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論語でジャーナル

13,陳亢(ちんこう)、伯魚(はくぎょ)に問いて曰く、子もまた異聞(いぶん)あるか。対(こた)えて曰く、未だし。嘗て独り立てり。鯉(り)趨(はし)りて庭を過ぐ。曰く、詩を学びたるか。対えて曰く、未だし。詩を学ばずんば、以て言うこと無し。鯉退きて詩を学ぶ。他日、また独り立てり。鯉趨りて庭を過ぐ。曰く、礼を学びたるか。対えて曰く、未だし。礼を学ばずんば、以て立つこと無し。鯉退きて礼を学ぶ。この二者を聞けり。陳亢退きて喜びて曰く、一を問いて三を得たり。詩を聞き、礼を聞き、また君子のその子(こ)を遠ざくるを聞くなり。

 陳亢が(孔子の子の)伯魚にたずねた。「あなたは、父上から何か特別のことを教えられましたか?」と聞いた。伯魚はかしこまって答えた。「いいえ、別に。いつか父上が座敷に一人で立たれていたとき、私が中庭を小走りで通り過ぎようとしますと、父は呼び止めて、申しました。「詩を学んだか」と。「いいえ、まだです」と答えると、「詩を学ばなければ適切にものが言えない」と言われました。で、私は自分の部屋へ帰って詩を学びました。別の日に、父がまた一人で座敷に立たたれている前を通り過ぎますと、「礼を学んだか」と言いました。「いいえ、まだです」と答えますと、「礼を学ばなければ人格の形成ができない」と言いました。私は引き下がってから礼を学びました。この二つのことを父に教えられました」。陳亢は家へ帰ると喜んで言った。「今日は一つのことを質問して、三つのことを得た。詩のことを聞き、礼のことを聞き、また君子が自分の子どもを遠ざけて(甘やかさないで)教えられたことを聞かせてもらった」。

※浩→孔子の子どもである伯魚が、陳亢の質問に答えて、父親との関係・言葉のやりとりを回想している場面です。伯魚は孔子から特別な教えを授かったわけではなかったが、君子として必要不可欠な「詩経・礼節」を自然なやりとりの中で学び取っていたのです。このことを聞くことのできた陳亢は、「1つの質問から3つの大切な教えを得ることができた」と喜びました。
 伯魚(孔子の息子・孔鯉)は前484年、孔子69歳のとき死亡して、孔子を悲しませ、老年の孔子の孤独感はますます深まったと言われます。
 ところで、「君子は自分の子を遠ざけて教える」というのは、どういうことでしょうか?このことの説明としては、『孟子』に有名な文があります。「君子の子(こ)に教えざるは何ゆえぞや」という公孫丑の問いに、孟子は答えています。教育は正しさをもってしなければならない。親の私生活をよく知っている子どもは、「お父さんは正義正義と子には押しつけながら、自分は正義ばかりで生きていないじゃないか」と言うと、親子憎み合うことになる。だから、「古(いにしえ)は子を易(かえ)て之を教う」と、お互いの子を取り替えて教育した、と。孔子も、わが子は教えないというタテマエを守りながら、片言隻句(へんげんせきく)でよく子に教えていて、さすがだと貝塚先生は述べられています。
親はわが子には甘いか辛すぎるかで、偏りがちです。それにしても、子が親に先立つことほど不幸なことはないです。野田先生も思春期の愛息さんを亡くされました。息子さんのご存命中のエピソードをいくつかお聞きしましたが、お亡くなりになった詳しいご事情は黙して語られませんでした。今は、お浄土で再開されて、親子の楽しい会話がなされていることでしょう。
 歌舞伎には、忠義のためにわが子を犠牲にするお話があります。有名な「伽羅先代萩」では若君の乳母・政岡はわが子・千松に毒入り饅頭を食べさせて若君を守ります。「菅原伝授手習鑑」では三つ子の兄弟の長子・松王は菅原道真の一子・菅秀才が身分を隠して預けられている寺子屋へわが子・小太郎を寺入りさせて、やはり管秀才の身代わりにします。あれはお芝居で、観ている一時(いっとき)涙すればいいのですが、現実となるとそうはいきません。少し前では、戦時中にわが子の出征を「万歳!」と見送った親の心と重なります。「名誉の戦死」などという美句で自分をなだめたのでしょうか。悲しみを表に出すと、当時は「非国民」と責められました。ああいう「人命軽視」の世の中には二度としたくないです。

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父親の存在

Q0312 
 母子家庭です。父親の存在は絶対的に必要でしょうか?

