ともあろう人が、子游をからかったのです。それに対して、子游が真っ正面から返答したので、孔子は前言を取り消さざるをえなかったのです。『論語』には、このような孔子の失敗談まで載っています。孔子は決して過失のない神のような存在ではなく、過ちも行ないかねない人間として書かれています。「過てば則ち改むるに憚ることなかれ」という自らの言葉を自ら実践しています。
昔、三代目市川猿之助さんがまだ30歳台で、「伊達の十役」や「獨道中五十三驛(ひとりたびごじゅうさんつぎ)」や「天竺徳兵衛新噺(てんじくとくべえいまようばなし)」などの“何役もの早変わり芝居”に大奮闘していたころ、歌舞伎界の大御所・人間国宝の三代目中村鴈治郎さんが脇役・助っ人として必ず共演されていました。例えば、「伊達の十役」では悪役の代表・「御殿の場」の八汐(やしお)と、大詰めの舞踊の大団円で登場して「あっぱれ、あっぱれ」と馬上で扇を広げて見栄を切る役とかです。八汐が乳母・政岡の一子・千松をなぶり殺しにするシーンは、その悪人ぶりが圧巻でした。人間国宝が、まあ、政岡は別として、“ちょい役”を全力投球で演じる姿に感動したものです。不肖・私も自ら講演などをする身ではありましたが、他の人が主役の場でお手伝いをするときは、助っ人に徹します。この鴈治郎さんの姿勢をモデルにしています。
カウンセリングでは、高校生の息子が進級が危なくて不安だということで、2学期末から相談に見えたお母さんのケースを思い出します。「事例検討会」(大阪アドラーギルド)で野田先生からアドバイスをいただきました。「この状況で客観世界には何も問題はない。あるのはお母さんの心の中の不安だけです。しかも学年末の進級判定が出るまでという期限つきです。それならば、その不安な期間の間、しっかりお母さんの愚痴や不安をしっかり聞いてあげて、しっかり寄り添い続けてあげることが、カウンセラーであるあなたの仕事です」と。そこで、私は「まるでロジャース派のようですね」と言いました。野田先生は、「(ロジャース派に申し訳ありませんが)ロジャース派はあれしかできないけど、アドラー派はこういうこと“も”できるんです」とおっしゃいました。そのとおりに行なって、3月の進級判定会議で「留年」が決まると、そのお母さんはきちんと納得されて、終結を向かえました。今もこのケースをときどき参考にしています。
Q0317
安楽死を法的に認めてもらうには、どういうステップが必要でしょうか?
A0317
僕は昔、日本安楽死協会会長さんと友だちだった。太田○○という産婦人科のお医者さんで、戦前に太田リングという避妊具を発明した。その他、良からぬことをしたので特高警察に捕まって刑務所に入ったりしていた。戦後は安楽死協会の会長さんになった。ある所で知り合って気に入られた。パンフレットをいっぱいもらった。もう亡くなられました。
安楽死の概念をはっきりさせておきます。積極的安楽死と消極的安楽死がある。積極的安楽死は、お薬か何か使って死んでもらうこと。消極的安楽死は、治療をやめて自然に任せること。
積極的安楽死はやっぱり殺人だと思う。どうしても。痛いとか苦しいとか言うので毒薬使って患者さんに死んでいただくお手伝いをするというのは、これは多分、今後永久に政府は認めないだろう。認めると、ものすごく危険だから。だから話題になるのは消極的安楽死です。
例えば、人工呼吸器をはずすとか点滴をやめるとかして、自然の勢いに任せたらどうなるか。これは今、本人が意識がある時点で、かっちりした書類、例えば弁護士が証明しているような書類、遺言状の一種として、を作っておくことと、かつ、責任ある家族がそれに同意すれば可能です。いわゆる尊厳死です。メモに走り書きして「安楽死させてください」ではダメ。医者が治療しても命が救われる可能性がないと思うときには、「積極的治療をやめてほしい」というのを本人が自筆署名して、証人がちゃんとついていて、大丈夫そうだという場合は可能です。医者のほうも訴訟が恐いからね。これは比較的整いやすい。
