21,子貢曰わく、君子の過ちや、日月の蝕(しょく)するが如し。過(あやま)つや人皆これを見る、更(あらた)むるや人皆これを仰ぐ。
子貢が言った、「君子の過失は、ちょうど日食・月食のようなものである。君子が過ちをすると人民がみんなこれを見ている。そしてその過ちを改めると人々はこれを仰ぎ見るのである(褒め称えるのである)」。
※浩→日食・月食は月日の故意の行為ではないということは、君子の過ちが故意の行為でないのと同じだというのは面白い、と吉川先生。君子は、過失を隠蔽してしまうのではなく、日食・月食のように一時的に過失をすることはあっても、再びその過失を公開してそれを改めようとする。人々の尊敬や感嘆は、全く過失をしないパーフェクトな人に集まるのではなく、過失を素直に認めてそれを改善しようとする人のところに集まる。子貢の比喩の使い方は、師匠の孔子を上回るのではないか、と貝塚先生。君子といえどもパーフェクトではないというのは、われわれ凡人にはありがたいです。政治家の不正が露見したときに、謙虚に国民に謝罪する人は少ないようです。「秘書がやったことで自分は知らん」とか言って、最近も言い逃れをしていた人がいたようです。国民は確かにこれを見ていますが、次の選挙にあまり影響が出ないので、政治家はますます厚顔無恥になるのでしょうか。
アドラー心理学では、人間は決して完全な存在ではなく、不完全な存在だから、それを受け入れる勇気を持つよう教えられています。過ちを犯したら素直に改めればいいのです。過ちを犯したときの責任の取り方は1)原状回復、2)再発防止策、3)(感情を害していたら)謝罪する、でした。
Q0381
子どもがテレビゲームをどうしてもしたいと言うので、小学校2年ぐらいからやっています。その代わりにボーイスカウトへ行って、キャンプなんか経験して、テレビゲームもいいけど、サバイバルを経験しほしいと言って、毎年出かけていってもらっていますが、ITの時代に、そういうことで保証できるでしょうか?
A0381
ある程度ね。僕、海洋少年団にいたんですが、あれは、1つの原体験で、海の上は、山よりももっと限定されている。海へ出てしまうと、それっきりじゃないですか。そこで考えることはいっぱいありました。人間て何があったら生きていけるか、何があったら生きていけないか。キャンプもしたし、学校以外で一番たくさん学んだ場所としては、1つは海洋少年団で学んだことが大きいと思います。ほんとの意味で協力すること、リーダーの命令に絶対服従するのはあんなところでは大事です。リーダーって、あんなところでは大事です。「これ」と言ったら、「そんなの違う」と言えない。全員そうしないと、海の真ん中で迷子になる。リーダーになったら、しっかり勉強して、みんなが死なないように考えないといけない責任がある。
もう1つは、大学で混声合唱団にいたこと。男子と女子全部で7,80人のグループで、そこでマネージメントに絡んでいたので、あれは勉強になった。男と女の混じった集団をとにかく無事に1年間、いろんな困難を乗り越えてね。いろいろありますよ。マネージするのは大変な修業になってよかったです。そんなのが社会へ出たら役に立ちます。まったく手作りでね。ああいうところにいると、いろんなことを学びます。例えば、宿の取り方。合宿するから宿を探さないといけない。どうやって探すか。どの季節はどこがいいか?夏はスキー宿屋でとか。夏はスキー目当ては来ないから、いろいろやっている。ピアノくらい置いている、どこも。それから、広告の取り方。演奏会するプログラムに広告を載せてほしい。それを飛び込みで頼んで回る。大学のまわりの店に。馴染みの店と馴染みでない店があって、普段から馴染みの店は、イヤイヤでも載せてくれる。普段のつきあいは大事だと思う。そんなことで、学ぶことがたくさんあって良かったです。
他にも学べるいろいろ学べるチャンスはあると思います。そんなところへできるだけ出入りするチャンスを増やしてあげたらいい。
テレビゲームも悪いとは思いません。そこから学べることもあるし、コミックから学べることもあるし、何でも学ぶチャンスです。
アドラー心理学がいつも、親に向かっても子どもに向かっても問いかけることは、「そこからどんなことを学びましたか?」です。「テレビゲーム1日やって面白かった」と言ったら、「そこからどんなことを学びましたか?」と聞いてやればいい。そしたらそこから子どもは、ものを学ぶためにテレビゲームをやってくれるじゃないですか、ただ楽しみのためじゃなくてね。「ボーイスカウト行って面白かった」と言えば、「今日はどんなことを学んだ?」と聞けばいい。いつも学んでいくというのが大事なことだと思います。