A0312
 いいえ。絶対的に必要ということではありません。いたほうがいいけど、いないならいないで別に問題ない。ただ、母子家庭や父子家庭で育った子どもの特徴が1つあることに気がついたんです。大人どうしで話しているときに割り込んでくる。父親、母親がいると、大人どうしで話しているとき割り込んでくると、「ちょっと大人で話しているから待ってちょうだい」と言えるけど、そういうチャンスがない。おじいちゃんおばあちゃんがいなくてほんとの母子家庭だと、いつでもお母さんと話ができるものと思っていて、それで、例えば再婚したときなどに初め戸惑います。突然割り込んでくるから。問題はそれくらいでしょう。(回答・野田俊作先生)

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論語でジャーナル

12,(孔子曰く、誠マコトに富を以てせず、亦(また)祇(ただ)異なれりを以てす)。斉の景公、馬千駟(せんし)あり。死せる日、民(たみ)徳として称(たと)うるなし。伯夷・叔斉(はくい・しゅくせい)首陽(しゅよう)の下(もと)に餓(う)う。民今に到るまでこれを称う。それ斯れ(これ)をこれ謂うか。

 (孔先生が言われた。「『詩経』には、人の評価は、裕福な富にはよらず、ただ富とは異なるものによるとある)。斉の景公は四千頭もの馬を持っていたが、死んだときには、人民は誰も景公の徳を称えなかった。伯夷・叔斉は首陽山のふもとで餓死したが、人民は今に至るまでその徳を称えている。詩経の言葉は、こういうことを言うのだろう」。

※浩→朱子の説に従って、この条の冒頭に、「顔淵篇」第十章に紛れ込んでいた「孔子曰く、誠不以富、亦祇以異」(『詩経・小雅』)を補っています。
 斉の景公(前547~490在位)は、ほぼ孔子の時代まで生きていた、欲張りな君主として有名だった。後世に語り伝えられるような「人間の真の価値」は、経済的な裕福さ(富)ではなく、人民が敬意を抱く「徳」にあるということを示しています。主君への忠誠を最後まで尽くして、敵国からの粟(食糧)を貰わずに首陽山で餓死した伯夷・叔斉の事例を引いて解説しています。「伯夷叔斉」は“四字熟語”としても有名ですが、良い機会です整理しておきましょう。↓
 伯夷(はくい)と叔斉(しゅくせい)は、歴史家の司馬遷が『史記列伝』の最初に取り上げた兄弟です。
 古代中国の孤竹国(こちくこく)の王子で、伯夷が長男、叔斉は三男でした。孤竹国は黄河の北岸に存在した小国で、その国民は農業や牧畜を営み、素朴な生活を送っていたようです。彼らは王子でしたが、国を出奔して周に向かうのですが、そこに安住しないで、山に隠棲して餓死します。
 伯夷はある日、父から孤竹国の王位は弟の叔斉に譲ると伝えられます。伯夷はこれを妬まず逆らわず、父の死後にはその遺言どおり、弟に王位を継がせようとします。しかし叔斉は、長男である伯夷が継ぐべきだと主張します。兄弟の間でいさかいが起きぬようにと、伯夷は自分から国を出てしまいました。叔斉は伯夷が去っても王位を継ぐつもりはなく、やがて兄を追って国を出ます。残った次男が民に請われ、王になりました。
 この時代は殷が中国を支配していましたが、その統治が乱れ、紂王という暴君が王になって、滅びの時が近づいていました。一方で、殷に従っている周は、統治がうまくいっていて、その評判が高まっていました。周を治める西伯昌(せいはくしょう)は徳のある名君として知られていて、国を出た伯夷と叔斉は、周で暮らそうと思って旅をします。しかし2人が到着すると、西伯昌は亡くなっていて、息子の武王が周を統治することになります。武王は暴君が居座る殷を滅ぼし、自らが新たに大陸の支配者となることを考え、父の位牌を掲げて文王の称号を捧げ、軍勢を出発させて殷の紂王を討伐しようとします。伯夷と叔斉は、武王が乗る馬のくつわを押さえ、諫言をしました。「父上が亡くなって埋葬もすんでいないのに、兵を起こすのは忠孝の道に外れています。また、主君の紂王を討つのは仁とは言えません」と。武王の家臣たちは兄弟の無礼に怒り、2人を殺害しようとしますが、武王の軍師・呂尚が「彼らは義人であるぞ、手を出すな」と言ってかばい、連れ去ってその身を守りました。2人は正しいことを、勇気をもって武王に告げましたが、武王はそのまま殷に攻め込み、殷は滅ぼされ、武王は新たな覇者として君臨しました。伯夷と叔斉は、主君に反逆して天下を奪った武王の元で生きることを恥として、首陽山に篭って隠棲するのですが、わらびなどの山菜を取って生活していて、やがて体が衰えて餓死してしまいました。