でも、いざ患者さんが意識不明になって担ぎ込まれたときに、家族エゴで「まあ、ああ言っていたけどもっと延命してもらいたい」と思って、家族がダメと言うケースが多い。その結果、家族が納得するまでずっと延命措置をすることになる。まあ、寝たきりになって延命措置されても一緒なんですけど、意識があると大変つらい。それくらいの手続きがあれば、現行法でも可能です。
積極的と消極的の真ん中へんに入るのがホスピスなんです。というのは、ホスピスは明らかに生命を縮めていますから。鎮痛剤や麻薬の大量使用は毒薬ですから、すぐ死にはしないけど、生きている時間というスケールで見ると完全に積極的安楽死に近いところで動いている。ただ、一定の同意があるとき政府は、ああいう積極的安楽死に近いような強い鎮痛措置を、なし崩し的に今のところ認める。今のところはホスピスをやっている病院がうんと良心的だからやっていけるけど、そのうちホスピス業者ができて儲けるようになると、政府ももうちょっと何か言うのではないか。特に麻薬の大量使用はいろんな点で問題があるから。麻薬の流通をうんと盛んにしていくわけだし、それの横流しだって起こりうるし、取り締まりと関係しながら何か言うのではないか。今のところまだ問題にならない。(回答・野田俊作先生)
3,子曰く、唯(ただ)上知(じょうち)と下愚(げぐ)とは移らず。
先生が言われた。「(多くの人は学習・努力によって変われるが)ただ最高の知者と最低の愚者は変わることがない」。
※浩→人間は習慣によって、いかようにも変化すると前条で言いましたが、例外として、変化しない人間がいると、追加しています。
「上知」(最上の知者)はどんな境遇にいても堕落することはない。「下愚」(最下の愚者)は、習慣・教育によっても向上しない。この二種類の人間は移動しない。人間の中には、先天的に性質を固定したものとして、絶対の善人と絶対の悪人が存在するという、何か決定論的な響きがあり、後代の人間論に波紋を生む、と吉川先生。「上知」は儒家がのちに至るまでずっと主張し続けています。でも、「下愚」の存在は必ずしも主張され続けていないです。次の時代に孟子は、人間の可能性を強調して、「人はみな堯舜となるべし」と言い、性善説の立場です。この孟子の主張が朱子によって一層強調されるようで、朱子はここの解釈に苦慮したであろうと、やはり吉川先生は述べられます。私個人は、「絶対の悪人」の存在を認めたくはないですが、昨今の世の中の現実を見るにつけ、その信念がぐらつきます。地球そのものが危機的状態なのに、世界の各地の戦争・紛争、大国の核兵器競争、大国の覇権主義、小さい規模では身近なところで起こるさまざまな犯罪・迷惑行為。職場でのパワハラ、セクハラ、学校でのいじめ、ネットでの誹謗中傷の多発…。アドラー心理学の「共同体感覚」の徹底的欠如。アドラーの時代にはまだ「人類の進歩」を信じることができた人だと、野田先生がおっしゃっていました。今はとうてい無理のようです。そもそも地球の寿命はそう長くないかもしれません。そうだとすれば、私たちはできる限りの延命措置をするしかないのに、延命どころか、むしろ短縮に加担しているのが現状です。災害のあとでよく言われます。「分け合えば余る。奪い合うから足りなくなる」。けだし名言です。
恥ずかしながら、わが岡山県は交通マナーが最悪です。信号のない横断歩道で歩行者が待っていても、止まってくれる車はとても少ないです。合図を出さないで右左折・進路変更します。「なぜ出さないか?」聞くと、「初心者みたいでカッコ悪い」んだそうです。「アホか!」と叫びたくなるほどの「下愚」です。それでも、ときどき横断歩道でチャリを降りて車の隙間を待っていると、手招きしてくれて「通してくれるドライバーがいます」。不思議なことにそれはほとんど男性です。
Q0316
人間は一度は死にますが、生きることも大切だと考えています。アドラー心理学による大切な生き方についてもっと詳しく教えてください。
A0316