私たちは、最終的に、賢い人間になりたいと思います。「賢い」というのは、知恵のある人間になりたいということなんです。「知識」と「知恵」と「技術」に分けて、知識というのは人から聞いて学べるもの。学校で教科書を読んだり、先生の話を聞いたりすると、知識はたくさん入ってくる。でも、これ自身はまだ知恵じゃない。技術もだいたい人から学んだほうがいいです。鉛筆の削り方から始まって、ハンダごての使い方も。お裁縫も。僕はお裁縫は習ったことがない。手縫いは、雑布を1枚だけ縫ったことがある、この世であとにも先にも。ミシンは一度も使ったことがない。これを大変悔しく思って、母親に「ミシンない?」と言ったら、「捨てた」と言われて、「あちゃー!」。あれは、ちょっとだけ触るには面白そうだった。男の子で、一生自分でミシンを使いたいと思う子は、まあいないと思う。僕は珍しく、そう思ったわけで、何を作るのかはよくわからないけど、機械そのものがすごく面白そう。ミシンの中古をどこかで買ってくるとする。でも、使い方を教えてもらわないと、最初、使えない。何でも技術というのは、つまんないコツがある。ハンダごてでも、ちょっと教えてもらえると使える。まったく自分だけではなかなか上手に使えない。ハンダの盛り方があって、ある盛り方をすると、長く保つけど、ある盛り方をすると、そのうち錆びてきて動かなくなる。温度の確かめ方は、ほっぺたへ近づけてきて、これくらいなら使えるというのがある。そういうのを、慣れてる人にちょっと教えてもらうとすぐわかります。技術も人から習う部分が多い。知識と違うのは、自分でトレーニングするのがすごくたくさんいるだろうと思う。それらができてきたときに、知識でもない技術でもない「知恵」がいつしかできてくる。知恵というのは、長いことかかって、知識と技術の習得の果てにできてくる。テレビゲームで大した知識は入らない?そんなことない。技術は、動体視力がよくなったりする。それなりに知識も技術も入るでしょう。そこから次のステップへ、ひょっとしたら上がれるかもしれない。わかりませんけど。ただ、テレビゲームが好きだから、コンピューター技術者にしようとか、ゲームクリエイターにしようとかいうのは間違った発想で、全然違います。好きなことを自分の一生の仕事にしようというは違うと思う。僕は釣りは好きですけど、漁師になったらつらいと思う。漁師で暮らしていこうとすると、近海漁だと毎日翌日の天気予報を聞く。天気予報と潮の具合で、行けそうだととにかく海へ出る。風邪引いていようが、食欲なかろうが、とにかく出る。魚が来たら来ている間働いて、とにかく船が沈むまで積む。来なかったらしょぼんと諦めて帰ってくる。まあ、博打商売です。天気も潮回りもいいのに、海へ出ないはありえない。出て魚が来たら、来てる間は寒かろうが暑かろうが働くしかない。この魚は釣り味がいいとか関係ない。売れるか売れないかだけの問題で、色が好きとかは関係ない。全然釣れないと生活困るなあと思って帰ってくる。これはつらい仕事。絶対、漁師はしたくない。釣り人は釣れなくても、今日は1日良い風景を見られてよかった。あるところで、「今日はこれ以上はいらんわ、ありがとさいなら」で終わり。これは楽しい。あらゆるものは仕事にしたら地獄です。どんなものもそうです。仕事は別にきっとある。人間の仕事は、長い人類の10万年の歴史の中で、人間がやれる仕事だけ残ったと思う。人には絶対できない仕事というのは滅びた。事務仕事だって営業マンだって、人間にできる仕事です。ただ、今、選択肢が狭すぎる。机で帳簿書くか、営業に行って売るかしかなくなった。工場でも、わけのわからん機械のほんの一部分を受け持っているだけで、自分のやっている仕事の全体像が見えない。これは悲しい。フォルクスワーゲンは、車を1人の作業員が最初から最後まで全部作る。流れ作業じゃなく、車1台1台を作るようになって、すごく車が良くなった。アメリカは徹底流れ作業やって車の品質がどんどん悪くなった。全体が見えないときには人間はただの機械になってイヤなんです。日本人は変態ですから、トヨタはロボットと人間が協力しながら作っている。ロボットができないところを、人間がちょっと手伝っている。日本人はあんなのが好き。仕事の中で、自分が何をやっているかがはっきりわかるといのは、すごく大事。よく、就職してからわけがわからなくなる子がいる。大学出てわりと良い会社に勤めました。「でも、全然つまらない」と言う。「あなたの会社は何しているの?」「知らん」。「あなたが経理の仕事で帳簿つけているのはわかったけど、会社はどんなことしてるの?」