 死の直前に作った詩です。

 首陽山に登り 山菜を取って暮らしている
 暴力を用いて暴力に取って代わり 武王はその非を知らない
 神農や堯舜(ぎょうしゅん)の世は終わってしまった 私はどこにいけばいいのだ
 もう終わりだ 天命は衰えた

 暴力で天下を簒奪した武王を非難し、伝説的な王である神農や堯・舜の築いた平和な世が去ったことを偲んで、「この世は終わりだ、どこにも居場所がない」と嘆いています。
 こうして伯夷と叔斉は哀れな死を迎えましたが、その思想的に一貫した人生が、後の世に影響を及ぼすことになったのです。
 「この世は終わりだ、どこにも居場所がない」という悲痛な叫びは、昨今、自さつする人が多いことと重なります。まことに人間の究極の欲求は「所属(居場所があること)」だと痛感します。

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猫をアドラー式に育てられるか?

Q0311
 野田先生は猫を飼っていますか?(野田:私は飼っていませんが、猫はいますね)。うちも猫を飼っていますが、テーブルの上に上がったり悪さをよくします。そのときは叩いて叱ります。猫はアドラー的に育てられますか?

A0311
 育てられます。ちゃんと言って聞かせます。ただしあいつらはすぐ忘れる。すぐ忘れるのはしょうがない。ああいう動物ですから。でも、ちゃんと「そこへ乗らないでください」と言う。ときどき「このけだもの!」と言うと傷つくので面白い。耳だけピクッとなる。私の先生の1人のディノ・ローベンバーズというおばあさんの精神科医が動物が好きで、神経症の動物を家で預かって治療していた。おばあさんになって、人間の患者さんを診るのはつらいからと言って。犬とか猫とかいっぱい家にいた。ちゃんとアドラー心理学的に勇気づけと論理的結末で躾けた。ただし、動物は勇気づけるのに「よくやったね」と言っても勇気づけられないから、チーズか何かで勇気づける。
 勇気づけるとは何か。「私が喜んでいて嬉しい」ということを相手に伝えることだとも言えます。猫はチーズをもらうと、「あっ、ご主人様は喜んで機嫌がいいんだ」と思うじゃない。だから動物さんの場合には、ちょっとバックアップ強化子(物)を使う必要があるかもしれない。(回答・野田俊作先生)

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論語でジャーナル

11,孔子曰く、善を見ては及ばざるが如くし、不善を見ては湯を探(さぐ)るが如くす。吾その人を見る、吾れその語を聞く。隠居して以てその志(こころざし)を求め、義を行いて以てその道に達す。吾その語を聞く、未だその人を見ず。

 孔子先生が言われた。「善を見ると、取り逃がしはしないかと急いで追求し、不善を見ると熱湯から手を引くように急いで身を引く。私はこういうことを実行する人を見たし、そういう言葉も知っている。下積みの隠遁者として生活しながら自己の理想を追求しつづけ、正義を行なってその道を通そうとする人、私はそういう言葉を聞いが、現実にはまだ会ったことがない」。