いつも言うてるやん。尊敬して信頼して責任を持って勇気づけ合って生きる。アドラー心理学はいつもここしか言わない。方法しか言ってくれない。これがいいことなんです。 結局、僕たちがどんな暮らしをするのか。例えば、電車が高架になるほうがいいのか、ならないほうがいのか?……何か、ニューヨークで子どもを殺したお母さんがいる。ニューヨークの殺人なんかどうでもいい。だってニューヨークは遠いもの。隣のおっさんが何しているかのほうが僕らにとって、より切実かもしれないでしょう。ニュース・情報は医療と同じ立場にいて縮小できない。ニューヨークの殺人事件を報道しないでいるということができない。「国民の知る権利」とか何だとかいうことがあって、報道は拡大する一方なんです。世界中のあらゆる三面記事をしょっちゅうテレビで流して新聞に書いておかないといけない、そういう文化装置になっちゃった。でもあれはほとんど役に立たない。そうやってニューヨークのことやビアフラのことやカンボジアのことを僕らが知っているけれど、「隣の家のばあさんこないだ死んでん」「えー知らんかったわ」。近所のことを何も知らない。僕たちの身のまわりのことや親戚のこととかは新聞に載らないから、何も知らなくて、どうでもいい遠い遠い国のことばっかり知っている。
さて、こういう生き方がいいことか悪いことか。そこの善悪判断はアドラー心理学の仕事とは違う。アドラー心理学がいつも話題にするのは、自分の周囲の人とどんな声のかけ方をし、どんなつきあい方をするかで、とても小さな話題です。それがやがて広がって世界を変えていくだろうと思うけれども、究極的な価値判断、「どんな暮らしがいいか」をアドラー心理学は求めない。それはなんでか。アドラーはそれはたぶん彼は宗教の問題だと思っていた。西洋人だから。僕たちが究極的にどんな生き方をすべきかは、キリスト教とかユダヤ教とかいうものが与えてくれるものであって、心理学ごときがそんな大それた話をしてはいけない。日本でもやっぱりそうで、日本人の場合は「宗教」と言わず「哲学」の話題で、心理学はもっと下世話な話で、家内安全、子孫繁栄、無病息災、商売繁盛というレベルの話しかしない。大所高所の話はもうちょっとちがうレベルで考えてほしいと思います。(回答・野田俊作先生)
2,子曰く、性は相(あい)近し。習えば相遠ざかる。
先生が言われた。「人間の生来の素質はそんなに差があるものではない。生まれたあとの習慣(学習)によって種々の差異ができ互いに遠く離れるのである」。
※浩→「性」は生まれつきの素質。人間が生まれついた素質というとき、古代人は天から人間に賦与されたものと考えたのしょう。天が人間に与えた共通のものとは、それは結局「善」に向かう意志だと、孔子は漠然と考えていたらしい。これはのちに孟子の「性善説」に発展します。最近は、変な人がいろいろ大事件を起こして、この「性善説」を疑いたくなることが多いです。電車で殺傷放火事件があったり、新幹線で放火事件があったり…。世の中ほとんど善人なのに、少数の悪人がいるために世の中は大混乱です。「刑事物ドラマ」を見ていると、被害者が復讐を実行すると、その人は犯罪者として逮捕されて裁かれます。これでは被害者は「やられ損」です。古代の『ハムラビ法典』の有名な「目には目を、歯には歯を」はその意味では筋が通っています。でも、現実は、犯罪者(容疑者)への同情の念は否定しがたいながら、法治国家では当然法によって裁かれます。十津川警部も杉下右京も「違法行為」は絶対に許しません。先日見た番組では、法で裁かれない極悪犯人を、もと裁判長とか検事とかの老人が3人で、極悪加害者を次々に殺害していくというショッキングなストーリーがありました。ただ、その3人も最後に狙った極悪人に逆に殺されてしまうというどんでん返しでした。加害者の権利も当然保障されますが、被害者の多くは泣き寝入りになっているようにも受け取れます。
「性は相近し」というという考え方は、哲学者デカルトの「良識(ボンサンスは人間に均等に分配されている」という考え方に類似しています。アドラー心理学では、「共同体感覚は人間に先天的に与えられている能力であるが、生後の育成を要する」とあります。人間の素質にはそんなに変わりはなく、習慣(学習)によっていくらでも向上できるという確信を持ちたいですが、例外あります。それは次の条で扱われます。