「貿易商社だから貿易しているんでしょうね」。「どんな商品扱ってる?」「知らん」。「どんな国と取り引きしてるの?」「知らん」「会社便り見たら書いてあるでしょ」「だいたい就職するとき読まなかったのか」「そんなの読んでません」「就活でいくつも行く。それで雇ってくれたところへ来ているので会社について一々読んでません」「それじゃあしょうがないけど、採用になったら読みなよ」。どの会社も、自分の会社がやっていることについて書いています。ホームページ見るだけでもずいぶんわかる。そうすると、この中で私は働いているんだ。ロシアから木材を輸入して、こっちから中古車を輸出して、それで稼いでいる。うちの会社が輸出した“山田商店”と書いたトラックがシベリアを走っていると思うと、経理の仕事も色がちょっと出てくる。それがわからないで、ただ帳簿をやっていると悲しい。仕事というのは、この世が円滑に回っていくお手伝いをしている。そこには、知識と技術があるけど、もう1つ知恵というものがあって、私は世界の中でこういう役割をするために生まれてきたんだ、私がいるおかげで、山田商店の中古車がシベリアを走っているんだ。シベリアの材木がどこかの家の床柱になったんだと思って暮らせる。そのあたりのことを子どもたちに教えていきたい。巨大な産業社会の中でも、結局1人1人の人間の力が集まって世界全体を動かしている。その1人の人間なんだ、私は。ただの歯車じゃないんだと知ってもらえるように育てたいと思っています。(回答・野田俊作先生)
20,子貢曰わく、紂(ちゅう)の不善も、是(か)くの如くこれ甚だしからざるなり。是(ここ)を以て君子は下流に居ることを悪(にく)む。天下の悪皆な焉(これ)に帰すればなり。
子貢が言った、「殷の紂王の悪事も、それほどひどいものではなかった。だから、君子は下流に居るのを嫌う。世界の悪事がみなそこに集まってくるからだ」。
※浩→「紂」は殷王朝三十代目の最後の天子で、その暴政によって周の武王に滅ぼされます。『史記』「殷本紀」に悪事が列挙されています。
「帝紂は資弁捷疾(しょうしつ)にして、見聞甚だ敏なり。財力人に過ぎ、手もて猛獣を格つ。知は以て諫めを距(ふせ)ぐに足り、言は以て非を飾るに足る。人臣に矜(ほこ)るに能を以てし、天下に高ぶるに声を以てす。以て皆己の下に出づと為す。酒を好み楽に淫す。夫人に嬖(へき)し妲己を愛して、妲己の言にのみ是従う。是(ここ)において師涓(しけん)をして、新たなる淫声、北里の舞、靡靡の楽を作らしむ。賦悦を厚くし、以て鹿台の銭を実(みた)して鉅橋(きょきょう)の粟(こめ)を盈(み)たす。益(ま)すます狗馬奇物を収め、宮室に充ち仭(み)つ。益すます沙丘の苑台を広くして、多く野獣飛鳥を取って、其の中に置く。鬼神を慢(あなど)り、大いに楽戯を沙丘に最(あつ)む。酒を以て池と為し、肉を懸けて林と為し、男女をして裸ならしめ、其の相逐(お)わしめて、長夜の飲を為す。百姓絶望して、諸侯畔(そむ)く者あり。是に於いて、紂乃ち辟刑を重くし、炮格の法有り」。
と、まあ、およそ中国人の予想した限りの悪事すべてを書き連ねています。「酒池肉林」はここから出ています。司馬遷より400年ほど早い子貢のころにもすでに伝説として発生していたのだろうと、吉川先生。
そこで子貢は言います。紂の不善もあれほどひどくはなかったに違いない。だから、君子は道徳的に不利な地位にいるのをいやがる。世界中の悪事のすべてが、彼に押しつけられることになるから。
現代で言うと、一旦マスコミで悪事が報じられた人は、人々はそれを先入観として、その人のすることはみな悪いことと信じてしまうでしょう。人間は一度悪い評判を集めてしまうと、すべての事績を悪い方向に解釈されてしまうようになってしまいがちです。こわいことです。偏見や誤解であっても一旦「悪いレッテル」を貼られると、その人の歴史的評価は極悪なものへと変質してしまう危険がある……だからこそ、君子は悪い噂の標的となる下流(悪意の集積地)に立つことを嫌うのです。名優・長谷川一夫さんの代表作に「銭形平次」シリーズがありました。その一作に、武士が殺人か窃盗の嫌疑を受けて捕まりそうになって逃げますが、結局捕まり、逃げた理由を問われて、「武士が一旦縄目の恥をうけたら、たとえあとで無実と証明されても、汚名は消えない」と弁明していたシーンがありました。あれを思い出します。武士社会でない現代でもありそうです。そういえば、ネット社会での誹謗中傷が絶えないです。おぞましいことです。
Q0380
集中してしまわない社会、暮らしというのは、教育の側からはどのようなアプローチがありますか?