※浩→貝塚先生は現代語訳だけで解説はありません。吉川先生が少し解説されています。前半の善者もむろん優れた道徳者ですが、より忍耐を要する、より困難な事態として、後半の善者が考えられています。「現実にはその人を見ない」というのは、その可能性が未来に向かってはあくまで希求されていることを示します。希求が深いゆえに、嘆息も深い。嘆息のゆえに、希求は強まる。これはよく理解できます。希求は「目標」で、困難な事態は「現状」ですから、その差が「劣等感」を生みます。希求が深いゆえに嘆息も深いということから「劣等コンプレックス」を連想させます。古今東西、目標=理想の高い賢者は、その現実との差に嘆息しています。隠遁生活に入るのもしごく当然だと思われます。そういえば、ギリシャのエピクロスも「隠れて生きよ」と説いていました。エピクロスは「快楽主義」の「エピクロス学派」の始祖です。サモス島に生まれ、18歳でアテナイに上京し、20歳代は地中海の島で暮らし、ペリパトス派の哲学や原子論を学びました。35歳でアテネに戻り、アテネ郊外に土地を手に入れ、庭園学派とも呼ばれるエピクロス学派を創設しました。
 エピクロスの庭園は「エピクロスの園」として有名になり、親兄弟の他に大勢の弟子たちが集まり、親密な共同生活を行いました。召使の奴隷にも哲学を学ばせたことが記録に残っています。エピクロスが71歳で没したあとは、弟子が庭園を引き継ぎました。
 エピクロス派はセネカが代表するストア派とともにヘレニズム期の「ヘレニズム思想」を代表する学派です。ヘレニズム期とは、アレクサンドロス大王が没した紀元前323年から、ローマが地中海一帯を統一する紀元前30年までの約300年の期間です。
 ストア派は、快楽や欲求の衝動に打ち勝つ「アパテイア」という精神の強さを理想として、「禁欲主義」と呼ばれます。
 エピクロスは国事や世間の煩わしさから遠ざかり、心の平安を大切に生きることを説きました。その生き方を意味する「隠れて生きよ」という言葉がよく知られています。
 エピクロスは「デモクリトス」の原子論を思想の基底とする、原子論的唯物論や原子論的自然観を展開しました。霊魂は死によって消滅するとし、また感覚を徳や幸福の基準としました。この思想の上に快楽主義が築かれています。
 エピクロスの説く最高の善は「快楽」で、その快楽とは苦痛からの解放や心の平静である「アタラクシア」を意味するものでした。
 エピクロスは、人間の欲求を3つに分類します。1つ目は「自然かつ必要不可欠である」欲求、2つ目は「自然だが必要不可欠でない」欲求、3つ目が「自然でもなく必要不可欠でもない」という欲求です。3つ目の欲求は、贅沢や豪華への欲望でこれはきりがないとします(アドラー心理学で言う、「ボディ」「マインド」「ハート」を連想しています)。
 このように欲求について考察し、選択することが身体の健康と魂の平静を可能とするものであり、それこそが幸福な人生の目的であるとしました。エピクロスは質素な生活の中にアタラクシアを求め、パンと水の質素な生活は、健康を手に入れ、運命に対しても恐れない者にしてくれる、と弟子に説いています。

 エピクロスは弟子への手紙で次のように書いています。
 快楽が人生の目的であるとわれわれが言う場合、その快楽とは、一部の人たちが無知であったり誤解したりして考えているように、放蕩や享楽の中にある快楽のことではなくて、「身体に苦痛のないことと、魂に動揺がないこと」に他ならない

 エピクロスは、アタラクシアの追及とともに、「死」の恐怖を克服することも唯物論の立場で説きました。死とは、生の構成要素であるアトムへ解体することであり、解体されたものは感覚を持たず、感覚を持たないものは人間にとって何ものでもないと主張しました(これも野田先生の「チベット仏教」のお話を連想させます)。

 名言を紹介します。↓
#全生涯の至福をめざして知恵が整えてくれるもののうち、何にもまして一番重要なのは、友情の獲得である。
#人はまだ若いからといって、哲学することを先に延ばしてはならないし、もう年をとったからといって、哲学に飽きるようなことがあってはならない。なぜなら、誰だって、魂の健康を手に入れるのに、若すぎることもなければ、年をとりすぎていることもないからである。(『徒然草・四十九段』を連想します。「老来りて、始めて道を行ぜんと待つことなかれ。古き墳、多くはこれ少年の人なり。はからざるに病を受けて、忽にこの世を去らんとする時にこそ、始めて、過ぎぬる方の誤れる事は知らるなれ。誤りといふは、他の事にあらず、速やかにすべき事を緩ゆるくし、緩くすべき事を急ぎて、過ぎにし事の悔しきなり。その時悔ゆとも、かひあらんや」とあります。)
#死はわれわれにとって何ものでもないと考えることに慣れるようにしたまえ。というのは、善いことや悪いことはすべて感覚に属することであるが、死とはまさにその感覚が失われることだからである。
#死はやがてやってくるだろうという予測がわれわれを苦しめると語っている者は、愚かな人である。なぜなら、現にやってきている時には何の悩みも与えないものが、予期されることによってわれわれを苦しめるのだとしたら、それは根拠のない苦しみだからである。
#死は、もろもろの災厄のなかでも最も恐ろしいものとされているが、実は、われわれにとっては何ものでもない。なぜなら、われわれが生きて存在している時には、死はわれわれのところには無いし、死が実際にわれわれのところにやってきた時には、われわれはもはや存在していないからである。

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