A0380
1つは、「手作り」をするというのが大事だと思います。まあ、ある範囲ね。今僕、「アドラー・ニュース」というメルマガを出しています。あのやり方は良くない。なんでかと言うと、メルマガを作るには1人の人間がかかりっきりでやらないとしょうがない。分業ではなかなかできない。何十ページもあるホームページなら分業でできる。それでも統一方針が欲しいから、結局、1人の人がやるわけ。その人はホームページに関するある技術を持っている人。残りの人は全然それに関わらない。昔は、あれを印刷してまして、印刷だとみんなで分業してやります。最初の原稿は誰か1人が書くかもしれないけど、「これ印刷してね」と言って、ガッチャンコガッチャンコと印刷して、紙折機で紙折りして、あれすぐ故障したけど、それで封筒貼りをして、机の上に積んで、2千通も3千通も出すから、何日もかかって、いろいろしゃべりながら、送るわけです。それって、昔の農作業で、稲を刈って脱穀していく作業と一緒です。豆を採ってきて皮を剥くのと一緒です。その中に農民の暮らしが生きていた。今、コンピュータ化したおかげで、農民さんの暮らしは死にました。コンピューターを使うこと自体は、もうやめられなくなったけど、コンピューターへの依存度は減らすべきだと思います。この間、某国のスパイが、国会議員さんのメールを管理しているサイトへ侵入して、国会議員さんのメールをみんな見られたみたい。どんなメールのやりとりをしているかは知らないけど、かなり機密情報も入っている気がします。あるいは、三菱重工業へ侵入して、ここは戦車や戦闘機を作っている軍事産業ですが、そこの情報も盗られたみたい。アメリカ国防省も入られているみたいで、どんなコンピューターでも簡単に侵入できる。そんなところに国の重要な機密を置いておくこと自体がそもそも間違っている。コンピューターの上に乗っかった文明は、基礎が無茶苦茶もろいと思う。武器も何もいらない。数人のハッカーがいたら、相手の情報を簡単に攪乱できます。今この国のコンピューターが全部止まったらどうなるか?あっという間に国は麻痺します。何もかもそれで動いているもの。水道だってガスだって来なくなるし、電気も来なくなる。新幹線も動かなくなる。町中の信号機はコンピューター制御しているから動かなくなる。それってバカげていると思いませんか。国中のコンピューターを破壊するのはたぶんそんなに難しくない。ある種のウイルスを入れて、「壊れなさい」と言ったら壊れますから。それに対するプロテクトは理論的に不可能だと思う。
手動で動くって、すごく大事なことで、手動で動かせる部分は手動で動かす、本当に必要なところだけコンピューターを使う文明がいる。
原子力発電にしても、今、原子力発電なしで暮らすのはナンセンスだと思う。必要だけど、最小限にする工夫をしないといけない。どうやって最小限にするか。このものすごい消費量をそのままにおいたまま議論するからややこしい。電気を消せばいい。コンビニをあんなに明るくしなくていいと思う。パチンコ屋さんもあんなに明るくしなくていいと思う。僕らの子どものころは暗かったけど、みんな「こんなもんや」と思って暮らしていた。「暗くなったら心が鬱になる」と言うけど、ならないよ。しばらくしたら慣れますから。
機械化とかコンピューター化とかに、過度に頼らないことが大事。学校でコンピューターの教育をするのはナンセンスだと思っている。今、ワードやエクセルを教えているけど、子どもたちが卒業したら、たぶんないですよ。昔、コンピューターが始まったころ、学校で「ベーシック言語」というのを教えた。このごろ誰も使わない。学校で習ったことが将来役に立たないことの見本だと思う。私なんか、学校で1回もコンピューターについて習ったことはない。卒業するまで。卒業した途端に、「今度研究室にコンピューターが入った。何とかせい」と教授に言われて、「あいよ」と言ってやったら動きました。試行錯誤で動かしたら動きました。実はいけるんです。いける人はいける。いけない人は、どんなにたくさん習っても、いけない。ハローワークで、ワードやエクセルを教えている。あんなんでいい。大人になって、必要になった人が習いに行けばいいんで、学校教育の中に入れなくていい。学校教育では、手作りで生きていく方法を教えたほうがいい。何であれ。遊び半分でいろんなものを作ります。ローソク作りするとか。機織りするとか。あれってほんとは大事だと思う。被災地・仙台市だったかでイルミネーション作るのに、電気を使わないで、廃油を、天ぷら油に使ったのとかを集めてきれいにして、それでディーゼルエンジンを回して発電して、イルミネーションをしようと言っていた。これはすごく面白い。子どもたちに、廃物をどうやって利用するかとかを学んでもらうのは大事だと思うし、今の文明を絶対視し礼賛してはいけないと思う。廃棄物、ペットボトルなんか具合悪いと教えるんだけど、ペットボトルなしにどうやって暮らすかのアイディアはもうなくなっている。僕らの子どものころは、お豆腐を買いに行くにはボウルや鍋を持って行った。お醤油やお酒も、瓶を持って買いに行った。そういう暮らしができるということ自身がもう伝わってない。だから、ペットボトルをなくした途端に、どうしていいか困ってしまう。
学校で教えないといけないのは、生活のために何が必要なのかという「ミニマム・リクワイエメント」。「これは知ってたほうがいいよ」ってこと。全部、現代文明・機械文明を前提にして、「そこについていけ、後れるな」教育をしているけど、それは違うでしょ。現代文明は必ず滅びるでしょう。こんなの長持ちしないことは、みんな知ってるもの。やがてパニックになる時代がくるでしょう。そのパニックの時代に生き残れるかどうかは、食糧生産できているかとか、廃物をどう利用できるかとか、機械に頼らないで人間にどこまでできるかにかかっている。そんなのを教育の中で教えてほしい。(回答・野田俊作先生)
19,孟氏、陽膚(ようふ)をして士師(しし)たらしむ。曾子に問う。曾子曰わく、上(かみ)その道を失いて、民散ずること久し。如(も)しその情を得れば、則ち哀矜(あいきょう)して喜ぶこと勿(な)かれ。
孟孫氏が、陽膚を司法長官に任命した。陽膚がこの役目についての心得を先生の曾子にたずねた。曾氏は言った。「為政者たちが政治の道徳を見失ったため、人民の心理も中心を失ってしまってからずいぶんになる(人民たちがなかなか本音を吐かず、取り調べに困難を感じるのは、為政者がその道を失ったことに原因がある。あるいは犯罪の発生も為政者の責任でないとは言えない)。もし取り調べの結果、真実がわかったならば、まず同情しないといけない。うまく事実がつかめたからといって、ゆめゆめ得意になってはいけない。
※浩→家老の孟孫子が曾氏の弟子・陽膚を「士師」つまり司法長官に任命しました。陽膚が曾子に心得をたずねたのに対して、曾子は、「徳治主義」の原則をわかりやすく説いています。
私は映画が好きで、テレビのCSを愛用しています。定年退職したころ「衛星劇場」をオプションで契約していました。そのころは、往年の名画が毎月放映されて、大満足でした。ディスクにもたくさん録画もしました。ところが、その後次第に私が好む名作映画がすくなくなって、ほとんどドラマが放映されるようになりました。特に韓国ものが氾濫状態です。自分が年を取ったせいでしょうか、最近の映画にはあまり満足しません。往年の名監督・野村芳太郎さんの作品で推理ものは特に大好きでした。「ゼロの焦点」「張り込み」などは何度も繰り返して観ています。洋画は「ザ・シネマ」という局を観ることができます。このチャンネルは「ドラマ化」していなくて、全部映画です。ときどき往年の名画が放映されます。他の楽しみは、「相棒」「タクシードライバーの推理日記」「京都地検の女」などです。かつて地上波で放送されたモノがBS&CSで再放送されます。これらの作品を観るにつけ、犯罪を犯した人への“同情”ではないですが“共感”することがよくあります。「相棒」の杉下右京警部は常に、犯人ののっぴきならない事情に共感しつつも、「法を犯すこと」を絶対に許容しない厳しさを貫いています。そもそも、殺される人は、欲を出しすぎたか、知ってはならない秘密を知った場合が多いです。タクシードライバーの推理日記の夜明けさんの場合は、最初に載せた女性客が必ず犯人であるという、ワンパターンであるとわかっていて、それでも何度も観ます。このパターン化したものを飽きないで何度も観ることができるのは、歌舞伎や古典落語と同じ魅力を持っているからなのかもしれません。最近の凶悪犯の言う「誰でもいいから殺したかった」なんていうのは、絶対にいただけません!これでは野生動物以下です。